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ボクシングと居合道

 ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ(WBSS)のバンタム決勝の録画を繰り返しみて飽きることがなかった。井上尚弥とノニト・ドネアの試合は斬り間で真剣を交える稀代な名勝負であった。どちらが先にリングに倒れてもおかしくはなかった。ドネアのパンチは伸びがある。刀でいえば刃先が敵の急所を確実に斬撃する迫力だ。2回のラウンドで井上の眉間を切った左フックのパンチがいま少し強ければ、井上尚弥はドクターストップで負けていたかもしれない。10歳の年齢の若さと井上のスピードとテクニックがドネアを上回ったのが勝因となったにすぎない。ドネアのパンチは凄まじいものだった。このパンチに空を切らせ見切る井上の目のよさ、俊敏な動きがが勝敗を分けた。9回は井上には危ないラウンドだった。ドネアの右の強打に井上の腰は崩れた。18戦で16勝のKO勝ちという最短の戦歴は、井上に「自分の底がみえない」「成長に必要な自分の課題が見つけられない」という不安を懐かせていた。贅沢な強打者の悩みである。「自分の底」が見えないのは、株価でいえば底値もなく下がりつづける株を持った投資家の心理に似ている。売れば損失は確実に出てしまう。持っていれば損失の限度は底が知れない。そのヒリヒリとする感覚は投資家の心理を博打打ちに近づける。「課題」がみつからなければ、練習の工夫もできず、成果をあげられない。居合も滅多矢鱈な稽古で上達することはできない。自己確認とそれを身体が納得して身につけられなければミリ単位の向上も望むことはできない。ボクシングは対戦相手がいるが、居合は仮想の敵との一人演武なのである。実際に人を斬ることも斬られることもない。ただ審査員の目に空を相手の演武がどう見えるかが勝敗をきめる。互角の演武を審査するほど審査員を疲れさせるものはない。仮想の敵をいかに現前させ、確実に斬撃しているか。演舞者はそれを表現しなければならないのだ。フィクションである。小説なのである。居合道の「武」はここにおいて「文」に近似する。言葉による表現とちがいはない。だが演武するのは一個の肉体なのだ。机上の紙の上ではないのである。ボクシングはすぐ間近に対戦者の肉体が現前する。ドネアは歴戦のチャンピョンなのだ。すこしの油断が隙が致命傷となる。なんという違いであろうか。相手の眉間から流れる血が元気となるボクシングの闘争の現場と一滴の血も流れない居合道の勝負の板の上とでは、その径庭は天地の違いがあるのだ。同じ録画を幾度となく見ていると、家内に呆れられてしまったが、対敵動作で目が離せないボクサーに目を釘付されるリング上のリアルな現場感を吸収したくてと答えても詮方ないことであった。左のジャブを幾度打っても井上の上半身にブレはない。どれだけ下半身の土台が堅固であることだろう。井上は2回で眉間を切りドネアが二重に見えたと言っている。右手のグローブでガードをして、それをさとられぬ工夫をしたらしい。井上の右目を注意して観察していると、おかしいことを気づかされる。その異常をドネアに見抜かれぬ戦法をとった。時にガードを下げ、足を使って距離をとり左ジャブの攻撃に組み替えたのだ。10回から攻撃に出た井上の左ボディーがドネアの肝臓ちかくを打ち抜いた。相手の体力が落ちるのを待っての狙い打ちである。両膝をついてダウンしたドネアは立ち上がり、なおも得意の左フックで井上を狙った。さすが歴戦の勇者の力量、倒そうとして倒せる相手ではないことを、井上は分っていたのだ。居合では演武の開始線まで歩いてくる姿をみただけで、審査員は演舞者の修業の深浅を見抜くはすだ。対戦相手の情報を事前に収拾し分析をしぬいていた井上に油断はなく、決して深追いをしなかった。最後まで冷静で落ち着いていられたのはさすがというしかない。審判では一点差の判定をみたが、それも不思議でない試合内容であった。12回の終わりのゴングが鳴ると、二人のボクサーは互いに抱き合った。お互いへのリスペクトを示したのだ。強者は人間ができている、そう思った。




コートールド美術館展

 パリで生れた娘の赤ん坊に対面するため、夫婦でフランスへ飛んだのは5年まえのことだった。パリに行くならこの機会に行きたいところがあった。「オペラ座」とミュージックホールの「フォリー・ベルジェール」である。両方ともフランスの絵画ではおなじみの舞台だ。青年時代に親しんだ画家のドガはバレーの幾点をすでに描いていた。エドゥアール・マネの「桟敷席」もあるが、晩年に描いた大作「フォリー・ベルジェール」はお気に入りの一点である。娘の旦那の案内でタクシーに乗り足を運んだフォリー・ベルジェールは建物はかろうじて残っていたが、昔日のミュージックホールの面影はなかった。酒が好きだというわけでもなく、19世紀末のパリの雰囲気が醸されている客人たちでさんざめく酒場、むんむんとしたミュージックホールへの執心がこちらにあったからだ。大きな鏡に映るパリジャンたちが蝟集する遊興のサロン、大都会の秘密めいた快楽をもとめる自由人の気ままな空気の渦と歓楽のざわめき、遊び人たちの姿態の数々、群衆の目と耳を酔わせる、都会の豪奢な一隅がそこには描かれていたのだ。なによりも画面中央に堂々と佇む一人の若い女性が私を魅惑したのであった。女の名前がシュゾンというのは河盛好蔵のエッセイで早くから知っていた。1982年、エドゥアール・マネはこの最後の大作を描いて、翌年、51歳でその短い生涯を終えたのである。ポール・ヴァレリーの「マネの勝利」は高級娼婦「オランピア」の作品の前に呼び集められたあまたの作品が並んでいる。
 「草上の昼食」「ローラ・ド・ヴァランス」「笛を吹く少年」「エミール・ゾラの肖像」「皇帝マキシミリアンの処刑」「鉄道」「死せる闘牛士」「アプサンを飲む男」「菫の花束をもつベルト・モリゾー」「ステファーヌ・マラルメ」「バルコン」等々。
 19世紀のパリの巷から、マネはなんという現代的な題材を取り上げ、それを極上の一品としては画布のうえに掬いとったことだろう。ヴァレリーがそのマネの近代絵画への扉を開けるに費やした画家の努力に注いだまなざし、マネの勝利についてさほどに筆をふるったとは思われない一文は私を失望させるに充分であった。マネの描いたベルト・モリゾーへのご執心は分るがマネという画家の偉大さが語り尽くされてはいないのである。ヴァレリーはまた幾多の錚々たる人物の名前を並べている。
 シャルル・ボードレール、ゴーチェ、ユイスマンス、ステファーヌ・マラルメ、ベルト・モリゾー、エミール・ゾラ、エドガー・ドガ、モネー、ルノアール、クレマンソー等々。
 なんという一流の詩人、作家たちが集合させられたことだろうか。だが「フォリー・ベルジェール」のまんなかに立つこの女性の顔が放つ異彩はどこからくるのか。現代のモナリザなどはつまらぬ連想でしかないし、ましてベラスケスの「ラス・メニーナス」を意識する必要はどこにもないのである。ヴァレリーはマネの人となりを語っているが、このカウンターの向こうに立つ若い女性はすでに人生にむけるなんらの表情をもってはいないのだ。画家マネの若い頃に描かせた肖像画にみられた豹のような野性のもつ精悍さはどうやら蕩尽されてしまった模様である。にもかかわらずこの女性が人を惹きつける魅惑があるのはなぜであろうか。退屈と平凡の極み、人生の倦怠をすべて黙殺しているかのように、すっくりとカウンターに凭れて佇んでいる女性の薔薇色に染まった虚ろな顔の魅惑はどこからくるのであろうか。鏡に映る後姿の女性とは無縁に佇立するかのごとく、まして山高帽の紳士など、それらすべてを超越し、離脱してこの絵の中にだけに現前したかのように、独り立つ女性を詩人のボードレールなら「悪の華」のどんな詩句で飾るだろうか。画家マネの晩年の襤褸、死衣を纏ったイマージュの精霊なではないのか。
  「諦めよ、わが心、獣の眠りを眠るがいい。」(「虚無の味」)

 コートールド美術館は寡聞にして知らなかったが、この英国の紳士は収集家の確かな目の持ち主だったことは明白だ。セザンヌの数点を見たが、私は再びその虜になった。「パイプをくわえた男」に目は自然と吸い寄せられた。「私は時の為すがままに年を重ねた人々の姿がなんにもまして好きなのです」というセザンヌの言葉を読んで、遙かむかしに読んだモンテーニュを思いだした。ウジェーヌ・ブータンの2点が見られたのは嬉しいことであった。ゴーギャンの「ネバモア」。ドガの「窓辺の女」。モジリアーニの「裸婦」。ロダンの「花子」のブロンズは鴎外が短篇に書き、凄まじい形相で見つめる小林秀雄の写真をみたことがあったが、だがその日本女性の美しさはロダンの目にたしかに見えていたものだ。跪いて顎からみた花子の顔はエロスの炎に輝いていたからである。

  




お城が燃えていた

 そのむかし「琉球王国」であった首里城が燃え落ちる映像をニュースで見た。
 1972年の夏、お城はまだ再建されていなかったが、首里城の門だけが丘の上に立っていた。その前でダイビング仲間の数人と記念写真を撮ったことがあった。沖縄の本土返還の直後であった。ヴェトナム戦争がアメリカの撤兵で終結したのは1975年であるから、沖縄はアメリカの軍事基地として機能したいた。戦争のキナクサイ臭いがただよい、車は右側通行であったのは不思議でもなんでもなかった。
 ぼく達は那覇港から激しい嵐の波浪をついて石垣へわたった。
 毎日、海に潜って日を過していた。四十数メートルの深さを、残圧の空気が渋くなるまで海の中にいた。冷えきった身体を砂浜に横たえて西陽を浴びて暖をとった。藍色の深い海は透明で遠くまで視界がきいた。昼の空はただ青くぎらつく太陽の光線は容赦なくぼくたちの肌を灼いた。夜、その空に天の川が流れ、燦めいた無数の星がひしめき、暗い海辺に波が寄せて浜辺に崩れる轟音が岸辺に地鳴りをたてていた。石垣から小さな舟に乗り竹富島へ渡った。日本の南端に位置する小さな島は閑散としていた。島は白砂がまかれ、珊瑚を積み上げた塀に囲われた民家に泊まった。島の老人がジャミセンを弾いてのんびりした抑揚のある島唄を唄ってくれ、強い焼酎を茶碗で飲んだ。日露戦争のときはバルチック艦隊の動きを望遠鏡で島から見張っていたという古老の話しを聞いた。宝石のような竹富の島をうかべる海は、空を舞う鳶の声と風の音いがい、眠ったように静かに澄みわたって輝いていた。
 民と清との交易で栄えていた琉球王国は、平安時代に日本の国土統一下におかれ、江戸時代の鎖国政策にあってもなお外国との貿易を続けていたようだ。やがて薩摩の島津家がこの琉球王国を支配下におこうとしたことは、10年ほどまえに仲間由紀恵が首里城を舞台にしたドラマ「テンペスト」で好演して面白くみたところだった。太平洋戦争末期のあの激戦が沖縄としての歴史を画したことは誰知らぬものはいないだろう。
 幾度沖縄の島々へ、ダイビングのために行ったことだろうか。この海に友人が散骨されたため、竹富島へ行ったのは数年まえになる。最後の友人から葉書は「浜島」の写真が映っていた。 
 燃え落ちる首里城にこころを痛めたのは、ドラマに主演した仲間由紀恵さんだけではないにちがいない。


浜島
     浜島




古今亭志ん生

 NHKラジオに月曜アーカイブス「声でつづる昭和人物史」という番組がある。司会はノンフィクション作家の保坂正康。古今亭志ん生の録音を二回このラジオで聞いた。三十一歳で真打ちになって16回も名前を変え、志ん生として売れ出したのが五十七歳。芸は客の顔をみてからの出たとこ勝負だそうで、そのまえに稽古の仕込みがあるという。浅草から上野の佐竹(往時住んでいた場所)まで歩いて片道二時間、往復四時間の稽古ができると語る志ん生の稽古熱心には感心する。貧乏生活の下積みが長かったが、呑む、打つ、買う、の放蕩生活を止めることなく、女房の着物から師匠の羽織まで質屋にいれて、それで寄席から下ろされて納豆売りをしたこともあったらしい。酒に目がなく、天ぷらにお酒をかけ、双葉山と飲み比べもしたとのこと。こうして芸風をつかむまでにそうとうな年季がはいっていたというわけだ。昭和42年に勲四等瑞宝章になったときは、女房が泣いて喜んだそうだ。先祖は江戸のころには徳川の直参のお侍さんだと娘が語っていた。明治23年、東京は神田の生れの江戸っ子。江戸っ子というのはと問われて、志ん生は「痩せ我慢のかたまり」とこたえている。人が入らない熱い朝風呂に、何食わぬ顔でズブッとはいり、なんだこんななまぬるい風呂と平気な顔をしているのが江戸っ子だというのだ。江戸っ子といえば、勝海舟の親父の勝小吉がいた。「夢酔独言」という江戸弁の本を晩年に書いた。「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ」と冒頭にある。大坂へ放浪の旅にでて、帰りの静岡で崖から転がり落ち、睾丸をしたたかに打つなど破天荒な行動が目立つが、れっきとした旗本。生涯無役の自由人で、江戸の侠客・新門辰五郎もこの小吉を「喧嘩で右に出る者はいない」と評している。剣術の腕は実践の喧嘩で身につけたらしい。鳶が鷹を生んだわけでもないだろうが、勝海舟が福沢諭吉から「痩せ我慢」で批判され、「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず」と応じたのは、バタ臭い知識人への江戸っ子海舟の胸のすく啖呵だ。
 話しが脇に逸れたが、昭和20年5月、55歳の時に志ん生は満州に慰問へ行った。東京は空襲に曝されている最中、こんなときに慰問だなぞと逃げるのかと反対されたそうだ。満州には森繁久弥がNHKのアナウンサーにいた。志ん生はこの人にはなにか形になるものがあると直感したという。74歳での「芸界夜話」の録音を聞くと、「芸はお客に聞かすもの。日常の些細なことに気をつけることが芸を磨く。小話は無駄なことばがあってはいけない」と話している。師匠の「鰍沢」を聞いていると、外に雨が降っていないのにそう感じさせられたと。志ん生は大津絵節が好きだった。それを慶応義塾の塾長の小泉信三氏が聞いて、必ず「今宵うちのひとに・・・」と言うくだりに来ると声を出して泣いたという。参考にユーチュウーブでさがし聞いてみたが、艶のあるいい声だ。大津絵節の詞を最後に掲げておこう。
 志ん生の川柳。借りのある人が湯船の中にいる 焼きたての秋刀魚に客の来るつらさ 丸髷で帰る女房に除夜の鐘
「志ん生には地肌で触れあう魅力があった。お客は志ん生の語りがなくても、座っているだけでいいと。正直に正直に芸一筋の人生を生きた、破格だが志ん生が愛された所以だ」とは保坂氏の感想である。

冬の夜に風が吹く しらせの半鐘がじゃんと鳴りゃ 
これさ女房わらじ出せ
刺しっ子襦袢に 火事頭巾 四十八組追追と お掛り衆の下知を受け
出て行きゃ女房はそのあとで うがい手水になぁ ああ 
うがい手水にその身を清め 今宵うちのひとになあ ああ 
今宵うちのひとに怪我のないように 南無妙法蓮華経なあ ああ 
南無妙法蓮華経 清正公菩薩  ありゃりゃん りょう との掛声で勇みゆく
ほんにお前はままならぬ もしもこの子が男の子なら お前の商売させやせぬぞえ~ 
罪じゃもの





評伝「江藤淳」

 先日、七百頁を越える「江藤淳」の評伝を読んだ。六十六歳で自らを処決した文芸評論家の生い立ちからその一生を、元編集担当者がおよそ7年の歳月をかけ、江藤淳なる人間の文学と人生を最大洩らさず、その秘事まで白日にさらした尋常ならざる本である。巻を措く能わず、夜に日を継いで読んだところだ。読み進むにつれて恰も江藤の霊が憑依したかのごとく、読者を圧倒する熱情の結果は長編の力作評伝としても比類ないものと思われた。
 一文人の偉業を追慕し再度この世に甦らせるに、著者がはらったエネルギーには瞠目すべきものがあるが、なによりも、江藤淳なる人物にそれだけの力量と才覚があったからに相違ない。その出自・家系もさることながら、生前の氏の実績と履歴がそれを要求し、著者はそれに応じての忠実なる伴侶として、これを勤めたその努力には敬意を払わざるえないところだろう。
 これに比べるべきもないが、今年の5月に71歳にて病没した文芸評論家の加藤典洋氏への追悼の一風景が思い返されてならない。それは本人の死生観に拠ってきたるところでもあるのだろうが、あたかも一匹の猫がこの世から姿を消すかのごときありさまには、現今の世相と出版事情とが相俟つものと推察され、なにやら薄ら寒い思いを覚えたのところであった。知見の限りでは、「群像」8月号の高橋源一郎の「論考」及び「すばる」8月号の橋爪大三郎外2名の片々たる追悼を瞥見したのみであった。こちらは東北は山形県人にして遅咲きのデビュー、他方は湘南出の早熟の才の上に、目端のきいた世渡りのグッドスイマーにしてネットワークとバックボーンには些かも支障なしとなれば、かれがの相違はもとより論を待たないことであった。浩瀚なるこの評伝にも触れられていたところであるが、加藤氏は江藤淳を批判することによって文芸評論家として最初の歩みを印したことは確かなことだろう。時代は異なるとはいえ、大岡昇平からの資料のスケットを得て、小林秀雄氏をスプリングボードに批評家として立った江藤淳氏も同様のことは、縷々この評伝に記されているとおりであろう。
 題41章、戦後体制への異議申し立てにおける、「なぜ平野謙批判から始ったか」に次ぎのくだりがある。
「ヒント(最晩年の病人・平野に、江藤氏が死者に鞭打つ仕打ちにでたー引用者注)は加藤典洋の江藤淳論の書『アメリカの影』の中にあるといえる。加藤は(無条件降伏)論争の四年前に出た江藤の英文著作『ある国家の再生―戦後日本小史』に、「日本は無条件降伏した」と明記しているのを隠して、平野を批判した態度を「不明朗」だとした。その部分には、こう書かれている。「1945年8月15日正午ちょうど、天皇はレコードに録音された肉声によってラジオの全国放送網を通じ、日本の連合国に対する無条件降伏を発表した」(加藤訳)。日本では流布しない英文の本とはいえ、確かに不明を恥ずべき江藤の汚点であろう。この江藤の英文によく似た一文が、実は平野の『現代日本文学史』にはある。江藤が平野攻撃のために引用した文の直前である。
「かくて昭和20年8月15日の昼さがり、無条件降伏をつげる天皇の声は、電波にのって全国になりひびいたのである」
 江藤が平野の文章を批判しなければならなかった理由は、引用しなかったこの部分にこそあるだろう。江藤は「光栄ある敵」である平野の名を借りて、自身の文章を断罪したのである。(略)己への断罪の隠蔽をさらなるエネルギーにして、江藤は無条件降伏以後を戦ったのではないだろうか。」
 著者はこうした推測の根拠を解明するため以降の数頁を割いて江藤援護の論陣をはる周到ぶりはみごとという外はない。生前の江藤淳氏の業績を追いかけ、その透徹した洞察と鋭利な分析、ブリリアントな語学力と広い教養、明敏なる文章に時を忘れたむかしが思い出されてならない。「諸君よ」と呼びかけ自ら処決して人生を断ち切った英明なる評論家の胸中を思いその熱い志を、墳墓から今一度この世に甦らせようとの計らいは同慶の念を禁じがたいところである。
 さらに、「『平成』の虚妄を予言し、現代文明を根底から疑った批評家の光と影―。」と帯に記されているこの本が、精密にして戦意に溢れ、酷烈にして秀抜な評伝であることを肯わないわけではない。
 だが、ひっそりとあの世へ旅立った同時代の一人の批評家は、その息子の不慮の死から「彼は人が死ぬとうことがどういうことであるかを教えてくれた」と「人類が永遠に続くのでないとしたら」(2014年)の「あとがき」に記しさえした。なによりも江藤淳が第一回三島由紀夫賞にノミネートした高橋源一郎が先の「論考」で評価したこの書物の「序 モンスターと穴ぼこ」に、加藤がみた福島原発事故からの「無ー責任の世界」の現実と危機は、原子力行政と電力会社の不祥事をみるまででなく、江藤氏が批判した「ごっこの世界」でも「『平成』の虚妄」でもないのである。加藤の遺書ともいえるこの書の先見的な思考に注目し、さきの戦争で犠牲となった内外の死者たちへの追悼に深甚なる思慮をさぐりつづけた批評家を偲ぶとき、この本の端々に濛々と渦巻くある種の尊大なる姿勢に、いささか眉を顰めざるえないことを正直告白せざるえないだろう。
 さて、明日は令和の時代の幕開け、即位礼正殿の儀はすぐ目前となった。





プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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