FC2ブログ

童謡 月の沙漠(作詞:加藤まさを)


月の沙漠を はるばると
旅のらくだが 行きました
金と銀との くらおいて
二つならんで 行きました

金のくらには 銀のかめ
銀のくらには 金のかめ
二つのかめは それぞれに
ひもでむすんで ありました

先のくらには 王子さま
あとのくらには お姫さま
乗った二人は おそろいの
白い上衣を 着てました

広い沙漠を ひとすじに
二人はどこへ 行くのでしょう
おぼろにけぶる 月の夜を
対のらくだは とぼとぼと

沙丘を越えて 行きました
だまって越えて 行きました



四季の歌
作詞・作曲:荒木とよひさ

春を愛する人は 心清き人
すみれの花のような ぼくの友だち

夏を愛する人は 心強き人
岩をくだく波のような ぼくの父親

秋を愛する人は 心深き人
愛を語るハイネのような ぼくの恋人

冬を愛する人は 心広き人
根雪をとかす大地のような ぼくの母親


からたちの花
北原白秋作詞・山田耕筰作曲

からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ

からたちのとげはいたいよ
青い青い針のとげだよ

からたちは畑(はた)の垣根よ
いつもいつもとおる道だよ

からたちも秋はみのるよ
まろいまろい金のたまだよ

からたちのそばで泣いたよ
みんなみんなやさしかったよ

からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ


みかんの花さく丘
作詞:加藤省吾、作曲:海沼實

みかんの花が 咲いている
思い出の道 丘の道
はるかに見える 青い海
お船がとおく 霞んでる

黒い煙を はきながら
お船はどこへ 行くのでしょう
波に揺られて 島のかげ
汽笛がぼうと 鳴りました

いつか来た丘 母さんと
一緒に眺めた あの島よ
今日もひとりで 見ていると
やさしい母さん 思われる




江藤淳「最後の批評」

 吉本隆明の死去に伴い思いだす人物は、一九九九年の七月に六十六歳で自らの命を絶った江藤淳という文学批評家のことである。
 学生のころに、図書館で「小林秀雄」を読んでいて、胸を熱くした覚えがあった。この人における喪失感というものが余程に深いことは、社会学者の上野千鶴子氏が「成熟と喪失」は涙なくしては読めないとの感想を書いていたのを読みさもありなんと納得したものだ。
 吉本の所で記したことだが、二人の対談で印象的だったのは、吉本が現実の政治に傾倒している江藤を前にして、あなたほどの人がああした世界へ肩入れしていることは、もったいないのではないかとの趣旨の発言に、江藤が色の為す態で次のような反論をしたことがあった。
「私はあれを文学だと思うからやっているのです」
 吉本が江藤淳の「作家は行動す」や「表現としての政治」等を読んでいないはずはなかったのに、ふとしたはずみに口をついて出てしまったのは軽率だったからでは勿論ない。思想家の吉本からみれば、現実の政治などは文藝批評の対象に値しないとの考えがあったからのことだったのであろう。
 ときおり江藤淳がみせる激情はさすが、三島の自決について小林秀雄との対談中、あれは一種の病気だとしか思えないとの江藤に対し、小林がそんなことを言ったら、ああいうことは日本には幾らでもあった。大塩平八朗の乱はそうしたものだろう。あなたは日本の歴史を病気だというのかと、一喝された江藤は、一瞬、ことばを失う様相をみせた場面があったことが思い出される。
 江藤淳の明敏にして情熱を湛えた文体には、深い喪失感と同時に強い抑圧の感情がその心底にあり、それこそ、「アメリカと私」から連綿とつづく、アメリカの占領政策の内実に迫る「一九四六年憲法ーその拘束」等の論考になったものと思われる。それにしても、「自由と禁忌」における丸谷才一や吉行淳之介への筆誅ともいえる批評文は、凄まじいものであった。なにもここまで言うことはないのではないかと思ったほどだ。これに較べれば柄谷行人の座談会での「馬鹿野郎!」発言などは幼稚なものだ。江藤氏はよほどに堪忍袋の緒が斬れたのにちがいない。それは文学だけではなく、現状の政治への絶望にちかい不満からも来ていることは明白であった。「大空白の時代」「それでも小沢君を支持する」等の文章に、そうした危機感の顕れをみることができる。
  江藤氏が自裁した七月二十一日の夕刻、私は大久保百人町の方角を見下ろす職安通り沿いのビルの六階にいた。その大久保百人町こそ江藤が生まれ育った所であった。天気が急を告げるかのように、荒れて風雨が激しくなった。辺りに闇がしのびより暗雲がたれこめる天候の異変に愕き、私は大久保百人町の辺りを凝視していたのは偶然といえばあまりの偶然であった。江藤淳はちょうどその時刻に自らを処決したのであったらしい。氏が自分の出生の地である場所が、淫猥なホテル街へ変貌していく様に、深く傷つきその憤りも露わにして書き記した「戦後と私」から、その一文を引いておきたい。
「私はある残酷な昂奮を感じた。やはり私に戻るべき『故郷』などはなかった。しいて求めるとすれば、それはもう祖父母と母が埋められている青山墓地の墓所以外にない。生者の世界が切断されても死者の世界はつながっている。それが『歴史』かも知れない、と私は思った」
 この文章のあと、「戦後は喪失の時代としか思われなかった」と江藤氏は、はっきりと述べている。
  ところで、私は「江藤さんの決断」についての朝日新聞の呼びかけに、めずらしくも投稿したのだが、それがその年の十二月に本となって送られてきた。私が書いた文章の題名は「最後の批評」であったが、朝日新聞社はそのしたに、「ではなかったか」との留保の文言を加えていたのにはあっけにとられた。いかにも新聞社がやりそうなことであった。
 江藤氏は自決に際し、次のような文章を認めている。
「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。
 平成十一年七月二十一日  江藤 淳 」
 私は江藤の自決に三島の自決を投影させたかったのかも知れない。自死はそのまま批評家の「行動」として受けとめようとしたのだ。だが吉本氏の「追悼私記」は江藤の自死に、森鴎外の岩見の人、森林太郎として死にたいという願望と同質なものを見ようとしている。私は投稿でつぎのようなことを書いていた。

「若い時代に大学の図書館で『小林秀雄』に熱い感動を覚えて以来、江藤淳氏の書くものはほとんど読んできた者です。
 『妻と私』読後の、なにかのっぴきのならない悲哀と痛苦は、しばし私の胸にわだかまりました。顧みれば昭和四十一年、『戦後と私』の中で『この世の中に私情以上に強烈な感情があるか』と揚言し、『文学とは私情を率直に語ることではないか』と述べた批評家、最後まで『戦後』との妥協を排した者の、孤独で甘美さえ漂う『妻と私』はいまからすれは氏の『白鳥の歌』っだったのでしょうか。
 三島由紀夫、そして川端康成の自殺に冷淡とも思える批評を放った氏が、同じ道を選ばれたことに一度は当惑を覚え、たとえ荷風散人のようであれ一単独者として生き続けて欲しいと思いましたが、『私情』に殉じることさえはばからぬ江藤淳氏の生き方と死に方は、ほんとうの『私』も、また、ほんとうの『公』も見失った戦後に対する身を挺しての『最後の批評』ではなかったでしょうか。
 晩年は漱石論を書きつぐ傍ら、ますます衰亡を深めていく日本への警鐘を鳴らし、戦後文学が占領政策の検閲によっていかに抑圧されたかという実証研究等へも捧げられました。
 一友人は手紙で、『思想よりもなによりもその人生を感じさせる』との感想を書いてきましたが、氏ほど人生と相渉った思想を感じさせる、熱き硬骨漢として生きた人間もまた、今の世には珍しいのではありますまいか。」

 ここには、江藤淳の批評への私の批評が入り込んでいることは言うまでもない。「荷風散人のようであれ一単独者として生き続けて欲しい」というところに、「荷風散策ー紅茶のあとさき」(平成十一年刊)の一文に、私が感じた違和があったからである。それは「偏奇館炎上」の最後の文章であった。江藤氏は荷風を売文の徒ではなく、自分を売文に四十年間暮らしてきた者として、荷風の境地を仰ぎみようとしている。私はここに江藤氏の謙虚な姿勢を取り損ねた次第であった。
 読者は自分の作った像で、一作家を判断しようとする。今から冷静に眺めれば、吉本氏の判断の方が正鵠を穿っているのかも知れない。

(注)2012.3のブログから再掲したことをお断りする。



   江藤淳


文芸批評家の想像力(加藤典洋の場合)

  以前に小説家の想像力について述べてことがあります。今回は、この小説家とその作品を主に論じる文芸批評家という人達へ焦点を当てることにします。彼等も作家と異なる方法から想像力により文章を書いているのでしょう。では彼等は一体どういう存在なのでありましょうか。江藤淳という批評家は「小林秀雄」を論じた批評文の冒頭で自分へこうした疑問を放っています。江藤淳は小林氏が「自覚的な」批評家であると指摘します。自覚的とは自分の仕事を「自身の存在の問題として意識している」ということだそうです。江藤氏が批評家を論じるにはまずこの了解の一歩が必用だった。一般的に批評家の想像力はここを起点に始まるのですが、特に小林氏を論ずる場合は、ここに焦点をあてる必用を感じたのでしょう。
 詩人も作家も画家も、それなりにすぐれた仕事をする人には、その人の側には必ず影のごとく立っているのがこの「自覚的」という意識であります。なぜなら、創造的な仕事というものは、この影との内的な対話を通じて現れるからです。文芸批評家が働かす想像力は、作家や作品だけではないのですが、作家を論じる場合には作家自身の内的な対話から、あたかも医者が手術に際して患者の身体にメスを入れるように、その作品なり作家の内部にわけいることから、彼と作品を見ます。場合によっては麻酔薬を注射して作品を仮死体にして、そのからだを解剖することで、作品を内側から照射して新たによみがえらせることさえ行います。江藤淳の「成熟と喪失」は60年代の一連の作家の作品にそうした方法で、鮮やかな光りをあてたと言えるでしょう。
 或いはまた、こうした方法を拒否して作品というテクストを作者から切り離して、「エクリチュール」(ロラン・バルト)という独特な言葉を使い、「テクスト」に基づいて想像力を行使することでの批評を展開した例もありました。バルトは日本に来て「表徴の帝国」という日本論も書いて、華麗な批評活動を展開したのです。
 日本の加藤典洋という批評家は、「敗戦後論」で日本の戦後を論じました。敗戦の前後に日本の根幹に関わる問題をみたからです。こうした一連の日本の戦後論を、「戦後入門」としてまとめた一書を最近に刊行しています。また「村上春樹は難しい」という新書を出しています。この批評家が村上春樹に注目したのは、戦後間近に中村光夫が「占領下の文学」で当時の文学を論じたように、「高度経済成長下の文学」として村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」の新しさを評価したからです。気分がよくてどこが悪いというメッセージをこの小説に看取したからだと加藤自身が述べています。この批評家の想像力は右を見るときに、左も同時見る複眼性とこれらを反転させる手法に特色があります。加藤氏はカフカの「世界と私との戦いでは世界を支援せよ」というフレーズに惹かれているのですが、このカフカ独特の二重性とその逆転は、そのまま加藤の「敗戦後論」の批評の想像力に援用されています。氏はあるところでエドガワ・ア・ランポーの短編「ヴァルドマアル氏の病歴の真相」の異常な結末に快感を覚えたことを告白しています。このポーの短編は死の瞬間に催眠術をかけられ、そのまま生と死とあいだに宙づりになっていた仮死体が催眠術を解かれた瞬間に、みるみると異臭を放って腐敗していくのですが、このところにえもいわれぬ快感を覚えたと述べています。長い詩なので引用はできませんが、金子光晴の詩に「大腐乱頌」という作品があります。あの詩も加藤と同じ快感を詠ったものかも知れません。腐敗は特段に負のイメージだけではない。腐敗することにより物質はその隠れた味覚を引き出されるプラスの面もあるのです。人間は歳を重ねて成長していきますが、ある時点から老化に向かいます。現在、日本人の大多数の高齢者はそうした経験をしています。そのことを自覚的に書いた最初の小説は谷崎の「鍵」や「瘋癲老人日記」でしょうか。加藤典洋という批評家の想像力はポーの短編やカフカのフレーズに牽引されています。それと同質の想像力から、日本の敗戦とその後の成長という歴史的経験を探ろうとしました。1995年の「敗戦後論」は(それ以前の著書「アメリカの影」もそうです)、明治維新から120年を経た日本の近代が敗戦により一旦死んだ状態から戦後が始まったのですが、日本人がその戦争における内外の死者を正式に弔うこともできないままに戦後50年を生きてしまった。特に、戦勝国のアメリカとの関係にいろいろな問題を指摘しています。
 ここですこし横道にそれますが、あのカフカの「変身」は日常の中の異常と同次元での異常の中の日常を書いています。セールスマンをしていた家族の一員が、ある朝気懸かりな夢から起きてみると、自分が巨大な毒虫に「変わり身」(多和田葉子の翻訳はカフカの作品理解に寄与してくれます)をしていることを発見する。しかしこの男はその朝も会社へ出かけようとするのだが巨大な虫になってしまった身体は以前のように自由に動いてくれず、自分の部屋から出ることもできません。このグロテスクな光景を家族がそして会社の上司も知ってしまい、一騒ぎになるといういわゆる変身譚の小説です。ただカフカのこの小説は単に読者の意表をついただけなら、この小説が同時代に異彩を放つことはなかったのです。そのような物語はたくさんにあったのですから。カフカの文学の独自性は、それが日常の時間性を特別に変化させることもなく進行するところにあるのです。これはフッサールという哲学者が現象学で行ったことに対応するでしょう。カフカは自分が書いたこの小説を妹たちに朗読したところ、妹たちは大層笑ったそうであります。
 加藤氏に話しを戻せば、死んだはずの日本が、ポーの短編のように催眠術にかけられ仮死体となり、氏はその腐臭を、神戸淡路大地震と地下鉄サリン事件が起こる以前から嗅いでいたことを、あの評論は表現していたかのようです。そしてそこから、カフカの「変身」の主人公グレゴリー・ザムザが自身の身体のねじれに抵抗するように、日本というねじれた身体へ投影し、このままでは腐臭を発しつづける仮死体の日本の異常性を、新たな場所から出発させることはできないと考えます。そして憲法9条を改正する提言を行っています。なかなか大胆な意見だと思いますが、もちろん異論がないわけではありません。それは国連中心的な政治姿勢にあるでしょう。現在の国連が多くの国民国家の混乱に対処できずに機能不全に陥っていることは明白です。
 「敗戦後論」以降、氏の想像力はその後に起きた人災(東日本沿岸部の「原発事故」)。そして自然災害(「東北大地震)を飲み込んで拡大・深化いたしました。多数の著作が書かれています。それらに一々応接するゆとりはありませんが、二0一六年の夏から秋にかけて出された三冊の本「言葉の降る日」「世界をわからないものに育てること」「日の沈む国から」の三冊の、その最後の本から、「『戦後』の終わり」と「『災後』のはじまり」へ加藤が複眼的な想像力をはたらかせている。特に、映画(「ゴジラ」や漫画(「鉄腕アトム」等)のビジュアル系から読者へ働きかけることで批評の視界を広げ、このふたつの文化アイコンの一対を聖書のヨナに仮託して未来へ結びつけようとの努力は示唆に富むものと思われた。一九七十年代に、パラオやペリリュー島など、東南アジアの島々でダイビングをしていた経験から、実体験的に共感できる部分があったことを、激戦地の草地にうずくまった赤さびた戦車の残骸や不気味に静まり返る洞窟を覗いた記憶と共にここに書きつけておきたい。

(注)2017.8のブログを整理して再掲したことをお断りしておきます。



次郎長の青春

 阿佐田哲也の「麻雀放浪記」を面白く読んだ人は、この著者が直木賞作家ではあるがまた稀代のギャンブラーであることはご存じだろう。友人から是非に読めと、むかし、「怪しい来客簿」(泉鏡花賞)という文庫本を貰った。戦中派のこの人はじつに多くの人間と交わり、その生き死にと、戦後の暮らしぶりを自ら体験してきた。重い題材を軽妙に語る作家は「離婚」という小説で直木賞を受賞している。結婚から離婚までの経緯が書かれているが深刻な話しにはなっていない。この「次郎長放浪記」の原題は「清水港のギャンブラー」。家を飛び出し無宿者の青年の生き様が溌剌に描かれている。一番の舞台はやはりツボ振りの賭場の駆け引きにある。丁半の博打からはじまって、世の中が乱れはじめた江戸後期の博徒たちの、転がるサイの目に運を賭け、いのちの糸がピンと張った賭場の空気が伝わって、遊び人たちの切り詰めた丁々発止の科白のやりとりがなんとも気持がいい。「私の旧約聖書」でアブラハムにかこつけて愛した「放埒の気配」が賭場には漂っているからだ。
「この物語に手をつける前に、一応、次郎長に関する史実と称されるものに眼をとおしてみたが、おおむね興味をひかなかった。史実といったところで、事実は本人の胸の内にしかないし、又私自身、次郎長に限らず他人がどうしたこうしたということには興味はない」
 ここに「麻雀放浪記」の作者の余分なものを切り捨てた潔い度胸が座っている。だからといって、作者がこの世間を見る目には油断はない、むしろ明敏で冷徹なほどの神経が働くのであるが、その目がふと緩んだ瞬間、細やかであたたかい気配が広がる。作者の本領はここにあり、やがて清水港の次郎長という親分に治まる一青年へと投影されていくのだ。
 「色川武大」(「ちくま日本文学全集」)の解説には、人生論や人となりについて書かれている。いかにも面白いので抜き書きをしておきたい。
「人間、ツキのフクロの大きさは同じだ。勝ち過ぎれば必ずやぶける。・・・・どんな話しでもできて、優しい人だったから、友達はとても多かった。年齢も職業の範囲もやたら幅が広い。色川さんは誰の悪口も言わなかったし、色川さんを悪く言う人もまったくいない。」
 あるとき旅の托鉢僧が次郎長の人相を見て、「おまえはなかなかの顔立ちをしている」という。養父が亡くなり清水の甲田屋の若旦那であった次郎長はその翌日には無宿者の道を歩き出している。もう店の金をチョロまかして賭場で遊ぶことはできない。遊び友だちも不運から賭場で片腕を切り落とされ片端者になった。
「ああなってはおしまいだ。ああなりたくはない。無宿者は、賢く、素早く生きるだけでは不足で、目先の不運を避けて通る力を養わなければならない」
 そこへテラ銭を貸す小冨(今の闇金)が近づいていう。「世の中はだんだん新しい方向へ向かってる。新しい世の中には、新しい悪党が出てくる理屈だ。長さん、お前、ひとつ、こっそりとテラをとってみねえか」
 ここから次郎長の豊川の賭場へ足をむけ、尾張藩槍組の小頭、山本政五郎(後の大政)、保下田村の名主の倅、九六たちに出合うことになって、ストリーが動きだすのだ。
「博打に友情も何もない。強い者、ツイている者に同調することだ。素早く同調できる者が実力者なのだ」
 だがこの賭場に捕り方の侵入をうけ、次郎長は九六と共に牢屋へとぶち込まれる。これで中途半端な贅肉がとれ、次郎長は九六と一緒に牢名主の権威に屈せず、俺だって人間なんだという、ほんものの無宿者になる。博打に罪の意識が消えていく。
(ケッ、何が御定法だイ―)
 百叩きの刑にあったあと、十手持ちの武市親分に連れられ一宿一飯の恩義になるが、次郎長の自由に生きたいという青年の夢はふくらんでいく。この次郎長の若者と親分との会話はこのロマンがリアルなこの現世の掟との対比のうねりの中にあることを示す場面だ。人に関わって生きていかねばならない。関わればそれなりの報いを払わねば生きられない因果を、これからの次郎長はとくと知ることになるだろう。事を起こせば、その一家の者から付け狙われることになるが、これを救うのは次郎長の育ちのよさと愛嬌であると作者はそっといっているようだ。
「侍の世界でも、勤王、佐幕、なんとかかんとかいいやがって群れていやがるだろう。町の世界でも、いろんな群れがいても不思議じゃない」
 この裏街道の町へと長じて清水の親分となる不良少年の次郎長が、大政、小政、法印の大五郎等と徒党を組んで、悪戦苦闘の青春の日々を、博徒として生きていく幕末のロマン小説を洒脱に書ける人は、「麻雀放浪記」の阿佐田哲也以外にはいないだろう。



      IMG00353 (3)


「9條入門」加藤典洋著

 1995年に文芸雑誌に発表された「敗戦後論」以来、文芸評論家の加藤典洋の著書に深い関心を寄せてきました。この「9條入門」は事実上著者の最後の本となりました。上梓されてから3ヶ月後に氏は71歳で病に倒れ不帰の人となったのです。加藤の遺書ともなった「9條入門」に立ち入ることで、その要点のあらましを紹介してみましょう。
 まず現憲法の条文を掲げてみます。

第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 加藤のこの本は、第一部が出生の秘密(敗戦から憲法制定まで)、第二部が「平和国家と冷戦のはじまり(9條・天皇・日米安保)と、大きくふたつで構成されています。全部で6章となりますが、第二部の5と6章に加藤の国連寄りの考えに難点を見ていた者には、ここで国連憲章52条とダレスの関わり合いを知り、さらに天皇の独自外交の推測の提示により、氏の国連寄りの姿勢に補強が為されていることに気づくことでしょう。この具体策は加藤の「戦後入門」(2015年)の第5部「ではどうすればよいか」ー私の9條強化案を参照して下さい。
 冒頭に「はじめにー憲法9条に負けるな」があります。「敗戦後論」(1950)にも「はじめにひとつのお話をしておきたい」としてエピソードの紹介がありました。加藤という文芸評論家は比喩の名手でありますが、本の「はじめに」のところで、読者のためになかなか含蓄に富んだ一文を挿入する人でもあります。ここで立ち止まってこれを紹介しますと、つぎのようなことが書いてあります。
「・・・私は、この間、この本を用意するためにいろんな文献を読んでいるうちに、憲法9条というのは、必ずしも戦後の日本になかったとしてもよかったのではないだろうか、と思うようになりました。というか、一度はそう考えてみる必要があったのだ、と考えるようになったのです。」
 平和についての考え方は、本来下から生れてくるはずのもので、「平和条項」などに吸い上げられ、鋳型にはめられてはひ弱なものになると加藤は思ったのです。
「だから憲法9條はいらない、というのではありません。憲法9條に負けたままでは、とても憲法9条を生きるということはできないはずだな、と思ったのです。憲法9条に負けたままというのは、ただ憲法9条を有り難がっているだけでは、という意味です。」
 加藤のこの本では、この「はじめに」で噛み砕いて言われたことは大事な意味をもってきます。それは読みすすむにつれ何度もでてきますが、「特別な平和条項」と「ただの平和条項」として説かれ、家でいうなら前者は二階、後者は一階に相当するものとかんがえられるのです。こうした考え方はこの憲法が押しつけられたものか、そうではないものかという二つの憲法観の違いにまで現れきます。
 この本は、学者や思想家の考え方を多く引照しながら、例えば、マッカーサーやダレス、アメリカ大統領そして日本の天皇や政治家が登場して、「憲法9条」を廻る関わり合いを紹介します。そうした人物の活躍が綱を編むかのうにして形づくられた憲法の語り口は、あたかも一篇の物語であるかのように読むことができます。本の帯に9条の物語ということばがありますが、まさにそうした読み物として書かれているのです。
 この第一部で加藤はこう言っています。
「私のこの本での考察は、この問題(「押しつけ」の主体とはなんだったのか)についてはの新しい研究成果に立っています。近年明らかになったように、憲法改正の第一歩は、最初からはっきりとした計画のもとではじまったわけではなかった。背後にあったさまざまな力のせめぎあいの結果、進行していったのだという点が、非常に重要だと考えているからです。たしかに「押しつけ」はあった。しかしそれは、1946年2月の段階での、GHQ草案の日本政府による受け入れに関していえることで、しかもその主体はマッカーサーでもアメリカでも連合国でもなく、この三者の力と意図がせめぎあう場のアマルガム(結合体)だったとぃうのが、私の考えです。」
 この加藤の考え、「古典的な改憲論、護憲論の理解では、すでに70年以上を生きた現在の憲法9條が帯びる多層的な意味は、もはやとらえられなくなっている」という現状認識ですが、この書物の根底にあるリアルな前提として大変重要なところです。アメリカの「無条件降伏」政策を「アメリカの陰謀」とした江藤淳の主張を退け、「占領管理権限」をめぐってのいくつかの思惑がからまった連合国間、またGHQとアメリカ、連合国とのあいだの権限の「せめぎあい」であったという分析に引き継がれます。この本の特徴はこうした「背後のせめぎあい」を非常に真摯に把握しようとしている努力にあるのです。「日本占領」の主導権争いについてもそれは発揮されていますが、マッカーサーという人物の個性への注目も、このせめぎあいの大きな要因のひとつであることを加藤は見逃していません。特にマッカーサーのアメリカ大統領への野望はこの憲法の成立ちに大きな影を落としているからです。
 つぎに加藤が注目するのが、マッカーサーと天皇とのよく知られた会談(1945年9月27日)へ至る経緯とその内容です。これはマッカーサーの日本の占領政策と天皇の戦争責任の免除に関連します。結論から先にいうと、第9條は第1条とセットになっていること。即ち、天皇から政治権力を奪い(1条)、軍事力も放棄する(9条)という憲法改正案の浮上でした。
 当初のマッカーサーとGHQの主要な任務は日本の占領政策の遂行で、最重要の課題が天皇の免罪の実現でした。憲法改正は日本に任せるはずだったのです。だが1946年1月に実現した極東諮問委員会(これは米ソ間の妥協の産物、かつ改正ではGHQより優位な権限を持つ)が2月末に発足する事態の進行が、GHQの頭ごしにマッカーサーの「独立王国」が憲法改正へと急速に舵をとって走り出す契機となったとみます。この経緯と結果については本文をお読み戴くことを期待してここで縷々述べることを省きますが、文芸評論家の加藤の面目が光るのはこの部分にあるのです。簡単に述べますと、「マッカーサー回想録」神話の読解を含む憲法9条の性格規定で、ここで三つのことの解明されるのです。一つは天皇とマッカーサーの二人の会見時にあったとされる天皇の「戦争全責任発言」の真偽に関わること、二つ目が9条が「ただの9條」か「特別な9条」(世界に冠たる9条)かという改憲派と護憲派とを別つ事項、三つ目が現憲法が「押しつけられた」のかそうでないのかという、出生の秘密が解かれていくのです。加藤は探偵小説さながらの手つきでこの「秘密」に肉薄しています。
 第二部は「戦争放棄から平和国家へ」となります。ここでの要点は「憲法第1条の天皇制の民主化によって生じた『空白』が、戦争放棄の『道義』性によって埋められる」ことでした。ここでの加藤の認識はこういう形をとります。「なぜ憲法9条が日米安保条約への言及なしでも完結し、不足を感じさせない話法のうちに語られるようになるのか」と。戦後憲法に「革命説」をとった宮沢俊義をはじめ、美濃部達吉、横田喜三郎、江藤淳、南原繁、吉田茂、丸山真男等を登場させ興味ある場面が展開されますが、文芸評論家としての加藤は日本の錚々たる人物について、非と賞賛を惜しみません。そしてマッカーサーとダレスの角逐から朝鮮戦争の勃発、中国という共産主義国の台頭、軍拡競争等を背景に、もともと国連の集団安保体制を前提にした「9条」は、国連憲章に通暁したダレスの巧妙な論理に屈します。そこに天皇による「外交」という驚くべき「事実」が重なり、「ニヒリズムと表裏一体の平和主義」となるというのが身体の不調のなかで記した「9條入門」の物語でした。しかし、加藤が発した問い「昭和天皇の心中の苦悩に焦点をあてた本は、これまで一冊も書かれていないのではないでしょうか」というつぶやきを含む「天皇と9条」の部分には、著者の心理のゆらぎが入り込んでいるように見えてなりません。これは例えば戦前の皇国青年の反省から、文学的な発想の無効を自覚してつぎのように呟いた吉本隆明の「自分はあの人より先に死ぬわけにはいかない」という内心の声とは違う戦後の人の声です。
 著者は実に多くの文献を渉猟し、調べあげ、微に入り細を穿つ類いの研究と努力の跡が見られます。「ひとまずのあとがき」を読めば「つぎの本」を書く予定があったことが知られますが、大変に口惜しいことに、病変がその可能性を奪ってしまいました。この「つぎの本」が「もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために」(2017年8月)を踏まえたものでありましょう。この「9條入門」はリベラリストたらんとした加藤の最後の著書となりました。
 さきの本「尊皇攘夷思想のために」には、疲弊するばかりの日本の情況を憂え、ある危険を承知で幕末の精神的な血潮を注ぎこみたいという願望にはどこか性急な口吻が窺えだすのは仕方のないことかも知れません。
「300年のものさしー尊皇攘夷と現代世界」で氏はこう述べます。「幕末の尊皇攘夷思想こそが、日本の近代の文脈に置く限り、戦後のリベラルな思想を含む、日本の近代以降の内発的なすべての思想の出発点であり、祖型なのです」。そして「最後にー丸山眞男の幻像」から示唆された方角へ目を向け、自分なりの尊皇攘夷思想の開く視界を踏査してみようと思っています」
 「明治150年の先へ」と題した章で、氏は3つの小文を書いている。1つは「上野の想像力」である。これはタウン雑誌「上野」に載ったもので、上野の西鄕の銅像をみてこう述べる。
「考えてみれば上野は明治以来、『敗者の想像力』とともに、『敗者の想像力』それ自体が、いまも息づく場所なのだ」。「私は東北は山形の生れである。・・・・東京は中学三年生の修学旅行ではじめて来た。降り立った場所が東北線の上野ホームで、その後、何度もお世話になる十六番線だった」
 ここで加藤にはめずらしい素顔をのぞかせている。そして、つぎに下の2つがある。
「八月の空のした、二人の天皇の声が重なりながら降ってくる。」(「八月の二人の天皇」)
「善悪の基準とは何か。明治150年を前に私はひそかにそう考えている。」(「明治150年と『教育勅語』」)

 71年の生涯を加藤という人間は、いったい何と戦ってきて倒れたのだろう。そんな疑問がふと胸をよぎる。氏は「敗戦後論」でその対手をハッキリと掴んだこと明らかだが、それはどこから加藤にやってきた使命なのだろうか。
 いまはただ、加藤がみた未来の展望に描こうとした苛烈な理想を夢想しながら、氏のご冥福をお祈りするばかりです。



      IMG00133 (4)


プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード