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加藤典洋18  ―小さな天体―

 名辞以前という言葉が中原中也の試論にあります。加藤という批評家へのアプローチでは、この名辞以前という中也の詩作の方法に拠り所をもとめることが、よいのではないでしょうか。1995年の「敗戦後論」でもなく、この本の誤解を解くべく思索した浩瀚な「戦後的思想」でもない。日本人にこだわった「日本という身体」そして、小林秀雄に代表される「近代」に抵抗した「日本人の自画像」でもない。加藤の肖像を描くには、この名辞以前のことばにならない、いまだ想像の眩暈、おぼろな妄想に浮遊するものを手がかりに、とりかかるのが最も肝要ではないでしょうか。たとえば、加藤が一年ほどの休暇を大学からもらってデンマークとアメリかのサンタバーバラで過した一年の日々を綴った紀行日誌「小さな天体」には、加藤典洋の生き生きとした日常とそこに散在する断片的な思考の煌めきをみることができます。学生時代の十年を中原中也に入れ込んでいた加藤という批評家の底板に描かれたものこそ、加藤という人間の核心的な淵源となっているのではないでしょうか。初期の「批評へ」に収められている数多くの文章には、加藤が「思想」へ離脱する以前の、中原中也から手にした思考の萌芽がみられるのです。彼はいつも半分であり、一人二役なのです。たしかに「日本人の自画像」は力作です。しかし、「小さな天体」には表現された日常にはそれと比較できない豊穣な果汁のしたたりが感じられます。加藤の冒険的な思想のダイナミズムにある種の「天才」を認めないというのではありません。「戦後」をめぐる著作活動が加藤典洋という文芸批評家の驚嘆すべき表現であることはたしかでありましょう。そこに彼の人生の大半が割かれていることは事実でありますが、加藤自身の表現をかりれば、それはむしろ二階屋であり加藤が住むのは、その家の一階のほうにあるのです。彼の本質は二層性にある。二重性にある。なんなら多様性といってもいいかも知れない。小説を書かなかった批評家、詩を書かなかった批評家。詩をも小説をも犠牲にして彼は批評文を書き続けました。それもJポップの音楽までも。鋭敏で先端的かつ広闊な彼の感覚は、「戦後」なる思想の指標にあまりに先導されてしまったきらいがあるのではないでしょうか。そこに彼の時代性があったことは否めないにしろ、彼の多岐にわたる好奇心が「戦後」だけに閉じ込められてはなりません。さらに広闊な風景の中に解放される必要があるのです。
 彼はなにより「文学」の徒であり、大学教師でさえありました。山形県の元警察官であった父は95歳になってテレビを見ずに塩野七生の「ローマ人の物語」を読む書斎派ですが、早熟な彼はその父に反抗しながら成長して東京へ出てきています。1960年代のたぶんに政治的な季節を通過しながら、中原中也に長きに亘って雌伏してきたことは看過できないバックボーンにならないはずはないでしょう。彼が中原中也の感化を受けたことがその後の彼の基底になっていることは見えづらいが、彼の感性の形成はその「名辞以前」の思想の萌芽期にあることに注目すべきではないだろうか。死者への視線、小林秀雄への批判、吉本隆明からの思想的な感化においてさえ、中也の影をみることができるのです。死期も間近に「太宰と井伏」その再説から、太宰の実存的な存在の底板に、初代なる女性を浮上させる根拠となる彼の内的な想像の発露は、まさしく「名辞以前」からやってきているものでありましょう。
 加藤典洋という一人の文芸批評家にとって、「小さな天体」という一冊の日誌が、50年にちかい「戦いの記録」(カフカ)の中で、素晴らしい魅力を放っていることは、たしかなように思われるからです。




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クラノスケ、逃走する!

 今日は朝から家の前で工事が始まった。そこにゴミ収集車が来たのでクラはさあ大変。玄関の網戸ごしに外を覗くのが楽しみなのに、一目散にまず階段の上へ、それから二階の押し入れを自分でこじ開けて隠れたのです。

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 この臆病な顔。ふだんは大の字の大股開きで午睡を貪っていたクラがつぶらな目をあけています。

 マミちゃん、これなら面白いでしょう。なにも、オクブカイ ものなんかありません。というより、「おくぶかい」という感想について、
ほんとうは、もっと、考えるべきことなんでしょう・・・・。

今朝、NHKの「旅ラン」で、東京都あきる野市にある秋川渓谷がでていました。ここは、15歳のときにあるクラブでハイキングに行ったところです。ぼくは一年上の女性に惹かれていました。いまからずっとむかしのことなのに、記憶が鮮明なのは「淡い恋」をしていたからでしょうか。
「恋」の気持ちって、なんだか過ぎ去った遠い記憶を呼び起こしてくれる、不思議な力があるようです。
 
これも「あさイチ」のテレビからですが、セロトニンっていうの知っていますか?
こころを安定させる悩からでる物質なの。これが減少すると不安になるんだって。コロナが長引いてみんな、このセロトニンが減少しているらしいですね。
それで、セロトニン大作戦で、不安を吹き飛ばしてしまおう。すると、不安も、イライラも、便秘も解消するんだ。姿勢もよくなり、集中力がでるんだってさ。
 ホームページは、03-3481-0099との案内がありました。

ロシア語で、
   ナビシーチェ、パジャールスタ というのは 「書いてください」という意味なんだって、

これもテレビの「ロシア語」から知ったこと。英語はもちろん、フランス語、イタリア語、スペイン語、中国語、ドイツ語など、こういう語学は若いときに集中的にやってしまうのが一番いいのにと、悔しがってももう遅いのですね。ぼくはそろそろ、店じまいですから。
最近の日本語には、「魚屋さんてき」だとかと、なんでも「てき」を多用していません? 以前はインテリ的だとばかにされたのですが、これって現代的な表現なのかも知れません、ね。
 ところで、日本語って、書きことばはむずかしい。
主語で使われる助詞の代表格「は」と「が」なんてどうでしょう。つぎのはあるウエブから拝借させてもらったものですが、ひょっとしたら、こういう国語文法は、いまではすこし窮屈になっているのかも、

述語の種類で変わる「は」と「が」
1. 鈴木さんはボクサーだ。(述語が名詞)
2. 鈴木さんは強い。(述語が形容詞)
3. 鈴木さんが勝った。(述語が動詞)
 上記の例のうち、助詞が「は」になっているのは1.と2.ですね。1.と2.は述語がそれぞれ「ボクサー」という名詞と「強い」という形容詞になっています。
 一方、助詞が「が」になっているのは3.で、述語は「勝った」という動詞です。
主語以外を排除する「は」と「が」
1. 鈴木さんがボクサーだ。(「は」→「が」)
2. 鈴木さんが強い。(「は」→「が」)
3. 鈴木さんは勝った。(「が」→「は」)
 先ほどの例文の「は」と「が」を入れ替えてみました。今度はどうでしょうか。文章のニュアンスが少し変わった印象を受けませんか?
 基本の文章から「は」と「が」を入れ替えると、主語にくる人物以外を排除する意味合いが含まれるようになります。1.を例に見てみましょう。入れ替える前の文章ではただ単純に鈴木さんがボクサーであることのみを伝えています。その一方で、「は」と「が」を入れ替えた後の文章では、複数の人物が存在するグループの中でボクサーは鈴木さんだけである、ということを伝えています。

 日本語って、とても、「いみぶかい」世界なのですね。でも、意味ってなに? って訊かれたら、さてどうしょうか。
お休みなさい。





小説「夢想神伝鏡乃虎」

 雲南では魚といわず鏡の虎といっている。
                 「幻獣辞典」ホルヘ・ルイス・ボルヘス

        
 木村博士はその日の患者の一人の診察を終えた。博士は一日に二人か三人の患者の診察するだけであった。彼ははずし忘れたマスクを机に置き、椅子からたちあがると、窓を透かして遠くの公園の銀杏の樹と空を眺めた。それが彼の仕事を終えた後のいつもの習慣であった。そうした茫然自失の時間が、彼を仕事から解放してくれるのだ。それから天井へ両手を伸ばし、鼻に小さな息を吸い込むと、顎の両骨が鳴るほどの大きな欠伸をする。銀杏の葉は空の一角を金色に染め、晩秋の空に光を放っていた。ふと博士は、このように人間が自然の風景を眺めはじめたのは、いつごろからだろうかという唐突な疑問にとらわれた。古くは歌を詠む万葉の時代、、近くは絵筆でキャンバスにそれを描きだしてからだろうか。思えば人間とはまことに奇妙な生き物である。その精神の中に自分は潜入し、分析し、治療しようとしている。精神科医、それはなんとだいそれた職業であろう。そもそも精神の病気とはなんであろう・・・・。
 博士はふと机上に視線を落とし、患者自身がパソコンで記した「小説(仮想の敵)」と銘打った原稿と一冊の本をそこにみた。患者の書いたものは、患者の内面を知る一資料であった。患者が読んだと覚しき古い本も同類である。表紙には戯曲「カルギュラ」の印字が読めた。
博士は机上に原稿を広げ、しばし黙考していたが、いつしかその原稿の一字また一字と視線がたどりだしていた。
 眉間の皺が博士のこれまでの辛苦を語っているようにみえた。 

           Ψ

「もし」
 水村は驚いて後ろを振り返った。黒服の警官が立っていた。
「居合いですかね」
 低い、静かな口調であった。
「はい。どうも失礼をいたしております。家が狭いもので、この路地で稽古をしています」
 と水村は平身低頭で、目前の自宅を目で示した。
「気をつけてやってください」
 そう言って警官はあっさりと立ち去った。警官によっては、その職業上、武道に理解を示す者がいるのである。たしかに路上の稽古には注意すべきことがあった。背後から自転車で疾走してくる者に、一度ひやりとしたことがある。もちろん摸擬刀ではあるが、殺傷力がないとはいえない。真剣の刀ならば納刀のさいに自分の左指を斬り落とすとも限らない「人斬り包丁」にちがいないからである。水村は一度、頭上への抜刀の際に、親指を切り落とし損ねたことがあった。血が滴り落ちたが、痛くはないのが不思議であった。
 だがある夜の出来事以来、水村はその摸擬刀もやめて木刀での基本稽古に切り替えた。これは主に下半身の強化のためである。
 数日ののち、水村は小雨の降る雨の夜更けに、家のまえで木刀を振り回して風邪をひいた。翌日熱がひいたのを幸いに、その日から夏の休暇をとることにした。
 妻の響子に行き先を告げると、「どうぞいってらして」と笑顔で送り出した。ふらりと外国の海へ大きなダイビングバッグを背負って水村が出掛けることはよくあることで、鳥が飛び立つように夫が家からいなくなることには、もう馴れていたのである。響子は結婚当初から専業主婦で社会に出て働いたことがない。郊外から実家のある東京の浅草近辺の下町に引っ越してくると、水を得た魚のように活きいきとした。下町によくいる世話女房タイプの女で、家事は手際よくこまめによく働くのである。性格も大きく明るかった。このため町のなかでの交際も上手く、評判もなかなかであった。いつも響子のまわりには花が咲いたような明るい雰囲気が漂っていた。子供のないさびしさを顔にうかべたことなど見せたことなどないのである。
 水村は高崎から磯部まで行き、駅前で待っていると、予約しておいた民宿の車が迎えにきた。それから十分ほどのところに富岡という町があった。明治の頃、富岡製糸工場で日本の繊維産業を支えた有名な町である。
「ここはなんにもないところなんですよ」
 と運転をしながら民宿の主人は恐縮そうに言った。バックミラーに主人の顔がみえた。その主人の目が水村の様子を窺う視線を度々感じた。普通の旅館は一人客を敬遠する傾向がある。今度の宿泊は、そういう客でも受け入れるという民宿センターの紹介であった。しかしやはり気にならないはずはなかったのだろう。急遽予約を取り、一人で泊まろうとする水村のほうこそ、済まないような気がしたが、バックミラーの中の目が気になった。どうもそこに見ているものが、水村自身に相違はなかったが、まるでそこに自分でない他人を見ているような視線が水村におぼろげな不安を誘った。いつまでも長引く梅雨のように、猛暑の夏が連日連夜つづく不快のなかでの居合稽古の特訓の合間であった。たぶん「仮想敵」を想定しての強い眼光が水村の目と顔に、通常みられない痕跡を残していたのであろう。稽古の緊張感をほぐして、普段の平常な自分を取り戻しにきたのに、武道の硬い仮面のような表情は膠のように顔に張りついているらしい。稽古つづきで全身の筋肉が硬く張ってもいた。そうでなくても、この息がつまりそうな日常の世界から逃げ出して、気分転換の必要を水村は喉の渇きを癒すように、感じていたのである。どこでもいい、静かなところでのんびりとしたかった。
 車はすこし乱暴な主人の運転で早くも宿に着いた。
 玄関まえにガーディニングのように、草花を飾った石畳が敷かれていた。この辺りではめずらしい風情である。そのまん中に、やや丈高くなにやら装飾がほどこされた石柱が立ち、頂上に水盤のかたちをした石鉢がのっている。そこから夏の陽を浴びてゆったりと緑の蔓草が垂れていた。なかなか洒落た民宿のように思われたが、そこは誰でもが立ち寄れるレストランの玄関口の方であった。
 主人が彼に提供してくれた部屋は、その母屋から長い廊下を歩いたところにある、八畳ほどの部屋である。部屋には粗末な低いテーブルと旧式なポットがあるだけ。主人が車の中で言ったことは謙遜ではなく、事実であったわけだ。人気のない廊下を通り、奥まったその部屋までの案内を終えると、そそくさと主人は立ち去った。殺風景なその部屋をまえに、水村はなんだか座敷牢にでも捨て置かれたような心持ちだ。半分明けられた窓は網戸になっていたが、まだクーラーのスイッチは入っていない。部屋の中はムンムンとした熱気がこもっている。そのうえ、歩くと畳の下の根太がゆるんでいるらしく、雲の上を歩くような按配だ。
 ともかく数日過ごせればそれでよかった。彼はさっそくクーラーのスイッチを入れ、茶を飲むと夏の陽射しがぎらつく戸外へ、帽子をかぶり宿のまわりを散策した。 
 道路を隔てた向かいに大きな池があった。丹生湖という名の人工池とのこと。入口には洒落たログハウスがあり、池のほうを眺めると日傘の下にへら竿に糸を垂れている釣り人が、池に浮かんだ幅広の板の上にちらほらと見えた。
 中学三年の時、水村も一時へら鮒釣りに凝ったことがあった。夢でもへら鮒の釣り糸を池に垂れていたほど狂っていたむかしが思い出された。雉の羽根で浮子を作り、芋をふかし餌を網でこし練った昔のことが脳裏を掠めた。中学三年といえば、高校への受験で追われなければならない時期である。が彼は人から強いられる生活が嫌いな質で、自分がその気にならなければなにもしない自由気ままな性格なのである。だが一旦その気になると猪突猛進するのは猪年の生まれのせいかもしれない。因みに妻の響子は虎年の生まれであった。鷹揚な性格な裏に、どんな爪を隠しているともかぎらない。

 池は満々と水を湛えて、夏の日に静まりかえっていた。これを見て水村は、池に浮かんだ板の上を歩き、池水にうかぶ浮子の様子を見たくて、一人の釣り人の側へ行った。初老の男は口をへの字にして難しい顔つきで浮子をみつめている。その釣り人の顔が、へら鮒の貌に似ていた。人はあるものに過度にこころを寄せると、その当のものに似てくるらしいのである。
 水村がログハウスの中に入ると、おばさんとおじさんが隅の畳部屋でのんびりとおしゃべりをしていた。他に誰もいないのでその話し声がよく耳にはいる。その二人の暇つぶしの話しを聞いていると、どうもヤクザ者の話しをしているらしい。へら鮒に似た恐い顔をした爺さんから離れ、幅広の浮き板を歩きながら、水村が二度ほど池の上で、居合の真似事をしていたのを、二人は窓越しに見ていたのであろう。それで、どこのだれとも知れない余所者が、池の上で行った所作をかた、年寄りの二人はヤクザモノの話題をとりあげていたのであった。その当人がすぐ後ろにいるのにも気づかず、のんびりと話しこんでいる。その無神経さがなんとも怪訝に思われた。
 水村がそのような場所で、稽古のまねごとをしたのは、居合の昇段審査が近づいていたことから、自然に身体が動いてしまったせいであった。居合道連盟が決めた制定九本目の「添え手突き」の動作をしたのを、ログハウスの中から奇異な思いで眺めていた二人は、不審な余所者をどこかのヤクザ者と想像し、そのような会話を交わしていたのにちがいない。この九本目はその技名のとおり、左横を一緒に歩いていた「敵」の怪しい挙動の機先を制し、横に振り向きざま「敵」の肩から腹までを袈裟斬りで抜き打ちし、腰上に引いた剣の峰を左手で添え、「敵」の下腹部を刺殺する居合の技であった。そこには「敵」の先手を封じねばならない素早い動作を必要とした。なにやら空恐ろしく物騒な所作に、殺意がみなぎらないはずはなかった。これを遠くから一瞥した爺さん婆さんが、「ヤクザモノ」と連想したのは当然なことであった。二人の話しの中に出てくる「ヤクザモノ」が水村と想われたが、そこにもう一人の「自分」ならざる「他人」がいるような奇妙に気分に水村は囲繞された。それはもちろん、二人の爺さん婆さんが、そのすぐ傍らにいる水村の存在に無関心に、平気でそんな会話を交わしていることにもあったが、話題にされているというその事が、すでに水村とは別の人格のように思われた。それは自分でありながら、もはや自分ではなかった。鏡を見ながらその鏡の裏側に、もう一人の自分、いや「他人」がいるようにも考えられたのである。
 ハウスの壁には、湖水に浮かべた船からへら鮒を釣り上げている大きな写真が一枚貼ってあった。釣り竿が垂直に高々と立っていた。釣人の顔は笑みをうかべながらもひきしまっている。のっこみの春先の季節か。美しい写真だと水村はしばらくぼんやりと見入っていた。まるで「袈裟斬り」をして「八相の構え」で残心に入ったような真剣味をおびた顔に、かかった魚を魚籠に取り込むばかりの喜悦が満面を朱に染めている。写真には微かにしか見えないが、湖水の中に魚が蠢く白い線が光っているのが見えた。魚は水の中で魚体を烈しく蠢めかして逃げまわり、そのたびに水面が盛り上がり、尾びれで水を巻き上げ、水光りを散乱させている様子がまざまざと目に見えるようである。かなり大型のへら鮒であろう。
       
 車の走る音で水村はふと眼を醒ます。真夜中であった。部屋の窓側の壁一枚を隔てた戸外を細い道路が走っていた。そこを相当なスピードで通る車の音が、部屋を揺すぶるように響くのである。

 暗闇で眠れぬままに眼を開いた。眼交にぼんやりと天井が映っている。その天井へ向け、腰前から祈るように静かに両手で柄を握り、親指で鐔を押して鯉口を切り、夜陰に緩やかに伸びて光った一筋の剣線は、最後の一瞬、鞘から放たれ中空を烈しく一閃した。瞼を横一文字に過ぎった剣尖は、右手首を返して左肩を突くや、即座に頭上に振りかぶられ、真っ向から対手の頭蓋に炸裂する。霧を吹いたかのように、流血が闇を染めた。と見えたのは夢かうつつか。蒲団の上に半身を起こし、半眼で趺坐している自分に水村は漸くに気がついた。
 それは無想神伝の「初発刀」の技だ。鞘離れの一瞬、「敵」のこめかみを斬り、素早く振りかぶって前にいる「敵」を、真っ向から斬り下ろす。隙なく振りかぶり、必殺の一刀で倒さねばならない。その腕の動作、いや、最初に柄へ両手をかけ、鯉口を切ると同時に鞘から刀を抜きはじめ、腰を静かにあげながら、じゅうぶんな鞘引きとともに、刃先に入魂のちからをこめた鞘ばなれで、相手のこめかみに怒濤のごとく斬りつけなければならない。
 だがあるときこと、水村が通う道場の前面いっぱいに貼られている鏡が西日に照らされ、湖面のように光り輝いた。その光りのなかに、彼はたしかに自分の姿をみた。だがその自分と思われる者に、もう一人の他人の姿が二重に映るように思われた。目をこすり凝視していると、やがて一匹の大魚がゆったりと湖面を泳ぎ、水中にその姿を没した。それは幻覚にちがいなかった。その水村の不審な動作を見た道場の先生が、大声で叱責しなければ彼もそこが居合の道場であり稽古の最中であることを忘れたかもしれない。ハッと我にかえった水村は怪訝と軽侮の眼差しで彼をみている先生と弟子達の姿にやっと気がついた。
「オイ! そんなに鏡をみつめてどうしたのだ。おまえはナルチストか。鏡は敵を想定するための道具にすぎない。鏡をみても鏡の中に敵はいないと言っているのが判らないのか!」
 そのことがあってから、水村は正面の鏡を見ないようにした。見ればそこに映る自分の姿に、「敵」を想定しなければならない。「虚」であって「真」ではない。だが現代ではその「虚」に「敵」を想定し、一刀必殺の迫力でその「敵」を斬ることの演舞を試されることで、居合の技の力量が審査されるのである。そこでは一滴の血も流れることはない。当然なことであるがすべては実際に人を斬ったことがない審査員の「目」に、居合いの技の正否がかけられているのである。
 ある者は現代の居合いを「動く座禅」と称している。たしかに水村は先生の稽古中のことばに、禅の公案を聞く思いを度々したことがあった。公案は座禅をする者が師家からいただき、座禅中に捻定し禅定力を高める一手段である。水村は午前に居合の稽古をしたその日の夕方、時折、近くの禅寺に参禅することがあった。
 そうした参禅でのある夕べのことを、天井を仰ぎながら水村はふと座禅の最中にあった一事を思い出した。
「うるさいぞ!」
 本堂の柱の側で端座していたとみえた老師の方角から、そう一喝する大声が発された。座禅が始まりすでに本堂は参禅者の影がみじろぎもせず、三昧の境に入ったように思われた静寂が堂内にみなぎる最中である。
「座禅は首を斬られても微動だにしない気迫をもってやらなければ、ただの死座禅なんじゃよ。おまえさんたちのこころの声がわしの耳に入って煩くて仕方がないわい。座るということを、そう軽々とされては座禅になんの意味もない。空々寂々、山の中の地蔵と変わりはないんじゃ。それを座して禅せざるというのだ。おまえさんがたが座禅をしてどうなる。座禅が座禅するものとなる、そのこころだちを無念無想というのじゃ!」
 これには水村も唖然として、老師の方へ視線を動かした。が老師の姿はたしかに老師がいると思われた処には影も形もみえない。その日彼の耳に聞こえた老師の烈しい声は、自分の座禅に睡魔が襲いにきて彼の耳に囁いた空耳に過ぎないのか。座禅の様々な書物を読みふけり、三昧の不思議な段階がどのような心域へ、座禅者を導いていくか知らぬでもなかった水村に、ある段階がついに訪れたと錯覚させたのも不思議ではなかった。この世界と自分の境界が消失し、ある夢魔の世界が現出したのではないのか。
 水村は座禅が自分をいかなる境域まで連れて行くのかを想いながら山門を出て、門の上にかかった月を眺めた。月は赤い沙を懸けたように中空に浮かんでいる。その月が大きな手で揺さぶられたように上下左右に動くと、彼を嘲り嗤うような不気味な声が幻聴のように襲ってきたのだ。
「斬ろうとするな。刀は自ずから斬れるものなのだ」という居合の先生が口にすることばと、座禅中に聞こえた老師のことばが共鳴して、耳の奥で響いているばかしであった。
 帰宅して遅い晩酌をしながら、家人へというより、独り呟いている水村へ向かって、妻の響子が以前、居合の「仮想敵」について、ごく気軽な感想を述べたことがあった。
「その仮想敵っていうのは、自分ということじゃないのかしら」
 気軽に返した妻のことばにそれほどの意味はない。「敵」はあくまで「自分」とは隔絶した、測り知れない「他者」である。その他者がどれほどの腕をもち、いかなる流派のどのような技に長じているかは「我」を超越した領域にあるはずである。それにどのように対処するか。そこに自分の精神と肉体の鍛錬と修行が賭けられていることは確かである。妻が小刀の一閃で突いたのはそこである。やはり響子は虎の爪を持っていた。以後水村は妻に居合いの話しをすることを避けるようになった。

 その後も居合の稽古の最中、以前と似たような現象を水村は体験した。鏡がまたそれ自身の透明な意志をもつ生き物のように、斬りつけるその位置を動かしたのだ。徐々に鏡を見る者の目には悟られないほどに、鏡に映るこめかみの在りどころを、上に上にと位置をずらしている気配である。かと思うと下に下にと移動する。ために彼の腕は上に上がり、脇が開いた。また、頭が下がり前のめりになる。その度に先生の烈しい注意が飛んでくるのである。以前メニエール症候群で立ちくらみをしたことのある彼は身体の平衡感覚を失ったことがあった。またそんな症状が現れたのか。全身の動きが逆しゃくしてぎこちない。つまるところ、どうにも身体の運用が下手なのである。その日はやればやるほど、身体の動きがバラバラになるので悩ましくて仕方がない。居合いは気・体・剣の一致が大事だと稽古の度に、言われつづけているのに、これでは落第なのだ。
 それにしても、刀の下にからだを入れる振りかぶりができない。手の内が悪いから、スナップがきかず、円を描いて刃筋が真っ直ぐに飛んでいくことがない。柄を握る左手の中指と薬指と小指に力が込められずに、右手で柄をくそ握りしているため、刀を頭上に振り上げた際、水平以下に振りかぶりの刀身が落ちている。刀が空気を切り裂く、ヒューという音などはしないに越したことはないのに、この音に自己満足する手合いは多いのである。これでは人は斬れない。斬られた人が斬られたとも感じない刃筋のうごきが居合いの極意なのだ。ただ叩いているなら刀はなくてもいいのである。
 肩から力が抜けないから余分な動作がでて、流れるような体捌きができない。これでは刃筋が乱れること必定なのであった。こうした日本刀の刀捌きに居合いの本領があり、竹刀剣道と決定的に異なるものだと、水村は教えられてきたのだ。頭で分かっても身体が言うことを効かない。その身体に頭で知ったことを、覚えさせるために稽古というものがある。身体の一番遠いところに、居合いの神様は宿っていると、聴いたことがある。たとえば、左足の踵である。斬りつけは左足の緋鏡が弓矢の糸のように、ピーンと伸びていなければ刀身に威力は出てこない。頭の天頂が天を射す姿勢がとられていなければ、全身の力のバランスは均衡を失っている証拠であり、そもそもそこに腰が入っていないのである。
 先生はほとほと手を余し、居合いの適性がないと弟子たちをまえに、水村に容赦ないことを言う。三段を取ってから漫然と三年の練習をしてきてしまったのだろうか。やればやるほど、角ができて丸い円から三角形のような形になっている。その角を一つ一つ取り除いて、元の円に戻さねばいけないのだ。やれ、鞘放れが悪い、手と足は互い違い、刀の位置はおざなり、振りかぶりではからだの前は隙だらけで、前の敵にどうぞ斬ってくれといわんばかり。血ぶりでは胴はがら空き、ごぼう抜きに脇の締めはないときては、いいところはひとつもないではないか! 
 先生の厳しい叱声が甦り、興奮したからだは布団の上で硬直したまま、あたまは醒めていくばかりである。
 ここの民宿まで、できれば居合い道具一式を持って来ようとしたが、思いとどまった。夜遅く自分の家の外で、模擬刀を帯刀し居合いの稽古をすることがある。東京の町中でたとえ模擬刀といえど、日本刀での練習は、近隣住民の眉をひそめさせ、町内の評判の芳しからぬことは当然、平常な目かれすれば、狂気の沙汰と見えるであろう。それでなくても、毎日のように殺人やら強盗の凶悪犯罪が横行する殺伐たる世の中なのである。抜き身の剣は遠目にも、夜の闇に一閃の燦めきを見せる。まして、狭い路地裏での稽古は、不審者そのもの、いやすでに狂人の仕儀に他ならない。若い頃から好きなように暮らしてきた夫を、独特の包容力で包み込んできた妻も目をそむけ、呆れかえっているが、水村当人はいたって本気であった。
水村が三十年ほど続けてきた海でのスキュバーダイビングをやめ、居合をはじめたのはそれなりのわけがあった。水村が職場に数人の仲間と作ったスキュバーダイビングクラブで海における活動中、一人の若い女性が溺死する事故があった。以来、彼は海に潜ることを自ら禁じた。同時にクラブの解散を全会員の一致で決議したのであった。そのとき水村の横にいた男が目を真っ赤にしていた。この男が女を死なせたのだと水村は直感した。若い女の両親は一人娘の死を悲しんで娘の後を追ったことを、水村は後に知ったが、いかにも後味が悪かった。以来、海を平常心で眺めることができなかった。

ある日の夜のこと。深夜もだいぶ更けた頃であった。路上を歩く人影もまばらで、ほとんどの住民が眠りにつく時刻のことである。割と広い公園が隣町にあった。
 そこへ向かって水村は買ってまだ新しい摸擬刀を提げ、草履を履いて静かに町中の路地を歩いていた。草履がヒタヒタと足裏で跳ねる音がかすかにするばかりだ。
 公園の隅で韓国人らしき男が話し込んでいた。韓国語は日本語に比べ話し方がきつく、まるでケンカでもしているように聞こえなくもない。公園の一角にバットを振れるようにと背の高い囲いをした一角があった。水村は刀を持ってそこへ入った。やおら抜刀して基本稽古と素振りをしばしやったあたりから、夜目にも黒い影がちらちらと辺りに動きはじめる気配を感じたのである。その気配がじわじわと輪を縮めて近づいてくる。その奇妙な気配で迫ってくるものに押され、水村が素早く刀を鞘に納めた。それと同時に、七、八人の黒い制服の警官にどっとまわりを取り囲まれた。自分に向かいその暗闇を這い異様な迫力で、じわじわと距離を縮めてくる黒い影に恐怖と同時に、妖しい魅力をさえ感じる自分を滑稽に感じた。警官のなかには、素俣を持っている者が二人ほどいた。まるで時代劇さながらの捕り物である。件の如く物騒な事件が立て続けに起きる世の中だ。きっと水村が手にした摸擬刀を本物の日本刀と思い、深夜の公園で日本刀を持った不審人物がいるとの、警察への通報が入ったのであろう。これをうけてすわと物々しい警官の出動となったのだ。水村が持っていた刀が摸擬刀であり、ただ居合いの稽古をしていたに過ぎぬことが分かると、警官たちはさっさと引き上げていった。以来、公園での稽古は止めにしたのである。

 だがその時、水村が感じた異常な体験は、以前に海外でスキューバダイビングをしていたときの体験を水村に呼び起こさずにはいなかった。空気ボンベを背負い、三十メートルほどの海の中でバラクータの群れに取り囲まれたことがあった。群れを為して鮫をも襲うバラクータは海の狼と怖れられている。海の中で泳ぐというよりも、鑓の刃先のごとく尖った流線型のその魚は、透明度のある海に差し込む太陽の光を反射し、無数のガラスの破片のように煌めき、すこしづつ群れの輪を縮め不気味な眼を光らせて、水村を凝視した。
 あのときの海での恐怖は、空気を吸える陸上でのそれとはまるで異質な体験であった。水村を取り巻く魚というより、透明な海という無言の世界、三気圧の重力が鋭い流線型の武器をもってじわじわとにじり寄ってくる恐怖に、思わず彼は呑まれ、背筋に電流が走った。海という自然の透明な悪意が、いまにも彼を圧し殺す恐怖に、頭は真っ白、心臓は口から飛び出しそうに警告音を発した。水村は静かに目を閉じた。わずかに中性浮力を保持したままじっと動かず、呼吸の際の泡も目立たぬように息を殺した。早鐘のように鳴っていた心臓だけが彼が生きている証のように。そうした数分の後に目を開いたが、わずかな太陽の光がその時ほどまぶしかったことはない。あの鑓のように彼を取り囲んだバラクータの群れの姿はすでになかった。捕縛を解かれたように、水村はゆっくりと息をしながら浮上した。彼は海の中で血塗れになって海の狼の餌食になるところだったのだ。そのとき彼の命が救われたのは、これまで水村が参禅をして養った調息と調心の経験が多少役に立ったからなのであろうか。いまでは水村には、それは青い海の中での白昼夢のように思われてならない。

 三十年ほどまえ、この町に妻と引っ越してきた往時には、これが東京のまん中にあるのかと思うほどに閑かで落ち着いた町であった。夜の九時ごろを過ぎると、訪れるこの町の静寂、気さくで人情味のある住民、かすかにその残り香があった町筋の江戸情緒も、いまや薄れてその形骸だけが無惨な姿を晒すばかりである。できればたとえ小さくても、下町らしい風情のある家を建てたいと粘った一念がようやく通じ、やっと設計され出来上がった家には、やはり居合いの稽古ができる間取りをとることはできなかった。家の中での稽古では、天井の照明器具を破損し、襖を破き、柱に傷をつけたが、家人はさほどの文句も言わない。もう水村のことでは、家人は諦めているのであろう。妻から疎んぜられているのは、なにも居合いに限ったことではないのである。
 下町の狭い家に住みながら、結婚当初から小さな書斎だけは彼の住処であった。水村はテレビはみてもニュースに映画、それに時代劇しか観ないのである。そのためばかりではないが、妻が話している世間話や俳優やタレントの名前にはまるで疎いのである。疎いというより元より関心がなかった。とんでもない質問をして妻から失笑されることも度々である。下町に暮らしながら、要するに平俗な庶民風な男になれない質なのだ。これに引き替え彼の妻は、代々から下町の土地で育ち、そのままそこで暮らしている。近所の付き合いは広いので、妻と町を歩くとすれ違う男や女が挨拶をする。しかし、水村にはその殆どが知らない人間ばかりである。水村の仕事は役所の事務所で事務を執ることで、朝家をでれば夕方か夜遅くにしか帰宅しない。地域の近隣住民と接触する機会は皆無に近いのである。それに幕末以来、旧江戸の市民は役人に好意を懐く者は少ないのであった。窓口を盥回しにして、どうでもいい面倒な書類を書かせて、自分たちは朝から晩までお茶を飲んでいると思われているらしいのである。というわけで家は寝るに帰る処に過ぎなかった。近隣の住民の名前を妻に聞いても水村は、すぐに忘れてしまうのである。だから同じ町内の人も、彼の妻に挨拶をしても、隣にいる水村にたいしては、まるで余所者でも見るかのように無関心であった。事実、水村は町の人の顔を見ても容易に区別がつきかねた。みな同じように見えてしまうのだ。
 その上、夜に路地裏で太い木刀を振っているので、子供たちは奇態な目で水村をみているらしい。
「このうちにはヤクザがいるから怖いよ」
 そう子供がしゃべって行くのを耳にしたことがある。
 自分がヤクザ扱いされているのを知って厭な思いをした。夏に行った民宿でのことを思い出したからだ。ログハウスの中で彼を種にして「ヤクザ紛い」の話しをしていた老人たちのことである。この世間が彼を見る眼がいかようなものか、それを思うと自分が描く自己の像とこの世間という鏡が映す像との違いの大きさに驚きを感じずにはいなかった。年を経るにしたがいその懸隔は開くばかりである。居合いを始めてからというもの、彼の頭とこころは世間から遠ざかるばかりで、異様な風貌を見せはじめたのである。水村という男から、世間は近づきがたい雰囲気を感じざる得ないのであった。
 彼は自分が夢想する下町を愛していたが、現実の下町の住民になれる質ではなかった。家には風呂があったが、気が向くと彼は近所の風呂屋へ一人足を運んだ。天井の高い風呂から射す明るい空間、その湯船の縁に腰をかけ、ぼんやりとおぼろな瞑想に耽けるのである。
 もう四十年ほどの前、風呂屋へよくかよった昔のことが突如まるでビデオの映像をみるように彼のこころに浮かんだ。それほどの歳月を経たというのに、昔は今のように生々しく水村に甦るのが不思議であった。水村の中では時間は流れずに空の雲のように浮遊しているようなのである。自分の中にはまだ少年のような自分が棲んでいた。過去は過去ではなかった。それは奇妙に生々しく生きている現在でもあったのだ。まるで年を取るということを知らないかのように、水村は過ごしてきたようだった。時間の外側を、まるで胎児のように・・・・。
 水村には母の胎内いた記憶が甦るかのようなことが屡々あったのだ。波のように母の心臓の鼓動が聞こえた。そしてさらに遠い父母未生以前、暗い空とうねり逆巻く深い海、巨大な白い海月が漂うまだ熱いほどの海の水、陸に上がりそこねた鮫の群れ、その怨めしそうに怒りと悲しみを凝固させたようなあの残忍な眼・・・・・。
 彼が海に潜るようになったのは、海を眺めたからであった。ある島で嵐に出合い、堤防に横たわりながら虹のなかに砕ける波の飛沫を浴びて、彼は終日海を眺めて飽きることがなかった。そのうちいつとも知れず彼は海の中を泳いでいた。背中にボンベを背負い、口にレギレーターを噛んで海の中にいた。海に潜ること、それは海の記憶に浸ることに似ていた。彼は海の中では一匹の魚に変身するのだった。陽光に燦めく青、紅、黄の魚群へ、彼もまた身を泳がせる。ことばのない世界、中性浮力の無重力の青の宇宙に彼は自由に身を任せた。海面から散乱する光に、群れ泳ぐ魚が雨のよう降り注いだ。

 水村の住む町は祭りとなると急激に人口が増えた。いまは高齢者ばかりで、小学校は次々に廃校になるほど子供の数は減っているのに、祭りのときだけはちがった。町から出て行った親戚筋が、このときは産卵期の魚のようにどっと実家に戻ってくるのだ。この町へ来ての最初の数年、水村はこの町の祭りを愛し、神輿を担いだこともあった。普段は自分の家の中で帽子や鞄の袋物などを、朝から晩まで休みもなく作り働いて過ごした職人たちが、一年に一度のこの祭礼のときだけは、軒下に提灯をぶるさげ玄関やら障子を開け放って、親戚やら朋輩を集めて酒やら料理を振る舞うのだ。土砂降りの雨もなんのその、神輿の担ぎ手は好き者を含め、関東一円から集まってくるのである。そこには寛いで大らかな幸福な笑いが、この小さな町に活気をもたらして、どの家の窓も開いて老若男女の顔が町の祭りを盛り上げたものだった。だが長引いた不況の頃から様相は変わりはじめた。町内に一軒あった鰻屋が消え、その味に舌鼓をうった寿司屋の寿司の味も変わり、軒を連らねた商店も一軒、また一軒と商売を閉じていった。だが年に一度の祭りは続いていた。だがどうもむかしのように、地面から沸き立つような大らかな祭りの熱気は醒めてしまったようである。気の抜けた風船のように、人々のこころのど真ん中から盛り上がってくるあの祭り独特の力が失われているようである。いやこれはこの町のことだけではない。日本そのものがその中心から実態を失った空虚で奇態なありさまを露呈しはじめたように思われた。いつの頃からか、世の中を流れる潮の目が変わりだしたような気が水村の精神を不安なものにした。
 水村がこの町では依然余所者にすぎなくても、まだ町の祭りへの愛は変わらなかった。神輿が狭い町内の路地裏を練り歩き、むんむんと臭う汗と酒との狂乱の只中で、神輿のてっぺんで金色に耀く鳳凰の尾羽がかすかに鳴る音色、太陽に燦めく鳳凰の凛然たるその威容と荒ぶる人々の熱気。それに神輿の重さに圧せられ滴る汗に濡れれながらも、それを担ぐ人々の晴れ晴れとした爽快なる顔を愛していたのである。いまでは、彼は無惨な現実の深層に、幽かに霞み漂う聖なるものの姿、それこそ金色に耀く神輿の天頂に、森厳として佇む鳳凰に象徴される彼が夢見る気高い幻影を愛していた、と言ったほうがいいのかも知れなかった・・・・。

そうした夏が終わろうとしていたある朝、ニューヨーク、マンハッタン島にそそり立つ二塔のビルが相継いで崩落する事件が衝撃をもって報ぜられた。
 原因はよく晴れた朝の上空を飛行してきた二つの物体、流線型の金属が、互いに鏡に映るかのようにあい似た双子のビルの胴体へ、吸い込まれるように突っ込んだことによった。
 世界貿易センタービルと称されたこのビルにいた者たち、数千人が犠牲者となったこの大惨事は、リアルタイムの映像により全世界の人々を驚嘆させたのである。
仄聞するところ、マンハッタン島の数ある建築の中でもユニークな、この二塔の建築の設計者は広東省雲南出身の中国人であったらしい。少時を経てあたかも自殺でもするかのように、崩落したこの鉄とガラスと石とでできた大建造物が攻撃されたのは、その設計者の意匠に広東省雲南の迷信が込められているからだとの俗説が囁かれた。だが現代の最先端技術のアメリカに起きた惨事に、このような根も葉もない迷信が結びつくとは、いかに不安の世紀とはいえ、なにか得体の知れない異物を嚥下してしまったような、容易に拭い得ない心理的な瘢痕が全世界に残った。
 水村もそうした瘢痕に囚らえられた一人であるといってもいいかもしれない。
 アメリカ大統領は、直ちにこの出来事を自国への宣戦布告として、「ナラズ者国家」と見られる仮想の「敵」への戦闘の開始を宣言した。これをもって第四次世界戦争が始まったという特異な解釈を下したのは、既に物故したフランスのジャン・ボードリアールという特異な思想家であった。この思想家はこの惨事の直後、自国の新聞に、この事件は世界が欲望していたものだという趣旨の小論を寄せた。このため、テロリズムを擁護するイデオロギストだという、激しい非難の矢面に立たされたことを、水村は読んだ本から知らされた。「悪」がこころの闇に広がりだし、それらが地雷のように世界のいたるところで爆発しだしたのだ。
 あの見えない「敵」を相手の、アメリカ大統領宣言の「戦争」の開始以来、世界の「安全」が過剰なくらい厳しくなっていることを、水村はそれ以来身近に感じだした。どこで何が起きても不思議ではない時代が、すぐそこまで来ていることを、彼は敏感に感じはじめたのである。誰もが身をすくめ、息を殺して暮らさなければならない不審の時代になったのだろうか。「自由」は「透明な檻」のなかでの「自由」でしかなくなり、「欲望」でさえもはや宣伝や広告の巧妙なキャッチ・フレーズに差配されている現代という時代を水村はある種呪うような思いで過ごしていた。

 「文武両道」に水村が「理想」を描いたのはそのような時代の空気と世相へのささやかな抵抗であったのかもしれない。だがこの「理想」の実現ほど難しいものはなかった。「文」も「武」も、女と男のように生まれつきその性格と構造が異なるものである。それをその時々の社会的な要請に合わせて、採取した「精神」なるものが「武士道」と呼ばれて、称揚された時代があったのだ。実践を踏まえた「五輪書」は別とし、「葉隠」しかり、「武道初心集」もしかりであった。紛い物の「文」と「武」の合金の摸擬刀と同類である。
そして、ほんものの「文」と「武」は反対側に顔を向けた双面神の仮面のように、背と腹は一体となって息づいていた。ただそれを扱う人間の「心立ち」によって、いかようにもその現れを変幻させるのである。その神妙な機微を、気・剣・体の一致と居合のせかいでは簡単に表するが、「心」の姿が「技」を通じて発現するこの秘めかくれた秘事を知る者だけが、「文武両道」の花を咲かせることができるのだ。この「花」こそ日本刀の魅力に秘められた花に通じ、それはまた日本人の歴史の心底に、月影の淡い光のように映じていたものであった。

 ボードリアールの言う「第四次世界戦争」(氏は(「冷戦時代」を第三次世界戦争と考えていた)が始まった同じ頃合いである。東京新宿歌舞伎町にある、さる居合の道場において、いつも通りの稽古が始まろうとしていた。
 どうしたわけかその日、稽古の定刻時に来ていた者は男三人だけで、まだ先生の姿は見えなかった。仕方なく三人は稽古を始める最初の礼法を終えた。そこに女性二人が遅参したのである。世話人の判断で都合五人が四股の刀からの基本稽古を終えた頃合い、先生からの連絡が世話人臼井の携帯電話に入った。人身事故で電車が少しばかり遅れているから、自主稽古でもやっていなさいとのことである。
 道場は歌舞伎町でも西部新宿線沿いに近い東京都の古い病院を解体したあと地に建てられたビルの一角にあった。線路の反対側の真向かいには、最近建てられた立派な精神病院の白亜のビルが聳え、その硝子の側面に水村たちの道場の入ったビルが映るのを、水村はまるで自分を鏡で見るように眺めていた。それはビルのなかにもう一つのビルがあるかのようみえた。
 水村が利用する稽古場は、手狭な部屋で天井が低いため刀を振り上げるには不便であったが、正面には幅広のよく磨きたてられた鏡が、道場の隅々、素早く動く人間の一瞬の影まで見逃すことのない正確さで、隈無く照らしているのである。
 五人は正面の鏡に向かい、互い違いの千鳥の位置に座を占め、先生の指示通り思い思いの自主稽古を開始した。狭い道場はいつものような静かな気迫に満ちはじめた。
 そのとき後ろの入口から、先生の姿が正面の鏡に映った。はっきりと折り目のある白袴姿で正面に進む先生は、薄暗い道場の床の上を、あたかも一羽の白鳥が氷上を滑るかのような美々しい威厳を放ち、目は深い落ち着きを溜めて輝いていた。さすが全日本居合道大会で連続三回の優勝を制覇した名人の風貌が窺えた。
 世話人の臼井が基本稽古を終え、自主稽古に入っている旨を先生に伝えたが、その間も、先生の床に落ちた目は五人の弟子たちを動きを見過ごしていることはなかった。鏡の中に先生を見た瞬間から弟子たちに、ある緊張が走るのが感じられのは先生の身体から漂う武道の指導者独特の「目」というものであったのかもしれない。さように先生の存在は道場の空気を一変する力があった。どんな動作も先生の目を逃れられなかった。一挙措一動作も先生の厳しい検閲を受けずにはいないのである。黙って先生が側を通っただけで、無言の圧力と諫言が弟子たちの身体を縛るようであった。先生がいないときは自由にできた形が、その目を意識した途端に、急にぎこちなくなるのをどうしようもないのである。先生の目の前では、自由というものはこの世からなくなるのである。従って勝手気儘な「個性」などという現代がこぞって尊ぶ観念は、先生には無用の長物であった。
 先生曰く。稽古のときは多少失敗をしても大きく、かつゆっくりでもいいから、正確にやりなさいと。弟子たちみな一人ひとり、そうしているつもりである。だが先生の言う通りにはいかない。蛇に射すくめられた蛙のように、思うように身体が動かないのである。それを見て堪りかねた先生は、太い声をさらに野太くした声で言う。
「みんなよく見ておきなさい」
 豪快で優美、正確無比の先生の演舞を、皆は正座し目を見据えて見まもる。微動だにしない下半身、柔軟敏捷なる体捌き、正確な刀法と手の内による、乱れることのない剃刀のような刃筋が、「敵」を一閃のうちに斬撃するかのように、刃先にまで魂が宿っているようだ。一滴の血も流れていないが、先生の前後左右に「敵」は完膚なきまでに斬り殺され、成仏しているのが見えるようである。
 その最中、小さな放屁の音が正座している五人の弟子の一人から洩れた。その瞬間、道場の緊張した空気は、嘲弄されたように弛緩した。誰もがその音を耳にしたはずであった。が、誰も聞こえなかったかのように、それを黙殺し端座していた。やがて先生の迫真の演舞は終わった。
 こうした先生の見本を幾度見たか知れない。動く先生の身体の形を目に焼きつけようとする。だがいざ自分がやってみるとそれができないのである。
「やろうとしないのか、やれないのか。言ってやり、これほど見せてやっているのに、同じことができない。これはどうしたことなのか!」
 大きな鏡の前を、先生は行ったり来たりしながら、大いに嘆息する。少しづつ怒りが膨張して声の音量が上がっていく。たまに舌がもつれる。すると先生は、自分で自分のほっぺたを手ではたく。
 馬のように大きな顔である。太い腕に大きな手の平、五本の指は大仏様のように太いのである。袴の下には丸太のような足が五本の指で床を鷲づかみにでもしているようだ。そして時々ではあるが、ややおおきめのげっぷをする。たぶん酒の飲み過ぎなのであろう。
 先生が一生懸命なのに、弟子がそれに充分に応えられない。天才と凡人には千里の径庭があることを、これほどに思い知らされるときはない。
「君たちは、私に何度同じことばを言わせるんだ!」
 先生の声は荒々しく、廊下まで響くらしい。それでカルチャーセンターの事務局より、偶にご注意をうけているらしいのである。
「ああ、神様! 私はどうすればいいのでしょう!」
 とうとう、先生は膝を折り、大きな両手の指を合わせて天を仰ぐ。先生はただの峻厳なだけの堅物ではなかった。どこからともなく飄逸なユーモアが漂い、思わず口から笑いがこぼれるのをどうしようもないときがある。時折、先生の洩らす冗談にはなんとも言えない機知があった。それがどこか鷹揚な笑いを含んだ一流のものなのである。話し方には名人の噺家のような間があり、それはある落語家に似ていると、秘かに水村は気がついていたが口に出せなかった。その既に物故した有名な落語家の間の取り方を先生は秘かに学んでいたのか、自ずからそのような間が生まれたのか分からない。
 先生はいつも口を酸っぱくして、「間」が大事である、「序破急」がなければならない、太刀さばきは一本調子ではなく「強弱」「緩急」が必要だと言い続けているのである。従って「この間抜け!」と罵倒されることがあっても、それは居合いの稽古上のことと甘受しなければならないのである。その上、先生の使う日本語の的確さは、生半可の国語の先生は穴があったら入りたくなるほどのものであった。
 正座し口を堅く結び歯を食いしばっていた世話人の臼井を含め、その日稽古に参加した五人の弟子たちから、思わずに笑いがこぼれずにはいない。
「笑っている場合か、馬鹿ものが! もう審査には幾日しかないのだぞ。段なぞ欲しがるから、こういうことになる。運よく段を取っても、基本ができてない者にその先はないのだ。基本とは気・剣・体の一致だ。いつまでも刀を振り回しているのでは、永遠に居合いの世界は遠いのだよ。すこしは恥ずかしいと思いなさい。高い金を払って毎回、同じことを注意されて直そうとしない。あんたたちのやっていることはだな、そのへんのおっさんを呼んできたってできることなんだよ。どこに段持ちの技があるんだ。どこに四段の手の内が見えるんだ!」
 先生は段々弟子に愛想が尽きかけている。もう多分、一人か二人を除いて弟子と思っていないのかも知れない。
 カルチャーセンターでやれることは限界がある。それにしても、既に先生の教室は、とてもカルチャーの域を超えているのだ。
 定刻の時刻を過ぎていた。熱がこもると時間を忘れてしまう性格があった。
「はい! 今日は終わり」そう言って世話人である臼井の顔をみた。後は世話人による、終わりの刀礼、即ち起立しての神前への礼、そして正座しての先生への礼とお互いの礼、をもってその日の稽古は終了となるのである。

 すでに夜は十時に近い頃合いである。激しい運動の後の喉の渇きを癒すため、新宿歌舞伎町の雑踏を模擬刀を持った数人が歩いていく。ふとしたはずみで先生の躯が、ヤクザまがいの若い衆数人の一人と触れたらしい。顎の張ったいかつい顔をした男が、怒声を上げて先生にすごみかかった。
「どうしたのかね」
 後ろ姿しか見えない先生のやや太めの声が、背中越しに聞こえてきた。だがやや腰を落とし、丸い肩のままの先生のその姿には、なんとも言えない殺気が漲っているような気がした。先生の顔を一瞬見たと覚しき先頭の男の顔が急にひしゃげ、まるで目くらましに遭ったように、今さっきまで怒気に燃え血走っていた目はしおたれて、すでに腰は後ろに退け、先刻、先生に挑みかかった烈火のような勢いは微塵も見られない。そのうち若いヤクザ風の一団の輪は乱れ、雑踏に紛れて蜘蛛の子を散らしたようにいなくなった。

「覚えていろよ、この仇はいずれとらせてもらうぞ!」
 そのひと声がネオンに瞬く繁華街に、あたかも夜の闇をつんざく鴉の声のように響いた。万華鏡をのぞいた一瞬、砕けた鏡の一面に不気味に散る花に似た色紙のように、その声は繁華街の闇に鋭く細く光るネオンのごとく燦めき散ったので、その負け犬の遠吠えにも似た怒声に気を止めたものはいなかった。だが水村の耳の奥にその声は消えずに残ったのである。
 何事もなかったように、先生はすでに前を歩きはじめていた。
 酒場に座ると早速、世話人の臼井がヤクザ者が先生の前で晒した醜態を話題にしはじめたが、先生はそれをすぐに制止した。
「つまらん話しはするな。酒が不味くなるではないか。居合いはああいう者とはなんの関係もない。できるだけ敵との立ち合いは避けることが居合いの本領だ。抜かないで勝つことが一番。勝負は鞘の内にあると、いつも言ってるでしょうよ。居合いとは人に斬られず人を斬らず、己を責めて平らかの道のことなんだよ。君たちの居合いは、ただ斬ろう斬ろうという気持ちが先に立っているからだめなんだ。刀は抜くものじゃないよ。自ずと抜けるものなんだ。日本刀になんのために反りがあるのかね。この反りのとおりに、ただ刀の重みにしたがって振り下ろせばいいことではないか。そのために体をどう使えばいいか。手の内をどうすればいいか。それを考えながら練習しなければ、君たちの先はないのだ。刀を握っている右手などないと思いなさい。左手、左腰、左足をいかに使うかだな。ただの一太刀で敵の戦闘の能力を殺げばいいのだ。先の後、日本国憲法の専守防衛みたいなものだな。はい、終わりだ終わり」
 先生はすこし余計なことを言い過ぎたとでもいうように、バツの悪そうな表情をみせた。
 それから一同生ビールの大ジョッキを上げて乾杯し、乾いた喉に我先にと生ビールを流しこむのである。
 臼井は現在四段で、来年五段の昇段審査を控えている。昇段審査は先生の承諾がなければ受けることはできない。世話人はその道場での先生からの連絡や雑用を一手にやる立場であり、その役目をこなすことで先生の覚えが愛でたければ、昇段審査の許可は得やすくなるのだ。比較的に時間の余裕がなければ世話人はできないが、臼井は親の資産がありそれほど日々の生活に縛られていない身分から適任者といえた。だがさほど生活の苦労をしていないか、その必要がなかったせいか、世話人を買ってでるのはいいが、好き嫌いが激しいところがある。もう十年も突き合いのあった先生は、些か子供じみたところのある、臼井の性格は知り尽くしていた。
 先生は人間観察においても群を抜いていた。命のやりとりを想定した「武」の世界では、油断は禁物であった。自分がつきあう人間が、どんな性格でいかなる信条の持ち主であるかを、その刀捌きや言動から見抜く心眼が自ずから養われる。世話人は道場内の一人一人の情報や噂に耳を傾け、道場の空気と秩序が乱れぬように気を配っていなければならない。その上で公平無私である必要があった。なぜなら世話人の先生への耳打ちひとつで、先生の弟子への見方が差配されることになる可能性は、先生とて人の子である以上、それは捨て得ないからである・・・。
 ある日、水村はカルチャーセンターのあるビルを横目に通りぬけ、新宿歌舞伎町の中程に店開きした一軒のマッサージ屋へ直行した。居合いの稽古に熱中したことにより、痛んで軋む体中の筋肉をほぐし和らげようとしたのである。その店は水村が偶然に見つけ、一度試みに全身を揉んで貰ったことがあったところであった。殆どが韓国人ばかりの若い店員の中に、一人の中国人がいた。その女のように艶めかしい男のマッサージは水村の筋肉をよく解してくれたのである。その日まだ稽古には時間の余裕があったため、水村はその店へ直行して、早速、その男を指名したのである。その店は道端から、店内の奥まで見通せ、そのあたりでは予想外にこぎれいで感じのいい環境であった。しかし、水村がその店へ急いでいるとも知らない臼井が、歌舞伎町の中へと走るよう歩いていく水村の姿を垣間見たらしかった。先生がめずらしく水村の側へきて囁くように言った。
「今日はどこかいい処へ行ったらしいな」
 先生はニタリと嫌味な笑いを顔につくり、水村を一瞥するとぷいというようにそっぽをむいた。白井が先生の演舞の最中に放屁した犯人が水村であると既にご注進していたが、自身が「風俗」好みの臼井が先生へどんなことを囁いたか、それは分かり切っていた。また、この近辺ではそのような忌むべき誤解も仕方がないのかと、一言の弁解もせずに水村はこのような笑止千番な誤解を、軽侮の念をもって黙殺せざるをえなかったのである。

 水村が三段に昇段したときのことであった。臼井の助言で先生へ感謝の寸志を包み、またこれも臼井の采配で、一緒に昇段した他の者二人と共に先生が喜ぶ酒類を贈答したことがある。どうした行き違いか、水村が酒を贈り、他二人が缶ビールの詰め合わせを贈り物とした。
 その数日後のことであった。終わりの礼が済み、皆が道場から退出しようとしているときであった。道場の床で刀の手入れをしていた先生の口から、奇怪なことばがこぼれたのである。
「先日、ある者が私の家に贈答品を送ってよこした。君たち何を贈ってきたと思うかね。酒だ。酒!」
 水村は怪訝な思いで先生のことばを聞いた。刹那に水を浴びせられたような思いで呆然と先生の表情をうかがった。
 その顔と目付きは、とても稽古中の先生のものとは思われぬ不透明な靄のようなものに被われていた。
 季節はまだ夏のことであったから、酒ではなく他二人と同じ缶ビールの詰め合わせにすべきところを、水村だけから違うものを贈られたことが、先生の不興を買ったのであろうか。
 昇段の感謝からの寸志とは別に、なにか先生が喜ぶ贈り物を自宅へ届けることは、以前からの暗黙の慣いらしく世話人臼井は、その慣いを三人へ伝えたのであるなら、何を贈ろうと問題になるはずはないことであった。水村は偶々以前にも贈ったことがある特別高価とはいえないまでも、あまり見かけない珍しい銘柄の酒を二本贈っただけであった。
 それどころか、以前にはお歳暮の酒を先生に贈ったときには、人前を憚るようにして、先生から感謝のことばを戴いたのである。それが今度にかぎり水村だけを、役人に袖の下を贈る不届きな業者同様に扱われ、道場で弟子たちがいるところで、厭みをこめた口調で俎上にあげ、これみよがしの披瀝までされたのである。
 この先生の真意が水村は掴みかね、ふと出口へ運びかけた足を止めた。そのように皆に聞こえごなしに、先生の口からの不興をぶちまけられる結果になるとは、どういう風の吹き回しか、どうにも腑に落ちかねたのであった。臼井の謀りごとであったか、水村の勝手な独断が先生の気を殺いだのであろうか。なにか計り知れない人の心に巣くう悪意の霊が、偶々先生の口から噴きだしたのであろうか。いずれにしても狐につままれたような出来事であった。
 それ以来、水村の先生を見る目には、そうとは意識されない薄い軽侮の膜が、先生への畏怖と敬愛の胸ぐらを、あたかも鏡の銀箔が寸分の隙間もなく表の鏡と背中合わせに貼られるがごとくに、ひろがりはじめていたのである。その水色にかすむ靄は、師弟の関係を微妙に曇らせ、狂わせるものへと徐々に変貌する要因になろうとは、水村当人にも意識したことはなかったといっていい。しかしそれいらい、臼井にたいし水村はその目を避け、正視できないこころのしこりを残し、臼井も臼井でなにがしら水村を疎んじる、白々とした空気が漂いだすのをどうしようもなかったのである。
 このような小事の積み重なりが、次第しだいに円滑な人と人との関係を毀損していくのだが、武道という精錬潔白を旨とし、師弟関係を一義とするせかいに、微妙かつ深刻な蔭を落とすことになろうとは、当人もふくめ誰一人思いまねこうとする者がいないとは、なんという腐りきった「武」のせかいとなりはてたものであろうか。いや、あまりの独断と根拠のない速断は控えねばならない。これがいまの世ではあたりまえのようになりはじめたのだと・・・・。
 そして過去の稽古場での忍辱の一齣一齣が、水村の胸を過ぎっていくのだった。その度に煮え湯を浴びせられたような思いを再び味合うのである。
 ときおり稽古中に家人からの電話が、先生の携帯を鳴らすことがあった。
「いまは稽古中だ。こんなときに電話などかけてくるな!」
 先生は家人を一喝して電話を切った。その顔には苦々しい嫌悪がうかんだ。そんなことが数度にわたっていたのである。
 水村はその電話と先生の態度に不審に思ったが、それほど気にもとめずにいた。だが水村が稽古の欠席を告げるため、先生の携帯の電話に連絡を入れたことがあった。偶然その電話に出たのは、先生の奥さまであった。水村は簡単に用件を告げ、その旨の伝言を先生に頼んだ、ただそれだけの短い電話をしただけなのである。
 それがどうしたことであろうか。つぎの稽古へ出た水村へむかって、先生の怒りが飛んできた。いつのまにか先生は、自分の携帯を奥さまに譲り、そうとは知らず先生の以前の電話番号にかけた携帯に、奥さまがでてしまったのである。水村の手違いとはいえ、そのときの先生の怒りようは一様なものでない、異様に屈折した怒りがみえた。そこにはなにかの秘密を、水村が先生の奥さまにご注進に及ぶがごとき疑惑がこもった、とげとげしい口吻があった。先生の携帯電話がいつの間にか、奥さまの手に渡り、先生の携帯の番号が新しくなっていることは、水村も知らされていたが、旧い番号を消去しておかなかったことは、水村の失態ではあったのである。ただのちょっとした間違えの電話を、先生の奥さまにかけてしまった、ただそれだけのことに、なぜ口汚く罵られねばならないのか、水村は呆気にとられた。また、そのような個人的な感情を弟子に向かって露わにすることはめずらしいことであったのである。
 そのような時期からのことであろうか。世話人臼井の携帯電話に、稽古の時間に遅れるとの先生の伝言が頻繁に入りはじめた。小心の臼井はその電話に出るのが遅いと叱責されてから、稽古の開始時間が迫ると携帯の鳴る音に過敏に神経を集中する姿が、甲斐甲斐しくもあり、その忠犬ぶりを憫笑さえする者もいたのである。そして遂には先生のいない自主稽古となる日が頻繁になりだしたのだった。
 臼井の声に始まって、四股の刀の基本が一本二十本から三十本づつ、弟子たち一人びとりの掛け声で終わると、狭い道場にやけに白けた空気がただよい、気の抜けたような弟子たちの身振り、動作を映す正面の鏡のみがそれらの淋しいにぎわいを冷然と見下ろしているようであった。
「偶には自主稽古もいいものだな」
 張りのないつぶやくような臼井の声も、黙々と帰り支度をしている弟子たちの背中に虚ろに響いた。
 考えてみれば一回数千円の会費を納入しているこの教室は、カルチャーセンターであり、先生個人の道場ではないのであったが、誰もそれを不当に思うものはいないのである。偶にカルチャーセンターとの気軽さから入会する新規の高齢者がいたが、少数精鋭の道場を目指していた先生の指導は、あからさまとは言えないまでも、こうした生徒を容赦なく篩いに落とした。
 先生のいない稽古後の酒は不味く、弟子たちはそれまで見せたことのない顔を曝しだした。話題は最近になって増えてきた女性会員の品評会に及び、聞くに堪えない下卑た冗談が交わされた。が、誰も先生が特別に目をかけている一人の女性の名前だけは、禁句のように発することはなかった。それを言えば、そこに先生の姿が勃然と現れ、根拠もない醜悪な想像が浮かぶことを、誰もが忌避したからである。
 さすがの臼井も話題を変えた。既に生ビールの大を五杯も空けて、もう充分に酔っている臼井にしてはめずらしい機転をきかしたものである。
「どうだ。最近、東条の奴は稽古に来てないが、秋の昇段審査は大丈夫なのかな」
 臼井が東条の昇段を心配していることでないことは、誰もが知っていた。なぜなら、臼井と東条は犬猿の仲で、ろくに口もきいたことがない関係なのである。
「どこかで特別稽古でもしているのとちがいまっか」関西の大学の剣道部にいたこともある森田が口を挟んだ。
「当日、突然現れて合格する手合いもいるからな」臼井が嫌みな笑みを浮かべて言った。
「でも五段の審査ですけ」わざわざ変な物言いをしたのは、三段の吉岡である。
 映画や漫画の影響からか、居合いを習いたいという人間が近頃急に増えだした。全剣連居合道連盟は、こうした動きをみて審査の判断を厳しくしだし、四段もそうだが五段は相当の実力を要請されるようになったのだ。のっぺりとした吉岡の顔には、女のような眼鏡がのっていたが、相当に酔いつぶれて背中が前のめりとなり、傾いだ眼鏡がずり落ちそうである。まだ若いが若年寄りめいた狡猾な手合いの吉岡は、先生の提灯持ちをしているせいでか、先生の受けもよかった。剣捌きも先生の言うことを素直に真似る要領のよさもあるが、「おまえの剣には蠅が留まる」と先生もその手弱女ぶりにあきれていた。
 以前、東条はその稽古熱心で皆の秘かな賞賛を買っていたが、世話人臼井との確執から次第に足が遠ざかるようになっていることは、皆が問わず語りに知っていたことであった。また、勤めている会社の勤務も厳しいらしく、審査が近いといって稽古に来る時間もとれないのだろうと水村は思ったが、それは口には出さずに胸にしまいこんだ。
 このように荒れた酒の席では、居ない者が酒の肴に悪口雑言の限りを尽くされることはよくある光景であった。例え先生がいたときでも、そのようなことは時折みられたことだったからである。
 先生は善人でも悪人でもなかった。その両面を合わせもっていたにすぎない。たぶん人生の表と裏を知り、その辛酸を味わってきたのにちがいない。剣の名人は「人生の達人」でもあったのである。そこに面妖な先生の顔が潜んでいた。剣の極意である「手の内」に熟達するとは、そういうことでもあったのであろうか。
 仮想敵を相手にした居合道の審査がいかなるものかを先生はよく知っていた。
 技の形を見る目が審査の判断を決する。減点法が審査員の判断を左右する力で優勢となるのは自明であった。減点にすべき眼目は予習され訓練されているから、審判の神経は減点の対象へと集中する傾向は必至となる。この結果、昔の禅宗の老師が遺訓として残した「葉を摘み枝を尋ぬる」の風、いわゆる枝葉末節に目が注がれ、技の全体を見る目が衰微するのは自然の流れであった。他方、技を見せる方といえば、いかに自分の技を審査員へアピールするかが重要なポイントとなるのだ。
 測りがたい一個の意志を持つ「他者」、命の遣り取りが賭けられた烈しい殺意がみなぎる剣の一閃はここにはない。無惨に斬られ倒れる「敵」は現存してはいないのである。全体とはその不在の「敵」をも演舞者と共に見ることができる目そのものである。表と裏、生者と死者を同時、同等に見る目、いやこころといったほうがいいのか、そういう「無限」を抱懐する知覚が「武道」の心底に脈々と伝えられてきたはずであった・・・・。
 ここに現代の居合の宿命と陥穽があった。先生はそれを知っている、いや知っていなければならないと水村は思った。人を斬ることを教える者が、敵対する生身の人間との死闘を経験し、その肉体を余儀なく斬り殺したことがないとは、なんという夢想、背理のせかいであろうか。これが現代の「武道」の美しくも無残な姿なのかと。
 こうした愚かといえば愚かな妄念と短慮、独断と盲信が水村の胸中に兆し、ふつふつと育ち蟠りだしたのは、先生への尊服と不審が輻輳しながら根をはりだした時期とちょうど符節を合わしていたのである。
「肩にそんなに力をいれてどうしようというのだ。居合いにポパイのような筋肉などは必要がないと言ったでしょう。居合いは瞬間の芸なのだ。ゆるゆると淀みなく、カミソリでような刃筋をもって、対手の害意を殺げばいいだけのことだ。汗をかく必要なんてないのよ。ひとさし舞い踊っても汗をかかない。日本舞踊の心得と同じだ。ただ強く行き当たるをば下手というのだ。手で斬るな、足で斬れ、足で斬るな、腰で斬れと言うでしょうよ。中国の木鶏のたとえ話などは敢えてしないが、闘おうとするこころなどさらりと捨ててしまいなさい。刀は鞘に収まっているのが一番いい。無事これ名馬だ。これはみんなに言っている。他人事と思っているんじゃないぞ!」
 こう言い置いてから、先生の鋭い眼光は辺りを睥睨した。
 まるで水村のこころのうちを見透かしたかのように、世話人臼井への先生の叱責は、また彼の肺腑を抉るように思われた。顔を真っ赤に充血さした臼井は、蛇に睨まれた蛙のように床にからだを凝固させたまま、子供っぽい顔を苦虫を噛んだようにつぶしている。
 先夜の自主稽古あとの酒宴での会話を、先生は誰からか洩れ伝え聞いたのかも知れない。その日の世話人臼井への風当たりはばかに強いように思われた。提灯もちの吉岡ならあることないことを先生の耳に囁かないとも限らない。
 その水を打ったような道場の静寂を、先生の後背を映じた幅広の鏡面が、嗤いを殺してみつめているような気配を水村は感じた。まるで獣が透明な水面に巨大な眼を開いて、ジッとこちらを見ているような不気味な気配を覚えたのだ。

 九月に近い八月の午前の太陽が、窓から差し込み床を焦がし、その強い日照りが鏡に夏の陽に輝く海のように広がっている。
 ああ海と、水村はこころのうちで叫ぶように独り言ちた。もう七年も海に潜っていなかった。冷たく爽やかに彼を抱擁し、沈黙の別乾坤へと誘い、彼の魂を解放してくれる海。色鮮やかな小魚が、珊瑚の林に群れ綾なし、透明な青の宇宙を遊泳するあのこころ洗われる自由と恍惚の感覚。光り耀く穏やかな生命の楽園は、彼を平和で幸福な瞑想へと誘うのであった。いや、それは夢想であり、なにか恋情にも似た深い無意識に育まれた情熱であったのだ。
 パラオ、インドネシア、タイ、フィリッピン、オーストラリア、スリランカ、紅海、そしてキューバと、彼は日本の沖縄、小笠原から海外の海までのダイビングを三十年にわたって愉しんできた。がある不快なことがあってから、その海から遠ざかっていた。畏怖し愛すべき海という自然の中にも、腐りきった人間関係が入り込むのは避けがたいものなのである。
 あれは真っ暗な夜の海であった。忌むべき男の足が水村の首に絡まり、空気ボンベの鋼鉄が水村の顎を撲った。その不意の攻撃に水村は男の悪意を読み取った。水深は二十メートルを超えていた。秘かに水村は男の背後に回りこんだ。それから、ソッと腕を伸ばして男の背負っている空気ボンベの栓を締めた。
苦しみ悶える男の声が海の中に聞こえた。
やがて男の沈黙は夜の海の沈黙に消えていった。
それは水村の見た白昼夢であった。

 いま居合いの稽古場を照らす鏡から、突然に過去の海の記憶が走馬燈のように甦ったことに不思議な思い捕らわれていた最中、彼の眼前、額に触れるかのように、鋭い剣先が突き出されているのに気づいて、水村はハッと我に返った。
「おい、いまおまえはなにをボーっと考えていたのだ。俺の話を空耳で聞いていたのだな。俺を無視し、シカトしたいならするがいい」
「いや、ちがいます」という水村の咄嗟の弁明の声も耳に届かなかったかのように、先生は水村の眼前に突きつけた刀を鞘に納めると、踵を返し水村に背中をみせて遠ざかった。
「よし稽古をつづける」と大声をあげた先生の視線の中に、水村の存在は完全に消えていた。彼は力なく残りの稽古を呆然と終えると
いつものとおりの御礼のことばを出口で発し稽古場を退出したが、それへの先生の応答は無言であった。
 彼が師とする無想直伝独信流七段の先生曰く。稽古とは古を学ぶことである。学ぶとは真似ることだ。がこれが難物なのである。古とはなにか。現にない過去である。過去を学ぶことを現代では歴史というが、歴史が書物にあるなら簡単だ。しかし先生の言う古は師の口伝によるほかは習うこと、真似ることができない。
 居合いは遡ること四百年前の室町時代、奥州の林崎甚介重信によって工夫完成された剣法である。しかし、現代における居合いの剣法は、五段以上を除き、ほとんどが真剣によらない刃のない合金の模擬刀をもち、鏡に対面し、あるいは鏡なしで「敵」を仮想して行われる以外ないのであった。従って居合いの技が競われるのは、いかにこの存在しない仮想の「敵」に肉薄し得るか、その形がどれほど真実に「敵」を一刀のもとに斬り倒しているかの模擬の演技が判定されるのである。「敵」は想像された虚像でしかないが、その「敵」をいかに実像として的確・有効に斬っているかが審査の基準になるのだ。「文」と同じ虚実皮膜の世界がここにも見られた。「試合」もそのような「形」が審査の判断となるのである。いない「敵」をどれほど実在せしめ、見えない敵をいかに見るかに居合の生命がかかっている。鏡に映る自分を「敵」と仮想しながら、しかも鏡の中に「敵」がいることはない。鏡を見ても鏡を見てはならない。稽古の中で仮想の敵をつくる「目つけ」がよくよく重くみられたのはこのためであった。虚空に「敵」を描く闊達なる想像力が、居合の世界を保証していた。こうした存在と無の二律背反を背負った世界が、現代の居合いの世界なのだ。制定十本目の「四方斬り」の仮想敵は四人である。現実に四人の敵陣へ入り、寸時にその全員に勝利するには、どれほどの剣の技能が要求されることだろう・・・・。

 依然、東条が稽古場に来ることはないままに昇段審査の日がやってきた。当日の審判長は先生であった。会場の隅に、臼井の緊張気味の顔が見えた。そこから数人を隔てた後ろに東条の姿があった。

「やはり来ましたよね」
 メガネの吉岡が、隣にいた森田に囁いた。
「どこかでこの日のために稽古をしてたのとちがうねん」
 森田の関西訛りが聞こえた。
 大学の剣道部にいたことのある森田には、吉岡の臼井寄りの言動はどうでもよいという男らしい恬淡が窺えた。勝負は勝てばいいので、ねちねちした人間関係には関心がないらしい。だから森田の剣捌きには、蠅がとまるような吉岡のそれとは対照的に、斬りつけ、斬り下ろしには爽快な迫力があった。道場の鏡に細い一筋の瑕を残したのも森田だった。
「よく割れなかったものだ」
 先生が感心して、その瑕を指で撫でて言った。
「この鏡を割ったらおまらの一ヶ月分の給料は飛ぶぞ」とはいつもの先生の口癖であった。このとき、水村は夏に数泊した民宿の前に
満々と水を湛えた人工の湖、そこで見た一枚の写真をふと思いだしていた。
そして、池の水の中をのたうつ大きな魚が、水面を光りで燦めかせる光景を夢想した。すると道場の正面に蔽われた鏡が、あたかも水鏡にさえ見えはじめるのであった。
 審査は五本の技を抜いて見せ、六人の審判員がその審査にあたる。五本の内一本は、制定ではない古流の技を入れるのが要件。制限時間は六分以内で完了しなければならないルールである。
 会場はざわめきに満ちているが、そのざわめきの中に審査時独特の緊張が張りつめている。会場の所々で、自分の決めた技を手刀でシミレーションする者、鞘引きの訓練をする者が見え隠れする。座禅を組んで精神統一をはかっている者もいた。
 五本の内、但し四本の指定技は、当日の直前に発表されることになっている。会場に「三」、「四」の二本の座り技と、「六」、「十二」の立ち技二本の指定技の声が響いた。「受け流し」と「柄当て」、それに「諸手突き」と「抜打ち」の四本が指定技となった。場内が一瞬ざわめいたがすぐに鎮まった。五段以上の審査は、摸擬刀ではなく真剣を使わなければならない。めったにあることではないが、抜刀や納刀に失敗し左手、左指を傷つける者がないではない。また安全のため改めて目釘を確かめる必要もあった。斬りつけた途端になかごから刀身が飛び出した事故が最近どこかで起こったからである。
 「始め!」という号令と同時に、胸にゼッケン番号をつけた受験者が、携刀から礼法に入るのである。いや所定の位置に進みでるこのときの姿勢や歩き方から既に審査は始まっているのであった。目は「遠山の目付」というやや薄目にして四方のすべてを視野に治め、歩行はお能の演舞者のように床をするがごとく、足裏はみえてはならない。指定の技いがいの残り一本は、古流のなかから各自が自由に決めることができる。ほとんどが古流の初伝一本目の「初発刀」から始めるものが多い。先生のいうことでは、この技に居合いのすべてのエキスが込められているとのことである。この最初の抜き付けの一刀必殺の鋭さが居合いの生命であり、これを見ただけで居合いの修行の深さを見ることができるというのである。
 さすが五段ともなるとそれほどの甲乙はつけがたいようであるが、そこに審査員の評価が下り、審査員の目が逆に試されるのである。この最初の一刀ではねられた者は、残りの技を見る必要もないとまで言われていた。
 開始線のテープを貼ったところまで携刀姿勢で右脚より進み出た二人は、神座への拝礼を行った。このとき、左手から右手へと刀を移し、右手に下げられた刀身の切先は前下がりに軽く提げて微動だにしてはならないのだ。礼は腰から上半身を、首を曲げずに前に倒し恭しい拝礼をしなくてはならない。この際首を落として後襟をみせる無様なまねをしてはいけないのである。つぎに正座をし袴の裾うしろを右手で左右にしずかに捌く、足に袴がからまぬようにするためである。既に仮想の敵は眼前に見えていなければならない。つぎに左腿の上にある左手の刀の鐔棟側に右手親指をかけ、右膝頭の前方へ右手首と肘の長さの間隔に鍔を、こじりは手前に引き置き、下緒は刀の棟に添ってそろえるのである。
 居合いは礼に始まって礼に終わると言われているので、これらの礼法に一分の疎漏もあっても、昇段は覚束ないのである。
 稽古を充分にやれなかった東条に多少迫力がないようにみえたが、減点の対象になる動作は窺えない。臼井についても少しく固い身体捌きはいつもの癖だが、これといった瑕瑾もみえない。指定三本目の制定の「受け流し」において臼井の技が、斬り下ろしの一瞬頭上で一瞬滞ったようにみえた。が、ここは難しいところであった。この「受け流し」は、敵の真っ向からの切り下ろしを、右手上方に上げた刀の鎬で受け流し、敵の体勢がくずれたところを、左足を退いて瞬時に袈裟で切り下ろす技であった。制定十二本の中でも、足の捌き、腰の入れ方、手の内をすべての技が、この素早い演技力を試される難度の高い技の一本なのである。即ち、真横からの「敵」の攻撃に即応し、踝を立て身体を起こし右肩上方へ抜刀し、斬り下ろしてくる「敵」の刀を頭上の鎬で受け流す、と同時に「敵」に向き直り、襲ってきた「敵」の左肩から袈裟に斬って勝つ技である。この一連の動作が淀みなく流れるように一瞬で終わらねばならないのだ。これが現実の場面で実際に行われ得るかは、甚だ疑問がないわけではないが、「敵」の初太刀をかわし、完膚なきまでに「敵」に勝つことを本願とする居合の極意が、この技に端的に現れていた。

 昭和四十四年に全日本剣道連盟が定めた現在の制定居合いの技は、そのすべてを居合いの古流から作られたものであった。竹刀剣道が次第にスポーツ化し、堕落とみえてきた風潮を刷新すべく、真剣での戦闘の技法を注入するため、全国の様々の居合道の流派の師範の面々が糾合鶴首し、ここに居合道制定の標準の型が決められた。古流は現実の中から生み出された剣法であるが、制定の標準は机上でつくられた「型」であり、それはいわば合金の摸擬刀に似ていた。「型」だけが重視されやがて「敵」を想像でしか想定できない「技」が、中身のない「演技」へと薄まっていくのは自然の流れであろう。摸擬刀で人を殺傷することはできないことはないが、真剣の「人斬り包丁」に比すべきもないのは明らかであった。
 前年の昭和四十三年が明治維新からちょうど百年、戦後二十年目の節目にあたり、この時、日本の安全保障問題を中心に国内では右翼と左翼が思潮的にも鎬を削りあいだした頃で、日本の近代が歴史的なターニングポイントを迎えようとしていた時期に、それは偶然にも符節を合わしていたのであった。
そして、昭和四十五年に上映された映画「人斬り」(五社秀雄監督)ほど、水村が居合へ傾倒してから現代居合への鬱憤を晴らしてくれたものはなかった。中でもその映画に出演した高名なる作家が演じた殺陣はほんの数瞬であったが、現代の居合から失われた日本刀の刀捌きと迫力の本質をみたように思われた。

 臼井の隣のグループにいた東条が、制定七本目の「三方斬り」から残心に入り、納刀の一瞬に刀が閊えたようにみえた。やはり稽古不足の感は拭えない一面が端なくも露呈したのであろうか。審判がこのわずかな納刀の動作をどうみたのか、それは分からないままに二人の審査は終わった。
 だが、その最中のことである。手前のグループで審査を受けていた者のなかに、左手から血を流している者があった。その鮮血は白袴の裾を染めている。それが水村の目に飛び込んだ。だが既に老年ともみえる出場者は、床に散る鮮血にもかかわらず、審査をうけつづけようと必死の形相であった。たぶん痛みも感じない精神状態での演舞をしていたのであろう。だが最前列に並んだ審査員の六人の目に、これが見えないはずはなかった。いや、その背後に控えている審判長の目が、その血染めの袴を見逃すはずはなかったにもかかわらず、なんの反応もそのけぶりさえみせなかったのである。
 負傷者の演舞を止めさせた者は、審査員でも審判長でもなかった。ぴーんと張りつめた会場に、ざわめきの亀裂が走った。やっと事態を知ったかのように審判長が、会場に現れ選手を場外に出させて救急班を呼びよせた。
「審査員はなにを見ているのか!」
「審判長はどうしたんだ!」
 審判を取り仕切る審判長をあからさまに非難する声が、会場の隅から聞こえきた。
 審判長はわが道場の先生である。水村は自分が嬲られたような痛苦と恥辱とに躯を震わせた。
 会場にのっそりと姿をみせた先生は、いつもの先生とはいえ、なにか別の世界から会場に現れたような、武張ったその歩きぶりは、鈍重で緩慢な挙措といい、審判長としてみなの顰蹙を買ってもおかしくはなかった。
 そこに見たのは、隙のない機敏にして繊細でさえあるいつもの道場にいる先生ではなかった。あたかも猿山の醜悪なるボス猿の姿そのものであった。
 そのとき、水村は会場の世話人の臼井と東条、森田と吉岡、そして先生が特別にこまやかに指導していた一人の女性と、その周りにいた数人の女たちの顔を、一人また一人と鷹のように鋭い目を開けて暫し見つめて沈思した。
 この数年水村は週に数回の居合いの稽古に全力を注ぐような生活をしてきた。先生からどんな罵声を浴びようが、それは稽古の上のことであった。一旦剣を手にしたその瞬間から、彼は俗塵のすべてを忘れることができた。畏敬しながらも齟齬の砂を噛まざるえない先生に対する憤懣に、彼は堪え忍ぶことができたのは、諸手に握る日本刀の持つある妙なる魅力にその源泉があった。だがこの醜態は、即ち彼の恥辱のすべてを呼び起こしてあまりあるものであった。同じように彼は町内の祭礼がいかに惰性と俗臭にまみれたものだとしても、神輿の天頂に羽根を広げる金色の鳳凰の凛としたその聖なる姿が存する限り、町の祭礼を愛し続けられたのである。そして、いかに彼を冷遇したとはいえ、剣の修行道を指し示した先生への敬愛の念は消えることはなかったのであった。しかし、この時、彼、水村の胸をうちを炎のように焼き、聖なる一筋の川を汚濁にまみれさせたものたちへの幻滅は大きく、かつ強烈であった。彼は自己と自己を取り巻くこの世界の全的な滅亡を願うほどに、それは彼の心を引き裂き打ち砕いたのである。
「鏖(みなごろし)にしてやるがいい!」
 そういう大音声が、水村の背後から暫しの後に幻聴のように聞こえてきた。それは水村の背後に巨人のように立ちあがり、水村自身をさえ圧するほど、傲然かつ烈しい怒声となり彼の身内を熱流のように駆け抜けたのであった。
 それはこの世界とのすべての関係を縛る靱帯を、重い鉈を振り上げて叩き切ってしまいたいという祈願、解放への意志、町を呑み家を押し流す激流、自爆テロによる人体の炸裂とビルの瓦解、大地が裂け奔騰する熱いマグマのように、哀れな水村を押し流し、叱咤する絶対「他者」の言明として、彼の耳に鳴りどよめてきたのであった。
 それからのある日のこと、歌舞伎町の片隅に中国人が経営する店の奥で、ひとりの風俗嬢が、下腹部を抉られ手足をバラバラに斬り殺される事件が起きた。切り傷から凶器は日本刀であり、刀をそうとうに使い慣れた手練れの者であると推定された。このことから、警察は居合の道場男子全員の指紋をとり、当日深夜の各人のアリバイを問い質した。五段の昇段審査に惜しくも落ちた世話人の白井へ、普段の風俗好みから疑惑の目が向けられた。が白井には完全なアリバイがあった。といっても別の風俗店のご愛顧の女性とその時間帯を過ごしていたとの女性の証言が得られたからである。厳格なる捜査の結果、水村を除く道場の全員がその事件に無関係であることが判明した。
 水村の証言では、当日は自室にこもって居合の稽古中に指導された注意点をパソコンで整理し、それを終えた後に「小説」を書き綴っていたとのことであった。子供のいない水村は、妻と二人暮らしの生活をしていたが、妻は前日の朝から近隣の親しい者数人で、温泉へ出掛けていて留守であった。水村のその深夜の動静に関する情報は、町の余所者のような生活をしていた水村の、近隣住民の誰一人からも出てくるはずはなかったのである。
 その上、道場内での水村に対する評判は、先生を筆頭に芳しからざるものが多分にあった。まず先生からの聞き取りでは、稽古中での鏡を前にした不可解な行動からはじまり、臼井からの情報に基づく風俗店の利用の一件など、他の弟子とは異なる不審な言動が、警察の注目を引き、そこに近隣住民の情報と深夜の公園での捕り物騒ぎが加わった末、水村はほとんど被疑者扱いにされるありさまとなっていた。また、その後の捜査の進展により、無惨に殺害された風俗嬢の中国の女性の名前は周柳美と言ったが、それは偶然にも水村がマッサージ店で指名した中国人、周龍峰の妹であることが判明した。この偶然の事実が、余計に水村の容疑を深めたことは言うまでもなかった。
 そしてこの一件は、道場の師範格の先生の顔を疵つけないわけにはいかなかった。現代の居合が形だけのもので、その真剣に見合う「道義」から遠いものであることがはしなくも露呈されたからである。その事件があってから女性の会員は、その初心者から日を追うごとに道場に姿を現さなくなったのは自然な成り行きであろう。
 だが奇怪なことには、なぜかそのバラバラに惨殺された風俗嬢が、水村にはまるで眼交に見えるように浮かぶのであった。なぜかその実行犯がもう一人の「自分」のようにも思われなくなかったからである。いやそれ以前から、世界と自分とのあいだに境界がなくなり、日々を追うごとに、生きているという実感そのものが失われているような精神状態がつづいていたのであった。他人と話すことばは廃墟の壁石のように崩れ落ち、主語を喪失した述語のみの言語は、他人には容易に理解不能であることが屡々となっていた。そしてその頃から水村は、度々、奇妙な幻覚と幻聴に襲われるようになっていったのだ。道場でも無言でいながら、ひとり鏡を凝視してなにやら口の中でことばをつぶやいている水村は周囲の者さえ怪訝に思った。当然、道場の先生が水村の言動に不審なものを感じないはずはなかった。
 先生の指示から世話人の臼井を介し、水村は妻に伴われて道場の真向かいにあった病院での診察をうけた。その結果、とりあえず一ヶ月の通院診療と専門医によるカウンセリングが行われることに決まった。水村はほぼ週に一回病院への通院を余儀なくされた。ただ特別な先生の寛大な配慮で道場での稽古は許されたのである。なぜなら水村は日本刀を握ったそのときから、どうしたことか余人と変わるところは微塵も見受けられなかったからである。むしろ以前より見違えるほど稽古に集中し、その凛然たる白袴姿にはなにかの光りにさえつつまれているようにも見えた。そして、先生も感心するほどの居合の技の上達ぶりを示した。敵が目前に現実にいるかのように、正対した刃筋は鋭く立ち、居合腰での足捌きは能役者のよう摺り足で舞い、その無駄のない素早い動きは美事であった。二尺三寸五分の刀身は水の中の小魚のように、手の内で自在に閃いたのである。

 警察は水村を容疑者として見逃すわけにはいかなかったが、近隣のクリーニング屋から、事件の深夜水村の部屋が明かるかったとの証言が出た。また、水村の使用したパソコンのファイルの時間記録を信用するなら、同夜水村が自室にいたことは、彼のアリバイの証明に有利に働いた。警察が水村を被疑者として立件に及ぶには、決定的な証拠はどこからも発見できなかったのである。 

 そして、水村が道場の近くの病院へ通い出してから、およそ一ヶ月後の日曜の午後、水村が語った道場に起きた残忍極まりない奇怪な事件は、ただ単に水村の荒唐無稽な妄想とかたずけることは余りに容易であった。しかし、その時道場にいた先生と弟子達数人の姿は、その後、この世から杳として姿を消し、いまだ誰一人その姿を見たものがないという事実をどう説明することができたであろうか。
 偶々、水村が見た「事件」の直後の現場の目撃者となった彼の言うことは、多分に精神に異常をきたした証言であるゆえに、そのままに信用することは憚らねばならぬであろう。だが警察が現場に駆けつけたとき、異様な興奮状態はただごとでなく、口から出る現場の模様は凄惨を極め、事件はまざまざと三人の警官の前に現前したかのごとく、三人の事後の証言は水村が語るとおりの映像として幻視されたことは、否定しえない詳細な記録として残された。

 その日は朝から雪がちらつき、午後には東京ではかつてないほどの猛吹雪になった。電車は至る処で寸断遅延し、水村はやっとの思いで道場に入ったとのことである。
 いつもの通り道場からは、居合い稽古独特の気合いにみちた静寂しか感じることはなかった。だが彼が不審に感じたのは、通常開けっ放しのままの道場の扉が、その日に限って寸分の隙間もなく閉じられていたことであった。そして更衣室は暖房で暖まっていたが、冷たい床で稽古着に着替え、氷りついたような廊下を歩き道場の入口へ近づいても、依然として中からは一声もなく、あの野太く独特に大きい先生の声が洩れてくる気配はなかった。
 水村は狐につままれるようにして、道場の扉を開け放った。すると男の彼でさえ目を背け、直視しえぬほどの凄絶を極めた光景が目に飛び込んできたとのことである。
 それはまことに息をのむ、およそこの世にありうべからざる地獄絵図のありさまであった。割れた窓ガラスから猛然と吹き込んだ雪が、道場の床一面に白い化粧をほどこし、そこに繰り広げられていた情景は、これを目にした人のこころを衝撃のあまり、ずたずたに引き裂くが如く思われる残虐非道なる惨劇であったのである。
 狭い道場は白い雪まじりの血の海と化し、一気に斬り落とされたと覚しいひときわ大きな先生の頭蓋が、胴体から二メートルばかり離れた、ほぼ道場の真ん中に血染めの雪だるまのごとく転がり、まだ刀を握りしめた先生の太い右腕が、真っ赤な血に染まって、世話人臼井の切り離された首の傍らの床に、柄を握ったままの刀ごと突き立っていた。それは戦場に掲げられた敵の戦旗のごとく、天に突き立っている象徴的な物体であった。それから数メートル離れた場所には、横様に倒れた女弟子の、雪に降りかかり可憐に伸びた手の先に、先生の太い足首が転がっていた。それはあたかも女弟子がその足首を握ろうとにじりよろうとしたほど間近にあった。
 残り七人の身体は、ことごとくに鋭利な刃物で滅多やたらに深くえぐられたように斬られ、ある者は横臥し、あるいは両目を開けたまま仰向けに倒れていた。水村の反復強調することから推測すれば、これら十人の遺体はほぼ瞬時に何者か複数の屈強な者たちによって、あっという間もなく襲撃されたのに違いないとのことである。先生とその弟子たちが襲いかかる敵に、いかに烈しく奮戦したかは、その壮絶な先生の最期の姿と周囲の情景からも、駆けつけた警官の三人ともに、どういう不可解な心理の働きによるものか、それが水村が見た幻覚とは露知らずに、同じような妄想の虜となったのであった。 
 その現場の最初の目撃者である水村が、警察による徹底的な取り調べを受け、当日の惨状の目撃と執拗を極めた警察の追求の結果、強度の精神的な外傷を受け、訳の分からぬ支離滅裂なる言辞を、あるときはぶつぶつと呟き、かと思えば脳天から発する奇声で叫ぶ奇態を呈し、司直の指揮により今度ばかりは完全なる精神の異常から、線路向こうの精神病院への入院を強いられる身の上となったのである。
 重要参考人である水村が警察への「証言」として話したつぎのようなことは、警察の調書に記載されていたことであった。しかし、水村の妄言のままにその現場を見たと信じるしかない三人の警官はともかくとして、当地域管轄の警察では狂気に似た言動を繰り返し、気が違ったような男の言うこととして、一顧だにされることはなかった。しかし、先生以下九名ほどの行方不明者の捜索に警察は全力を注がざる得なかった。
 しかしこの「事件」が水村の見た幻覚かどうかはさておき、三人の警官も信じたこの雪の日の「惨殺事件」を解明する手がかりとして、読者諸賢のなんらかの参考に供するため、敢えて記しておくことにしよう。

 正面の鏡は森閑としたまま、凄惨な道場の一部始終を澄んだ湖水の水面のように映じ、秋は疾くも去り、季節は既に冬そのものであった。
 激しい破壊から砕け散った窓からは、一条の白刃のごとき光線が鏡に反射するかと思いきや、そのまま鏡の中に吸い込まれるように消えた。水村がその光線の吸い込まれる辺りを凝視していると、鏡と思った一面のガラスの向こうにほの暗い湖が渺々とひろがり、古代オリエントを思わせる数々の石像が周囲の深い森林に蔽われていた。その頭上に広がった紫紺の空には、鮮やかな極彩色の鳥が飛び交い、その空にうかんだ月は獣の目の形相で、赤い血を滲ませて爛々と光っているのであった。
 その不気味な空を映す湖水の奥深いところに、水村は一筋の白い線が走るのを見た。それは鏡につけられた刀の傷の痕かと見えたがそうではなかった。現にその線と見えたものが蠢くと、一匹の魚がゆっくりとその巨体を浮かびあがらせたからである。
 水村はなぜか「鏡乃虎!」と一声叫ぶと、その場に気を失って倒れた。まさかあのアルゼンチンの盲目の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの奇書に書かれた「幻獣辞典」の獣たちだとは信じ難いことであるが、その鏡の中に閉じ込められた獣たちであった。彼らは鏡の裏側に幽閉され、あたかも夢の中でのように永遠にこちら側の景色を映し、人と寸分違わぬ動作を演じ真似、反復する刑罰をかせられていたのだ。その鏡の中の獣たちが、遂にその異形の姿を現したとは、いったい誰が信じ得ただろうか。だがそのとき水村の口をついて出たことばは、その奇書のとおりであった。

「鏡乃虎! パンドラの箱は開けられたのだ!」

水村は幾度となく、その同じ文句を病院のベッドで繰り返していたらしいが、その意味不明のことばは病院の廊下中に、不気味な血の滴りのごとく染みわたっていった。
 水村の保護観察中の警官の目には、水村は既にこのとき完全な狂人に見えた。その男が語ることばが妄想にすぎなく、水村その人が彼自身が伝える鏡の中の住人の一人としか想像されなかったとのことである。
 だがまだ依然として、水村の耳の奥には、鏡の奥底からの怪しい武具のふれあう響きが、中世の戦闘集団さながらの鬨の声とともに、反響しつづけ止むことはなかったのであった。
 
この奇怪な事件は証言者の水村の閲歴と言動と相俟って、暫くの間マスコミ等のメディアを賑わせていたことは言うまでもなかった。道場は閉鎖され、やがて歌舞伎町にあったカルチャーセンターそのものも、ただ道場の前面に貼られた巨大な鏡だけを残して、当ビル内から姿を消してしまった。
 やがて当該の惨殺事件は不可解な「謎」を残したままに、アメリカによる某国を仮想敵にした「戦争」は、これに参戦した主要国の至る処にテロリズムの拡散を生みだし、宗教を背景にした地域紛争は東アジアにまで猖獗の様相を深めていったのである。

 水村がいた病院は、道場があったビルから線路をひとつ隔てた真向かいにあるため、病棟の広々とした窓からはまざまざとそのビルの全貌が窺えた。
 ある雪の日のことである。水村のいる病室の窓から、異様な格好をした一団が列をなして動くのを水村は見た。それは白い覆面をしたヤクザ風の男たちで、ビルの裏に蔦のように延びた螺旋階段を素早く登っていった。冬の空から霏霏として降る雪がその一団を見えにくくさせていたが、それはたしかに道場のあった七階の扉の中へと消えていったのである。それが水村の見た幻覚であったのかどうか。水村はその白い風景の中を蠢めき、ビルに消えた一隊を、自分の見た夢かのように、一人を除いて誰に語ろうともしなかった。その一人とは妻の響子であった。このときの妻の反応は意外であった。
「あなたが見たというなら、それは本当のことにちがいないわ」
 となんの屈託もない様子で彼女はそう応じたのである。
 それから、子供のいない彼女はほぼ毎日のように、水村の様子をみに病院へかよってきた。その妻の姿には、入院した病気の子供を心配する母親のような暗い憔悴の顔と、放浪をしていた夫の帰還を迎える様にも似た嬉々とした笑顔の、ふたつの顔が交互に窺えるように思われた。
 道場のあったビルの上空は、神輿の鳳凰に似た嘴をもった漆黒の鴉が互いに絡まり合い、飛翔していない日はなかった。その不気味な鴉の激しい鳴き声は水村の耳の奥で、あの雪の日の鏡の中から聞こえた「鬨の声」の、遠い谺のように響きつづけたのである。
 やがて時の経過とともに、虚脱と昂揚の心の波が代わり番こに訪れる日々を暮らす水村のいる病棟の廊下から、なにかの慶事か祭りの日を髣髴とさせる、場違いなほどいきいきと晴れやかな響子夫人の声が聞こえる日が増えてきた。
 そしてその鼻歌まじりの声の合間あいまに、こんどは医師や看護婦・看護士たちと談笑する彼女の、賑やかな下町風の明るい笑い声が、廊下の中程にあるロビーまで流れてくるのであった。静かな病院の中では、その水村の妻のまわりだけが、どこかほのぼのとあたたかく、明るい春の日溜まりのような空気につつまれていたのであった。

                               Ψ

 木村博士が家に帰り、壁の一面に大きな鏡で設えた寝室の中で、「離人症の病理」と題した論文が載ったパソコンの電源を落とし、就寝の時刻が近づいた頃であった。携帯電話の音がけたたましく鳴り響いた。こんな夜おそくの電話はめずらしいことであった。内容は患者の一人が、日本刀で腹を突き絶命したとの知らせであった。 博士は慄える手で皮鞄から、その男の記した原稿のたばを取りだした。暗く絞った照明を明るくして、「小説(仮想の敵)」の二頁目をめくり、題名を恰も初めてのように読んだ。「夢想神伝鏡乃虎」。漢字ばかりが七文字仰々しく並んでいた。その下段に細く拙い字が蚯蚓のようにうねっているのに、博士は改めて気がついたのである。
  ーこれは神より伝聞されたごとき私の夢想を記したもの、事実らしきものはすべて作者の妄想とご了知ください。
それからしばらくして、博士は患者が忘れていったアルベルト・カミーユの「カリギュラ」という戯曲の最後の場面と科白を思いだし、同時に室内の鏡に映っている自分の顔を一瞥した。自分の像を映した鏡を粉砕したカリギュラは大声で叫んでいた。
 ―おれはまだ生きている!







「ヒトゲノム」について

 先日のブログに「ヒトゲノムのうち、膨大なDNA配列の2%」ということについて、一女性から疑問がよせられました。実は筆者も「なんでやろう?」という思いがあったのです。そこで養老先生の後輩から、つぎのような親切な回答がありましたので、感謝を申上げつつ、これを掲載したいと思います。コロナとの共存という専門の先生のいわれることが、ちょっと腑に落ちていかない人には、すこしでも参考になれば幸いです。同時に、このことは現代文明へのある意味での警鐘とも思われます。Y先生、ほんとうにありがとうございました。

 「ヒトゲノムのほとんどは不要不急」ということについてですが、実はその通りで、ヒトゲノムの中で「意味がある」のは、膨大なDNA配列のうちのたった2%程度とされています。

専門用語では「意味がある」部分をエクソン、「意味のない」部分をイントロンと言います。あらゆる生命活動の基本は蛋白質ですが、人間の体内でそれが合成される際に、細胞内構造体によって膨大な遺伝子情報を解析する作業が行われます。そこで「エクソン」と「イントロン」の識別が行われます。

つまり細胞内構造体は、DNAの中の不要なイントロン領域を切り捨てて、必要なエクソン領域だけを抜粋して読み取ることで、身体のあらゆる蛋白質を合成していくのです。

ヒトゲノムを一つの図書館に例えるとわかりやすいかもしれません。その図書館には、人体に関する情報が書かれた膨大な数の本が収納されています。しかし、意味のある文章が書かれている本は全体のたった2%で、残りの98%の本は、意味のない文字列で埋め尽くされていて、それらは人体を構成する上でまったく役に立たないのです。

ここで疑問が生じます。「なぜそんな意味のない大量の本を、この図書館はわざわざ保管しているのだろうか?」と。

蛋白質を合成するときに、細胞内構造体は毎度毎度、エクソンとイントロンを分別しなければなりません。これは余計な労力です。最初から不要な本を捨て去って、図書館の中に必要な本のみを保管しておけば、毎回分別をする手間が省けるはずです。

ところが、大変面白いことに、現代の遺伝子研究によって明かされたのは、「高度に進化した生物ほど、長いイントロンを持つ」という事実でした。つまり、遺伝子の中に「不要なもの」をたくさん残している生物ほど、生存競争に勝ち残っていることがわかったのです。

本来であれば、不要なことにエネルギーを消耗する生物は競争の中で不利になり、滅んでしまうはずです。なのにどうして、上記のような現象が起きるのか。これは現代生物学における大きなテーマの一つです。

そして最近の研究によって少しずつ判明してきた有力な説の一つが、「そのほうが想定外の事態に強くなるから」というものです。

これも図書館に例えるとわかりやすいです。我々生物の細胞は、常日頃、内外からの様々な刺激を受け、DNAが損傷します。それは例えば紫外線であったり、細菌やウイルスからの攻撃であったり、あるいは細胞内部で癌のもとが自然発生することもあります。これらの刺激は、言うなれば「図書館に泥棒が侵入して、一部の本を盗んだり、落書きをしたり、破り捨ててしまう」という事態です。

ところが、ヒトゲノムという図書館の98%の本は「意味のない本」であり、泥棒が多少の悪事を働いたとしても、わずか2%の「意味のある本」に被害が及ばないかぎり、人体にはまったく影響がないのです。

もしヒトゲノムの遺伝子すべてが「意味のある」配列であった場合、外からの刺激をほんの少し受けるだけでも、途端に人体の設計図に狂いが生じます。しかし98%が意味のない配列だからこそ、多少のイレギュラーな事態が生じても致命的なダメージを受けることなく、余裕ができて、柔軟に事態に対処できます。

これこそが、生物が進化を繰り返す中で、不要なはずのイントロン配列をあえて遺伝子内に蓄えてきた理由ではないか、と考えられています。

これは科学の話題ではありますが、しかし、私たちの日常生活にとっても重大な教訓になる気がいたします。合理主義的な現代社会に生きる私たちは、ついつい「不要なもの」「無駄なもの」を切り捨てて、効率化を図ろうとします。日常のほんのちょっとした遊び心、機微や情緒、あるいは長く受け継がれてきた伝統や文化ですらも、論理的な「計算」によって「数字」が出せないものは解体され、否定されてしまう。そういう場面に少なからず遭遇します。

もちろん計算は大切です。しかし、一分の隙もない計算によって無駄を100%排除した完璧な計画というのは、逆に、たった一つの計算が違ってくるだけで歪みが生じて崩れてしまいます。

コストカットで効率重視の生き方をすれば短期的には利益が出るかもしれませんが、長い目で見ると、一見無駄なものを捨てずに持ち続けるほうが、いざという時に応用が効いたり、予想外の事態でも自分自身を保つ支えになったりするものです。生存に不必要なものこそが人生の面白みや深みに繋がり、それらを大切にする人は、むしろどんな非常事態にも動じない安定感がある。そんな気さえします。

この地球に生命が誕生して39億年。とてつもない時間をかけた試行錯誤の中で、生物がたどりついた答えもまた、「無駄を大切にする」という方針でした。遺伝子における不要不急のイントロンの存在は、そんな物語としても解釈できるのではないかと思います。

また、イントロンの存在理由については上記以外にも様々な研究成果が出ております。やはり図書館に例えるならば、「意味のない本」は単に泥棒対策になるというだけでなく、実は通常状態では意味がわからないだけで、非常事態になるとそれらが暗号のように意味を成して、図書館全体の危機に対処するための道具の設計図となる。そういった「隠れた重要機能」があることも徐々に判明してきています。しかし一方で、未だに不明な部分もたくさんあるのがイントロンの奥深さです。

現代の科学技術をもってしても一筋縄でいかない謎に包まれた遺伝子配列、イントロン。生命が実に39億年もの時をかけて紡いできたあらゆる知恵の結晶が、その「無意味な配列」に詰まっているのかもしれません。

以上、回答とさせていただきます。
この回答自体も冗長で無駄な部分があるかもしれませんが、それもまたある種の「イントロン」ということで、温かい目で見ていただければ幸いです。

 以上、たいへん温かい説明で、ホンワカとしてきますね。まみちゃん、すこしでも、理解がふかまったらいいですね。





加藤典洋17 -日本人の自画像-

 10月7日は飼い猫「クラ」の3歳の誕生日であった。いつも金網ごしに戸外を眺めているので、「まあ、可愛い」と通りすがりのお婆さんやら、主人を引っ張って小犬までが金網越しに挨拶をしにくる。「クラ」は照れ屋なのか一旦は部屋に引っ込むけれど、呼ばれるとすぐにまた玄関に出て行く。嬉しいにはちがいないのである。近所のマンションにいる兄と妹に好かれて「クラちゃん!」と呼ばれ、この子供等から誕生日のプレゼントが贈られた。遊び道具とお菓子のような食べものであった。どうやら猫は近眼らしく、あまり近くのものは見えない。鼻が効くので見る必要がないらしく、鼻で臭いで舌で舐めにかかり、三つほどのお菓子入りのチューブはあっというまになくなった。三歳となると、もうときに手のつけられない悪戯者で高い欄間も爪で破いてしまうが、人の気持のそんたくは恐ろしいほできるのだ。ただ人間のことばが話せないというだけのようにみえる。人それぞれの性格とか人柄はちゃんと心得て、その上、その場の空気も読む力もあるようである。いまでは老夫婦のあいだの架橋となっている。

10月○日 足立区綾瀬の東京武道館が開催する月例稽古は生憎の雨模様。コロナ禍で半年以上途切れていた武道館での居合稽古は審査前のせいか、厳しいものであった。交通事故による右手骨折、股間節炎症、右眼眼疾などで約1年ほど稽古から遠ざかっていたうえに、加齢も加わり鈍った身体はどうにもお粗末な結果となった。審査には一ヶ月も間がないのだ。真剣を使い仮想の敵を斬る居合いについて、既に本にも書いたことだが、こうした武道を戦後にまで継続しようとする日本人とは、そもそもいかなる存在なのであろう。現代では剣は無用の長物にみえる。居合の審査も将来はAIのテクノロジーが行っても不思議でない時代がきている。個々の技前、身体の運用、気剣体の一致を量子電子計算機に習得させれば通用するだろう。これは今のところ仮想の話しではあるのだが。

 翌日、身体じゅうの痛苦から午前中は寝床にしばし臥していた。暫くして起き上がり一昨年に物故した一文芸批評家の著書を読むために机に向かった。だが本を開いても活字は白いヴェールが懸り、大きな拡大鏡を二つ重ねて漸く数頁を読むことができた。加藤典洋のこの本の読書は二度目。さほど時を経ず、同じ本を二回も読むなどということはざらにあることではない。だが本がそれを要求するのだから仕方がない。万葉記紀の古代の地図にみえる日本、それから中世を経て、近世の荻生徂徠や本居宣長にいたるまでの「日本人」という概念が生まれる歴史を探索し、尊皇攘夷から開国と前近代から明治維新の近代にいたり、小林秀雄や吉本隆明、丸山真男や柳田国男等が、先の戦争を挟みつつ、展開した思想の歩みを辿りながら、「日本人」という自画像制作から世界認識までの200年を、独自の論理と情熱をもって解明しようとした野心作を、素通りして済ますことはできかねたのである。

「はじめに」で著者は書いている。
「ある自画像をみて思わずそれに釘付けになる時、わたし達に感じられているのは、鏡に映る自分から自分に見えている自分を取りだそうという画家の抗い、画家自身に感じられている自分の、鏡に映る自分への、抵抗なのである。」

 「抵抗」と「二重性」はこの著者のキーワードであるが、「敗戦後論」から5年、2000年刊行の「あとがき」には、着想から15年、作者52歳の原論にして集大成とある。50年に及ぶ批評家として、約50冊ほどの著書があるが、71歳での突然の死はまこと惜しまれるものであった。戦争直後に生まれた同世代の著者の、まさに「画家自身の抵抗」の手触り、その実質について、どこまでその生きている肉体のうちに触知しえるであろうか。もし一匹の猫が自分の飼い主を知るように、この著者が創造しようとした自画像としての「日本人」に、どのように正対し得るであろうか。一人の「他者」にちがいないこの著者の「抵抗」がみせた果実には近代の難問(アポリア)もまた詰まっていることだろう。紛れもない「死者」となった著者の「顔」がいまこそ明瞭にみえるときなのだ。




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プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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