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武道という風景(5)

 日本の時代劇でも外国の文学や映画においても、私が魅了されるのは1対1の決闘のシーンであります。黒澤映画では「七人の侍」と「椿三十郎」に見事な場面がありました。西部劇では数えたらキリがありませんが、原題:The Last Sunsetの「ガンファイト」がとても好きでした。昔の女とよりを戻そうとした男が、娘との二人の家に突然に現われます。女はこの男(カークダグラス)にもう未練はありません。むしろこの男に同行してきた紳士風の男のほうに惹かれるものを感じています。だが十五歳の娘は母親と関係があった過去を知らずにこの男に惹かれていきます。やがて娘は母がむかし着た黄色いドレスを身に着けて夕陽の丘で男へ愛を告白します。戸惑いながらも若い娘に牽かれるものを感じる男。女はついに男に娘の父親が誰であるかを告げてしまいます。「どうしてそれがあなたには分らないの」と言わぬばかりに。男は疑惑を懐きながらもそれが事実であること悟ることになる。娘が男の気をひこうと身につけていた黄色いドレスは、15年まえ女が男のために着た記念のドレスで、肩に桜草を飾りに刺していたものでした。雨の夜、幌馬車で女が同行してきた男との抱擁の場面を見てしまった男は、恋敵となった友人との決闘を決意します。決闘に臨んで銃からわざと弾をぬき、相手に撃たれた男へ娘が涙ながらに駆け寄ります。そこへ男がひそかに娘に贈った「桜草」の花束が牧童頭から投げられます。この「桜草」こそ幸福であった頃の女との恋を語って、西部劇にはめずらしくロマンチックな味わいのあるこころに沁みるラストシーンとなっていました。
 ついでに書き添えますと、この映画の男は若い頃は詩人はだしで即興で愛の詩を朗唱して女こころ掴む伊達男(カークダグラス)。この映画のファンだった私の友人が高校時代に知った一詩人(アルチュール・ランボー)を私に教えてくれました。語学はスペイン語で一時、ガルシア・ロルカに夢中だったが、本は持たない主義でした。トーマスマンの「魔の山」等は私にくれました。会社の創業者の父も読書家でしたが陸軍の経理のエリート将校で、友人は大学卒業後も国立の工業科に再入学し、父の跡を継ぐことになっていたようでした。高校からハンドボールで鍛えた壮健な身体は人の三倍は働けという父の言明どおりだったのは、バイトを一緒にした経験から私には一目瞭然で、同じように働くことは普通の人間にはまず不可能というべき奮闘ぶり。酒は底なし長者番付一番。その男が会社内の女の子に惚れてしまった。猛反対の両親から私は家に呼び出され、二人を別れさせてくれと頼まれたのですが、すでに二人は同棲していました。見た目に女に悪い印象はなく、同じ家で暮している若い男女を引き離すことはむりと思われました。やがて友人は勘当され、孫の顔さえみることも拒む徹底したものでした。
 友人は70歳にあと一日という日に亡くなりましたが、父の死に目にも、線香一本あげることができなかったと聞かされました。この友人は学生時代、ズボンの右ポケットから手を離さず、やや前向きに歩いていたのが印象的で、あれは多分に西部劇映画の見過ぎからきたものだと思われました。最後に逢った酒場で「俺はガンファイターになっちまった」とポツリと言ったが、それは軽い冗談のように明るいものでした。
 
 ラテンアメリカの文学には「決闘」を主題にした小説が数多くみかけます。筆頭はホルヘ・ルイス・ボルヘスの「ブエノスアイレスの熱狂」ですが、「決闘」と題した6頁ほどのエッセイがあります。また「薔薇色の街角の男」という短篇をボルヘスは書いています。
 ここでは「20世紀ラテンアメリカ短篇集」(野谷文昭訳岩波文庫2019年)に収められたマリオ・パルガス・リョサの「決闘」を覗いてみましょう。余分なことですが、2010年、リョサは「権力構造の地図と、個人の抵抗と反抗、そしてその敗北を鮮烈なイメージで描いた」ことにより、ノーベル文学賞を受賞しています。
 この本にはもう一篇ナイフによる「決闘」の短篇がありますが、読み比べてみると断然リュサのほうがすぐれていることが分るでしょう。
 
 フランスの天才数学者で革命家でもあったエヴァリスト・ガロアは20歳で亡くなりました。かれの短い生涯は破天荒なもので、有名な決闘の逸話が残っています。ウイッキーにはガロアについてなかなかに詳細な記述がありました。
 
 さて、最後に日本の幕末の三舟(さんしゅう)の一人、山岡鉄舟が残した「剣禅話」から一エピソードを紹介する積もりでしたが、武道については、宮本武蔵の「五輪書」が自分の実践から書き遺こしたを一書として熟読玩味に値するものと思われます。
 ここで上記の「十代で数学の歴史を書き換え、二十歳で決闘により命を落とした孤高の天才」(「ガロア」加藤文元)が書いたとされる詩と、かれの言葉を引用させていただき、本ブログを終えることにしましょう。

Ne pleure pas, j'ai besoin de tout mon courage pour mourir à vingt ans!
泣かないでくれ。二十歳で死ぬのには、ありったけの勇気が要るのだから!

L'éternel cyprès m'environne:
Plus pâle que la pâle automne,
Je m'incline vers le tombeau.
久遠の糸杉が私を囲む
色褪せた秋よりもなお青ざめて
私は自ら墓場へ赴く


  僕にはもう時間がない  Je n'ai pas le temps






回想「1984年」

 ジョージ・オーエルの著作「1984」は、全体主義を批判して1948年に書かれたデストピア小説ですが、この題名はこれが書かれた48年をただ逆転しただけであった。これ以外には「ヨーロッパ最後の人間」(The Last Man in Europe)という題名が用意されていた。最年少でノーベル文学賞を受賞したアルジェリア生まれのアルベール・カミユは、1960年に自動車事故で亡くなった。当時自殺説も囁かれたが、鞄から発見された膨大な原稿は、「最初の人間」という小説の草稿でした。カミユがオーエルの「1984」を意識していたかどうかは不明ですが、「ペスト」を書き反ナチ抵抗運動に挺身したカミユがオーエルの文学に熱い視線を注いでいたとしても不思議ではないでしょう。
 最近、書棚を整理しておりましたら、「詩都」という旧い同人誌がでてきました。これは新宿の高層ビルで働く役人たちの同人誌でした。1984年の「詩都」第10号には、作家となった童門冬二氏の寄稿がありました。思わず目次を眺めますと、私の本「花の賦」の表紙絵を描いた人がエッセイ風の評論を載せ、詩一篇と「ヴァレリー断片」というエッセイとも批評ともつかない私の作品を見ることになりました。後者は詩ではないのですが、詩のジャンルに入れられています。くだんの人が書いていた評論は、「“生活が消えた”時代のレプリカント幻想」という題名で、ポール・ニザンの「アデン・アラビヤ」のプロローグを配し、わりに長い文章となっています。最終行だけをここに取りだしておきましょう。
「とまれ、私達はこれから、ユートピアと悪夢が、私達の精神によってくるりと入れ変わってしまうような、空恐ろしい時代を生きていくのである。」
 これはオーエルの「1984」を意識した時代状況を反映したのでしょうが、氏は別号で18世紀イギリスの画家・ヨハン・ハインリヒ・フュースリーの「夢魔」なる作品に描かれた女性の描写に、リアルな肉体が消失していることに、鋭敏な反応を示しています。作家のカミユがアフリカのフランス植民地の出身であることから、ヨーロッパ、特に宗主国のフランスに対しある距離感を払拭することができず、このことからかアルジェリアの独立問題に沈黙していた時期がありました。「私は正義を愛する。だが私の母親のためなら命を惜しまない」というカミユのことばには、硬直化していく思想への懐疑が窺えるでしょう。「異邦人」の主人公・ムルソーの投影を感じられるかもしれません。サルトルとの有名な論争「革命か反抗か」で、サルトルに押され気味になる実情はカミユの「反抗」の思想の核心にある「中庸」から必然的にでてくるもので、エッセイ「夏」「結婚」「裏と表」には、アルジェリアの土地への愛着が反映されています。カミユの遺稿「最初の人間」にはヨーロッパ的な文明を批判的にみる目が感じられます。浩瀚な「カミユの手帖(全)」の読みかけをついつい読み出してしまいましたが、このカミユに先行して20世紀ヨーロッパの精神の危機をその全精神で感得していた詩人にして哲学者のポール・ヴァレリーは、あらゆる事象の知性による組織化によりこれに抗いました。デカルトの男性的な精神を賞賛しながらも、頭脳の鍛錬以上のものを哲学に認めようとしませんでした。「私は考える、故に私はない」という言葉には非デカルト的な思考がうかがえます。氏が若い時代に書いた「テスト氏」は、精密なる知的な精神が一人の人物の形姿として顕現する様を描いてみせました。詩は知性の祝祭ともいうべきものとしてのみ存在を認められ、偶然の傑作にはなんの意味も認めないばかりか、「文学」への不信はその極限においては、精神になるか人間になるか、そのどちらかを選ばねばならなという極面まで、その対話を導いているのです(「ユーパリノス」)。もとより氏にとっての近代とは、相反し相矛盾する諸傾向、諸思考の共存する時代でありました。ボードレールの評価はこうした観点からなされているので、時には詩はその「罪」を露呈するもので、ボードレールの詩の核心にあるこうした傾向に重要性を見いだしていますが、サルトルは逆にこの点を批判しています。長編詩「若きパルク」も、友人のアンドレ・ジイドの強い薦めなくしては世にでることはなかったでありましょう(「ロンドン橋」)。「テスト氏」には、陸沈の生活こそが理想であり、世間にその精神を晒すことへの嫌悪が瞥見されます。ヴァレリーの壮年期の20年の沈黙はここに原因しますが、「カイエ」にはこの期間の彼の思索をみることができるでしょう。氏がマラルメの弟子のように振る舞ったのは、マラルメへの敬愛からでありました。私がマラルメの詩を知ったのは、ユイスマンスがデカダンスの聖典のような「さかしま」でその詩の断片を紹介していたからです。モーローやルドンの絵画は「さかしま」にはうってつけの絵画でありました。「いずこへなりとこの世界の外へ」というボードレールの散文詩を知ったのもこの象徴派の宝典と讃えられた、主人公のデ・ゼッサント生き方は、私の唯美的趣味にひとときの隠遁と慰安を与えてくれたものでした。こうした事情から精神病理学への私の関心は、哲学と相まってハイデッガーの影響下に「現象学的人間学」等への接近となり、自己への関心と無縁ではなかったのです。ビンスワンガーやフッサールの著作に早くから興味を寄せた理由もここにありました。こうした回想には無意識の改竄が含まれると共に、ほとんど意図的な錯視の潜入もみられます。しばしそれを「反回想」と銘打つ所以もそこにあるので、アンドレー・マルローが自身の自伝に「反回想録」と銘打ったのは行動家の自意識からでしょう。
 さて、最近のことですが、地方の友人が細君の介護のかたわら、メールでこんな感想が寄せられました。
「オーウェルの「1984」読み終えました。
途中、廊下を歩いていたら柱が傾き空間が歪んで妙な感覚に襲われました。
主人公が執拗な拷問にあったリアルな描写が肉体的にも影響を及ぼしたらしい。恐るべし言葉の力。映像表現では届かない世界。
権力と言うものの性質と普遍的な人間のサガに対するオーウェルの洞察は少しも古びない。」


(注)2018年4月に掲載された一文に、数行の追記をして、ここに再掲します。






武道という風景(4)

 川端康成氏のノーベル賞受賞講演「美しい日本の私」のなかに、「雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折り折りの美に、自分が触れ目覚める時、美にめぐりあふ幸ひを得た時には、親しい友が切に思はれ、このよろこびを共にしたいと願ふ、つまり、美の感動が人なつかしい思ひやりを強く誘ひ出すのです。」(1968年)
 という一節がありますが、この出典がどこからかと考えることはありませんでした。大岡信氏の「詩人・菅原道真」(1989年)の読後の印象が良かったことから、同氏の「歌謡そして漢詩文」(日本古典詩歌3)を開き、「『花』の一語をめぐる伝統論」を偶々読んでみたのです。これによると川端氏の講演の一節が「白楽天詩後集」に収められた七言律詩の「殷協律に寄す」からのものだとありました。

 琴詩酒の友皆我を抛つ 雪月花の時に最も君を憶ふ

「悲憤の詩人としての白楽天、そして杜甫のイメージが常に芭蕉を導いているので、彼がもし『雪月花』を思う時は、それは『琴詩酒の友皆我を抛つ』という文脈において想起される種類のものだったに違いない」
 大岡信氏はこれをもって「日本」の美と心を要約したとする川端氏に理解を示しながら、この一節が晩唐の詩人の哀傷歌であり、芭蕉の「雪月花」の観念には川端氏よりも激しい悲調にあると強調しています。中国の多くの詩人が悲運の生涯に果てたことを私が知らないわけではありません。
 だがどうでしょうか。川端氏に私淑した三島氏はおそらく大岡氏の川端文学の理解に不満を示したことは間違いないでありましょう。なぜなら川端氏の「末期の眼」以来の諸作品を三島氏ほどの慧眼をもってその心底から評価を行える作家はいなかったでしょう。川端氏からすれば芭蕉の悲傷は戦後まじかの横光利一への追悼文を読むまでもなく、更には三島氏の自決が川端氏にあたえた衝撃は氏の自死まで及ぶものと想像されるものだからです。ただここに、一片の保留を置くならば、三島氏の川端讃美は谷崎文学においてもそうでありますが、その嗜好と批評の論理において非の打ち所のないほどに自分の文学に引き寄せる強引さがみられるということを、常に念頭におく必要があるということであります。
 大岡信氏の詩がその根源に悲傷にあることは辻邦夫氏が指摘しているとおりでありましょう(「現代の詩人11中央公論社1983年」)。また、氏の「保田与重郎ノート」(1961年)が三島氏から激賞されたことは私も知っております。だがそれにもかかわらず、さきほどの留保つきながら、三島氏の追求した現代の「文武両道」において、特攻隊がもっとも清純な一篇の詩と化し、行動ではなく言葉になったという認識の悲劇に終わったことを、それ以上に重要に受けとめざるを得ないのです。「文武両道」は江戸期においては当然の武士の職業生活のスタイルであり、これを敢えて言挙げする必要もないことでした。映画「人情紙風船」では仕官のできない武士がいかに惨めな生活を送り、この惨状を見るに見かねた細君に刺殺されるシーンで終わりました。
 私は「現代の『武道』は『人間の生きる知恵と力を高めること』であり、それに尽くされる」(内田樹「武道的思考」)に同意しないわけにはいきません。
 この社会に出るとき私は、「思想的」な一切の本を投げ捨てなくてはいられませんでした。三島氏の筋骨隆々の肉体に滑稽を感じながら、他方、吉本氏等の「思想」的な著作を目にすることを嫌悪しました(後年同じ本を買い戻したことも事実ですが)。代わりに22歳の私は職場の帰りに、ボディービルのジムに通いだしたのです。3ヶ月で私の身体が変化したことに爽快を覚え、以後、職場が変わってもジム通いだけはやめることはありませんでした。30歳頃に腰椎分離症でつらい思いをしましたが、入院治療を放棄し毎日のようにプールで泳ぐことで、腰椎の病魔から解放されたのです。
 社会に出て最初の会社に辞表をだし、1年ほど都心にある図書館に通って法律の勉強をしていたときでした。ポールヴァレリー全集に出会い、私は再び「テスト氏」に魅了されたのでした。





剣と禅

 居合などをいつから始めたのだろう。50歳の頃からか、たしかではない。職場近くの高いのビルの21階にカルチャーセンターがあった。多くのメニューのチラシが並んでいた。アンダルシア地方のフラメンコを映画でみて、床を踏み鳴らし、汗を滴らせての踊るローカル色ゆたかなフラメンコに興味を惹かれた。だが入ったのは夢想心伝流の居合のほうだ。はじめは太極拳用の絹のパンツを穿き、木刀を振った。狭くて低い天井の部屋。大きな鏡が前面に張ってあった。8時から10時までのレッスンが毎週一回。費用は一回3千円弱であった。隣の部屋でフラメンコを習う女性の衣装がとても綺麗で、居合の袴が貧相に感じられた。兄弟子が威張りかえっていた。隣の部屋は極真空手でも防具をつけて打ち合う教室だった。若い整体師が指導者らしかったが、この人が夕暮れに複数のチンピラに因縁をつけられ、その一人の顎を触ると、歯が数本抜けて地面に落ちたのを拾ってあげたところ、皆一斉に逃げ出したというエピソードを聞いたことがある。因縁をつける相手を間違えると酷い目にあうらしい。稽古場所は職安通りからセンターまですぐ近くの距離。時間つぶしに茶店で、紅茶を飲みながらフランス語の独習をした。稽古が終わると新宿コマ劇場まえの広場から西武沿線がわの路地にあるバーのカウンターでビールを飲んだ。やはり運動のあとの冷えたビールはうまい。道場仲間との酒のつきあいはできるだけ避けていたのは、その品のない話題にせっかくに澄んだ胸が穢れるように思われたからだ。
 社会へ出ての二十二歳から肉体を鍛え始めた。筋トレのジムでバーベルを担ぐ。見る見るうちに腹が細くなり、逆三角形と体つきになった。毎日プールで泳ぎ、スキューバダイビングでボンベを背負うことが苦痛であった腰椎分離症も自然に治った。笹崎ジムでボクシングジムをやりだしたが、会長に笑われてしまってから自分がこのスポーツに向いてないのを悟ったからだ。
 25歳で家にどことも告げずに引っ越しをした。田園調布の端にある二階の隅の下宿部屋。窓から大家の庭の棕櫚の樹が一本いつも見えた。朝、4時に起床。読書と思索に耽った(?)。部屋には石膏のマルス像とインコが籠に一匹。「神田川」の流行歌のレコードは聞いたが、風呂へはいつも夜道を一人。石鹸の音だけがカタカタ鳴った。とうとう禁欲的生活から変調をきたし、大宮の姉の一隅に引っ越をせざる得なくなった。番いで暮らす画家と小説家の卵が二人引っ越しを手伝ってくれた。運ぶに邪魔と画家の卵は机の脚を切り短くしてしまった。ポップ調で商売っ気のある彼に、秘かに日本のアンディ・ウォーホルを期待したが、日本の風景画家となってしまった。
 居合では道場を転々とした。一時は無外流の道場へ通ったこともあった。「居合道」(山蔦重吉)、「武道初心集」(大道寺雄山)「秘剣示現流」(海音寺潮五郎)、「葉隠」(山本常朝)、「私の身体は頭がいい」「武道的思考」(内田樹)等を読んだ。内田のものでは武道関係が、合気道を実践していることからであろうが、とてもいいように思う。座禅は40歳前後から通いだしていたので、大森曹玄の「剣と禅」(この本は良書であった)、山岡鉄舟の「剣禅話」、佐江衆一の「剣と禅のこころ」、禅の公案集では「碧厳録」「無門関」等を読むうちに、居合と禅がどこかで相通じることが分かってきた。座禅は40歳前後から、もう30年になるが、継続はしてきたが持続したかというと心もとない。住職が変わってから休んでいた時期が多くなったからだ。最初の公案は、有名な白隠の隻手の妙音であった。剣も空気を斬れば音がする。片手でも同様であると答えたのは、剣禅一如のこころからであった。背後に闇を背にした老師は、数息観で座禅せよとの言葉を戴いた。老師はやがて三島・龍択寺の住職となって去った。龍択寺といえば、敗戦のラジオ放送「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言し、天皇を国家の「象徴」と定義するよう発案した山本 玄峰がいた禅道場である。弟子には中川宗淵、田中清玄がいる。幕末の三舟の一人山岡鉄舟も参禅した寺である。五月のちょうどこの時期、老師に逢いにいったことがある。「わしの人生は座禅で終わってしもうた」と去り際にそう言い、子供の頃、良寛を読んだのがよかったとつぶやいたのが心に残った。
 禅のほうは、水上勉の「禅とは何か」や玄侑宗久の本を読んだが、後者のは多分に衒学臭があって敬遠している。鈴木大拙の「禅について」は、若い時に読んだ。北区尾久に住んでいた媒酌人の家で、鈴木大拙全集をみたことがあった。
 「居合とはなにか」を現代に問うことは簡単ではない。敵を想像裡に描き、敵の不在を前提に行われている現代居合は、純然たる武道ではない。ならば現代の居合とは何かという問いに、確定的な答えをだすのは容易なことではないはずだ。そもそも、居合の道具である剣とは、現代においていかなるものかということにもなるだろう。居合での勝敗を、5段以上の審査員が決めることになっている。敵がいる真剣勝負なら勝敗は明らかだが、審査員が演武を見て勝ち負けを決めることには釈然としないものが残るのは仕方ないことだろう。審査員の目にすべてがかかっているから、これを信用できなくなったら、段などにこだわる必要は豪もない。居合にはさらに深い魅力があるように思われるからだ。禅も剣の世界も、なにか高潔なところを想像しないほうがいい。むしろ、こうした世界ほど、禅定とほど遠く、武士道とは縁なき衆生が集まる場所と心得ておけば失望するこもないだろう。旧い住職が居なくなった寺は、座禅中に本堂に猫が横切り、我執がむんむんする亡者達と、居眠りの死座禅をする老人が権力欲を法衣に隠していることが多いことから、私は秘かにものも言わない大きな木魚の端然たる不動の影に励まされて座るよう心がけているといったほうがよい。
 愈々、個人の精神の衰弱が激しくなるにつれ、社会全体も硬直化していく傾向が濃厚となってくるらしい。さるにても、剣も禅も素晴らしい師に出会うことができることが一番の功徳なのだが、これがまた至難と言ってもいいようだ。
 最後に、白隠禅師座禅和讃の全文を載せておこう。


衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり



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(注)本ブログは2014年5月に書かれたものだが、諸般の事情によりここに再掲した。

        

「武道」という風景(3)

 禅寺の玄関を上がり参禅者名の記入のため座布団に座ると、目の前の壁に次ぎのようなことが墨書した紙が貼ってある。
「他人の禅定を批判することはけしからぬふるまいである」という厳めしい一文を読まされることになる。
 内田樹氏の「武道的思考」にも「以前、他人の技を批判してはいけないと先生に教えていただいたことがある。どうして他人の技を批判してはいけないのですかとお訊ねしたら、先生は『他人の技を批判しても、自分の技がうまくなるわけではないからだ』と答えられた」
 タイトル「論争するの、キライです」に書かれていることであります。
「私はこれまでいくつかの論争を読者としてみてきたが、論争の勝者から学んだ知見はあまり多くない。むしろ論争で勝つ側の人間は、別のかたちで何かを、それも論争の勝利で得たよりも多く失うということを学んだ」と書いている。さすが「私の身体は頭がいい」という文庫を出した人らしい。内田氏は難解で知られたレヴェナスの研究家で翻訳家。卒論はフランスの哲学者メルローポンティーだという。学生時代から私も惹かれた哲学者で、「海の賦」(幻冬舎2017年)を自費出版したとき、収録した「アンリ・マテュス試論」はポンティーの身体論から学んだことを滋養として、ブリジストン美術館で昔見ていたセザンヌの肖像画の印象がその起点となっていた。ポンティーの「眼と精神」は画家について私を啓蒙し多くの啓示をうけた書物でした。
「画家は『その身体を携えている』とヴァレリーが言っている。実際のところ<精神>が絵を描くなどと考えてみようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。この化体(けたい)を理解するためには、働いている現実の身体、つまり空間の一切れであったり機能の束であったりするのではなく、視覚と運動との縒(より)糸であるような身体を取りもどさなくてはならない。」
 前回の文脈でいうなら、現代における身体表現へのパラダイムシフトに寄与した一人としてメルローポンティーは看過しえない哲学者だろう。内田氏はポンティーの「肉」(la chair)に強く惹かれたらしいが、武道への志向は身体知から発出してきたもので、合気道は偶然の出会いであったという。合気道を始めた者が、長い居合道歴を紹介したときから、初心者であるにもかかわらず痛烈な技を仕掛けられ閉口したことがあったそうだ。開祖の植芝盛平へ尊敬はありながらも、それ以上、畳の道場での稽古は遠慮をしたと仄聞したことがありました。修行人口が増えるに従い、武道においても質の低下は避けられないようです。あるいは、これらも後に述べる戦後における武道のスポーツ化がもたらした弊害なのかも知れません。
 幸田文が父・露伴から家事を習ったとある。露伴は「薪割りをしていても女は美でなくてはいけない、目が爽やかでなくてはいけない」と娘に教えたらしい。
 鉈は「二度こつんとやる気じゃだめだ、からだごとかかれ、横隔膜をさげてやれ。手のさきは柔らかく楽にしとけ。腰はくだけるな。木の目、節のありどころをよく見ろ」と言った。横隔膜を下げろとは腹式呼吸で、胸に息をたくさん入れろということであり、丹田に気を落とせということなのでしょう。
 次ぎは文が露伴の雑巾がけの姿を書いたもので、関川夏央「家族の昭和」(新潮社、2008年)の内田樹からの孫引きですが一読に値するものと思われました。
「すこしも畳の縁に触れること無しに細い戸道障子道をすうっと走って、柱に届く紙一ト重の手前をぐっと止る。その力は、硬い爪の下に薄くれないの血の流れを見せる。規則正しく前後に移行して行く運動にはリズムがあって整然としてい、ひらいて突いた膝ときちんとあわせて起てた踵は上半身を自由にし、ふとった胴体の癖に軽快はこなしであった。」
 内田氏は書いている。「どうやって身体と雑巾と板目を『なじませる』のか、どうやって身体と鉈を薪を「ひとつのもの」として操作するか。雑巾がけが爽やかに、美しくできるようであれば、人間としてかなり「出来がよい」と判定できるという評価法が露伴の時代まではしっかり根付いていたのである。」
 露伴が教えようとしているのは、「主体」と「対象」の二項対立をどう離れるか、ということだ、と。
 「私」が「剣」を「揮(ふる)っている」というふうに、主語と他動詞と目的語の構文でこの動作をとらえている限り、この反復練習はただの苦役であり、そんなことのために時間を費やしても意味がない。脳ではなく、身体で考える人間を、養老先生は「野蛮人」と呼称し、これを内田氏は「入力」ではなく「出力」を軸に世界を文節するタイプの人間と言い換えています。
 コロナ禍の現在、体育館等の広い稽古場の利用できない。戸外で真剣を揮うことは禁じられている。であるなら部屋の中での稽古をするしかない。身体で考えることを稽古の基本にすればいいのだと、私は床の雑巾がけから始め、マットの上での柔軟体操のあと、正座の基本から、身体をもって考えることをやりだした。足の腿と踵と尻の関係を試行錯誤して身体に聞いてみる。正座の姿勢が横からみて、ちょうど木刀を床に立てた線に似ていると、八段範士から教わったことを思いだす。股間節の微妙な動き、首から頭にかけての傾斜は、仏像に似ているのは不思議な符号ではないか。私も「身体の内側で起きていることをモニターする」という稽古の基本から始めたのであります。すると、50年前に大学の授業でとった「柔ら」の先生やら、稽古中に聞いたさまざまな「声」が身体の中に、甦りだしたのには驚きました。あたまが忘れてもからだは覚えているのす。
 昔、参禅していた禅寺の老師がその後、静岡県三島の龍沢寺の老師におなりになったが、静まった坐禅の最中でも「死坐禅」をしている者へ、「うるさいゾ!」と一喝されたのには驚かされました。「首が斬られても動じない心構え」を要求されたのを思いだしたのです。稽古の前後に結跏趺坐の坐禅を日課としました。
 頭をゼロにして、呼吸をならうためなのだ。内外の海で30年ほどダイビングをしてきたが、初心のころは、背中のボンベから吸う空気と吐く空気の音がやけに耳に聞えた。人間は呼吸をして生きていることを気づかせてくれました。もしボンベから空気が遮断されたならと考えるとゾッとしたものです。NHKの高校講座の生物で、「呼吸は酸素を用いて、有機物を二酸化炭素と水に分解をし、エネルギー(ATP)を取り出す反応」と教わったが、海から陸にあがった生物がエラ呼吸から肺呼吸を覚えることに、どれほどの時間を要したのか。一時、私の顎関節症の治療にあたられた医師はやはり三木成夫を尊敬していましたが、肺呼吸に失敗して海に戻った鮫の研究をしていると仄聞したことがありました。信仰は呼吸のようなものだと言ったのはかのパスカルであったか。
「ふだんより時間があるので、呼吸法をする。呼吸法をしてから形を遣うと動きに『甘み』が出てくる。」とはくだんの本に記されていることである。『甘み』とはなんという表現だろう。これは身体で感覚してみれば、自ずから知られることだろう。
 私は老師から数息観を教わったが、これは心を静め三昧の力を養う修行の方法です。内田氏は武道はスポーツではないとはっきり言明しているだけではありません。GHQの禁制をかいくぐる方便として武道はスポーツの仮面をかぶったが、「日本の武道史上最大の失敗は、生き残るために政治的工作をしたことではなく、政治的工作をしたことを隠蔽したことだ」と指摘をしています。これは加藤典洋の「敗戦後論」を想起させますが、武道の生き残りのための「適応」であり、本筋からの逸脱であった。その「適応」に無言の指示を与えたのは日本国民だが、その「適応」を逆に冷静にたどろうとしなければ、武道は「還るべき原点」を見失うと述べています。これは大変に重要な言葉です。剣道が当てっこに成り下がり、柔道が勝てばいいとその技が拙劣となり、居合においても段を欲しさに裏金が動く不祥事があるならば、戦後75年の現今の政界同様に、その退廃は目を蔽いたくなるでしょう。
「刃筋が通る」ということはどういうことかを実感すること、剣には剣固有の動線があり、人間は賢しらをもってそれを妨げてはならない」(「武道的思考」P43)
 そこからレヴェナス研究家の内田氏は深甚な疑問に逢着します。武道の「主体」とはいかなるものであろうかと。近代の「野蛮人」として、内田氏はこのデカルト的な省察を、「『我思う』ゆえに『我あり』ではなく、『我思う』ゆえに『思う』あり」の方に分岐する、と述べています。「主体なんてなくてもぜんぜん困らないし、むしろそのようなものはない方がましだ。こうした逆説的状況に学生諸君を投じるために、お稽古をしているのである」と、内田氏はデカルトの有名な仏語を、つぎのように書き改めました。
 Je pense donc ça se pense .


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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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