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加藤典洋 Ⅲ

 林芙美子が最晩年に書いた小説「浮雲」の終わりごろに、病床のゆき子が「東京裁判」に思いをよせるくだりがある。
「その、小さなラジオを眼にとめて、富岡が、ダンズ曲でも聴かせてくれと云ったが、ゆき子は、わざとダイヤルを戦争裁判の方へまわしたものだ。二世の発音で、
「貴下、その時、どうお考えでしたか?」
 といった丁寧な言葉つきが、ラジオから流れると、富岡は、そんなラジオは胸が痛いから、アメリカのジャズでも、聴かしてくれとせがんだ。ゆき子は、むかっとして云った。
「私や貴方もふくまれているのよ、この裁判にはね。―私だって、こんな裁判なンて聞きたくないけど、でも、現実に裁判されている人達があるンだと思うと、私、戦争ってものの生態を、聴いておきたい気がするのよ」
        (「浮雲」63章)

 「敗戦後論」を書いた加藤典洋が、林芙美子の「浮雲」についての感想を記したことがあるだろうか。日本の敗戦による「ねじれ」を問題にした加藤が、戦前と戦後の小説家や思想家の変化と動向にむけた鋭敏な注意を、もし「浮雲」という小説に集中させて論じていたなら、どのような文章を綴ることになったか、これは非常に興味を惹かれる想像である。
 なぜなら、1995年(昭和60)に発行した第三詩集「カモメ」の「あとがき」で筆者はこう記していたからである。
「戦後50年というらしい。敗戦小説の傑作「浮雲」のなかで、林芙美子は『みな、いきつく終点へ向かって、人間はぐんぐん押しまくられている。富岡は、だが、不幸な終点に急ぐことだけは厭だった。心を失う以上は、なるべく、気楽な世渡りをしてゆくより道はないと悟った。』
 これが過去のまた現在の日本における生活者の感慨である。これ以上なにを語る必要があろう。」
 「浮雲」の登場人物である「富岡」は戦前から戦後を生きていく日本の庶民の典型であろう。だがその富岡から離れられない「ゆき子」は屋久島の病床から「東京裁判」のラジオに耳を傾けながらも、
「私や貴方もふくまれているのよ、この裁判にはね。―私だって、こんな裁判なンて聞きたくないけど、でも、現実に裁判されている人達があるンだと思うと、私、戦争ってものの生態を、聴いておきたい気がするのよ」
 と、ダンス曲でも聴きたいという富岡へ反論するのである。死の淵に喘ぎながらもロマンチックな過去へのノスタルジーを捨てることもできず、「東京裁判」の被告達に自分たちも含まれていると揶揄ともとれる一言を放つゆき子には、作家林芙美子の戦後の時代認識が投影されている。
 加藤の批評の立場からすれば、富岡は高度経済成長を遂げるまでの昭和の戦後を逞しく生き抜いていく日本の大衆の一人、20世紀の文明を世界にもたらしたアメリカ(対話集「アメリカが見えない」青木保・対談)に無意識の深層まで浸透され、加藤の説くジキル氏とハイド氏という二人の人格に自己分裂している私たち日本人の大多数にほかならない。富岡に批判的な態度で接するゆき子は、戦前の日本への憧憬をひきずりながらも醒めた目を保持している。この男女の戦争体験の微妙な陰影の相違のうちに、加藤の戦後批評の磁場そのものの反映をみることができるといってもいいだろう。敗戦により生じた「ねじれ」は、メビウスの帯のように表は裏と反転が可能な構造となっている。ゆき子の反面は富岡の反面と交換が可能なのだ。「浮雲」の男女二人の腐れ縁の関係は、加藤の批評の両義的な構造を鏡にみるごとくに映している。昭和の作家林芙美子の真価は、加藤の説くところの「ねじれ」を、男女の肉感的な関係性として描きえたところにある。林が前年に書いた短篇「下町(ダウタウン)」は、シベリアから帰る良人をまちながら、下町で茶を行商するりよという子連れの女をスケッチ風に描いているが、一夜懇意となった鶴石という男が工事現場の事故であっけなく亡くなってしまっても、「鶴石を知ったことを悪いといった気は少しもなかった」とりよに言わせて憚らない。敗戦後の「下町」の短篇に比較を絶する熱量をもった長篇の「浮雲」が「敗戦小説」の傑作である所以は、戦争の総体を男女の恋愛という「対幻想」(吉本隆明)で描ききった作家の圧倒的な力量にある。短命に終ったとはいえ、林芙美子は、大岡昇平同様に「戦後を敗者として生きた」一人の作家であり、「ねじれ」を最後までもちこたえた女性にちがいない。加藤の「敗戦後論」の軸となる倫理の基底を食い破りかねない熱量が、この作品に生彩あるエロスの輝きを放ってその魅力ある文学的な地歩を獲得している。「浮雲」の登場人物である二人の男女の関係には、加藤の「敗戦後論」のモチーフを喚起する格好の舞台であり、加藤の戦後批評の考察対象として、立派な補助線となり得るものがあった。そこから、上記のような想像が誘発されてくるのだ。
 そしてここから、加藤がなぜ最晩年に太宰治が「底板」を踏み破り、最後の自死にいたる一押しとなった戦前の作品「姥捨」に注目するその理由が、「浮雲」のゆき子と富岡両人の背後からせり上がってきたはずであろう。
 さらにまた、前述の仮説から、姜尚中との対談(「敗戦後論」とアイデンテティー1996年)における加藤の発言に注目をむけざるえなくなるのだ。
「日本の戦後にはあるねじれのような構造がある。それを本当に解決したならば、『一人の死者を弔うことによって三百万の死者の枠をくぐり、二千万の死者に直接届く』、そういうあり方を編みだすことができるかもしれない」(下線-引用者)
 これは「敗戦後論」発表の渦中にあった加藤が対談のさなかに洩らした夢想の断片だが、後述する「完本『太宰と井伏ーふたつの戦後』に関わる大事なメッセージと思われる。なぜなら対談中に加藤の脳裡を擦過したこの夢想は、病床にあった加藤に本格的によみがえり、熟考を促してその再説の力を奮い立たせるものとなるからだ。
 加藤は戦前・戦後の小林秀雄の批評から多くを学んでいる。敢えて戦後の批評の課題をさらに深掘りして考察しないではいられなかった。初期に書いた「新旧論」に顔をのぞかせていたものはまさにそれであった。加藤自身が「私の原論」と称した「日本人の自画像」が小林の「本居宣長」を読み破る体の真剣な情熱の持続に貫かれているのはそのためだ。さらには戦中派の江藤や吉本という二人の批評の意味をも吟味しなくてはおれない時代の要請がこれに続いた。デビュー作「アメリカの影」が尊敬をしていた江藤批判になったのはその故だ。特に、吉本の「共同幻想論」と「存在の倫理」(対談)思想から示唆され、そうした場所で展開された加藤の戦後批評の位置からすれば、完本「太宰と井伏ーふたつの戦後」に最後の一考察を加えないでいられない使命の自覚が、加藤を動かさないではいなかったのである。
 それが太宰が故郷から東京へ連れてきて、弊履のように捨てた一人の実在の女性である初代であった。このとき、加藤の関心はつぎのようにその立ち位置を変えているのだ。
「その足場を一言で言うと、生きている人間の場所、ということになるだろう。あるときから、生きている自分が、自殺することを選んだ太宰や、三島由紀夫にあんまり共感するのは変だよ、と思うようになった。そこから考えていると、どうも自分が苦しくなる」(単行本「言葉の降る日」あとがき 2016年9月)。
 この加藤のつぶやきには、近代文学に対する注目すべき変化の眼差しがあり、「もうすぐやってくる尊皇攘夷の思想のために」(2017年)の思考に先立つものだが、ここでは論を先に進ませてもらうことにする。
 加藤が最後に執った筆が、現実の戦争下に青島で孤独のうちに死んだ実在の女性を浮上させ、太宰にとっては過去の腐れ縁でしかなかった初代という女が、戦前における太宰の4回の自殺未遂以上に重い存在として、戦後の太宰その人にのしかかった倫理的な拘束となったこと、そのことを独自の直感で掴みえたとするならば、加藤典洋が展開した戦後批評における看過しえない業績としてこれを認めねばならないからである。
「日本の戦後にはあるねじれのような構造がある。それを本当に解決したならば、『一人の死者を弔うことによって三百万の死者の枠をくぐり、二千万の死者に直接届く』、そういうあり方を編みだすことができるかもしれない」という加藤の夢想の一瞬は、太宰治の実存の底からじわじわと戦後の太宰に浸透し、これを包み込んだとみえたのだ。
「この小山初代の蘇りは、「純白」の心からする(戦争の死者たちへの)後ろめたさを凌駕しただけではない。『姥捨』の、人間は『生きていさえすればよいのだ』という実存の底板をも、踏み抜いている」(文庫本「太宰と井伏」再説 2019年3月)。
 これは太宰治という作家のこれまでのステレオタイプの見方を転換させるほどの重要な指摘ではあるまいか。
 ここに、加藤典洋という人間が戦後の太宰治の自殺に掴んだ、「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」との宣明、その「世界」からの新たなメッセージ、「生きている人間の場所」というこれまでと違った角度から、「戦後の未来」へ向けての真率な提言が為された由縁のものなのである。





「武田泰淳」雑感

 近頃、新聞等に載る諸々の意見を読んだあと、どれもうまく書かれていると思う一方、なにか食い足りなく、空漠たる印象しか残らないことに気づかされることが多い。短い論文もそうだが、文芸評論が実に味気ないものになった。このことは自分も含めてのことなので、あまり大きな声で言えることではないのだが、どうも戦後生まれの人間には、大岡昇平ではないが、「戦争を知らない人間は半分子供のようなものだ」ということばがフト思い出されるのである。「戦後」などというと、まだ日本人は「戦後」から脱しきれないのかと、どこからかお咎めを受けかねない。しかし、さきに当ブログで紹介した「永続敗戦論」のような「戦後論」が、30代の学識者が書いて、なかなかのインパクトを感じるということは、素直な反応であることは否定しえないだろう。昭和天皇以来、8月15日の終戦記念日の式典で、天皇・皇后の言葉は同じ内容で語られているが、翻ればあれはなんなのかと考えてみるがいいではないか。歴史は誰もあまりに有名なことばなのでその意味を噛みしめようとしないが、「歴史は現在と過去との対話」(E・H・カー)なのではないか。
 冒頭の話題に戻ると、そうした索漠たる思いは、書かれた内容が頭がいいとか、よく研究して勉強をしているとかには関係のない、なにか精神と肉体の中核に本物の芯が抜けているのではないかと、自省せざる得ないところにあるのだ。思想関係の書物を読んでも、ほとんどが他人の思想の借りもので、それを自分なりに咀嚼して、よくまあ勉強しました、よく整理できましたね、ご苦労さんと二度とそれを手に取り上げようという気は起こりようがない。そんなものが本になり、数万も数十万も売れようと、どうでもいいことなのである。或いはなんとか賞に当選した受賞したとかいう報をきいても、ああ、そうですかと、それで終わりなのだ。
 どうも私もふくめ多くの人間が、ふかく精神の「不感症」に陥っているのでないだろうかと、そら恐ろしくなる。そんなとき、書架から取り出すことが多いのが、「滅亡について」(武田泰淳・文藝春秋1971年刊)である。また今夏はこの猛暑のなか『才子佳人・蝮のすえ・「愛」のかたち』の文庫本をネットで買いこみ、再読してみたのだ。むかし読んだときは解らないながら、なにか重たく、底深いものがあると触知した記憶が残っていたからかも知れない。だが吉本隆明が、戦後文学では太宰治と武田泰淳の二人にだけに可能性を見いだしていたのは炯眼であった。太宰は高校生のときに、奥野健男の「太宰治論」と共に、よく読んだが、武田泰淳はその後であった。今度、この文庫本を二度読んでみたが、その広闊、重層、深淵、多彩な筋と方法、人物と形式には、めまいのような感覚を覚えた。
 「滅亡について」は多くの論者が語っているので、屋上屋を重ねたくはないが、日本内地ではなく、上海での敗戦体験が、司馬遷の「史記」読後に氏の世界認識の布置を変えた(この下地はポーの「ユウレイカ」にあったようだ)ことと関連しているのだが、「女について」というエッセイも見逃しがたいのは、小説『「愛」のかたち』の「町子」という人物が、「不感症」であるという暗示がいったいなにを意味しているかを考えざるお得ないからである。これは氏の小説に頻出する「無感覚」という形容詞とも関連する。
 「或る女」を書いた有島武朗を氏がねたむほどに、氏は「女」を書くことに執着するのは、女は作家の技術のモンダイではなく、「作家は女とともに生きることによって、はじめて自分が何者であるかを知る」存在であるからなのだ。武田泰淳は中国研究家でもあった。氏は竹内好と共に中国をよく知っている人物なのだ。すこし飛躍するようだが、隣国の中国という存在が、今後の日本にとって、恰も泰淳の「女」への真摯な姿勢と同等の意味と重みをもって来ることと無関係ではないのである。
 小説『「愛」のかたち』の「町子」が複数の男を翻弄するかのような「かたち」が、このアジアの政治状況に現れない保障はどこにもない。少なくとも作家たる人間はそうした混沌たる近未来の可能性に、その想像力の膂力を養っておかなくてはならないのだろう。
 この連日連夜の猛暑の統計上の数値は報道されている。この「異常気象」が確かに自然現象であることは疑問の余地はないが、果たして外界の「自然」は人間の「内なる自然」と無関係に存在しているものなのであろうか。


注:2013.8に当ブログに掲載されたが、ここに再掲する。




加藤典洋 Ⅱ

 或る人間がどのような時代に生れ精神的に生き始めたのか。その人間がその時代をどのように感受して、そこに如何なる問題意識を育みに至ったのかは、看過できない重要な事項である。誰よりも本人がそのことに自覚的である場合、その人間の像へ光りとあてるには正面から向かういがい方法はないであろう。

 「ぼくはぼくであることについてはたして自由だろうか?」
       J.M.G.ル・クレジオ『物質的恍惚』

 青年期にすでにこうした自問を抱懐している青年に、時代や社会などという外的環境が当の人間の思考に及ぼす影響を考慮しても無意味だろう。だが知的な構造だけがその人間の思考をつくるわけではない。いかなる知的な人間といえど、感性や感情に包まれ、またはそれを生涯に亘ってひきずっているはずだからだ。
 だがこのル・クレジオのことばにあるのは、自己自身を白紙還元しようとする、はげしく根源的な意思である。まっさらに生まれ変わろうとする野性の本能の端的な表明である。これこそ嘗てフランスの詩人にして哲学の徒ポールヴァレリーが精神における第二の誕生と呼んだものだ。

「水の中で水が沈む。波がためらいながら遠のいていく。弱々しい水の皮膚を透かすと、ひとつの表情が、その輪郭を水に滲ませてぼんやり微笑んでいる。」(応募小説「手帖」銀杏並樹賞)

 学生時代に書いた小説の冒頭である。すでに特徴ある比喩の多用が見られ、あたかもサナギがその幼虫の背中からおずおずと羽根を覗かせているような初々しい書き出しである。
 偶々にも、文芸評論家になったともいうべき加藤典洋に窺えるものは、自己を白紙還元させよう、まったきの根源的な精神と思考の誕生、先鋭にして広闊な感性、好奇心溢れる柔軟なる感覚との類い稀な合金といえるものである。だがその青年が中原中也の詩的世界に没入している光景には、余人の容喙を拒む内密な精神の世界を窺わせるものだ。「最大不幸者にむかう幻視」に次いで、千枚を超える中原中也の草稿を紛失する事故に至っては、中原中也との運命的な交錯さえ予感させずにおかない。ここには青年期にありがちな反時代的な身振りは微塵もない。時代はそのとき三島の割腹自殺、連合赤軍の陰惨なる政治的な状況の渦中にあったからである。
 1966年(昭和41)の19歳から1977年(昭和53)の29歳まで、加藤典洋の青年期はこうして過された。平凡といえば平凡、非凡といえば非凡な文学青年の10年である。後に、50冊ほどの著書にすがたを現わす二層構造とその逆説、反転に反転を重ねる渦巻、催眠状態への陶酔と覚醒、捻転の自覚と快癒の希求、こうしたアクロバットな逆立の精神の歩行は、加藤典洋なる特異の思考スタイルを特徴づけるものである。
 そして、ここに「自分と世界と戦いでは、世界を支援せよ」(カフカ)という客観「世界」からの内的な要請を自己の課題としたとき、かれは頑健な文学の徒でありつつ、かつまた強い倫理感にあふれた文藝批評家となって、かれの71年の人生のアラベスクを見せてくれることになるであろう。





加藤典洋 Ⅰ

 加藤典洋が後年に書いた自筆年譜によると、「無期限スト終結宣言のないため、時々孤立した文学部共闘会議の少数の集会に参加するほか部屋で無為にすごす。ただ一人読める日本語の書き手として中原中也の詩と散文を読みつぐ」と1970年(昭和45年)学生であった著者の年譜を記している。また、エッセイ、小説、表現論、芸術論、評論などを執筆活動中、三島由紀夫の自決にあう。同年、大学院の試験を受けて落第。翌年もほぼ執筆と発表を続ける。就職のため数社の出版社に受験するがすべて失敗。72年2月、連合赤軍事件に衝撃。4月、国立国会図書館に就職。結婚した妻と中原中也の生地、山口県湯田を訪問した。
 この一文は加藤典洋という文芸批評家の評伝ではないので、身体の不調により入院した最期のベッドで記した自作年譜から、初期のプロフィールの特徴となる一断面を切りとったまでのことである。
 2019年(平成31年)5月、都内病院に入院加療の末死去。享年71歳。

 さて、1995年「敗戦後論」で戦後50年の歴史認識を問い直し、斯界に衝撃を与えた批評家の加藤典洋が、2017年10月に原稿千枚超の「憲法9條論」を脱稿後、体調をくずしたまま、その後2年足らずで不帰の人となるとは誰が想像しただろうか。「もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために」(以下「尊皇攘夷思想」と略する)は2017年の8月に刊行された。この本のサブタイトルは「丸山眞男と戦後の終わり」というのである。「尊皇攘夷思想」はこの本の第一章題「21世紀の日本の歴史感覚」の冒頭、「300年のものさしー21世紀の日本に必要な『歴史感覚』とはなにか」の講演とセットになっている。加藤が「敗戦後論」からほぼ20数年後に刊行した「尊皇攘夷思想」は、上記のように一見ものものしい形容がつけられているのは、20年の時間を経て著者の胸中に生成された「自画像」の真率を現わしているだろう。実質的に加藤のこの最後の書物は、「Ⅱ スロー・ラーナーの呼吸法」「Ⅲ 『破れ目』のなかで」「Ⅳ 明治150年の先へ」という三つの章立になり、内容は著者の生涯の掉尾を飾るにふさわしい射程と深みを持った格調を示している。
 特異の思考からの反転と熟考を重ね、先鋭的ともいえる広い視野に亘るその批評活動は、1948年という戦後生れの一批評家に独特な陰影を形成している。この一文はその特徴ある批評家がたどった含羞さえにじませた率直な思考の軌跡をたどり、その思考の斜面に照明を当ててみたいというささやかな試みである。





「江藤淳と加藤典洋」ー二人の批評家

 先日、七百頁を越える「江藤淳」の評伝を読んだ。六十六歳で自らを処決した文芸評論家の生い立ちからその一生を、元編集担当者がおよそ7年の歳月をかけ、江藤淳なる人間の文学と人生を最大洩らさず、その秘事まで白日にさらした尋常ならざる本である。巻を措く能わず、夜に日を継いで読んだところだ。読み進むにつれて恰も江藤の霊が憑依したかのごとく、読者を圧倒する熱情の結果は長編の力作評伝としても比類ないものと思われた。
 一文人の偉業を追慕し再度この世に甦らせるに、著者がはらったエネルギーには瞠目すべきものがあるが、なによりも、江藤淳なる人物にそれだけの力量と才覚があったからに相違ない。その出自・家系もさることながら、生前の氏の実績と履歴がそれを要求し、著者はそれに応じての忠実なる伴侶として、これを勤めたその努力には敬意を払わざるえないところだろう。
 これに比べるべきもないが、今年の5月に71歳にて病没した文芸評論家の加藤典洋氏への追悼の一風景が思い返されてならない。それは本人の死生観に拠ってきたるところでもあるのだろうが、あたかも一匹の猫がこの世から姿を消すかのごときありさまには、現今の世相と出版事情とが相俟つものと推察され、なにやら薄ら寒い思いを覚えたのところであった。知見の限りでは、「群像」8月号の高橋源一郎の「論考」及び「すばる」8月号の橋爪大三郎外2名の片々たる追悼を瞥見したのみであった。こちらは東北は山形県人にして遅咲きのデビュー、他方は湘南出の早熟の才の上に、目端のきいた世渡りのグッドスイマーにしてネットワークとバックボーンには些かも支障なしとなれば、かれがの相違はもとより論を待たないことであった。浩瀚なるこの評伝にも触れられていたところであるが、加藤氏は江藤淳を批判することによって文芸評論家として最初の歩みを印したことは確かなことだろう。時代は異なるとはいえ、大岡昇平からの資料のスケットを得て、小林秀雄氏をスプリングボードに批評家として立った江藤淳氏も同様のことは、縷々この評伝に記されているとおりであろう。
 題41章、戦後体制への異議申し立てにおける、「なぜ平野謙批判から始ったか」に次ぎのくだりがある。
「ヒント(最晩年の病人・平野に、江藤氏が死者に鞭打つ仕打ちにでたー引用者注)は加藤典洋の江藤淳論の書『アメリカの影』の中にあるといえる。加藤は(無条件降伏)論争の四年前に出た江藤の英文著作『ある国家の再生―戦後日本小史』に、「日本は無条件降伏した」と明記しているのを隠して、平野を批判した態度を「不明朗」だとした。その部分には、こう書かれている。「1945年8月15日正午ちょうど、天皇はレコードに録音された肉声によってラジオの全国放送網を通じ、日本の連合国に対する無条件降伏を発表した」(加藤訳)。日本では流布しない英文の本とはいえ、確かに不明を恥ずべき江藤の汚点であろう。この江藤の英文によく似た一文が、実は平野の『現代日本文学史』にはある。江藤が平野攻撃のために引用した文の直前である。
「かくて昭和20年8月15日の昼さがり、無条件降伏をつげる天皇の声は、電波にのって全国になりひびいたのである」
 江藤が平野の文章を批判しなければならなかった理由は、引用しなかったこの部分にこそあるだろう。江藤は「光栄ある敵」である平野の名を借りて、自身の文章を断罪したのである。(略)己への断罪の隠蔽をさらなるエネルギーにして、江藤は無条件降伏以後を戦ったのではないだろうか。」
 著者はこうした推測の根拠を解明するため以降の数頁を割いて江藤援護の論陣をはる周到ぶりはみごとという外はない。生前の江藤淳氏の業績を追いかけ、その透徹した洞察と鋭利な分析、ブリリアントな語学力と広い教養、明敏なる文章に時を忘れたむかしが思い出されてならない。「諸君よ」と呼びかけ自ら処決して人生を断ち切った英明なる評論家の胸中を思いその熱い志を、墳墓から今一度この世に甦らせようとの計らいは同慶の念を禁じがたいところである。
 さらに、「『平成』の虚妄を予言し、現代文明を根底から疑った批評家の光と影―。」と帯に記されているこの本が、精密にして戦意に溢れ、酷烈にして秀抜な評伝であることを肯わないわけではない。
 だが、ひっそりとあの世へ旅立った同時代の一人の批評家は、その息子の不慮の死から「彼は人が死ぬとうことがどういうことであるかを教えてくれた」と「人類が永遠に続くのでないとしたら」(2014年)の「あとがき」に記しさえした。なによりも江藤淳が第一回三島由紀夫賞にノミネートした高橋源一郎が先の「論考」で評価したこの書物の「序 モンスターと穴ぼこ」に、加藤がみた福島原発事故からの「無ー責任の世界」の現実と危機は、原子力行政と電力会社の不祥事をみるまででなく、江藤氏が批判した「ごっこの世界」でも「『平成』の虚妄」でもないのである。加藤の遺書ともいえるこの書の先見的な思考に注目し、さきの戦争で犠牲となった内外の死者たちへの追悼に深甚なる思慮をさぐりつづけた批評家を偲ぶとき、この本の端々に濛々と渦巻くある種の尊大なる姿勢に、いささか眉を顰めざるえないことを正直告白せざるえないだろう。
 さて、明日は令和の時代の幕開け、即位礼正殿の儀はすぐ目前となった。


注:2019.10に当ブログに載せたものであるが、加藤典洋の関連で再掲する。



プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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