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「ヒトゲノム」について

 先日のブログに「ヒトゲノムのうち、膨大なDNA配列の2%」ということについて、一女性から疑問がよせられました。実は筆者も「なんでやろう?」という思いがあったのです。そこで養老先生の後輩から、つぎのような親切な回答がありましたので、感謝を申上げつつ、これを掲載したいと思います。コロナとの共存という専門の先生のいわれることが、ちょっと腑に落ちていかない人には、すこしでも参考になれば幸いです。同時に、このことは現代文明へのある意味での警鐘とも思われます。Y先生、ほんとうにありがとうございました。

 「ヒトゲノムのほとんどは不要不急」ということについてですが、実はその通りで、ヒトゲノムの中で「意味がある」のは、膨大なDNA配列のうちのたった2%程度とされています。

専門用語では「意味がある」部分をエクソン、「意味のない」部分をイントロンと言います。あらゆる生命活動の基本は蛋白質ですが、人間の体内でそれが合成される際に、細胞内構造体によって膨大な遺伝子情報を解析する作業が行われます。そこで「エクソン」と「イントロン」の識別が行われます。

つまり細胞内構造体は、DNAの中の不要なイントロン領域を切り捨てて、必要なエクソン領域だけを抜粋して読み取ることで、身体のあらゆる蛋白質を合成していくのです。

ヒトゲノムを一つの図書館に例えるとわかりやすいかもしれません。その図書館には、人体に関する情報が書かれた膨大な数の本が収納されています。しかし、意味のある文章が書かれている本は全体のたった2%で、残りの98%の本は、意味のない文字列で埋め尽くされていて、それらは人体を構成する上でまったく役に立たないのです。

ここで疑問が生じます。「なぜそんな意味のない大量の本を、この図書館はわざわざ保管しているのだろうか?」と。

蛋白質を合成するときに、細胞内構造体は毎度毎度、エクソンとイントロンを分別しなければなりません。これは余計な労力です。最初から不要な本を捨て去って、図書館の中に必要な本のみを保管しておけば、毎回分別をする手間が省けるはずです。

ところが、大変面白いことに、現代の遺伝子研究によって明かされたのは、「高度に進化した生物ほど、長いイントロンを持つ」という事実でした。つまり、遺伝子の中に「不要なもの」をたくさん残している生物ほど、生存競争に勝ち残っていることがわかったのです。

本来であれば、不要なことにエネルギーを消耗する生物は競争の中で不利になり、滅んでしまうはずです。なのにどうして、上記のような現象が起きるのか。これは現代生物学における大きなテーマの一つです。

そして最近の研究によって少しずつ判明してきた有力な説の一つが、「そのほうが想定外の事態に強くなるから」というものです。

これも図書館に例えるとわかりやすいです。我々生物の細胞は、常日頃、内外からの様々な刺激を受け、DNAが損傷します。それは例えば紫外線であったり、細菌やウイルスからの攻撃であったり、あるいは細胞内部で癌のもとが自然発生することもあります。これらの刺激は、言うなれば「図書館に泥棒が侵入して、一部の本を盗んだり、落書きをしたり、破り捨ててしまう」という事態です。

ところが、ヒトゲノムという図書館の98%の本は「意味のない本」であり、泥棒が多少の悪事を働いたとしても、わずか2%の「意味のある本」に被害が及ばないかぎり、人体にはまったく影響がないのです。

もしヒトゲノムの遺伝子すべてが「意味のある」配列であった場合、外からの刺激をほんの少し受けるだけでも、途端に人体の設計図に狂いが生じます。しかし98%が意味のない配列だからこそ、多少のイレギュラーな事態が生じても致命的なダメージを受けることなく、余裕ができて、柔軟に事態に対処できます。

これこそが、生物が進化を繰り返す中で、不要なはずのイントロン配列をあえて遺伝子内に蓄えてきた理由ではないか、と考えられています。

これは科学の話題ではありますが、しかし、私たちの日常生活にとっても重大な教訓になる気がいたします。合理主義的な現代社会に生きる私たちは、ついつい「不要なもの」「無駄なもの」を切り捨てて、効率化を図ろうとします。日常のほんのちょっとした遊び心、機微や情緒、あるいは長く受け継がれてきた伝統や文化ですらも、論理的な「計算」によって「数字」が出せないものは解体され、否定されてしまう。そういう場面に少なからず遭遇します。

もちろん計算は大切です。しかし、一分の隙もない計算によって無駄を100%排除した完璧な計画というのは、逆に、たった一つの計算が違ってくるだけで歪みが生じて崩れてしまいます。

コストカットで効率重視の生き方をすれば短期的には利益が出るかもしれませんが、長い目で見ると、一見無駄なものを捨てずに持ち続けるほうが、いざという時に応用が効いたり、予想外の事態でも自分自身を保つ支えになったりするものです。生存に不必要なものこそが人生の面白みや深みに繋がり、それらを大切にする人は、むしろどんな非常事態にも動じない安定感がある。そんな気さえします。

この地球に生命が誕生して39億年。とてつもない時間をかけた試行錯誤の中で、生物がたどりついた答えもまた、「無駄を大切にする」という方針でした。遺伝子における不要不急のイントロンの存在は、そんな物語としても解釈できるのではないかと思います。

また、イントロンの存在理由については上記以外にも様々な研究成果が出ております。やはり図書館に例えるならば、「意味のない本」は単に泥棒対策になるというだけでなく、実は通常状態では意味がわからないだけで、非常事態になるとそれらが暗号のように意味を成して、図書館全体の危機に対処するための道具の設計図となる。そういった「隠れた重要機能」があることも徐々に判明してきています。しかし一方で、未だに不明な部分もたくさんあるのがイントロンの奥深さです。

現代の科学技術をもってしても一筋縄でいかない謎に包まれた遺伝子配列、イントロン。生命が実に39億年もの時をかけて紡いできたあらゆる知恵の結晶が、その「無意味な配列」に詰まっているのかもしれません。

以上、回答とさせていただきます。
この回答自体も冗長で無駄な部分があるかもしれませんが、それもまたある種の「イントロン」ということで、温かい目で見ていただければ幸いです。

 以上、たいへん温かい説明で、ホンワカとしてきますね。まみちゃん、すこしでも、理解がふかまったらいいですね。





祖母遺文(1)

 手元に一葉の写真がある。それは四歳ごろの私が椅子に座った祖母の膝に左腕をもたせ、その腕を祖母の大きな両手が握るよう被さっている。祖母の右膝にからだを寄せかけ、私は写真機をながめている。春か秋の陽射しは左斜め前からさし、祖母の座った腰の背後に、鮮やかな大きな影が地面に落ちている。たぶん背景の一群の潅木から想像するには、この場所は私が生まれた静岡県掛川市の龍華院の敷地の一角ではないかと思われる。私はこれほどの穏やさと平安とに安堵した祖母の顔、これほどに品と威厳さえ漂よわせた祖母の顔を、私が成長してから一度も見たことはなかったように思われる。
 これから私がその文章を起こそうとするのは、この祖母が私が住み育った品川区西五反田の家で、秘かにノートに記したと思われる「ざんげろく」である。私は時折、このノートらしきものになにかを記している、腰を折り背中をまるめた祖母の姿を見たことがあった。それに気取られると、祖母は恥ずかしそうに頬笑い、そっと蒲団のしたにこのノートを隠した。このノートは永年、私の母が所持していたものだが、昨年(平成十八年三月)その母も永眠し、なぜか私の手元に残されたものである。
 平成十二年(二000)末、私は文芸評論家の加藤典洋の「敗戦後論」に触発され、「戦後私論ー谷崎潤一郎を巡って」と題した評論をある同人誌に書いた。それは作家の谷崎潤一郎論の「序論」のようなものであったが、その中で祖母が生まれた岡田の家系に触れたことから、どうした因果か私のもとにある祖母の「ノート」をここに書き起すことにしたのである。
 なお、八十を超えて書かれた祖母の文章は句読点もなく、老いての記憶による時間の倒置、また判読不能の個所、話しや表現の重複等のため、なかなかに読みづらいものであった。しかし、それにも係わらず明治から大正と昭和までを生きた一女性のほぼ一生のあらまし。その思い出の断片と悲喜こもごもの感慨が吐露された文章として、古い写真のように残しておきたい気がしたのである。それも原文のかたちをできるだけ損なわず、他方、読みやすいようにと最低限の手を入れさせてもらったことは、一言お断りしておかねばならない。
 家系や人物の名前等については、不明なところがあり起草の手をもつれさせもしたが、疑問の箇所、また起草上の誤りについては、近親等の読者からの指摘により、このノートの欠損を補完していただければ幸いである。

§

 私(祖母)は明治十三年生まれで岡田茂平の長女として生まれました。其の当時は村でも中流の農家の家庭で何不足なく育てられてきました。
 私が十五歳の高等小学校四年生の六月、母は三十九歳でお産を致しましたが、間もなく急にようだいが悪くなり、お医者さんが来る間もなく、どうすることも出来ない様な状態に成って、意識を失ったまま遂に帰らぬ人となって仕舞ました。其の時私達一家のなげきは全く言いようもなく、辛さ、悲しさの中で母の葬式を済ませたのですが、生まれた赤ん坊は丈夫でしたので、私は母親代わりに、出来ない乍らも世話をして暮らすより外に仕方がありませんでした。 そんなわけで私は学校どころではなく学校は中途退学致して、家事全般を私が致して暮らしておりましたが、神様のお助けか隣のおじいさんの世話で、新しい母が来ました。其の母というのが誠に気立てのよい人でございましたので、私達もほんとに助かったと思います。赤ん坊の方も村の内へ預けてありましたが、其の子供も引き取って育ててくれました。ほんとうに母がよい人でしたので赤ん坊も仕合わせだったと思います。
 赤ん坊の名前はまさとつけましたが、それから何事もなく成長し十九歳までに成りました。如何なる悪マのイタズラかと思いますが、まさが十九歳の夏でした。ヒドイ熱病に取りつかれ、話しもできないような病気で、お医者さんにもお世話になりましたが、私が見舞いに行きましたけれども、私にも口がきけなくて、一週間ぐらい病みましたが、遂に可愛そうに亡くなってしまいました。私は其の時のことを思い出すたびに悲しくて涙が流れます。
 まさのことについて、このところに一寸と記しておきたいと思います。思いますことは、明治二十八年十月のこと、赤ん坊のときのまさを預かった家は、昔は庄屋をしていた家でとてもいい家柄でしたが、その時にはあまり裕福ではなかったようですが、夫婦ともに気持のよい人でした。預かり賃は一ヶ月二円でよろしいと言われました。そのときの米は、一俵三円五十銭というのですから、いま思えば全く嘘のようなことです。
 一年半くらいそのお宅に預けておきましたが、それから間もなく、新しい母ができましたので、我々一家はおおきに助かりました。それから、その母の奨めによりて、掛川塩町倉真やという仕立て専門の家へ裁縫に通いまして、一カ年ばかりでとにかく和服を作ることも一通り覚えました。また、家にいて百姓仕事を手伝って二、三年経ちました。
 私もまごまごしてもおらぬ年頃にもなりましたのです。そのとき近所の人の世話で、掛川西町煙草製造業で、土山(治三郎)の家へ嫁ぐことにはなしが決まりました。私の父は悪い人ではないけれども酒が大好きでそのうえ勝負事が好きで、そのため田畑山林など大半は売り尽くし、それのみならずいろいろなことをやってみたいというような悪い癖がありまして、そのため損ばかりしておりました。そんなわけで、私も嫁に行くときなぞとても支度なぞできませんでした。私はほんの風呂敷包みと行李一個、それに夜具蒲団一組だけをどうにかとりまとめてお嫁に行ったので、誠に恥ずかしい思いで出掛けました。明治三十四年四月のことでありました。







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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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