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江の浦から

 
1971年の夏 初めて潜った海
それが 江の浦の漁港だった
パンフをみて すぐに応募した
夏のプールで猛特訓のあと
連れて行かれたのが 相模湾の海
曇り空のした ロープをつたって
10メートルの砂だらけの海底は濁り
砂からでた手がゆらゆらと動いていた
ハッと驚いたが ゴム手袋だとわかると
安堵して落ち着いたほど 海は恐怖をもって
迎えてくれた

 旧臘の12月中旬、東京駅から東海道線に乗り、根府川という駅で降りた。江の浦という漁港が近くにある。もう50数年もむかし、スキューバ・ダイビングの教習をプールでうけ、はじめて潜った海がこの江の浦であった。天気は曇っていた。海の底まで張られたロープをつたって、10メートルを潜水した。20人以上の若者が参加して1泊した漁港の家で食べた磯料理はいまも目の前に浮んでくる。お膳に盛られた魚介類の料理は豊かな海の香りがして味は抜群だった。大きなサザエにたっぷりと実はつまっていた。
 その漁港を一目見ておきたかった。宿屋が寐府川駅のすぐ近くに見つかった。早速、予約を入れると、翌々日東海道線に乗った。小田原、早川、その次ぎの駅が根府川であった。無人駅を素通りして駅前で送迎車を待った。宿屋から夕陽にほんのりと染まった空と相模湾の海が望めた。眼下の東海道線のトンネルで上りと下りの電車がすれ違っていた。和室と洋室の5部屋のみ。わりとゆったりした檜の日本風呂とジャグジーの湯船があった。食堂から広い相模湾が一望される。
 宿の主人の話では、江の浦の漁港はなくなり、いまでは釣り人が集まる埠頭だけが波に洗われているとのことだ。
 帰りは早川で降り、海沿いの市場の二階の食堂で牡蛎フライ定食を食べ、駅までの道すがら魚二匹とイカの塩からとカラスミを一瓶を土産に、上野駅まで帰った。

 根府川の駅前でかすかに覚えていた詩人の立て札をみた。茨木のり子という詩人。その詩の数節を読んだことがあった。ここにその詩のぜんぶを書き出しておこう。


     根府川の海    
                  茨木のり子

根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅

たつぷり栄養のある
大きな花の向うに
いつもまっさおな海がひろがっていた

中尉との恋の話をきかされながら
友と二人ここを通ったことがあった

あふれるような青春を
リュックにつめこみ
動員令をポケットにゆられていったこともある

燃えさかる東京をあとに
ネープルの花の白かったふるさとへ
たどりつくときも
あなたは在った

丈高いカンナの花よ
おだやかな相模の海よ
沖に光る波のひとひら
ああそんなかがやきに似た
十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋で徒労だった歳月
うしなわれたたった一つの海賊箱

ほっそりと
蒼く
国をだきしめて
眉をあげていた
菜ッパ服時代の小さいあたしを
根府川の海よ
忘れはしないだろう?

女の年輪をましながら
ふたたび私は通過する
あれから八年
ひたすらに不敵なこころを育て

海よ

あなたのように
あらぬ方を眺めながら……。




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プロバンス紀行(3) アヴィニオン

 早朝に着いたアヴィニオンは閑散としていた。ソルグの出発のバスの時刻をまちがえ民家を早朝に出てバスに乗ってしまった。家主の扉を幾度もノックしたが応答がない。仕方なく鍵は家主の扉の前に置いて、停留所から電話で失礼を侘びて別れとなった。気さくな地方の家主であった。
 アヴィニオン駅は補修中であった。迂回して町へ入る。土地になれてきたのか余裕が生れたようだ。店で煙草を買ったり珈琲を飲んだりして、誰彼となく会話を交わした。アヴィニオンは1週間いる予定であった。町の中央に大通りが走りホテルはその中央にあったので、通りを下れば駅へ上がれば法王庁の広場に出られる便利さだ。朝はゆっくり起きて、毎日、町中を散策する。美術館やローマ法王庁の城砦、アヴィニオンの橋を眺めて歩く。ホテルの裏通りに多くの店が点在し博物館や教会がある。大通りにはスーパーもあるので買い物にも便利だった。中華ものをここで買ったがスパイスに馴染めずあらかた捨ててしまった。ただローヌ地方のワインのマコン(1本700円)だけは、ホテルで一人飲んだが美味しいワインであった。
 フランス王の権力が強大であった30年間、法王はローマからこのアヴィニオンへ居を移されていたらしい。そこが法王庁の巨大な世界最古のゴシック建築となっている。杖をついて建物を見学した。首からタブレットを下げて、各広間でそれを翳すと建築当初の内装が綺麗なデジタル写真で見ることができる。最上階までのぼり、小さなレストランでワインを飲む。レストランには主人が一人いて、中国人か日本人かと訊かれたが、微笑して反応をみていると、中国と日本はどこが違うのかと、おもしろい質問をうけた。これが西欧の一般大衆の東洋理解なのだと思われる。
 アビニオンのMusée Angladon は一見の価値がある作品が実に多くあるのに驚いてしまった。別名ジャック・ドゥーセ・コレクションという名前の通り民間人が継承した美術品が陳列してあるのだが、ドガ、ピカソ、モディリアーニ、ヴァン・ゴッホ、セザンヌといった作品を目前にして、予想もしていなかった感動に襲われてしまったのだ。むかし、この地中海沿岸の地方に文芸都市の構想があったらしい。そのせいかこの町にはその香りが厳然と残っているのである。芸術はその土地から生れ、その土地の空気で養われて生きる。それはワインと同じで、生れた土地で飲まれてこそその本来の味わいが堪能されるのだろう。玄関の脇にルイ4世の彫塑をみて、こうした目立たない建物に伝統文化のふかい底力が存在していることを知らされた気がしたのである。
 ラウル・ディフィーは法王庁まえのプティーミュゼーで幾枚かをみたが、音楽好きな絵には喜びが満ちている。法王庁の庭からアヴィニオンの橋と川むこうにひろがる風景を眺めてしばし休息する。長い階段を降りて法王庁の広場に戻ると、多くの子供達がゲームをして遊んでいた。メリーゴーランドが楽しそうに廻っていた。そのそばに手回しオルガンのお爺さんが、可愛い寝むり猫を連れて佇んでいた。そうかと思うと、じっと不動の芸人が立ち、目が合うとチップを望んでチラリと目配せをする。映画「天井桟敷の人々」が思い出された。この広場には、夢の世界へ誘いこむものにあふれている。ハンバーガーにグラスワインで喉を潤し、ホテルへ帰る。
 バスタブに浸かって疲れをとり、ダブルベッドに横たわっ一眠りする。そして目覚めると、一冊だけ持参した本を読む。これは友人から推挽されたもので、「昭和の怪物七つの謎」(保坂正康)とある。日本で読んでいるので二度目だ。東条英機、石原莞爾、犬飼毅、瀬島龍三、吉田茂等を丁寧かつ実直に調査したと思われる内容で、なかなか面白い見解が披瀝されている。中でも最も興味を引いたのは「吉田茂はなぜ護憲にこだわったか」という章だ。新憲法は昭和21年11月9日に公布されたのは、この日が明治天皇が生れた日であった。吉田は日本の再生をこの日まで、歴史の時間を戻すことを願ったのは、「日本の民主主義は明治天皇の発せられた『五箇条のご誓文』にみられる」との昭和天皇の人間宣言に関わりを持たせようとの配慮からで、吉田はマッカーサーを説得してこれを認めさせたというくだりであった。戦争に負けても外交で勝つこともあると言った吉田らしい。まさかフランスのプロバンスのホテルのベッドで、この本を二度まで読むことになるとは夢想だにしなかったが、外国で自国の歴史について思いを馳せることは精神衛生上いいことではないか。訳が分らずに日本の外へ出たいとの衝動も、現今の日本を距離をおいて見たいというやむにやまれぬ切迫が私の無意識を突いたからにちがいない。
 夕方、ホテルのフロントに声をかけて外出する。ホテルの後に路地が迷路のように走っているのだ。その路地の突き当たりにある中華店へ行くのだ。ここの中華料理はまずまずのものであったが、なにか胡散臭い雰囲気があった。たぶん断定はできないが闇の金融活動に一役買っているのかも知れない。昼間、この路地をぬけるとすこし広い公園があった。日影は小寒いが南仏の陽ざしをうけたベンチは温かいので、赤ん坊を連れた母親が集まるところだ。乳離れをした赤ん坊に母親が、スプーンで子供の口になにかを食べさせている。おなじような親が集まって井戸端会議がはじまるのは、いずこの国も同じ光景である。これが平和というものだが、いつまでこうした平和がつづいてくれるのであろう。母親がいなくなったベンチに、いつのまにか顔色のよくない年とった男がひとり座っていた。きっと故国を離れてきたのに相違ないと、話しかけ「どこから?」と訊くと、トルコだと言った。男が欲しいのは「仕事」であった。先進国に来れば「仕事」があるだろうと、リスクを覚悟で故国を離れる「難民」が、EUの国々に押寄せているのである。国と国、国内での格差もひらくばかりである。冒険にちかい無謀さで国をでた私はなんだろうか。精神的な「難民」といえば贅沢なかぎりだが、EUを産みだしたのはこの種の精神上の欲求が底流にあるのではあるまいか。もちろん政治的、経済的な必要が大きいのには違いないのであろうが・・・。
 セットで生れたボール・ヴァレリーは一詩人であった。しかし、この詩人の頭の中に「世界」は発酵され、蒸溜され、濾過され、先の先まで腑分けされ、嚥下されていた。グラスに沈んだ一杯のワインさながらに。私の旅の杖は地中海の海辺へとむかっていた。さようなら、アヴィニオンよ。


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プロバンス紀行(1)

 9月30日10:15発 飛行機は台風が迫るなか逃げるように成田を飛び立った。。間一髪であった。家からの連絡が今少し遅れたら乗り遅れたかもしれなかった。見回すと座席の所々に空席がみえた。
 トルコのイスタンブールで乗り換えニース空港を出るとすぐにタクシーに飛び乗りバンスへ向かった。バンスはアンリ・マティスのロザリオ礼拝堂があるところだ。予約したホテルはこの礼拝堂に近くにある小さなホテルである。マリリン・モンローの大判の写真とアンディーウオホールの分厚いカタログ、その他が無造作に部屋を飾っている。ダブルベッドの部屋をふくめ三部屋に二つのおきなテレビがある。窓から遠くに山脈みえた。なだらかな丘陵に家々が点在している。いかにも長閑なプロバンスの風景である。

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 ホテルのまえにバンス美術館があった。早速町に出て広場を散策。路地の奥にまた小さな広場がありレストランが軒を並べている。貰った鍵は容易に開かないので、ゴチャゴチャやっていると階下から手助けがきた。フランスは鍵に悩まされる国だ。それだけ盗人が活躍しているせいなのか。ステッキを持ってマティスの礼拝堂を目指して歩き出した。着くと2時間の休憩時間にぶつかり所在なく鉄柵に寄りかかって開くのを待つしかない。日本人が乗る車から兄弟の男女が降りて、昼食に誘われた。ミラノから来た二人は北イタリアを回って来たと弟が話した。ナポレオンが通ったアッピア街道をきたと聞いて、その隊列の中に若きスタンダールがいたと話した。それをしおに姉が立ち上がり、近くの教会にシャガールのモザイク画あるという。そこを出ると車はすぐにマティスの礼拝堂へむかった。

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 画家のアンリ・マティスが最後の画業の集大成ともいえる「ロザリオ礼拝堂」は丘に建つ小さな建物である。地中海が遠くに光って見える。光りがふんだんにステンドグラスを照らし、壁にマティスが描いたキリスト像がある。犀利なデッサンの小品が館内に多数みられる。数枚の写真葉書と型録を買い、外に出て庭をみた。マティス好みの植物が目につく。外に止まっていたタクシーに、ニーチェが永劫回帰の霊感を得た場所まで行ってくれるように頼むと、友人のタクシーを呼んでくれた。陽気な運転手だがフランスではこの手の男は容易に人を瞞すのが得意である。猛スピードでニーチェの道まできたが、道は荒れていて危険との中国の観光客の助言で、入口で案内板の写真だけを撮る。高級そうなホテルが高台に望めた。帰りのバスが遅れ押し合いへし合いのすし詰め。中国人観光客が圧倒的に多い。バンスのホテルに戻る。この町で印象に残っているのは、スーパーで肉や野菜やバナナを買い、レジでそれを袋に入れて貰った。後にいた少女が袋に入れてくれた店員に感謝をしなさいと叱られ、少女の言う通りにすると、店の皆から笑われてしまったのだ。自分で買い物をし慣れず、また押寄せる疲労から、子供の言いなりにしたまでである。はずかしめをうけたというより、ふがいない思いが残った。ホテルはは肉を焼いたり、野菜を茹でる機器はなかったので、野菜はそのままちぎって口にいれ、肉は冷蔵庫に入れた。シャワーを浴びて息をつく。翌日散歩。レストランで軽い食事とワイン。ホテルまえの美術館に入った。ここで驚いたのは、詩人のランボーのスケッチを見たことだ。写真はとったが誰が描いたものか分らなかった。これ以外に特に目をひく作品はない。バス停までホテルの若い支配人がバックを引いてくれた。高い部屋に泊まった客へのサービスなのか。「やれやれ」という声が聞こえそうだった。列を作って並んでいたがバスが来ると、競うように一斉にバスに乗り込む。一番前にいたおばさんが抗議したが誰も聞く耳が持たない。フランスの個人主義のみごとな成果なのか、ヨーロッパでは普通の行動かも知れない。陸続きの長い歴史で辛酸の経験をした欧州の国民に「知仁礼義」などという東洋的な考え方をしないだけのことであろう。3泊したバンスを去り、バスは一路ニースを目ざした。

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 ニースでバスを降りるが、泊まる予定のホテルがどこにあるのか見当がつかない。歩いて海岸へ出れば、そこには椰子の樹がみえていかにも南仏らしい光りにあふれている。車道は車で一杯。流しのタクシーを探したがない。ホテルがどこにあるのか聴いてまわったが誰も素っ気ない。広い車道に戻りタクシーに乗った。運転手はニタリと笑った。カモを見つけたという表情。黒人の若い男。ホテルの名前を言ったが通じないので、住所を見せるとすぐに発信。そこからホテルまでタクシーで数分の近さだ。最初からイヤな予感がした。ホテルのフロントの早口のフランス語がいかにもビジネスライクでカード鍵を受け取ると部屋に入った。狭い部屋にダブルベットがあるだけの簡素な佇まい。まずはやれやれである。そこで数日を過ごすことになる宿泊場所だ。フロントの奥に簡単なテーブルと椅子がある。そこがプチ・デジョネを摂るところだ。黒人を含む集団の若者が圧倒的に多い。まるでニューヨークのダウンタウンに来たようだ。フランス窓を開けると、そこから見える建物がたしかにこの町がニースという都会だと知られた。小さなホテルがひしめいている。

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 朝食に階下に降りる。粗末なテーブルと椅子。いかにもフランス的な簡単な朝食。スプーンもフォークも清潔とはいえない。ただ温かい珈琲や紅茶がのめるのがうれしい。若者がパソコンをのぞいている。近くにあるシャガール美術館へ行くためにホテルをでる。偶然老夫婦が同じ処へ行くので同行する。夫人と話したが、アメリカ人は気さくでいい。シャガール美術館は高台のいい場所にあった。広くて感じのいい美術館で、作品も豊富であった。ステンドグラスで飾られてホールで画家を紹介する映画をみた。さすがアンドレ・マルローの肝いりで作られただけの施設だ。庭で昼食を摂った。日に照らされた戸外のレストランでようやく肉にありつけた。戸外の明るいレストランは人を幸福にするようだ。シャガールの絵にあらためて魅力を感じ、それが幸福感をたかめてくれたのかも知れない。

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 翌日だったか、ニースの町中を傘をさして歩き、マティス美術館を尋ねるが誰に聞いても知らないとの回答だ。雨宿りした建物が映画館だとわかり、映画をみることにした。館内は幾つかの映画が観られたが、あてずっぽにみた映画は高齢者の生き様をテーマにしたものだ。最初と最後に目が開いた。いつしか眠りこんでいたようだ。夕食はホテル近くの中華店に入った。どこでもそうだが、中国人はフランスで小さくなって暮らしている様子にみえる。客を用心深くみる目に特徴がある。やはり西欧では東洋の人への差別が根底にあるのだろう。最後の日の夕刻、ニースの海岸まで歩いてみた。ホテルは駅に近い。つぎに行くエクスバン・プロバンスまで切符を買いに出かける。そこから電車とバスでルールマランへ行く予定だ。
 後悔してもはじまらないが、マティス美術館へいく努力をどうしてこのニースで諦めてしまったのだろうか。私はマテュスの徒といってもいいくらい彼の研究をしたことがあった。バスに乗ればそこへ行くことはできたのだ。シャガールの絵の魅力は私からマティスへの熱情を削いでしまったのだろうか。マティスはニースにアトリエを構えて仕事をしていた画家であった。過去にツワーでニースをバスで通ったときにマテュスがアトリエにしていた建物を見たことがあった。そのときに逃した機会をこの旅行で実現することができたのだ。バンスのロザリオ礼拝堂は、私が長い間懐いていた期待の大きさに比べ、少々期待はずれの感があったのは否めない。マテュスの色彩と線とによる理知的な探求と成果がどうしてあの小さな礼拝堂で、私を満足させてくれるはずがあっただろうか。一方、シャガールの絵には大地から湧き出す原初的、宗教的な力で魂を魅了する不思議な躍動があったのではないか。ともかく私は疲れていた。それに雨が私の意気を沮喪させてしまったのだろう。つぎにいくルールマランへの道のりが、私の心を領していたこともその原因となっていたのだ。
 ニースの駅で来る予定の電車をモニターをみながら待つ。何番線に電車が来るのかが気になったのは、重いバックを引き摺りながら階段を上がり降りするからだ。隣に座る黒人の少年と会話をする。できるだけ多く話して会話力を試すのが今回の旅の目的であったからだが、旅では見ず知らずの人と話すことがいいのは、様々な情報が得られるからだ。善良な黒人少年であった。電車が来たので階段を降り、上がろうとホームを見上げると、ホームにいた別の黒人の少年がわざわざ降りてきて、バッグをホームまで運んでくれた。その素早い親切な手助けに感謝。エックスバン・プロバンス駅で電車を降りたが、バスの乗り場がどこにあるのか茫然とした。人に尋ねて、エレベーターを乗って高台へ行く。バスの乗り場を探すがなかなか見つからない。見つけた処にはたくさんの乗り場がある。腹のたしにと寄ったショップの店頭にステッキを置き忘れて、それを老人の紳士に気づかされてハットしたことを、いま思い出したが、このとき私は茫然としていたのだ。まずバスの切符を買わねばならない。売り場の女性に尋ねても、フランスの交通関係の職員は見事なほど素っ気がない。ひとかけらの情というものをみせることがない。乗り場はとんでもない遠い処にあった。風と小雨が容赦なく当たる。ふと見ると近づいてくる婆さんがこの線路の利用者だと分った。もう年齢的には相当な婆さんだ。先刻、私のコートの一番上のボタンが外れていると、わざわざ嵌めてくれた婆さんであった。ベンチにその婆さんと隣り合わせに座った。楽しいお婆さんであった。二人で歌を唄いあった。フランスのABCの子供の歌。もう一人知り合いの婆さんが来てこの二人の婆さんがいたお蔭で、バスでルールマランで間違いなく降りることが出来た。このお婆さん二人は重いバックをバスの車体から取り出すのまで手伝ってまでくれたのだ。そうだ思い出したが、ここで間違ったバスに乗ってしまった。走り出した運転手にそのことを伝えようとするが、なかなか伝わらない。若い運転手は理解できないの一点張りだ。その光景に見かねた黒人の婦人が運転手に耳打ちをしている。そして私を見て、つぎの停車場で降りて戻るしかないと示唆してくれた。こうした親切がなければどうなっていたことだろう。この旅は忍耐することを第一に、そして顔に微笑を浮かべていることを課していたが、このときの横柄さは我慢ならないものを感じた。
 ルールマランに着きホテルを探して、町中でこざっぱりとした少女にホテルの名前を告げると、すぐそこにあると親切に案内をしてくれた。カミユの作品を列挙すると、彼女はいちいちの作品名に誇らしげに頷き、最近「最初の人間」を読んだと言った。その作品は事故に潰れた車のカミユの鞄の中から出てきた遺稿であった。一気に長い文章が完璧につづく力作で、細君のフランシーヌと娘がその遺稿を編纂して数年まえに刊行された。こんな年若い女性がカミユの遺稿となった作品の読者であることに感嘆した。ホテルのまえに来ると足早に立ち去ったが、その貞潔な挙措は愛らしい印象を残した。

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 ルールマランはいかにもプロバンスらしく静かで小さな町で、そのまわりには広闊な風景が広がっていた。そこに古城がそびえワインを売る店があったりした。アルベール・カミユはこの町を好み、パリとこの町をしばしば往来していたらしい。NHKの「旅するフランス語」の番組にこの町を愛したカミユの紹介があった。ノーベル文学賞を若くして受賞したカミユはこの町の一角に質素な別荘を持った。その家にはいまもカミユの娘がひっそりと暮らしていると報じられていたが、いかにもカミユの娘さんらしい。1960年に自動車事故で不慮の死を遂げたアルベール・カミユの墓はこの町はずれにあると聞いた。瀟洒なホテルに泊まった翌日、早速その墓地を訪ねた。ホテルから歩き墓地をさがしたが見つからない。タクシーがきたので、運転手に聞くと、すぐそこだとドアを開けてくれた。乗るとすぐに車は墓場の前で急停車した。なんと通り過していたのだ。短い礼を言うと墓地へ入った。狭い墓地で墓はすぐに見つかった。カミユの墓であることは横にならんでいる石に微かに彫られているところから判明できた。だが墓石らしきものはなく、あるべき場所は雑木が生い茂っているばかりだ。隣に細君の墓石が残っていることからそれと知られた。「幸福な死」を書いたカミユに相応しい墓なのだろうと思われたが、そう思うこととわざわざ墓参りにきた人間の感情とはまた別のものだ。

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やがてカミユの墓に一人の男が近づいて来た。人がいるのでたじろいだ風にみえた。墓のまえで立ち話をする。やはりサルトルやボボワールを若い時に読んだという。毎年一回はこの墓へ来るとドイツ人は言った。私たちは旧知の友のように顔を見合わせた。カミユの作品に「ドイツ人の友への手紙」があるのを思い出した。さよならとドイツ語でいうと、ニッコリとした微笑が返ってきた。足早に墓地を後にした。帰えり道、路上にあふれるほどの黄色い実をつけた植物が目にとびこんできた。カミユの墓を詣でてのあてどない胸の中に言いしれぬ光りがあふれた。

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秋田県「角館」旅行

 秋田県の角館へ行って桜を見てきた。小雨に降られたが、満開の桜にはこころが浮かれる。旅館の温泉風呂もよかった。食事も地元でとれた素材を手造りにした蟹や鯉料理でなかなかの味覚。むかし豪農の庄屋であった邸をそのまま旅館としたもので、一見部屋数は少なくみえるが、一階の各十畳の四部屋は「かつら」「いちょう」「もみ」「からたち」の襖で仕切られている。梁をつり上げる装置をうごかすと中央の柱を取り外すことができ、四十畳の広い部屋となるそうだ。
 古い建築物はどっしりとした木造。広い廊下は天然秋田杉の一枚通しの板が敷き詰められ、長押には槍やなぎなたが掛かかり、修理しだいではいまも使える。がっしりとした木組みの階段は鹿鳴館を模し大正ロマンの趣きを湛えている。壁には切り絵が無造作に架けられていた。これほどの細密な切り絵の風景画はめずらしい。食事処には一枚板の大きな楠のテーブルが横たわっている。聞けば庭に生えていた樹木とのこと。旅館の名前を示す樅の木は樹齢380年の偉容を空に広げている。米どころの秋田県の昔の庄屋というものがその地域でどんな位にあったのか、いかに想像を逞しくしても、現代の都会人には容易に掴みがたい。パンフレットをみれば県の有形文化財となっている。
 新潟からの友人の車に東京からの二人が乗り、角館に近づくにつれて、風景のそこかしこに桜がみえだした。ソメイヨシノもあれば、しだれ桜もあり、梅の花に似た小粒な桜もあって、色も白からうすいピンクやら濃い緋もみえる。だが桜だけではない。樹齢に数百年の太い樅の木が意気揚々と生い茂って、それが武家屋敷の黒塀からその巨体を覗かせている。家邸の中へ入るとさすがみちのくの小京都と言われるだけの文物がある。佐竹藩の人が描いた蘭画もあれば、杉田玄白の解体新書の初版本やら精巧な解剖図があり、平賀源内の手による道具類ももみえる。東北のこんな遠くに京や江戸の文化がどのような経緯から花ひらいたのであろうか。疑問と驚きが交互に脳裡を駆け巡り、日本の歴史へと想像の手足がひろがるだけで、途方に暮れるしかないのである。中国やタイからの人も大勢いた。最近物故した詩人の大岡信は、「花」という一語がどれほど日本人にとって重要なものかを強調していた。この詩人を偶然みたのは大学祭の学生詩人の前にちょこんと座っている姿だ。そして、これも偶然だが、最後は八重洲ブックセンターから街路を歩いてくるところだった。この人にはめずらしい峻厳な面立ちをみて、ああ、時間がないという焦燥の顔つきが私の胸を衝いた。有楽町の朝日ホールでグレコのシャンソンを聞きに行ったとき、この詩人はグレコの傍にいて通訳と司会をしていた。国文科出身なのにフランス語がうまかった。エリュアールの詩「そして空はおまえの唇の上にある」に衝撃をうけたのは、「美の根源の火がエロスからきている」確信があったからだという辻邦夫の指摘は正鵠を射ていた。因みに、曾祖父が徳川慶喜に随行して三島に移ったのは、私の母の祖先が同じように掛川へ行ったことと共通している。「保田与重郎ノート」が三島に激賞されたらしいが、是非、読んでみたい本の一冊だ。さいごにきて横道へ逸れたが、この角館に群生して、武家屋敷の黒塀に趣きを添える桜花には、ただあんぐりと口をあけて眺めるしかなかった。土手下には緑色の河が満々と水を湛え渓流のような早瀬をみせていた。


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京都二泊三日

 遠近にかかわらず旅をするとなると、一冊ぐらいの本を持っていきたくなる。家で読むより本が異なる顔をみせることがあるからだ。今回は京都への二泊三日の旅。高校生のときからの友人と「京おどり」を宮川町でみて、知恩院にある谷崎潤一郎の墓に詣で、一人で帰ってこようとの心算であった。あまり欲張らないのは、近頃、あまり体力に自信がなくなったからである。先日、大学の同期の者と外苑の新オリンピック競技場の建築状況を見て、新宿御苑で散策しただけで、歩行が困難になった。新宿駅ちかくの路上で仲間と別れ、ひたすら電車に乗り家へ帰ることがやっと。目がぐるぐると回り、酔漢のような千鳥足でしか歩けなくなった。近年、右目が不自由となり、段差があるとつまづくのである。おまけに家を出るときにステッキを持っていくのを忘れていた。こんな具合だから、文庫本一冊ほどしか荷物に入れることはできない。以前に買った文庫本から、活字の大きな、できるだけ空白のある本がいいと、詩人・荒川洋治の「詩とことば」を手にした。目次をみていると、「詩と散文の『戦争』」の章があったので、早速、車中でそこを読み出した。すると面白いことに、菊池寛が芥川賞を創設したのが昭和10年で、その翌年「文学界」で菊池寛は「詩は亡びる」と座談会でしゃべり、同年の「文芸春秋」でも同じことを書いていたらしい。ちょうどこの春私が出版した本の中で、昭和11年に小林秀雄が「現代詩について」を発表していたことから、「小林秀雄の初期像」という評論を載せ、小林氏の現代詩への疑念の表白から論を展開していたことと関連があった。だが私の注目したのは菊池寛の「詩」への開戦布告が、小林秀雄の「現代詩」への疑念とちょうど同じ時期に発表されていたことであった。もちろん、菊池寛の詩への言及が小林のように自分の身を削っての詩へ没入の経験からの批判ではなく、これに反論した萩原朔太郎が「まるで中学一年生の思想である」と笑う程度であったらしい。だが菊池寛が文藝春秋社を起し、雑誌の売り上げがおちる一年に二度、「芥川賞」を創設してから、この国では「詩」が「小説」の後塵を拝するようになってきたという事実には笑えない事情があった。
 さて、友人との京都旅行は案の定というように私を疲労させた。京都が好きで度々一人で旅行している友人には自分の庭を歩くぐらいの気軽さである。毎年に「都おどり」を観に行くほど、彼は京都に惚れているのだから当然だろう。むかし、サントリーの宣伝部で働いた彼は、抜刀術をやり刀剣に詳しく歴史小説の愛読者でもあった。美人の細君を若い頃に亡くす不幸にあったが、一人娘を成人させるにはどれほどの苦労があったことであろう。私を「家事能力ゼロ」と断ずるほどに、彼が男手ひとつで職場と娘の養育の両方に手をかけて暮らしていた歳月は想像にあまりあるものがあった。私はといえば、彼とは対照的に個人の趣味的生活に傾倒していたと言ったほうがいいだろう。私が話す言葉が耳に入らないほどに彼の耳は遠くなっていたが、一人暮らしの長い彼には他人の声などを聞く耳などは持っていなかったのである。「おまえの話しは、滑舌がわるいのでまるで聞こえないよ」とお小言をもらった。そのようになった経緯を説明することは自分の過去の難事を話さなければならない。彼が自分の忍苦の日々を語らないように、私も彼が家事と仕事とに費やしていた年月に経験した私事などを語る必要はないのである。娘を嫁がせ一人暮らしをしていた彼が、「孤独死」を口にして平然としていたが、そのとおりに彼の一生が終わるのは目に見えるようであった。京都に惚れて「京おどり」やら「都おどり」の芸子の舞う華やかな歌舞に酔い、70過ぎの晩年の齢を好きに暮らす自由はどれほどに得がたい時間であっただろう。それは彼に残された散文的な生活を生きることであり、時に「詩」を夢みるような事と変わりはないのである。
 一日目の京都駅から電車に乗継ぎ、四条大橋から鴨川沿いを歩き、宮川町のいかにもこれが京の町という小体な茶屋街を抜け、「京おどり」の宮川町歌舞練場まえに来ると、去年先斗町で「鴨川おどり」をみた光景と同様な人だかりがあった。舞台の装飾は桃山時代風の古めいた趣があり、庭に見事な牡丹が咲いていた。舞子が茶筅をたててくれ菓子を口にした後、二階から舞台の踊りを観た。京美人の舞妓たちが見せてくれる華麗な舞台をみて、建仁寺を散策する頃になると眠気が私に襲ってきた。健脚の友人の足に私は遅れはじめた。目も頭も朦朧としだした。私を案じた友人が去年に食事をとった店で休憩しようとしてくれたが、食欲はまるでない。出された水も飲まずに席を立った。タクシーに乗ってホテルへ直行したが、友人はまだ京の町中を見て回りたいということで、ベットに横になった私を残して外出した。ツインにしては高級なホテルであった。目覚めてから私はルームサービスで夕食を取った。帰ってくるなり部屋に置きっ放しの食器を「臭い」と、部屋から廊下へ出してくれた。その手早い動作はいかにも手慣れた家事のひとつにみえた。
 かくして友人の手配したホテルと京おどりを観る一日は予定通り済み、二日目となった。晴れた好い日よりである。友人が行きたいという京都御所にある「迎賓館」へタクシーを飛ばした。本来なら友人はバスに乗り町なかを歩きたいのだろうが、私の身体はそれに耐えないのである。「迎賓館」はさすが警備が厳重であり、ステッキも代りのものに替えてくれとの念のいれようであった。つぎに御所からバスに乗って「都おどり」の京都造形大学の中にある会場へ行った。開演後すぐに私は前後不覚の眠りに落ち、終演まじかで目が覚めた。前日の舞踊より踊りの線がきれいではないかとの印象を語ると、前日が花柳流で今日のは井上流の違いだとの友人の説明になるほどと得心した。
 愈々、残すは知恩院の谷崎の墓を拝むだけとなった。体力の限界からタクシーに乗ることを提案して、吉田山をぐるりとまわり知恩院まえでおりた。墓に入るとすぐに谷崎の墓石を探した。寺男に聞くと、しだれ桜が一本見えたらその下のほうにあるとのこと。だが友人は墓に興味はないらしく先を歩いていった。私は構わずに谷崎の墓を探しに奥へ進んだ。以前写真でみた墓石が一樹のしだれ桜の下にあった。だが私の頭はもうろうとして、それがたしかに谷崎の墓であるかの確信が掴めない。一応写真だけは数枚撮った頃に、友人が戻ってきた。昭和四十年没と中央公論社社長の参詣の札からして、谷崎の墓にちがいないと友人は保証してくれた。二日目のホテルは新築で、部屋が三つに大きなテレビが二つあった。翌朝、ホテルの玄関で別れ、私は京都駅へのシャトルバスから新幹線にとび乗った。
 帰途の車中で、「詩とことば」の続きを読んだ。簡単な文庫本だが、現代詩をめぐる状況が大づかみにして、分かりやすく書いてある。以前、現代詩をテーマに荒川洋治、谷川俊太郎、大岡信の鼎談をある文芸誌で読んだことがあった。荒川を先輩格の二人の詩人がちくちくと批判する陰りをみせた詩壇の風景がみえるようであった。荒川という詩人には詩の領域を拡大する気構えがあり、大胆なことを言うことは承知していたので、予想どおりの展開と思われたが、現代詩の衰退がこのような低調な鼎談となることが哀れでさえあった。荒川は「詩と小説の『戦争』」のあと、「詩を生きる」の章で、小野十三郎、堀川正美、井坂洋子、谷川雁、村上一郎の詩を紹介して、こんなことをいう。
「いくつものジャンルが交わっていた時代には、ことばも環流していた。自然で自由な交易があった。この時代のよさである。1975年三月、村上一郎は、武蔵野の自宅で、日本刀で自刃する。・・・そしてそのころから、詩を語る人は詩、小説を論じる人は小説というようになった。・・・。興奮もまた、去っていったのである。・・・いまは時代も、たたかう相手も鮮明ではない。読者もいない。何もなくなったのだ。こんなとき、そもそも詩は、何をするものなのだろうか。・・・詩はひとりになった。詩は人が生きるという、そのことにいまとても近づいているのだと思う。」
 「詩が行為になるでしょう」と詩人のランボーは言ったが、私の評論「小林秀雄の初期像」で広津和郎の「散文の精神」から、「散文は人生の隣りにある」というくだりを引用し、ヴァレリーの「ドガ、ダンス、デッサン」から、詩人のマラルメと画家のドガの、詩をめぐる二人のやりとりを思い出しながら、私の中に秘かにに微笑するものがあった。




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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