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武道という風景(4)

 川端康成氏のノーベル賞受賞講演「美しい日本の私」のなかに、「雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折り折りの美に、自分が触れ目覚める時、美にめぐりあふ幸ひを得た時には、親しい友が切に思はれ、このよろこびを共にしたいと願ふ、つまり、美の感動が人なつかしい思ひやりを強く誘ひ出すのです。」(1968年)
 という一節がありますが、この出典がどこからかと考えることはありませんでした。大岡信氏の「詩人・菅原道真」(1989年)の読後の印象が良かったことから、同氏の「歌謡そして漢詩文」(日本古典詩歌3)を開き、「『花』の一語をめぐる伝統論」を偶々読んでみたのです。これによると川端氏の講演の一節が「白楽天詩後集」に収められた七言律詩の「殷協律に寄す」からのものだとありました。

 琴詩酒の友皆我を抛つ 雪月花の時に最も君を憶ふ

「悲憤の詩人としての白楽天、そして杜甫のイメージが常に芭蕉を導いているので、彼がもし『雪月花』を思う時は、それは『琴詩酒の友皆我を抛つ』という文脈において想起される種類のものだったに違いない」
 大岡信氏はこれをもって「日本」の美と心を要約したとする川端氏に理解を示しながら、この一節が晩唐の詩人の哀傷歌であり、芭蕉の「雪月花」の観念には川端氏よりも激しい悲調のあると強調しています。中国の多くの詩人が悲運の生涯に果てたことを私が知らないわけではありません。
 だがどうでしょうか。川端氏に私淑した三島氏はおそらく大岡氏の川端文学の理解に不満を示したことは間違いないでありましょう。なぜなら川端氏の「末期の眼」以来の諸作品を三島氏ほどの慧眼をもってその心底から評価を行える作家はいなかったでしょう。川端氏からすれば芭蕉の悲傷は戦後まじかの横光利一への追悼文を読むまでもなく、更には三島氏の自決が川端氏にあたえた衝撃は氏の自死まで及ぶものと想像されるものだからです。ただここに、一片の保留を置くならば、三島氏の川端讃美は谷崎文学においてもそうでありますが、その嗜好と批評の論理において非の打ち所のないほどに極端な傾向があるということを、常に念頭におく必要があるということであります。
 私は大岡信氏の詩がその根源に悲傷にあることは辻邦夫氏が指摘しているとおりだと思います(「現代の詩人11中央公論社1983年」)。また、氏の「保田与重郎ノート」(1961年)が三島氏から激賞されたことも知っております。だがそれにもかかわらず、さきほどの留保つきながら、三島氏の追求した現代の「文武両道」において、特攻隊がもっとも清純な一篇の詩と化し、行動ではなく言葉になったという認識の悲劇に終わったことを、それ以上に重要に受けとめざるを得ないのです。「文武両道」は江戸期においては当然の武士の職業生活のスタイルであり、これを敢えて言挙げする必要もないことでした。映画「人情紙風船」では仕官のできない武士がいかに惨めな生活を送り、この惨状を見るに見かねた細君に刺殺されるシーンで終わりました。
 私は「現代の『武道』は『人間の生きる知恵と力を高めること』であり、それに尽くされる」(内田樹「武道的思考」)に同意しないわけにはいきません。
 この社会に出るとき私は、「思想的」な一切の本を投げ捨てなくてはいられませんでした。三島氏の筋骨隆々の肉体に滑稽を感じながら、他方、吉本氏等の「思想」的な著作を目にすることを嫌悪しました(後年同じ本を買い戻したことも事実ですが)。代わりに22歳の私は職場の帰りに、ボディービルのジムに通いだしたのです。3ヶ月で私の身体が変化したことに爽快を覚え、以後、職場が変わってもジム通いだけはやめることはありませんでした。30歳頃に腰椎分離症でつらい思いをしましたが、入院治療を放棄し毎日のようにプールで泳ぐことで、腰椎の病魔から解放されたのです。
 社会に出て最初の会社に辞表をだし、1年ほど都心にある図書館に通って法律の勉強をしていたときでした。ポールヴァレリー全集に出会い、私は再び「テスト氏」に魅了されざる得なかったのでした。





「武道」という風景(3)

 禅寺の玄関を上がり参禅者名の記入のため座布団に座ると、目の前の壁に次ぎのようなことが墨書した紙が貼ってある。
「他人の禅定を批判することはけしからぬふるまいである」という厳めしい一文を読まされることになる。
 内田樹氏の「武道的思考」にも「以前、他人の技を批判してはいけないと先生に教えていただいたことがある。どうして他人の技を批判してはいけないのですかとお訊ねしたら、先生は『他人の技を批判しても、自分の技がうまくなるわけではないからだ』と答えられた」
 タイトル「論争するの、キライです」に書かれていることであります。
「私はこれまでいくつかの論争を読者としてみてきたが、論争の勝者から学んだ知見はあまり多くない。むしろ論争で勝つ側の人間は、別のかたちで何かを、それも論争の勝利で得たよりも多く失うということを学んだ」と書いている。さすが「私の身体は頭がいい」という文庫を出した人らしい。内田氏は難解で知られたレヴェナスの研究家で翻訳家。卒論はフランスの哲学者メルローポンティーだという。学生時代から私も惹かれた哲学者で、「海の賦」(幻冬舎2017年)を自費出版したとき、収録した「アンリ・マテュス試論」はポンティーの身体論から学んだことを滋養として、ブリジストン美術館で昔見ていたセザンヌの肖像画の印象がその起点となっていた。ポンティーの「眼と精神」は画家について私を啓蒙し多くの啓示をうけた書物でした。
「画家は『その身体を携えている』とヴァレリーが言っている。実際のところ<精神>が絵を描くなどと考えてみようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。この化体(けたい)を理解するためには、働いている現実の身体、つまり空間の一切れであったり機能の束であったりするのではなく、視覚と運動との縒(より)糸であるような身体を取りもどさなくてはならない。」
 前回の文脈でいうなら、現代における身体表現へのパラダイムシフトに寄与した一人としてメルローポンティーは看過しえない哲学者だろう。内田氏はポンティーの「肉」(la chair)に強く惹かれたらしいが、武道への志向は身体知から発出してきたもので、合気道は偶然の出会いであったという。合気道を始めた者が、長い居合道歴を紹介したときから、初心者であるにもかかわらず痛烈な技を仕掛けられ閉口したことがあったそうだ。開祖の植芝盛平へ尊敬はありながらも、それ以上、畳の道場での稽古は遠慮をしたと仄聞したことがありました。修行人口が増えるに従い、武道においても質の低下は避けられないようです。あるいは、これらも後に述べる戦後における武道のスポーツ化がもたらした弊害なのかも知れません。
 幸田文が父・露伴から家事を習ったとある。露伴は「薪割りをしていても女は美でなくてはいけない、目が爽やかでなくてはいけない」と娘に教えたらしい。
 鉈は「二度こつんとやる気じゃだめだ、からだごとかかれ、横隔膜をさげてやれ。手のさきは柔らかく楽にしとけ。腰はくだけるな。木の目、節のありどころをよく見ろ」と言った。横隔膜を下げろとは腹式呼吸で、胸に息をたくさん入れろということであり、丹田に気を落とせということなのでしょう。
 次ぎは文が露伴の雑巾がけの姿を書いたもので、関川夏央「家族の昭和」(新潮社、2008年)の内田樹からの孫引きですが一読に値するものと思われました。
「すこしも畳の縁に触れること無しに細い戸道障子道をすうっと走って、柱に届く紙一ト重の手前をぐっと止る。その力は、硬い爪の下に薄くれないの血の流れを見せる。規則正しく前後に移行して行く運動にはリズムがあって整然としてい、ひらいて突いた膝ときちんとあわせて起てた踵は上半身を自由にし、ふとった胴体の癖に軽快はこなしであった。」
 内田氏は書いている。「どうやって身体と雑巾と板目を『なじませる』のか、どうやって身体と鉈を薪を「ひとつのもの」として操作するか。雑巾がけが爽やかに、美しくできるようであれば、人間としてかなり「出来がよい」と判定できるという評価法が露伴の時代まではしっかり根付いていたのである。」
 露伴が教えようとしているのは、「主体」と「対象」の二項対立をどう離れるか、ということだ、と。
 「私」が「剣」を「揮(ふる)っている」というふうに、主語と他動詞と目的語の構文でこの動作をとらえている限り、この反復練習はただの苦役であり、そんなことのために時間を費やしても意味がない。脳ではなく、身体で考える人間を、養老先生は「野蛮人」と呼称し、これを内田氏は「入力」ではなく「出力」を軸に世界を文節するタイプの人間と言い換えています。
 コロナ禍の現在、体育館等の広い稽古場の利用できない。戸外で真剣を揮うことは禁じられている。であるなら部屋の中での稽古をするしかない。身体で考えることを稽古の基本にすればいいのだと、私は床の雑巾がけから始め、マットの上での柔軟体操のあと、正座の基本から、身体をもって考えることをやりだした。足の腿と踵と尻の関係を試行錯誤して身体に聞いてみる。正座の姿勢が横からみて、ちょうど木刀を床に立てた線に似ていると、八段範士から教わったことを思いだす。股間節の微妙な動き、首から頭にかけての傾斜は、仏像に似ているのは不思議な符号ではないか。私も「身体の内側で起きていることをモニターする」という稽古の基本から始めたのであります。すると、50年前に大学の授業でとった「柔ら」の先生やら、稽古中に聞いたさまざまな「声」が身体の中に、甦りだしたのには驚きました。あたまが忘れてもからだは覚えているのす。
 昔、参禅していた禅寺の老師がその後、静岡県三島の龍沢寺の老師におなりになったが、静まった坐禅の最中でも「死坐禅」をしている者へ、「うるさいゾ!」と一喝されたのには驚かされました。「首が斬られても動じない心構え」を要求されたのを思いだしたのです。稽古の前後に結跏趺坐の坐禅を日課としました。
 頭をゼロにして、呼吸をならうためなのだ。内外の海で30年ほどダイビングをしてきたが、初心のころは、背中のボンベから吸う空気と吐く空気の音がやけに耳に聞えた。人間は呼吸をして生きていることを気づかせてくれました。もしボンベから空気が遮断されたならと考えるとゾッとしたものです。NHKの高校講座の生物で、「呼吸は酸素を用いて、有機物を二酸化炭素と水に分解をし、エネルギー(ATP)を取り出す反応」と教わったが、海から陸にあがった生物がエラ呼吸から肺呼吸を覚えることに、どれほどの時間を要したのか。一時、私の顎関節症の治療にあたられた医師はやはり三木成夫を尊敬していましたが、肺呼吸に失敗して海に戻った鮫の研究をしていると仄聞したことがありました。信仰は呼吸のようなものだと言ったのはかのパスカルであったか。
「ふだんより時間があるので、呼吸法をする。呼吸法をしてから形を遣うと動きに『甘み』が出てくる。」とはくだんの本に記されていることである。『甘み』とはなんという表現だろう。これは身体で感覚してみれば、自ずから知られることだろう。
 私は老師から数息観を教わったが、これは心を静め三昧の力を養う修行の方法です。内田氏は武道はスポーツではないとはっきり言明しているだけではありません。GHQの禁制をかいくぐる方便として武道はスポーツの仮面をかぶったが、「日本の武道史上最大の失敗は、生き残るために政治的工作をしたことではなく、政治的工作をしたことを隠蔽したことだ」と指摘をしています。これは加藤典洋の「敗戦後論」を想起させますが、武道の生き残りのための「適応」であり、本筋からの逸脱であった。その「適応」に無言の指示を与えたのは日本国民だが、その「適応」を逆に冷静にたどろうとしなければ、武道は「還るべき原点」を見失うと述べています。これは大変に重要な言葉です。剣道が当てっこに成り下がり、柔道が勝てばいいとその技が拙劣となり、居合においても段を欲しさに裏金が動く不祥事があるならば、戦後75年の現今の政界同様に、その退廃は目を蔽いたくなるでしょう。
「刃筋が通る」ということはどういうことかを実感すること、剣には剣固有の動線があり、人間は賢しらをもってそれを妨げてはならない」(「武道的思考」P43)
 そこからレヴェナス研究家の内田氏は深甚な疑問に逢着します。武道の「主体」とはいかなるものであろうかと。近代の「野蛮人」として、内田氏はこのデカルト的な省察を、「『我思う』ゆえに『我あり』ではなく、『我思う』ゆえに『思う』あり」の方に分岐する、と述べています。「主体なんてなくてもぜんぜん困らないし、むしろそのようなものはない方がましだ。こうした逆説的状況に学生諸君を投じるために、お稽古をしているのである」と、内田氏はデカルトの有名な仏語を、つぎのように書き改めました。
 Je pense donc ça se pense .


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「武道」という風景(2)

 文芸批評家として40年ほどの履歴をもつ加藤典洋氏には対談が多くある。加藤氏は「あとがき」(「対談」戦後・文学・現在2017年)でつぎのように告白しています。自分は心服している相手を前にすると口がきけないか、きかなくなるタイプで、対談中に場がもたなくなることがあるのだと。そういう事情が逆にこの対談では作用したためか、加藤氏が一方的に話して、最後に「いやあ、今日は聞き入ってしまいました。真摯に読んでくださって、本当にありがとう」という養老氏の感謝で終わっています。
 「なんと激しい本だ」という加藤の感想から、フーコー、レヴィストレース、ラカンを連想させる非常に大きな構えをもつ作品で、「身体の喪失」=「脳化」を語ることでパラダイムシフトを生じさせるものとなっている。加藤はここから「アフリカ的段階について」の吉本隆明を、「近代以前」の江藤淳を思い浮かべます。なぜなら、養老氏が「身体の喪失は江戸時代から始ったとこの本で書いているからだと。
「江戸をどう捉えるかについてはいろいろあるが、ぼくが考えついたのは、西洋的には江戸は『経済的に近代』なのだけど、『政治的には中世のまま』だということです。そのふたつが一緒くたになっているから、経済と政治を分けて考えていかないといけない。明治維新が政治改革とされるのは、そのためではないか。そんなふうに想っていたら、この本にもそう書かれていた(笑い)。
 だからこの本を読んで、『和魂洋才』とか『世間』とか養老さんがいう場合の言葉の意味がはじめてよくわかりました。そこには二重の意味がある。江戸という日本の近代でははじめてうまれてくるのが『世間』、明治という断絶をすり抜けて江戸的近代を明治以降の西洋近代につなげた工夫が『和魂洋才』です。ともに『使える』。でも中世以降の『身体の喪失』の産物でもある。肯定的と否定的。二つある。ニュートラルだから、両義的に捉えられるんですね。養老さんの言うことがときどき分らなくなるのは、そのせいもある(笑い)。」
「結局、芥川を中心にして、漱石、それから私小説論のあたりの日本近代の動きは、コップの中の嵐だと、養老さんは言っているんだと思うんです。社会的自己と自己的自己の喧嘩だから、江戸と明治の区切りのようなもので、実は同じ穴の狢ではないかと言っている。僕もそうだと思います。中世のほうから、もっと大きな枠組みの中で身体の方から見ると、その両方がすでに身体を忘れているという点では同じなんです。こうやって大きく枠をとらえると、コップの中の嵐を囲んでいる、もっと大きな絵が見えてくる。非常に刺激的で、この本にだいぶ教えられました。」

 この対談の加藤氏の熱度と奮闘ぶりには、養老氏も一驚したと思われますが、思想が内部で熟しているときには外からのいかなる刺激もその反響が現われるものでしょう。「なんと激しい本だ」という初めの加藤氏の反応は、自他の境界を消すほどに働きかけてくるものへの驚嘆です。あたかも若き小林秀雄がランボーにであったときの衝撃に近似したものです。小林から「政治」をひきだすのではなく、もし「身体」をひきだす野蛮人がいたなら、「小林の身体」として大きな示唆となることができたでしょう。それこそ加藤氏が、小林はなぜ戦争をゼロのまま通過することができなかったのかという批判への反問になり得たでしょう。その可能性をもった批評家といえば秋山駿しかなかったが、秋山は「魂と意匠」で彼本来の球を小林の身体へ投げ込むことができなかった。加藤氏は心服している養老氏をまえに一人しゃべっているが、それは自分の楽器を鳴らしているかのごとき趣きがあります。このとき、加藤氏の遠い背景にあったのは中原中也の影でした。いや、加藤が「チンケ」といった三島の生首だったのかも知れない。彼が一読して破ってポケットに入れたというほど惹かれた三島の短篇「仲間」は三島が頭ではなく、「日本的霊性」(鈴木大拙)における身体性の共同を象徴させる好作品でした。加藤氏はこの短篇に「激しく」反応しながら、戦後の啓示を受けた三島の文学を切り捨てるという、両義的な判断を強いられたのは加藤が脳化=身体で三島に向かい合うことが難しいことだったからです。敢えていうなら加藤は首のないトルソーで三島の文学に向き合うと同時に、中原中也を自己の思想にしっかりと繰り込むべきでした。

「最初の話に戻ると、そういうわけですから、『身体の喪失』から見る他に例のないこの時代の区分がわかると、この本はますますおもしろくなります。『中世』という見方がこの本のいちばんの醍醐味ですね。いろいろなことがこの見方にあてはまってくる。(中略)なんだかぼくばかりが話して申訳ないのですが、もう少し感想をお伝えしてしまいますね。
(養老)ぜひお願いします。今日は加藤さんの話をじっくりと聞くつもりですからご心配なく。
(加藤)(中略)今後は、外在的に見た「西洋化=近代化」の見方とは違う、内在的な「近代化=西洋化」の問題を取り出さないといけないと思う。そのためにも、中世の視点を持たなくてはだめだと感じました。
 平安時代が崩れて中世が始ったときになにが起こったのか、この本は、声を大にして言いたいけれど、歴史の見方を変えますね。フーコーだのなんだのという前に、日本人が自ら考えなくちゃわからない。」

 養老氏の「バカの壁」は2003年(平成15)であり、この対談は2010年の2月。「対談」として本になり養老氏との対談が納められたのは2017年9月です。私の見るところ、この対談での加藤氏の興奮は、自分がもっている課題に養老氏の本が深いところで照応したからで、加藤氏はその蠢動にはげしく共振しているところからやってきていると思われます。

 加藤氏はこの「対談」後、ほぼ1年間の休暇を旅行で過し、喜びに満ちた軽快な「小さな天体」を上梓しますが、同年に2011年3.11の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故に遭遇、黒表紙の「死に神に突き飛ばされる」を発刊。翌年、副題に「戦後思想の射程について」をもつ「ふたつの講演」を出版、同年に心服していた吉本隆明の死去、つぎにその翌年には息子の死去に遭遇する不幸が重なります。それから加藤氏の生き急ぎが始ったかのように、「人類が永遠に続くのではないとしたら」の翌年「村上春樹は難しい」を、そのあと、「戦後入門」に神経をすり減らしこれを上梓、翌年、矢継ぎ早に三冊の本「日の沈む国から」「世界をわからないものに育てること」「言葉の降る日」を出版します。「もうすぐやって来る尊皇攘夷の思想のために」はその翌年で、養老氏を含め13人の「対談」本を刊行、2017年の「敗者の想像力」以降、体調の異変があったことが推測されるのです。
 なぜならこの年の暮れ、毎年、鎌倉の養老宅で開催される内田樹等も含む忘年会に出られなくなった事情が、「加藤君は調子がわるいらしい」という養老氏の伝言のことばから窺われるからです。そして翌年2018年の一年の空白。2019年、「九条入門」が必死の思いで書かれますが、この年の5月に入院、逝去となるのです。享年71歳。
 武道に関して、養老氏はすでに相当な人物であることは、「私の身体は頭がいい」(内田樹著2003年)を一読しただけで想像がつくと思われる、ただその詳細は分らないながら、甲野善紀先生をご存じというから”通”であることだけは確かです。この本の中での次ぎのつぶやきをしているので特記しておきたい。
 「侍の起源というのは、歴史学者がはっきりいわないけれど、わからないんです。」
 「・・・・・・けれど、わからない」
 こういう表現をする人は、もう”達人”だと思ったほうが、いいのである。





「武道」という風景(1)

 退職後の父が相撲をテレビでよく観ていた。終わると酒をひとしきり飲み夕食をするのが常であった。同じような年齢になり私も相撲をみることが多いが、武道をすこし嗜んだ者の目で相撲を観ているらしい。土俵にあがった姿格好、顔つき、挙措動作のいちいちの細かい動作に目が自然に注がれる。相撲は国技と言われるがその意味がよく分らない。日本の歴史の古書に出てくるからなのか。伝統芸能ではないようだ。ならば、武道なのかというと、内田樹によれば、K―1で元横綱が秒殺されたことから格闘技としての有効性は疑問らしい。力士という言葉から士道というものを考えるが、現代の相撲から士道らしきものは想定できない。
 数年前に亡くなったある文芸批評家がデビュー作の本のはじめに、地方の小学校の生徒が山に遠足に行き、他校の生徒と出会い相撲を取ることになった。両校から代表がでて取り組みが始ったが、自校の代表が土俵際まで追い詰められ腰を落としそうになったところで、偶然相手の腹に触れていた足で巴投げをした。すると自校の仲間から拍手が起き、自分もそれに倣った。だが後ろめたい気持になったらしい。相撲が突然に柔道に変わったのだ。この文芸批評家は日本の戦争直後を、この相撲から柔道になった小学生のエピソードから、敗戦を糊塗して戦後を生きてきた日本人の姿を投影する批評文を1995年(平成7)に書いた。タイトルは「敗戦後論」である。
 上記の著者と同世代の内田樹氏が「武道的思考」という本を2010年(平成22)に刊行している。当時、合気道六段の氏が書いたこの本には達見にみちた武道論が盛り込まれている。本の帯に「武道の極意は他者との共生にあり」というフレーズを見ることができる。
 この二冊の本のあいだに、「現代太極拳攷-自分を開く」(高橋清治著2002年・平成14)という小さな活字の517頁の大著を置いてみると、後に述べる養老猛司の「身体表現」と中国の太極拳の歴史がパラレルに見え出すのは不思議ではない。中国は日本以上に「言語表現」に強い重心がかかっている国柄と思われるからである。
 ともあれ、これらの身体に関わる三冊の本から、世紀の変わり目の前後20年の日本人の心模様が見えてくるような気がしてきた。だがそれは錯覚に過ぎないのかもしれない。あるいは、與那嶺潤の「中国化する日本」のように、千年というスパンで歴史をみる目が必要なのかも知れないが、試行錯誤を覚悟でやらなければ、新世紀が始って20年という時代の分水嶺に楔をうつことはできないだろう。
 最初の本は文芸批評家の批評文であり、後の二冊は武道(武術)を論じている。ここにもう一冊の本「身体の文学史」(養老猛司著1997年・平成9)を置いてみると、さらに面白い日本の文化の病巣の一面が見えてくるのかも知れない。この養老の一書が別段武道と関連するわけではないが、解剖学者の養老氏の手には死体を切るメスが握られ、三島をはじめ日本文学をみる養老氏の視野に武道的な一閃が見えないこともないからである。
 2021年の現在は昨年から続くコロナ禍の終息は依然として見えてこず、世界はコロナパンディミックスの渦中にある。他方、地球規模の気候変動を含む問題に直面している。コロナも気候問題も身体としての人間を直撃してくるものである。
 養老猛司氏の「身体の文学史」は伝統的な日本社会の枠組みから「身体の喪失」とでも「悩化」とでもいうべき表現をとりだして、日本文学のネジレをさらに捻るかのごとき通覧が意外な面白みをみせてくれる。人間の自然を見事に描いた深沢七郎の「楢山節考」を気持悪いと言いながら評価した三島由紀夫を、養老氏は典型的な脳化社会の人間だという。表現としての身体を徹底的に追求して三島は生首になったのだと。
「明治以降、われわれは身体表現を消し、言語表現を肥大させてきた。それに対して、三島は身体表現へ向かう時代の必然性を、自己の内に体現していた。なぜなら両者は、どうしても相伴うしかないからである。そう思えば三島は戦後の日本文化そのものであり、三島を悪し様に言おうが、称揚しようが、それは自己言及に過ぎないのである」
 養老氏はあの難解な三島の「太陽と鐵」をお読みになり納得するものがあったようだ。「さまざまな事情が絡んで複雑化したとはいえ、『三島という事件』ほど日本社会と身体という問題を鮮明に表示したものはなかった」とは「身体の文学史」からしか出て来ない至言であろう。
 氏は日本の古典文学はまだ勉強していないと言及していないが、紫式部の源氏物語は中村真一郎の「色好みの構造」という文脈におくまでもなく、十二単衣に隠された女体への優雅な賛歌として現代人を驚嘆させずにはおかない。つぶさに物語へ参入すればそこに式部の内面をくぐりぬけ、平安朝時代の「美の祭典」なる光景を見ることができる。養老氏の身体論は古典までその水鉛を下ろすことが待たれるものだ。
 ところで、今年1月のブログで私は「肉体の学校(1)―呼吸を学ぶー」を書いた。そこで発生形態学者の三木成夫の「ヒトの身体」を生物史的に考察した本の一端を紹介した。因みに、三木氏は養老猛司の先輩格の人で、三木氏の研究成果は後輩の養老氏はもちろん多くの人達を刺激した。その理由は三木氏が人間という高等動物の研究に際し、その身体そのものの発生の起源を遡る自然科学者であり生物学者として、地道な観察と研究を徹底した学者であったことによるだろう。「敗戦後論」等一連の戦後における日本の在り方に批判の眼差しを注いで、生き急いだともいえる加藤典洋を含め、この加藤が私淑した吉本隆明が70歳を過ぎて三木氏の著作に出会い、彼の言語論の根拠に自信を持たせた三木氏への感謝の文「三木成夫『ヒトのからだ』に感動したこと」(吉本隆明)を一読すればいいのだが、その後、三木氏の「海・呼吸・古代形象」(うぶすな書院・1992年)の吉本氏の「あとがき」を読み、「言語以前の音声や音声以前の身体の動きのところまで、拡張できる見とおしが得られた」という感想から多くのことが示唆されたが、仔細は後に述べることにしたい。一言だけここに記せば、詩人の中原中也の「名辞以前」がここに想起され、加藤典洋氏の二十代の耽溺がよみがえるとだけ言っておきたい。
 三木氏が懐いた「生物のすべての構造を、粒子に分解し、すべての機能を数式であらわしてこと足れりとする現代の風潮」(P6)「生物に限りない興味をいだいた晩年のゲーテは、“人間は理性のおかげで、いかなる動物よりも動物臭くなった“の述べた。そして、われわれの中にひそむ動物性の正体をきわめることによって、動物界における人間の位置をあきらかにしょうと試みた。しかしながら今日、この”動物的なもの“とはいったい何であるかという問題に関して、人々ははなはだあいまいな考えしかもっていないように思われる。」(P15)さらに、「われわれは、心臓と脳によってそれぞれ代表される植物性器官と動物性器官の関係を、動物分化の歴史のなかでながめてきたのであるが、そこで一見してわかったことは、動物性器官が植物性器官をしだいに支配するようになる、というひとつの出来事であろう。それは、生の中心が、心臓からしだいに脳へ移行していくという出来事であって、このことは、“心情”の機能が、しだいに“精神”のそれによって凌駕されつつある人類の歴史に見るまでもなくあきらかなことであろう。」(P39)に、養老氏が同調こそしろ異論を挟む余地はないにちがいない。
 これらの三木成夫氏の思考は咀嚼され尽くされ、養老氏の「身体の文学史」の独創が生まれる。2009年の暮れに行われた養老氏と加藤氏との対談は、批評家の加藤が「身体の文学史」をバサバサと大根でも切るように要約して、養老氏の肖像を一筆で描いてさすがと思われるので、ここに一瞥しておくことにしよう。



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加藤典洋 19  ―小さな天体―

 名辞以前という言葉が中原中也の試論にあります。この詩人によると、「手」という言葉が喚起される以前に、「それと感じられる」世界のことなのですが、それはことばにはできない。だが「詩」はそれをことばにしなければならないのです。加藤という批評家へのアプローチでは、この名辞以前という中也の詩作の方法に拠り所をもとめることが、一番適切ではないのでしょうか。1995年の「敗戦後論」でもなく、この本が招いた誤解を解くべく、パリで思索した浩瀚な「戦後的思想」でもない。日本人にこだわった「日本という身体」そして、小林秀雄に代表される「近代」に抵抗した「日本人の自画像」でもない。加藤の肖像を描くには、この名辞以前のことばにならない、いまだ想像の眩暈、おぼろな妄想に浮遊するものを手がかりに、試行するのが最もいい方法ではないでしょうか。
 たとえば、加藤が一年ほどの休暇を大学からもらってデンマークとアメリかのサンタバーバラで過した一年の日々を綴った紀行日誌「小さな天体」には、加藤典洋の生き生きとした日常とそこに点綴する断片的な思考の煌めきをみることができます。学生時代の十年を中原中也に入れ込んでいた加藤という批評家の底板に描かれたものこそ、加藤という人間の核心的な淵源となっているのではないでしょうか。初期の「批評へ」に収められている数多くの文章には、加藤が「思想」へと離脱する以前の、中原中也から手にした思考の豊な萌芽がみられます。彼の本質は半分以上のものではありません。それ故に彼はいつも一人二役をこなしていなければなりませんでした。これが彼が産みだした戦後の新しい「批評」なのでした。たしかに「日本人の自画像」は力作です。しかし、「小さな天体」に表現された日常には、それと比較できない豊穣な喜びがあります。加藤の冒険的な思想のダイナミズムにある種の「天才」を認めないというのではありません。「戦後」をめぐる著作活動が加藤典洋という文芸批評家の驚嘆すべき表現であることはたしかでありましょう。そこに彼の人生の大半が割かれていることは事実でありますが、加藤自身の表現をかりれば、それはむしろ二階屋であり加藤が住むのは、その家の一階のほうにあるのです。彼の特質は二層性にあり、二重性にあります。なんなら多様性といってもいいかも知れません。小説をやめた批評家、詩を書かない批評家。詩をも小説をも通過して、彼は批評文を書き続けましたが、それは中原中也と腐れ縁でむすばれた小林秀雄に近似した姿をしています。Jポップの音楽まで手を広げて、彼は現代批評の領野をひろげようとしました。こうした努力があまり評価されないうちに彼はあの世へ旅立ってしまった。鋭敏で先端的かつ広闊な彼の感覚は、「戦後」なる思想の看板にあまりに先導されてしまったきらいがあるようです。そこに彼の時代性があったことは否めないにしろ、彼の多岐にわたる好奇心が「戦後」という閉域に限定されてはなりません。さらに広闊な風景、彼の「武蔵野」のどこにでもある風景の中に解放される必要があるのです。
 彼はなにより「文学」の徒であり、大学教師でさえありました。山形県の元警察官であった父は95歳になってテレビを見ずに塩野七生の「ローマ人の物語」を読む書斎派ですが、早熟な彼はその父に反抗しながら成長して東京へ出てきています。1960年代のたぶんに政治的な季節を通過しながら、中原中也に長きに亘って雌伏してきたことは看過できない、彼の「語りの背景」にならないはずはないでしょう。彼が中原中也の感化を受けたことがその後の彼の基底になっていることには見えづらいものがありますが、彼の感性の形成はその「名辞以前」の思想の萌芽期にあることは注目すべきことなのです。死者への視線、江藤淳や小林秀雄からの摂取と批判、吉本隆明からの思想的な感化においてさえ、中也の影をみることができるのです。死期も間近に「太宰と井伏」その再説から、太宰の実存的な存在の底板に、初代なる女性を浮上させる根拠となる彼の内的な想像の発露は、まさしく「名辞以前」からやってきているものでありましょう。その「名辞以前」を彼が小林を批判した口調でいえば、「思想」に繰り込むことができなかったようです。そこに彼の一見難しそうな文章がでてきますが、そこには産みのくるしみが窺えます。「文章表現法講義」を読めば、彼が日本語による表現にいかに創意工夫を重ねたかが得心されることでしょう。加藤はその初期に中原中也の核心を衝く論考を著わしています。中原は小林秀雄の知性とは対照的な詩人であり、三島由紀夫は加藤に「戦後」の普遍性を啓示した者ですが、小林的な知性の戦後版として、中原の対極にありました。加藤はこの三島といわば背中会わせに遭遇したのです。加藤の三島への共感と反感は運命的なものでしたが、どこかに不透明なもがあるのは残念なことでした。「日本人の自画像」とは別に三島を論じることができていたなら、彼の「尊皇攘夷」はさらにインパクトのある射程をもつこともあり得たかも知れません。
 ともあれ、加藤典洋という一人の文芸批評家にとって、「小さな天体」という一冊の日誌が、50年にちかい「戦いの記録」(カフカ)の中で、素適な魅力を放っていることは、たしかなように思われます。そして、この国が100年の間、毀損し続けていた事柄を口ごもりながら夢想してきたものが、この「小さな天体」であったといってもいいのかも知れません。



         IMG00012天体



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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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