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加藤典洋 Ⅲ

 林芙美子が最晩年に書いた小説「浮雲」の終わりごろに、病床のゆき子が「東京裁判」に思いをよせるくだりがある。
「その、小さなラジオを眼にとめて、富岡が、ダンズ曲でも聴かせてくれと云ったが、ゆき子は、わざとダイヤルを戦争裁判の方へまわしたものだ。二世の発音で、
「貴下、その時、どうお考えでしたか?」
 といった丁寧な言葉つきが、ラジオから流れると、富岡は、そんなラジオは胸が痛いから、アメリカのジャズでも、聴かしてくれとせがんだ。ゆき子は、むかっとして云った。
「私や貴方もふくまれているのよ、この裁判にはね。―私だって、こんな裁判なンて聞きたくないけど、でも、現実に裁判されている人達があるンだと思うと、私、戦争ってものの生態を、聴いておきたい気がするのよ」
        (「浮雲」63章)

 「敗戦後論」を書いた加藤典洋が、林芙美子の「浮雲」についての感想を記したことがあるだろうか。日本の敗戦による「ねじれ」を問題にした加藤が、戦前と戦後の小説家や思想家の変化と動向にむけた鋭敏な注意を、もし「浮雲」という小説に集中させて論じていたなら、どのような文章を綴ることになったか、これは非常に興味を惹かれる想像である。
 なぜなら、1995年(昭和60)に発行した第三詩集「カモメ」の「あとがき」で筆者はこう記していたからである。
「戦後50年というらしい。敗戦小説の傑作「浮雲」のなかで、林芙美子は『みな、いきつく終点へ向かって、人間はぐんぐん押しまくられている。富岡は、だが、不幸な終点に急ぐことだけは厭だった。心を失う以上は、なるべく、気楽な世渡りをしてゆくより道はないと悟った。』
 これが過去のまた現在の日本における生活者の感慨である。これ以上なにを語る必要があろう。」
 「浮雲」の登場人物である「富岡」は戦前から戦後を生きていく日本の庶民の典型であろう。だがその富岡から離れられない「ゆき子」は屋久島の病床から「東京裁判」のラジオに耳を傾けながらも、
「私や貴方もふくまれているのよ、この裁判にはね。―私だって、こんな裁判なンて聞きたくないけど、でも、現実に裁判されている人達があるンだと思うと、私、戦争ってものの生態を、聴いておきたい気がするのよ」
 と、ダンス曲でも聴きたいという富岡へ反論するのである。死の淵に喘ぎながらもロマンチックな過去へのノスタルジーを捨てることもできず、「東京裁判」の被告達に自分たちも含まれていると揶揄ともとれる一言を放つゆき子には、作家林芙美子の戦後の時代認識が投影されている。
 加藤の批評の立場からすれば、富岡は高度経済成長を遂げるまでの昭和の戦後を逞しく生き抜いていく日本の大衆の一人、20世紀の文明を世界にもたらしたアメリカ(対話集「アメリカが見えない」青木保・対談)に無意識の深層まで浸透され、加藤の説くジキル氏とハイド氏という二人の人格に自己分裂している私たち日本人の大多数にほかならない。富岡に批判的な態度で接するゆき子は、戦前の日本への憧憬をひきずりながらも醒めた目を保持している。この男女の戦争体験の微妙な陰影の相違のうちに、加藤の戦後批評の磁場そのものの反映をみることができるといってもいいだろう。敗戦により生じた「ねじれ」は、メビウスの帯のように表は裏と反転が可能な構造となっている。ゆき子の反面は富岡の反面と交換が可能なのだ。「浮雲」の男女二人の腐れ縁の関係は、加藤の批評の両義的な構造を鏡にみるごとくに映している。昭和の作家林芙美子の真価は、加藤の説くところの「ねじれ」を、男女の肉感的な関係性として描きえたところにある。林が前年に書いた短篇「下町(ダウタウン)」は、シベリアから帰る良人をまちながら、下町で茶を行商するりよという子連れの女をスケッチ風に描いているが、一夜懇意となった鶴石という男が工事現場の事故であっけなく亡くなってしまっても、「鶴石を知ったことを悪いといった気は少しもなかった」とりよに言わせて憚らない。敗戦後の「下町」の短篇に比較を絶する熱量をもった長篇の「浮雲」が「敗戦小説」の傑作である所以は、戦争の総体を男女の恋愛という「対幻想」(吉本隆明)で描ききった作家の圧倒的な力量にある。短命に終ったとはいえ、林芙美子は、大岡昇平同様に「戦後を敗者として生きた」一人の作家であり、「ねじれ」を最後までもちこたえた女性にちがいない。加藤の「敗戦後論」の軸となる倫理の基底を食い破りかねない熱量が、この作品に生彩あるエロスの輝きを放ってその魅力ある文学的な地歩を獲得している。「浮雲」の登場人物である二人の男女(ゆき子と富岡)の関係には、加藤の「敗戦後論」のモチーフを喚起する格好の舞台であり、加藤の戦後批評の考察対象として、立派な補助線となり得るものがあったからである。そこから、上記のような想像が誘発されてくるのだ。
 そしてここから、加藤がなぜ最晩年に太宰治が「底板」を踏み破り、最後の自死にいたる一押しとなった戦前の作品「姥捨」に注目するその理由が、「浮雲」のゆき子と富岡両人の背後からせり上がってきたはずであろう。
 さらにまた、「浮雲」が加藤の評論の対象になっていたならばという前述の仮説から、姜尚中との対談(「敗戦後論」とアイデンテティー1996年)における加藤の発言に注目をむけざるえなくなるのだ。
「日本の戦後にはあるねじれのような構造がある。それを本当に解決したならば、『一人の死者を弔うことによって三百万の死者の枠をくぐり、二千万の死者に直接届く』、そういうあり方を編みだすことができるかもしれない」(下線-引用者)
 これは「敗戦後論」発表の渦中にあった加藤が対談の間合いに洩らした夢想の断片だが、後述する「完本『太宰と井伏ーふたつの戦後』に関わる大事なメッセージと思われるからである。なぜなら対談中に加藤の脳裡を擦過したこの夢想は、病床にあった加藤に本格的によみがえり、熟考を促してその再説の力を奮い立たせるものになるからである。
 加藤は戦前・戦後の小林秀雄の批評から多くを学んでいる。敢えて戦後の批評の課題をさらに深掘りして考察しないではいられなかったであろう。初期に書いた「新旧論」に顔をのぞかせていたものはまさにそれであった。加藤自身が「私の原論」と称した「日本人の自画像」が小林の「本居宣長」を読み破る体の真剣な情熱の持続に貫かれているのはそのためだ。さらには戦中派の江藤や吉本という二人の批評の意味をも吟味しなくてはおれない時代の要請がこれに続いた。デビュー作「アメリカの影」が尊敬をしていた江藤批判になったのはその故でのことだ。特に、吉本の「共同幻想論」と「存在の倫理」(対談)思想から示唆され、そうした場所で展開された加藤の戦後批評の位置からすれば、完本「太宰と井伏ーふたつの戦後」に最後の一考察を加えないでいられない使命の自覚が、加藤を動かさないではいなかったのだ。
 それが太宰が故郷から東京へ連れてきて、弊履のように捨てた一人の実在の女性である初代であった。このとき、加藤の関心はつぎのようにその立ち位置を変えているのだ。
「その足場を一言で言うと、生きている人間の場所、ということになるだろう。あるときから、生きている自分が、自殺することを選んだ太宰や、三島由紀夫にあんまり共感するのは変だよ、と思うようになった。そこから考えていると、どうも自分が苦しくなる」(単行本あとがき)。
 この加藤のつぶやきには、近代文学に対する注目すべき変化の眼差しがあり、「もうすぐやってくる尊皇攘夷の思想のために」(2017年)を根拠づける証左ともなるのだが、ここでは論を先に進ませてもらうことにする。
 加藤が最後に執った筆が、現実の戦争下に青島で孤独のうちに死んだ実在の女性を浮上させ、太宰にとっては過去の腐れ縁でしかなかった初代という女が、戦前における太宰の4回の自殺未遂以上に重い存在として、戦後の太宰その人にのしかかった倫理的な拘束となったこと、そのことを独自の直感で掴みえたとするならば、加藤典洋が展開した戦後批評における看過しえない業績としてこれを認めねばならないからである。
「日本の戦後にはあるねじれのような構造がある。それを本当に解決したならば、『一人の死者を弔うことによって三百万の死者の枠をくぐり、二千万の死者に直接届く』、そういうあり方を編みだすことができるかもしれない」という加藤の夢想の一瞬は、太宰治の実存の底からじわじわと戦後の太宰に浸透し、これを包み込んだとみえたのだ。
「この小山初代の蘇りは、「純白」の心からする(戦争の死者たちへの)後ろめたさを凌駕しただけではない。『姥捨』の、人間は『生きていさえすればよいのだ』という実存の底板をも、踏み抜いている」(「太宰と井伏」再説)。
 これは太宰治という作家のこれまでのステレオタイプの見方を転換させるほどの重要な指摘ではあるまいか。
 ここに、加藤典洋という人間が戦後の太宰治の自殺に掴んだ、「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」との宣明、その「世界」からの新たなメッセージ、「生きている人間の場所」というこれまでと違った角度から、「戦後の未来」へ向けての真率な提言が為された由縁があったのである。





加藤典洋 Ⅱ

 或る人間がどのような時代に生れ精神的に生き始めたのか。その人間がその時代をどのように感受して、そこに如何なる問題意識を育みに至ったのかは、看過できない重要な事項である。誰よりも本人がそのことに自覚的である場合、その人間の像へ光りとあてるには正面から向かういがい方法はないであろう。

 「ぼくはぼくであることについてはたして自由だろうか?」
       J.M.G.ル・クレジオ『物質的恍惚』

 青年期にすでにこうした自問を抱懐している青年に、時代や社会などという外的環境が当の人間の思考に及ぼす影響を考慮しても無意味だろう。だが知的な構造だけがその人間の思考をつくるわけではない。いかなる知的な人間といえど、感性や感情に包まれ、またはそれを生涯に亘ってひきずっているはずだからだ。
 だがこのル・クレジオのことばにあるのは、自己自身を白紙還元しようとする、はげしく根源的な意思である。まっさらに生まれ変わろうとする野性の本能の端的な表明である。これこそ嘗てフランスの詩人にして哲学の徒ポールヴァレリーが精神における第二の誕生と呼んだものだ。

「水の中で水が沈む。波がためらいながら遠のいていく。弱々しい水の皮膚を透かすと、ひとつの表情が、その輪郭を水に滲ませてぼんやり微笑んでいる。」(応募小説「手帖」銀杏並樹賞)

 学生時代に書いた小説の冒頭である。すでに特徴ある比喩の多用が見られ、あたかもサナギがその幼虫の背中からおずおずと羽根を覗かせているような初々しい書き出しである。
 偶々にも、文芸評論家になったともいうべき加藤典洋に窺えるものは、自己を白紙還元させよう、まったきの根源的な精神と思考の誕生、先鋭にして広闊な感性、好奇心溢れる柔軟なる感覚との類い稀な合金といえるものである。だがその青年が中原中也の詩的世界に没入している光景には、余人の容喙を拒む内密な精神の世界を窺わせるものだ。「最大不幸者にむかう幻視」に次いで、千枚を超える中原中也の草稿を紛失する事故に至っては、中原中也との運命的な交錯さえ予感させずにおかない。ここには青年期にありがちな反時代的な身振りは微塵もない。時代はそのとき三島の割腹自殺、連合赤軍の陰惨なる政治的な状況の渦中にあったからである。
 1966年(昭和41)の19歳から1977年(昭和53)の29歳まで、加藤典洋の青年期はこうして過された。平凡といえば平凡、非凡といえば非凡な文学青年の10年である。後に、50冊ほどの著書にすがたを現わす二層構造とその逆説、反転に反転を重ねる渦巻、催眠状態への陶酔と覚醒、捻転の自覚と快癒の希求、こうしたアクロバットな逆立の精神の歩行は、加藤典洋なる特異の思考スタイルを特徴づけるものである。
 そして、ここに「自分と世界と戦いでは、世界を支援せよ」(カフカ)という客観「世界」からの内的な要請を自己の課題としたとき、かれは頑健な文学の徒でありつつ、かつまた強い倫理感にあふれた文藝批評家となって、かれの71年の人生のアラベスクを見せてくれることになるであろう。





加藤典洋 Ⅰ

 加藤典洋が後年に書いた自筆年譜によると、「無期限スト終結宣言のないため、時々孤立した文学部共闘会議の少数の集会に参加するほか部屋で無為にすごす。ただ一人読める日本語の書き手として中原中也の詩と散文を読みつぐ」と1970年(昭和45年)学生であった著者の年譜を記している。また、エッセイ、小説、表現論、芸術論、評論などを執筆活動中、三島由紀夫の自決にあう。同年、大学院の試験を受けて落第。翌年もほぼ執筆と発表を続ける。就職のため数社の出版社に受験するがすべて失敗。72年2月、連合赤軍事件に衝撃。4月、国立国会図書館に就職。結婚した妻と中原中也の生地、山口県湯田を訪問した。
 この一文は加藤典洋という文芸批評家の評伝ではないので、身体の不調により入院した最期のベッドで記した自作年譜から、初期のプロフィールの特徴となる一断面を切りとったまでのことである。
 2019年(平成31年)5月、都内病院に入院加療の末死去。享年71歳。

 さて、1995年「敗戦後論」で戦後50年の歴史認識を問い直し、斯界に衝撃を与えた批評家の加藤典洋が、2017年10月に原稿千枚超の「憲法9條論」を脱稿後、体調をくずしたまま、その後2年足らずで不帰の人となるとは誰が想像しただろうか。「もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために」(以下「尊皇攘夷思想」と略する)は2017年の8月に刊行された。この本のサブタイトルは「丸山眞男と戦後の終わり」というのである。「尊皇攘夷思想」はこの本の第一章題「21世紀の日本の歴史感覚」の冒頭、「300年のものさしー21世紀の日本に必要な『歴史感覚』とはなにか」の講演とセットになっている。加藤が「敗戦後論」からほぼ20数年後に刊行した「尊皇攘夷思想」は、上記のように一見ものものしい形容がつけられているのは、20年の時間を経て著者の胸中に生成された「自画像」の真率を現わしているだろう。実質的に加藤のこの最後の書物は、「Ⅱ スロー・ラーナーの呼吸法」「Ⅲ 『破れ目』のなかで」「Ⅳ 明治150年の先へ」という三つの章立になり、内容は著者の生涯の掉尾を飾るにふさわしい射程と深みを持った格調を示している。
 特異の思考からの反転と熟考を重ね、先鋭的ともいえる広い視野に亘るその批評活動は、1948年という戦後生れの一批評家に独特な陰影を形成している。この一文はその特徴ある批評家がたどった含羞さえにじませた率直な思考の軌跡をたどり、その思考の斜面に照明を当ててみたいというささやかな試みである。





「敗戦後論」と加藤典洋の死

 3月11日夜、横断歩道を自転車で渡っていた私は、88歳のタクシードライバーに右横から激突された。倒れた私は奇跡的に右手の骨折のみの負傷であったのが不思議でならない。左横にそのまま倒れていたら、頸椎か悩をやられたにちがいなかった。パリの路上でもそうだったが運転手が来るまえに私は達磨のように起き上がる糞意地があるのだ。まだ右手でお箸が持てず、3ヶ月をすぎたいまも五本の指に痛いような痺れがありキーボード操作がうまくいかない。私の視界にそのまま突き進んで来る車体を見たそのとき死を意識したが、どうした加減か右手のみで自転車ごと倒れる自分を支えたのだ。ドライバーは私が自転車の下から数人の手助けで起き上がらせられて歩道に避難し、救助をされるまで私の前に現れることはなかった。老体を動かすのにそれほどの時間を要したのであろうと思われる。横断歩道の自転車専用レーンはいちばん右側にある。私が自転車ごと車の前進をブロックしてなければ、歩行者の幾人かが車に巻き込まれていたに違いない。周りの歩行者の悲鳴が聞こえた。いまでも横断歩道で車を私は正視することができない。たしかにPTSDは時を経てやってくる。
 さて、加藤典洋という文芸評論家が先月亡くなった。彼は日本の敗戦という大事を、50年の年月を経た1995年に、「敗戦後論」として現わした。一国の戦争による敗戦の体験を正面から受け止めるには、それほどの時間を要するのだ。アメリカを中心にした連合国によるいわゆる「東京裁判」を経てA級戦犯として7人が処刑され、戦後憲法が発布され、わが国の在り方は根本的に変革された。この一線を境に、この国はどのように変り、変らされたのか。それを加藤は戦前と戦後の知識人の動向に焦点をあてることにより、あるネジレが生れ、それが現在も続いていることを説こうとしたのである。加藤は文芸評論家である。加藤以前にも1945年の戦争体験を歴史的にあるいわ政治的に問題にした作家や学者は多くいる。だが加藤典洋ほどにそれを戦後の思想や文学の深部に水鉛を下ろして、そのネジレが日本という国の身体と精神をいかに歪曲してきたかを証明しようとした人間はいないのではないか。昭和40年代から東南アジアの海へ潜ってきた私は海の中に、日本人の死者の不気味な声と霊力に引き摺られる体験が加藤の論説を直感的に身体で感受する用意が整えられていたのだろうか。でなければ雑誌の「敗戦後論」が私に与えた衝撃の深度を測り知ることはできないのである。
 「敗戦後論」の冒頭は小学校時代の子供たちの相撲大会の話しからはじめられている。それをここに引用しておきたい。
「わたし達の学校代表が土俵際につめられ、踏ん張り、こらえきれずに腰を落とした、と、うまい具合に足が相手の腹にかかり、それが巴投げになった。そのとたんに、何が起こったか。わたし達の学校の生徒が一斉に拍手してはやし立てた。一瞬のできごとだった。相撲は柔道に代わったのである。
 その勝負がどういうものだったかも、わたしは忘れている。何にしろ、小学校を5階変っている。記憶がはっきりしないのだ。でも、一瞬、あっと思い、次の瞬間他の生徒と一緒に拍手した。その時の後めたさを忘れられない。その後、しばしばわたしはこの場面のことを思い出すことになった。「あれだ」、と。
 一九四五年八月十五日。わたしはその時生れていないが、後で、勉強してやはり思った、「あれだ」、と。
 そういうことがよくある。最近そういうことがなくなった、ということでもない。以下を記すに先立ち、この戦後の思い出を、何かの心覚えに書きつけておく。」
 下線の一文は今回私がつけたものである。依然としてこうした光景がこの日本では日常的に見られると思うからである。私は一方的に受け身だけでいられない依怙地な精神の持ち主のため、一時加藤の論に反駁する「戦後私論」を書こうとしたことがあった。それは先の戦争体験にもかかわらず、戦前も戦後も一貫して不動の姿勢で文学活動をした谷崎潤一郎を論じようとしたのであった。それは「アウトサイダー」で一躍世界に躍り出たコリン・ウイルソンが「敗北の時代」により「現代文明の病根をついた」(丸谷才一)ように、世界の負の精神的潮流に逆らい生の肯定を意図したものであった。加藤とて自虐的に敗者の意識に執着したわけでは勿論ないことは、「敗戦後論」の冒頭のエピグラフに「きみは悪から善をつくるべきだ。それ以外に方法はないのだからね」という正への志向を掲げていることからも了解できることだ。だが日本の戦後の思想的潮流は、その負性をゼロの地点へ戻すには並大抵な知的努力では済まなかったのである。ここに、加藤典洋というユニークな文芸評論家が活動しなければならなかった時代性がある。その活動の領野が余人の想像を超える多様性にあることは驚くべきものがあることは言を俟たない。例えば、「耳をふさいで、歌を聴く」(2011年)の音楽への傾倒に目を通してみれば如実にそれは見て取れることだ。あるいは仏語の翻訳小説「モネイズマネー」に、村上春樹の文学へのアプローチに、アニメーション映画に、小林秀雄、吉本隆明、鶴見俊介、江藤淳への傾倒摂取の高度と深度に、加藤の広大な感興の驚嘆すべき領域を眺められるだろう。あと十年も生きることができれば、一身にして三生を経たとも称すべき偉業の達成もあり得たことを想うと、加藤典洋氏の逝去は余りに早すぎるものであった。邁進努力の熱情がいかに凄まじいものであったか、思いもはんばに過ぎて、私の魂を痺れさせて止まないのである。


注:2019.9に当ブログに載せたものであるが、加藤典洋の関連で再掲する。


加藤典洋「孤立の感覚」

 しばしば文藝評論家の加藤の文章を読んでいると、切断された痛みにちかい感覚を呼び覚まされる。たとえば、ヴィジュアル系の本「なんだそうだったのか、早く言えよ」のなかにあるこんな文章だ。
「なぜわたしはこの人の文章が好きだと感じたのだったか。文章が好きだ、とはそもそもどういうことなのか。荒木陽子さんが死に、また誰のよりもその文章にひかれた武田百合子さんが死に、そうして間の抜けたことに、いま気づくが、そもそも文章を好きになる、とは人を好きになる、一つのあり方なのではないだろうか。それは人に会うことを必要としていない。しかし、にもかかわらず、人に会いたかったと思わずにいない力をもつことをやめない。」(「荒木陽子の非凡」)
 この文章にあらわれているのは、紛れもなく加藤典洋の思考がたどる、喩えてみれば地面を歩いていく小鳥の足跡を思わせる。一二歩まえに進んだかとおもうとふとたちどまり、また歩きだすがその進路は一様ではない。
「文章を好き」が「人を好きになる、一つのあり方」であるが、「それは人に会うことを必要としていない」「にもかかわらず、人に会いたかったと思わずにいない力をもつ」との結語まで、その歩行の足取りは均一な流れをみせない。加藤の思考がとるこの特異のスタイルこそがこの世界をまえに、梶井基次郎の「闇の絵巻」の泥棒の男が闇のなかを疾走する際、胸に突き立てる三尺ほどの木の棒のようなものだ。この文章は好例とはいえないが、ヴィジュアル系を扱った論考を集めたこの本は、文芸評論家の加藤の思考の地肌を眺めるには都合のいい側面をみせているのである。
 ついでにこの本から、画家「バルチュス」が好きだという加藤の論考をみてみたい。実をいえば私自身が一時、東京駅のステーションギャラリーで開催された「バルチュス」展以来、この画家に魅せられた経験があった。それは大きな風景画で私を圧倒した。だがいまはその体験は措いておこう。ただ加藤がこの画家をまえにいかなる反応をみせるかに注目してみることにしよう。
 加藤は「窓辺に寄る少女」(1955年)が好きだと告白している。普通の美術評論家はこういうことばを発しないものだが、この点加藤の美術論の語り口は正直でユニークなものとなっている。
「ずいぶんと長い間、わたしはバルテュスがセザンヌと似ているという感想をもってきた。セザンヌはわたしのとても好きな画家だから、そのせいもあるのかも知れないが、最近この文章を書くため、世のバルテュス好きの書いた一冊のバルテュス本を読んで、このわたしの受けとり方が全くの少数派に属することを知り、不思議な気がした。(中略)バルチュスの絵が、わたしに喚起する一種独特な感情、それを「窃視」の感情、そう呼ぶことができるように思う」
(いつだったか、「ブリジストン美術館」で某音楽評論家からセザンヌの若い時代に描いたエロチックな絵画数点を見せられたことを私は思いだし、ヴァルテュスとセザンヌのエロスにおける親近性を考えざる得なかった)
 ここまでならば、特別に不思議なことはなにもない。窃視の感情は誰もがヴァルテュスの絵画から懐く印象なのだからだ。だが加藤の思考(=嗜好)が前述した特異のスタイルをみせるのはこの先からなのである。それは加藤がつぎのように述べるところからはじまる。
「先の絵のうち、少女のわざとらしさの部分、少女と椅子の部分をためしに手で隠してみる。するとその室内の色調を含め、筆致がセザンヌのある種の絵に似ていることがわかる。また長方形、この絵の形とほぼ相似形に切りとられた庭の景色は、室内以上にセザンヌの別種の風景画に似ているとわかる。このことは、このバルテュスの絵にしばしば現われる人物の不自然さ、わざとらしさが要素として、絵の中で孤立している、ということを示している。」
 この「孤立」はどこから加藤にやってくるのであろうか。「窃視」という言葉に加藤が独特な意味をつけようとするからである。
「『窃視』、覗き見るという時、わたし達は、わたし達でない何かをかきわけ、そのすきま、物陰からの別の何かを見る。逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。その一方のわたしが、前方のわたしをかきわけ、何かを覗く。いわばわたしの欲望(これをエロスと呼ぶ)がわたしの感情の『格子』を透かしてあの絵の中の孤立した要素を見る時、わたしは、わたしの中に『窃視』の感情が生じているのを感じるのである。
 バルテュスの絵の秘密は、このように見るわたし達を、二つに分けるところにあるのだとわたしは思う。」
 理解するのに困難と思われる文言は、まずつぎのことであるだろう。
「逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。」という一文だ。だが「窃視」という行為を一般的に考えるなら、この心理的現象はおかしくはない。だが加藤の思考の特異なのは、こういう考えを逆に否定しているところにこそある。
「ところでわたしは、なぜその絵からやってくるものを『窃視』というように感じるのだろう。たとえば、『窃視』ということでは現代の若い画家にエリック・フィシュルがいるが、彼は二人の裸の女性が部屋にいる自作に触れ、こういっている。ここでも、『肝心なのは絵の鑑賞者がこの二人にどのように見られるかという点にある。そんなところに居てはいけないことになっているのだ』
 フィシュルの絵についても、わたし達はしばしば「窃視」という言葉を使う。しかしその意味が違っている。正確には、フィシュルの絵の前で感じる不安、落ちつかなさは「窃視」の感情ではない。というのも、誰が、どこから「覗いて」いるのか。窃視は物陰、遮蔽物を要する。「窃視」、覗き見るという時、わたし達は、わたし達でない何かをかきわけ、そのすきま、物陰から別の何かを見る。逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。その一方のわたしが、前方のわたしをかきわけ、何かを覗く。いわばわたしの欲望(これをエロスと呼ぶ)がわたしの感情の『格子』を透かしてあの絵の中の孤立した要素を見る時、わたしは、わたしの中に『窃視』の感情が生じているのを感じるのである。」
 私は2回も同じことばを引用する羽目になったが、こうさせるのは加藤の思考がそれを強いるからだといえよう。
 つぎの文章は加藤が自身の謎解きを自分でしている文章なのですこし厄介なところだ。
「その絵は、少なくとも1950年代あたりのものまで、いわばタブローの地(グラウンド)の上に、孤立した要素としての図(フィギュア)を置く形になっている。絵にあの“セザンヌ”を見るわたしの背後から、わたしを『かきわける』ようにして、もう一人のわたしが“ヴァルテュス”を見るのがわかる。自分が、そのように、少女を見ているのがわかる時、たぶんわたしは、あの不思議な『窃視』の感情、自分が誰かに『みていることを知られている』という奥深い感情を、おぼえているのである。」
 だがこの美術評論の最後の文章はそうではない。加藤が加藤自身へ向き合って書いている趣きが強いからだ。
「あの、『五分後の一秒間』(A・カミユ)化石したさまをとらえられたバルテュスの少女達、彼女らは『みられていることを知っている』。そのぎこちなさ、わざとらしさはそこからくる。しかし、誰が彼女らをわたしが見るに先立って『見ている』のか。たぶん、あのわたしの中にもう一人のわたしが、わたしのすきまから、わたしより『五分の一秒間』早く、彼女らを見ているのである。」
 ここに、1948年の戦後に生をうけた加藤典洋という先鋭的な文芸評論家の思考のスタイルが顔をだしている。
「しかし、誰が彼女らをわたしが見るに先立って『見ている』のか。たぶん、あのわたしの中にもう一人のわたしが、わたしのすきまから、わたしより『五分の一秒間』早く、彼女らを見ているのである。」
 この「窃視」のまなざしが、加藤自身を含めた「戦後」を長いスパンで透視する歴史の眼と無縁でないことに注意しておきたい。
そして、これこそが「孤立した要素」としか名指しえないものだ。「私が二人となる」のはそのためなのである。この不透明に孤立したものは、加藤が1970年の一年は中原中也ばかりの読んでいたと「自注年譜」に記した中原中也の詩のなかにある「不思議な『窃視』の奥深い感情」に通じるものなのである。
 「私が二人となる」のはこの「孤立の感覚」においてなのである。その「もう一人」はわたしより『五分の一秒間』早く存在しなければならないという、この微妙な時差に加藤の重心がかけられている。「不思議な『窃視』の奥深い感情」という加藤が強調する観点こそが、ヴァルテュスの絵に「孤立した要素」を見させている当のものなのである。彼岸から此岸をのぞくようなこの視線は、加藤が1970年という一年の間は、中原中也ばかりの読んでいたと「自注年譜」に記した詩人の詩のなかにあるものを呼び覚まさないではおかない。たとえば詩集「在りし日の歌」の詩「骨」の中にそれはある。
  ホラホラ、これが僕の骨―
  見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
  霊魂はあとに残って、
  また骨の處にやって来て、
  見てゐるのかしら?
 中原中也と交友した小説家の大岡昇平は、中原についての強烈な印象をこんなふに記している。直に中也を知った大岡でなければ吐けない科白であろう。
「中原の不幸は果たして人間という存在の根本条件に根拠を持っているのか。いい替えれば、人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか」
 この大岡の問いは、この詩人の本質を穿つ深くておもいことばである。文藝批評家にかろうじて脱皮を遂げたともいえる加藤典洋の中に、青年(幼虫)時代の中也と同型の詩人がいたとしてもおかしくはない。詩「一つのメルヘン」の中にもそれはある。「孤立の感覚」は他界からのまなざしからやって来るものといっていいのである。
 ここまで来て、ようやくのことに、加藤の思考が画家バルテュスの絵画に特異の洞察をくわえ、新しい視界を切り拓いていることを知らされるのだ。そして、この「孤立の感覚」が加藤典洋という批評家の背後に「一人二役」として、もう一人の詩人を存在させずには済まないことを理解させることになる。ここで、加藤が「日本風景論」の最後に記した「年譜」から、1977年(昭和52)29歳のエピソードを挿入しておいても唐突とはいわれないだろう。
 10月、長男良誕生。中原中也について書き続けている間生れた子どもの誕生日がそれぞれ中也の亡児文也の死亡の日と重ったことに因縁を感じる。
 加藤の「孤立の感覚」は不思議な因縁として、ここに「他者」を随伴させなければこの「孤立」は十全なものとならないのである。そして、この「他者」は「死者」と重なるのである。それは、現実には不慮の事故で35歳で亡くした長男の良であり、「敗戦後論」という想像の世界においては、日本国がその追悼を必要とした、数千万人に及ぶ内外の死者たちとなるのである。
 リアルポリティクスの立場からみれば、絵空事と揶揄されるかも知れない。しかし、加藤が「敗戦後論」のエピグラムに「きみは悪から善をつくるべきだ それ以外に方法がないのだから」という映画「ストーカー」からの題辞を記したことから、戦後のスタート地点に加藤は思想の拠点を立てたことを、軽くみるべきではないだろう。大袈裟かもしれないが、加藤が批評の代償に払ったものはかれ自身の短命に終わった人生そのものだったかもしれないではないか。
 生者と死者との一人二役のまなざしの交錯する場所でこそ、加藤典洋氏の特異の思考は発動する。この思考が「世界の限界」をまえに未来を見据えさせ、この日本の「戦後」にある「ねじれ」を洞察させ、その欺罔からの脱却を説かせるのである。そして、幕末の開国以前から連なる新たな歴史の地平に、日本の「再生」を構想するのは、詩人と文芸評論家という二重の人格者の使命だったと言ってもいいのではないか。どうにもそんなふうに思われてならないのだ。


注:2019.11の当ブログに載せたものであるが、加藤典洋の関連で再掲する。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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