FC2ブログ

加藤典洋の風景論

 前回、加藤の画家「バルチュス」の論考へ注目してみた。だがその後、詩人の瀬尾育生の「日本風景論」の解説から、それを再考せざる得ないことに気がついたので、若干の追考をしておきたい。
 瀬尾は学生時代の加藤が小説を書いていたことを述懐して、「今から見ればそれは、あきらかに『書くこと』についての小説、一種のメタフィクションであることがわかる。それは『書くこと』が一人の人間の中でどのように始るかを書いた小説である。」
 私は加藤が学生のときに書いた小説を読んでいないが、この瀬尾の観察から加藤の批評の内部への想像を刺激され、それなりに納得するところがあったのだ。
 短兵急を承知のうえで結論から書いてしまおう。
加藤の画家「ヴァルテュス」への思考(=嗜好)が「窃視」に偏愛していくその内的な必然である。かれは後から或るいは、逆から遡行するかのようにその屈折したことばを重ねてつぎのように書いていた。
「バルチュスの絵が、わたしに喚起する一種独特な感情、それを『窃視』の感情、そう呼ぶことができるように思う」
「『窃視』、覗き見るという時、わたし達は、わたし達でない何かをかきわけ、そのすきま、物陰からの別の何かを見る。逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。その一方のわたしが、前方のわたしをかきわけ、何かを覗く。いわばわたしの欲望(これをエロスと呼ぶ)がわたしの感情の『格子』を透かしてあの絵の中の孤立した要素を見る時、わたしは、わたしの中に『窃視』の感情が生じているのを感じるのである。
 バルテュスの絵の秘密は、このように見るわたし達を、二つに分けるところにあるのだとわたしは思う。」
 ここから、私達もこの加藤の文章を手袋を裏返すかのように読むことで、加藤の「素手」をつかむことができるのではないか。手っ取り早く言ってしまおう。加藤がヴァルテュスの絵画に「窃視」の感情を喚起されるのは、絵画を見るということがいかなる構造にあるかを認識しようとしているのだと。「五分の一秒」とはその中で生じる時差を象徴的に現わした表現なのであると。
 前文で私はヴァルテュスの風景画に衝撃をうけたと記したが、その衝撃がいかなるものであるかを理解しかねていた。だが加藤のヴァルテュス論から「日本風景論」を、特に「風景の影」(1990年)というタイトルの小論を読むことにより、加藤の批評の手の内が少しづつに見えてくるようになったのだ。以前にもどこかで書いたことだが、江藤淳が「小林秀雄」の冒頭で「批評家になるに払わねばならない代償とは何か」と問うたとき、江藤の胸に去来したものと同質のものが、加藤の前に影のように過ぎっていったのに相違ない。加藤は先行者の江藤を見て、その後から恰も「窃視」をするかのように江藤批判の評論に「アメリカの影」と名づけてみたのだ・・・・。







 

加藤典洋「孤立の感覚」

 しばしば文藝評論家の加藤の文章を読んでいると、切断された痛みにちかい感覚を呼び覚まされる。たとえば、ヴィジュアル系の本「なんだそうだったのか、早く言えよ」のなかにあるこんな文章だ。
「なぜわたしはこの人の文章が好きだと感じたのだったか。文章が好きだ、とはそもそもどういうことなのか。荒木陽子さんが死に、また誰のよりもその文章にひかれた武田百合子さんが死に、そうして間の抜けたことに、いま気づくが、そもそも文章を好きになる、とは人を好きになる、一つのあり方なのではないだろうか。それは人に会うことを必要としていない。しかし、にもかかわらず、人に会いたかったと思わずにいない力をもつことをやめない。」(「荒木陽子の非凡」)
 この文章にあらわれているのは、紛れもなく加藤典洋の思考がたどる、喩えてみれば地面を歩いていく小鳥の足跡を思わせる。一二歩まえに進んだかとおもうとふとたちどまり、また歩きだすがその進路は一様ではない。
「文章を好き」が「人を好きになる、一つのあり方」であるが、「それは人に会うことを必要としていない」「にもかかわらず、人に会いたかったと思わずにいない力をもつ」との結語まで、その歩行の足取りは均一な流れをみせない。加藤の思考がとるこの特異のスタイルこそがこの世界をまえに、梶井基次郎の「闇の絵巻」の泥棒の男が闇のなかを疾走する際、胸に突き立てる三尺ほどの木の棒のようなものだ。この文章は好例とはいえないが、ヴィジュアル系を扱った論考を集めたこの本は、文芸評論家の加藤の思考の地肌を眺めるには都合のいい側面をみせているのである。
 ついでにこの本から、画家「バルチュス」が好きだという加藤の論考をみてみたい。実をいえば私自身が一時、東京駅のステーションギャラリーで開催された「バルチュス」展以来、この画家に魅せられた経験があった。それは大きな風景画で私を圧倒した。だがいまはその体験は措いておこう。ただ加藤がこの画家をまえにいかなる反応をみせるかに注目してみることにしよう。
 加藤は「窓辺に寄る少女」(1955年)が好きだと告白している。普通の美術評論家はこういうことばを発しないものだが、この点加藤の美術論の語り口は正直でユニークなものとなっている。
「ずいぶんと長い間、わたしはバルテュスがセザンヌと似ているという感想をもってきた。セザンヌはわたしのとても好きな画家だから、そのせいもあるのかも知れないが、最近この文章を書くため、世のバルテュス好きの書いた一冊のバルテュス本を読んで、このわたしの受けとり方が全くの少数派に属することを知り、不思議な気がした。(中略)バルチュスの絵が、わたしに喚起する一種独特な感情、それを「窃視」の感情、そう呼ぶことができるように思う」
(いつだったか、「ブリジストン美術館」で某音楽評論家からセザンヌの若い時代に描いたエロチックな絵画数点を見せられたことを私は思いだし、ヴァルテュスとセザンヌのエロスにおける親近性を考えざる得なかった)
 ここまでならば、特別に不思議なことはなにもない。窃視の感情は誰もがヴァルテュスの絵画から懐く印象なのだからだ。だが加藤の思考(=嗜好)が前述した特異のスタイルをみせるのはこの先からなのである。それは加藤がつぎのように述べるところからはじまる。
「先の絵のうち、少女のわざとらしさの部分、少女と椅子の部分をためしに手で隠してみる。するとその室内の色調を含め、筆致がセザンヌのある種の絵に似ていることがわかる。また長方形、この絵の形とほぼ相似形に切りとられた庭の景色は、室内以上にセザンヌの別種の風景画に似ているとわかる。このことは、このバルテュスの絵にしばしば現われる人物の不自然さ、わざとらしさが要素として、絵の中で孤立している、ということを示している。」
 この「孤立」はどこから加藤にやってくるのであろうか。「窃視」という言葉に加藤が独特な意味をつけようとするからである。
「『窃視』、覗き見るという時、わたし達は、わたし達でない何かをかきわけ、そのすきま、物陰からの別の何かを見る。逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。その一方のわたしが、前方のわたしをかきわけ、何かを覗く。いわばわたしの欲望(これをエロスと呼ぶ)がわたしの感情の『格子』を透かしてあの絵の中の孤立した要素を見る時、わたしは、わたしの中に『窃視』の感情が生じているのを感じるのである。
 バルテュスの絵の秘密は、このように見るわたし達を、二つに分けるところにあるのだとわたしは思う。」
 理解するのに困難と思われる文言は、まずつぎのことであるだろう。
「逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。」という一文だ。だが「窃視」という行為を一般的に考えるなら、この心理的現象はおかしくはない。だが加藤の思考の特異なのは、こういう考えを逆に否定しているところにこそある。
「ところでわたしは、なぜその絵からやってくるものを『窃視』というように感じるのだろう。たとえば、『窃視』ということでは現代の若い画家にエリック・フィシュルがいるが、彼は二人の裸の女性が部屋にいる自作に触れ、こういっている。ここでも、『肝心なのは絵の鑑賞者がこの二人にどのように見られるかという点にある。そんなところに居てはいけないことになっているのだ』
 フィシュルの絵についても、わたし達はしばしば「窃視」という言葉を使う。しかしその意味が違っている。正確には、フィシュルの絵の前で感じる不安、落ちつかなさは「窃視」の感情ではない。というのも、誰が、どこから「覗いて」いるのか。窃視は物陰、遮蔽物を要する。「窃視」、覗き見るという時、わたし達は、わたし達でない何かをかきわけ、そのすきま、物陰から別の何かを見る。逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。その一方のわたしが、前方のわたしをかきわけ、何かを覗く。いわばわたしの欲望(これをエロスと呼ぶ)がわたしの感情の『格子』を透かしてあの絵の中の孤立した要素を見る時、わたしは、わたしの中に『窃視』の感情が生じているのを感じるのである。」
 私は2回も同じことばを引用する羽目になったが、こうさせるのは加藤の思考がそれを強いるからだといえよう。
 つぎの文章は加藤が自身の謎解きを自分でしている文章なのですこし厄介なところだ。
「その絵は、少なくとも1950年代あたりのものまで、いわばタブローの地(グラウンド)の上に、孤立した要素としての図(フィギュア)を置く形になっている。絵にあの“セザンヌ”を見るわたしの背後から、わたしを『かきわける』ようにして、もう一人のわたしが“ヴァルテュス”を見るのがわかる。自分が、そのように、少女を見ているのがわかる時、たぶんわたしは、あの不思議な『窃視』の感情、自分が誰かに『みていることを知られている』という奥深い感情を、おぼえているのである。」
 だがこの美術評論の最後の文章はそうではない。加藤が加藤自身へ向き合って書いている趣きが強いからだ。
「あの、『五分後の一秒間』(A・カミユ)化石したさまをとらえられたバルテュスの少女達、彼女らは『みられていることを知っている』。そのぎこちなさ、わざとらしさはそこからくる。しかし、誰が彼女らをわたしが見るに先立って『見ている』のか。たぶん、あのわたしの中にもう一人のわたしが、わたしのすきまから、わたしより『五分の一秒間』早く、彼女らを見ているのである。」
 ここに、1948年の戦後に生をうけた加藤典洋という先鋭的な文芸評論家の思考のスタイルが顔をだしている。
「しかし、誰が彼女らをわたしが見るに先立って『見ている』のか。たぶん、あのわたしの中にもう一人のわたしが、わたしのすきまから、わたしより『五分の一秒間』早く、彼女らを見ているのである。」
 この「窃視」のまなざしが、加藤自身を含めた「戦後」を長いスパンで透視する歴史の眼と無縁でないことに注意しておきたい。
そして、これこそが「孤立した要素」としか名指しえないものだ。「私が二人となる」のはそのためなのである。この不透明に孤立したものは、加藤が1970年の一年は中原中也ばかりの読んでいたと「自注年譜」に記した中原中也の詩のなかにある「不思議な『窃視』の奥深い感情」に通じるものなのである。
 「私が二人となる」のはこの「孤立の感覚」においてなのである。その「もう一人」はわたしより『五分の一秒間』早く存在しなければならないという、この微妙な時差に加藤の重心がかけられている。「不思議な『窃視』の奥深い感情」という加藤が強調する観点こそが、ヴァルテュスの絵に「孤立した要素」を見させている当のものなのである。彼岸から此岸をのぞくようなこの視線は、加藤が1970年という一年の間は、中原中也ばかりの読んでいたと「自注年譜」に記した詩人の詩のなかにあるものを呼び覚まさないではおかない。たとえば詩集「在りし日の歌」の詩「骨」の中にそれはある。
  ホラホラ、これが僕の骨―
  見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
  霊魂はあとに残って、
  また骨の處にやって来て、
  見てゐるのかしら?
 中原中也と交友した小説家の大岡昇平は、中原についての強烈な印象をこんなふに記している。直に中也を知った大岡でなければ吐けない科白であろう。
「中原の不幸は果たして人間という存在の根本条件に根拠を持っているのか。いい替えれば、人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか」
 この大岡の問いは、この詩人の本質を穿つ深くておもいことばである。文藝批評家にかろうじて脱皮を遂げたともいえる加藤典洋の中に、青年(幼虫)時代の中也と同型の詩人がいたとしてもおかしくはない。詩「一つのメルヘン」の中にもそれはある。「孤立の感覚」は他界からのまなざしからやって来るものといっていいのである。
 ここまで来て、ようやくのことに、加藤の思考が画家バルテュスの絵画に特異の洞察をくわえ、新しい視界を切り拓いていることを知らされるのだ。そして、この「孤立の感覚」が加藤典洋という批評家の背後に「一人二役」として、もう一人の詩人を存在させずには済まないことを理解させることになる。ここで、加藤が「日本風景論」の最後に記した「年譜」から、1977年(昭和52)29歳のエピソードを挿入しておいても唐突とはいわれないだろう。
 10月、長男良誕生。中原中也について書き続けている間生れた子どもの誕生日がそれぞれ中也の亡児文也の死亡の日と重ったことに因縁を感じる。
 加藤の「孤立の感覚」は不思議な因縁として、ここに「他者」を随伴させなければこの「孤立」は十全なものとならないのである。そして、この「他者」は「死者」と重なるのである。それは、現実には不慮の事故で35歳で亡くした長男の良であり、「敗戦後論」という想像の世界においては、日本国がその追悼を必要とした、数千万人に及ぶ内外の死者たちとなるのである。
 リアルポリティクスの立場からみれば、絵空事と揶揄されるかも知れない。しかし、加藤が「敗戦後論」のエピグラムに「きみは悪から善をつくるべきだ それ以外に方法がないのだから」という映画「ストーカー」からの題辞を記したことから、戦後のスタート地点に加藤は思想の拠点を立てたことを、軽くみるべきではないだろう。大袈裟かもしれないが、加藤が批評の代償に払ったものはかれ自身の短命に終わった人生そのものだったかもしれないではないか。
 生者と死者との一人二役のまなざしの交錯する場所でこそ、加藤典洋氏の特異の思考は発動する。この思考が「世界の限界」をまえに未来を見据えさせ、この日本の「戦後」にある「ねじれ」を洞察させ、その欺罔からの脱却を説かせるのである。そして、幕末の開国以前から連なる新たな歴史の地平に、日本の「再生」を構想するのは、詩人と文芸評論家という二重の人格者の使命だったと言ってもいいのではないか。どうにもそんなふうに思われてならないのだ。





「敗戦後論」と加藤典洋の死

 3月11日夜、横断歩道を自転車で渡っていた私は、88歳のタクシードライバーに右横から激突された。倒れた私は奇跡的に右手の骨折のみの負傷であったのが不思議でならない。左横にそのまま倒れていたら、頸椎か悩をやられたにちがいなかった。パリの路上でもそうだったが運転手が来るまえに私は達磨のように起き上がる糞意地があるのだ。まだ右手でお箸が持てず、3ヶ月をすぎたいまも五本の指に痛いような痺れがありキーボード操作がうまくいかない。私の視界にそのまま突き進んで来る車体を見たそのとき死を意識したが、どうした加減か右手のみで自転車ごと倒れる自分を支えたのだ。ドライバーは私が自転車の下から数人の手助けで起き上がらせられて歩道に避難し、救助をされるまで私の前に現れることはなかった。老体を動かすのにそれほどの時間を要したのであろうと思われる。横断歩道の自転車専用レーンはいちばん右側にある。私が自転車ごと車の前進をブロックしてなければ、歩行者の幾人かが車に巻き込まれていたに違いない。周りの歩行者の悲鳴が聞こえた。いまでも横断歩道で車を私は正視することができない。たしかにPTSDは時を経てやってくる。
 さて、加藤典洋という文芸評論家が先月亡くなった。彼は日本の敗戦という大事を、50年の年月を経た1995年に、「敗戦後論」として現わした。一国の戦争による敗戦の体験を正面から受け止めるには、それほどの時間を要するのだ。アメリカを中心にした連合国によるいわゆる「東京裁判」を経てA級戦犯として7人が処刑され、戦後憲法が発布され、わが国の在り方は根本的に変革された。この一線を境に、この国はどのように変り、変らされたのか。それを加藤は戦前と戦後の知識人の動向に焦点をあてることにより、あるネジレが生れ、それが現在も続いていることを説こうとしたのである。加藤は文芸評論家である。加藤以前にも1945年の戦争体験を歴史的にあるいわ政治的に問題にした作家や学者は多くいる。だが加藤典洋ほどにそれを戦後の思想や文学の深部に水鉛を下ろして、そのネジレが日本という国の身体と精神をいかに歪曲してきたかを証明しようとした人間はいないのではないか。昭和40年代から東南アジアの海へ潜ってきた私は海の中に、日本人の死者の不気味な声と霊力に引き摺られる体験が加藤の論説を直感的に身体で感受する用意が整えられていたのだろうか。でなければ雑誌の「敗戦後論」が私に与えた衝撃の深度を測り知ることはできないのである。
 「敗戦後論」の冒頭は小学校時代の子供たちの相撲大会の話しからはじめられている。それをここに引用しておきたい。
「わたし達の学校代表が土俵際につめられ、踏ん張り、こらえきれずに腰を落とした、と、うまい具合に足が相手の腹にかかり、それが巴投げになった。そのとたんに、何が起こったか。わたし達の学校の生徒が一斉に拍手してはやし立てた。一瞬のできごとだった。相撲は柔道に代わったのである。
 その勝負がどういうものだったかも、わたしは忘れている。何にしろ、小学校を5階変っている。記憶がはっきりしないのだ。でも、一瞬、あっと思い、次の瞬間他の生徒と一緒に拍手した。その時の後めたさを忘れられない。その後、しばしばわたしはこの場面のことを思い出すことになった。「あれだ」、と。
 一九四五年八月十五日。わたしはその時生れていないが、後で、勉強してやはり思った、「あれだ」、と。
 そういうことがよくある。最近そういうことがなくなった、ということでもない。以下を記すに先立ち、この戦後の思い出を、何かの心覚えに書きつけておく。」
 下線の一文は今回私がつけたものである。依然としてこうした光景がこの日本では日常的に見られると思うからである。私は一方的に受け身だけでいられない依怙地な精神の持ち主のため、一時加藤の論に反駁する「戦後私論」を書こうとしたことがあった。それは先の戦争体験にもかかわらず、戦前も戦後も一貫して不動の姿勢で文学活動をした谷崎潤一郎を論じようとしたのであった。それは「アウトサイダー」で一躍世界に躍り出たコリン・ウイルソンが「敗北の時代」により「現代文明の病根をついた」(丸谷才一)ように、世界の負の精神的潮流に逆らい生の肯定を意図したものであった。加藤とて自虐的に敗者の意識に執着したわけでは勿論ないことは、「敗戦後論」の冒頭のエピグラフに「きみは悪から善をつくるべきだ。それ以外に方法はないのだからね」という正への志向を掲げていることからも了解できることだ。だが日本の戦後の思想的潮流は、その負性をゼロの地点へ戻すには並大抵な知的努力では済まなかったのである。ここに、加藤典洋というユニークな文芸評論家が活動しなければならなかった時代性がある。その活動の領野が余人の想像を超える多様性にあることは驚くべきものがあることは言を俟たない。例えば、「耳をふさいで、歌を聴く」(2011年)の音楽への傾倒に目を通してみれば如実にそれは見て取れることだ。あるいは仏語の翻訳小説「モネイズマネー」に、村上春樹の文学へのアプローチに、アニメーション映画に、小林秀雄、吉本隆明、鶴見俊介、江藤淳への傾倒摂取の高度と深度に、加藤の広大な感興の驚嘆すべき領域を眺められるだろう。あと十年も生きることができれば、一身にして三世を経たとも称すべき偉業の達成もあり得たことを想うと、加藤典洋氏の逝去は余りに早すぎるものであった。邁進努力の熱情がいかに凄まじいものであったか、思いもはんばに過ぎて、私の魂を痺れさせて止まないのである。




江藤淳「最後の批評」

 吉本隆明の死去に伴い思いだす人物は、一九九九年の七月に六十六歳で自らの命を絶った江藤淳という文学批評家のことである。
 学生のころに、図書館で「小林秀雄」を読んでいて、胸を熱くした覚えがあった。この人における喪失感というものが余程に深いことは、社会学者の上野千鶴子氏が「成熟と喪失」は涙なくしては読めないとの感想を書いていたのを読みさもありなんと納得したものだ。
 吉本の所で記したことだが、二人の対談で印象的だったのは、吉本が現実の政治に傾倒している江藤を前にして、あなたほどの人がああした世界へ肩入れしていることは、もったいないのではないかとの趣旨の発言に、江藤が色の為す態で次のような反論をしたことがあった。
「私はあれを文学だと思うからやっているのです」
 吉本が江藤淳の「作家は行動す」や「表現としての政治」等を読んでいないはずはなかったのに、ふとしたはずみに口をついて出てしまったのは軽率だったからでは勿論ない。思想家の吉本からみれば、現実の政治などは文藝批評の対象に値しないとの考えがあったからのことだったのであろう。
 ときおり江藤淳がみせる激情はさすが、三島の自決について小林秀雄との対談中、あれは一種の病気だとしか思えないとの江藤に対し、小林がそんなことを言ったら、ああいうことは日本には幾らでもあった。大塩平八朗の乱はそうしたものだろう。あなたは日本の歴史を病気だというのかと、一喝された江藤は、一瞬、ことばを失う様相をみせた場面があったことが思い出される。
 江藤淳の明敏にして情熱を湛えた文体には、深い喪失感と同時に強い抑圧の感情がその心底にあり、それこそ、「アメリカと私」から連綿とつづく、アメリカの占領政策の内実に迫る「一九四六年憲法ーその拘束」等の論考になったものと思われる。それにしても、「自由と禁忌」における丸谷才一や吉行淳之介への筆誅ともいえる批評文は、凄まじいものであった。なにもここまで言うことはないのではないかと思ったほどだ。これに較べれば柄谷行人の座談会での「馬鹿野郎!」発言などは幼稚なものだ。江藤氏はよほどに堪忍袋の緒が斬れたのにちがいない。それは文学だけではなく、現状の政治への絶望にちかい不満からも来ていることは明白であった。「大空白の時代」「それでも小沢君を支持する」等の文章に、そうした危機感の顕れをみることができる。
  江藤氏が自裁した七月二十一日の夕刻、私は大久保百人町の方角を見下ろす職安通り沿いのビルの六階にいた。その大久保百人町こそ江藤が生まれ育った所であった。天気が急を告げるかのように、荒れて風雨が激しくなった。辺りに闇がしのびより暗雲がたれこめる天候の異変に愕き、私は大久保百人町の辺りを凝視していたのは偶然といえばあまりの偶然であった。江藤淳はちょうどその時刻に自らを処決したのであったらしい。氏が自分の出生の地である場所が、淫猥なホテル街へ変貌していく様に、深く傷つきその憤りも露わにして書き記した「戦後と私」から、その一文を引いておきたい。
「私はある残酷な昂奮を感じた。やはり私に戻るべき『故郷』などはなかった。しいて求めるとすれば、それはもう祖父母と母が埋められている青山墓地の墓所以外にない。生者の世界が切断されても死者の世界はつながっている。それが『歴史』かも知れない、と私は思った」
 この文章のあと、「戦後は喪失の時代としか思われなかった」と江藤氏は、はっきりと述べている。
  ところで、私は「江藤さんの決断」についての朝日新聞の呼びかけに、めずらしくも投稿したのだが、それがその年の十二月に本となって送られてきた。私が書いた文章の題名は「最後の批評」であったが、朝日新聞社はそのしたに、「ではなかったか」との留保の文言を加えていたのにはあっけにとられた。いかにも新聞社がやりそうなことであった。
 江藤氏は自決に際し、次のような文章を認めている。
「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。
 平成十一年七月二十一日  江藤 淳 」
 私は江藤の自決に三島の自決を投影させたかったのかも知れない。自死はそのまま批評家の「行動」として受けとめようとしたのだ。だが吉本氏の「追悼私記」は江藤の自死に、森鴎外の岩見の人、森林太郎として死にたいという願望と同質なものを見ようとしている。私は投稿でつぎのようなことを書いていた。

「若い時代に大学の図書館で『小林秀雄』に熱い感動を覚えて以来、江藤淳氏の書くものはほとんど読んできた者です。
 『妻と私』読後の、なにかのっぴきのならない悲哀と痛苦は、しばし私の胸にわだかまりました。顧みれば昭和四十一年、『戦後と私』の中で『この世の中に私情以上に強烈な感情があるか』と揚言し、『文学とは私情を率直に語ることではないか』と述べた批評家、最後まで『戦後』との妥協を排した者の、孤独で甘美さえ漂う『妻と私』はいまからすれは氏の『白鳥の歌』っだったのでしょうか。
 三島由紀夫、そして川端康成の自殺に冷淡とも思える批評を放った氏が、同じ道を選ばれたことに一度は当惑を覚え、たとえ荷風散人のようであれ一単独者として生き続けて欲しいと思いましたが、『私情』に殉じることさえはばからぬ江藤淳氏の生き方と死に方は、ほんとうの『私』も、また、ほんとうの『公』も見失った戦後に対する身を挺しての『最後の批評』ではなかったでしょうか。
 晩年は漱石論を書きつぐ傍ら、ますます衰亡を深めていく日本への警鐘を鳴らし、戦後文学が占領政策の検閲によっていかに抑圧されたかという実証研究等へも捧げられました。
 一友人は手紙で、『思想よりもなによりもその人生を感じさせる』との感想を書いてきましたが、氏ほど人生と相渉った思想を感じさせる、熱き硬骨漢として生きた人間もまた、今の世には珍しいのではありますまいか。」

 ここには、江藤淳の批評への私の批評が入り込んでいることは言うまでもない。「荷風散人のようであれ一単独者として生き続けて欲しい」というところに、「荷風散策ー紅茶のあとさき」(平成十一年刊)の一文に、私が感じた違和があったからである。それは「偏奇館炎上」の最後の文章であった。江藤氏は荷風を売文の徒ではなく、自分を売文に四十年間暮らしてきた者として、荷風の境地を仰ぎみようとしている。私はここに江藤氏の謙虚な姿勢を取り損ねた次第であった。
 読者は自分の作った像で、一作家を判断しようとする。今から冷静に眺めれば、吉本氏の判断の方が正鵠を穿っているのかも知れない。

(注)2012.3のブログから再掲したことをお断りする。



   江藤淳


文芸批評家の想像力(加藤典洋の場合)

  以前に小説家の想像力について述べてことがあります。今回は、この小説家とその作品を主に論じる文芸批評家という人達へ焦点を当てることにします。彼等も作家と異なる方法から想像力により文章を書いているのでしょう。では彼等は一体どういう存在なのでありましょうか。江藤淳という批評家は「小林秀雄」を論じた批評文の冒頭で自分へこうした疑問を放っています。江藤淳は小林氏が「自覚的な」批評家であると指摘します。自覚的とは自分の仕事を「自身の存在の問題として意識している」ということだそうです。江藤氏が批評家を論じるにはまずこの了解の一歩が必用だった。一般的に批評家の想像力はここを起点に始まるのですが、特に小林氏を論ずる場合は、ここに焦点をあてる必用を感じたのでしょう。
 詩人も作家も画家も、それなりにすぐれた仕事をする人には、その人の側には必ず影のごとく立っているのがこの「自覚的」という意識であります。なぜなら、創造的な仕事というものは、この影との内的な対話を通じて現れるからです。文芸批評家が働かす想像力は、作家や作品だけではないのですが、作家を論じる場合には作家自身の内的な対話から、あたかも医者が手術に際して患者の身体にメスを入れるように、その作品なり作家の内部にわけいることから、彼と作品を見ます。場合によっては麻酔薬を注射して作品を仮死体にして、そのからだを解剖することで、作品を内側から照射して新たによみがえらせることさえ行います。江藤淳の「成熟と喪失」は60年代の一連の作家の作品にそうした方法で、鮮やかな光りをあてたと言えるでしょう。
 或いはまた、こうした方法を拒否して作品というテクストを作者から切り離して、「エクリチュール」(ロラン・バルト)という独特な言葉を使い、「テクスト」に基づいて想像力を行使することでの批評を展開した例もありました。バルトは日本に来て「表徴の帝国」という日本論も書いて、華麗な批評活動を展開したのです。
 日本の加藤典洋という批評家は、「敗戦後論」で日本の戦後を論じました。敗戦の前後に日本の根幹に関わる問題をみたからです。こうした一連の日本の戦後論を、「戦後入門」としてまとめた一書を最近に刊行しています。また「村上春樹は難しい」という新書を出しています。この批評家が村上春樹に注目したのは、戦後間近に中村光夫が「占領下の文学」で当時の文学を論じたように、「高度経済成長下の文学」として村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」の新しさを評価したからです。気分がよくてどこが悪いというメッセージをこの小説に看取したからだと加藤自身が述べています。この批評家の想像力は右を見るときに、左も同時見る複眼性とこれらを反転させる手法に特色があります。加藤氏はカフカの「世界と私との戦いでは世界を支援せよ」というフレーズに惹かれているのですが、このカフカ独特の二重性とその逆転は、そのまま加藤の「敗戦後論」の批評の想像力に援用されています。氏はあるところでエドガワ・ア・ランポーの短編「ヴァルドマアル氏の病歴の真相」の異常な結末に快感を覚えたことを告白しています。このポーの短編は死の瞬間に催眠術をかけられ、そのまま生と死とあいだに宙づりになっていた仮死体が催眠術を解かれた瞬間に、みるみると異臭を放って腐敗していくのですが、このところにえもいわれぬ快感を覚えたと述べています。長い詩なので引用はできませんが、金子光晴の詩に「大腐乱頌」という作品があります。あの詩も加藤と同じ快感を詠ったものかも知れません。腐敗は特段に負のイメージだけではない。腐敗することにより物質はその隠れた味覚を引き出されるプラスの面もあるのです。人間は歳を重ねて成長していきますが、ある時点から老化に向かいます。現在、日本人の大多数の高齢者はそうした経験をしています。そのことを自覚的に書いた最初の小説は谷崎の「鍵」や「瘋癲老人日記」でしょうか。加藤典洋という批評家の想像力はポーの短編やカフカのフレーズに牽引されています。それと同質の想像力から、日本の敗戦とその後の成長という歴史的経験を探ろうとしました。1995年の「敗戦後論」は(それ以前の著書「アメリカの影」もそうです)、明治維新から120年を経た日本の近代が敗戦により一旦死んだ状態から戦後が始まったのですが、日本人がその戦争における内外の死者を正式に弔うこともできないままに戦後50年を生きてしまった。特に、戦勝国のアメリカとの関係にいろいろな問題を指摘しています。
 ここですこし横道にそれますが、あのカフカの「変身」は日常の中の異常と同次元での異常の中の日常を書いています。セールスマンをしていた家族の一員が、ある朝気懸かりな夢から起きてみると、自分が巨大な毒虫に「変わり身」(多和田葉子の翻訳はカフカの作品理解に寄与してくれます)をしていることを発見する。しかしこの男はその朝も会社へ出かけようとするのだが巨大な虫になってしまった身体は以前のように自由に動いてくれず、自分の部屋から出ることもできません。このグロテスクな光景を家族がそして会社の上司も知ってしまい、一騒ぎになるといういわゆる変身譚の小説です。ただカフカのこの小説は単に読者の意表をついただけなら、この小説が同時代に異彩を放つことはなかったのです。そのような物語はたくさんにあったのですから。カフカの文学の独自性は、それが日常の時間性を特別に変化させることもなく進行するところにあるのです。これはフッサールという哲学者が現象学で行ったことに対応するでしょう。カフカは自分が書いたこの小説を妹たちに朗読したところ、妹たちは大層笑ったそうであります。
 加藤氏に話しを戻せば、死んだはずの日本が、ポーの短編のように催眠術にかけられ仮死体となり、氏はその腐臭を、神戸淡路大地震と地下鉄サリン事件が起こる以前から嗅いでいたことを、あの評論は表現していたかのようです。そしてそこから、カフカの「変身」の主人公グレゴリー・ザムザが自身の身体のねじれに抵抗するように、日本というねじれた身体へ投影し、このままでは腐臭を発しつづける仮死体の日本の異常性を、新たな場所から出発させることはできないと考えます。そして憲法9条を改正する提言を行っています。なかなか大胆な意見だと思いますが、もちろん異論がないわけではありません。それは国連中心的な政治姿勢にあるでしょう。現在の国連が多くの国民国家の混乱に対処できずに機能不全に陥っていることは明白です。
 「敗戦後論」以降、氏の想像力はその後に起きた人災(東日本沿岸部の「原発事故」)。そして自然災害(「東北大地震)を飲み込んで拡大・深化いたしました。多数の著作が書かれています。それらに一々応接するゆとりはありませんが、二0一六年の夏から秋にかけて出された三冊の本「言葉の降る日」「世界をわからないものに育てること」「日の沈む国から」の三冊の、その最後の本から、「『戦後』の終わり」と「『災後』のはじまり」へ加藤が複眼的な想像力をはたらかせている。特に、映画(「ゴジラ」や漫画(「鉄腕アトム」等)のビジュアル系から読者へ働きかけることで批評の視界を広げ、このふたつの文化アイコンの一対を聖書のヨナに仮託して未来へ結びつけようとの努力は示唆に富むものと思われた。一九七十年代に、パラオやペリリュー島など、東南アジアの島々でダイビングをしていた経験から、実体験的に共感できる部分があったことを、激戦地の草地にうずくまった赤さびた戦車の残骸や不気味に静まり返る洞窟を覗いた記憶と共にここに書きつけておきたい。

(注)2017.8のブログを整理して再掲したことをお断りしておきます。



プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード