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加藤典洋 19  ―小さな天体―

 名辞以前という言葉が中原中也の試論にあります。この詩人によると、「手」という言葉が喚起される以前に、「それと感じられる」世界のことなのですが、それはことばにはできない。だが「詩」はそれをことばにしなければならないのです。加藤という批評家へのアプローチでは、この名辞以前という中也の詩作の方法に拠り所をもとめることが、一番適切ではないのでしょうか。1995年の「敗戦後論」でもなく、この本が招いた誤解を解くべく、パリで思索した浩瀚な「戦後的思想」でもない。日本人にこだわった「日本という身体」そして、小林秀雄に代表される「近代」に抵抗した「日本人の自画像」でもない。加藤の肖像を描くには、この名辞以前のことばにならない、いまだ想像の眩暈、おぼろな妄想に浮遊するものを手がかりに、試行するのが最もいい方法ではないでしょうか。
 たとえば、加藤が一年ほどの休暇を大学からもらってデンマークとアメリかのサンタバーバラで過した一年の日々を綴った紀行日誌「小さな天体」には、加藤典洋の生き生きとした日常とそこに点綴する断片的な思考の煌めきをみることができます。学生時代の十年を中原中也に入れ込んでいた加藤という批評家の底板に描かれたものこそ、加藤という人間の核心的な淵源となっているのではないでしょうか。初期の「批評へ」に収められている数多くの文章には、加藤が「思想」へと離脱する以前の、中原中也から手にした思考の豊な萌芽がみられます。彼の本質は半分以上のものではありません。それ故に彼はいつも一人二役をこなしていなければなりませんでした。これが彼が産みだした戦後の新しい「批評」なのでした。たしかに「日本人の自画像」は力作です。しかし、「小さな天体」に表現された日常には、それと比較できない豊穣な喜びがあります。加藤の冒険的な思想のダイナミズムにある種の「天才」を認めないというのではありません。「戦後」をめぐる著作活動が加藤典洋という文芸批評家の驚嘆すべき表現であることはたしかでありましょう。そこに彼の人生の大半が割かれていることは事実でありますが、加藤自身の表現をかりれば、それはむしろ二階屋であり加藤が住むのは、その家の一階のほうにあるのです。彼の特質は二層性にあり、二重性にあります。なんなら多様性といってもいいかも知れません。小説をやめた批評家、詩を書かない批評家。詩をも小説をも通過して、彼は批評文を書き続けましたが、それは中原中也と腐れ縁でむすばれた小林秀雄に近似した姿をしています。Jポップの音楽まで手を広げて、彼は現代批評の領野をひろげようとしました。こうした努力があまり評価されないうちに彼はあの世へ旅立ってしまった。鋭敏で先端的かつ広闊な彼の感覚は、「戦後」なる思想の看板にあまりに先導されてしまったきらいがあるようです。そこに彼の時代性があったことは否めないにしろ、彼の多岐にわたる好奇心が「戦後」という閉域に限定されてはなりません。さらに広闊な風景、彼の「武蔵野」のどこにでもある風景の中に解放される必要があるのです。
 彼はなにより「文学」の徒であり、大学教師でさえありました。山形県の元警察官であった父は95歳になってテレビを見ずに塩野七生の「ローマ人の物語」を読む書斎派ですが、早熟な彼はその父に反抗しながら成長して東京へ出てきています。1960年代のたぶんに政治的な季節を通過しながら、中原中也に長きに亘って雌伏してきたことは看過できない、彼の「語りの背景」にならないはずはないでしょう。彼が中原中也の感化を受けたことがその後の彼の基底になっていることには見えづらいものがありますが、彼の感性の形成はその「名辞以前」の思想の萌芽期にあることは注目すべきことなのです。死者への視線、江藤淳や小林秀雄からの摂取と批判、吉本隆明からの思想的な感化においてさえ、中也の影をみることができるのです。死期も間近に「太宰と井伏」その再説から、太宰の実存的な存在の底板に、初代なる女性を浮上させる根拠となる彼の内的な想像の発露は、まさしく「名辞以前」からやってきているものでありましょう。その「名辞以前」を彼が小林を批判した口調でいえば、「思想」に繰り込むことができなかったようです。そこに彼の一見難しそうな文章がでてきますが、そこには産みのくるしみが窺えます。「文章表現法講義」を読めば、彼が日本語による表現にいかに創意工夫を重ねたかが得心されることでしょう。加藤はその初期に中原中也の核心を衝く論考を著わしています。中原は小林秀雄の知性とは対照的な詩人であり、三島由紀夫は加藤に「戦後」の普遍性を啓示した者ですが、小林的な知性の戦後版として、中原の対極にありました。加藤はこの三島といわば背中会わせに遭遇したのです。加藤の三島への共感と反感は運命的なものでしたが、どこかに不透明なもがあるのは残念なことでした。「日本人の自画像」とは別に三島を論じることができていたなら、彼の「尊皇攘夷」はさらにインパクトのある射程をもつこともあり得たかも知れません。
 ともあれ、加藤典洋という一人の文芸批評家にとって、「小さな天体」という一冊の日誌が、50年にちかい「戦いの記録」(カフカ)の中で、素適な魅力を放っていることは、たしかなように思われます。そして、この国が100年の間、毀損し続けていた事柄を口ごもりながら夢想してきたものが、この「小さな天体」であったといってもいいのかも知れません。



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加藤典洋 18 -日本人の自画像-

 10月7日は飼い猫「クラ」の3歳の誕生日であった。いつも金網ごしに戸外を眺めているので、「まあ、可愛い」と通りすがりのお婆さんやら、主人を引っ張って小犬までが金網越しに挨拶をしにくる。「クラ」は照れ屋なのか一旦は部屋に引っ込むけれど、呼ばれるとすぐにまた玄関に出て行く。嬉しいにはちがいないのである。近所のマンションにいる兄と妹に好かれて「クラちゃん!」と呼ばれ、この子供等から誕生日のプレゼントが贈られた。遊び道具とお菓子のような食べものであった。どうやら猫は近眼らしく、あまり近くのものは見えない。鼻が効くので見る必要がないらしく、鼻で臭いで舌で舐めにかかり、三つほどのお菓子入りのチューブはあっというまになくなった。三歳となると、もうときに手のつけられない悪戯者で高い欄間も爪で破いてしまうが、人の気持のそんたくは恐ろしいほできるのだ。ただ人間のことばが話せないというだけのようにみえる。人それぞれの性格とか人柄はちゃんと心得て、その上、その場の空気も読む力もあるようである。いまでは老夫婦のあいだの架橋となっている。

10月○日 足立区綾瀬の東京武道館が開催する月例稽古は生憎の雨模様。コロナ禍で半年以上途切れていた武道館での居合稽古は審査前のせいか、厳しいものであった。交通事故による右手骨折、股間節炎症、右眼眼疾などで約1年ほど稽古から遠ざかっていたうえに、加齢も加わり鈍った身体はどうにもお粗末な結果となった。審査には一ヶ月も間がないのだ。真剣を使い仮想の敵を斬る居合いについて、既に本にも書いたことだが、こうした武道を戦後にまで継続しようとする日本人とは、そもそもいかなる存在なのであろう。現代では剣は無用の長物にみえる。居合の審査も将来はAIのテクノロジーが行っても不思議でない時代がきている。個々の技前、身体の運用、気剣体の一致を量子電子計算機に習得させれば通用するだろう。これは今のところ仮想の話しではあるのだが。

 翌日、身体じゅうの痛苦から午前中は寝床にしばし臥していた。暫くして起き上がり一昨年に物故した一文芸批評家の著書を読むために机に向かった。だが本を開いても活字は白いヴェールが懸り、大きな拡大鏡を二つ重ねて漸く数頁を読むことができた。加藤典洋のこの本の読書は二度目。さほど時を経ず、同じ本を二回も読むなどということはざらにあることではない。だが本がそれを要求するのだから仕方がない。万葉記紀の古代の地図にみえる日本、それから中世を経て、近世の荻生徂徠や本居宣長にいたるまでの「日本人」という概念が生まれる歴史を探索し、尊皇攘夷から開国と前近代から明治維新の近代にいたり、小林秀雄や吉本隆明、丸山真男や柳田国男等が、先の戦争を挟みつつ、展開した思想の歩みを辿りながら、「日本人」という自画像制作から世界認識までの200年を、独自の論理と情熱をもって解明しようとした野心作を、素通りして済ますことはできかねたのである。

「はじめに」で著者は書いている。
「ある自画像をみて思わずそれに釘付けになる時、わたし達に感じられているのは、鏡に映る自分から自分に見えている自分を取りだそうという画家の抗い、画家自身に感じられている自分の、鏡に映る自分への、抵抗なのである。」

 「抵抗」と「二重性」はこの著者のキーワードであるが、「敗戦後論」から5年、2000年刊行の「あとがき」には、着想から15年、作者52歳の原論にして集大成とある。50年に及ぶ批評家として、約50冊ほどの著書があるが、71歳での突然の死はまこと惜しまれるものであった。戦争直後に生まれた同世代の著者の、まさに「画家自身の抵抗」の手触り、その実質について、どこまでその生きている肉体のうちに触知しえるであろうか。もし一匹の猫が自分の飼い主を知るように、この著者が創造しようとした自画像としての「日本人」に、どのように正対し得るであろうか。一人の「他者」にちがいないこの著者の「抵抗」がみせた成果物には近代の難問(アポリア)もまた詰まっていることだろう。紛れもない「死者」となった著者の「顔」がいまこそ明瞭にみえるときなのだ。




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加藤典洋 17 ―日本風景論(2)―

 国木田 独歩は「武蔵野」以後の一連の短篇小説から自然主義文学の先駆とされている。独歩の「武蔵野」を虚心に読めば、日本語としての自在さと整然とした美しさに驚きを禁じえない。柄谷が「郊外」という作品まであるというので、武蔵野の郊外のことかと読んでみると、ガッカリとさせられるのは、「武蔵野」がエッセー風の散文で「郊外」が小説であるだけではないように思われる。夏目漱石は独歩の短篇「巡査」に低廻趣味をみてこれをこう評価した。「低徊趣味の小説には、筋、結構はない。あるひとりの所作行動を見ていればいいのである。『巡査』は、巡査の運命とかなんとかいうものを書いたのではない。あるひとりの巡査を捕えて、その巡査の動作行動を描き、巡査なる人はこういう人であったという、そこがおもしろい。すなわち、低徊趣味なる意味において、『巡査』をおもしろく読んだのである」。
 筆者は「漱石俳句集」を「武蔵野」と同時に読んだ。漱石には独歩の「武蔵野」における自然風景をみる透明なレンズの目より、人事に関心があつまる由縁が了解できる。少なくとも「武蔵野」には「詩趣」はあっても「俳味」はない。漱石の文学がこの「俳味」からはじめられたことは重要なことだ。復員兵として日本へ帰還して作家となった大岡昇平の「武蔵野夫人」は、漱石の低廻趣味の延長にある。また高橋源一郎は「日本文学盛衰史」で独歩の「武蔵野」から日本文学は「透明な散文」へと離陸したとしている。高橋の文学も漱石の低廻趣味の現代版であるのだろう。ただ、「死ぬことができない太宰治」(吉本隆明)という意味においてなので、それを作家自身がどれだけ意識しているかは知るよしもない。
 前置きが長くなったが、前回はこの独歩の「武蔵野」と「忘れ得ぬ人々」をめぐり、柄谷行人の論考「風景の発見」に対して、加藤典洋の「日本風景論」から「武蔵野の消滅」を取りだし、加藤の論考の眼目を紹介して「敗戦後論」へ至る道筋の一端を示してみた。だがこれだけでは当然に不十分であり、「風景とはなにか」を論じようとした「風景の影」までを対象としなければならないだろう。だがこの論考は加藤が死ぬほどに難渋したというように、現代文学の困難な問題に焦点を当てて論を展開している。困難な問題というのは、吉本隆明が「空虚としての主題」(1982年)で浮かび上がらせた「現在」の文学の課題そのものだからだ。

 今回は、柄谷と異なる加藤独自の「内在的な認識」について、その補足をしてみたい。なぜなら、この方法は加藤自身が自分の「原論」という「日本人の自画像」においても活用されている重要な認識であるからだ。前回では加藤はそれをこんなふうに述べていた。
「ぼく達は、ある景観、認識的な布置を前にしてこれを全面的に疑うことができる。その外側に“眼”の位置を据え、さらにその眼の周囲に自己を想定することもできる。その疑念には根拠がある。しかし、と同時に、自分の身体をこの景観の外側に持ちだすのではなく、その景観の前、その内側に置きつづければ、それは、そうした“外”の眼をもち“内”の身体をもった存在に、どのような『現れ』をもって見えてくるのか」
 筆者はそれを「内在的な思考」と呼称してみてこう言ったはずだ。
「加藤はこのあたりから彼独特の内在的な思考を進めようとする。柄谷からさらにその先へいくとは、そういう意味なのである。」
 そして、加藤が「その先」で掴んだものは、つぎのような表現となっているもののことである。

「『夢の島』に出てくる『二重人格の女』は、この小説の中での異物である。しかし、ここに『二重人格』として現われているものこそ、おそらく日野が探りあてた「忘れ得ぬ人」の感触なのだ。ここに国木田における『忘れてかなうまじき人』と『忘れ得ぬ人』の共存が八十五年をへて、どのような形でいま掴まれうるかの一つの回答がある」
 加藤がここでいう「一つの回答」という国木田における「忘れてかなうまじき人」と「忘れ得ぬ人」の共存という内容からは、より具体的なイメージとして掴みづらいもどかしさが残る。このもどかしさにこそ加藤が、登山家メスナーのように一人単独で登頂しようとした難関があるといっていいのだろう。筆者はこの論考にロードムビーの傑作映画「パリ・テキサス」(1984年)が顔をだしていることを興味をいだいた。あの映画のトラヴィスなる彷徨者がナターシャキンスキーが演ずる妻に再会し、ミラールームでの会話空間に、筆者が惹きつけられたある主題、即ち、見るものと見られるものとの一方通行路(ヴェンヤミン)を見出したが、これは加藤が「風景の影」で究明しようとしたことと深く関わってくるものだろう。
 さて、加藤のキーワードともいうべき「二重性」という語彙から、「風景の影」へアクセスを試みてみることにしたい。
 「おそらく、風景をめぐる論議にいつも伴う困難は、この『風景』の二重性ともいうべきものを解くことができないことによって、生じている」
 ここで加藤は風景についての核心となる重要な表明をしている。続きを引用してみよう。

「ある人は『風景』が人間の内面の影(反映=結果)だというし、またある人は、そうではなく、『内面』こそが風景発見の影(所産=結果)なのだ、という。それでは風景はどのように『発見』されたのか、後者がここでもちだすのが『写真』であり、彼等によれば風景は、『写真』の影(所産=反映=結果)なのである」
 ここからが加藤の特異な思考が動きだす境域があるのだが、それはとりあえず写真論として展開されるだろう。
そして、こんな推論を加藤は提示する。
「風景は早く来すぎた写真、写真は遅れてきた風景だった。
ということはむしろ写真が、風景の所産、あの『風景の影』だったのではないだろうか。」
 そして、ここまできてはじめて、この「風景の影」という論考が、大島弓子の「秋日子かく語りき」という漫画から始まり、風景とはなにかという「自己剥製」(本文P350)ともいうべき苛酷な無呼吸による深度潜水の様相を呈しながら、吉本ばななの小説により浮上するという現代批評の冒険が垣間見られるというわけなのである。






文芸批評家の想像力(加藤典洋の場合)

  以前に小説家の想像力について述べてことがあります。今回は、この小説家とその作品を主に論じる文芸批評家という人達へ焦点を当てることにします。彼等も作家と異なる方法から想像力により文章を書いているのでしょう。では彼等は一体どういう存在なのでありましょうか。江藤淳という批評家は「小林秀雄」を論じた批評文の冒頭で自分へこうした疑問を放っています。江藤淳は小林氏が「自覚的な」批評家であると指摘します。自覚的とは自分の仕事を「自身の存在の問題として意識している」ということだそうです。江藤氏が批評家を論じるにはまずこの了解の一歩が必用だった。一般的に批評家の想像力はここを起点に始まるのですが、特に小林氏を論ずる場合は、ここに焦点をあてる必用を感じたのでしょう。
 詩人も作家も画家も、それなりにすぐれた仕事をする人には、その人の側には必ず影のごとく立っているのがこの「自覚的」という意識であります。なぜなら、創造的な仕事というものは、この影との内的な対話を通じて現れるからです。文芸批評家が働かす想像力は、作家や作品だけではないのですが、作家を論じる場合には作家自身の内的な対話から、あたかも医者が手術に際して患者の身体にメスを入れるように、その作品なり作家の内部にわけいることから、彼と作品を見ます。場合によっては麻酔薬を注射して作品を仮死体にして、そのからだを解剖することで、作品を内側から照射して新たによみがえらせることさえ行います。江藤淳の「成熟と喪失」は60年代の一連の作家の作品にそうした方法で、鮮やかな光りをあてたと言えるでしょう。
 或いはまた、こうした方法を拒否して作品というテクストを作者から切り離して、「エクリチュール」(ロラン・バルト)という独特な言葉を使い、「テクスト」に基づいて想像力を行使することでの批評を展開した例もありました。バルトは日本に来て「表徴の帝国」という日本論も書いて、華麗な批評活動を展開したのです。
 日本の加藤典洋という批評家は、「敗戦後論」で日本の戦後を論じました。敗戦の前後に日本の根幹に関わる問題をみたからです。こうした一連の日本の戦後論を、「戦後入門」としてまとめた一書を最近に刊行しています。また「村上春樹は難しい」という新書を出しています。この批評家が村上春樹に注目したのは、戦後間近に中村光夫が「占領下の文学」で当時の文学を論じたように、「高度経済成長下の文学」として村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」の新しさを評価したからです。気分がよくてどこが悪いというメッセージをこの小説に看取したからだと加藤自身が述べています。この批評家の想像力は右を見るときに、左も同時見る複眼性とこれらを反転させる手法に特色があります。加藤氏はカフカの「世界と私との戦いでは世界を支援せよ」というフレーズに惹かれているのですが、このカフカ独特の二重性とその逆転は、そのまま加藤の「敗戦後論」の批評の想像力に援用されています。氏はあるところでエドガワ・ア・ランポーの短編「ヴァルドマアル氏の病歴の真相」の異常な結末に快感を覚えたことを告白しています。このポーの短編は死の瞬間に催眠術をかけられ、そのまま生と死とあいだに宙づりになっていた仮死体が催眠術を解かれた瞬間に、みるみると異臭を放って腐敗していくのですが、このところにえもいわれぬ快感を覚えたと述べています。長い詩なので引用はできませんが、金子光晴の詩に「大腐乱頌」という作品があります。あの詩も加藤と同じ快感を詠ったものかも知れません。腐敗は特段に負のイメージだけではない。腐敗することにより物質はその隠れた味覚を引き出されるプラスの面もあるのです。人間は歳を重ねて成長していきますが、ある時点から老化に向かいます。現在、日本人の大多数の高齢者はそうした経験をしています。そのことを自覚的に書いた最初の小説は谷崎の「鍵」や「瘋癲老人日記」でしょうか。加藤典洋という批評家の想像力はポーの短編やカフカのフレーズに牽引されています。それと同質の想像力から、日本の敗戦とその後の成長という歴史的経験を探ろうとしました。1995年の「敗戦後論」は(それ以前の著書「アメリカの影」もそうです)、明治維新から120年を経た日本の近代が敗戦により一旦死んだ状態から戦後が始まったのですが、日本人がその戦争における内外の死者を正式に弔うこともできないままに戦後50年を生きてしまった。特に、戦勝国のアメリカとの関係にいろいろな問題を指摘しています。
 ここですこし横道にそれますが、あのカフカの「変身」は日常の中の異常と同次元での異常の中の日常を書いています。セールスマンをしていた家族の一員が、ある朝気懸かりな夢から起きてみると、自分が巨大な毒虫に「変わり身」(多和田葉子の翻訳はカフカの作品理解に寄与してくれます)をしていることを発見する。しかしこの男はその朝も会社へ出かけようとするのだが巨大な虫になってしまった身体は以前のように自由に動いてくれず、自分の部屋から出ることもできません。このグロテスクな光景を家族がそして会社の上司も知ってしまい、一騒ぎになるといういわゆる変身譚の小説です。ただカフカのこの小説は単に読者の意表をついただけなら、この小説が同時代に異彩を放つことはなかったのです。そのような物語はたくさんにあったのですから。カフカの文学の独自性は、それが日常の時間性を特別に変化させることもなく進行するところにあるのです。これはフッサールという哲学者が現象学で行ったことに対応するでしょう。カフカは自分が書いたこの小説を妹たちに朗読したところ、妹たちは大層笑ったそうであります。
 加藤氏に話しを戻せば、死んだはずの日本が、ポーの短編のように催眠術にかけられ仮死体となり、氏はその腐臭を、神戸淡路大地震と地下鉄サリン事件が起こる以前から嗅いでいたことを、あの評論は表現していたかのようです。そしてそこから、カフカの「変身」の主人公グレゴリー・ザムザが自身の身体のねじれに抵抗するように、日本というねじれた身体へ投影し、このままでは腐臭を発しつづける仮死体の日本の異常性を、新たな場所から出発させることはできないと考えます。そして憲法9条を改正する提言を行っています。なかなか大胆な意見だと思いますが、もちろん異論がないわけではありません。それは国連中心的な政治姿勢にあるでしょう。現在の国連が多くの国民国家の混乱に対処できずに機能不全に陥っていることは明白です。
 「敗戦後論」以降、氏の想像力はその後に起きた人災(東日本沿岸部の「原発事故」)。そして自然災害(「東北大地震)を飲み込んで拡大・深化いたしました。多数の著作が書かれています。それらに一々応接するゆとりはありませんが、二0一六年の夏から秋にかけて出された三冊の本「言葉の降る日」「世界をわからないものに育てること」「日の沈む国から」の三冊の、その最後の本から、「『戦後』の終わり」と「『災後』のはじまり」へ加藤が複眼的な想像力をはたらかせている。特に、映画(「ゴジラ」や漫画(「鉄腕アトム」等)のビジュアル系から読者へ働きかけることで批評の視界を広げ、このふたつの文化アイコンの一対を聖書のヨナに仮託して未来へ結びつけようとの努力は示唆に富むものと思われた。一九七十年代に、パラオやペリリュー島など、東南アジアの島々でダイビングをしていた経験から、実体験的に共感できる部分があったことを、激戦地の草地にうずくまった赤さびた戦車の残骸や不気味に静まり返る洞窟を覗いた記憶と共にここに書きつけておきたい。

(注)2017.8のブログを整理して再掲したことをお断りしておきます。



加藤典洋「孤立の感覚」

 しばしば文藝評論家の加藤の文章を読んでいると、切断された痛みにちかい感覚を呼び覚まされる。たとえば、ヴィジュアル系の本「なんだそうだったのか、早く言えよ」のなかにあるこんな文章だ。
「なぜわたしはこの人の文章が好きだと感じたのだったか。文章が好きだ、とはそもそもどういうことなのか。荒木陽子さんが死に、また誰のよりもその文章にひかれた武田百合子さんが死に、そうして間の抜けたことに、いま気づくが、そもそも文章を好きになる、とは人を好きになる、一つのあり方なのではないだろうか。それは人に会うことを必要としていない。しかし、にもかかわらず、人に会いたかったと思わずにいない力をもつことをやめない。」(「荒木陽子の非凡」)
 この文章にあらわれているのは、紛れもなく加藤典洋の思考がたどる、喩えてみれば地面を歩いていく小鳥の足跡を思わせる。一二歩まえに進んだかとおもうとふとたちどまり、また歩きだすがその進路は一様ではない。
「文章を好き」が「人を好きになる、一つのあり方」であるが、「それは人に会うことを必要としていない」「にもかかわらず、人に会いたかったと思わずにいない力をもつ」との結語まで、その歩行の足取りは均一な流れをみせない。加藤の思考がとるこの特異のスタイルこそがこの世界をまえに、梶井基次郎の「闇の絵巻」の泥棒の男が闇のなかを疾走する際、胸に突き立てる三尺ほどの木の棒のようなものだ。この文章は好例とはいえないが、ヴィジュアル系を扱った論考を集めたこの本は、文芸評論家の加藤の思考の地肌を眺めるには都合のいい側面をみせているのである。
 ついでにこの本から、画家「バルチュス」が好きだという加藤の論考をみてみたい。実をいえば私自身が一時、東京駅のステーションギャラリーで開催された「バルチュス」展以来、この画家に魅せられた経験があった。それは大きな風景画で私を圧倒した。だがいまはその体験は措いておこう。ただ加藤がこの画家をまえにいかなる反応をみせるかに注目してみることにしよう。
 加藤は「窓辺に寄る少女」(1955年)が好きだと告白している。普通の美術評論家はこういうことばを発しないものだが、この点加藤の美術論の語り口は正直でユニークなものとなっている。
「ずいぶんと長い間、わたしはバルテュスがセザンヌと似ているという感想をもってきた。セザンヌはわたしのとても好きな画家だから、そのせいもあるのかも知れないが、最近この文章を書くため、世のバルテュス好きの書いた一冊のバルテュス本を読んで、このわたしの受けとり方が全くの少数派に属することを知り、不思議な気がした。(中略)バルチュスの絵が、わたしに喚起する一種独特な感情、それを「窃視」の感情、そう呼ぶことができるように思う」
(いつだったか、「ブリジストン美術館」で某音楽評論家からセザンヌの若い時代に描いたエロチックな絵画数点を見せられたことを私は思いだし、ヴァルテュスとセザンヌのエロスにおける親近性を考えざる得なかった)
 ここまでならば、特別に不思議なことはなにもない。窃視の感情は誰もがヴァルテュスの絵画から懐く印象なのだからだ。だが加藤の思考(=嗜好)が前述した特異のスタイルをみせるのはこの先からなのである。それは加藤がつぎのように述べるところからはじまる。
「先の絵のうち、少女のわざとらしさの部分、少女と椅子の部分をためしに手で隠してみる。するとその室内の色調を含め、筆致がセザンヌのある種の絵に似ていることがわかる。また長方形、この絵の形とほぼ相似形に切りとられた庭の景色は、室内以上にセザンヌの別種の風景画に似ているとわかる。このことは、このバルテュスの絵にしばしば現われる人物の不自然さ、わざとらしさが要素として、絵の中で孤立している、ということを示している。」
 この「孤立」はどこから加藤にやってくるのであろうか。「窃視」という言葉に加藤が独特な意味をつけようとするからである。
「『窃視』、覗き見るという時、わたし達は、わたし達でない何かをかきわけ、そのすきま、物陰からの別の何かを見る。逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。その一方のわたしが、前方のわたしをかきわけ、何かを覗く。いわばわたしの欲望(これをエロスと呼ぶ)がわたしの感情の『格子』を透かしてあの絵の中の孤立した要素を見る時、わたしは、わたしの中に『窃視』の感情が生じているのを感じるのである。
 バルテュスの絵の秘密は、このように見るわたし達を、二つに分けるところにあるのだとわたしは思う。」
 理解するのに困難と思われる文言は、まずつぎのことであるだろう。
「逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。」という一文だ。だが「窃視」という行為を一般的に考えるなら、この心理的現象はおかしくはない。だが加藤の思考の特異なのは、こういう考えを逆に否定しているところにこそある。
「ところでわたしは、なぜその絵からやってくるものを『窃視』というように感じるのだろう。たとえば、『窃視』ということでは現代の若い画家にエリック・フィシュルがいるが、彼は二人の裸の女性が部屋にいる自作に触れ、こういっている。ここでも、『肝心なのは絵の鑑賞者がこの二人にどのように見られるかという点にある。そんなところに居てはいけないことになっているのだ』
 フィシュルの絵についても、わたし達はしばしば「窃視」という言葉を使う。しかしその意味が違っている。正確には、フィシュルの絵の前で感じる不安、落ちつかなさは「窃視」の感情ではない。というのも、誰が、どこから「覗いて」いるのか。窃視は物陰、遮蔽物を要する。「窃視」、覗き見るという時、わたし達は、わたし達でない何かをかきわけ、そのすきま、物陰から別の何かを見る。逆からいうなら、わたしの中でわたしが二つになる。その一方のわたしが、前方のわたしをかきわけ、何かを覗く。いわばわたしの欲望(これをエロスと呼ぶ)がわたしの感情の『格子』を透かしてあの絵の中の孤立した要素を見る時、わたしは、わたしの中に『窃視』の感情が生じているのを感じるのである。」
 私は2回も同じことばを引用する羽目になったが、こうさせるのは加藤の思考がそれを強いるからだといえよう。
 つぎの文章は加藤が自身の謎解きを自分でしている文章なのですこし厄介なところだ。
「その絵は、少なくとも1950年代あたりのものまで、いわばタブローの地(グラウンド)の上に、孤立した要素としての図(フィギュア)を置く形になっている。絵にあの“セザンヌ”を見るわたしの背後から、わたしを『かきわける』ようにして、もう一人のわたしが“ヴァルテュス”を見るのがわかる。自分が、そのように、少女を見ているのがわかる時、たぶんわたしは、あの不思議な『窃視』の感情、自分が誰かに『みていることを知られている』という奥深い感情を、おぼえているのである。」
 だがこの美術評論の最後の文章はそうではない。加藤が加藤自身へ向き合って書いている趣きが強いからだ。
「あの、『五分後の一秒間』(A・カミユ)化石したさまをとらえられたバルテュスの少女達、彼女らは『みられていることを知っている』。そのぎこちなさ、わざとらしさはそこからくる。しかし、誰が彼女らをわたしが見るに先立って『見ている』のか。たぶん、あのわたしの中にもう一人のわたしが、わたしのすきまから、わたしより『五分の一秒間』早く、彼女らを見ているのである。」
 ここに、1948年の戦後に生をうけた加藤典洋という先鋭的な文芸評論家の思考のスタイルが顔をだしている。
「しかし、誰が彼女らをわたしが見るに先立って『見ている』のか。たぶん、あのわたしの中にもう一人のわたしが、わたしのすきまから、わたしより『五分の一秒間』早く、彼女らを見ているのである。」
 この「窃視」のまなざしが、加藤自身を含めた「戦後」を長いスパンで透視する歴史の眼と無縁でないことに注意しておきたい。
そして、これこそが「孤立した要素」としか名指しえないものだ。「私が二人となる」のはそのためなのである。この不透明に孤立したものは、加藤が1970年の一年は中原中也ばかりの読んでいたと「自注年譜」に記した中原中也の詩のなかにある「不思議な『窃視』の奥深い感情」に通じるものなのである。
 「私が二人となる」のはこの「孤立の感覚」においてなのである。その「もう一人」はわたしより『五分の一秒間』早く存在しなければならないという、この微妙な時差に加藤の重心がかけられている。「不思議な『窃視』の奥深い感情」という加藤が強調する観点こそが、ヴァルテュスの絵に「孤立した要素」を見させている当のものなのである。彼岸から此岸をのぞくようなこの視線は、加藤が1970年という一年の間は、中原中也ばかりの読んでいたと「自注年譜」に記した詩人の詩のなかにあるものを呼び覚まさないではおかない。たとえば詩集「在りし日の歌」の詩「骨」の中にそれはある。
  ホラホラ、これが僕の骨―
  見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
  霊魂はあとに残って、
  また骨の處にやって来て、
  見てゐるのかしら?
 中原中也と交友した小説家の大岡昇平は、中原についての強烈な印象をこんなふに記している。直に中也を知った大岡でなければ吐けない科白であろう。
「中原の不幸は果たして人間という存在の根本条件に根拠を持っているのか。いい替えれば、人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか」
 この大岡の問いは、この詩人の本質を穿つ深くておもいことばである。文藝批評家にかろうじて脱皮を遂げたともいえる加藤典洋の中に、青年(幼虫)時代の中也と同型の詩人がいたとしてもおかしくはない。詩「一つのメルヘン」の中にもそれはある。「孤立の感覚」は他界からのまなざしからやって来るものといっていいのである。
 ここまで来て、ようやくのことに、加藤の思考が画家バルテュスの絵画に特異の洞察をくわえ、新しい視界を切り拓いていることを知らされるのだ。そして、この「孤立の感覚」が加藤典洋という批評家の背後に「一人二役」として、もう一人の詩人を存在させずには済まないことを理解させることになる。ここで、加藤が「日本風景論」の最後に記した「年譜」から、1977年(昭和52)29歳のエピソードを挿入しておいても唐突とはいわれないだろう。
 10月、長男良誕生。中原中也について書き続けている間生れた子どもの誕生日がそれぞれ中也の亡児文也の死亡の日と重ったことに因縁を感じる。
 加藤の「孤立の感覚」は不思議な因縁として、ここに「他者」を随伴させなければこの「孤立」は十全なものとならないのである。そして、この「他者」は「死者」と重なるのである。それは、現実には不慮の事故で35歳で亡くした長男の良であり、「敗戦後論」という想像の世界においては、日本国がその追悼を必要とした、数千万人に及ぶ内外の死者たちとなるのである。
 リアルポリティクスの立場からみれば、絵空事と揶揄されるかも知れない。しかし、加藤が「敗戦後論」のエピグラムに「きみは悪から善をつくるべきだ それ以外に方法がないのだから」という映画「ストーカー」からの題辞を記したことから、戦後のスタート地点に加藤は思想の拠点を立てたことを、軽くみるべきではないだろう。大袈裟かもしれないが、加藤が批評の代償に払ったものはかれ自身の短命に終わった人生そのものだったかもしれないではないか。
 生者と死者との一人二役のまなざしの交錯する場所でこそ、加藤典洋氏の特異の思考は発動する。この思考が「世界の限界」をまえに未来を見据えさせ、この日本の「戦後」にある「ねじれ」を洞察させ、その欺罔からの脱却を説かせるのである。そして、幕末の開国以前から連なる新たな歴史の地平に、日本の「再生」を構想するのは、詩人と文芸評論家という二重の人格者の使命だったと言ってもいいのではないか。どうにもそんなふうに思われてならないのだ。


注:2019.11の当ブログに載せたものであるが、加藤典洋の関連で再掲する。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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