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加藤典洋 13 ―三島由紀夫(3)―

 「言葉の降る日」という本は、政治・社会論集をあつめた「日の沈む国から」、文学・思想論集の「世界をわからないものに育てること」につぎ、近年亡くなった大切な人々についての文章を中心に編纂され、2016年(68歳)、この三冊が矢継ぎ早に出版されている。
 あとがきによると、当初は、2013年1月に死去した息子に関する文章を載せる予定が、果たせなかったとある。
「2011年の震災のあと、私の日々は親しい、大切な人々との死別で飛び石伝いに過ぎた観がある。吉本隆明さんが2012年3月16日に亡くなり、息子の加藤良が2013年の1月14日に事故で死に、その後をささえてくれた友人の鷲尾賢也(歌人の小高賢)さんが2014年の2月10日に急逝し、そして鶴見俊輔さんが2015年7月20日に亡くなった。・・・・」
 加藤はこの本の冒頭に「死が死として集まる。そういう場所」というタイトルで、柳田国男が昭和20年5月に書いた「祖先の話」をとりあげ、「どんな死も同じだという思い」で、「死が死として集まる」場所が、この国にないことの痛感を、そして、柳田の提案がピンとこなかったが、いま、柳田が戦争という大きな物語の渦中で、小さな物語を手放すまいとしていたことに驚嘆し、これを「英霊」信仰を無力化するものとしてその可能性を評価している。なお、この本には「太宰治、底板にふれるー「太宰と井伏」再説」と「死に臨んで彼が考えたことー3年後のソクラテス考」が収められている。
 さて、前章の続きである「いまはいない人たち」の「『生の本』の手触り」という三島の論考に戻り、話しを続けることにしよう。
 三島のラディゲ熱が三島をしてその文学理念の由来を第一次大戦後に求めたにしろ、「鏡子の家」の予期せぬ不興から、その文学の方向転換をしたかのような、三島の「英霊の声」を「1966年に書かれた日本の戦後にとってたぶんもっとも需要な作品の一つである」と加藤が評価したことは、前章で記した。
「『生の本』の手触り」は文庫の「あとがき」として書かれたのだが、その前書きで加藤はこんなことを記している。
「三島は死の直前に、こう書いている。
私の中の二十五年を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど『生きた』とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。」

 加藤はこれを受けて、「三島は、自由とか民主主義というものは、戦後の『偽善と詐術』の産物といっている。でも、だから、戦前の体制に戻れ、そちらのほうがよい、と主張しているのではない。そうではなく、戦後の日本人が、自由とか民主主義といった美名のもと、『偽善と詐術』になずんでいることが、イヤだ、耐えられない、といっているのである。」
 この後の論述は、「敗戦後論」を敷衍しているにすぎないので、これを省略をする。ただ上記の引用を踏まえ、では三島がどうしようと考えていたのか、私にはよくわからないと述べ、昭和天皇がその価値の源泉たる現人神の自分を取り下げてしまった時点で、論理的に帰るべき場所はなく、戦後はおかしいという論理をささえるのは、天皇に代わる、先の戦争で死んだ死者たちだが、誰一人、死者の代弁者にはなれない、という構造がでてくる。この主張は現実的な対案をもたないばかりか、主張の起点を「戦争の死者たち」の視点といういわば架空の場所にもつほかない、致命的な弱点がある。同様に、「英霊の聲」の三島が足場にする戦後の糾弾が、どんなに危うい構造を介してしか可能でないかと疑問を呈し、5年前の「憂国」の中では、彼自身と戦争の死者たちとの関係は、和解ないし連携の可能性はあったが、「英霊の聲」では、この両者の関係は、死を賭するまでに切迫した「うしろめたさ」の感情に気圧されたものになっている。戦後に生きてきた三島が戦争の死者を代弁することは、もうできない。なぜなら、戦後まで生きのび、そこで文学者として自己実現してきた者は、戦争の死者たちを裏切った昭和天皇と、同じ穴の狢となっているからであり、自己糾弾なしには、戦争の死者を代弁しての昭和天皇糾弾はなしえない。その自覚が「英霊の聲」を作っている。やがてある悲哀が加藤を領してきたが、そうなるにつれ、三島は戦後呪詛のディレンマを通じ、加藤にあるひとすじの「乏しさ」「惨めさ」「卑小さ」を伝えてきたと述べている。

 これが12年前の「語りの背景」にみた三島の「洞察」への応答なのであろうか、というのが筆者の感想である。
 そしてまた、以前の問いに戻らざるえない淵源は、果たして加藤にあるのか、それとも、「生の本」の主な解説で、その回答に代えたのであろうか。

 参考までに、以前の文章を以下に再掲して、この検討をつづけていきたい。

「先に述べてように私は長いこと三島のよい読者ではなかった。三島の小説は、余りに人工的で、薄っぺらい感じがしたからだ。しかし、いま私は、その薄っぺらい感じを、違ったふうに受けとっている。(中略)彼は、兵役をある偶然から免れたのだが、そのことを奇貨として、これをよろこび、そこから逃避した。しかし、このような彼の内心の傷、良心の呵責の根源についても、そこに卑小さがあることは認めるが、私はそれを決して否定しょうとは思わない。
 おかげで、戦争の死者たちが、自分たちとどういう関係に置かれているか、ほとんど死を賭して苦しむ人間(三島-引用者)が、戦後へもたらされた。卑小さと偉大さと、その両方が私たちには等価に大切なのである。」

 奥歯にものが挟まったような、この一見冷静な加藤の三島への評価(?)は、「古今集と新古今」の下記の三島の文章を逆手にとって、70年の決起の行動の背景にある理屈を整理しようとしている。

「それなら、行動と言葉とは、ついに同じことだったのではないか。力をつくして天地が動かせなかったのなら、天地を動かすという比喩的な表現の究極的形式としては、『力をも入れずして天地を動かし』という詩の宣言のほうが、むしろその源泉をなしているのではないか。
 このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化した。それはもっとも清純な詩ではあるが、行動ではなく言葉になったのだ。」

 この三島のあとに、加藤はつづけてこう述べている。
「ひとあたり読むと、わかったようなわからないようなはぐらかされた気分になる。しかし、よく考えればここで三島は、「力を入れても天地は動かない」のであれば、「力を入れるが天地を動かそうとは思わない」、つまり「天地を動かす」目的を凍結したまま、「力を入れる」、そういう行為が、いまや詩として成立する、というか、そういう世界では、詩は、このような形でしか、生きのびない、と自分は喝破したのだ、といっているのである。(中略)死力をつくす、しかし、結果はゼロでも一向にかまわない、それがこの敗戦後の日本という逆さまになった世界では、唯一可能な詩の理念の形なのだと、自分は思うようになったと、この「古今集と新古今」の論のなかで、三島は言っている。
 彼は、一九七○年十一月二五日に、自分の行動で何ほどかの変化が日本の社会に起こるとはとは思っていなかったろうし、そういうものを起こそうとすら、思ってはいなかっただろう。それではなぜそんな馬鹿げたことをするのか。変な言い方をさせてもらえば、戦後というこの世界が逆さまだから、こうなる。三島はそういうのである。」

 じつに「変な言い方」が気になる文章である。どこかにおかしなところがある。内部にある屈折を加藤は、三島の言葉を捩った理屈で抑え込もうとしているかにみえる。
 文庫本『三島由紀夫文学論集Ⅲ』の解説に、『生の本』の手触りとしてつぎのような文章を書いている。
「この解説を書くため、三島の書いたもの、三島について書かれたものをいくつか、読んだ。数週間にまたがる期間だった。そのうち、一つの問いが私をとらえた。一九六九年、死の一年前という時期に、三島が、自分の文学論集を企画し、しかもその編集を、虫明亜呂無氏に依頼したのはなぜだったのか。その依頼者が、旧知の文芸評論家の奥野建男氏でも、友人の村松剛氏にでもなく、いわゆる純文学から遠い虫明氏だったのはなぜか、というのが疑問」を提示して、つぎのように推論している。
 加藤によれば、三島の死後、編集刊行された単行本がもう一冊あり、それが「蘭陵王 三島由紀夫1967.1~1970.11」と題された瀟洒な単行本であった。加藤は三冊の文庫のもとになったこの本の二冊を書架に並べて読んでいるうちに、三島が自分の死後、この後者の「蘭陵王」のような、死から逆照射して編まれる一冊が作られるだろうことを、予期していたのではないかという気がしたという。それが「純文学」の徒とは対極にある「生の批評家」としての虫明亜呂無氏への依頼となった三島の意図によるというのである。ここから、加藤は、文庫本『三島由紀夫文学論集Ⅲ』の解説に仮託して、『生の本』を遺そうとした三島を敢えて見ようとしている。三島の文学と自決死は、吉本隆明の追悼文に表明されているように、戦後を生きる文化的なもの一切に、その生死のリトマス試験紙を差し出していた。
 鋭敏な批評家の加藤典洋が、いわばその三島に戦術的な対応を強いられていた。その彼の一面だけをみての即断は「チンケ」でしかないであろう。加藤が大いに影響をうけた吉本隆明は「追悼私記」で三島について書いている。「重く暗いしこり」(45・11・25ー46・1・13)。加藤はこれを読んでいるだろう。
 「三島の死は文学的な死でも精神病理学的な死でもなく、政治行為的な死だが、その<死>の意味はけっきょく文学的な業績の本格さによってしか、まともには測れないものとなるにちがいない」。

 加藤は、三島と同じ在り方を、一般的にはあまり馴染がない、ドイツの美術家アンゼルム・キーファーに見いだしているのだが、どうにも衒学くさくて分かりづらいのである。加藤が解説を書いている文庫本「生の本」のように、もっと、「都会的で、明晰で、平明で、おだやかな午前の光めいた精神」のなかに、「逆さまな戦後」のその逆さま加減を、これがそうだと見せてもらいたいと、思わず言いたくなるところである。つまるところ、加藤のわかりにくさの因ってきたる由縁は、中原中也をしかるべく自分の批評の空間に、導入してこないことからやってくるのではないか。裏からいえば、二十代のほぼ全期間を中原中也に入れあげていた加藤が、それをしない理由において明解さに欠けるといわざるえないのだ。
 
 秋山駿の三島へのスタンスはしっかりとしている。秋山と加藤がイコールというわけにはいかないだろう。中原中也は小林秀雄の対局にあり、三島もまた同質なものであったはずである。これは秋山氏とイコールのところだろう。だが、ある頃から、そうではなくなったと加藤は言っているのだ。そしてまた、太宰の最後の自殺の再考を促した動機にまでも、「中原中也の影」はのびていると推測されるのだが、加藤の批評からその部分がスッポリと抜けていることが腑に落ちてこない。さらに、「戦争の死者たち」は三島を通じて加藤へ入ってきた重要な認識であるのに、三島への姿勢にどこか木で鼻を括った感じを拭えない。いったい何故なのであろうか。どこかに不自然な「強ばり」のようなものが感じられてならない。
 それともこれが、加藤の「戦後」が要請した倫理の内容だというのであろうか。






加藤典洋 12 ―三島由紀夫(2)―

 加藤典洋にとり三島由紀夫とはいかなる作家、いや存在であったのか。それを語る文章がふたつ残されている。
 ひとつは「語りの背景」(2004年)における「意中の人びと」であり、あとひとつは「言葉の降る日」(2016年)の「いまはいない人たち」である。このふたつは表と裏、生の顔と死の顔をもっている。

 最初に「意中の人びと」を取り上げてみよう。たった4頁の短文で題名は「その世界普遍性―三島由紀夫」となっている。
「三島由紀夫の作品はなぜ多くの外国人読者をもっているのか。彼らを目当てにしたエキゾチシズムによって書かれているからだ。これまでわたしはそう思ってきた。でもいまはそう考えていない。ではどう考えるのか、そんなあたりのことについて書いてみる。」
 こう書き始めた加藤は、日本の戦後に書かれたたぶん最も重要な作品として「英霊の声」(1966年)を取り上げ、こういっている。

「この作品で三島が言うのは、自分のために死んでくれと臣下を戦場に送っておきながら、その後、自分は神ではないというのは、(逆接的ながら)『人間として』倫理にもとることで、昭和天皇は、断じて糾弾されるべきだということ、しかし、その糾弾の主体は、もはやどこにもいないということである。戦争の死者を裏切ったまま、戦前と宗旨替えした世界に身を置き、そこで生活を営んでいる点、も同罪である。糾弾者自身の死とひきかえにしかその糾弾はなされえない。そういう直感が、この作品の終わりをこのようなものにしている。」

 ここの「彼」を虚構上とみるか実在の者とするかは読者の自由であろう。ともあれ、加藤の文学的な直感の働きは非常に犀利なものであることは、他の文学作品、たとえば村上春樹その他についても証明済みとみて差し支えないだろう。このことは文学作品がその時代と密接に関係していることに、加藤がいかに敏感な触覚をもっていたかの証左ともなるといっても過言ではない。いま具体的な事例が挙げられないのが残念であるが、武者小路実篤の一作品がいかに重要な位置を占めているかを論じた文章に出会って、思わず息をのんだことがあった。
 さて、本論にもどるが、先の文のあとを加藤が、つぎのようにつづけていることには一目すべきだろう。

「ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間が入れくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の戦後の意味は、大違いである。その考え方には、誰もが、もしどのような先入観からも自由なら、こう考えるだろうというような普遍的なみちすじが示されている。三島は、日本の戦後のローカルな論理、いわばその『内面』に染まらず、普遍的な人間の考え方を示すことで、はじめて日本の戦後の言語空間がいかに背理にみちたものであるかを、告知している。これは、旧ドイツにおけるアンセルム・キーファーなどとほぼ比較可能なあり方であり、もし三島がいなければ、日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった。」

 このたった4頁の「その世界普遍性―三島由紀夫」と題された文章の一節は、およそ10年まえに「敗戦後論」を世に問うた加藤を考えると、一瞬、奇異な思いに捕らわれかねない。ここにはなにか危うい誤解が生じかねないようなものがある。それはこの一節に微妙なねじれがあるからだが、そのねじれを元にもどさないと率直に読めない文章になっている。この一文がたぶん無意識的に象徴的なものとなっていることに、加藤自身は気がついていないことだろう。

「ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間が入れくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の戦後の意味は、大違いである。」
 この出だしの冒頭から、
「もし三島がいなければ、日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった。」
と着地する文章のうちに、体操の競技に喩えれば、難易度のあるひねり技が効いている。それはすでに「わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからない」というすこし後にひいた逡巡にあらわれてもいるが、加藤にそれを強いているのが、三島由紀夫という作家の存在であることは重要である。そこから、この最後の一文は、三島がいたので日本の戦後は一場の茶番劇に終わらずに済んだと、率直な読解ができるようになる。ここにはあるイロニーがうっすらと伏在しているのだが、これは加藤の無意識の領域にある。このときふと思いだすのは、かつて浅田彰と加藤が小さな論争をして、そのとき、浅田が加藤の「ねじれ」た文章へ皮肉をいれたことがあった。浅田といえば加藤の言葉を借りるなら、三島と同様な「日本の戦後のローカルな論理、いわばその『内面』に染まらず、普遍的な人間の考え方」を示す傾向のある人物であったろう。それはともかく、加藤はこうつづけている。

「たしかに彼の作品は、化粧タイルのような人工的な文体を駆使して書かれている。『内面』をもたず『深さ』を欠いている。でも、そのことが、三島の小説を世界の文脈でみた場合の、「世界の戦後」性にたえる制作物にしている。わたしの考えでは、彼の作品は、そのエキゾチシズムによってというより、その考え方の普遍性、そしてまた文体、作品の人工性、深さの欠如という現代性ゆえに、多くの外国の読者をとらえ、離さないのである。」

 この文に含意されているのは、三島文学批判であると同時に、加藤の鋭敏な時代感覚の両義性であろう。三島の「世界の戦後」がいかなる認識に由来したかを加藤は注意を向けさせ、つぎのようにいっている。

「三島は戦前、レイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』に夢中になる。でもそのラディゲの作がすでに第一次世界大戦の戦後文学だった。その最も深い理解者は、あのジャン・コクトーである。その心理小説に心理がなく心理の剥製があること、しかしそのことこそがその第一次世界戦の戦後文学でめざされていること、そしてそのようなものとして、それが三島の戦前と戦後の指標たり続けること。つまり、人工性はここでは、世界性、現代性の明らかな指標なのである。」
 
 そしてつぎのように、加藤自身の位置を確認するのである。

「『世界の戦後』とは第一次世界戦の戦後のことであり、『日本の戦後』とは第二次世界大戦の戦後のことである。この二つは同じではない。簡単に言うなら、前者の戦後で、人と世界は壊れ、後者の戦後で、人と世界は自分を修復している。サルトルの『嘔吐』は第一次世界戦の戦後文学であって、そこで彼は人が壊れたこと、そこからの回復にはアヴァンチュール(芸術と犯罪)による特権的瞬間しかないことを述べている。しかしその彼が、第二次世界大戦の戦後になると、アンガジェマンによる人間の回復を唱える。三島は、戦前のサルトルに似ている。わたし達は、ここでは、そこに二つの戦後の重層(ズレ)があることに自覚的であるべき、『遅れてきた青年』なのである。」

 加藤は自分たちを「二つの戦後の重層(ズレ)があることに自覚的であるべき、『遅れてきた青年』なのである」規定している。
『遅れてきた青年』とは大江健三郎であり、加藤の戦後はこれに属し、三島の「戦後」ではないことをここで表明しているのである。
 だとしたら、冒頭ちかくで引用した加藤のいささか大げさな三島への視線はどう理解すればよいのだろう。茶番劇はおまえ加藤にあると逆転しかねないからだが、「敗戦後論」を読むかぎり、そうした茶々は消えることになる。
「ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間が入れくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。(中略)彼がいるといないとでは、日本の戦後の意味は、大違いである。(中略)三島は、日本の戦後のローカルな論理、いわばその『内面』に染まらず、普遍的な人間の考え方を示すことで、はじめて日本の戦後の言語空間がいかに背理にみちたものであるかを、告知している。(中略)もし三島がいなければ、日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった。」

 そしてカデンツに入るのだが、この「茶番劇」の由来を加藤は三島自身の文章の引用で終えている。

「ラディゲからの影響を受けてゐた時代はほとんど終戦後まで続いてゐた。そうして戦争がすんで、日本にもラディゲの味はつたやうな無秩序が来たといふ思ひは、私をますますラディゲの熱狂的な崇拝者にさせた。事実、今になつて考へると、日本の今次大戦後の無秩序状態は、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の無秩序状態よりも第一次世界戦後の無秩序状態に似てゐたと思はれる。
     (「わが魅せられたるもの」一九五六年) 

 こういう洞察がなぜ当時、三島だけに可能だったか。そういうことをわたしとしてはいま、改めて、考えてみたいと思っている。」

 最後の2行でこの論考は終わっている。中途半端という感が拭い難いところだろう。なぜこれだけ大事なことを、「いま、改めて、考えてみたい」などと書いているのか。こうした疑問が筆者に湧いてくるのを押さえ難いのである。最初の加藤からの引用を、今一度、拳々服膺してみよう。
「ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間が入れくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の戦後の意味は、大違いである。・・・・」
 ここで加藤は三島のお陰で、戦後の言語空間がいかに背理にみちているかを告知されたと言っていたのである。ここには看過できないほどに、重要な事柄への、正直な言及が記されていたのだ。それは「戦後」という時代認識に関わることで、加藤の「敗戦後論」は言うまでもなく、その認識の布置の上に為された論考であったはずで、そこに三島の存在が大きな影を落としたことを述べていたのである。

「ただ一人読める日本語の書き手としては中原中也の詩と散文を読みつぐ」とあり、「11月『現代の眼』編集部の○○氏からの依頼を受け、評論を執筆中、三島由紀夫の自決にあう。・・・」
 年譜は加藤が病に伏した3月に病院で記されたもので、5月に不帰の人となった。先に引用した三島に関する論考における大仰な文章からすると年譜の「三島由紀夫の自決にあう」は、いかにも抑制されたという感は拭いがたい。

 その12年後、加藤は三島を再度論じている。それが冒頭で紹介した「言葉の降る日」(2016年)の「いまはいない人たち」である。そこに所収された文の題名は「『生の本』の手触りー三島由紀夫『三島由紀夫文学論集Ⅲ」である。
 そこで筆者は改めて、真摯で正直な加藤という人間をみることになった。加藤はここで正面から三島の自決と彼の戦後の25年についての感慨を非常につめた論理をもって述べていたのである。ここにまた、冒頭の一文を写しておくことにしよう。加藤はこの3年後に生を終えている。

「なぜ三島由紀夫にあるときからひかれるようになったのかはよく分らない。
以前は。そんなに好きではなかった。その小説にほんとうに引きこまれたことは、1966年だったかに、『文藝』巻頭に載っていた短篇『仲間』を読み、余りに気に入ってその頁だけをはぎ取り、いつも持って歩いていた。そのときの一度くらいしかないような気がする。
それがいつのまにか、だいぶ自分に大切な存在になっていた。
きっと、この人の正直なところにひかれたのだろう。昔は、なんだか『チンケ』な人だなあと思っていたのだが、ある頃から、自分の生きている戦後の日本という空間のほうこそ、『チンケ』だと思えるようになってきた。すると、このかつての『チンケ』な人がなんだかとてもまともな人のように思えてきたのである。                                                   戦後の日本が『チンケ』な空間だというのは、こういうことである。                                         先の戦争で、日本人は、アジア全域での白人欧米諸国による植民地支配はおかしい。その体制を終わらせようと、と言って米英に対して宣戦布告した。むろん、そこには多くの嘘があった。しかしその多くは戦争が終わってから国民の一人一人に知らされたことである。その戦争の意図のどこが悪かったのか。なぜ悪かったのか。それについたは何も検討されないままに、日本人たちは、自分たちの考えを捨ててしまった。そして、敗戦国になり、かつての敵国であるその白人欧米諸国を主とする連合国の軍隊(実際は米国の軍隊)に占領されると、そこがよくわからないのだが、いともすんなりとそのかつての敵の考え方を自分のものとするようになった。でも、そこにはもっと、考えるべき問題が含まれていた。いまの9.11、イラクにまで、それはまっすぐに続いている。
 これって恥ずかしいことではないのだろうか。(中略)
 そういうことを、あるときから、私は思うようになったが、そう思って目を上げると、そんなことを言っている人は、この人(三島ー引用者注)ぐらいだった。ほかに絶無ではないとはいえ、そういう声は、ほとんどないのだった。」

 加藤はたぶん自分のいのちの蝋燭はあとわずかしか残っていないことに気づいていただろう。ここに響いてくるのはそうした批評家の声である。






加藤典洋 11 ―中原中也(3)―

 1976年文芸読本「中原中也」には、先にみた大岡昇平の外、小林秀雄、安倍六郎、吉田秀和、河上徹太郎という中也と交友関係にあった多くの人の文章が載せられている。
 この一文は、加藤典洋という文藝批評家の思考スタイルを取り出すために、彼の若き日に濃い影を落とした中原中也という詩人に焦点を絞っている。だが、文藝読本にみられる貴重な思い出・感想・意見を横目でみて通りすぎるには惜しい気がするので、加藤に関連するものとして、幾つかここに採集して先を急ぐことにしたい。それは、加藤典洋という文藝批評家の独創と独自性をとりだし、現代に、これからの日本に甦らせたいとの一事からである。

 音楽評論家の吉田秀和の「中原中也のこと」には、中也と交友したことからの思い出が語られている。その文章はのっけからこう始まっている。
「私は、中原中也の弟子だったわけではない。それに、私は『詩人』についての思い出など、あまり書きたくない。(中略)。私が『詩人』について、特別な観念を抱いているからだ、という方が正確だろう。それは偏見かも知れない。しかし、私のその観念は、中原中也を知ったことによって、生れてきたのだ、とはいえる。(中略)彼の存在が私にあきらかにしてくれたことは、一口でいうと、何億という人間の中には『この宇宙の中で人間が生きてる』というー簡単といえば簡単な事実について、ある意味を、突然、私たちが日常生活ではあまり経験しないような形で、啓示できる人間がいる、ということである。」
「中原は、大変倫理的な人間だった。私はのちに、≪論語≫をよんで、『人生のくるは直ければなり』という句に接して、これは中原の信念と同じだと思った。この『直し』というのは、正義だとか真理とかいうのとは、ちょっとちがう。本居宣長の言う『清く明るい心』にずっとちかい。それは対外的、対人的あるよりも、まず、内的なもののあり方についてである。

  かくは悲しく生きん世に、なが心
  かたくなにしてあらしめな。
  われはわが、したしさにあらんとねがへば
  なが心、かたくなにしてあらしめな。

 こういった時、彼はヴェルレーヌに近いと同じくらい、古代中国の聖哲にも近かった。(中略)いつだったか、彼は阿部さんの家で、『ああ、俺は赤ん坊になっちゃった!』と叫びながら、急に畳の上に仰向けにひっくりかえってしまって、亀の子みたいに、手足をばたばたさせていた。いつもは蒼白な顔が真赤だった。(中略)正気の沙汰じゃないといえば、それまでだが、私は今でもやっぱり、彼はあの時、本当に赤ん坊になってしまったのだと思っている。
 そういう彼が喧嘩をするとすさまじかった。私のいうのは口喧嘩である。目の前の相手を、一語一語、肺腑をつくように正確に攻撃する。その烈しさは、意地の悪さなんてものを通りこしていた。

  風が立ち、浪が騒ぎ、
    無限の前に腕を振る。
                  (≪盲目の秋 Ⅰ≫)

ただ、中原の喧嘩というものは、実際は、誰が相手というのでなくて、もっと広くて大きなものに向かっての表現なのだ。(中略)生きるとは、赤ん坊であるか、無限を相手どって腕を振るか、どちらでしかない。いや、中原の場合、この二つは、しばしば同じでもあった。

  これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
  そんなことはどうでもいいのだ。
  人には自恃があればよい!
  その余はすべてなるがままだ・・・・
  自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
  ただそれだけが人の行ひを罪としない。
                (≪盲目の秋 Ⅱ≫)

「・・・けれども、彼の詩の一番本質的なものは、それをつきぬけて、『宇宙との交感』とこそ、呼べるようなものに達しようとしていた。そういう詩では、彼は、まるで生と死の中間の国にでもいるみたいに歌っている。
 彼の、いわば信条告白(クレド)の歌とでもいうべき≪いのちの声≫の最後は、それを、もっと昇華した形で歌っている。

  ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。

 彼は、自我の拡充ではなくて、むしろ、万有との一体に帰することを目指していた。ただ、それには、この詩人は自我から出発するほかはなかったのだ。
「・・・そんなおりに私は、何度か、彼のこの歌を歌うのをきいた。

  天井に 朱きいろいで
    戸の隙を 洩れ入れる光、
  鄙びたる 軍楽の憶ひ
    手にてなす なにごともなし。

  ひろごりて たひらかの空、
    土手づたひ きえてゆくかな
  うつくしき さまざまの夢。

 ・・・歌といえば、中原は、よくヴェルレーヌやランボーの詩を、ふしをつけて朗読してくれたし、そのほかにもバッハのあのすばらしいハ短調の≪パッサカリア≫が大好きで、よくあのバス主題を歌っていた。その中で、彼が私に最も好んで聞かせてくれたのは、あの百人一首の中にある。

  ひさかたのひかりのどけきはるのひに
    しづこころなくはなのちるらん

 の一首だった。これを中原は、チャイコフスキーのピアノ組曲≪四季≫の中の六月にあたる≪舟歌≫にあわせて歌うのだった。(中略)中原は、日本の俳句や和歌や近代詩について、『どれも叙景であって、歌う人の思いが入ってないからだめなんだ』とよくいっていたが、この和歌には、彼を通じて流れる宇宙の秩序みたいなものがあったのではなかろうか。
 詩とは、実に不思議な力をもったものだ。日本現代文学で目立つことのひとつは、多くの人に愛される詩人と詩に乏しいことだろうが、それは、現代日本人の精神と言葉とが、深い所で分裂してしまってる証拠ではなかろうか。それは、しかし、一国の国民が魂を失ったようなものではないだろうか。」(1962年5月) 

 加藤は「新旧論」の「中原中也ー言葉にならないもの」の中で、中也がその詩法に日本の「うた」の古さを意識的に導入したと論じていたことと、上記の文章は深く関連してくるのではなかろうか。最近ではNHKのテレビ小説で放映中の「ヒーロー」の主人公は、作曲家の古関祐而であり、西洋音楽の作曲を学び、長崎の鐘・君の名等、日本人の心をつかむ多くの幅広い作曲をおこなったことが思い起こされる。
 
 因みに、私は上記の音楽評論家を上野の東京文化会館の一階で見たことがある。この人は一番中央の椅子に座り、演奏が終わると走るように出口へ急いだ。朝日新聞の車が吉田氏を待っていて鎌倉へ送っていくのである。私はこの人から「セザンヌ」の若き日に描いた絵画の講義を、八重洲の「ブリジストン美術館」の地下ホールで聞いたこともあったが、吉田氏が座っていた椅子は上野の文化会館でも一等席であった。この席の切符を私はある同人詩誌の主宰者・詩人(蒲原有明賞受賞者、日本ショパン協会理事長?)から戴き、同人の女性と一緒に聞いたことがある。音が天井からシャワーのように降り注いできた。



2020中原中也




加藤典洋 10 ―中原中也(2)―

 2004年に発刊した「語りの背景」の「意中の人びと」9人の中で、加藤はこの中原中也と三島由紀夫の二人を論じている。ひとつが「一本の蝋燭―中原中也」であり、ふたつめが「その世界普遍性―三島由紀夫」である。
 「一本の蝋燭―中原中也」はたった単行本4頁の短文である。これに引き替え、「新旧論」の「中原中也―言葉にならないもの」は47頁と12倍の量、そこに「『うた』の古さ」「モノの否定」「『下手』のさへ」と三項目からなる考察が行われていた。最初の「新旧論」から23年後の加藤の中原中也は、単行本「語りの背景」では「意中の人びと」の一人となり、「その世界普遍性―三島由紀夫」他の論考と同様に、各人4頁づつと凝縮されたわけである。逆に言い換えれば、23年を経てもなお、加藤のなかに残り充分な根を下ろして存在してきたと考えるほうが妥当であろう。冒頭の八行を引用する。
「中原は、大学の四年目の頃、突然わたしの中に入ってきた。きっかけは、はじめて見た一篇の詩の、さらにその中の一部分、言葉のリズム、口調、そんなものの向こうにほの見える表情だった。そして、その後、二年間の大学生活の間、彼の言葉は、わたしのほぼ唯一の世界との窓口となり、そこを通じて、かろうじて、食べ物が外から、差し入れられるという状態が生れた。その状態は、少しの拡散と収縮を繰り返しながら、わたしが出版社の就職試験に落ち、大学院の試験に落ち、かろうじて入ることのできた国会図書館の雑誌貸し出しの係に職を得る中、それだけが生きる支えといった感じで、睡眠時間を削って書いたかなり多い量の原稿がひょんな偶然からなくなる三十歳の時まで、八年間ほど、続いた。」

 加藤はこの時、すでに五十六歳。その彼が二十五年まえの過去の一事を回想した文章である。「それだけが生きる支え」とは大袈裟ではないかと思われるかも知れないが、赤裸々で切実な口吻がここにこもっていることは確かに感じられる。
 小林秀雄のランボー論はⅠ、Ⅱ、Ⅲとそれぞれ時を経て書かれているが、最後のエッセイに至って、平明で落ち着いた文章となっている。同様に、23年前の「新旧論」の中原中也への三つの視点から、熱意あふれた詳細にして長い論考と比べると、中也の核心だけが一本の蝋燭のように、すっくりと加藤の中で収まり立っている。それがこんな言葉でここに置かれているのだ。
「わたしは、たしかその頃、なぜイエスをはじめ、多くの宗教者が、四十日間も砂漠で断食を続け、試練にさらされた後、「悟り」を開いてしまうのか、自分にはそれが不満だ、というような意味のことを書いたのをおぼえている。もし、ここに四十日間、いや、四百日間、砂漠で断食を続け、試練にさらされ、不毛な努力を続けた上で、何の悟りも得ないで、帰ってきて、それまでと同じ生活をする人がいたら、そのような人のうちにはもっと深い宗教性があるのではないか、というよりその時もうそれは宗教性というものですらなくなっているのではないか。そんなことを、漠然と、考えていた。」

 こうした言葉の後にカフカの「変身」等の文学がぼんやりと浮びあがるが、いまはそれについては触れまい。加藤はどこからみても不毛としか思われない生活の中に、「言葉にならないもの」があり、その「言葉にならないもの」の前に、それをめぐる不毛な努力がありうること、だがその不毛な努力のうちに、詩作の努力の核心があることを、中原中也の散文と詩の言葉から啓示されたことを、吉本隆明の「言語にとって美とは何か」の文庫解説に書いたと述べている。
 前段の「宗教性」の文章と呼応して、加藤の思考の中心にこれらの言葉が落ち着いてきているのは、56歳という年齢の故からもあろうが、加藤自身が中原中也の読書体験を思想として肉化しようと払ってきた、23年という不毛な努力の結果であったのにちがいないのである。
 同文にやはり、25年まえの回想がみえる。就職したての国会図書館でのことだ。
「雨が降っていた。わたしの職場の机から国会議事堂の北の壁面が見えたが、そこには雨が降ると、少し黒ずんで雨の痕が同じ形で窓の下につくのだった。自分の生が、無意味な、反復だけの労働で何年も何年も消え、すり減っていく。そしてそのことに何の意味もない。その思いを形にすると、それがいまの自分の目の前にある景色になるとわたしは思った。そういう時期、つまり、大学を終え、就職し、結婚し、子供が生れるといった時期、わたしに読めるものといっては、中也のこうした日記、書簡の言葉、詩、散文くらいしか、なかったのである。」
 さてここで、加藤の中原中也からいったん離れてみることにしたい。

 たとえば戦後まじか(1949.8)に大岡昇平が書いた「中原中也伝―揺濫」(文芸読本「中原中也」1976年所収)に目を戻してみたいのだ。なんといっても小林秀雄と大岡昇平等は、詩人の中原中也に、言葉だけではなく、その肉体に直接触れた人物達であるからである。
 大岡昇平の先の「中原中也伝」は文芸読本「中原中也」の冒頭に掲載されている。こんな文章で始まっている。
「昭和22年1月の或る朝、私は山口線湯田の駅に降りた。小群で満員の山陽線を捨て、支線の列車が緩やかにふし野川の小さな谷に入っていくにつれ、私は名状しがたい歓喜を覚えた。それは不眠に疲れた私の眼に、窓外の朝の光の中を移る美しい谷間の景色の与える効果であったか、それとも亡友中原中也の故郷の家を見るのが、あと一時間に迫ったという興奮であったか、私にはわからなかった。」
 読み出したとたんに私にやってきた感銘は、規矩正しいその堅実な文章からきたものであった。そのしっかりとした杖を手に歩くことができるという安心感であった。それは詩を謝絶した散文家の意識化された文章であった。ニーチェは「ひとが立派な散文を書くのは詩に直面したときだけだ!」と、どこかで書いていたことを思いだす。
 さらに大岡は書いていた。
「(中略)私も私で忙しいことがあるつもりであった。もっとも何のため忙しいか、中原が何のために自分が不幸であるかを知っていたほどには知らなかったのであるがーそして彼の死後十年経った今日、私に彼の不幸の詳細を知りたいという願いを起こさせ、私をこうして本州の西の涯まで駆るものが何であるか、それも私はよくは知らないのである。
 しかし私も四十をすぎて、自分を知らないことがあまり気にかからなくなった。例えば前線で死に直面しながら、私は絶えず呟いた。『未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや』。こういう不安定な心掛けで、私が戦場をくぐり抜けて来られたとすれば、どうして現在平穏な市民生活をそれでやって行けないことがあろう。あとはすべて思想の贅沢である。」
 ここには、復員兵くずれの世間への斜に構えた態度と嫌みのようなものが窺えるが、「あとは思想の贅沢」とはなんという批評のやすりがかけられた、潔い言葉であるだろうか。これが小林をそして中原中也を、今の流行のことばで言えば、ソーシャル・デスタンスを持って交わった散文家・大岡昇平でなければ、口から出てこないものであることはたしかなのである。







加藤典洋 9  ー中原中也(1)ー

 2004年刊行の「語りの背景」の「あとがき」を読むと、この本に収められた文章のほとんどが「1999年から2004年のあいだ、それほど目立たない場所に発表された」とのことである。著者の自作年譜(2019年作成)に拠れば、この本が発行されたときの著者の年齢は56歳である。2002年「新潮社より小林秀雄選考委員の委嘱をうけ」、その翌年、「明治学院大学の学部の内部事情から早稲田大学へ移ることを決める」55歳。なぜこうした年譜と著者の年齢に拘るかというと、この本の「あとがき」を上記のように書いた著者の年齢が56歳、その前後の著者の経歴に注意を促しておきたいとの思いからである。
 ここでしばし著者の人間に注目してみたいのだ。「料理法から料理の味を知ることはできない」と、著者が言っていたことを思いだし、テキストから離れて人間としての著者の嗜好や性格を知りたいとの思いが頭をもたげてきたからである。
 まずは「あとがき」に添って話しを続けてみることにしよう。
「・・・場所に発表された。しかしながら私にとっては大切な文、他に、小さな論、全集月報への寄稿、書評、エッセイなどが収められている。この時期の文章一束を晶文社の中川六平さんに『丸投げ』し、取捨選択、編集の一切をお願いしたが、しばらくして送られてきたのが、このような内容の一本だった。
 書く文章からだけ推測して、一部の人々にわたしはかなり「強面」の描き手だと思われているらしいのだが、ここに収められた大半の文章は、そういうものではない。一見したところ、尻切れとんぼのような文章が多い。あるいは、はげちょろけた芝生。わたしは「強面」というよりは「尻切れ」である。よって、この本は、わたしの真実(?)をよく伝えている。わたしをよく知る中川さんの力で、わたしの中で、自分としては好きな文章が、うまく摘み取られ、集められている。
 語りの背景、この題名も、中川さんだが、本書の性格を的確に示している。語りは舞台の上で発せられ、それなりにはっきりしているが、背景は暗い。うらびれ、茫洋としている。そして事実、わたしは暗く、うらぶれ、茫洋としており、自分の書くものの中では、こういうテイストのものが、好きである。
 人は、ものを書いたり読んだりしているが、実は、基本的には呼吸をして、ものをたべて、生きている。その、生きているという事実だけが、わたし達がアリを見下ろすときに、やってくる知見だろう。ここでわたしは、時々考えたりもしているが、あとの大方の文章では、うつらうつらとして、間抜けた風情をみせている。呼吸をし、ものをたべ、おだやかに生きている。それがわたしの語りの背景だ。アリとしてのわたしの真実である。
 2004年の心象風景―。
 そんな言葉が心に浮んでくる、つぎに何かが思い出されそうなのだが、言葉にはならない。」
 このあと、夏にカナダのヴァンクーバーに居住したときにみた、落陽の美しいことで名高い浜辺の一風景を、著者はつぎのように記している。
「(中略)。夕日が、赤くなり、いよいよ水平線の向こうに落ちかかり、最後、姿を消すまで、一時間ほどもかかっただろうか。夕日が隠れた。そのとき、背後の森からいっせいにおびただしい羽虫の群れが現われ、浮遊しはじめた。羽虫の正体は、うすばかげろう。うすばかげろうに包まれながら、急に不安に駆られ、帰り支度をしたが、あれは、いったい、何だったのだろう。」
 本の「あとがき」としては、異色と言っていいほどに、自身の心情を覗かせた文章が綴られている。
 この本の表紙を写真に撮った。帯にこんな言葉が並んでいる。
季節をなくしたいまをどう彩るか
 膝に猫、手には本、まなざしはこの世界へ
 文芸評論家のバラエティ・ブック  」

 2004年(平成16年)56歳の年譜の項の末尾から、数行を引用をしておこう。
「7月、『テクストから離れて』、『小説の未来』が第7回桑原武夫学芸賞を受賞、8月、早稲田学新設学部での英語での講義に備え、カナダ、バンクーバーのブリティシュ・コロンビア大学英語夏期講座に参加。11月、東京大学院『多分野交流演習』で『関係の原始的負荷―『寄生獣』からの啓示』と題し講演。同月、晶文社より『語りの背景』を刊行。」
 因みに、この年譜は(2019年3月記す)として、著者が病に倒れ都内病院において書かれたもので、5月16日に逝去。享年71歳であった。
 加藤典洋氏は1948年(昭和23)4月1日の生れ、私は47年で一歳しか年が違わない。私は加藤氏の突然の訃報を知らずいた。去年の5月頃、急に氏に会いたくなってツテを頼ってみたが、この時既に氏はこの世の人ではなかったのである。
 さて、本文に戻り加藤典洋という人間を追ってみなければならない。
「語りの背景」は本の帯にあった「文芸評論家のバラエティ・ブック」の趣きを呈しているのは、氏の「あとがき」のとおりである。5部構成のこの本はいかにも加藤氏の好みそうなバラエティに富んでいる。しかし、4部目の「意中のひとびと」に目を向ければ、この本は本人がいうほどに軽く扱われてよいものでないことが分るだろう。加藤氏の「意中の人」を列記すると、志賀直哉、中島敦、中原中也、三島由紀夫、橋川文三、大岡昇平、埴谷雄高、鶴見俊輔、吉本隆明、なのであり、これらの作家たちは氏にとって重要なる人々になるからである。
 ここで冒頭で述べた私の「こだわり」に立ち戻ることにしたい。
 56歳の大学教授にして、すでに「アメリカの影」の刊行から、およそ20年の文芸評論家としてのキャリアを持つ加藤氏を想像してみよう。それまでの実績と年齢からして、普通ならば著作集の一つぐらいあっておかしくはない。氏が「アメリカの影」で敬意を懐きつつ、にも拘わらず、敢えて批評の的にしぼった江藤淳氏と対照してみることにしよう。もとより、江藤淳氏は学生時代に文壇にデビューした、才能があり、実績もじゅうぶんに残した文藝評論家であり、比較にはなりようがないことは承知の上の話しだ。従って始めから加藤氏との対照には意味がないのだが、氏が56歳のとき、すでに江藤氏は著作集(1967年-全6巻と1973-全5巻)の二つを持っている。年齢は45歳と51歳の時である。二人の文芸批評家の文学、思想、心情については、それぞれ相違があることで、無意味な対照である。そのうえ、江藤氏は戦前の、加藤氏は戦後の人である。時代背景も出版文化の違いも考慮に入れなければならないだろう。愚かな比較・対照である。それにしても、余りに違いすぎはしないだろうか。特に、加藤氏の思想・嗜好は同時代の人達と比較しても、その違いは歴然としている。1980年代のポストモダン派(柄谷行人、蓮見重彦)批判、そして、1991年の湾岸戦争勃発時に、柄谷行人、高橋源一郎から田中康夫、島田雅彦までの若い文学者を中心に組織された「文学者の討論集会」の名で出された「反戦声明」に対し、この対応を批判したことで孤立、以後しばらく文藝ジャーナリズムから遠のかされることによって、それはより鮮明となったものである。だが、それ以前から加藤氏自身が身に帯びていた特異な彩りに違いがあるように思われてならない。
 ここで再度、「語りの背景」の「あとがき」に戻って、加藤氏の素直な文章を率直に読んでみよう。
「書く文章からだけ推測して、一部の人々にわたしはかなり「強面」の描き手だと思われているらしいのだが、ここに収められた大半の文章は、そういうものではない。一見したところ、尻切れとんぼのような文章が多い。あるいは、はげちょろけた芝生。わたしは「強面」というよりは「尻切れ」である。よって、この本は、わたしの真実(?)をよく伝えている。わたしをよく知る中川さんの力で、わたしの中で、自分としては好きな文章が、うまく摘み取られ、集められている。
 語りの背景、この題名も、中川さんだが、本書の性格を的確に示している。語りは舞台の上で発せられ、それなりにはっきりしているが、背景は暗い。うらびれ、茫洋としている。そして事実、わたしは暗く、うらぶれ、茫洋としており、自分の書くものの中では、こういうテイストのものが、好きである。」

 この文章の背後から、一人の詩人の像が浮かび上がってくるのを、私は抗することができないのである。その詩人とは、加藤氏のほぼ二十代の全期間の精神活動に影を落としていた、あの中原中也であることはいうまでもない。



語りの背景



 
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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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