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「敗戦後論」と加藤典洋の死

 3月11日夜、横断歩道を自転車で渡っていた私は、88歳のタクシードライバーに右横から激突された。倒れた私は奇跡的に右手の骨折のみの負傷であったのが不思議でならない。左横にそのまま倒れていたら、頸椎か悩をやられたにちがいなかった。パリの路上でもそうだったが運転手が来るまえに私は達磨のように起き上がる糞意地があるのだ。まだ右手でお箸が持てず、3ヶ月をすぎたいまも五本の指に痛いような痺れがありキーボード操作がうまくいかない。私の視界にそのまま突き進んで来る車体を見たそのとき死を意識したが、どうした加減か右手のみで自転車ごと倒れる自分を支えたのだ。ドライバーは私が自転車の下から数人の手助けで起き上がらせられて歩道に避難し、救助をされるまで私の前に現れることはなかった。老体を動かすのにそれほどの時間を要したのであろうと思われる。横断歩道の自転車専用レーンはいちばん右側にある。私が自転車ごと車の前進をブロックしてなければ、歩行者の幾人かが車に巻き込まれていたに違いない。周りの歩行者の悲鳴が聞こえた。いまでも横断歩道で車を私は正視することができない。たしかにPTSDは時を経てやってくる。
 さて、加藤典洋という文芸評論家が先月亡くなった。彼は日本の敗戦という大事を、50年の年月を経た1995年に、「敗戦後論」として現わした。一国の戦争による敗戦の体験を正面から受け止めるには、それほどの時間を要するのだ。アメリカを中心にした連合国によるいわゆる「東京裁判」を経てA級戦犯として7人が処刑され、戦後憲法が発布され、わが国の在り方は根本的に変革された。この一線を境に、この国はどのように変り、変らされたのか。それを加藤は戦前と戦後の知識人の動向に焦点をあてることにより、あるネジレが生れ、それが現在も続いていることを説こうとしたのである。加藤は文芸評論家である。加藤以前にも1945年の戦争体験を歴史的にあるいわ政治的に問題にした作家や学者は多くいる。だが加藤典洋ほどにそれを戦後の思想や文学の深部に水鉛を下ろして、そのネジレが日本という国の身体と精神をいかに歪曲してきたかを証明しようとした人間はいないのではないか。昭和40年代から東南アジアの海へ潜ってきた私は海の中に、日本人の死者の不気味な声と霊力に引き摺られる体験が加藤の論説を直感的に身体で感受する用意が整えられていたのだろうか。でなければ雑誌の「敗戦後論」が私に与えた衝撃の深度を測り知ることはできないのである。
 「敗戦後論」の冒頭は小学校時代の子供たちの相撲大会の話しからはじめられている。それをここに引用しておきたい。
「わたし達の学校代表が土俵際につめられ、踏ん張り、こらえきれずに腰を落とした、と、うまい具合に足が相手の腹にかかり、それが巴投げになった。そのとたんに、何が起こったか。わたし達の学校の生徒が一斉に拍手してはやし立てた。一瞬のできごとだった。相撲は柔道に代わったのである。
 その勝負がどういうものだったかも、わたしは忘れている。何にしろ、小学校を5階変っている。記憶がはっきりしないのだ。でも、一瞬、あっと思い、次の瞬間他の生徒と一緒に拍手した。その時の後めたさを忘れられない。その後、しばしばわたしはこの場面のことを思い出すことになった。「あれだ」、と。
 一九四五年八月十五日。わたしはその時生れていないが、後で、勉強してやはり思った、「あれだ」、と。
 そういうことがよくある。最近そういうことがなくなった、ということでもない。以下を記すに先立ち、この戦後の思い出を、何かの心覚えに書きつけておく。」
 下線の一文は今回私がつけたものである。依然としてこうした光景がこの日本では日常的に見られると思うからである。私は一方的に受け身だけでいられない依怙地な精神の持ち主のため、一時加藤の論に反駁する「戦後私論」を書こうとしたことがあった。それは先の戦争体験にもかかわらず、戦前も戦後も一貫して不動の姿勢で文学活動をした谷崎潤一郎を論じようとしたのであった。それは「アウトサイダー」で一躍世界に躍り出たコリン・ウイルソンが「敗北の時代」により「現代文明の病根をついた」(丸谷才一)ように、世界の負の精神的潮流に逆らい生の肯定を意図したものであった。加藤とて自虐的に敗者の意識に執着したわけでは勿論ないことは、「敗戦後論」の冒頭のエピグラフに「きみは悪から善をつくるべきだ。それ以外に方法はないのだからね」という正への志向を掲げていることからも了解できることだ。だが日本の戦後の思想的潮流は、その負性をゼロの地点へ戻すには並大抵な知的努力では済まなかったのである。ここに、加藤典洋というユニークな文芸評論家が活動しなければならなかった時代性がある。その活動の領野が余人の想像を超える多様性にあることは驚くべきものがあることは言を俟たない。例えば、「耳をふさいで、歌を聴く」(2011年)の音楽への傾倒に目を通してみれば如実にそれは見て取れることだ。あるいは仏語の翻訳小説「マネイズマネー」に、村上春樹の文学へのアプローチに、アニメーション映画に、小林秀雄、吉本隆明、鶴見俊介、江藤淳への傾倒摂取の高度と深度に、加藤の広大な感興の驚嘆すべき領域を眺められるだろう。あと十年も生きることができれば、一身にして三世を経たとも称すべき偉業の達成もあり得たことを想うと、加藤典洋氏の逝去は余りに早すぎるものであった。邁進努力の熱情がいかに凄まじいものであったか、思いもはんばに過ぎて、私の魂を痺れさせて止まないのである。




「フランツ・カフカ」再考

 それは二度と覗きたくない過去の扉だ。扉の向こうに孤独なカフカがいる。「私はフランツ・カフカのように孤独だ」と独白するカフカその人が、黒い眼を光らしてベッドに臥している。この純潔で厳しい芸術の探求者がボヘミヤ王国プラハ労働者災害保険局で働きながら「夜のなぐり書き」と自ら表した作品と日記・手紙・覚書を読んだことがある。若い私は徐々にある衝撃をうけていたのだが、それがどのようなものであったかを今もって吟味することができない。樽の底がぬけ、身体がバラバラになり、底なしの淵へ墜ちる読書体験でありながら、その体験の正体をつかむことができないのだ。青年期には特にそうだが、一冊の書物がその人間の一生に決定的な影響を与えることがある。そんな時期に書いたと思われる一篇の寓意の作品をここに載せておきたい。これは私が27歳の時に、最初の「作品集」である「孤塔」に編入した作品の一つである。1912年に、カフカが書き、彼の人生を決定した「死刑宣告」と「変身」の散文に較べ、たぶんに抒情的な「散文詩」と言ったほうがいいにちがいないのだが。
 「孤塔」から15年後、第二詩集となった「海の賦」にはカフカの翳は一見拭い去られたようだが、詩「向日葵」にはその傷痕は残っていることは否定できない。私は私の「海」という自然とエロチックな関係を結んだ故に「現実」との想像的な和解をすることの可能性を知ったのだ。親切にも私の詩集「海の賦」の出版記念会の労をとってくれた一女性から、どうして「恋愛詩」のようなものを多く書くのですかと、尋ねられたことがある。戸惑った私は「恋愛をしているからですよ」と、彼女を煙に巻くいがいなかったのだ。カフカの影響からの寓意的な「散文詩」とは別に今回、詩集「海の賦」の「喜遊曲」という一篇の詩を載せる誘惑に抗することができなかった。
 ついでに、1995年に刊行された「若き日のカフカ」(クラウス・ヴァ-ゲンバッハ著)の読書が、ふたたびに私をカフカに向かわせることになった。カフカが育ったプラハを、結婚25周年記念の東欧4か国旅行で妻と訪れた際に、カフカの家へ行ったことがあった。すでに「カフカ記念館」となっていたその家は私を失望させたが、クラウスの本はこれまで読んだカフカ資料の中でも出色のものであった。裏表紙に記された一文は、この本の要点を簡潔に紹介してあるので、ここに引用することを赦されたい。
「『書くこと』と『生きること』とが独自の緊密な統一体を作っているカフカの文学。それゆえに、作品を読むことが、必然的にカフカの生の探求へと私たちを誘うのだろう。幼年・青年時代に決定的な影響をあたえた『父親』の意味、対父親関係の延長としての外界との関係、プラハという独特な都市の環境、とりわけ、公用語でありながらその貧しさを露呈するプラハ・ドイツ語の位置づけ、カフカにとって1912年という年のもつ決定的な意義・・・・親友マックス・ブロートの手になる唯一の伝記の空白を埋め、渉猟の限りを尽くしてカフカ文学の原郷に迫る」
 なお、若きカフカが現象学のフッサールの師、ブレンターノ、詩人のホフマンスタールの「詩についての対話」へ特別な興味を示し、ゲーテとフロベールを熱心に読んでいることを、このクラウスの本から知ったことは、カフカを改めて振り返ることに有益であったことを最後につけ加えておきたい。
 また、故人となられた作家の辻邦生氏が、単行本「黄金の時刻の滴り」の中で、カフカを題材にして「黄昏の門を過ぎて」という短編を書いていることを、思い出したのだが、そのなかにこんな文章があった。
「私は真剣に仕事をし、同時に仕事のなかに地獄を感じています。どちらか一方ではなく、相反するものが同時にあるところに人間の悲劇がありますね。」



   若き日のカフカ    詩集 詩集「海の賦」と「孤塔」

         カフカの家切符 カフカ記念館切符


 
                                                                
 私は蜘蛛の巣です。主人は私を残して失踪しました。私はその主人の気持ちが分かります。こうした私たちの生活に主人は厭になったのにちがいないのです。私とていまは憐れな姿を風にさらしていますが、主人のいた頃はもっと生活に張りのある、緊張した日々を送っていたのでした。主人は軒下の奥まった隅に身を隠し、来る日も来る日も私の動静に眼を光らせ、すこしでも私の身体が震えると、あわてて飛び出してくるのでした。そのひたむきな主人を落胆させまいと、私は誠心誠意の努力を尽くしてまいりました。でも不運つづきだったのです。幾日も力いっぱいに張られた私の身体に、小さな羽虫一匹、かかりはしませんでした。それでも主人は、痩せたからだを暗い軒下にささえ、今かいまかと待ち構えていたのでした。このときばかりは、私は蜘蛛の巣であることに胸を撫で下ろしたことはありません。待たなければならぬ、そして、それが生活のためでした。でも主人にはそうした生き方しかなかったのです。主人をみた私は狼狽しました。暗い湿り切った軒下の隅で、じっと待つことしか知らない主人の姿は、憐れでさえあれ、気高く美しくさえあったのです。私はその有無の言えぬ、真剣さに衝たれ後悔をしました。一心に思いつめている主人ほど美しいものは他にはありません。たとえその思いつめたものが、生活のための一匹の虫けらにしたところでです。私の胸に熱いものが流れ、そのとき私は主人を心より愛しました。主人のためならどんな努力もしよう、そう思う私の身体に、夏のふくよかな夕暮れの風が吹き通っていきました。西陽がうっすらと地平線を茜に染め、いつも感嘆のため息をする私も、そのときは主人のために祈りさえしていたのです。
 日が西に落ち、あたりが暗くなりはじめると、あちらこちらの台所から夕食の支度の音が聞こえ出します。私がなにをさておいても一番に気を引き締めねばならない時刻でした。小さな蛾が垣根のあいだから、まるで白い粉を撒いたように一斉に飛び出し、私のからだのあたりを浮遊するのでした。私は主人の様子をうかがいました。主人はこころもち腰をあげ、すぐにも飛び出そうという姿勢で待機しているようでした。その主人の姿に感動した私は、今日こそはと息を殺しました。それ以外私になにができたでしょう。
 私の使命は、一旦私の広げたからだにかかった獲物を逃さぬよう、その敵の力の強弱に応じて、自在にからだの一本一本の糸を緩めたり締めたりすることなのです。どっちにしろ、主人も私もたゞ待つことだけが生活だし、その生活をどれほど続けてきたことでしょう。すでに昏れきった夕闇を、こんもりとした垣根のあいだから、数匹の蛾がふわりふわりと白く舞いあがり、互いに戯れ合い、右へ左へと飛び散っていくのでした。その白い蛾の典雅な錯乱、幻影ともいえる狂乱は、いつしか私に主人と私の生活を忘却させ、使命を怠り、私の糸の一本一本をたるませていることに、私は気がつきませんでした。一匹、二匹と蛾は私へと近づいては遠ざかり、遠ざかってはまた近づくのでした。白い阿片のような強い誘惑! 朦朧とした私のあたまへ、そのとき悪魔がなにか囁いたにちがいないのです。幾ら待っても私のからだに舞いこんでくる蛾はいなかったのです。私は焦っていました。主人は私以上に焦っていました。その主人の焦燥は真暗な軒下の隅から私のからだへと伝わってくるようでした。主人は疲れ切っていました。自分の身体からとり出した透明な粘液で私を作りながら、もう何日もなにひとつ食べてはいなかったのです。主人がいなくなったとき、この私という存在は何者でしょうか!
 ・・・・そのときでした。突然一匹の蜘蛛の執念に誘われたように一匹の蛾がものの見事に私の罠にひっかかったのです。蛾はじたばたもがき逃げようとしました。もがくたびごとに私は、その蛾の長い触角や華奢な肢足に、私の糸の一本一本を巻きつけてやりました。しかし、蛾は執拗に間歇的な抵抗を繰り返し、白い粉を闇のなかへ振り撒くのでした。私は主人のほうへ振り仰ぎました。既に主人は隅から這い出し、蛾の抵抗を見つめていました。主人は予想以上に衰弱しておりましたが、眼だけ異様に耀き沈んでいました。既に勝利を得たかのように落ち着き、あとは時が来るのを待つだけといった様子でした。主人の痩せた背は月光に照らし出されて黒く光り、あとは鮮明な影の中に消えていました。その熱っぽく不気味な影の底に、私は主人の苦悩が澱んでいるのだと思いました。その時、私のからだに一瞬暗い底知れぬ嫌悪が蛭のように吸いついたのです。一匹の昆虫の苦悩、その生活の果てもない苦しみ、私のからだは恐ろしい勢いで怖気震えました。そのとき私は見たのです。誰も逃れようのない獄舎と、その囚人の生活とを。
 そうして私の運命は決定されたのです。
 執拗な抵抗を繰り返していた蛾は、最後のありったけの力で、私を打ち煽ぐと、私のからだに途方もない穴をあけて、銀白の鱗粉を夜空に撒き散らして逃げ去ったのです。不実無常の洞、虚ろなる廃墟。同時にその夜から私の主人は姿を消してしまいました。私に残されたのはたゞ死だけです。私は風にそよぎ、雨にうたれ、それでも昼の月のような悲しみは、烈しい太陽の光りに反射し、あくまで濃く深い蒼空と一体になるのです。



       喜遊曲

上野の杜の青い空を

白い雲が動いている


ぼくは聴く 喜遊曲(ディベルティメント)

やつれはてた おまえの

悲しい微笑が過ぎていくのを


飛びたつ鳩の羽音

やさしく舞い


影さえもほのかに光る

春の夕暮


われらが人生の 二分のニ拍子


屈託もなき

屈託もなく





文芸批評家の想像力(加藤典洋の場合)

  以前に小説家の想像力について述べてことがあります。今回は、この小説家とその作品を主に論じる文芸批評家という人達へ焦点を当てることにします。彼等も作家と異なる方法から想像力により文章を書いているのでしょう。では彼等は一体どういう存在なのでありましょうか。江藤淳という批評家は「小林秀雄」を論じた批評文の冒頭で自分へこうした疑問を放っています。江藤淳は小林氏が「自覚的な」批評家であると指摘します。自覚的とは自分の仕事を「自身の存在の問題として意識している」ということだそうです。江藤氏が批評家を論じるにはまずこの了解の一歩が必用だった。一般的に批評家の想像力はここを起点に始まるのですが、特に小林氏を論ずる場合は、ここに焦点をあてる必用を感じたのでしょう。
 詩人も作家も画家も、それなりにすぐれた仕事をする人には、その人の側には必ず影のごとく立っているのがこの「自覚的」という意識であります。なぜなら、創造的な仕事というものは、この影との内的な対話を通じて現れるからです。文芸批評家が働かす想像力は、作家や作品だけではないのですが、作家を論じる場合には作家自身の内的な対話から、あたかも医者が手術に際して患者の身体にメスを入れるように、その作品なり作家の内部にわけいることから、彼と作品を見ます。場合によっては麻酔薬を注射して作品を仮死体にして、そのからだを解剖することで、作品を内側から照射して新たによみがえらせることさえ行います。江藤淳の「成熟と喪失」は60年代の一連の作家の作品にそうした方法で、鮮やかな光りをあてたと言えるでしょう。
 或いはまた、こうした方法を拒否して作品というテクストを作者から切り離して、「エクリチュール」(ロラン・バルト)という独特な言葉を使い、「テクスト」に基づいて想像力を行使することでの批評を展開した例もありました。バルトは日本に来て「表徴の帝国」という日本論も書いて、華麗な批評活動を展開したのです。
 日本の加藤典洋という批評家は、「敗戦後論」で日本の戦後を論じました。敗戦の前後に日本の根幹に関わる問題をみたからです。こうした一連の日本の戦後論を、「戦後入門」としてまとめた一書を最近に刊行しています。また「村上春樹は難しい」という新書を出しています。この批評家が村上春樹に注目したのは、戦後間近に中村光夫が「占領下の文学」で当時の文学を論じたように、「高度経済成長下の文学」として村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」の新しさを評価したからです。気分がよくてどこが悪いというメッセージをこの小説に看取したからだと加藤自身が述べています。この批評家の想像力は右を見るときに、左も同時見る複眼性とこれらを反転させる手法に特色があります。加藤氏はカフカの「世界と私との戦いでは世界を支援せよ」というフレーズに惹かれているのですが、このカフカ独特の二重性とその逆転は、そのまま加藤の「敗戦後論」の批評の想像力に援用されています。氏はあるところでエドガワ・ア・ランポーの短編「ヴァルドマアル氏の病歴の真相」の異常な結末に快感を覚えたことを告白しています。このポーの短編は死の瞬間に催眠術をかけられ、そのまま生と死とあいだに宙づりになっていた仮死体が催眠術を解かれた瞬間に、みるみると異臭を放って腐敗していくのですが、このところにえもいわれぬ快感を覚えたと述べています。長い詩なので引用はできませんが、金子光晴の詩に「大腐乱頌」という作品があります。あの詩も加藤と同じ快感を詠ったものかも知れません。腐敗は特段に負のイメージだけではない。腐敗することにより物質はその隠れた味覚を引き出されるプラスの面もあるのです。人間は歳を重ねて成長していきますが、ある時点から老化に向かいます。現在、日本人の大多数の高齢者はそうした経験をしています。そのことを自覚的に書いた最初の小説は谷崎の「鍵」や「瘋癲老人日記」でしょうか。加藤典洋という批評家の想像力はポーの短編やカフカのフレーズに牽引されています。それと同質の想像力から、日本の敗戦とその後の成長という歴史的経験を探ろうとしました。1995年の「敗戦後論」は(それ以前の著書「アメリカの影」もそうです)、明治維新から120年を経た日本の近代が敗戦により一旦死んだ状態から戦後が始まったのですが、日本人がその戦争における内外の死者を正式に弔うこともできないままに戦後50年を生きてしまった。特に、戦勝国のアメリカとの関係にいろいろな問題を指摘しています。
 ここですこし横道にそれますが、あのカフカの「変身」は日常の中の異常と同次元での異常の中の日常を書いています。セールスマンをしていた家族の一員が、ある朝気懸かりな夢から起きてみると、自分が巨大な毒虫に「変わり身」(多和田葉子の翻訳はカフカの作品理解に寄与してくれます)をしていることを発見する。しかしこの男はその朝も会社へ出かけようとするのだが巨大な虫になってしまった身体は以前のように自由に動いてくれず、自分の部屋から出ることもできません。このグロテスクな光景を家族がそして会社の上司も知ってしまい、一騒ぎになるといういわゆる変身譚の小説です。ただカフカのこの小説は単に読者の意表をついただけなら、この小説が同時代に異彩を放つことはなかったのです。そのような物語はたくさんにあったのですから。カフカの文学の独自性は、それが日常の時間性を特別に変化させることもなく進行するところにあるのです。これはフッサールという哲学者が現象学で行ったことに対応するでしょう。カフカは自分が書いたこの小説を妹たちに朗読したところ、妹たちは大層笑ったそうであります。
 加藤氏に話しを戻せば、死んだはずの日本が、ポーの短編のように催眠術にかけられ仮死体となり、氏はその腐臭を、神戸淡路大地震と地下鉄サリン事件が起こる以前から嗅いでいたことを、あの評論は表現していたかのようです。そしてそこから、カフカの「変身」の主人公グレゴリー・ザムザが自身の身体のねじれに抵抗するように、日本というねじれた身体へ投影し、このままでは腐臭を発しつづける仮死体の日本の異常性を、新たな場所から出発させることはできないと考えます。そして憲法9条を改正する提言を行っています。なかなか大胆な意見だと思いますが、もちろん異論がないわけではありません。それは国連中心的な政治姿勢にあるでしょう。現在の国連が多くの国民国家の混乱に対処できずに機能不全に陥っていることは明白です。ところで、この国連の発想は(現在の欧州共同体もそうですが)、フランス的な知性を代表するつぎに紹介する人物にその一端を負っています。
 ポール・ヴァレリーという哲学的な批評家は文学一般から目を背け、海辺に落ちている貝殻という自然物についての、精密かつ精妙なる「人と貝殻」のようなエッセイを書いています。この二十世紀の知の巨人の想像力は、自然が創りだしたえもいえない完璧な美的作品に透徹した知的な想像力を働かせます。「一体誰がこれを作ったのか」と。この素朴の疑問は芸術の制作物へと広く深く浸透していくのですが、斉藤磯雄の日本語譯の努力にもかかわらず、その文章の理解には難解なものがあります。ここでヴァレリー自身のことばを一個の貝殻を机上に置いてみるようにしかこのエッセイを紹介することはできないのが残念です。この写真の貝殻は伊豆のある温泉で食卓にでたばい貝ですが、私はそれを家に持ち帰り写生しながらその自然の形と文様に驚嘆してしまいました。ヴァレリーの文章は一個の貝殻を模写する画家の筆が執拗にたどるその線や陰影のごとくに、繊細にして強靱であります。いったい人間に何ができるのかと呟く、ヴァレリーの若き日の作品「テスト氏」が、一切の曖昧なものを拒絶する身振りをそれは思い出させます。件のエッセイの一部を引用することでひとまず、「テスト氏」のあの孤独な部屋から足音も立てずに引き下がる語り手のように、わたしもこの場から退場することにいたしましょう。

 「貝殻の問題はささやかなものながら、こうしたことのすべてをかなりうまく例示し、わたしたちの限界を照らし出すのに十分である。人間がこの物体の作者ではなく、偶然がこの物体に責任をとるわけではないので、わたしたちが『生きた自然』と名づけたものを、きちんと発明する必要がある。『生きた自然』の仕事とわたしたちの仕事との差異によって、かろうじてわたしたちは『生きた自然』を定義できる。だからこそ、わたしは人間の仕事とはどういうものなのかを少し正確にしなければならなかったのだ。」

 さて話しを本題に戻し、加藤典洋の場合をさらに敷衍しなければなりません。しかし「敗戦後論」以降、氏の想像力はその後に起きた人災(東日本沿岸部の「原発事故」)。そして自然災害(「東北大地震)を飲み込んで拡大・深化いたしました。多数の著作が書かれています。それらに一々応接するゆとりはありませんが、二0一六年の夏から秋にかけて出された三冊の本「言葉の降る日」「世界をわからないものに育てること」「日の沈む国から」の三冊の、その最後の本から、「『戦後』の終わり」と「『災後』のはじまり」へ加藤が複眼的な想像力をはたらかせている。特に、映画(「ゴジラ」や漫画(「鉄腕アトム」等)のビジュアル系から読者へ働きかけることで批評の視界を広げ、このふたつの文化アイコンの一対を聖書のヨナに仮託して未来へ結びつけようとの努力は示唆に富むものと思われた。一九七十年代に、パラオやペリリュー島など、東南アジアの島々でダイビングをしていた経験から、実体験的に共感できる部分があったことを、激戦地の草地にうずくまった赤さびた戦車の残骸や不気味に静まり返る洞窟を覗いた記憶と共にここに書きつけておきたい。



貝縮小




小説からの序章

 ちくま日本文学全集の全50巻の中に「川端康成」がある。最近まで、この本に「山の音」が収められ解説を須賀敦子が書いていることに気づかないでいた。また解説の表題が「小説がはじまるところ」とあり、その内容にとりわけ興味が惹かれた。須賀さんが日本の小説の解説を書いているとはめずらしい。私が「山の音」を読んだのはこうした経緯があったからである。「山の音」は戦後の日本の荒廃の只中で多くの友人等を喪い、50歳を迎えた作家川端の死への意識が色濃く作品へ反映していることは明らかであろう。いやそれだけではない。川端の文章は日本の伝統文学を踏まえたもので、翻訳文化に漬かった私のあたまに容易に入りがたいものがあった。およそ川端の小説ほど西洋的な小説観から遠いものはない。
 ここで試みに比較的に筋目のある冒頭の数行を引用してみよう。
 「尾形信吾は少し眉を寄せ、少し口をあけて、なにか考えている風だった。他人には、考えていると見えないかもしれぬ。哀しんでいるように見える。
 息子の修一は気づいていたが、いつものことで気にはかけなかった。
 息子には、父がなにを考えていると言うよりも、もっと正確にわかっていた。なにかを思い出そうとしているのだ。
 父は帽子を脱いで、右指につまんだまま膝においた。修一は黙ってその帽子を取ると、電車の荷物棚にのせた。」
 これが会話の文になると次のような調子となる。長くは引用できないが、ここに出てくる一見抽象的な語彙に注目していただきたい。
「閻魔の前に出たら、われわれ部分品に罪はごぜいません、と言おうという落ちになった。人生の部分品だからね。生きているあいだだって、人生の部分品が、人生に罰せられるのは酷じゃないか。」
「でも。」
「そう。いつの時代のどんな人間が、人生の全体を生きたかというと、これも疑問だしね。・・・・(後半省略)」   
 この「人生の部分品」と「人生の全体」という語彙が、川端の会話文ではとても納まりがわるく、いったい何を言いたいのか判然としない。まず人間の「人生」を「部分品」と「全体」とに区分して、「部分品」に罪はないとか、「人生」の「全体」を生きるとかという議論を、ひそかに心を寄せている息子の嫁である菊子(俳優:原節子)と彼女を病院へ送る途中で交わす会話に持ち出す主人公の尾形信吾は、どこかにおかしなものを抱えた人間なのではないかという疑いが兆すのを抑えることはできない。
 国が敗れたということより、たとえば親しい友人の横光利一に先立たれた衝撃は川端になにものにも代え難い喪失感を与えたに相違ない。それは昭和23年1月に書かれた横光への弔辞に強く刻印さている。
「横光君
 ここに君とも、まことに君とも、生と死とに別れる時に遭った。君を敬慕し哀惜する人々は、君のなきがらを前にして、僕に長生きせよと言う。これも君が情愛の声と僕の骨に沁みる。国破れてこのかた一入木枯にさらされる僕の骨は、君という支えさえ奪われて、寒天に砕けるようである。」
 私はここまで書いてきて、とんでもない誤りをしていることに思い至ったことを告白しなければならない。それはこれまで私が書いていたことと反対のことを表明することになるだろう。 
 それは冒頭に引用した川端の文に戻って考え直すことになる。即ち、主人公の尾形信吾に添ってこの小説を読み直すことである。それは考えることがなにかを思い出すようにすることなのである。
 私は川端が30代に書いたあの有名ともいえる「末期の目」を思い出した。すると引用した会話の文への理解が広がるのだ。あの「末期の目」の想念から判断すれば、死の世界と生の世界が境をなくして隣接している幻のような世界からみると、「部分品」はそのまま「全体」となりその逆もまた真だということが不思議でなくなった。もともと「生」と「死」が交錯する場所が、川端の末期の目に見えた「人生」なのだからだ。

 ここで先述した須賀敦子の解説「小説のはじまるところ」に、目を転じてみたい。この短い解説には、ノーベル賞を受賞した川端が夫婦でイタリアに立ち寄り夕食のテーブルをかこんでの会話に、川端が須賀へ語ったエピソードが書き留められているので、少し長いがそれを引用したい。
「食事がすんでも、まわりの自然がうつくしくてすぐに立つ気もせず、スウェーデンの気候のこと、あるいはイタリアでどのように日本文学が読まれているかなど話しているうちに、話題が一年まえに死んだ私の夫のことにおよんだ。あまりに急なことだったものですから、と私はいった。あのことも聞いておいてほしかった、このこともいっておきたかったと、そんなふうにばかりいまも思って。
 すると川端さんは、あの大きな目で一瞬、私をにらむように見つめたかと思うと、ふいと視線をそらせ、まるで周囲の森にむかっていいきかせるように、こういわれた。それが小説なんだ。そこから小説がはじまるんです。(中略)。わたしはあのときの川端さんの言葉が気になって、おりにふれて考えた。「そこから小説がはじまるんです」。なんていう小説の虫みたいなことをいう人だろう、こちらの気持ちも知らないで、とそのときはびっくりしたが、やがてすこしずつ自分でも書くようになって、あの言葉のなかには川端文学の秘密が隠されていたことに気づいた。ふたつの世界をつなげる「雪国」のトンネルが、現実からの離反(あるいは「死」)の象徴であると同時に、小説の始まる時点であることに、あのとき、私は思い到らなかった。」
 イタリアの詩人たちを紹介する詩を愛する須賀敦子という女性の川端文学を理解しようとする、行き届いた聡明な日本語は快いばかりといってよいだろう。
 ここには上質な日本語の品のよい佇まいがある。谷崎原作の映画「細雪」をむかし見ていて、四姉妹が京都の八坂稲荷神社の境内の桜をみてのそぞろ歩きでの会話のえもいえない言葉の美しさに、思わずなみだが流れたことがあるが、それに通じるものがここにはあるのだ。それはとにかく、「山の音」にはそうした風景の描写も哀切な会話もない。川端は自分の文学を「奇術師」と呼ばれて「ほくそ笑んだ」らしいが、そうした変身の妙から伝統文化が戦争の惨禍により破壊された日本の戦後の現実を、鎌倉に住む一家庭の荒廃した構図のうちに描こうとしたらしい。
 さて、昭和二十年の中盤に書かれた「山の音」から二十数年を経た、昭和四十年代の世相を背景に田舎から出てきた一青年が、電車の棚に爆破装置を置き、死傷者を出した刑により死刑判決をうけるまでを描いた小説「風の吹き去るもみ殻」(工藤嘉晴著・牧歌舎発行)に目を移してみることにしよう。偶然にも、青年が爆発物を置いた電車は、「山の音」の尾形信吾の帽子を息子の修一が網棚に乗せた同じ横須賀線であった。昨年に自費出版されたこの小説さえ、いまから五十数年のむかしを時代背景としており、日本の戦後はここに70年が経過していることになる。
 小説「風の吹き去るもみ殻」の時代背景はミニスカートブームと東大安田講堂事件から、昭和44前後。主人公は花笠音頭で知られた山形県尾花沢から東京へでてきた中卒の若末善紀という若者である。なかなかの野心家で周囲から「何考えているか分からない『インテリ大工』」ということになっているのだ。
「生活がそれなりに安定してくることと裏腹に憤懣が募っていった。性格的には常に現状に満足出来ないものを抱えていた俺は、いつも苛々していた。」
 こうした若者が頻発する爆破事件に刺激されて猟銃を趣味にし、勤めている工務店の工事部品から爆発物を作るにいたるという筋には、特に変わった趣向があるというわけではない。作者は事件の事実に忠実になぞることにある種の義務感を覚えているかのごとくである。
 この本の帯に、「思わぬことから列車爆破事件を起こしてしまった青年の心の葛藤をその生い立ちからつぶさに追うセミ・ドキュメンタリー」とある。しかしだ。実際にあった事件を材料に作者の書いたものは、単にこの帯でいう「セミ・ドキュメンタリー」にとどまるものではなくなっている。主人公の若末善紀が事件を引き起こすまでの顛末が、ドキュメンタリーの域を遙かに越え、生々しく細部が活写されており、ここに小説家の想像力が働いていることは明瞭であろう。だが作者の筆があまりに主人公に密着くしてその細部に拘っていることから、読者の自由に掣肘を与えているの批判がでることも否定できないだろう。東京拘置所での生活が始まるまでに、およそ小説全体の5割を越える分量が若末善紀の行状に割かれているのである。それほどまで筆を割く必要が作者の方にあったとしても、たいていの読者はどこか自己中的な特異な体質を持ったこの青年の過度な描写に息をつぎたくなるのもたしかで、軽薄短小な現代読者は途中で読書を中断する可能性もあり得るだろう。特にあの高度経済成長下の昭和40年代ならいざ知らず、経済の限界が取りざたされ、世界同時不況と所得格差であえいでいる一方、情報機器からの大量な情報の波にさらされている都会生活を送る多数の読者層、例えば村上春樹的な小説の嗜好者にとっては(加藤典洋の「村上春樹は難しい」という読み方もあるが)、この小説の主人公には、即いていけないものを感じるのではないかという危惧を払拭できないのである。
 それかあらぬか、作者は壁の中での生活を始めた主人公にこう言わせている。もちろん、この文章は「上告趣意書」のことではあって、あまり変わり映えのしない前半の筋立てと、これでもかというほどに浴びせられる描写の集中砲火から、逃げ出したくなる軽薄なる読者を想定した文章ではもちろんない。
「こんな長い文章を書いたのは、5年前の〈放浪記〉以来だ。」
ここまで来て、私はこの小説の出だしの見事さに一瞬息をのんだことを想い出したのだが、その期待は延々と続く若末の「放浪記」の濁流に流されてしまったのだ。かつて小説家の太宰が苦心したという、小説の冒頭の文章を引用してみよう。
「初めは夢の中だと思った。黒い波が身を包み、軒下を塊となって通り過ぎた。」
 これはまさしく、2011年の3月11日のあの大地震と原発事故のテレビでみた映像を甦えらしてくれたのである。
 「風の吹き去るもみ殻」(以下「風」と略記させて戴きたい)の冒頭は作者の深層意識が思わず路頭したとも思われるが、あの大災害と原発の惨事は夢ではなかったのだ。川端の「山の音」(以下「山」と略記させて戴きたい)は敗戦後まじかに書かれたもので、「国破れて山河あり城春にして草木ふかし」という杜甫の漢詩を踏まえていることは既に述べたが、現在、戦後の奇跡的な復興を遂げた日本が直面しているのは、1995年の阪神淡路大震災に継いで、2011年の東北沿岸部の震災と津波による原発のメルトダウンによる天災と人災による生活と自然の破壊である。
川端が横光利一の弔辞で述べた「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」とした日本を取り巻く自然環境と東アジアの政治経済状況は、70年前の敗戦の記憶は年々に薄れゆき、東アジアの経済圏の名目GDP(中国と日本と韓国3国だけでも)の総計は、欧州とアメリカに優に匹敵している。そして、経済的にはGDPにおいて日本は中国に追い抜かれ世界3位に転落して、経済成長率は1%にも満たしていない。更に中国による南シナ海での海洋進出、北朝鮮の核開発の脅威に挟撃されている現状にある。
 小説「風」の主人公ならずとも、国民の潜在意識下の苛立ちは募り、毎日のように頻発する殺人事件に次ぐ爆破事件、小説「山」に兆した家族の崩壊と超高齢化社会での認知症患者の増加はマスメディアを賑わしている。
小説「風」の主人公が拘置所で「上告趣意書」を黙読中に、鉄窓から聞いたヘリコプターの騒音は、昭和45年11月の三島由紀夫の市ヶ谷自衛隊基地への乱入と直後の割腹事件の当時の空気を取り込む小説の一技法なのであろうか。
ともかく「風」の若末善紀が、東京拘置所の中に入り「上告趣意書」を書くにつれて、全体の5割超のそれまでの青年の若末と異なる成長は目を見張るものがある。いや、前半の長い若末善紀の青春の彷徨はこの成長へのスプリングボードを作者は意図し、その準備段階としていたとしても不思議ではない。文章も無駄な力がぬけ、逃避行の疲れも手伝ったように素直な日本語となって、よりなめらかに一語ごとに粒立ってくるのがわかる。それは前半での若末の逮捕に近づくにつれて一層に顕著になっている。
そのまえに読者がごく自然に共感できるところは、若末の逃避行中で故郷の実家へ向かう道中を描いた文章だろうと思われる。ここでは若末に冬の日本海のように現れるものは、他人との共生感に相違ないからだ。ここでは「お前ってヤツはそういう男なんだよ。他人が嫌いなんだよ。特に自分という他人がサ!」と力こぶを入れる必要もなくなっている。そして最後に工務店の社長との車中での会話が若末のこの娑婆での最後となるのだが、この工務店の社長は若末の戦中に死んだ父を彷彿と思い出させる存在である。
「車は桜田門に近付いた。左手にくすみ古ぼけた警視庁の建物が現れた。近くの路上には何台もの装甲車が駐まり、正面を車止めの柵と機動隊員が固めている。建物の上には初冬の透明な空高く、微かに夕焼けの残照が残っている。(中略)若末はこの道順が好きだった。ここを通るといつも気持ちがスッキリとした。中心にいるという喜びが自然に湧き上がり、ある高揚感に包まれた。」
やがて新潟出身の社長の声が若末の耳に聞こえ出す。そしてこんな一言がその社長の口から漏れるのだ。
「『日本は昭和20年8月15日に無条件降伏した』。少し首をねじり森を見やった。『そして次の16日から生まれ変わったことになった』。眼鏡を外し、ハンカチで顔をゴシゴシ拭うと又掛け直した。
『でも変わったのは言葉だけだった。その事を思いしらされたというより、感じまいとしてひたすら走ってきた世代だよ』。背を窓に 押し付け、運転している若末に上体を向けると、序々に声を高めた。」
 そしてこの社長の口からこんな一言がもれるのだ。
「『一番ケジメをつけていないヤツがあそこにいるじゃないか』。社長は一寸首を巡らした。若末も合わせて辺りを見回したが何のことか解らなかった。車は大手町のビル街の渋滞に巻き込まれていた。」
「『今日は楽しかったよ。色々と話が出来て。明日からは現場近くだから少しは朝寝も出来るかな。・・・それじゃ、身体に気いつけてナ』。運転席に戻ってハンドルを握りしめながら、傍らに立つ若末の顔をじいっと見た。その眼差しは寂し気でもの言いたげだった。若末は後になってよく思い出した。」
 ここまでが若末が捕縛されるまでで、つぎの段階から訴訟へと入っていく。即ち東京拘置所の壁の中である。
「山」を書いた川端がノーベル文学賞を受賞したのが昭和43年10月。その川端が逗子の仕事部屋でガス自殺を図ったのが昭和47年4月のことであった。

 「風」は後半になって知的な対話が出てくる。大まかにいえば、聖書からは「ヨブ記」と「マタイ伝」、三つ目が「マツロワヌ国」である。
ところで、川端の「山」との関連で「風」について語ろうとする本論では、こういった問題は後に触れることにして、第一に一端とりあげてみた川端の「山」にみた「人生の部分」と「人生の全体」とを復活させ、別の照明を当ててみたいのである。それというのも、「風」の後半に二審で一審の「死刑」を支持して控訴棄却をうけた若末が期限ぎりぎりに控訴して、上告趣意書所を書く段階でそれは現れるのだ。その部分を引用してみよう。
「真実の証明は俺のこの胸の中にあるじゃないかと何度も叫びたくなった。
 来る日も来る日も事実、事実と追っかけていると、目に見えるこの世界というものは所詮”半分”でしかないのではといぶかる気持ちが湧いて来た。どんなに本当らしく事実を並べても、それは俺の真実とは離れていく。」
「裁判を通じて初めて俺は世の中を知ることが出来た。その成り立ちが分かった。世の中って半分なんだ。それは最大に見積もっての話で、本当は半分の半分なのかも知れない。(中略)俺は決して自分が無実だと言っていない。ただ事実の上での罰を請うているだけだ。真実というのは全ての事実に基づいたものであるべきだろう。ただここにあるのは全部じゃない!」
 ここで若末が強調しているのは、「法廷のなかの人生」(岩波新書:佐木隆三著)のことだが、裁判の成り立ちが最大に見積もって世の中の半分からそのまた半分の事実に基づいての判断しかされないことに、若末は不条理なものを感じているのだ。しかしこれは、川端が尾形信吾に言わせている人生論と無縁というわけではない。「山」には閻魔さまが出てくるように、あの世での「裁判」でのことである。ただ若末が壁の中で感じている理不尽さは、現世の法律上の「訴訟」のことなのである。若末が述べている「すべての真実」を訴訟の場にのせるのは若末が「べきだろう」という言い回しをしていることから明らかなように、それは事実上不可能に近いのである。この辺りの問題を小説にしたのが、大岡昇平の「事件」とぃう裁判小説なのだ。大岡は「事実」と「フィクション」の関係に鋭利な拘りを持つ作家であるのは、最初の「俘虜記」にすでにその萌芽はでている。「歴史小説論」(同時代ライブラリー1990年)において、大岡は集中的にこの問題を論じている。裁判は法廷において文学と同様に真実を追究する国家制度だが、可及的に最大限の事実を俎上にのせることは理想ではあっても現実的に不可能なのである。それは所謂「ノンフィクション」という分野の小説が、その虚構性の重心を「事実」の方に相対的に置いているだけだと言ってもいい。かたや「訴訟」における「事実」は「構成要件事実を明確に主張して相手側から争われればこれを証明しなけらばならない」そのような事実だけに限定されるのである。民事でも刑事でもだいたい同じであるが、「刑事訴訟においては、被告人を処罰する方向ないしその罰をおもからしめる方向の事実については、すべて『厳格な証拠』による『合理的な疑いを超える証明』が必要とされていて、客観的な、或る意味で絶対的な証明がなされなければならない。民事訴訟の証明は、争われる程度に応じてそれを超える限度で行えばよく、その意味で相対的であり、証明の客観性も相対的な比較における『優劣の程度に対する判断の公正さ』の上に存在するだけで、それ以上に客観性を担保するものは要求されない。」のである。しかし、「刑事の裁判においては、被告人が法廷で訴因のすべてを告白して争わない場合でも、裁判所は証拠によらずに訴因をそのまま肯定することはできない。」。』(「裁判と事実認定」蓑田速夫著1996年自費出版)として、強制による自白など一定の自白を証拠から排除する法則(憲法38条2項、刑訴319条1項)を働かしているのだ。刑事が民事と比較して厳格に事実を限定するのは、その最高刑が人為によって人を殺すことから要請を受けているからに他ならない。若末が塀の中で人が変わったように知的になるのは、自由を拘束された果てにくる「死刑」が想像裡に立ち現れるからだ。作者が若末に「インテリ大工」という渾名を持たせたのは、こうした伏線を周到に張ったからだろう。
 さて、川端の小説にでてくる義父と嫁との会話は、ほんの茶飲み話ていどの日常会話と見えるが、「風」のほうは「死刑」がかかっているだけ、ラディカルな糾問口調となっている。この論法は「カエサルのものはカエサルへ返せ」という聖書の「マタイ伝」へとつながっていく問題なのだが、川端の「山」という小説のそれが壁の中の糾問と比べて、決して軽い話しだということではない。国家制度という人為によらなくても、生物としての人間にも確実に死はやってくる。川端の「山」の老境にさしかかった尾形信吾は、人間の条件では若末と同じ状況にあるのだ。壁の中の若末が「死刑制度」について一考するくだりがあるが、これもこの小説では看過できない重要な事柄だといえるだろう。

 人間の人生の実態を探り、それを想像の次元で異化することで、人生を更新する。これを散文の言葉をもってする方法が小説だとおおまかに把握しておこう。西洋のホメロスから東洋では日本の紫式部をはじめとし、現代にいたるまで世界中の作家がこの方法により多種多様な文学の世界を構築してきた。この世の様相とそこで生きる人間を描き、歴史の記述とは異次元の言語の錬金術的使用によって、文学はこの世界と人生とを刷新してきた。例えば、ジョージ・オーウェルという英国の一作家は、インドで警察官をしていた体験を元に、短編「絞首刑」で一人の死刑囚が刑場へ連れていかれる一場面のスケッチにより、現に生きている人間をこの世から抹殺する死刑制度の理不尽な光景を、どんな死刑廃止論よりも鮮明かつ直裁な照明を当てて見せてくれた。長いがその引用を飛ばすわけにはいかないだろう。
「絞首台までは四十ヤードばかりだった。私は前をゆく囚人の裸の茶色い背中をみつめた。彼は両腕をしばられているためにぎこちなく、しかししっかりと、けっして膝を伸ばさないインド人特有の例のピョコピョコした足どりで、歩いていた。一歩ごとにその筋肉はくっきりとその場所におさまり、剃り残した一ふさの髪が上下にゆれ、足は濡れた砂利の上にその跡を印していた。そして一度、看守たちが両肩をつかまえていたにもかかわらず、彼は路上の水たまりを避けてちょっとわきによけた。
 奇妙なことだが、私はその瞬間まで、一人の健全な、意識をもった人間を破壊するということが何を意味するか、一度も気づいていなかったのである。囚人が水たまりを避けるためにわきによけるのを見たとき、私は、一つの生命をそれが絶頂にあるときに断ち切ることの秘密、その言いようもない不正を見た。その男は死にかけていたのではない。われわれが生きているのとまったく同じように生きていた。彼のあらゆる器官が活動していた。―腸は食物を消化し、皮膚は新陳代謝し、爪はのび、組織は形成されーすべてが厳粛な愚かしさの中に営々とはたらいていた。その爪は、彼が踏落とした板の上に立ったときにも、十分の一秒の余命をもって空中を落下してゆくときにも、まだ伸びているであろう。その眼は黄色の砂利や灰色の塀を見、その脳はいまも記憶し、予見し、推理したー水たまりについてさえ推理した。彼もわれわれといっしょに歩き、同じ世界を見、聞き、感じ、理解していた一群の人間であった。それが二分後には、突然バタンといったと思うと、われわれの一人が消えてしまうー一つの精神がなくなり、一つの世界がなくなる。」(小野協一訳)
 これ以上になにを言う必要もないだろう。描写は完璧であり地の文はピッタリと一枚のコインのようにそれに添って比類がない。
死刑制度について、アルベール・カミユの「ギロチン」という本がある。残虐な犯罪に憤慨したカミユの父が、死刑執行の現場を見に出かける。しかし帰ってきた父は黙ったまま寝込み嘔吐した、そういうエピソードが冒頭に語られている。「個人の心のなかにも、また社会の風習のなかにも、死が法律の枠外へはずれない限り、永遠のやすらぎは存在しないであろう」と、カミユは論を結んでいる。これは新聞で読んだことだが、犯罪者に死刑が執行された。しかし、それが被害者の親を癒やすことはなかったという記事があった。これ以上、死刑制度について語ることはない。
 川端の「山」の尾形信吾に人生の「部分」と「全体」と言わしめたものは、死を意識しだした老人の人生への疑問と不安であろう。だが戦後70年を過ぎた今日の現代日本において、この社会の「部分」になることでようやく息を継ぎ、部分品の人生観を自己自身の全体感にまで引き寄せることに成功した例を見ることができるのである。それはまだ若々しい世代における、禍々しくも奇態な様相を描きながら、生きることの過酷な現実を踏み台にして、苦汁はあるのだが新鮮な果実のごとき作品に一抹の笑さえ盛り込んでみごとに誕生させた小説がここにある。それが、今年の夏に、第55回芥川賞を受賞した「コンビニ人間」(村田沙耶香)なのであろう。
「そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。」
「朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。」
 これはどういうことなのだろう。「風」の若末善紀の姿勢はこれとは逆のベクトルで反抗的な身振りの末に、意に反して反社会的な事件を起こしてしまう。川端の「山」と工藤の「風」と村田の「コンビニ」とは、作者はもちろん描かれた時代背景も主人公も、そして小説の作為も構成もまったく別物であることは言うまでもない。「山」が戦後まじか、「風」はやがては世界一の経済力を誇る以前、そして「コンビニ」は経済成長が止まり、超高齢化社会を間近にした若い世代が、格差にあえぐまさに今の時代の小説なのである。

 多少話しが広がりすぎたようなので、ここで一旦「風」に焦点を戻すことにする。
 「風の吹き去るもみ殻」(工藤嘉晴)は東京拘置所に主人公が入ってから、主人公の意識のレベルは房にいる長山等との会話を重ねるにつれて深度をましていく。「人生の半分」との認識はさらに高く深い次元のものとなっていることは注目すべきところだ。裁判の夢をみて「被告人を死刑にする」との裁判長の宣告を聞き、夢の場面が護送車へ変わったところで、事件以前の「俺がオレを見ている」という乖離感が濃度を増してくる。それにつれて、「それはとても理不尽なようでもあり、当然なことにも思える不思議な拘束感」が主人公へやってくる。この「不思議な拘束感」が主人公を夢へ誘うものである。
「『こいつはシケイだ、シケイだぞ』すると俺を取り囲んだ皆も一緒に体を左右に揺らして唱和した。・・・・これは夢だと必死に思おうとしながら目を覚ました。」
 この辺りから若末善紀の意識は、夢と現実とのあわいに浮遊する境域へと入っていくのであるが、この「体を揺らして唱和する」夢の感覚はこの小説の底に最後まで伏流水のように流れていき、終末に吹き上げるものだ。こうした意識下で若末は、連続射殺事件の長山徳夫と会話を交わし、歌を詠む鳥越やその師匠の尾原、そして隣の房にいる警官殺しの片桐との交渉をもつのである。
「人生の半分」との主人公の根本にある認識は、この小説のキーワードのように度々出てくるので、読者は否応もなく注意を振り向けざる得なくなる。房内での片桐との会話にもこれは出てくるので取り上げてみよう。
「『あの世へ鉄砲は持っていけねえだろう』、突き放すように若末は言った。
『アノヨ、アノヨっていうけどね。アンタ本当に信じてんの?』
『アノヨっていうか、生まれ変わりはあるような気がしてる』。咄嗟に出た返事だったが、相手の返事が無いので若末はそのまま続けた。」
「『お前なんかに聞くんじゃなかったよ』。バタンと窓を閉めた。だからそんな世の中って別に“全部”じゃ無いんだよ。心で呟きながら若末も観音開きの窓の取ってを引いた。いつか説明をしてやってもいいけど、どうせ分かって貰えないだろうな。」
 つぎに運動場での長山との会話にも、若末のこの言葉は繰り返される。この場面ではこの二人は人間とカイサルとの関係から神までの小難しい議論をし、そのあげくに「エネルギー保存の法則」を確かめようと、離れた距離から互いに全速力で正面から衝突するという「ジッケン」を行うことになる。しかし、それについては後に述べることにしたい。
「オメエは前に、世の中なんて所詮ゼンブじゃねえって言ってたけれど、あれはどういうことなんだ?」・・・・・・。
「ゼンブの他に未だ何かあるのか?」皮肉そうに唇を歪めながら追求して来た。
「俺の心の中にあるゼンブに比べれば、コノヨの全部は小さく狭いものに過ぎないということなんだよ」。叩きつけるように言い、そして続けた。
「外に表れているものは形を変えて永久に続いていくだろうけど、そんなものが全部だと思うから人間は間違うんだ。俺にとって、それは最大に見積もっても半分にしかならないとここに来て分かった」
「キリスト教に入信したものそのきっかけというわけか?」。考えこむ表情で長山が口を挟んだ。
 若末がキリスト教に入信したのは、訴訟で難渋し孤立無援のなかで聖書を朗読され、「ペテロの手紙」のこんな文句に牽かれたからであった。
「『このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい』。そして自分も一緒に十字を切った。・・・・・風のふきさるもみ殻のイメージは若末のなかで膨らんでいった」
こうした若末の行為を促したのは、自身が気づいているように獄中生活にほかならない。トーマスマンがどこかで言っていたように、「ものを書く人間(詩人)はどこかで牢屋にいる感覚に通じているものだ」と。
「閉じ込められると色んなことがみえてくるらしい。・・・・自己流のキリスト教だ。大工の倅イエスと俺だ」とは若末自身の表白である。若末の「自己流のキリスト教」の特徴は長山との議論によく示されている。
 長山との議論は、イエスの言葉「カイサルのものはカイサルへ」をめぐっての存在論的な対立から始まるが、若末の「キリスト教」にどこか独自なものがあるとすれば、「ただ俺には、この世の中の事はどんなに知り尽くしたとしたところで、たかだか半分だという気持ちは抜けないだろうよ。それにこんな間違いだらけの人間にどれだけの事ができるんだ? だったらこの自分、間違いなくここでこうしている自分だけを全うしたい」という「この自分」という単独者を取り出したことにある。「この自分」があって、そこにヨブの呪詛と愁嘆が、イエスの「エリ エリ レマ サマクタニ」の絶望と喉の渇きへの共感が生まれ、イエスへの愛が引き寄せられてくるので、その逆にはならないのだ。
 「唯一絶対のものとしての俺、それで十分じゃないかというよりそれしか無いんだ」という若末が実際の牢屋の中で掴んだ実存、この一点にこそこの長編小説の思想のすべてが収斂する場所だと言えるだろう。
 時代は戦前に遡るが、これは詩人の中原中也が友人の小林秀雄に同棲中の泰子を奪われ、やがては自分の子供の文也を失い、狂死するように30歳の若さで没した詩人の抒情詩が収斂する場所と同じだという私の連想がゆるされるならば、それは「命の聲」という詩集「山羊の歌」の一編がこのような地点に立って書かれ、「一つのメルヘン」という「夢」が湧出する源泉がここにあると思われるからである。まず、「命の聲」の最後の一行を書き留めておこう。これも中原中也という詩人が、若き命を燃焼し尽くした果てに掴んだ独自の実存の思想なのである。

 ゆふがた、窓の下で、身一點にかんじられれば、萬事に於いて文句はないのだ。

 牢屋にいる若末が封筒貼りや文鳥のアヤに餌をやったりしている。そうした穏やかで静かなときに、房の外から街のざやめきが聞こえてくる場面は、この小説ではとても素直な文章で綴られているところだ。私はそんなところを読んでいるとき、ふと詩人のヴェルレーヌの「叡智」という詩の数編がよみがえるような錯覚がしてならなかった。

  屋根の向こうに 空は青いよ、空は静かよ!
  屋根の向こうに 木の葉が揺れるよ。
  ・・・・・。
  神よ、神よ、あれが「人生」でございましょう
  静かに単純にあそこにあるあれが。
  あの平和なもの音は
  市(まち)の方から来ますもの。

  ―どうしたと言うのか、そんな所で、
  絶え間なく泣きつづけるお前は、
  一体どうなったのか
  お前の青春は?
                  (堀口大学譯)

  このヴェルレーヌという詩人を誰よりも親炙していたのが、中原中也であったのは申すまでもない。

 詩集「山羊の歌」の「命の聲」という詩は、中也にしては長い詩である。その最終の詩句が「ゆふがた 身一点において感じられるならば文句はないのだ」というもので、このありふれていながらも、ある種の断念と意識の集中を呼び起こす中也らしい詩句は、非凡といっていいものだ。
 中原中也という詩人は、詩について独自な思索をしていた人だ。例えば、自分が書いた詩を朗読して、聲が形成する呼吸に「呼気」と「吸気」があることに注目している。人間の命が呼吸によって維持されている事実は誰でも知っていながら、あまりに自明なことから無意識となっている。海から陸へ上陸した祖先の生物が肺呼吸を覚えるのにどれだけ長い時間を要したか誰も知らない。顎関節症で罹った医師は三木成夫をいたく尊敬していたが、上陸に失敗して海にもどったサメの解剖研究をしていると聞いたことがある。人間の呼吸は吸う息と吐く息が交互に相まって命は持続される。このあまりに自明なことを中也は詩人として意識化したのだ。なぜなら彼は自分の詩を朗読することによって、その詩句を錬成しようとしていたからだ。さらに中也の詩についての根源的な思索は、件の「命の聲」の最終句によく似た口吻をもつつぎのような断想にも印されている。

 これが「手」だと、「手」という名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。

 ソシュールの言語論や解剖学者の三木成夫の形態論の知見を学んだ現在では古いということになろうが、中也の時代では革新的な思考といえただろう。そして、「一つのメルヘン」という詩が白昼夢のごとき領域で書かれていることは、誰もが想像することに違いない。

秋の夜(よ)は、はるかの彼方(かなた)に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで硅石(けいせき)か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄(いままで)流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……

この詩の「小石の上」の「蝶」は「死」の暗喩としてこの詩に生命を賦活している。中也はよく「死を夢見る」詩人であった。フランスの詩人で哲学者のポール・ヴァレリーは、「思索において、人は暖炉にもたれかかるように『死』にもたれかかる」とどこかに書いていた。中也が「死を夢見る」のは絶望の淵からであって、詩人を「魂の労働者」だと宣明したのは中原中也であった。

 「初めは夢の中だと思った」。「風」の冒頭がこう始まり、その後につづく一文章が、あたかもあの3.11の震災による大津波を思わせることは既に指摘したことである。この小説にユングのいう集合的な無意識があるとすれば、津波によるおびただしい犠牲者の死と今なお復興が待たれる人たちの自殺者の急増であろう。ただそれが作品の表面に出てくることはもちろんない。作者は若末善紀の横須線での爆破事件による多くの死傷者をだした廉で、死刑の宣告を受け、死の予感と戦う獄中生活を余儀なくされている若末の内面と外部環境を描いているだけだ。しかし、この小説において夢が度々に噴出することは注目せざるを得ないところだろう。先に引用した長山との運動場での議論のあと、二人が全速力で向かい合って走る「ジッケン」の場面の結びでは、つぎのようなくだりを読むことになる。
「見下ろす角度で思い出した。明るい褐色のグランドとレンガ塀、鮮やかな緑の花壇に咲くチューリップやヒヤシンスの中の無邪気そうな囚人六人、看守の表情も穏やかだ。そういえばあの漆喰の落書きもSのものだったのだ。若末は了解し、了解すると夢は終わってしまった。そうしてもう夢を見たことすら想い出すことは無かった」
  若末と長山の白熱した議論の後につづく、エネルギー保存の法則を証明する衝撃的な「ジッケン」は、稚気に類した「夢」に終わる。それも「見下ろす角度で思い出される」だけで、一場の夢はもう想いだされることもないのである。この視像は「ホラホラ、これがぼくの骨」と詩った中原中也の視線と重なり、「考えることが思いだすこと」と同義のような」川端の「山」の主人公尾形信吾の思考パターンをおもいださせずにはおかないものだ。
 かくして「風」の主人公の若末は小菅に移り、巣鴨の東京拘置所での拘束生活は終わりを告げ、死刑執行の時はますます急を告げて主人公の前面に迫ってくるのである。

 さてここで、後ろを振り返るようにこれまでの論旨を改めて読んでみよう。「コンビニ」についての私の読解はあまりに大まかで、いま少し検討を加える必要があるだろう。私は先に川端の「山」と工藤の「風」との比較で、「部分」的な人生感を「全体感」にひろげることに成功していると留保をつけながらも前向きな評価をした。
 しかし、それはどうもこの小説の表層からぜんたいを単純に割り切ったものではなかったかという疑念を払拭できないのだ。なぜなら「コンビニ」そのものが「部分」なので、それを「全体」感にしようとする女性主人公「私」のけなげな努力そのものが、どこか不自然で歪んだものだという印象がぬぐえないからだ。「山」から「風」と進んできた線がここへきて、下へ曲がり折れている様子が痛々しく思われてならない。女性主人公の「私」がそれに気づいていれば、なおのことである。この小説の長所はこの「自意識」が下地にあることだといっていいだろう。
「肉体労働は、身体を壊してしまうと『使えなく』なってしまう。いくら真面目でも、がんばっていても、身体が年をとったら、私もコンビニでは使えない部品になるかもしれない」
「気がついたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べていけなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです」
  こう述懐している「私」は大学を出ながらパートをしている。パートや派遣社員という非正規の労働者は、2016年の雇用統計では全雇用者の4割を超えている。彼及び彼女等は低賃金と身分差別という格差に苦しみながら働かざるを得ない状況にある。「コンビニ」に登場する白羽さんという支店長でさえ正社員とは思われない。こうした非正規の社員は、ちょっとしたことから馘首されたらお終いである。特に支店長となれば、管理職扱いで朝早くから夜遅くまで働かされる。残業代のカットは当然、穴が開いたら部下の仕事まで補わなければならない。その支店長が会社のオーナーへ不満を漏らしたことで、バイトのくせに生意気だと即日解雇された事例まであるくらいだ。小説「コンビニ」はこうした過酷ともいえる労働環境での「私」の奮闘ぶりが少し異常でさえあるのだ。
「あ、私、異物になっている。ぼんやりと私は思った。店を辞めさせられた白羽さんの姿が浮かぶ。つぎは私の番なのだろうか」
この白羽という男性が街の隅におどおどとうづくまり、身を隠しているのを見つけた「私」は詰問すると、白羽がこういう。
「僕に言わせれば、ここは機能不全世界なんだ。世界が不完全なせいで、僕は不当な扱いを受けている。・・・・この世界は異物を認めない。僕はずっとそれに苦しんできたんだ」
 この「私」と「白羽」とのやりとりはこの「コンビニ」という小説の本質に迫るとても面白いところだ。「私」は苦境にある「白羽」を自分の家に強引に連れて帰る。これからがまた笑える科白が行き交い、現代を相対化し風刺するような面白さに満ちている。
  デフレ経済で企業同士がしのぎを削っているのが現在である。「風」が1969年の東京オリンピックをまえにした右肩上がりの経済下、「コンビニ」は世界同時不況で、閉塞感の漂う時代を背景とする現実を勘案すれば、主人公の「私」と「白羽」との関係の逆転は見るに忍びないものがあることもたしかなのだが。
画家のアンリ・マテュスは「画家のノート」の中で「全体こそ唯一の理念である」と述べた。画家の目指す「全体」の理念はタブローにおける美的なる調和と統一である。「風」の若末と長山の議論の根底にはこの「理念」が政治的な理想として生きていた時代背景があった。しかし、「コンビニ」の時代においては、そうした「理念」はもはや見当たらない。グローバル化した資本主義の政治・経済は限界を前にして疲弊に喘いでいる。そのような中で、小説「コンビニ」の主人公の「私」は人生の「部分」感を自己のなかへ繰り込んで「全体」感を掴もうと、自虐的とさえともいえる努力をしている。しかも一抹のユーモアを湛えた小説に賞の選考委員の賛辞が集まるのは当然だろう。
この村田沙耶香の芥川賞となった小説を、試みに「不況下の文学」と括ってみるとしよう。すると昭和24年にできた「山」はどうなるのだろうか。批評家の中村光夫は戦争直後から講和条約が結ばれるまでの文学を「占領下の文学」と呼んだことがあった。ならば「風」を加藤典洋が「アメリカの影」の副題に「高度成長下の文学」と呼んだ一連の作品のなかに置いてもおかしくはなかろう。「山」の尾形信吾と「風」の若末善紀、そして「コンビニ」の「私」(古倉恵子)の主人公を並べて、戦後70年という時の流れに泳がして見たらどうであろうか。すこし戯事風に言ってみよう。中国大陸に座って眺めれば、ねじれた釘のような日本列島はまた寝そべった龍のようにも見えるに違いない。昨年のWHOが発表した「世界保健統計」によれば、日本人の平均寿命は83.7歳の 世界一、これは20年以上前からのことだそうである。GDPでは必ずしも国民の幸福度は測れないだろうが、平均寿命が世界一伸びている日本は健康そのものだと言ってもいいにちがいない。

 「風」には獄中の隣人片桐に、若末の人生の「部分」感について、「説明しても分かってもらえないだろう」と独りごちる場面があった。このとき、説明しようとした若末の脳裡に、唯識論と輪廻転生の大乗仏教の奥義があったのかも知れない。川端と親しく交流した三島由紀夫が、「豊穣の海」の四部作に「世界解釈」を企てる観念の観念ともいえるこの仏典の不思議な奥義を導入しようとしたことは、専門諸兄等には周知のことであろう。三島と深い交友をもった川端がまたこの仏典に通じていないはずはないだろう。若末は幾度も人生の「部分」感を述べ、果ては世界の「半分」しか知ることができないと敷衍する背景には、それなりの思考の痕跡があったはずである。そして、川端が「山」で主人公の尾形信吾に「人生の部分品」というような、川端にしてはこなれないことばを小説に使ったのにはどのような背景があったのであろうか。既に引用したところだが、再度、前後の文章を補足しておきたい。
「この横須賀線に毎日乗るだけで、いい加減おっくうだね。このあいだも、料理屋で会があって、老人の集まりだから、よくまあ何十年も、同じことをくりかえして来たものだ、うんざりするね。くたびれたね。もうそろそろお迎えが来ないか。」
 菊子は「お迎え」という言葉が、とっさに分からぬようだった。
「閻魔の前に出たら、われわれ部分品に罪はございません、と言おうという落ちになった。人生の部分品だからね。生きているあいだだって、人生の部分品が、人生に罰せられるのは酷じゃないか。」
「でも。」
「そう。いつの時代のどんな人間が、人生の全体を生きてたかというと、これも疑問だしね。たとえば、その料理屋の下足番はどうだ。客の靴を出したりしまったり、それだけが毎日だろう。部分品もそこまでゆけば、かえって楽だと、勝手なことを言う老人もいてね。・・・・」
 この「人生の全体」から「料理屋の下足番」までの間には、どうにも看過できない空白と飛躍があるのではないか。川端はこの「人生の全体」という抽象的・概念的な言葉で一体なにを言いたいのであろうか。一人の作家として川端には、東京空襲の直後にその惨状の現場を歩いて見て回った経験があった。黒焦げの累々たる死者に自分を擬してもおかしくはないだろう。偶然に生き残った川端の目に、先の戦争はどのように映ったのであろう。「人生の全体」という言葉、「部分品」という言葉との間には、川端の戦争体験が横たわっているように思われてならない。「山の音」は自然の猛威を暗示して不気味である。谷戸の多い鎌倉は海からの風に煽られて、激風が山そのものを動かす恐怖に襲われたこともあったろう。そのとき、川端の脳裡に累々たる無数の死体が甦ったとすれば、個々の人間の死の意味が「部分品」という言葉に受胎されたとしてもおかしくはない。その中には友人の横光利一もいたことだろう。自然でさえも無疵ではいられないことを、川端は戦争の体験を通じて知ったはずだ。川端にしては舌足らずな、「山」におけるこの文章に隆起しているものは、戦争へのどうにもならない「いかり」であったにちがいない。中村光夫が「占領下の文学」と呼称した「戦後文学」ではないが、江藤淳の「閉ざされた言語空間」を参考にこれを川端にまで援用するならば、川端における表現上の「擬態」とも想像されるものが、ここに路頭していると見ていいのではないか。
 工藤の「風」の主人公には、明らかにこの時代の空気への反抗心が透けてみえる。三島の自決への安易な嫌悪は、若い主人公への屈折した心情への作者の肩入れにすぎなかろう。作者が小説の材料にした「横須賀電車爆破事件」の若末善紀は、昭和43年の「父の日」に事件を起こしている。6月16日の16という数字に作者が随所にこだわっているのはその故だが、ただそれだけのことなのか定かではない。この実在の犯罪者は房内で歌を詠み、「死に至る罪」という歌集を出した真面目な青年だったとのことだが、この事件を素材にした「風」に幾度も記される「半分の自分」という言葉には、デンマークの哲学者のキルケゴールの「死に至る病」にある一章句が、現実の歌集の題名と呼応しながら、ここに照応しないではおれないものだろう。
「自己が自己自身の可能性のなかでこれこれに見えるということは、半分の真理でしかない。なぜかといえば、自己自身の可能性においては、自己はまだ自己自身から遠く離れており、あるいは、ただ半分だけ自己自身であるにすぎないからである。」
「呼吸はひとつの矛盾である。・・・・。しかし、健康な身体はこの矛盾を解いている。そして、呼吸していることに気づかない。信仰もまたそれと同じである」(「死に至る病」ゼーレン・キルケゴール)
同じように言うならば、「コンビニ」の「部品」になろうと自虐的なまでにけなげな奮闘をしている「私」(古倉恵子)は、川端に倣っての甚だ失礼な言い方をすれば「料理屋の下足番」と同類といってもおかしくはないだろう。
 これまで偶々取り上げた三つの小説において、川端の「山」は占領下の、工藤の「風」は高度経済成長下の、村田沙耶香の「コンビニ」は世界同時不況下の、それぞれの時代における、自然の呼吸を奪われた時代閉塞の息苦しい文学の特質を表現していて余りあるものだ。それはキルケゴールの「絶望」と同じように、呼吸のように意識されることはないのだが、これらの文学作品は無意識のうちに「全体性」という可能性をもとめていることは、現代世界の状況を予兆して興味深いところである。「風」が小説の冒頭から「夢」を暗示し、「夢」を希求して終わるこの小説は、想像力による文学の可能性を考えさせるものであろう。
 詩人の中原中也にとって、詩は己の実存を賭する「祈りのようなもの」(「若き詩人との対話」フランツ・カフカ)であった。

  風が立ち、浪が騒ぎ、
    無限の前に腕を振る。(「盲目の秋」)

 ルートヴィヒ・ビンスワンガーに「夢と実存」という小論がある。若き日のミシェル・フーコーはこの小論に、その数倍する難解な「序文」を寄せている。その序文の冒頭はこんな具合に始まっている。
「フッサールの『論理学研究』が一八九九年に出版され、フロイトの『夢判断』が一九00年に公刊されたという、この年代の一致は、いくら強調しておいてもよいと思う。この二つの本は、人間がおのれの意味作用を捉えなおし、その意味作用のうちでおのれ自身を捉えなおそうとする二つの努力だったからである。」
 さて、フーコーがビンスワンガーの「夢と実存」へ卓越した分析と洞察をしていることには驚くしかないが、小説家の村上春樹への川上未映子のインタービユー「みみずくは黄昏に飛びたつ」は想像力の所産である村上の小説へ肉薄して読み応えがあったことをここに記しておこう。フーコーはフッサールの研究がいかにフロイトの仕事に寄与しているかを鋭利な批判を加えつつ、「結局のところ、現象学的分析が、多様な意味志向的な構造の根底に浮かびあがらせるのは、表現行為そのものなのである」と言っている。前述した村上春樹のインターヴューがそうであるように、フーコーはフッサールのこの著作の末尾にあるつぎの一文に照応する透徹した「実存」と「夢」との豊かな関連を示唆していることはたしかなことであろう。
「夢の始まりと、覚醒のおわり、内的生活史のゆくえとは、それぞれ無限にのびている。なぜなら、われわれが、生命と夢がどこで始まるのか知らないのと同じく、われわれは人生の道程において『もっと高い意味において、「単独者」であることこと』が人間の力を超えているということについて、くりかえし想起させられるからである。」
 フーコーの「序文」には、「想像するとは、夢みているおのれを夢みることなのである」「叙情詩は季節的なものでもあり[真昼の夜]なのである」「夢こそ詩の最初の心象であり、そして詩は言語活動の原始的形式、『人類の母語』なのである」等、「実存と夢」についての宝石のような洞察が燦めいているのだが、このフーコーの「序文」から、その最後の文章を引用して、この小論を終わらせることにしよう。
「してみれば、想像力の中心に夢の意味作用を結びつけることによって、実存の基本的諸形式を復原し、実存の自由を明らかにし、実存の幸不幸を見定めることもできるであろう。けだし、実存の不幸とはつねに自己疎外[狂気]のがわに記入されるものであり、実存の幸福とは、経験的なレベルにあっては、表現の幸福ということでしかありえないからである」
 フーコーは1900年にフロイトの「夢判断」が公刊された意味を強調したが、この最後の一文の背後に、1900年に発狂したままその生涯を閉じたニーチェの影をおぼろに想起していなかったはずはなかろう。小林秀雄が友人の中原中也の最期を語ったようにである。





 



アンリ・マティス試論―懐疑を超えるもの

  ー無限のなかにおいて、人間とはいったい何なのであろう。
 これはニーチェが第一級の信仰者と認めたパスカルのことばである。きちがいのように「常識」を説いたと揶揄されたニーチェの、神なき信仰の「悲劇」に比べるなら、「パンセ」の断片は、神へと人間を導く、巧緻にして熾烈なる懐疑の「宇宙」であった。
 このパスカルの「宇宙」を近代の絵画の展開において、懐疑を超えて、簡潔にして犀利なデッサンと色彩との絶妙な調和の「宇宙」として、タブローという二次元の上に現前させたアンリ・マティスという画家に、二十世紀芸術の危機を超える類い希な人物を見ようとするのがこの小論の試みである。
 
 「パンセ」につぎのような一節がある。
 ー絵画とはなんとむなしいものだろう。原物に感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは(傍点筆者)。
 幻視者であったバルザックは、「永遠の傑作」の中で、絵画について同じような疑問を呈したが、徹底した懐疑のない信仰が現代では真に値しないように、このバスカルの根底からの冷徹なる絵画批判に、孤り孜々として絵画制作の現場から、この「懐疑」に応答していた画家として、セザンヌに継いでアンリ・マテュスを想起するのは、世に流布するマテュス絵画の「常識」からすると、あまりに奇異な企てになるのかも知れない。しかし、画家マティスのつぎのことばは、パスカルの批判に遠い谺を返しながら、にもかかわらずその深淵をまたぎ超え、画家の断固たる意志を指し示すものとして瞠目すべきものと言っても過言ではない。
 ー私たちの文明は画家を必要としていない。少なくともほんのわずかしか必要としていないのです。
 このような「証言」をする画家について、いったいいかなる判断をくだすことが可能なのであろうか。マティスという画家を考えるに際し、この「証言」は看過しえないフレーズと言いうるであろう。
 以下は画家という存在に関する、いわば「零度」からの省察である。

 このマテュスの画業について、新世代の画家マルセル・デュシャンは、気取った言葉使いでつぎのように語ったことがある。
「マティスの着想は、ヴァン・ゴッホ、セザンヌ、スーラの出現に直接続いて、絵画の物理学の新しい道を開くための巧妙な企てになった」と。
 しかし、このデュシャンの言う「着想」の内実を語ることほど困難なことはないであろう。マルセル・デュシャンとアンリ・マテュス。この組み合わせは一見奇妙に思われるだろうか。だがニーチェが、「哲学をばかにすることが哲学だ」と言ったパスカルの「嫡子」であるように、デュシャンその人がP・カバンヌとのインタビューで語った「マティスの発見」によって、絵画における「網膜的」なものへの反抗を開始する重要な契機になったとするなら、デュシャンもまたマティスの「嫡子」と言っても、決して過言ではないのである。
 しかしながら、マティスの西洋絵画における「空間」と「色彩」をめぐる思索と探求に比べるなら、デュシャンの「網膜」への反抗は、それ自体が「網膜的」な反抗として、両義的な境域にとどまるものだと言っても差し支えはないだろう。
 マルセル・デュシャンのあの意味深長な「遺作」の痛々しさには、なにかデュシャンという人間の、あたかも軽業師的な反抗(=犯行)を見られるのである。あの「遺作」は、「見ること」そのものへの暗喩と諧謔を示すものとしても、穴の開いた扉の内側に横たわり網膜に晒される裸婦は、もはや網膜を拒絶してはいない。むしろ、逆の事態をはしなくも暴露しているところに、彼の反抗の限界が露呈されているといっていいのであろう。あの扉の穴を覘く者の網膜は、横たわる裸婦へ向かい、いかにも猟奇的な欲望を促し、裸婦がそれを受け入れるがごとき通俗的な常習を、逆説的に懐古させることによって、まさに反語としてかろうじて彼の二十世紀絵画への「遺作」となっている結構を示しているに過ぎない。
 一体デュシャンは、マテュスからなにを「発見」したのであろうか。これは近代、いや現代芸術と絵画の歴史を展望する重要なる「鍵」になるほどのものである。
 かたや画家アンリ・マテュスのまえに立ちはだかった困難は、芸術に奉仕する手を信頼する一方で、それ以上に感情と理知とによる探求を重視すること。即ち、デッサンによる線と色彩の葛藤が引き起こす「不協和音」に躓きながら、その苦しい格闘の軌跡を果てまでたどること。そうしながらも、その苦々しい痕跡を残すまいとするエレガンスを最後まで失なうまいとすること。ここに「自己表現」と「絵画」との間に開いた深淵とパラドックスに、橋を架け難問を解こうとした近・現代絵画史の避けがたい課題を浮上させないはずはなかった。現代ではすでに隘路ともいえるこの芸術と絵画の王道にあくまで留まろうとするところに、マテュスの栄光と魅力の核心があったのである。
 このマテュスの隠そうとしたこの「不協和音」に気づいた最初の人物は、一九五一年に日本で開催された「マテュス回顧展」を見てまわった小林秀雄氏であった。氏はマテュスの絵画が途中から「苦し気」に見えたことをエッセイに記している。これはデュシャンの言う「着想」、言い換えれば、「絵画の物理学」の内実を直感する鋭い洞察にほかならない。このことは画家自身が、自分の作品が観客にとっての「安楽椅子」になることを意図した画家の夢に反するが、マテュス芸術の楽屋裏への透徹した一瞥として、刮目すべきことと言わねばならないのである。
 このことは小林秀雄氏が、この年から「ゴッホの手紙」を書き出していることに符節を合わしている。同じような文学上の課題を氏自身が初期の段階から抱懐していたことを思うと、絵画の世界に同質の問題をみたのも不思議ではない。つぎの一文を横目でみておこう。
 ・・・・ゴッホが、何年もの間、ひたすら自然から学ぼうとしていていた時、彼を支えていたものは、何を置いても先ず正確なデッサン、驚くべきミレーの描線であった。パレットから出発しようとして、彼が痛切に意識した自然という対象と、内部から創り出すものとの対立は、たゞあくせくやってみる他はない実際の技術上の、デッサンと色との葛藤とならざる得なかったと思われる。

 画家自身が「画家のノート」(以下「ノート」)で語った、「デッサンと色彩の葛藤」のことは、彼を論ずる者で知らぬものはないほど、見過ごすことのできない命題であった。だが画家の活動は、そういう簡単な図式ではかたずかない、「不透明」な難題をかかえて、マテュスという画家の上にのしかかっていたのである。

 ー私たちの文明は画家を必要としていない。少なくともほんのわずかしか必要としていないのです。
 再びマテュスのこの「証言」を引用するのは、なぜならばこれこそが、マテュスというより近代の芸術家の厳しい肖像を顕現させる貴重な証言はないと言ってもよいからである。
 ーどれも笑わせない似ている二つの顔も、いっしょになると、その相似によって笑わせる。
 これが「原物」を見るパスカルの眼だ。幾何学と繊細な精神を兼ね備えた彼パスカルの明察は、だれも覚えのある心理の陥穽を衝き、ここに余計な「懐疑」などは入る余地はないのである。ただ彼はものが関係の仕方によって、新しい構造と力をもつことに注意を促したに過ぎない。だがこの精妙な指摘には注目すべきものがある。
 ー人は精神が豊かになればなるほど、独特な人間がいっそう多くいることに気がつく。普通の人たちは、人々のあいだにある違いのあることに気がつかない。(「同」)

 こういう高度な「常識」を説いた数節後に、つぎのような有名な箴言を紹介すれば、読者は退屈するだけかも知れない。
ー人間は屋根屋だろうが何であろうが、あらゆる職業に自然に向いている。
 向かないのは部屋の中にじっとしていることだけだ。                                    (「同」)
 だがここに一人の人間がいて、日がな一日部屋に佇みながら、静物やら裸婦に向かい合い、その「原物」をキャンバスに描くことを、職業にしようとする人間がいたとする。これほど奇態な職業を、この世で想像することほど愚かなことはない。なるほど、一生で一番大事な職業の選択は、往々一偶然に左右されるものだ(「同」九七)。
 彼マテュスの場合も、二十歳の盲腸炎という病気がそうであった。だがさきの「証言」をした人物が、このわずかな画家の一人であり、その素描を海の息吹のような情感に定着し、自分の生涯とその連続性についてのはっきりとしたイメージを獲得し得た人間、その名前を「アンリ・マテュス」と呼ぶならば、この人物は注目に値すると言わねばならないのである。

 現代絵画は、自然の表現から始まり、フォルムの処理の内に示され展開される。このことは、絵画が「空間」をめぐる思考の歴史となることを意味した。かつて美術評論家の宮川淳氏は、「書くという行為そのものを思想と化する」新しい思想のあり方を語り、その延長上で「見る」ことの根源的な可能性に言及し、「描くこと、書くことを通じて〈見ること〉そのものが自己形象化される」と述べた。マテュスの画業こそその証明となるが、宮川淳氏の言説には〈身体〉への考察が抜け落ちているように思われる。なぜなら身体こそ、画家の言語機能の重要な要素であって、絵画とは何かという問いは、画家の身体とは何かという問いの中に埋め込まれているように思われる。
 このことは、「精神としての身体」(市川浩)ではつぎのように記されている。
「芸術家はいわば世界を自己の身体と化することによって、世界の内面に住まい、その両義的一元性を表現する道を模索する」と。この試論では、哲学的な身体論に深入りする気はない。しかし、市川氏のこの著書は画家という存在の構造を考察するに際し、非常に精緻にして有益なる一書であることをここに記しておきたい。
 三浦雅士氏は、「身体の零度」において、原初から近代に至るまでの、身体への呪術的な装飾を施し、変形を強いてきた人間の歴史を語り、その書物の末尾をつぎのことば終わらせていることは、画家と身体との関係性を象徴する銘記すべき洞察と思われる。
「舞踏は人類とともに古い。それは身体によって、宇宙における人間の位置を確認する行為だった」と。
 マテュスの大作「ダンス」や肉体から直接に誕生したジャズという音楽に、マテュス芸術のモチーフの源泉があるのは、この三浦氏とつよく反響しあうのは偶然ではない。
 かつて近代の荒れ地を彗星のごとく駆け抜け、
 ー俺は場所と定式を求めて彷徨った。
と詠った「呪われた詩人」の覗いた「地獄の季節」(ランボー)の一句を想い描かざる得ない「近・現代」という荒れ地に、マテュスの静穏にして明澄な探求は、かの天才詩人が「見者」として見た「幸福」を綴った「飾画」の一節を思い出させるものがある。

明るい休息だ。熱もなく、疲れもなく、寝台の上に、草原の上に。
友は、烈しくもなく、弱くもなく。友よ。.
愛人は苦しめもせず、苦しめられもせず。愛人よ。
尋ね歩く仔細もない空気とこの世と。生活。
ーでは、やっぱりこれだったのか。
ー夢は清々しくなる。

                         (小林秀雄訳)

 さて、画家であるマテュスは「装飾と表現は同じものだ」と、端的にこう言っている。装飾は無意識なまでの人間の本能のひとつなのであると。
 かつて美術評論家の宮川淳氏は、「マチスと世紀末芸術」において、「二十世紀の純粋造形が可能になるのはこの世紀末のメタフィジックが還元されたときである、この還元を促したものは、ほかならぬ装飾そのものの自己運動ではなかっただろうか。おそらく、ひとたび見出されたとき、自己運動を起こさずにいないのが装飾なのである」と言った。そして、アール・ヌーヴォーがマテュスの芸術に意識的に取り入れられるのが、フォーブ時代につづく一九〇八~一七年ごろとして、「赤の調和」や「コーヒーわかし、水さし、果物入れ」に装飾的モチーフの展開をみている。
 こうしたマテュスの思考が明確に本格化した作品のひとつに、ここで触れてみておこう。
 それは二十世紀美術の傑作(遠山一行氏)と讃えられた作品「装飾的人体」(一九二五~二六年)である。遠山氏によれば、オスカー・ワイルドは「装飾こそ芸術の親だ」と言ったそうであるが、ここでワイルドの挿絵画家のビアズリーがマテュスの三つ年下に過ぎないことは、不思議ではない。
 事実、作品「装飾的人体」において、裸婦は周囲の壁や床の敷物等の装飾的な物体と等価に描かれ、これらの自然の中にとけ込んでいるかのようである。辛うじて裸婦の腰から肩に走る垂直線が裸婦の頭部を支え、ほぼ水平に膝に乗せられた左腕と半跏趺坐像風の両足によって、初めて裸婦は人体として存在する格好である。これこそ「装飾」が「表現」そのものであることを例証した作品であろう。そして、宮川淳氏のいう自己運動する装飾、またその「還元を促したもの」が、ここでは非常によく整序され抑制されていることを、宮川氏のためにより強調しておくべきだろう。それはマテュスの理想が、詩人ボードレールの「豪奢と静けさと逸楽」の美でありながら、「整いの美」をそこに含んでいたからであったことにある。装飾はこのとき初めてマテュスという画家の思想として肉体化したといえるだろう。
 このことを「装飾的人体」の絵を直視するならば、人体から鋭角的に床に向かって突き刺ささって伸びた右脚は、自己運動化するタブローを左膝と相俟って、装飾の無意識の流動化をその足下で押さえこみ、揺るぎもない画面を描きだしていることに注目するべきだろう。
 この作品について、造形的意図が優先され、裸婦の表現がなおざりだという批判は、今述べてきたようなマテュスの理知の力、行き届いた目配り、絵画空間への絶えざる思索への無理解にもとづくものと言わざるえないものである。
 ー私のタブローの配置の仕方全体ー人体が占めている場所、それらを取り巻く余白の空間、釣り合いなど、そこではいっさいが役割をもっている。構図は画家が自分の感情を表現するために配置するさまざまの要素を装飾的な仕方で調える技である。
 これは一九〇八年にすでにマテュス自身が「ノート」で述べていることなのである。

ところでマテュスの特別に重要なキーワードがある。それは簡単すぎて明瞭なつぎのフレーズである。
 ー表現は人が全体として把握する彩られた表面から生まれる。
                                   
 先に二度引用した「証言」は、現代における画家の位置を示すものであるのに対し、このフレーズはより具体的に、画家が対峙するタブローのあるべき姿を表したものだろう。かつてマテュスは「ノート」の中で、「全体こそ唯一の理念である」と書き記した。だがこの「全体」とはいったいいかなることなのであろうか。
 この一見難解な概念を理解するため、つぎのような具体的な二つの場面を想定してみよう。
 ある晴れた日の真昼、海岸に立っている一人の男がいるとする。特別な障碍物がなく、男の目が正常ならば、彼の目は広い海を一望に見渡すことができるはずである。だがもしその男が、「海」の「全体」を見たいという渇望にも似た欲望を懐いたとしたらどうであろうか。これは奇態な欲望であり、不可能な思念である。通常私たちは海の一部をみて、「海」を見たという思いで満足している。だが厳密にいうなら、視野の限りに見える海といえども、海というものの「全体」ではない。それは男の視野の限りにしか見えない海であり、海の断片にしか過ぎない。だが海という自然には、男の欲望する「全体」は存在するが、男がその「全体」を視覚的に見ることは不可能である。地球儀に海は青色で表現されているが、海という自然の全貌を一挙に見ることはできない。男の認識への欲望には、充たされることのない苦渋が滲むであろう。ここにこそ「全体こそ唯一の理念」とする現代絵画の根本的な思想の核心が対応する。言語学的にいえば、海は「海」ということばによって初めて存在したという知見をソシュールは語るだろうが、男は「海」ということばを媒介に実在の海そのものを見たいのである。
 しかしつぎに、これと異なるつぎのような場合を想定してみよう。
例えば、映画「奇跡の人」でモデルになったヘレン・ケラーのように、見えず、聞こえず、従って言語活動の不能な人間には、「世界」はまったく失われている。彼女は触ったものが何であるのかを知らない、謂わば「混沌」の世界にいるのだ。娘の姿を不憫に思った両親はサリヴァン女史という家庭教師を雇うことになった。彼女は子供のヘレン・ケラーに手話を必死に習得させようとする。土が「土」であり、木が「木」であることを、すなわち、個々のものが固有名詞をもち、それらの名辞が統一された世界が「世界」というものを形成しており、人間はその中に住んでいることをである。哲学者のハイデッガー流に言えば、「世界ー内ー存在」としての人間のありさまを知ることだ。しかし、一つの単語が一つのものを表すことを知ることのないヘレンに、「世界」の端緒を掴ませることさえも、サリヴァン女史は苦闘することになる。さんざんの苦労の末、ある日、井戸の蛇口からほとばしるものに反応しているヘレンの姿を発見する。サリヴァン女史は駆けつけ、今現にヘレンが手に触れているものが、「水」であることを「WATER」という綴りの手話で理解させることに成功するのだ。ヘレンの口からたどたどしい「水」=「WATER」というシラブルが発せられる。ヘレンは遂に「世界」への糸口をこの一つの「言葉」から掴むのである。なんという驚きがヘレン・ケラーという少女を襲うことであろうか。これは深く感動する映画の一場面なのだ。「言葉は存在の棲む家である」という前述のハイデッガー哲学の一フレーズを、思い出してもよいだろう。この場合、ヘレンは自然の一部である「水」の「全体」(存在)を全身で覚知したといえるだろう。
 他方、海を前にした男はどうであったか。彼には「海」の「全体」が失われている。目は見えるが盲目も同然なのだ。自然としての海は彼の欲望を歯牙にもかけないほどに広大無辺だからである。こうした人間の認識における不能感に絶望し、この宇宙の無限に驚嘆し、震撼した男がいた。
ー無限のなかにおいて、人間とはいったい何なのであろう。
あるいは、あまりに有名な言葉ではあるが、
ーこの無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる。(「パンセ」二〇六)

 「松のことは松に聞け、竹のことは竹に聞け」というような芭蕉の俳諧的直感は、花鳥風月に代表される自然との一体感より言語表現の獲得にいたる日本固有の認識と言っていいだろう。葛飾北斎等にみられる浮世絵の絵画技法が、「ジャポニズム」となり西洋絵画がこれに影響されたのは、線と色彩によるその平面的な画面構成にマティスの志向する「全体」なるものの端的な表現をそこに発見したからである。
 西洋的な絵画における「タブロー」という考え方は、パスカルにみられる西洋的な宇宙観を示すものだ。「全体こそ唯一の理念である」というマテュスの言葉は、この西洋的な位相から発せられている。
 ー人間だけがおのれの出会うものを超えて存在へと超越し、おのれの出会うものすべてを存在者として統一的にみることができるのである。(「哲学と反哲学」木田元)

画家とは、この「統一的にみる」人間の超越的な営為をタブローを前に思索する存在である。恰も舞踏家が宇宙の中で自分の位置を確認し、詩人が「無限にむかって腕をふる」(中原中也)かのようにである。
 論を元に戻せば、かくして前述の男の立場は画家であり、ヘレンの姿は詩人に似ていることは言うまでもないだろう。
 画家であるマテュスが、タブローに「全体」という理念を探求した少し前に、一人苦闘していた画家にセザンヌがいた。
 セザンヌはサント・ヴィクトアール山を望むパリから離れたところで、孜々としてそれに挑戦していたといえるだろう。三次元空間の自然から、第二の「自然」ともいうべきタブローという二次元の平面に、自然を模写するのではなく、自然を創造することのからくりを意識的に構成しようとしていたのである。セザンヌの描くリンゴはリンゴではなく、ナプキンはナプキンではなくなった。これは現代絵画という言語表現の産声であった。この表現の場としての「タブロー」こそ、セザンヌからマテュスが受け継ぎ、その造形の全精神を傾倒する「美」の探求を行う精神の場所となったのである。そして、近代において「美」の探求とは、ボードレールがそうであったように、「美」の発明と同義である。パリの街頭の一風景を詠んだ一編の詩「腐肉」に、リルケの「マルテの手記」の孤独な都市の放浪者、マルテ・ラウリッツ・ブリッグは震撼したようにである。

 遠近法の創設と排除、視覚への精妙な洞察と揶揄、自然でさえその関係の在りようにより、別の意味が出現することを、パスカルはエッセイの断片に散りばめている。このパスカルに現代絵画における思考の原型を見いだすのはこのためだ。パスカルは人間存在の裸形の条件を、その地獄絵を白昼に晒したが、マテュスは同じ動作から、わたしたちに慰安をもたらし「楽園」を提示したのである。

 さてマテュスは自身の「ノート」に記している。
 ー物体は空間のなかに占める位置に従って自分の関係を見つけます。
 「関係の絶対性」(吉本隆明)とは、こうした文脈の中においてあらたに思考すべき価値をもつものだろうが、デュシャンはこれを「絵画の物理学」と言ったまでだし、葦のような人間の精神が踏み耐えた造形的思考のなかに、再びみいだすタブローという「表現」なのである。だが当人のマテュスさえこの「タブロー」という空間に限界のある懐疑の影が忍び寄るのを覚えずにはいない。後に、マーク・ロスコが巨大な色彩の平面に、祈りにも似た絵画の「言語表現」を見いだすのは、
 ー自分が生について抱く感覚とそれを表現する仕方とを区別することができない。
 と言うマティスが色彩の表現のプロセスそのものを、方法的に解析したその延長に顕現されたものであった。
 「絵画の思考」で持田季美子氏は、「あざやかに染色された気体が茫漠と漂うロスコのキャンバスは、現実界とは別の聖なる世界へと通じているふしぎな窓のようだ」という指摘は、室内を戸外へ解放する開かれた空間である「窓」が、マティスの絵画に度々登場する背景を示唆しているように思われる。
 例えば、窓のそとにある風景を鮮やかな青色と赤色の桟で切り取った「金魚鉢のある室内」にある金魚の弱々しい赤は、最晩年の傑作「赤の室内」において増殖し充溢される。そして、このとき窓の「外」と「内」は力強い赤色の装飾を介して連続するのである。
 自然と人間の内なる「自然」が連続し一体となるところに「美」は顕現する。さらに言えばこのような「美」によってのみ、人間は人生の連続する全体感を手中にできるのだ。
 ーAとBの色をつなぐCの色が必ず存在する。
 自分の家で物体の空間の関係を発見しようとしたマテュス芸術の「可能性の中心」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)とはこのようなものである。
 
 そして、パスカルの絵画芸術への正当な問いかけは、マルセル・デュシャンである臨界点を迎える。作品「泉」は端的なその表現であった。ここで「絵画の物理学」という表現を、「絵画の経済学」に換言すると、興味ある光景を見いだすことができるのだ。それは絵画を超え芸術そのものを、ある種の虚無へと帰するかも知れない。自然という「原物」があるのになぜ人は、それを模写して数を増やすのか。なぜ人間の眼と手は自然をさらに別の、例えば「タブロー」というものに変換しようとする欲望を懐くにいたるのか。そもそも人間の創りだす「美」とはなんというものであろうか・・・・。
 先の「呪われた詩人」は「地獄の季節」でつぎのように詠った。

 「ある夜、俺は『美』を膝の上に坐らせた。 ー苦々しい奴だと思った。ー俺は思いきり毒ついてやった」と。
 かくして詩との訣別は、彼の必然の運命となったが、マテュスが手中にしようとしたのは、この詩人が尊敬ししかも侮蔑したボードレールの「楽園」なのである。ここにマテュスの苦闘が「美」に変貌する奇蹟のようなものがある。
 そもそもにコスモス(宇宙)を失い、肉体の不能性に気づき、ロゴスの不毛性を自覚しはじめた、西洋的な近代文明への懐疑を、作家のD・H・ロレンスは、「新約聖書」の「黙示録」についての卓越した考察において語り、「宇宙」との有機的関連を欠いた肉体と精神に警鐘を鳴らした(「現代人は愛し得るかー黙示録論」)。そしてロレンスの驚嘆すべき一書「無意識の幻想」における「性の誕生」は、彼の最後の力作である小説「チャタレー夫人の恋人」に結晶されているのだ。ここですこし横道を散歩し、彼が描いた自然の描写をみてみよう。

「コニイは昼食後すぐに森へ出かけた。本当に気持ちのよい日で、早咲きのタンポポは光り耀き、早咲きのデイジイは真白だった。はしばみの茂みは半ば開いた葉でレース編み細工であり、名残の花序が煤けて垂直にたれさがっていた。黄色いキンポウゲはもう群生していて、あるいは平べったく花を開き、あるいは押し合って縮こまり、ぎらぎらと黄色が光っていた。それは黄色、初夏の黄色だった。そして桜草はひろがり、蒼白い奔放さに充ち、群がり集った桜草はもやは恥じらいを見せていなかった。ヒヤシンスは、つぼみを青白い穀粒のように持ち上げて、その生きいきとした濃緑は海だった。一方、馬道には忘れな草がふんわりと盛りあがり、オダマキは紫インクのひだ紐をほころばせ、茂みのもとには青いバーズエグシェルがいくつか見える。どこもかしこも、点々とした蕾結節であり、生命の誕生であった。森番は小屋にいなかった」(十二章より)

 さて、この自然描写には小説的な書割り型の要素は微塵もない。先述したマテュスの「証言」は、生=性=自然とが乖離していく人間の文明生活と現代芸術に対する、ロレンスの根源的な問いかけに照応する。セザンヌが創造した自然からタブロー(平面)という創造(価値変換)は、金や銀という自然に代わる「貨幣」という新たな美(経済価値)の発見と創造を意味していた。現在の市場経済ではこの「貨幣」は、商品そのものとして投機の対象となり、実態経済から遊離した金融システムの網の中で、世界経済を差配する怪物的な存在となろうとしている。かつて赤瀬川原平氏が千円札を模写して芸術作品として話題になったことがあったが、こうした前衛芸術は、マルセル・デュシャンの後継者であるのは言を待たない。同じように単なる紙切れに過ぎない紙幣が、商品の媒介の手段として価値を持ち、様々な金融商品が市場を拡大し、実態以上に「金」が膨張し、統御できない事態を「恐慌」と表しても過言ではないが、絵画の世界においても「自然」から浮遊した作品が、芸術の商品として流通する様相を呈しているのが現代芸術の世界であった。
 こうした状況において、まさにマテュスの「証言」は自然と絵画との媒介性が担保され得なくなった文明への危機表明であり、また、媒介者としての画家の価値の低落(インフレーション)への警鐘であったのである。
 「わずかしか必要としない」とはそういう意味である。マテュスがセザンヌから学んだものは、自然の媒介者としての信念と価値である。マテュスが自然から感受した「情感」を重視し、それを表現の場に定着しようとしたのは当然であった。そうでなければ、「デッサンと色彩との葛藤」に直面することもなかったであろし、後年、色彩に直接にデッサンする「切り絵」の方法により、この葛藤を克服し「色彩とデッサンの合一」へいたる道は、それほど簡明なる「問題の解決」ではなかったであろう。なぜならマテュスは古典的な意味でのデッサンの信奉者ではなかったからだ。彼は線と明暗による形の描写に、避けがたい問題をみた者だ。絵画は視覚との闘いである(エマニエル・レヴェナス)という思考は、制作の現場でマテュスは実践し発見していたといっていいのである。
 ーモチーフを取り巻く小さな空間を脱出して、宇宙空間を感じとることを、しばし考えた。
 ここに後年、マテュスが「切り絵」の世界を、また視力をほぼ喪失した後も、手をもってブロンズを練り彫塑を造ることへの道へと前進するマテュスの姿勢が衰えることはない。

 先にも述べたように、マテュスはやがてタブローそのものが、作品として自然から離れて一人歩きするときがくることを、予期しなかったはずはなかった。デュシャンのレディーメイドという考えはその端的な表明である。工業製品と芸術作品の相違はどこにあるというのか。便器を「泉」と題して展覧会場に飾ることで、デュシャンはその境界を単に破壊しようとしたのではない。マテュスの「画家を必要としない」時代を、画家の介在しない一商品の展示によって表徴しようとしたのである。絵画においても複製技術の発展により、本物とその複製品とは、容易に鑑賞者にとって代替可能な時代がすぐそこに押し寄せてきていること、そのことに彼は明敏に反応したに過ぎない。商品の多量生産が始まり、写真技術が一刻一刻の運動を即時に写し取る時代に、タブローに対峙する画家の制作活動とはなんであるのか。すでにデュシャンは「階段を降りる女」という絵画作品で、画家の眼を写真家の眼に置き換えて見せていた。イタリヤの未来派やドイツのバイハウス運動の動きは、絵画をいや芸術そのものを根底から揺り動かそうとしていたのだ。芸術は大衆が「芸術」と呼ぶものに、その位置を譲ろうとしていたのである。
 ここで目をヴィーンの街角に転じてみてもいい。同じこの頃ウイーンの街角を彷徨っていた一人の芸術家の卵がいた。その男こそ後に、アドルフ・ヒットラーとして政治の世界を、軍事力という暴力をもって蹂躙し、世界地図の平面をまさに野獣派的に、荒々しく塗り替えようとした怪物そのものであった。芸術家になることに失敗した彼は、食い詰めた果てに一兵士を志願し、遂にドイツの最高権力を奪取する。「大衆」を最大限に酔わせ、活用することによってである。ヨーロッパの地政学的キャンバスを、彼は絵筆ではなく人間の血で塗り替えた。未来派宣言の中には、このような男が出現する思想的な萌芽と蠢動がすでにほのみえていたことを、ここで思い出してみても無駄ではなかろう。
 さらにその先の現代では、有名な女優の顔やコカコーラの瓶を数多く並べることで、現実に芸術は成立するに至っている。成立しているとは、それが商品として価値を持っているという意味である。このことは貨幣がそれ自身単なる紙切れにすぎないにも関わらず、商品と商品との交換を媒介する手段として価値を持つことから、やがて貨幣それ自体が商品として取引(投機)の対象となる、現代資本主義経済の活動そのものを想起してみていただきたい。
 パスカルの絵画への先見的な懐疑が、いまも失われていないのは、自然から絵画の独立をかちとったと見えたそのとき、商品に姿を変えた第二の「自然」が、「作品」のまえに同じ姿をして立ち現れるからだ。自然は芸術に復讐する、模倣された自然がつぎに芸術を模倣することによってである。
 この頃、「ピンク色のヌード」でマテュスは、自分の制作過程を写真に記録させていたことは、興味あることである。なぜなら芸術とは結果としての作品に価値を見いだすより、時間の推移によって完成へ向かって変化するその持続の過程にこそ、その芸術活動の証明があることを、彼に意識させていたからである。これはマテュスの反時代的な知性の抵抗というより、芸術作品への自然な姿勢である。フランスの哲学者ベルグソンは、「時間の歩みをとどめて現在のなかに未来を保つ快感」を曲線の優美さに見いだしていたではないか。
 さらにボードレールが「パリの憂鬱」の一節に、「流れる雲」にしか関心を懐かない不思議な男を「異邦人」として描いたのは、詩人自らの「宿命」をそこに託し、「時間」というものの美しい形象をそこに見たからにほかならない。
 こうした知的な感興は、詩人にして哲学者のポール・ヴァレリーが、パスカルにむけた鋭い批評をここで呼び起こさせずにおかない。
「パスカルを読めば彼が絵画をつくろうとしなかったことがわかる。無意味きわまる物体に似姿を骨を折って獲得することによって、そういう無意味な物体の数を倍にする必然性など彼には見えなかったのである。しかしながら、この偉大な言葉の芸術家は、自己の思考を描きだそう、言葉によるその肖像画をつくりあげようと、いったい何度努力を傾けたことか。事実、彼はついには、ただひとつを除いてあらゆる意志を、同じ拒絶のなかへとおとしこみ、死のほかはすべてを、いわば絵画のような描かれたものと見なすに至ったように思える」(傍点筆者)
 ベルグソンとは対照的に、時間(それはパスカルには「死」を待つ人々の連なりでしかなかった)になんらの可能性も懐かなかったパスカルに対する洗練された批評の毒のようなものがここには滲んでいる。これは明らかに、ヴァレリーの近親憎悪の逆転した投影なのである。彼ヴァレリーも「レオナルド・ダ・ヴィンチ」によって、自身の思考の可能性における肖像画をデッサンし、「テスト氏」では、悟性の怪物とその単純なまでの裸形の生活を描いたからである。ヴァレリーのパスカルへの態度に一種の知的な憎悪が生ずるのは、ある辛辣な断罪に由来するものだった。それは、パスカルが呻吟しつつ求めたもの(神)を、彼が敢えて退けたからである。
 パスカルが「原物」というとき、それは葦の存在にも等しい哀れな人間もそこに含んだ「自然」そのものを指している。「自然」と「虚無」のあいだに彷徨する人間の前に、深淵と驚異とを覗いた彼が、単に絵画を否定したのではない。虚無の深淵から身を起こす「私」が、畏怖の念なき自然の模写を笑うべきものと見たに過ぎない。彼ヴァレリーが同じ類の情熱をもって貶めようとしたものは、彼がデッサンした「悟性の怪物」からみれば、あまりに安易な「言葉の芸術」のレディーメイドが、「小説」という名前をもって俗世に氾濫している光景が彼の目を覆うばかりであったからだ。
 マテュスにあっては、自然の安逸な模写も自然からの奇矯な離脱もあり得るものではなかった。
 ー画家の仕事は、観察したものを解釈することにあるのではなく、事物が自分の存在に与えた衝撃を表出することにある。                                                                    (「ノート」)
 彼が「情感」という自然から与えられた感覚にこだわりつづけたのも、自然を自分を表現するためのきっかけでしかないとみたのも、同じ造形的思考の表裏の関係を強調したかったからである。絶えずセザンヌに還ろうとしたのも、セザンヌほど自然という三次元の世界をタブローという二次元の世界に変換する、造形の精神の零度の位置での意識的な闘いを強いられた画家はいなかったからである。インフレーション下の紙幣のように、いまや芸術にはなんの根拠もなくなりつつあった。こうした文明の荒廃の渦中で、その濁流に抗し、本来薄弱な根拠しかない芸術の運命を洞察し、彼マテュスはその生涯を「賭け」(パスカル)たのである。

 若き日の彼は、アカデミージュリアン時代に、すでにつぎのように言っていたではないか。
 ー目は窓にすぎず、その背後には人間がいるのだ。
ここにマテュスの自然に対しての造形的精神の態度ー自然は情感によって変形されるべきもので、模倣されるべきものではないーがはっきりと宣明されている。色彩は自然の中の色彩と似て非なるもので、空が青いから青で表現されるものではなく、その空を赤で表現する自由はなんら制限されるものではないというように。
マテュスはレオナルド・ダ・ヴィンチの「模写できるものが創造できるのだ」という言葉を、自身の「ノート」に写している。彼の旺盛なる模写(デッサン)作品を数多く見れば、それらが次第に、彼自身が言う理想に近づいていることが分かるだろう。
 ー私は光りを、そして精神的空間を暗示するためにはどうしても相互に反応し合うような固有色を全く陰影や肉付けを除いた形で用いて、完全に自分を表現しなければならぬ。
 彼が自然から画家の内部に生じた情感を大事にしようとする以上、彼の目が自然から離れることは決してあり得ないのである。
 ー絵は現実によって喚起される夢の表現や自然についての瞑想である。
或いは、
 ー自然は芸術家にとって自分を表現するためのきっかけでしかありません。
 これらの彼が「ノート」に記した片言節句は、目よりその背後にいる人間、その情感に芸術家の黄金のごとき本領を確信し得たマテュスという稀有の画家の証言であるのだ。
 ー喜びを空のなかに、樹々のなかに、花々のなかに、見いだすこと。見ようとする気を起こしさえすれば花はいたるところにある。
 ー心から、ひたむきに《歌う人たちはしあわせだ》というマテュス。
 ー芸術家はけっして《囚人》であってはならぬ。
 マテュスの造形精神の核心に、このように自由かつ溌剌たる情感(センシビリテ)があったということは、どれほど強調してもし過ぎるということはないのである。
 オセアニアの旅行でマティスがのぞいた海の光景は、彼の空間を押し広げたはずである。光りにあふれた海を自由に泳ぎまわる熱帯の魚たちを見た経験は、「ポリネシア、海」という切り絵に結実した。
ー私は周囲に魅了されてタヒチに三ヶ月滞在していた。その間眼にするもの全ての目新しさに頭はからっぽになり、ぼう然としていたが、無意識に多くを吸収していた。
この「無意識」の海こそ、色彩と線の境界と葛藤から、マティスを自由にしたものだろう。なぜなら、光りと戯れる魚と海は、画家が夢にみた空間そのものであったからだ。
 海に潜ることは、一匹の魚の目になり、無重力状態のまま、海という空間に身をゆだねることだからだ。
 ー魚に壁はない。
 こういう感覚こそ、「モチーフを取り巻く小さな空間を脱出して、宇宙空間を感じることを、しばしば考えた」マティスに有益でなかったはずはない。
「マティスの肖像」でハイデン・ヘレーラは、
「切り紙絵の手法の自由さは形態が空間の中を浮遊し、遠近法や厳格な構図の線によって一定の場所に縛りつけられないように見えることからも感じられる。空間は拡張する。それをマティスは「宇宙的」と呼んだのだ。それは構築されるものではなく、流動するなにかである。それは光と一体になり、記憶と想像力の無限の空間を示唆している。形態は、マティスの描いた金魚鉢の金魚のように、重力にしばられずに空間を移動する」とマティス芸術の本質を美しく表現している。事実、ロシアのシチュウーキンが一目見て買ったという「金魚」の大きな鉢を乗せるテーブルの脚は、最小限にしか描かれていない。ここに重力はなくなり、赤い金魚は自由に空間を移動するのだ。

 「二十世紀の美術」の著者である宇佐美圭司氏は、「この現実は人間がペスミスティックになれる閾値を超えてしまっている」との危機感の表明から、「形の表現やエネルギーが消滅していくのではなく、沸きおこるような表現の場が私たちには必要なのだ」と述べ、「イメージの解体をくいとめた」画家としてのマテュスを再評価していることは、宇佐美圭司というマルセル・デュシャンに近い画家の言として奇異に思われるかも知れない。
 今日の芸術の混迷についての、マテュス自身の明敏な判断に耳を傾けて、ひとまずこの試論を終えることにしよう。
 ーひとはまずある対象から出発します。次に感覚が生ずる。ひとは空虚から出発しない。動機のないものは何一つない。・・・彼らは動機をもたず、もはや感興も、インスピレーションも、感動もなく、「非存在の」見地を擁護し、抽象の模造品を作っています。彼らの色彩の関係と称するもののなかにはどんな表現も見い出せません。 

 最後にマテュスのつぎの言葉を記しておきたい。このとき、マテュスが「画家は舌を切るべきだ」と思ったかどうか、私は知らない。
 ーもし神がいるなら、それは私自身だ。
 パスカルがこれを聴いたら、どのような感想を懐いただろうか。
 これは涜神ではない。現代画家がその歓びにも似た労苦の果てに絞り出すように洩らした自己への矜恃であり、絵画という芸術の媒介性を信じた、謙虚で偉大な一人の画家の「神」への賛歌というべきだろう。いつ頃のことであったか、ニース近郊にある「ヴァンス礼拝堂」へ日本から赴き、礼拝堂の椅子に腰掛けて思わず落涙していた一人の日本人の漫画家を、私はテレビで見たことがあった。
 マテュスが創ったこの小さい礼拝堂こそ、最晩年にマテュスの苦闘の跡を溢れる光りで洗い浄め、彼が生涯を通じて夢見た宇宙の空間そのものであったのである。



プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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