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百瀬博教という詩人

 ある日、留守中に家人が電話をうけた。それは出版した詩集「海の賦」(85年)を贈った人からの電話に相違なかった。事情を知らない家人はろくに相手を確かめずに、電話を切ってしまったようだ。それほどにいわく言いがたい電話の内容であったのだろうと推測したが残念な思いもあった。石原裕次郎の用心棒で秋田の刑務所に6年もいた100貫を越す巨漢の詩人、その電話は百瀬博教氏からにちがいなかったからである。
 百瀬博教氏は、処女詩集『絹半纏』を出版し、1988年(昭和63年)に『新潮創刊100号記念』誌上で文芸評論家の山本健吉により、上記の表題で詩人として認められた異色の人物であった。私は文藝雑誌を読んで、山本健吉が詩人としてこの人を紹介して評価したことに賛同しないはずはなかった。山本健吉がいう通り、まさに現代には稀にみる血湧き肉躍る百瀬氏の文章に感激したからである。まして、この人物が東京市浅草区(現台東区)柳橋出身で、同じ下町に住んでいるという偶然を喜び、私の詩集をお贈りしたのだ。
 なぜ今頃になり氏を思い出したのを記しておこう。私の誕生日が2月20日であったことから、同じ誕生日の人間を面白半分に調べてみた。その中になんと百瀬博教という名前を発見したのである。その他、志賀直哉、長嶋茂雄、石川啄木、志村けん、水之江ターキー、黛敏郎、アントニオ猪木、左卜全等のリストがずらりと並んでいた。家人は「変わった人がまたずいぶんと・・・」と口の中でなにやらつぶやいていたが、一度、仕事で銀座の資生堂の「花椿賞」の担当課長に会う約束があって出かけたことがあった。その時、「花椿賞」のパーティー当日のアルバムをみせられ、その写真のなかにこの百瀬博教氏の野球帽の姿を見たときは驚いたが、この詩人の叔父貴が同じ町に住み、詩人本人を知っていることに資生堂の人はまた吃驚したようであった。
 ご参考までにウイキーからこの人の経歴を掲載することをご寛恕ねがおう。

東京市浅草区(現台東区)柳橋出身。侠客の百瀬梅太郎の次男として出生。学生時代は相撲取りを目指し、私立市川高等学校[3]では相撲部を創設して、関東大会2位、国民体育大会に出場した。立教大学文学部史学科在籍中も相撲部に所属し、同大学の相撲部は、百瀬と交流のある周防正行が1992年(平成4年)に監督した映画『シコふんじゃった。』のモデルになっているという[4]。
大学時代は1960年(昭和35年)から赤坂の高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で用心棒を勤めた。そこで俳優の石原裕次郎と知り合うことになり[5]「弟分」を名乗ることとなる。用心棒として23歳のときから拳銃の密輸を始め、28歳のときに拳銃不法所持により警視庁へ出頭。その後、裁判前に秋田県に逃亡したが結局逮捕され、6年間の刑務所生活を送り、その間に読書生活を送った[6][7][8]。
 34歳で出所し、処女詩集『絹半纏』を出版、1988年(昭和63年)に『新潮』誌上で文芸評論家の山本健吉に認められる。バブル経済の最中、債権の回収を行なったり、株式運用を行なったが、バブル崩壊により無一文になった。並行して作家の曽野綾子の進言により『新潮45』で1989年から『不良日記』を連載[5]。1992年(平成4年)から『週刊文春』で『不良ノート』の連載を開始、その他『週刊宝石』で『百瀬博教交遊録』を連載し、エッセイを執筆するなど作家として本格的に活動を始めた。日本文化研究家のエドワード・G・サイデンステッカーとは1989年(平成元年)に共著を出版。テレビ番組制作プロダクションのイーストの富永正人社長と親交を持ち、イースト制作の番組に出演した他、イーストライツが出版する雑誌『Free&Easy』に連載を持った。
格闘技愛好家としても知られる。プロレスラー・アントニオ猪木と親交を持ち、総合格闘技イベントPRIDEには1999年(平成11年)から関わりを持っていた。メディア登場時には「FOREVER YOUNG AT HEART」(心は永遠の若者)とプリントされた黒い野球帽を常に被っている事でも知られていた。大手ネット掲示板2ちゃんねるでの通称は「ピーチ」。「百瀬」の読み、「ももせ」を「桃」としてその英語読みから取られたもので、猪木はそのニックネームを知ると「ピーちゃん」と気に入っていた。
 2008年(平成20年)1月27日午前2時40分ごろ、自宅を訪れた知人が風呂場の湯船の中で意識を失っている百瀬を発見。救急搬送されたが、同日午後3時半ごろ、死亡が確認された。 死の3年ほど前から体調を悪化させていたという[15]。映画『タバコ・ロード』について書いた文章が絶筆となった。2月20日に青山葬儀所でしのぶ会「不良ノート」が開かれ、アントニオ猪木、ビートたけし、周防正行、EXILEのHIROら約700人が参列した。

 一度も会う機会はなかったが、この人は我が町の祭を盛り上げる影の人物であり、また、幾つかのエピソードがある懐かしい思い出の人であったのだ。文芸評論家の山本健吉氏は詩人の高橋睦郎氏から詩集「絹半纏」を送られて一読、得心するところがあったらしい。合掌して終わりにしたいが、「新潮」掲載の文章から、そのほんの数行の引用を許されたい。

 「私は『絹半纏』を読みながら、しばしばヴィヨンの名を思いだした。百瀬氏こそ、今日の日本でただ一人の、ヴィヨンの流ではないのか。詩に正雅の流れがあれば、怨者の流れがあり、背徳の流れもあるのが、あるべき公正なあり方ではないか。」



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評伝「江藤淳」

 先日、七百頁を越える「江藤淳」の評伝を読んだ。六十六歳で自らを処決した文芸評論家の生い立ちからその一生を、元編集担当者がおよそ7年の歳月をかけ、江藤淳なる人間の文学と人生を最大洩らさず、その秘事まで白日にさらした尋常ならざる本である。巻を措く能わず、夜に日を継いで読んだところだ。読み進むにつれて恰も江藤の霊が憑依したかのごとく、読者を圧倒する熱情の結果は長編の力作評伝としても比類ないものと思われた。
 一文人の偉業を追慕し再度この世に甦らせるに、著者がはらったエネルギーには瞠目すべきものがあるが、なによりも、江藤淳なる人物にそれだけの力量と才覚があったからに相違ない。その出自・家系もさることながら、生前の氏の実績と履歴がそれを要求し、著者はそれに応じての忠実なる伴侶として、これを勤めたその努力には敬意を払わざるえないところだろう。
 これに比べるべきもないが、今年の5月に71歳にて病没した文芸評論家の加藤典洋氏への追悼の一風景が思い返されてならない。それは本人の死生観に拠ってきたるところでもあるのだろうが、あたかも一匹の猫がこの世から姿を消すかのごときありさまには、現今の世相と出版事情とが相俟つものと推察され、なにやら薄ら寒い思いを覚えたのところであった。知見の限りでは、「群像」8月号の高橋源一郎の「論考」及び「すばる」8月号の橋爪大三郎外2名の片々たる追悼を瞥見したのみであった。こちらは東北は山形県人にして遅咲きのデビュー、他方は湘南出の早熟の才の上に、目端のきいた世渡りのグッドスイマーにしてネットワークとバックボーンには些かも支障なしとなれば、かれがの相違はもとより論を待たないことであった。浩瀚なるこの評伝にも触れられていたところであるが、加藤氏は江藤淳を批判することによって文芸評論家として最初の歩みを印したことは確かなことだろう。時代は異なるとはいえ、大岡昇平からの資料のスケットを得て、小林秀雄氏をスプリングボードに批評家として立った江藤淳氏も同様のことは、縷々この評伝に記されているとおりであろう。
 題41章、戦後体制への異議申し立てにおける、「なぜ平野謙批判から始ったか」に次ぎのくだりがある。
「ヒント(最晩年の病人・平野に、江藤氏が死者に鞭打つ仕打ちにでたー引用者注)は加藤典洋の江藤淳論の書『アメリカの影』の中にあるといえる。加藤は(無条件降伏)論争の四年前に出た江藤の英文著作『ある国家の再生―戦後日本小史』に、「日本は無条件降伏した」と明記しているのを隠して、平野を批判した態度を「不明朗」だとした。その部分には、こう書かれている。「1945年8月15日正午ちょうど、天皇はレコードに録音された肉声によってラジオの全国放送網を通じ、日本の連合国に対する無条件降伏を発表した」(加藤訳)。日本では流布しない英文の本とはいえ、確かに不明を恥ずべき江藤の汚点であろう。この江藤の英文によく似た一文が、実は平野の『現代日本文学史』にはある。江藤が平野攻撃のために引用した文の直前である。
「かくて昭和20年8月15日の昼さがり、無条件降伏をつげる天皇の声は、電波にのって全国になりひびいたのである」
 江藤が平野の文章を批判しなければならなかった理由は、引用しなかったこの部分にこそあるだろう。江藤は「光栄ある敵」である平野の名を借りて、自身の文章を断罪したのである。(略)己への断罪の隠蔽をさらなるエネルギーにして、江藤は無条件降伏以後を戦ったのではないだろうか。」
 著者はこうした推測の根拠を解明するため以降の数頁を割いて江藤援護の論陣をはる周到ぶりはみごとという外はない。生前の江藤淳氏の業績を追いかけ、その透徹した洞察と鋭利な分析、ブリリアントな語学力と広い教養、明敏なる文章に時を忘れたむかしが思い出されてならない。「諸君よ」と呼びかけ自ら処決して人生を断ち切った英明なる評論家の胸中を思いその熱い志を、墳墓から今一度この世に甦らせようとの計らいは同慶の念を禁じがたいところである。
 さらに、「『平成』の虚妄を予言し、現代文明を根底から疑った批評家の光と影―。」と帯に記されているこの本が、精密にして戦意に溢れ、酷烈にして秀抜な評伝であることを肯わないわけではない。
 だが、ひっそりとあの世へ旅立った同時代の一人の批評家は、その息子の不慮の死から「彼は人が死ぬとうことがどういうことであるかを教えてくれた」と「人類が永遠に続くのでないとしたら」(2014年)の「あとがき」に記しさえした。なによりも江藤淳が第一回三島由紀夫賞にノミネートした高橋源一郎が先の「論考」で評価したこの書物の「序 モンスターと穴ぼこ」に、加藤がみた福島原発事故からの「無ー責任の世界」の現実と危機は、原子力行政と電力会社の不祥事をみるまででなく、江藤氏が批判した「ごっこの世界」でも「『平成』の虚妄」でもないのである。加藤の遺書ともいえるこの書の先見的な思考に注目し、さきの戦争で犠牲となった内外の死者たちへの追悼に深甚なる思慮をさぐりつづけた批評家を偲ぶとき、この本の端々に濛々と渦巻くある種の尊大なる姿勢に、いささか眉を顰めざるえないことを正直告白せざるえないだろう。
 さて、明日は令和の時代の幕開け、即位礼正殿の儀はすぐ目前となった。





詩人 中野重治

 中野は「斉藤茂吉ノート」のはじめで、茂吉について語る自分の資格を疑ぐる。「ほんとうにやりたいこと」はとのアンケートに「学問」と答えた中野という人間に、かつて強い印象をうけたことがあった。
 「歌」「雨の降る品川駅」等である。萩原朔太郎や中原中也、また西欧の近代詩に比べるとどこか中国の述志に類する強い覚悟が、陣中へ柄当てをされたような暗い痛苦を刻んだが、同時にその詩の深い底のどこかにロマンティックな翳りがみえ、そこに詩人ハイネを偲ばせる雄々しい爽快さが流れていた。戦前と戦後の現在では詩を書く情況はまったくちがっているというような浅薄な体捌きで、私の額を痛撃した中野の太刀をかわすことなど、群小の小手先「詩人」たちに出来るはずはないにちがいない。「豪傑」や「機関車」のごとき詩は、中野の中で鍛錬され、氏が斉藤茂吉の歌の中にみた「南蛮鉄の如き覚悟」の表出だが、

ただそいつらはどれもこれも
めめしい けれで金の色をした記憶なのだ
それが金の色をしているというばかりにおれは
胸を疼かしたりしていまだに棄てきれないでいるのだ (中略)
夜の噴水のように ぽろぽ それを琴にしてせめておれは歌がうたいたい   (「噴水のよに」)

ひとの心のなかへ降りて行くのはもう止しだ
こんどは浮きあがる番だ
さあ浮きあがれ うかべ
このやくざな心臓にささらをかけて
            (「ぼろ切れ」)

 こうした跼蹐をかかえた中野という人間の自己変革の劇を見ることなしに、あの「歌」も「夜明けまえのさようなら」も、詩として自立するはずはなかったのにちがいない。
 そして、絶唱の一篇ともいうべき「雨の降る品川駅」は、こうした中野重治という、詩人であるまえに、ひとりの中身のある実践的人間であろうとした男の、万感の思いが凝結し、慈愛にみちた女性的な繊細さと強固な意志を貫かんとする男性原理との合金、日本のささら鉄の塊より鍛冶された真剣のように、冷たい雨に濡れた駅頭に美々しく屹立しているのである。
 中野は言う。「中身のつまっていないせっぱつまった状態なんてものはどこにもない。そして中身がつまっているということは、その仕事に当人が身を打ちこんでいること、全身で歩いていることにほかならない。僕の考えている「素朴」というのはそういう態度をさしている」。・・・芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値がかかってくるということなのだ。制作をどこまでたたきあげるかということは、生活をどこまでたたきあげるかということを基礎にしないかぎりいくらやってみても堕落だと中野は思うのだ。・・・ドストエフスキーは自分の肉体で物語をこさえた。ツルゲーネフは小説をこさえるために生活した、と。
 ハイリッヒ・ハイネと同年に死んだ、日本の二宮尊徳の偉業をハイネと等価に見ようとする中野重治のリアリズムの精神は、情報化や消費社会の波乗りに現を抜かしている世界の足下を、太い鉈で薙ぎ払う新しい現実の出現に、驚愕する日が来ないという保証はどこにもないのである。9,11の福島は、実際にそういうことであった。
 ところで、既存の「経済学」をギリシャの経済学の「CATALLASEIN」なる用語から、ケネーやハイエクの「市場」に関する言説の示唆をうけ、「交換する」だけではなく「コミニティーに入る」「敵から味方に変わること」の三つの含意に着目し、人間にとって経済とは何であるのかという根底的な問いから、近代経済学に欠けている領域に「新しい経済学」を模索している中沢新一の「経済学とトポロジー」(「野生の科学」所収)を興味深く読んだところだ。
 中野重治が注目した二宮尊徳の弟子の一人であった岡田良一郎等(「二宮尊徳」奈良本辰也)が明治に起こした「報徳運動」は、その最初の足跡を静岡県掛川市に、伊藤博文などの資金援助で設立した「大日本報徳社」の門柱には、片方が経済門、もう片方が道徳門であることは、農業思想家の尊徳には自明な前提を為していたことを、こうした中沢の探求から改めて思い出した次第であった。
 
        野生の科学


(注)本ブログは、2013年1月のブログから転載したものである。




次郎長の青春

 阿佐田哲也の「麻雀放浪記」を面白く読んだ人は、この著者が直木賞作家ではあるがまた稀代のギャンブラーであることはご存じだろう。友人から是非に読めと、むかし、「怪しい来客簿」(泉鏡花賞)という文庫本を貰った。戦中派のこの人はじつに多くの人間と交わり、その生き死にと、戦後の暮らしぶりを自ら体験してきた。重い題材を軽妙に語る作家は「離婚」という小説で直木賞を受賞している。結婚から離婚までの経緯が書かれているが深刻な話しにはなっていない。この「次郎長放浪記」の原題は「清水港のギャンブラー」。家を飛び出し無宿者の青年の生き様が溌剌に描かれている。一番の舞台はやはりツボ振りの賭場の駆け引きにある。丁半の博打からはじまって、世の中が乱れはじめた江戸後期の博徒たちの、転がるサイの目に運を賭け、いのちの糸がピンと張った賭場の空気が伝わって、遊び人たちの切り詰めた丁々発止の科白のやりとりがなんとも気持がいい。「私の旧約聖書」でアブラハムにかこつけて愛した「放埒の気配」が賭場には漂っているからだ。
「この物語に手をつける前に、一応、次郎長に関する史実と称されるものに眼をとおしてみたが、おおむね興味をひかなかった。史実といったところで、事実は本人の胸の内にしかないし、又私自身、次郎長に限らず他人がどうしたこうしたということには興味はない」
 ここに「麻雀放浪記」の作者の余分なものを切り捨てた潔い度胸が座っている。だからといって、作者がこの世間を見る目には油断はない、むしろ明敏で冷徹なほどの神経が働くのであるが、その目がふと緩んだ瞬間、細やかであたたかい気配が広がる。作者の本領はここにあり、やがて清水港の次郎長という親分に治まる一青年へと投影されていくのだ。
 「色川武大」(「ちくま日本文学全集」)の解説には、人生論や人となりについて書かれている。いかにも面白いので抜き書きをしておきたい。
「人間、ツキのフクロの大きさは同じだ。勝ち過ぎれば必ずやぶける。・・・・どんな話しでもできて、優しい人だったから、友達はとても多かった。年齢も職業の範囲もやたら幅が広い。色川さんは誰の悪口も言わなかったし、色川さんを悪く言う人もまったくいない。」
 あるとき旅の托鉢僧が次郎長の人相を見て、「おまえはなかなかの顔立ちをしている」という。養父が亡くなり清水の甲田屋の若旦那であった次郎長はその翌日には無宿者の道を歩き出している。もう店の金をチョロまかして賭場で遊ぶことはできない。遊び友だちも不運から賭場で片腕を切り落とされ片端者になった。
「ああなってはおしまいだ。ああなりたくはない。無宿者は、賢く、素早く生きるだけでは不足で、目先の不運を避けて通る力を養わなければならない」
 そこへテラ銭を貸す小冨(今の闇金)が近づいていう。「世の中はだんだん新しい方向へ向かってる。新しい世の中には、新しい悪党が出てくる理屈だ。長さん、お前、ひとつ、こっそりとテラをとってみねえか」
 ここから次郎長の豊川の賭場へ足をむけ、尾張藩槍組の小頭、山本政五郎(後の大政)、保下田村の名主の倅、九六たちに出合うことになって、ストリーが動きだすのだ。
「博打に友情も何もない。強い者、ツイている者に同調することだ。素早く同調できる者が実力者なのだ」
 だがこの賭場に捕り方の侵入をうけ、次郎長は九六と共に牢屋へとぶち込まれる。これで中途半端な贅肉がとれ、次郎長は九六と一緒に牢名主の権威に屈せず、俺だって人間なんだという、ほんものの無宿者になる。博打に罪の意識が消えていく。
(ケッ、何が御定法だイ―)
 百叩きの刑にあったあと、十手持ちの武市親分に連れられ一宿一飯の恩義になるが、次郎長の自由に生きたいという青年の夢はふくらんでいく。この次郎長の若者と親分との会話はこのロマンがリアルなこの現世の掟との対比のうねりの中にあることを示す場面だ。人に関わって生きていかねばならない。関わればそれなりの報いを払わねば生きられない因果を、これからの次郎長はとくと知ることになるだろう。事を起こせば、その一家の者から付け狙われることになるが、これを救うのは次郎長の育ちのよさと愛嬌であると作者はそっといっているようだ。
「侍の世界でも、勤王、佐幕、なんとかかんとかいいやがって群れていやがるだろう。町の世界でも、いろんな群れがいても不思議じゃない」
 この裏街道の町へと長じて清水の親分となる不良少年の次郎長が、大政、小政、法印の大五郎等と徒党を組んで、悪戦苦闘の青春の日々を、博徒として生きていく幕末のロマン小説を洒脱に書ける人は、「麻雀放浪記」の阿佐田哲也以外にはいないだろう。



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「9條入門」加藤典洋著

 1995年に文芸雑誌に発表された「敗戦後論」以来、文芸評論家の加藤典洋の著書に深い関心を寄せてきました。この「9條入門」は事実上著者の最後の本となりました。上梓されてから3ヶ月後に氏は71歳で病に倒れ不帰の人となったのです。加藤の遺書ともなった「9條入門」に立ち入ることで、その要点のあらましを紹介してみましょう。
 まず現憲法の条文を掲げてみます。

第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 加藤のこの本は、第一部が出生の秘密(敗戦から憲法制定まで)、第二部が「平和国家と冷戦のはじまり(9條・天皇・日米安保)と、大きくふたつで構成されています。全部で6章となりますが、第二部の5と6章に加藤の国連寄りの考えに難点を見ていた者には、ここで国連憲章52条とダレスの関わり合いを知り、さらに天皇の独自外交の推測の提示により、氏の国連寄りの姿勢に補強が為されていることに気づくことでしょう。この具体策は加藤の「戦後入門」(2015年)の第5部「ではどうすればよいか」ー私の9條強化案を参照して下さい。
 冒頭に「はじめにー憲法9条に負けるな」があります。「敗戦後論」(1950)にも「はじめにひとつのお話をしておきたい」としてエピソードの紹介がありました。加藤という文芸評論家は比喩の名手でありますが、本の「はじめに」のところで、読者のためになかなか含蓄に富んだ一文を挿入する人でもあります。ここで立ち止まってこれを紹介しますと、つぎのようなことが書いてあります。
「・・・私は、この間、この本を用意するためにいろんな文献を読んでいるうちに、憲法9条というのは、必ずしも戦後の日本になかったとしてもよかったのではないだろうか、と思うようになりました。というか、一度はそう考えてみる必要があったのだ、と考えるようになったのです。」
 平和についての考え方は、本来下から生れてくるはずのもので、「平和条項」などに吸い上げられ、鋳型にはめられてはひ弱なものになると加藤は思ったのです。
「だから憲法9條はいらない、というのではありません。憲法9條に負けたままでは、とても憲法9条を生きるということはできないはずだな、と思ったのです。憲法9条に負けたままというのは、ただ憲法9条を有り難がっているだけでは、という意味です。」
 加藤のこの本では、この「はじめに」で噛み砕いて言われたことは大事な意味をもってきます。それは読みすすむにつれ何度もでてきますが、「特別な平和条項」と「ただの平和条項」として説かれ、家でいうなら前者は二階、後者は一階に相当するものとかんがえられるのです。こうした考え方はこの憲法が押しつけられたものか、そうではないものかという二つの憲法観の違いにまで現れきます。
 この本は、学者や思想家の考え方を多く引照しながら、例えば、マッカーサーやダレス、アメリカ大統領そして日本の天皇や政治家が登場して、「憲法9条」を廻る関わり合いを紹介します。そうした人物の活躍が綱を編むかのうにして形づくられた憲法の語り口は、あたかも一篇の物語であるかのように読むことができます。本の帯に9条の物語ということばがありますが、まさにそうした読み物として書かれているのです。
 この第一部で加藤はこう言っています。
「私のこの本での考察は、この問題(「押しつけ」の主体とはなんだったのか)についてはの新しい研究成果に立っています。近年明らかになったように、憲法改正の第一歩は、最初からはっきりとした計画のもとではじまったわけではなかった。背後にあったさまざまな力のせめぎあいの結果、進行していったのだという点が、非常に重要だと考えているからです。たしかに「押しつけ」はあった。しかしそれは、1946年2月の段階での、GHQ草案の日本政府による受け入れに関していえることで、しかもその主体はマッカーサーでもアメリカでも連合国でもなく、この三者の力と意図がせめぎあう場のアマルガム(結合体)だったとぃうのが、私の考えです。」
 この加藤の考え、「古典的な改憲論、護憲論の理解では、すでに70年以上を生きた現在の憲法9條が帯びる多層的な意味は、もはやとらえられなくなっている」という現状認識ですが、この書物の根底にあるリアルな前提として大変重要なところです。アメリカの「無条件降伏」政策を「アメリカの陰謀」とした江藤淳の主張を退け、「占領管理権限」をめぐってのいくつかの思惑がからまった連合国間、またGHQとアメリカ、連合国とのあいだの権限の「せめぎあい」であったという分析に引き継がれます。この本の特徴はこうした「背後のせめぎあい」を非常に真摯に把握しようとしている努力にあるのです。「日本占領」の主導権争いについてもそれは発揮されていますが、マッカーサーという人物の個性への注目も、このせめぎあいの大きな要因のひとつであることを加藤は見逃していません。特にマッカーサーのアメリカ大統領への野望はこの憲法の成立ちに大きな影を落としているからです。
 つぎに加藤が注目するのが、マッカーサーと天皇とのよく知られた会談(1945年9月27日)へ至る経緯とその内容です。これはマッカーサーの日本の占領政策と天皇の戦争責任の免除に関連します。結論から先にいうと、第9條は第1条とセットになっていること。即ち、天皇から政治権力を奪い(1条)、軍事力も放棄する(9条)という憲法改正案の浮上でした。
 当初のマッカーサーとGHQの主要な任務は日本の占領政策の遂行で、最重要の課題が天皇の免罪の実現でした。憲法改正は日本に任せるはずだったのです。だが1946年1月に実現した極東諮問委員会(これは米ソ間の妥協の産物、かつ改正ではGHQより優位な権限を持つ)が2月末に発足する事態の進行が、GHQの頭ごしにマッカーサーの「独立王国」が憲法改正へと急速に舵をとって走り出す契機となったとみます。この経緯と結果については本文をお読み戴くことを期待してここで縷々述べることを省きますが、文芸評論家の加藤の面目が光るのはこの部分にあるのです。簡単に述べますと、「マッカーサー回想録」神話の読解を含む憲法9条の性格規定で、ここで三つのことの解明されるのです。一つは天皇とマッカーサーの二人の会見時にあったとされる天皇の「戦争全責任発言」の真偽に関わること、二つ目が9条が「ただの9條」か「特別な9条」(世界に冠たる9条)かという改憲派と護憲派とを別つ事項、三つ目が現憲法が「押しつけられた」のかそうでないのかという、出生の秘密が解かれていくのです。加藤は探偵小説さながらの手つきでこの「秘密」に肉薄しています。
 第二部は「戦争放棄から平和国家へ」となります。ここでの要点は「憲法第1条の天皇制の民主化によって生じた『空白』が、戦争放棄の『道義』性によって埋められる」ことでした。ここでの加藤の認識はこういう形をとります。「なぜ憲法9条が日米安保条約への言及なしでも完結し、不足を感じさせない話法のうちに語られるようになるのか」と。戦後憲法に「革命説」をとった宮沢俊義をはじめ、美濃部達吉、横田喜三郎、江藤淳、南原繁、吉田茂、丸山真男等を登場させ興味ある場面が展開されますが、文芸評論家としての加藤は日本の錚々たる人物について、非と賞賛を惜しみません。そしてマッカーサーとダレスの角逐から朝鮮戦争の勃発、中国という共産主義国の台頭、軍拡競争等を背景に、もともと国連の集団安保体制を前提にした「9条」は、国連憲章に通暁したダレスの巧妙な論理に屈します。そこに天皇による「外交」という驚くべき「事実」が重なり、「ニヒリズムと表裏一体の平和主義」となるというのが身体の不調のなかで記した「9條入門」の物語でした。しかし、加藤が発した問い「昭和天皇の心中の苦悩に焦点をあてた本は、これまで一冊も書かれていないのではないでしょうか」というつぶやきを含む「天皇と9条」の部分には、著者の心理のゆらぎが入り込んでいるように見えてなりません。これは例えば戦前の皇国青年の反省から、文学的な発想の無効を自覚してつぎのように呟いた吉本隆明の「自分はあの人より先に死ぬわけにはいかない」という内心の声とは違う戦後の人の声です。
 著者は実に多くの文献を渉猟し、調べあげ、微に入り細を穿つ類いの研究と努力の跡が見られます。「ひとまずのあとがき」を読めば「つぎの本」を書く予定があったことが知られますが、大変に口惜しいことに、病変がその可能性を奪ってしまいました。この「つぎの本」が「もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために」(2017年8月)を踏まえたものでありましょう。この「9條入門」はリベラリストたらんとした加藤の最後の著書となりました。
 さきの本「尊皇攘夷思想のために」には、疲弊するばかりの日本の情況を憂え、ある危険を承知で幕末の精神的な血潮を注ぎこみたいという願望にはどこか性急な口吻が窺えだすのは仕方のないことかも知れません。
「300年のものさしー尊皇攘夷と現代世界」で氏はこう述べます。「幕末の尊皇攘夷思想こそが、日本の近代の文脈に置く限り、戦後のリベラルな思想を含む、日本の近代以降の内発的なすべての思想の出発点であり、祖型なのです」。そして「最後にー丸山眞男の幻像」から示唆された方角へ目を向け、自分なりの尊皇攘夷思想の開く視界を踏査してみようと思っています」
 「明治150年の先へ」と題した章で、氏は3つの小文を書いている。1つは「上野の想像力」である。これはタウン雑誌「上野」に載ったもので、上野の西鄕の銅像をみてこう述べる。
「考えてみれば上野は明治以来、『敗者の想像力』とともに、『敗者の想像力』それ自体が、いまも息づく場所なのだ」。「私は東北は山形の生れである。・・・・東京は中学三年生の修学旅行ではじめて来た。降り立った場所が東北線の上野ホームで、その後、何度もお世話になる十六番線だった」
 ここで加藤にはめずらしい素顔をのぞかせている。そして、つぎに下の2つがある。
「八月の空のした、二人の天皇の声が重なりながら降ってくる。」(「八月の二人の天皇」)
「善悪の基準とは何か。明治150年を前に私はひそかにそう考えている。」(「明治150年と『教育勅語』」)

 71年の生涯を加藤という人間は、いったい何と戦ってきて倒れたのだろう。そんな疑問がふと胸をよぎる。氏は「敗戦後論」でその対手をハッキリと掴んだこと明らかだが、それはどこから加藤にやってきた使命なのだろうか。
 いまはただ、加藤がみた未来の展望に描こうとした苛烈な理想を夢想しながら、氏のご冥福をお祈りするばかりです。



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プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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