FC2ブログ

次郎長の青春

 阿佐田哲也の「麻雀放浪記」を面白く読んだ人は、この著者が直木賞作家ではあるがまた稀代のギャンブラーであることはご存じだろう。友人から是非に読めと、むかし、「怪しい来客簿」(泉鏡花賞)という文庫本を貰った。戦中派のこの人はじつに多くの人間と交わり、その生き死にと、戦後の暮らしぶりを自ら体験してきた。重い題材を軽妙に語る作家は「離婚」という小説で直木賞を受賞している。結婚から離婚までの経緯が書かれているが深刻な話しにはなっていない。この「次郎長放浪記」の原題は「清水港のギャンブラー」。家を飛び出し無宿者の青年の生き様が溌剌に描かれている。一番の舞台はやはりツボ振りの賭場の駆け引きにある。丁半の博打からはじまって、世の中が乱れはじめた江戸後期の博徒たちの、転がるサイの目に運を賭け、いのちの糸がピンと張った賭場の空気が伝わって、遊び人たちの切り詰めた丁々発止の科白のやりとりがなんとも気持がいい。「私の旧約聖書」でアブラハムにかこつけて愛した「放埒の気配」が賭場には漂っているからだ。
「この物語に手をつける前に、一応、次郎長に関する史実と称されるものに眼をとおしてみたが、おおむね興味をひかなかった。史実といったところで、事実は本人の胸の内にしかないし、又私自身、次郎長に限らず他人がどうしたこうしたということには興味はない」
 ここに「麻雀放浪記」の作者の余分なものを切り捨てた潔い度胸が座っている。だからといって、作者がこの世間を見る目には油断はない、むしろ明敏で冷徹なほどの神経が働くのであるが、その目がふと緩んだ瞬間、細やかであたたかい気配が広がる。作者の本領はここにあり、やがて清水港の次郎長という親分に治まる一青年へと投影されていくのだ。
 「色川武大」(「ちくま日本文学全集」)の解説には、人生論や人となりについて書かれている。いかにも面白いので抜き書きをしておきたい。
「人間、ツキのフクロの大きさは同じだ。勝ち過ぎれば必ずやぶける。・・・・どんな話しでもできて、優しい人だったから、友達はとても多かった。年齢も職業の範囲もやたら幅が広い。色川さんは誰の悪口も言わなかったし、色川さんを悪く言う人もまったくいない。」
 あるとき旅の托鉢僧が次郎長の人相を見て、「おまえはなかなかの顔立ちをしている」という。養父が亡くなり清水の甲田屋の若旦那であった次郎長はその翌日には無宿者の道を歩き出している。もう店の金をチョロまかして賭場で遊ぶことはできない。遊び友だちも不運から賭場で片腕を切り落とされ片端者になった。
「ああなってはおしまいだ。ああなりたくはない。無宿者は、賢く、素早く生きるだけでは不足で、目先の不運を避けて通る力を養わなければならない」
 そこへテラ銭を貸す小冨(今の闇金)が近づいていう。「世の中はだんだん新しい方向へ向かってる。新しい世の中には、新しい悪党が出てくる理屈だ。長さん、お前、ひとつ、こっそりとテラをとってみねえか」
 ここから次郎長の豊川の賭場へ足をむけ、尾張藩槍組の小頭、山本政五郎(後の大政)、保下田村の名主の倅、九六たちに出合うことになって、ストリーが動きだすのだ。
「博打に友情も何もない。強い者、ツイている者に同調することだ。素早く同調できる者が実力者なのだ」
 だがこの賭場に捕り方の侵入をうけ、次郎長は九六と共に牢屋へとぶち込まれる。これで中途半端な贅肉がとれ、次郎長は九六と一緒に牢名主の権威に屈せず、俺だって人間なんだという、ほんものの無宿者になる。博打に罪の意識が消えていく。
(ケッ、何が御定法だイ―)
 百叩きの刑にあったあと、十手持ちの武市親分に連れられ一宿一飯の恩義になるが、次郎長の自由に生きたいという青年の夢はふくらんでいく。この次郎長の若者と親分との会話はこのロマンがリアルなこの現世の掟との対比のうねりの中にあることを示す場面だ。人に関わって生きていかねばならない。関わればそれなりの報いを払わねば生きられない因果を、これからの次郎長はとくと知ることになるだろう。事を起こせば、その一家の者から付け狙われることになるが、これを救うのは次郎長の育ちのよさと愛嬌であると作者はそっといっているようだ。
「侍の世界でも、勤王、佐幕、なんとかかんとかいいやがって群れていやがるだろう。町の世界でも、いろんな群れがいても不思議じゃない」
 この裏街道の町へと長じて清水の親分となる不良少年の次郎長が、大政、小政、法印の大五郎等と徒党を組んで、悪戦苦闘の青春の日々を、博徒として生きていく幕末のロマン小説を洒脱に書ける人は、「麻雀放浪記」の阿佐田哲也以外にはいないだろう。



      IMG00353 (3)


「9條入門」加藤典洋著

 1995年に文芸雑誌に発表された「敗戦後論」以来、文芸評論家の加藤典洋の著書に深い関心を寄せてきました。この「9條入門」は事実上著者の最後の本となりました。上梓されてから3ヶ月後に氏は71歳で病に倒れ不帰の人となったのです。加藤の遺書ともなった「9條入門」に立ち入ることで、その要点のあらましを紹介してみましょう。
 まず現憲法の条文を掲げてみます。

第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 加藤のこの本は、第一部が出生の秘密(敗戦から憲法制定まで)、第二部が「平和国家と冷戦のはじまり(9條・天皇・日米安保)と、大きくふたつで構成されています。全部で6章となりますが、第二部の5と6章に加藤の国連寄りの考えに難点を見ていた者には、ここで国連憲章52条とダレスの関わり合いを知り、さらに天皇の独自外交の推測の提示により、氏の国連寄りの姿勢に補強が為されていることに気づくことでしょう。この具体策は加藤の「戦後入門」(2015年)の第5部「ではどうすればよいか」ー私の9條強化案を参照して下さい。
 冒頭に「はじめにー憲法9条に負けるな」があります。「敗戦後論」(1950)にも「はじめにひとつのお話をしておきたい」としてエピソードの紹介がありました。加藤という文芸評論家は比喩の名手でありますが、本の「はじめに」のところで、読者のためになかなか含蓄に富んだ一文を挿入する人でもあります。ここで立ち止まってこれを紹介しますと、つぎのようなことが書いてあります。
「・・・私は、この間、この本を用意するためにいろんな文献を読んでいるうちに、憲法9条というのは、必ずしも戦後の日本になかったとしてもよかったのではないだろうか、と思うようになりました。というか、一度はそう考えてみる必要があったのだ、と考えるようになったのです。」
 平和についての考え方は、本来下から生れてくるはずのもので、「平和条項」などに吸い上げられ、鋳型にはめられてはひ弱なものになると加藤は思ったのです。
「だから憲法9條はいらない、というのではありません。憲法9條に負けたままでは、とても憲法9条を生きるということはできないはずだな、と思ったのです。憲法9条に負けたままというのは、ただ憲法9条を有り難がっているだけでは、という意味です。」
 加藤のこの本では、この「はじめに」で噛み砕いて言われたことは大事な意味をもってきます。それは読みすすむにつれ何度もでてきますが、「特別な平和条項」と「ただの平和条項」として説かれ、家でいうなら前者は二階、後者は一階に相当するものとかんがえられるのです。こうした考え方はこの憲法が押しつけられたものか、そうではないものかという二つの憲法観の違いにまで現れきます。
 この本は、学者や思想家の考え方を多く引照しながら、例えば、マッカーサーやダレス、アメリカ大統領そして日本の天皇や政治家が登場して、「憲法9条」を廻る関わり合いを紹介します。そうした人物の活躍が綱を編むかのうにして形づくられた憲法の語り口は、あたかも一篇の物語であるかのように読むことができます。本の帯に9条の物語ということばがありますが、まさにそうした読み物として書かれているのです。
 この第一部で加藤はこう言っています。
「私のこの本での考察は、この問題(「押しつけ」の主体とはなんだったのか)についてはの新しい研究成果に立っています。近年明らかになったように、憲法改正の第一歩は、最初からはっきりとした計画のもとではじまったわけではなかった。背後にあったさまざまな力のせめぎあいの結果、進行していったのだという点が、非常に重要だと考えているからです。たしかに「押しつけ」はあった。しかしそれは、1946年2月の段階での、GHQ草案の日本政府による受け入れに関していえることで、しかもその主体はマッカーサーでもアメリカでも連合国でもなく、この三者の力と意図がせめぎあう場のアマルガム(結合体)だったとぃうのが、私の考えです。」
 この加藤の考え、「古典的な改憲論、護憲論の理解では、すでに70年以上を生きた現在の憲法9條が帯びる多層的な意味は、もはやとらえられなくなっている」という現状認識ですが、この書物の根底にあるリアルな前提として大変重要なところです。アメリカの「無条件降伏」政策を「アメリカの陰謀」とした江藤淳の主張を退け、「占領管理権限」をめぐってのいくつかの思惑がからまった連合国間、またGHQとアメリカ、連合国とのあいだの権限の「せめぎあい」であったという分析に引き継がれます。この本の特徴はこうした「背後のせめぎあい」を非常に真摯に把握しようとしている努力にあるのです。「日本占領」の主導権争いについてもそれは発揮されていますが、マッカーサーという人物の個性への注目も、このせめぎあいの大きな要因のひとつであることを加藤は見逃していません。特にマッカーサーのアメリカ大統領への野望はこの憲法の成立ちに大きな影を落としているからです。
 つぎに加藤が注目するのが、マッカーサーと天皇とのよく知られた会談(1945年9月27日)へ至る経緯とその内容です。これはマッカーサーの日本の占領政策と天皇の戦争責任の免除に関連します。結論から先にいうと、第9條は第1条とセットになっていること。即ち、天皇から政治権力を奪い(1条)、軍事力も放棄する(9条)という憲法改正案の浮上でした。
 当初のマッカーサーとGHQの主要な任務は日本の占領政策の遂行で、最重要の課題が天皇の免罪の実現でした。憲法改正は日本に任せるはずだったのです。だが1946年1月に実現した極東諮問委員会(これは米ソ間の妥協の産物、かつ改正ではGHQより優位な権限を持つ)が2月末に発足する事態の進行が、GHQの頭ごしにマッカーサーの「独立王国」が憲法改正へと急速に舵をとって走り出す契機となったとみます。この経緯と結果については本文をお読み戴くことを期待してここで縷々述べることを省きますが、文芸評論家の加藤の面目が光るのはこの部分にあるのです。簡単に述べますと、「マッカーサー回想録」神話の読解を含む憲法9条の性格規定で、ここで三つのことの解明されるのです。一つは天皇とマッカーサーの二人の会見時にあったとされる天皇の「戦争全責任発言」の真偽に関わること、二つ目が9条が「ただの9條」か「特別な9条」(世界に冠たる9条)かという改憲派と護憲派とを別つ事項、三つ目が現憲法が「押しつけられた」のかそうでないのかという、出生の秘密が解かれていくのです。加藤は探偵小説さながらの手つきでこの「秘密」に肉薄しています。
 第二部は「戦争放棄から平和国家へ」となります。ここでの要点は「憲法第1条の天皇制の民主化によって生じた『空白』が、戦争放棄の『道義』性によって埋められる」ことでした。ここでの加藤の認識はこういう形をとります。「なぜ憲法9条が日米安保条約への言及なしでも完結し、不足を感じさせない話法のうちに語られるようになるのか」と。戦後憲法に「革命説」をとった宮沢俊義をはじめ、美濃部達吉、横田喜三郎、江藤淳、南原繁、吉田茂、丸山真男等を登場させ興味ある場面が展開されますが、文芸評論家としての加藤は日本の錚々たる人物について、非と賞賛を惜しみません。そしてマッカーサーとダレスの角逐から朝鮮戦争の勃発、中国という共産主義国の台頭、軍拡競争等を背景に、もともと国連の集団安保体制を前提にした「9条」は、国連憲章に通暁したダレスの巧妙な論理に屈します。そこに天皇による「外交」という驚くべき「事実」が重なり、「ニヒリズムと表裏一体の平和主義」となるというのが身体の不調のなかで記した「9條入門」の物語でした。しかし、加藤が発した問い「昭和天皇の心中の苦悩に焦点をあてた本は、これまで一冊も書かれていないのではないでしょうか」というつぶやきを含む「天皇と9条」の部分には、著者の心理のゆらぎが入り込んでいるように見えてなりません。これは例えば戦前の皇国青年の反省から、文学的な発想の無効を自覚してつぎのように呟いた吉本隆明の「自分はあの人より先に死ぬわけにはいかない」という内心の声とは違う戦後の人の声です。
 著者は実に多くの文献を渉猟し、調べあげ、微に入り細を穿つ類いの研究と努力の跡が見られます。「ひとまずのあとがき」を読めば「つぎの本」を書く予定があったことが知られますが、大変に口惜しいことに、病変がその可能性を奪ってしまいました。この「つぎの本」が「もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために」(2017年8月)を踏まえたものでありましょう。この「9條入門」はリベラリストたらんとした加藤の最後の著書となりました。
 さきの本「尊皇攘夷思想のために」には、疲弊するばかりの日本の情況を憂え、ある危険を承知で幕末の精神的な血潮を注ぎこみたいという願望にはどこか性急な口吻が窺えだすのは仕方のないことかも知れません。
「300年のものさしー尊皇攘夷と現代世界」で氏はこう述べます。「幕末の尊皇攘夷思想こそが、日本の近代の文脈に置く限り、戦後のリベラルな思想を含む、日本の近代以降の内発的なすべての思想の出発点であり、祖型なのです」。そして「最後にー丸山眞男の幻像」から示唆された方角へ目を向け、自分なりの尊皇攘夷思想の開く視界を踏査してみようと思っています」
 「明治150年の先へ」と題した章で、氏は3つの小文を書いている。1つは「上野の想像力」である。これはタウン雑誌「上野」に載ったもので、上野の西鄕の銅像をみてこう述べる。
「考えてみれば上野は明治以来、『敗者の想像力』とともに、『敗者の想像力』それ自体が、いまも息づく場所なのだ」。「私は東北は山形の生れである。・・・・東京は中学三年生の修学旅行ではじめて来た。降り立った場所が東北線の上野ホームで、その後、何度もお世話になる十六番線だった」
 ここで加藤にはめずらしい素顔をのぞかせている。そして、つぎに下の2つがある。
「八月の空のした、二人の天皇の声が重なりながら降ってくる。」(「八月の二人の天皇」)
「善悪の基準とは何か。明治150年を前に私はひそかにそう考えている。」(「明治150年と『教育勅語』」)

 71年の生涯を加藤という人間は、いったい何と戦ってきて倒れたのだろう。そんな疑問がふと胸をよぎる。氏は「敗戦後論」でその対手をハッキリと掴んだこと明らかだが、それはどこから加藤にやってきた使命なのだろうか。
 いまはただ、加藤がみた未来の展望に描こうとした苛烈な理想を夢想しながら、氏のご冥福をお祈りするばかりです。



      IMG00133 (4)


加藤典洋の軌跡(1)

 厚生労働省は毎年、簡易生命表の概況を発表している。それによると2017年における日本の平均寿命は、男性が81.09年、女性が87.26年となった。男性の平均寿命80年超えは2013年分が初めてで2017年が連続の5年目となるとした。一文芸評論家の紹介の冒頭に、国の統計した平均寿命を記すことの愚は承知のうえに、拘ったのは外でもない、加藤典洋が1948年生れでありながら今年の5月に肺病で亡くなったことに注意を促したかったからである。3年前の平均寿命より10年も早く加藤典洋氏は逝去したのだ。この遠因となる背景については後ほど触れることになるだろう。
 さて本稿は加藤典洋という文藝評論家の論考というより、まず遺書となった「9條入門」までの軌跡をたどり、その足跡から加藤という文芸評論家の像を素描できたら幸いであるが、その上でできるなら論考へと進む手がかりを模索したいと思う。しかしながら、私自身の体調不良もあり甚だ心許ないことを最初にお断りしておきたい。場会によっては時系列を無視して、現在という歴史的時点に関連する事項へと焦点をしぼることも選択肢となるだろ。

 「アメリカの影―高度成長期の文学」は1982年であるから34歳でのデビューは遅いのだが、「戦後再見―天皇・原爆・無条件降伏」は雑誌「文藝」の1984年九月号に、そして世の注目を集めた「敗戦後論」が雑誌「群像」に載ったのが1995年1月号、単行本として講談社から発刊されたのは1997年8月、10月までに4回刷られている。また、前年の1994年には、大逆事件、経済新体制、高度成長などの日本の生態を扱った、副題が「『大・新・高』の精神史」とした「日本という身体」が刊行されているが、村上春樹の「風の歌を聴け」(1979年)からの村上文学への熱い視線が鼎談「村上春樹への冒険」(笠井潔、竹田青嗣)として1991年に、そして「イエローページ」として発表されだしていることは、加藤典洋の批評活動の文学と時代への鋭敏さと証すものだろう。スタートは遅れたが一端かかったエンジンは、みごとなフットワークで多様にして精力的な批評の展開を見せたことは、1990年に上梓された「ゆるやかな速度」までを見てみればあきらかである。

 まず、注目すべきなのは、「敗戦後論」が世に問われるまでの間、「批評へ」として「新旧論」を軸に5百頁の冊子になる30本弱の批評文を「群像」「文藝」「文学界」に矢継ぎ早に展開していることである。とりわけ「新旧論」は「三つの『新しさ』と『古さ』の共存」という副題がつけられ、自身が「少なくともその素材を小林秀雄、梶井基次郎、中原中也という古典的存在(?)から採っている。そのような意味では、従来の文芸批評上の達成と引照可能な、ぼくとしてははじめてのやや『本格的な』文芸評論ということになるかも知れない」と「あとがき」で記す小林の「私小説論」に関する部分と梶井、中原についての部分は諸賢の批判を仰ぎたいというだけの十分な達成を示しており、特に「社会化しえない私」を取りだした業績は先行者・秋山駿に負うてもいるが、その先鋭な思考は刮目に値すると思われる。そして、この分厚い本の「序文」に書かれた「オフサイドの感覚」は、加藤という批評家の明敏な運動感覚とみて差し支えはないだろう。



IMG00132 (2) IMG00115 (2) IMG00135 (2) IMG00141 (2)




トーマス・マン「幸福への意思」

 何時の頃かは忘れたが、トーマス・マン全集で幾つかの短篇小説を読んだことがあった。その中に「幸福への意思」という題名のものがあった。それは私に短いが強烈な印象を残したものだ。この作家特有の的確な形容詞による人物と情景の描写は適度に駆使されて劇的な効果を盛り上げ、芸術的な熱情と冷静な配慮がこの短篇に雅致ある雰囲気を醸し出していた。
 情景とはローマという街でありベルニーニの彫刻であり彼が創造したトレビの泉での友人との別れの前日にしたちょっとしたおまじないの描写である。
 少年時代にぼくが親交を結んだパーオロは最初から虚弱で芸術的な資質にめぐまれている繊細な神経の持ち主の少年として登場する。この少年は実は心臓を病んでいて医者からも生きているのが信じられないとまでいわれ、本人もそれを自覚している。やがて青年となりぼくと共にある富豪の邸へ招待される。そこでパーオロは一人の女性と運命的に出会い激しい愛情にうたれる。しかし、女性の父親から青年へ娘への愛を諦めてほしい結婚には反対であるとの手紙をもらう。以来5年間、青年は姿を眩ませて諸国への放浪の旅へでてしまう。その間にその青年への好感と厚い友情を懐いている話し手のぼくは、女性本人から青年への確固とした愛情の告白をうけ、ぼくは女性から自分の心情をパーオロへ知らせてくれまいかとまで言われる。そして偶然ローマの街角でパーオロに再会したぼくは女性の愛を伝えてやる。

「別れは簡単だった。ぼくがパーオロの幸福を、多幸を祈ると、彼は黙ったままぼくの手を握った。
胸を張って大きな展望窓のそばに立っている彼の姿を、ぼくは長いあいだ見送っていたーそして勝利が。
ぼくにはこの上、なんの言うことがあるだろうか?・・・・彼は死んだ。婚礼の夜の翌朝。―いやほとんど婚礼の夜に死んだのである。
 それは当然そうなるはずのことだった。彼がこれほど長いあいだ死を克服してきたのは、ひとえに意思の、幸福への意思のお蔭ではなかったろうか? その幸福への意思が満たされたとき、彼は死なざるをえなかったのだ。闘争も抵抗もしないで死なざるをえなかったのだ。彼にはもはや生きるための口実がなかったのである。
 ぼくは、彼が悪いことをしたのではないか、結婚をした相手の女にたいして意識的に悪いことをしたのではないかと考えてみた。しかし彼の葬式の時に、ぼくは彼の棺の枕がみに立っている彼女を見た。そして、彼女の顔にも彼の顔に見たのと同じ表情、勝利の晴れやかな、力のこもった厳粛さを認めたのである。」

 死とそれを越える愛の情熱と意思を湛えたこの短篇は、その後、年を経て幾度となく再読したが、トーマス・マンの芸術的な魂がその幸福への意思の力と善意と気品に満ちた凝縮と洗練されたこの短篇が、褪せることのない光輝を放っていることに私は感動をおぼえてならなかったのだ。
 私はこのトーマス・マンの短篇を、「魔の山」の長編の本を私に贈ってくれた学生時代からの友人に読ませてやろうとしきりに思っていたことがあった。私の友人はそのとき癌を宣告されて闘病中だったからである。もしかしたら、この「幸福の意思」の小説が、彼の生への意思を励まし闘病に勝利するかも知れないと甘い幻想を懐いたからである。だが彼の病魔の進行は私の思案などよりはさらにさらに早かった。翌日には古稀を迎える夏の日に彼は亡くなった。最後に共に呑んだ酒場へ私の足が自然と向くことがあった。一人飲んでいると爽快な笑い声がときに聞こえるように思われたのだ。



              
       IMG00010 (2)



梶井基次郎「愛撫」

 人の指は繊細な感覚をもっている。若い頃、サルトルの「存在と無」で「愛撫」の哲学的な分析を読んだことがあった。人間の対自的・対他的な存在を現象学的に精密に解析したこの本の難解な執拗さに呆れるばかりで、いまではその内容はほとんど憶えがない。だが小説の「嘔吐」は繰り返し読んでいた時期があった。この哲学的な小説は読むに値したからだ。
 さて、文庫本一冊に収まる梶井基次郎全集の一篇「愛撫」はこんな冒頭ではじまっている。
「猫の耳というものはまことに可笑しなものである。」
それから作者は猫の耳についてのじつに適格な形容でその実態を描写する。つぎに猫の耳を抓る老人の具体的な叙述がはいる。これと同じ人物を子供のときにみたことがあった。その人は猫の耳をしきりにいじりまわしていた。最近、このことを思い出して自分でもやってみた。それには理由があった。私は右手と左手で指の感触を違いを確かめたかったのだ。じつは右指は手の骨折により痺れている。左手は正常である。正常な左手の感触はつぎのことを教えてくれた。それは猫という動物の生存には梶井が描写したとおりの耳が必要不可欠であるということだ。猫は家にいながらにして、家人の夜の帰宅を余人が想像もつかない遠くから聞き取ることができるのだった。その音を聞き分ける能力には驚嘆すべきものがあった。早速玄関で帰ってくる家人を迎えるべき行動をとって待機する。じつに忠犬ならぬ忠猫なのである。家人によると我が輩に対しても同じだという。たしかに帰宅する自分を玄関で嬉しそうに待っている猫の姿は愛らしい。
 猫は薄い柔らかい皮をアンテナのように機敏に動かして外界の音を聞き取ろうとしている。聞きなれない大きな音にはすぐに警戒態勢をとるが、反対に自分に好意をもって来る者にはいそいそと自分から近づいていくのだ。近隣にこの猫を玄関の隙間から見かけた子供が名前を呼びながら来訪するとそわそわと玄関へ移動していく。この猫に子犬が好意を懐いたとなると子供と変わらない動きをする。そして、短い二本の前足を揃えて澄ました顔で犬に対面するが、子犬が吠えだすとすがたを隠す。なかなかの役者なのだ。ところで、痺れた指はそうでない正常な指に比べ、猫の耳のしなやかさ、梶井の「愛撫」で切符切りで穴を空けてしまいたくなるというような奇怪な衝動などに陥る余地もない無感覚を呈して無能であった。これでは愛撫には役にたたない。痺れは指にゴワゴワした厚手の皮の手袋をはめた感じである。これではピアニストなら演奏に支障がでるだろう。指が鍵盤に触れる感度はピアニストの演奏にいかなる影響を与えるかを聞いてみたい。ここで昭和3年に書かれた「器楽的幻覚」という梶井の作品が思い出された。ホテルの会場で「私」はピアノの連続演奏を聴くのであった。やがて緊張と興奮と孤独感が「私」を石化する無感覚に襲われ、愕然として内心の声を聞く。
「なんという不思議だろうこの石化は? 今なら、あの白い手がたとえあの上で殺人を演じても、誰一人叫び出そうとはしないだろう」
 梶井基次郎の文学は昭和の初年代に集中的に書かれた、特異な日本のデカダンスを表現する詩的な散文といってもいいだろう。「桜の樹の下には」はその代表作であろう。「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」ではじまる「檸檬」は関東大震災の翌年大正13年の作品だ。これは京都の丸善が舞台だが、谷崎潤一郎は関東大地震を箱根の山から眺めて、「燃えろ、燃えろ」と悪魔的な科白を吐いている。震災の前後から昭和のはじめの時期、日本の文化の深層にはデスペレートなマグマが伏流していたようだ。ちくま文庫の全集の解説者・高橋英夫は「透明な感性の祝祭」を梶井の文学にみているが、この「祝祭」には不吉な予感も含まれている。この時代の文学の底辺には爆発をもとめる窒息感が充満していたようである。その数年さきには2・26事件が待っていた。大正の終わりから昭和の初期の短いエアーポケットのような時代を梶井の文学は、その短い生涯と共に閃光のように時代の闇を照らして消えた。誰もその文学の軌跡をつぐ者はいなかったが、文学は猫の耳のような繊細にして柔らかなアンテナで時代の音調に耳をすましているものだ。
 現在の日本に目を転じてみよう。相継ぐ災害に見舞われ、巷に氾濫する犯罪の連鎖は正常な感覚を喪失した痺れた指のように、この現代の不吉な兆候を示すものでないことを祈りたい。少なくとも、文学だけは「透明な感性の祝祭」であって欲しいものだ。加藤典洋は遺書のような「9条入門」を残してあの世へ旅立った。この含蓄に富んだ一書から日本の「窮状」を予感し、その隘路を抜け出る示唆を得ることはできないものだろうか。梶井基次郎の「愛撫」から、とんだところへ筆が走ってしまったが、人間にある動物的な直感力は猫の耳のように、遠方からの音に敏感に反応しているのではないか。




プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード