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三味線掘

 谷崎潤一郎の短篇「秘密」がラジオで朗読されている。俳優の朗読は読書とはまた別格の趣向で、私を陶酔させ酩酊させてくれた。
 谷崎は明治四十三年に「刺青」で文壇に躍り出るや、翌年には「秘密」を発表して籾山書店から「刺青」として短篇集を刊行している。後に述べるがこの籾山書店から泉鏡花が出した小説に「三味線堀」がある。まずは谷崎の「秘密」へ韜晦して現下の息苦しい世界から、消閑の時を白昼夢で満たすべく、妖しげな下町の陋巷へ気まぐれの散策をはじめてみることにしよう。
 小説「秘密」の冒頭はつぎのように始まっている。
「その頃私はある気紛れな考えから、今まで自分の身のまわりを裏(つつ)んでいた賑やかな雰囲気を遠ざかって、いろいろの関係で交際を続けていた男や女の圏内から、ひそかに逃れ出ようと思い、方々と適当な隠れ家を捜し求めたあげく、浅草の松葉町辺に真言宗の寺のあるのを見附けて、ようようそこの庫裏(くり)の一(ひと)と間(ま)を借り受けることになった。」
「賑やかな世間から不意に韜晦して、行動をただいたずらに秘密にして見るだけでも、すでに一種のミステリアスな、ロマンチックな色彩を自分の生活に賦与することが出来ると思った。私は秘密という物の面白さを、子供の時分からしみじみと味わっていた。
かくれんぼ、宝さがし、お茶坊主のような遊戯―(中略)ー
私はもう一度幼年時代の隠れん坊のような気持を経験して見たさに、わざと人の気の附かない下町の曖昧なところに身を隠したのであった。」
 そしてある晩、「私」は三味線掘の古着屋で見つけたあられの小紋を散らした女物の袷(あわせ)をみつけ、それを着てみたくてたまらなくなるところから、「私」が女への変身願望の肉感的な小説のディテイルが、谷崎の耽美的な才筆によって紡ぎ出されてくるのである。ここには「悪の華」のボードレールに見られる現実逃避の詩趣は微塵もなく、あくまで曖昧な闇につつまれた陋巷へと作者の筆はその好奇心に誘われていくのみである。
 さて、私が下町へ住居を遷した昭和50年頃に、この小説にでてくる「三味線掘」はその景色はあらかた失われていたが、まだその一部は残っていた。いまは旧弊な鉄筋の都営住宅と社会教育会館が併設された高層の建物だけが残っているが、その頃は一階にはマートと呼ばれた商店街があり、その暗い電灯の薄暗く天井の低い階には八百屋、魚屋等が軒を並べていたのを覚えている。清洲橋通りに面した一角にはいまはもうないが、台東区教育委員会が立てた立て札に「三味線掘跡」として下記のとおりの案内が記されていた。
「現在の清洲橋通りに面して、小島一丁目の西端に南北に広がっていた。
 寛永七年(一六三○)に鳥越川を掘り広げて造られた、その形状から三味線堀とよばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草三丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼・地を埋め立てそれが小島川となったという。
 不忍地から忍川を流れた水が、こお三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。
 なお、天明三年(一七八三)には橋の西側に隣接していた秋田藩・佐竹家の上屋敷に三階建ての高殿が建設された。大田南畝が、これにちなんだ狂歌を残している。

 三階に三味線堀を三下り、二上がり見れどあきたらぬ景

 江戸、明治時代を通して、三味線堀は物質の集積場所として機能していた。
 しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上交通の発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消し
 たのである。     
         平成十三年三月 台東区教育委員会 」

 なんのことはない。こう記した立て札そのものをいま見ることはできないのだ。谷崎が関東大震災の後、関西に居場所を移したのは、こうした新開地の白々しい土地柄を嫌ったからに違いない。だが東京においても見出すことができる地に足をつけた日常を、吉田健一なる批評家は発見して「東京の昔」という小説を文章に認めている。吉田健一の美意識は英国仕込みのもので、「時間」というエッセイとも批評文とも見分けられない特異な文体にそのエッセンスを堪能することができる。それは「言葉」に全幅の信頼をよせることによって、時間は命をえた水のように、空間を超越して流れるものだからである。谷崎の小説家の本能が関西をもとめて、東京を逃げ出したのは当然のように思われるが、それは空間の移動というより、作家の本源は吉田健一のいう「言葉」というものにあり、谷崎は「吉野葛」等でそれをみごとに証明している。
 なお、泉鏡花が「三味線堀」という小説を書いたらしいが絶版となっており、竹下夢二がこの辺りに惹かれた俳文と絵を残しているのはいかにも夢二らしい。そして、安藤広重の「富嶽百景」に「鳥越の不二」の版画をみて、酔狂にも「鳥越奇譚」なる小説を書いた吾人がいたらしいが、このコロナ禍で捜すあてもない。しかし、鳥越川の川筋は今はどこにも見ることはできないが、隅田川テラスを歩いていくと、朱塗りと金色の擬宝珠の橋があり傍に黒い鉄の水門がある。ここが隅田川へ流れこんだ鳥越川の名残だと知られたことは、嬉しいおどろきを覚えた。歩く民俗学者といわれた宮本常一ではないが、しゃにむに歩いてみなければ下町界隈といえどこうした発見はできなかったろう。



  冨獄百景富獄百景




 「天の夕顔」中河与一

 この哀れな男の話を、この強熱の誤謬に似た生涯を、どうぞ笑って下さい。
 この一節は、昭和13年に発刊された小説「天の夕顔」の末尾にある文章です。雑誌に発表された当初は黙殺された中河与一の典雅な本作品は、先の戦争と戦後を生きのび、おおよそ四十万部の読者を得たと、保田与重郎は昭和二十九年の解説に記しています。
 西欧の5カ国語に翻訳されたこの作品は、アルベールカミユにより「技巧の簡潔さによって生き、毅然としてしかもつつしみ深い」との惜しみない賞讃を受けました。
 二十一歳の青年の七歳年上の人妻への激しい思慕は二十三年の歳月を経て、純潔のままその女性が老いて死ぬまで貫かれたのです。
 日本浪曼派の保田与重郎はこの作品を文壇の世俗化とからくりに対し、本質的かつ根本的な文学上の抵抗を示したとして大変に評価をしたのでした。
 保田与重郎は戦前に活躍した文芸批評家ですが戦後は公職追放を受け逼塞した人物であります。三島氏は生前、この保田からの直接の影響を否定しむしろ蓮田善明との親交により日本浪曼派からの影響を肯定したところです。この三島氏も同様に、保田氏が「天の夕顔」の解説で指摘した「王朝的な唯美精神」の成果を体現した作家であったことはたしかなことでしょう。

 つれづれと空ぞ見らるる思う人
         天くだり来むものならなくに

 この本のエピグラフには王朝の歌人和泉式部の上記の一首が載せられています。
「そのうち、何かをきっかけに、郵便で、わたくしはあの人から本を借りたことがありました。
何しろわたくしは、天体物理の学生で、そのせいか、趣味として女性のしたしんでいる文学ほど、そのころのわたくしにとって、ふかぶかと美しく思われるものはありませんでした。
 それは翻訳の『アンナ・カレーニナ』で、読みすすでいくゆくうちに、わたくしは丁度アンナが雪国の汽車からおりて来て、ウーロンスキーと不幸な、しかしこの世で最も喜びに溢れた逢い方をするあたりで、小さい一枚の名前を見つけたのです。(中略)
 ところが、次ぎに借りた『ボバリー夫人』にも、そんな栞が入っていて、それには、

 わすれじの行末までは難ければ
      今日を限りの命ともがなー

 という高内侍の歌が書いてありました。」
 
 私はこの人妻とのストイックな恋愛が破綻するその限界を叙述した箇所の文章がなんとも好ましく思われてなりませんでした。
「もうあたりはほとんど暗く、あの人が蛇をこわがるので、私はそれを逃げさすために、先に歩きはじめました。わたくしは少年のように自分の強さを自覚し、拾った竹切れを持って、それを快活に表現するのでした。
 やがてあの人は、道の端で夕顔の花を見つけると、それを摘みとるのでした。手に白い花がにじんで、それが夕暮の色を余計に濃くするように思われました。
「なぜ結婚なんかしたのです」
 わたくしは、ふと唐突に運命というものに対する深い疑問を感じると、腹立たしげに、あの人に、そう尋ねました。」

 ここに結婚制度の倫理的拘束に抗おうとする若い主人公のぎりぎりの反抗の姿が浮かび上がっています。しかし作者のたゆたうような典雅な筆遣いはその限界を突破することを決して許すことはありません。
 やがて女からの手紙がきます。そこには建礼門院右京大夫の歌が書きつけられています。

 今はただしひて忘るるいにしへを
    思ひ出でよと澄める月かなー

 作者は自分の運命と諦観させる主人公に「自分は魂の本然に帰りたい」と決心させます。この決意こそ日本浪曼派(保田与重郎)がこの作品の核心に見ようとした剛毅な精神といえるのではないでしょうか。
「王朝文藝の系統をひく今の上方文化も、その意味で濃厚執拗なものである。海外の評家が、このロマンスの小説家の成功の原因を、作者の毅然としたつつしみと、簡潔で節度ある文体に見たのは当たっているのである。濃厚な内容を淡々と現わすことが、文芸の目標である。」と擱筆している。
 私もこの小説を結ぶ最終の文をひいて筆を擱くことにしたい。
「好きだったのか、嫌いだったのか、今は聞くすべもないけれど、若々しい手に、あの人がかつて摘んだ夕顔の花を、青く暗い夜空に向かって華やかな花火として打ちあげたいのです。・・・・
 しかしそれが消えた時、わたくしは天にいるあの人が、それを摘みとったのだと考えて、今はそれをさえ自分の喜びとするのです。」







「さらば、神よ」リチャード・ドーキンス

 なぜヒトは神を卒業(Outgrowing God)し、未来を科学とともに歩むべきなのか。思想・科学の分野に股にかけ、生物学者どーキンスがいまだ迷信を欲するすべてのヒトに贈る、脱宗教と科学への信頼の書と本の背表紙に記されている。そうであるかないかは読者の自由な判断にかかっているだろう。

第一部は「さらば、神よ」(Goodbye God)は第六章まである。
 第一章では多くの神を列挙し、二章ではそれらは事実かと、聖書、特に「新約聖書」に書かれていることに疑問を投げかけ、三章では「旧約聖書」から生まれた神話とその道徳を洗い出し、四章では聖書の善良性を疑問に付し、第五章では善良であるためには、どうして神が必要なのかと問い、第六章になると、動物と同様に人間が進化の産物であるというチャールズ・ダーウィンへと幕が開かれている。
 第一部のすべての章を振り返り、著者はこう書いている。
「あなたは第一章のたくさんの神々もほとんど信じていないだろう。第二と三章で聖書やコーランの聖典には、信じるべき理由が示されていないと納得しただろう。第四、五、六章では、私たちが善良であるために宗教が必要であるという考えに決別したのではないか。しかしそれでも、なんらかの大いなる力、世界と宇宙、私たちを含めた生きものをつくった、なんらかの創造的知性を信じることにこだわるかもしれない。私も十五歳ごろまで、そのような信念に固執していた。なぜなら、生きているものの美しさと複雑さに深く感動していたからだ。とくに、生きているものはまるで「設計(デザイン)された」にちがいないように見えることに、感銘を受けていた。私がようやくすべての神々を見限ったのは、進化について学び、なぜ生きものがデザインされたように見えるか、その真の説明を知ったときだ。」
 こうして第二部のチャールズ・ダーウィンの説明対象である生きものと同じくらい、美しい説明という壮大なテーマへの扉が開かれるのだ。
 確かに著者の真の意図はこの壮大なテーマを展開することにあったのだと相応な知的な努力の末に、あなたは納得するだろうか。そのためには、できるなら第二部の「進化とその先」(Evolution and beyond)をお読みいただきたいと思う。そこには一流の英国風のウイットとユーモアにあふれた犀利な文章の波また波を泳ぐことになるだろう。そして、著者の結びのことばに行き着くにちがいない。
「私たちは勇気をもって大人になり、あらゆる神に見切りをつけるべきだと思う。そうは思わないか?」
 
 また参考までに、吉川浩満(文筆家)の的確にして簡潔な書評を、ここに引用させて頂くことに、何卒ご容赦を願いたい。
 現在小生、目の患いもあり、拙い紹介の不十分をすこしでも補いたいためである。伏して感謝を申上げたい。

「原題にある『アウトグローイング』という言葉は、子供が成長して服が着られなくなる様子を指す。知的に成長した人は宗教に飽き足らなくなる、というわけだ。
 だが、そう聞いて、なんだ子供向けの本かとあなどってもならない。哲学者イマヌエル・カントは、啓蒙とは人間が知性の未成年状態を脱すること、つまり自分でものを考えられるようになることだと言った。これは若者に限らず近代人すべての課題ではないだろうか。
 本書は大きく2部に分かれる。前半は神々の物語、なかんずく聖書とキリスト教の教義に関する詳細な解説と批判だ。作り話にすぎない宗教の教義がいかに人びとから自分で確かめ、考える力を奪っているかを熱心に説いている。
 だが、そう聞いて、キリスト教に縁の薄い日本人には関係ないやとあなどってもならない。良質な批判の多くがそうであるように、本書は批判対象であるキリスト教と西洋文化に関する優れた解説となっている。それだけではない。キリスト教徒であろうとなかろうと、われわれが本当に知性の未成年状態から脱することができているかどうかは必ずしも明らかではない。
 震災、原発事故からコロナ禍にいたるまで、はたしてわれわれは成年にふさわしい知性を発揮してきただろうか。相変わらず誤情報や怪情報に踊らされ、世間の空気におびえてはいないだろうか。本書後半で展開される進化生物学に基づいた科学的思考のレッスンは、われわれが知性の未成年状態を卒業する手助けをしてくれるだろう。
 ドーキンスのファンにもアンチにも、子供にも大人にもお薦めしたい科学的思考の教科書である。」



IMG00114さらば、神よ




言葉の降る日「死に臨んで彼が考えたこと」

 上記タイトルの論考を2016年に書いた加藤典洋は息子を3年前に亡くしていた。副題は「三年後のソクラテス考」とある。彼とは息子ではない、文字通りソクラテスその人のことだ。だがここには、死んだ息子を「彼」の中に含めても差しつかえがないとの含意が、この論考にある影を落としている。

 イエスキリストと同様に、ソクラテスの死は謎につつまれている。弟子のプラトンは「ソクラテスの弁明」等でその謎に迫ろうとしたが、やはり「謎」は謎のままに残された。磔刑で死んだイエスもソクラテスもその死後、多くの人間に多大な影響を与えた。
 批評家はいつかかならず、自分自身の自画像を書き残して旅立つものなのだろうか。「死に臨んで彼が考えたこと」を書いた3年後に彼はこの世を去った。
 ソクラテスは竹馬の友クリトンが牢屋まで忍んできて、脱獄を勧められるがそれを退け、死刑の裁きどおり毒杯を飲んで死んだ。ソクラテスが敢えて死を選んだ理由を考察した加藤典洋の、そのいちいちの論理をたどることは煩瑣となるだろう。だが論理の歯車を入れ替えてのその精妙な模索をすげなく扱うと、こんどはその模索の味わいを損ねかねない。批評家の文章は彼の思考をどこまで一般読者に届けられるか、その一点に賭けられているから厄介である。どちらかといえば、ここではややざっぱくな案内になっていることを承知おきいただきたいと思う。

 ソクラテスの弁明の第一は、真理とはなんだろう、大切なのはただ生きるのではなくよく生きることだとした。第二に、脱獄は正しくはない。たとえ不正の法であっても反論できないからというものであった。
 批評家の加藤の問いは、プラトンがなぜこの非対称である二つの理由をソクラテスに一体のものとして主張させたのかである。ここで加藤は、プラトンがソクラテスに言わせた面白い言い方に注目する。少し長いがそれを引用しておきたい。
「実際、可笑しな言い方かもしれませんが、私は神によってポリスにくっ付けられた存在なのです。大きくて血統はよいが、その大きさの故にちょっとノロマで、アブのような存在に目を覚まさせてもらう必要がある馬、そんなこのポリスに、神は私をくっ付けられたのだと思うのです。その私とは、あなた方一人ひとりを目ざめさせ、説得し、非難しながら、一日中どこでもつきまとうのをやめない存在なのです。ですから、皆さん、こんな者はもうあなた方の前には簡単に現われないことでしょう。むしろ、私の言うことを聞いて、私を取っておくのが得策です。」(納富信留訳「弁明」一八)

 加藤がいうには、ソクラテスは自分の「アブ」としての正しさは単独には存在しえないが故に、「ノロマな馬」の正しさを呼び込まざるえないのだという。
 このあたりから、加藤がこだわる「私のソクラテス」が顔をだす場面へと移っていく。なぜ一つではなく、二つを論拠として提示したのかというソクラテスの弁明の意図を俎上にあげる。序でに、二つを一体として弁明したことに疑問をもたないソクラテス学者への加藤の揶揄が顔をだす。「論理よりもずっと高次の、どのような『複雑で精妙』な論理のあり方かは、彼らの視界の外にある。それが一番、大事だろうに。」こういう文章のあとに披瀝される加藤が辛抱強く深掘りし練り込んでいく『複雑で精妙』な論理の中に、それは展開される。
 だがここではそのアブと馬のほんの一部だけを記するに留めておきたい。それは加藤が「私のソクラテス」の論理を補強するため、作者のプラトン、ひいては加藤の対抗者である柄谷行人をも射程にいれた、実に複雑で精妙な論理の畦道を歩くことを読者に強いることになる。そうした煩に費やす労力に私が堪えないからだ。

 まず加藤は、「クリトン」の作者プラトンに対して、ソクラテスのだんまり、それはプラトンの言い落としへの批判として、おおよそつぎのように述べている。
 ソクラテスが第二に挙げた、国法には反対できないという論拠により展開されているのは、「つねに力ある、先行する、共同的なもの、公共的なものが、それよりも弱く、後から来る、私的で弱い立場の存在(多くの場合は個人)に対して主張する、いわば上から目線の『正しさ』である。
 第一の論拠と第二の論拠を敢えてまとめていえば、つぎのようになるだろう。「第一では、個人として、自分の良心に照らして、脱獄は不正なのでできない、という理由を提示し、第二では、公民として、自分の属する共同的・公共的な精神に立つと、脱獄は不正なので、すべきではない、といわれたら反論できないと提示した」のだと。そのうえで、正しさの基準を「良心」と呼び、国法の正しさを「正論」といまふうに呼ぶなら、その違いは、内からくる正しさと外からくる正しさの違いであると、この二つの「正しさ」を言い換える(アブの「正しさ」とノロマな馬の「正しさ」)。さらにソクラテスがなぜ一対一の対話だけで、公的な場での自分の「正しさ」を追求しなかったのかでは、後者の場では必ずダイモンが出てきて、やめよという声の制止があったからだとつけ加えている。ダイモンの声は、古い世界、神に属している。一方、公的な正しさは、新しい世界、国(アテナイ)に属している。私(ソクラテス)は神託に見られるような、神に属した、ささえない、一対一で手にされる正しさのほうが、国に属した、集団で手にされる正しさよりも、大切だと思うからだと考える。

 以上が、加藤が対話篇「クリトン」から書き手プラトンへの批判と補足を含んだ、大ざっぱな概要である。
そのうえでなお、加藤は執拗に問うのはまだプラトンへの不満があるからだが、加藤の読者ならばここには加藤のこれまでの個人的な背景が影を落としていることが推察されるかも知れない・・・。

「それならなぜ、第一の『正しさ』だけにしなかったのか。・・・なぜわざわざ信じてもいないかもしれない、第二の『正しさ』を、第一の次ぎに呼び出すのか。
 それには二つ、理由がある。第一の私には、君のいう『良心』というものはない。『良心』は『知ること』の先にくる。私のことを『無知の知』なんていう人がいるが、そうじゃないのだ。私はただ単に『無知』なだけなのさ。私は足場をもたないアブなのだ。『知』のまわりを、それは本当の『知』なのかとうるさく嗅ぎまわし、『正しさ』とされるもののまわりを、それは『ほんとうに正しいのか』とぶんぶんと飛び回る。それが私の『正しさ』だ。私の『正しさ』は、アブの『正しさ』だから、それは単独では存在しないのだ。
そして第二に、私には、国法からの呼びかけが耳をついて離れないからだ。『正しさ』はつねに私には外からやってくる。そしてそれを私は拒むことができない。私にできることは、それに揺り動かされること、そしてそれを、疑うことだけなのだ。
だからね、クリトン、私の『よりよく生きたい』真理への道と、私の国法との約束と、この二つは対立していない。二つは、一対の存在なんだ。
 ここにあるのは『良心』と『国法』というよりは、『アブ』と『大きくて血統はよいが、その大きい故にちょっとノロマで、アブのような存在に目を覚まさせてもらう必要がある馬』の関係なのだ。君がいうように、この二つの正しさがぶつかるなら、私は、国法にいわなければならない。『私はあなたに反論はできない。適わない。しかし、あなたには従わない。いままで、そうだったように、この不届き(=不正規)な『正しさ』の行使の仕方を続けるだけなのだ、いま私が法に服するのも、ちっぽけなアブの一刺しとしてなのだ』とね。」
 加藤はこうしたやりとりを書いてもらいたかったと、プラトンへ不満を述べるのである。

 私はこの後に続く、「ソクラテスC―柄谷行人『哲学の起源』」にある見解の相違は二人の初期からあり、加藤がまるで「めくばせ」をするかのように出してきているもので、加藤の「内在論」と柄谷の「外部論」ともいえるものだろう。
 ただ、二人を際立たせる相違がどんな形をとるのかだけを、取りだしておきたい。

「・・・しかし、このソクラテスの第一の理由と第二の理由の関係は、柄谷がいうような私人と公人の逆接・背理の一対性の関係というよりは、『アブ』と『立派な馬』の非対称の一対性の関係なのではないだろうか。察するに、ソクラテスの謎の核心をなすのは、柄谷のいう『私人』と『公人』の背理の関係をもってしてもいいつくせない、その先にある、『アブ』と『立派な馬』という、非対称性の関係のダイナミズムなのではあるまいか。」
 
 この後に、古代ギリシャの時代性をソクラテスの特異性の説明とした部分―激動のなか、アテナイでは古い時代の神と新しい時代の神とのせめぎあいーは、加藤の初期の「新旧論」と「敗戦後論」を通底するテーマといっていいだろう。そして、「8 音と声」にみられる柄谷のいう「私性」の底にあるものこそ、ソクラテスの偉大さであり、同時代にありソクラテスだけに聞こえたダイモンの声は、彼がその子どもの「小ささ」を大人になっても失わなかった、「知」を愛し求める原動力になったことを忘れるべきではないとの加藤の指摘は、また、公的なものへの参加を彼に促したものが、祭式に踊り狂う「笛の音」でもあったとの指摘と同時に、加藤のソクラテスの最後の「謎」を明示して余りあるものと思われる。
 「彼は、最後の最後まで、この『自分は知らない』の低さのうちにとどまった。それで、彼の耳には最後まで、ダイモンの声とアテナイの祭の笛の音が、ささえのないまま、彼にとっての謎のように、聞こえ続けていた。」
 ここで、加藤が東北の山形の出身であったことと、私が数年まえに読んだある小説の終章を思いだし、その偶然に自然に頬笑んでしまったことを、記しておこう。

 毒杯を飲んでから、ソクラテスの竹馬の友クリトンとの会話は、つぎの科白で終わる。
「これが、エケクラテーヌ、僕たちの友、僕たちが知る限りでは、同時代の人々の中で、最もすぐれた、しかも最も賢い、最も正しいというべき人のご最期でした。」

 この論考のお陰でおよそ50年ぶりに、ソクラテスの声を自分の身近に聞いたような、感動を覚えたことを最後に記しておきたい。





伊勢物語

 1980年代のことが思いだされる。昭和、平成、令和という年号とともに、この40年で世の中はすっかり変わったが、幾時代を経ても変わらないすがたを残すもの、それを人は古典と呼ぶようである。
 「伊勢物語」を日本の古典を読む会でとりあげたのは、1984年(昭和59年)であった。場所は渋谷の繁華街の一角にあった喫茶店「ルノアール」。如月の22日、ほんの数人が集まった。この会にはその数年前まで続いていた「ポール・ヴァレリー」の研究会の幾人かが参加した。この「ヴァレリー」の研究は毎回開催場所を変えて延べ10回で終わった。途中から都立日比谷高校の校長の参加もあって、差し入れられたワインを飲んで行われたこともある。記憶が定かではないが、この時は“ドカ ダンス デッサン”を読んだのではなかったろうか。
 日本の古典を読む会については、すでに当ブログで以前に紹介したことがあるので詳しいことは省略するが、新潮日本古典集成の主要なものはほとんど読んだように思われる。「竹取物語」を読み、「伊勢物語」へと続いたのではなかったか。
 「伊勢物語」については、「日本の古典が伊勢物語一冊であったら現代の小説家はみな絞れ死ぬであろう」「伊勢物語は突端まで到りついた人間の戯文である。あの物語には人生の危機がどっさりゑがかれてゐる。それがあれほどさりげなく書かれてゐるのがおそろしい。客観といふのでもなくましてや看過されてゐるのではない。たゞ日本の詩文とは、句読も漢字もつかわれないべた一面の仮名文字のなかに何ら別して意識することもなく神に近い一行がはさまれてゐること、古典のいのちはかういふところにはげしく煌めいてゐること、さうして真の詩人だけが秘されたる神の一行を書き得ること、かういふことだけを述べておけばよい。」
 三島の「伊勢物語のこと」(「文芸文化」昭和十七年)の数行を私はたぶん読んではいなかった。だがこんな詩を書いていたのを思いだした。


  伊勢物語に寄す

自負は己のいのちを歌う
ことのできる者のみにある

きみたちの けっしてのぞきえない
孤独を

ダンディスト在原業平
君と君の仮面のあいだに
軋む歌よ

この世の嫌悪に武装された
「伊勢」の美学など
君のふたつの顔のあいだに
洩れる吐息にくらべたら
陽炎にすぎぬ

誰も君の心を みたものはないと
歌う

君のまじかに迫る
ただ一人の友のため
                  
              詩集「海の賦」より






プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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