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「江藤淳と加藤典洋」ー二人の批評家

 先日、七百頁を越える「江藤淳」の評伝を読んだ。六十六歳で自らを処決した文芸評論家の生い立ちからその一生を、元編集担当者がおよそ7年の歳月をかけ、江藤淳なる人間の文学と人生を最大洩らさず、その秘事まで白日にさらした尋常ならざる本である。巻を措く能わず、夜に日を継いで読んだところだ。読み進むにつれて恰も江藤の霊が憑依したかのごとく、読者を圧倒する熱情の結果は長編の力作評伝としても比類ないものと思われた。
 一文人の偉業を追慕し再度この世に甦らせるに、著者がはらったエネルギーには瞠目すべきものがあるが、なによりも、江藤淳なる人物にそれだけの力量と才覚があったからに相違ない。その出自・家系もさることながら、生前の氏の実績と履歴がそれを要求し、著者はそれに応じての忠実なる伴侶として、これを勤めたその努力には敬意を払わざるえないところだろう。
 これに比べるべきもないが、今年の5月に71歳にて病没した文芸評論家の加藤典洋氏への追悼の一風景が思い返されてならない。それは本人の死生観に拠ってきたるところでもあるのだろうが、あたかも一匹の猫がこの世から姿を消すかのごときありさまには、現今の世相と出版事情とが相俟つものと推察され、なにやら薄ら寒い思いを覚えたのところであった。知見の限りでは、「群像」8月号の高橋源一郎の「論考」及び「すばる」8月号の橋爪大三郎外2名の片々たる追悼を瞥見したのみであった。こちらは東北は山形県人にして遅咲きのデビュー、他方は湘南出の早熟の才の上に、目端のきいた世渡りのグッドスイマーにしてネットワークとバックボーンには些かも支障なしとなれば、かれがの相違はもとより論を待たないことであった。浩瀚なるこの評伝にも触れられていたところであるが、加藤氏は江藤淳を批判することによって文芸評論家として最初の歩みを印したことは確かなことだろう。時代は異なるとはいえ、大岡昇平からの資料のスケットを得て、小林秀雄氏をスプリングボードに批評家として立った江藤淳氏も同様のことは、縷々この評伝に記されているとおりであろう。
 題41章、戦後体制への異議申し立てにおける、「なぜ平野謙批判から始ったか」に次ぎのくだりがある。
「ヒント(最晩年の病人・平野に、江藤氏が死者に鞭打つ仕打ちにでたー引用者注)は加藤典洋の江藤淳論の書『アメリカの影』の中にあるといえる。加藤は(無条件降伏)論争の四年前に出た江藤の英文著作『ある国家の再生―戦後日本小史』に、「日本は無条件降伏した」と明記しているのを隠して、平野を批判した態度を「不明朗」だとした。その部分には、こう書かれている。「1945年8月15日正午ちょうど、天皇はレコードに録音された肉声によってラジオの全国放送網を通じ、日本の連合国に対する無条件降伏を発表した」(加藤訳)。日本では流布しない英文の本とはいえ、確かに不明を恥ずべき江藤の汚点であろう。この江藤の英文によく似た一文が、実は平野の『現代日本文学史』にはある。江藤が平野攻撃のために引用した文の直前である。
「かくて昭和20年8月15日の昼さがり、無条件降伏をつげる天皇の声は、電波にのって全国になりひびいたのである」
 江藤が平野の文章を批判しなければならなかった理由は、引用しなかったこの部分にこそあるだろう。江藤は「光栄ある敵」である平野の名を借りて、自身の文章を断罪したのである。(略)己への断罪の隠蔽をさらなるエネルギーにして、江藤は無条件降伏以後を戦ったのではないだろうか。」
 著者はこうした推測の根拠を解明するため以降の数頁を割いて江藤援護の論陣をはる周到ぶりはみごとという外はない。生前の江藤淳氏の業績を追いかけ、その透徹した洞察と鋭利な分析、ブリリアントな語学力と広い教養、明敏なる文章に時を忘れたむかしが思い出されてならない。「諸君よ」と呼びかけ自ら処決して人生を断ち切った英明なる評論家の胸中を思いその熱い志を、墳墓から今一度この世に甦らせようとの計らいは同慶の念を禁じがたいところである。
 さらに、「『平成』の虚妄を予言し、現代文明を根底から疑った批評家の光と影―。」と帯に記されているこの本が、精密にして戦意に溢れ、酷烈にして秀抜な評伝であることを肯わないわけではない。
 だが、ひっそりとあの世へ旅立った同時代の一人の批評家は、その息子の不慮の死から「彼は人が死ぬとうことがどういうことであるかを教えてくれた」と「人類が永遠に続くのでないとしたら」(2014年)の「あとがき」に記しさえした。なによりも江藤淳が第一回三島由紀夫賞にノミネートした高橋源一郎が先の「論考」で評価したこの書物の「序 モンスターと穴ぼこ」に、加藤がみた福島原発事故からの「無ー責任の世界」の現実と危機は、原子力行政と電力会社の不祥事をみるまででなく、江藤氏が批判した「ごっこの世界」でも「『平成』の虚妄」でもないのである。加藤の遺書ともいえるこの書の先見的な思考に注目し、さきの戦争で犠牲となった内外の死者たちへの追悼に深甚なる思慮をさぐりつづけた批評家を偲ぶとき、この本の端々に濛々と渦巻くある種の尊大なる姿勢に、いささか眉を顰めざるえないことを正直告白せざるえないだろう。
 さて、明日は令和の時代の幕開け、即位礼正殿の儀はすぐ目前となった。


注:2019.10に当ブログに載せたものであるが、加藤典洋の関連で再掲する。



「9條入門」加藤典洋著

 1995年に文芸雑誌に発表された「敗戦後論」以来、文芸評論家の加藤典洋の著書に深い関心を寄せてきました。この「9條入門」は事実上著者の最後の本となりました。上梓されてから3ヶ月後に氏は71歳で病に倒れ不帰の人となったのです。加藤の遺書ともなった「9條入門」に立ち入ることで、その要点のあらましを紹介してみましょう。
 まず現憲法の条文を掲げてみます。

第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 加藤のこの本は、第一部が出生の秘密(敗戦から憲法制定まで)、第二部が「平和国家と冷戦のはじまり(9條・天皇・日米安保)と、大きくふたつで構成されています。全部で6章となりますが、第二部の5と6章に加藤の国連寄りの考えに難点を見ていた者には、ここで国連憲章52条とダレスの関わり合いを知り、さらに天皇の独自外交の推測の提示により、氏の国連寄りの姿勢に補強が為されていることに気づくことでしょう。この具体策は加藤の「戦後入門」(2015年)の第5部「ではどうすればよいか」ー私の9條強化案を参照して下さい。
 冒頭に「はじめにー憲法9条に負けるな」があります。「敗戦後論」(1950)にも「はじめにひとつのお話をしておきたい」としてエピソードの紹介がありました。加藤という文芸評論家は比喩の名手でありますが、本の「はじめに」のところで、読者のためになかなか含蓄に富んだ一文を挿入する人でもあります。ここで立ち止まってこれを紹介しますと、つぎのようなことが書いてあります。
「・・・私は、この間、この本を用意するためにいろんな文献を読んでいるうちに、憲法9条というのは、必ずしも戦後の日本になかったとしてもよかったのではないだろうか、と思うようになりました。というか、一度はそう考えてみる必要があったのだ、と考えるようになったのです。」
 平和についての考え方は、本来下から生れてくるはずのもので、「平和条項」などに吸い上げられ、鋳型にはめられてはひ弱なものになると加藤は思ったのです。
「だから憲法9條はいらない、というのではありません。憲法9條に負けたままでは、とても憲法9条を生きるということはできないはずだな、と思ったのです。憲法9条に負けたままというのは、ただ憲法9条を有り難がっているだけでは、という意味です。」
 加藤のこの本では、この「はじめに」で噛み砕いて言われたことは大事な意味をもってきます。それは読みすすむにつれ何度もでてきますが、「特別な平和条項」と「ただの平和条項」として説かれ、家でいうなら前者は二階、後者は一階に相当するものとかんがえられるのです。こうした考え方はこの憲法が押しつけられたものか、そうではないものかという二つの憲法観の違いにまで現れきます。
 この本は、学者や思想家の考え方を多く引照しながら、例えば、マッカーサーやダレス、アメリカ大統領そして日本の天皇や政治家が登場して、「憲法9条」を廻る関わり合いを紹介します。そうした人物の活躍が綱を編むかのうにして形づくられた憲法の語り口は、あたかも一篇の物語であるかのように読むことができます。本の帯に9条の物語ということばがありますが、まさにそうした読み物として書かれているのです。
 この第一部で加藤はこう言っています。
「私のこの本での考察は、この問題(「押しつけ」の主体とはなんだったのか)についてはの新しい研究成果に立っています。近年明らかになったように、憲法改正の第一歩は、最初からはっきりとした計画のもとではじまったわけではなかった。背後にあったさまざまな力のせめぎあいの結果、進行していったのだという点が、非常に重要だと考えているからです。たしかに「押しつけ」はあった。しかしそれは、1946年2月の段階での、GHQ草案の日本政府による受け入れに関していえることで、しかもその主体はマッカーサーでもアメリカでも連合国でもなく、この三者の力と意図がせめぎあう場のアマルガム(結合体)だったとぃうのが、私の考えです。」
 この加藤の考え、「古典的な改憲論、護憲論の理解では、すでに70年以上を生きた現在の憲法9條が帯びる多層的な意味は、もはやとらえられなくなっている」という現状認識ですが、この書物の根底にあるリアルな前提として大変重要なところです。アメリカの「無条件降伏」政策を「アメリカの陰謀」とした江藤淳の主張を退け、「占領管理権限」をめぐってのいくつかの思惑がからまった連合国間、またGHQとアメリカ、連合国とのあいだの権限の「せめぎあい」であったという分析に引き継がれます。この本の特徴はこうした「背後のせめぎあい」を非常に真摯に把握しようとしている努力にあるのです。「日本占領」の主導権争いについてもそれは発揮されていますが、マッカーサーという人物の個性への注目も、このせめぎあいの大きな要因のひとつであることを加藤は見逃していません。特にマッカーサーのアメリカ大統領への野望はこの憲法の成立ちに大きな影を落としているからです。
 つぎに加藤が注目するのが、マッカーサーと天皇とのよく知られた会談(1945年9月27日)へ至る経緯とその内容です。これはマッカーサーの日本の占領政策と天皇の戦争責任の免除に関連します。結論から先にいうと、第9條は第1条とセットになっていること。即ち、天皇から政治権力を奪い(1条)、軍事力も放棄する(9条)という憲法改正案の浮上でした。
 当初のマッカーサーとGHQの主要な任務は日本の占領政策の遂行で、最重要の課題が天皇の免罪の実現でした。憲法改正は日本に任せるはずだったのです。だが1946年1月に実現した極東諮問委員会(これは米ソ間の妥協の産物、かつ改正ではGHQより優位な権限を持つ)が2月末に発足する事態の進行が、GHQの頭ごしにマッカーサーの「独立王国」が憲法改正へと急速に舵をとって走り出す契機となったとみます。この経緯と結果については本文をお読み戴くことを期待してここで縷々述べることを省きますが、文芸評論家の加藤の面目が光るのはこの部分にあるのです。簡単に述べますと、「マッカーサー回想録」神話の読解を含む憲法9条の性格規定で、ここで三つのことの解明されるのです。一つは天皇とマッカーサーの二人の会見時にあったとされる天皇の「戦争全責任発言」の真偽に関わること、二つ目が9条が「ただの9條」か「特別な9条」(世界に冠たる9条)かという改憲派と護憲派とを別つ事項、三つ目が現憲法が「押しつけられた」のかそうでないのかという、出生の秘密が解かれていくのです。加藤は探偵小説さながらの手つきでこの「秘密」に肉薄しています。
 第二部は「戦争放棄から平和国家へ」となります。ここでの要点は「憲法第1条の天皇制の民主化によって生じた『空白』が、戦争放棄の『道義』性によって埋められる」ことでした。ここでの加藤の認識はこういう形をとります。「なぜ憲法9条が日米安保条約への言及なしでも完結し、不足を感じさせない話法のうちに語られるようになるのか」と。戦後憲法に「革命説」をとった宮沢俊義をはじめ、美濃部達吉、横田喜三郎、江藤淳、南原繁、吉田茂、丸山真男等を登場させ興味ある場面が展開されますが、文芸評論家としての加藤は日本の錚々たる人物について、非と賞賛を惜しみません。そしてマッカーサーとダレスの角逐から朝鮮戦争の勃発、中国という共産主義国の台頭、軍拡競争等を背景に、もともと国連の集団安保体制を前提にした「9条」は、国連憲章に通暁したダレスの巧妙な論理に屈します。そこに天皇による「外交」という驚くべき「事実」が重なり、「ニヒリズムと表裏一体の平和主義」となるというのが身体の不調のなかで記した「9條入門」の物語でした。しかし、加藤が発した問い「昭和天皇の心中の苦悩に焦点をあてた本は、これまで一冊も書かれていないのではないでしょうか」というつぶやきを含む「天皇と9条」の部分には、著者の心理のゆらぎが入り込んでいるように見えてなりません。これは例えば戦前の皇国青年の反省から、文学的な発想の無効を自覚してつぎのように呟いた吉本隆明の「自分はあの人より先に死ぬわけにはいかない」という内心の声とは違う戦後の人の声です。
 著者は実に多くの文献を渉猟し、調べあげ、微に入り細を穿つ類いの研究と努力の跡が見られます。「ひとまずのあとがき」を読めば「つぎの本」を書く予定があったことが知られますが、大変に口惜しいことに、病変がその可能性を奪ってしまいました。この「つぎの本」が「もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために」(2017年8月)を踏まえたものでありましょう。この「9條入門」はリベラリストたらんとした加藤の最後の著書となりました。
 さきの本「尊皇攘夷思想のために」には、疲弊するばかりの日本の情況を憂え、ある危険を承知で幕末の精神的な血潮を注ぎこみたいという願望にはどこか性急な口吻が窺えだすのは仕方のないことかも知れません。
「300年のものさしー尊皇攘夷と現代世界」で氏はこう述べます。「幕末の尊皇攘夷思想こそが、日本の近代の文脈に置く限り、戦後のリベラルな思想を含む、日本の近代以降の内発的なすべての思想の出発点であり、祖型なのです」。そして「最後にー丸山眞男の幻像」から示唆された方角へ目を向け、自分なりの尊皇攘夷思想の開く視界を踏査してみようと思っています」
 「明治150年の先へ」と題した章で、氏は3つの小文を書いている。1つは「上野の想像力」である。これはタウン雑誌「上野」に載ったもので、上野の西鄕の銅像をみてこう述べる。
「考えてみれば上野は明治以来、『敗者の想像力』とともに、『敗者の想像力』それ自体が、いまも息づく場所なのだ」。「私は東北は山形の生れである。・・・・東京は中学三年生の修学旅行ではじめて来た。降り立った場所が東北線の上野ホームで、その後、何度もお世話になる十六番線だった」
 ここで加藤にはめずらしい素顔をのぞかせている。そして、つぎに下の2つがある。
「八月の空のした、二人の天皇の声が重なりながら降ってくる。」(「八月の二人の天皇」)
「善悪の基準とは何か。明治150年を前に私はひそかにそう考えている。」(「明治150年と『教育勅語』」)

 71年の生涯を加藤という人間は、いったい何と戦ってきて倒れたのだろう。そんな疑問がふと胸をよぎる。氏は「敗戦後論」でその対手をハッキリと掴んだこと明らかだが、それはどこから加藤にやってきた使命なのだろうか。
 いまはただ、加藤がみた未来の展望に描こうとした苛烈な理想を夢想しながら、氏のご冥福をお祈りするばかりです。


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注:2019.8に当ブログにのせたものであるが、加藤典洋の関連で再掲する。



加藤典洋の軌跡

 厚生労働省は毎年、簡易生命表の概況を発表している。それによると2017年における日本の平均寿命は、男性が81.09年、女性が87.26年となった。男性の平均寿命80年超えは2013年分が初めてで2017年が連続の5年目となるとした。一文芸評論家の紹介の冒頭に、国の統計した平均寿命を記すことの愚は承知のうえに、拘ったのは外でもない、加藤典洋が1948年生れでありながら今年の5月に肺病で亡くなったことに注意を促したかったからである。3年前の平均寿命より10年も早く加藤典洋氏は逝去したのだ。この遠因となる背景については後ほど触れることになるだろう。
 さて本稿は加藤典洋という文藝評論家の論考というより、まず遺書となった「9條入門」までの軌跡をたどり、その足跡から加藤という文芸評論家の像を素描できたら幸いであるが、その上でできるなら論考へと進む手がかりを模索したいと思う。しかしながら、私自身の体調不良もあり甚だ心許ないことを最初にお断りしておきたい。場会によっては時系列を無視して、現在という歴史的時点に関連する事項へと焦点をしぼることも選択肢となるだろ。

 「アメリカの影―高度成長期の文学」は1982年であるから34歳でのデビューは遅いのだが、「戦後再見―天皇・原爆・無条件降伏」は雑誌「文藝」の1984年九月号に、そして世の注目を集めた「敗戦後論」が雑誌「群像」に載ったのが1995年1月号、単行本として講談社から発刊されたのは1997年8月、10月までに4回刷られている。また、前年の1994年には、大逆事件、経済新体制、高度成長などの日本の生態を扱った、副題が「『大・新・高』の精神史」とした「日本という身体」が刊行されているが、村上春樹の「風の歌を聴け」(1979年)からの村上文学への熱い視線が鼎談「村上春樹への冒険」(笠井潔、竹田青嗣)として1991年に、そして「イエローページ」として発表されだしていることは、加藤典洋の批評活動の文学と時代への鋭敏さと証すものだろう。スタートは遅れたが一端かかったエンジンは、みごとなフットワークで多様にして精力的な批評の展開を見せたことは、1990年に上梓された「ゆるやかな速度」までを見てみればあきらかである。

 まず、注目すべきなのは、「敗戦後論」が世に問われるまでの間、「批評へ」として「新旧論」を軸に5百頁の冊子になる30本弱の批評文を「群像」「文藝」「文学界」に矢継ぎ早に展開していることである。とりわけ「新旧論」は「三つの『新しさ』と『古さ』の共存」という副題がつけられ、自身が「少なくともその素材を小林秀雄、梶井基次郎、中原中也という古典的存在(?)から採っている。そのような意味では、従来の文芸批評上の達成と引照可能な、ぼくとしてははじめてのやや『本格的な』文芸評論ということになるかも知れない」と「あとがき」で記す小林の「私小説論」に関する部分と梶井、中原についての部分は諸賢の批判を仰ぎたいというだけの十分な達成を示しており、特に「社会化しえない私」を取りだした業績は先行者・秋山駿に負うてもいるが、その先鋭な思考は刮目に値すると思われる。そして、この分厚い本の「序文」に書かれた「オフサイドの感覚」は、加藤という批評家の明敏な運動感覚とみて差し支えはないだろう。


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注:2019.8に掲載したものである。加藤典洋の関連として再掲します。



「3.11」ー死に神に突き飛ばされる

 加藤典洋が批評を始めたのは、一九八十年代だった。たぶん「アメリカの影」から遡行するように「批評へ」というやや分厚い論考集、とりわけ所収の「新旧論」に感じた思いがある印象を残したことから、活字でのつき合いができた。次ぎには一九九五年の「敗戦後論」の出会いは私を刺激し、谷崎論の序論を「戦後私論」として書いた経緯がある。だが、その後の「戦後的思考」による到達点は私には曖昧なものを残し、加藤氏と紙一枚分ほどの距離ができたように思われた。たぶん「戦後的思考」による方向転換に、ある戸惑いを覚えたのに相違ない。しかし、それが自分には朦朧としている。フランス滞在中に考え、思考を鍛えたこの浩瀚な一書のうちに、氏は独自の「新しさ」の方向を探り出したにちがいない。小林秀雄、吉本隆明、江藤淳らから加藤が吸収したものには同調できるものがたぶんにあったが、彼が鶴見俊輔から受け継いだものに、違和感を感じたのだと思う。これについては、再度、私自身が検討しなおさなければならないだろう。
 そうした事柄はここでは枝葉に属するので脇におき、「3・11」を読んだ感想の断片を記しておきたい。
 この黒表紙の薄い本は「死に神に突き飛ばされる」と「祈念と国策」の二つでできている。私はこの加藤の本と同時並行して、中沢新一の「日本の大転換」を読んだ。中沢のほうは彼らしい才気に富んだもので興味はひかれたが、彼自身がパンフのようなものと言っているので、思想の素描のようなものとして読んだ。特に、原子力開発が太陽圏のもので、それを地球の生態圏へ持ち込むことへの反対論において、またそれが一神教批判と同列にあることに、説得されるほどには、まだ充分なことばが不足しているように感じた。ただ「愛と経済のロゴス」(カイエ・ソバージュⅢ)等を読んだ者には伝わってくるが、それはまだ軽い説得力でしかないように思われる。このことは、まだ未読の「緑の資本論」により、理解が促されるように思われるのだが・・・。
 その点、加藤のこの本は「思想」を構想するというより、自分と世界との関係における問題への反論・異論を含んだものであり、中沢の論に比較して地味だが、3・11の現実に衝撃をうけ、どこか自分の足で地面を一歩一歩あるくように思考していこうとする、真摯な熱意には惹かれるものがたしかにあると思われた。
 それは加藤の論考が「批評」のことばで書かれているためであろう。つまりこの辺に初期の「批評へ」の「新旧論」から持続している氏の基調が貫かれている論拠があるのだという感想をもった。
 すこしばかり迂回して恐縮ではあるが、ここで加藤の「新旧論」から、長い引用での文学的論考の紹介をせざる得ないことをご了解いただきたい。
〈富永の一冊の詩集と、梶井の小説と、小林の「Xへの手紙」とのうちに、ぼく達は、日本近代文学の可能性の原点を見る〉ことから加藤はこの初期の論考をはじめている。
〈小林が、富永、梶井よりも思想的にすぐれている所以は、文学上の『新しさ』が、社会の中に生き、それに関与し、それから関与されるなかで、どこまで通用するかを身をもって示した点にある。これが、この問題に関するぼくの、基本認識である〉
 こうした認識を踏まえ、小林の「私小説論」の検討と加藤の批評を特徴づける考察に入りこんでいく。
〈小林達の「新しさ」が、戦争にたえなかったという事実は、ぼく達をもういちどその「新しさ」の方へと、つきかえすのである。その原因はどこにあったか。その一半の原因は、そもそも彼らの「新しさ」が、彼らの「古さ」との接点をその身内にもたなかったところにこそ、あるのではなかろうか。彼らがその自分の身内における「新しさ」と「古さ」の共存の意味を一つの思想経験、文学経験に鍛えあげるのを、怠ったためではなかっただろうか、と。そして、こう書けばわかるように、この問いは、彼らの経験をどう受けとり直すかという、そのままぼく達にはねかえってくる問いでもある。〉
 この「新旧論」は「批評へ」という大著のおよそ半分を占めている加藤の「批評」への出発の土台ともなった重要な論考であった。ここに加藤が「敗戦後論」を書かざる得なかった内的な必然性が示されていることの確かさは疑いようもない。そして、その延長上に、この「3・11」の本があるのだと納得されるのだ。

《核燃料サイクルの放棄は、「技術抑止」という日本のこれまでの核抑止政策の「放棄」であることを、世界に向けて宣言するかたちで、行われなければならない。今回の原発事故の最大の原因は、日本がほんとうの意味で「原子力の平和利用」を確立できなかったからだというのが、世界に向けての日本としての反省でなければならない。この宣言を起点として、ドイツの例に見られるようい、日本は、東アジアの近隣諸国、米国、ロシア、その他の国に、今度こそ、核兵器を否定することを訴え、信頼を勝ちとるのでなければならない。そして、そこから新しい外交と、産業と、哲学とを創り出していくのである。
 これは、夢物語だろうか》(「祈念と国策」より)

 寺島や立花、小説家の村上春樹への言及も含め、現時点での様々な論文や資料の論点を網羅し、最後に自らの明解なメッセージを表明している。
 これは夢物語ではあり得ない。これは、国家意思の完膚無きまでの覚悟というしかないからだ。そして、その先の日本にどのような「運命」が待っているかは分からない。加藤が「祈念と国策」と題した所以であろう。


「3.11」



注:2012.1月のブログを再度、ここに載せる。加藤典洋に関連するものだからである。。


「朝夕安居」鏑木清方

 明治時代の鏑木清方という画家に「朝夕安居」という横長の一幅の絵がある。東の鏑木、西の上村と言われた美人画の名手であった。この画家は明治二十年代の下町の暮らしをこよなく慕った画家で、二十四歳で亡くなった樋口一葉の肖像画はいかにも凜とした佇まいを、「築地明石町」では泉鏡花が絶賛したという粋で優美な美人画を描いている。
 画家が暮らしたのは、今の中央区の湊町四丁目だが、その町名はいまはない。むかし新富駅近い八丁堀で働いていたことがあった。七十一で亡くなった父がこの辺で育ったのかと思うと、ときおりぶらぶらと散歩を楽しんだことがあったのだ。高橋という名の橋の袂に「天壌無窮」という戦時中の石柱があり、海軍中将某の名が刻んであるのを見たことがあった。
 清方がこの絵を描いたのは昭和二十三年だから、東京があらかた焼け野原となった頃である。もう既になくなった明治の平和が瞼の裏に浮かんできたのか、なんということもない下町の生活風景を絵に描いて残しおきたかったのにちがいない。粋と下町の情緒が活きていた頃の事だ。新聞配達の少年が町を駆け、それを待っていたように中年の男が新聞を広げている。赤い花をつけた百日紅のしたで物売りをする屋台とそれを取り巻く娘たち、夕暮に玄関口から夕餉のおかずを求める浴衣姿の婦人がいる。青桐の木陰で戸板を囲んで盥につかる商売女の裸体が艶っぽい。うっすらと夕焼けに染まったひろい空を仰ぎ見て、夕涼みをする老人がいる。朝昼夕の何げない一日の風景が描き止められているだけである。粋があり情のある江戸がその面影を残している、明治の二十年代の下町をこよなく愛惜しんだ画家だ。「築地明石町」の黒染めの美人画は有名だろう。朝は七時から八時に起き、前垂れをしめて神棚に拝み、朝日に向かって手を合す。夕方五時には普通の職人と同様に仕事をやめて、茄子や大根の漬け物、味噌汁と白御飯の夕食という定番の暮らしの日々があった。
 九十三歳まで長生きをした絵描きで、「明治の東京」(岩波文庫)という随筆がある。「上野の戦争」と題した文章からその一部を抜き書きしてみよう。
「私どもの親戚にあたる本阿弥忠敬というのが、やはり隊に加わって、手疵を負って自分の邸へ落ちて来たのを、その母親が押し入れに隠して、調べにきた官軍に応対し、まかり間違ったら息子と共に自殺する覚悟でいたという。その母親というのは、私の家から出た人だそうで、色の白い品のいいおばあさんであったが、よくその人にあうと、この伯母がそんな強い人なのかしらと、芝居の人を生で見るような気がした」
 鎌倉の雪の下に「鏑木清方記念美術館」が昔の家構えそのままに残っているそうだ。暇があったら出かけてみたいものである


   明治の東京 



 これは2018年8月の再掲であります。鏑木清方の特別展が竹橋の近代美術館で開催された。この特別展に関連があるので、繰り上げて再度掲載させていただきました。




プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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