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「朝夕安居」鏑木清方

 明治時代の鏑木清方という画家に「朝夕安居」という横長の一幅の絵がある。東の鏑木、西の上村と言われた美人画の名手であった。この画家は明治二十年代の下町の暮らしをこよなく慕った画家で、二十四歳で亡くなった樋口一葉の肖像画はいかにも凜とした佇まいを、「築地明石町」では泉鏡花が絶賛したという粋で優美な美人画を描いている。
 画家が暮らしたのは、今の中央区の湊町四丁目だが、その町名はいまはない。むかし新富駅近い八丁堀で働いていたことがあった。七十一で亡くなった父がこの辺で育ったのかと思うと、ときおりぶらぶらと散歩を楽しんだことがあったのだ。高橋という名の橋の袂に「天壌無窮」という戦時中の石柱があり、海軍中将某の名が刻んであるのを見たことがあった。
 清方がこの絵を描いたのは昭和二十三年だから、東京があらかた焼け野原となった頃である。もう既になくなった明治の平和が瞼の裏に浮かんできたのか、なんということもない下町の生活風景を絵に描いて残しおきたかったのにちがいない。粋と下町の情緒が活きていた頃の事だ。新聞配達の少年が町を駆け、それを待っていたように中年の男が新聞を広げている。赤い花をつけた百日紅のしたで物売りをする屋台とそれを取り巻く娘たち、夕暮に玄関口から夕餉のおかずを求める浴衣姿の婦人がいる。青桐の木陰で戸板を囲んで盥につかる商売女の裸体が艶っぽい。うっすらと夕焼けに染まったひろい空を仰ぎ見て、夕涼みをする老人がいる。朝昼夕の何げない一日の風景が描き止められているだけである。粋があり情のある江戸がその面影を残している、明治の二十年代の下町をこよなく愛惜しんだ画家だ。「築地明石町」の黒染めの美人画は有名だろう。朝は七時から八時に起き、前垂れをしめて神棚に拝み、朝日に向かって手を合す。夕方五時には普通の職人と同様に仕事をやめて、茄子や大根の漬け物、味噌汁と白御飯の夕食という定番の暮らしの日々があった。
 九十三歳まで長生きをした絵描きで、「明治の東京」(岩波文庫)という随筆がある。「上野の戦争」と題した文章からその一部を抜き書きしてみよう。
「私どもの親戚にあたる本阿弥忠敬というのが、やはり隊に加わって、手疵を負って自分の邸へ落ちて来たのを、その母親が押し入れに隠して、調べにきた官軍に応対し、まかり間違ったら息子と共に自殺する覚悟でいたという。その母親というのは、私の家から出た人だそうで、色の白い品のいいおばあさんであったが、よくその人にあうと、この伯母がそんな強い人なのかしらと、芝居の人を生で見るような気がした」
 鎌倉の雪の下に「鏑木清方記念美術館」が昔の家構えそのままに残っているそうだ。暇があったら出かけてみたいものである


   明治の東京 



 これは2018年8月の再掲であります。鏑木清方の特別展が竹橋の近代美術館で開催された。この特別展に関連があるので、繰り上げて再度掲載させていただきました。




「渇水」と「芥川賞を取らなかった名作たち」(佐伯一麦著)

 芥川賞の候補で名を挙げられて、受賞を逃した人は多い。この本の佐伯一麦もその一人だ。「芥川賞を取らなかった名作たち」で佐伯氏は11人の作家の作品を取り上げている。巻末で対談をしている島田雅彦は7回も候補に挙げられた「有名人」だ。この本にも取り上げられず、忘れ去られたたくさんの人たち、あるいわ、いわゆる純文学から離れて、大衆小説で成功した人も中にはいるのであろう。
 偶然に、私はそうした3人を見知っている。まず、童門冬二氏は「暗い河は手を叩く」で候補になったのは昭和30年代であった。私は氏が東京都庁の政策局長時代に、局長室で氏と面談したことがある。その時、局長秘書をしていた人が、まだ若い青山脩氏で、私はこの秘書の関門を「直接に局長にアポイントをとっている」と、強引に突破したことがあった。その後、童門氏とはあるサロンで同席し、そのとき「女たちの新撰組」とかいう著書を戴いた。氏は「上杉鷹山」で本格的にデビューし、NHKの人気番組「その時歴史が動いた」のキャスターであった松平定知氏とは、息があった闊達な有能振りを示した。
 また、一人は「光芒」と「離婚」で2回候補になった多岐一雄氏である。「光芒」は当時、「同人文学新人賞」(新潮社)の選者であった三島由紀夫氏に好感を持たれたらしく、親しくなった三島氏が約束の時間に寸刻の遅滞なく姿を現すことを聞かされたことがある。氏が三島氏の絶筆である「天人五衰」の自筆の原稿を持っていると聞かされて驚いた。「光芒」は一部の選者からは軽薄のそしりをうけたが、氏は社交ダンスの一流のダンサーであった。一緒に歩くとその飛ぶかのような、リズミカルな歩行についていけなかったことを思い出す。また、豪放な壇一雄氏に酒場の梯子で連れ回された体験を聞かされた。氏と話しているときに「君はばかに理屈っぽいんだな」というお咎めをうけたことがあった。当時、私もまだ若かったのである。氏からなにか面白い本はないかというので、私はガルシア・マルケスの「百年の孤独」を貸すと、一晩でそれを読み終えた氏は、自分の推薦する一冊の小説としてあるところへ出したとの報告を貰った。選者の一人に「第二の石原慎太郎になれる」とまで言わしめた、光る才能を氏は、その後どうしたのだろうか。
 そして、三人目に既に五十代で物故した河林満氏とは数年つきあった。私はこの人の候補作になった「渇水」は本人から貸して貰って読んだ。若い頃に書いた活字になった詩のコピーを私にくれたが、小説のほうが良かった。「渇水」の翌年に候補作になった「穀雨」はあまり感心しなかった。長年努めてきた職場を辞めたが、筆一本でプロの作家にはなれなかった彼は、酒に溺れだしたようだ。私が氏と最後に合ったのは、三島の「憂国」をみようと誘われた蒲田の映画館であった。映画館を出るとすぐに酒場へ誘われた。以前の朗らかだった彼の目は、苛立ったような暗い目付きに変わっていた。
 新宿二丁目のバーで飲んだこともあったが、そのバーに彼も中上健次に連れて来られたのだった。
 中上健次は彼をまえに言ったらしい。
「おまえの『渇水』はいいけど、おまえの文学の背後には、なにもないじゃないか」
(音楽家のショパンが同様なことを言っているのを思い出す。
 ーその背後に思想なくして、眞の音楽はない。「音楽の基礎」芥川也寸志より)
 中上らしい厳しい批評だが、いま、こういう厳しいが、やさしい指摘をしてくれる作家はいるだろうか。
「でも、おれはおまえが好きなんだ」と、中上はすぐに言い添えたらしい。
 私もある時点まで、この作者が好きであった。だから、立川だかのビル管理会社へ就職した彼のために、管轄外の会社との仲介をして、少しばかりの慰謝料を貰ってあげたことがあった。浅草駒形の「どぜう屋」やその他の店の酒代を払い、家に呼んだりもしたこともあったのだ。
 蒲田で逢った翌年の冬の朝だったか、彼は警備会社に職を得て、朝一番の点呼かなにかの場所で脳溢血に襲われたのである。葬儀場で彼の写真を見た。その写真には彼の笑顔があったが、彼の晩年からは笑顔をみることはついになかった。三十代の前半に同じ詩誌の同人であり、私の二番目の自費出版の詩集に跋文を書いてくれたY氏は、その後、H賞の詩人となったが、彼も葬儀に参列していた。一緒に都心へ向かう電車に二人で乗った。話したのはY氏が準備中の詩集のことに終始した。
 あの「渇水」だけでも、文庫本にならないかと、大手の編集者に働きかけたが、色よい返事はなかった。
 福島の海沿いに生まれた彼が、3.11以降も生きていたなら、また、どんな作品を書いただろう、と思わずにはいられない。
 佐伯一麦の「芥川賞を取らなかった名作たち」の中に、「渇水」が入っても遜色はないだろう。たしかに、作品の最後を小さな娘二人を自殺させる終わり方に、注文をつけたくなる選者の気持ちも分からなくもないが、それでもこの作品が、彼の名作であることに変わりないからである。
 私の職場に彼が取材に来たことがあった。残業をしていた女の子に写真を撮ってもらったが、不手際でとうとう写真にはならなかった。だが、夏の青空にポッカリと浮かんだ白い雲にも似た作品は、水のように透明で豊潤な文体を持っていた。あの一作ではいかにも口惜しいが、人の運命はなかなかにままならないものなのであるらしい。


   芥川候補


 

百瀬博教という詩人

 ある日、留守中に家人が電話をうけた。それは出版した詩集「海の賦」(85年)を贈った人からの電話に相違なかった。事情を知らない家人はろくに相手を確かめずに、電話を切ってしまったようだ。それほどにいわく言いがたい電話の内容であったのだろうと推測したが残念な思いもあった。石原裕次郎の用心棒で秋田の刑務所に6年もいた100貫を越す巨漢の詩人、その電話は百瀬博教氏からにちがいなかったからである。
 百瀬博教氏は、処女詩集『絹半纏』を出版し、1988年(昭和63年)に『新潮創刊100号記念』誌上で文芸評論家の山本健吉により、上記の表題で詩人として認められた異色の人物であった。私は文藝雑誌を読んで、山本健吉が詩人としてこの人を紹介して評価したことに賛同しないはずはなかった。山本健吉がいう通り、まさに現代には稀にみる血湧き肉躍る百瀬氏の文章に感激したからである。まして、この人物が東京市浅草区(現台東区)柳橋出身で、同じ下町に住んでいるという偶然を喜び、私の詩集をお贈りしたのだ。
 なぜ今頃になり氏を思い出したのを記しておこう。私の誕生日が2月20日であったことから、同じ誕生日の人間を面白半分に調べてみた。その中になんと百瀬博教という名前を発見したのである。その他、志賀直哉、長嶋茂雄、石川啄木、志村けん、水之江ターキー、黛敏郎、アントニオ猪木、左卜全等のリストがずらりと並んでいた。家人は「変わった人がまたずいぶんと・・・」と口の中でなにやらつぶやいていたが、一度、仕事で銀座の資生堂の「花椿賞」の担当課長に会う約束があって出かけたことがあった。その時、「花椿賞」のパーティー当日のアルバムをみせられ、その写真のなかにこの百瀬博教氏の野球帽の姿を見たときは驚いたが、この詩人の叔父貴が同じ町に住み、詩人本人を知っていることに資生堂の人はまた吃驚したようであった。
 ご参考までにウイキーからこの人の経歴を掲載することをご寛恕ねがおう。

東京市浅草区(現台東区)柳橋出身。侠客の百瀬梅太郎の次男として出生。学生時代は相撲取りを目指し、私立市川高等学校[3]では相撲部を創設して、関東大会2位、国民体育大会に出場した。立教大学文学部史学科在籍中も相撲部に所属し、同大学の相撲部は、百瀬と交流のある周防正行が1992年(平成4年)に監督した映画『シコふんじゃった。』のモデルになっているという[4]。
大学時代は1960年(昭和35年)から赤坂の高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で用心棒を勤めた。そこで俳優の石原裕次郎と知り合うことになり[5]「弟分」を名乗ることとなる。用心棒として23歳のときから拳銃の密輸を始め、28歳のときに拳銃不法所持により警視庁へ出頭。その後、裁判前に秋田県に逃亡したが結局逮捕され、6年間の刑務所生活を送り、その間に読書生活を送った[6][7][8]。
 34歳で出所し、処女詩集『絹半纏』を出版、1988年(昭和63年)に『新潮』誌上で文芸評論家の山本健吉に認められる。バブル経済の最中、債権の回収を行なったり、株式運用を行なったが、バブル崩壊により無一文になった。並行して作家の曽野綾子の進言により『新潮45』で1989年から『不良日記』を連載[5]。1992年(平成4年)から『週刊文春』で『不良ノート』の連載を開始、その他『週刊宝石』で『百瀬博教交遊録』を連載し、エッセイを執筆するなど作家として本格的に活動を始めた。日本文化研究家のエドワード・G・サイデンステッカーとは1989年(平成元年)に共著を出版。テレビ番組制作プロダクションのイーストの富永正人社長と親交を持ち、イースト制作の番組に出演した他、イーストライツが出版する雑誌『Free&Easy』に連載を持った。
格闘技愛好家としても知られる。プロレスラー・アントニオ猪木と親交を持ち、総合格闘技イベントPRIDEには1999年(平成11年)から関わりを持っていた。メディア登場時には「FOREVER YOUNG AT HEART」(心は永遠の若者)とプリントされた黒い野球帽を常に被っている事でも知られていた。大手ネット掲示板2ちゃんねるでの通称は「ピーチ」。「百瀬」の読み、「ももせ」を「桃」としてその英語読みから取られたもので、猪木はそのニックネームを知ると「ピーちゃん」と気に入っていた。
 2008年(平成20年)1月27日午前2時40分ごろ、自宅を訪れた知人が風呂場の湯船の中で意識を失っている百瀬を発見。救急搬送されたが、同日午後3時半ごろ、死亡が確認された。 死の3年ほど前から体調を悪化させていたという[15]。映画『タバコ・ロード』について書いた文章が絶筆となった。2月20日に青山葬儀所でしのぶ会「不良ノート」が開かれ、アントニオ猪木、ビートたけし、周防正行、EXILEのHIROら約700人が参列した。

 一度も会う機会はなかったが、この人は我が町の祭を盛り上げる影の人物であり、また、幾つかのエピソードがある懐かしい思い出の人であったのだ。文芸評論家の山本健吉氏は詩人の高橋睦郎氏から詩集「絹半纏」を送られて一読、得心するところがあったらしい。合掌して終わりにしたいが、「新潮」掲載の文章から、そのほんの数行の引用を許されたい。

 「私は『絹半纏』を読みながら、しばしばヴィヨンの名を思いだした。百瀬氏こそ、今日の日本でただ一人の、ヴィヨンの流ではないのか。詩に正雅の流れがあれば、怨者の流れがあり、背徳の流れもあるのが、あるべき公正なあり方ではないか。」



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「江藤淳と加藤典洋」ー二人の批評家

 先日、七百頁を越える「江藤淳」の評伝を読んだ。六十六歳で自らを処決した文芸評論家の生い立ちからその一生を、元編集担当者がおよそ7年の歳月をかけ、江藤淳なる人間の文学と人生を最大洩らさず、その秘事まで白日にさらした尋常ならざる本である。巻を措く能わず、夜に日を継いで読んだところだ。読み進むにつれて恰も江藤の霊が憑依したかのごとく、読者を圧倒する熱情の結果は長編の力作評伝としても比類ないものと思われた。
 一文人の偉業を追慕し再度この世に甦らせるに、著者がはらったエネルギーには瞠目すべきものがあるが、なによりも、江藤淳なる人物にそれだけの力量と才覚があったからに相違ない。その出自・家系もさることながら、生前の氏の実績と履歴がそれを要求し、著者はそれに応じての忠実なる伴侶として、これを勤めたその努力には敬意を払わざるえないところだろう。
 これに比べるべきもないが、今年の5月に71歳にて病没した文芸評論家の加藤典洋氏への追悼の一風景が思い返されてならない。それは本人の死生観に拠ってきたるところでもあるのだろうが、あたかも一匹の猫がこの世から姿を消すかのごときありさまには、現今の世相と出版事情とが相俟つものと推察され、なにやら薄ら寒い思いを覚えたのところであった。知見の限りでは、「群像」8月号の高橋源一郎の「論考」及び「すばる」8月号の橋爪大三郎外2名の片々たる追悼を瞥見したのみであった。こちらは東北は山形県人にして遅咲きのデビュー、他方は湘南出の早熟の才の上に、目端のきいた世渡りのグッドスイマーにしてネットワークとバックボーンには些かも支障なしとなれば、かれがの相違はもとより論を待たないことであった。浩瀚なるこの評伝にも触れられていたところであるが、加藤氏は江藤淳を批判することによって文芸評論家として最初の歩みを印したことは確かなことだろう。時代は異なるとはいえ、大岡昇平からの資料のスケットを得て、小林秀雄氏をスプリングボードに批評家として立った江藤淳氏も同様のことは、縷々この評伝に記されているとおりであろう。
 題41章、戦後体制への異議申し立てにおける、「なぜ平野謙批判から始ったか」に次ぎのくだりがある。
「ヒント(最晩年の病人・平野に、江藤氏が死者に鞭打つ仕打ちにでたー引用者注)は加藤典洋の江藤淳論の書『アメリカの影』の中にあるといえる。加藤は(無条件降伏)論争の四年前に出た江藤の英文著作『ある国家の再生―戦後日本小史』に、「日本は無条件降伏した」と明記しているのを隠して、平野を批判した態度を「不明朗」だとした。その部分には、こう書かれている。「1945年8月15日正午ちょうど、天皇はレコードに録音された肉声によってラジオの全国放送網を通じ、日本の連合国に対する無条件降伏を発表した」(加藤訳)。日本では流布しない英文の本とはいえ、確かに不明を恥ずべき江藤の汚点であろう。この江藤の英文によく似た一文が、実は平野の『現代日本文学史』にはある。江藤が平野攻撃のために引用した文の直前である。
「かくて昭和20年8月15日の昼さがり、無条件降伏をつげる天皇の声は、電波にのって全国になりひびいたのである」
 江藤が平野の文章を批判しなければならなかった理由は、引用しなかったこの部分にこそあるだろう。江藤は「光栄ある敵」である平野の名を借りて、自身の文章を断罪したのである。(略)己への断罪の隠蔽をさらなるエネルギーにして、江藤は無条件降伏以後を戦ったのではないだろうか。」
 著者はこうした推測の根拠を解明するため以降の数頁を割いて江藤援護の論陣をはる周到ぶりはみごとという外はない。生前の江藤淳氏の業績を追いかけ、その透徹した洞察と鋭利な分析、ブリリアントな語学力と広い教養、明敏なる文章に時を忘れたむかしが思い出されてならない。「諸君よ」と呼びかけ自ら処決して人生を断ち切った英明なる評論家の胸中を思いその熱い志を、墳墓から今一度この世に甦らせようとの計らいは同慶の念を禁じがたいところである。
 さらに、「『平成』の虚妄を予言し、現代文明を根底から疑った批評家の光と影―。」と帯に記されているこの本が、精密にして戦意に溢れ、酷烈にして秀抜な評伝であることを肯わないわけではない。
 だが、ひっそりとあの世へ旅立った同時代の一人の批評家は、その息子の不慮の死から「彼は人が死ぬとうことがどういうことであるかを教えてくれた」と「人類が永遠に続くのでないとしたら」(2014年)の「あとがき」に記しさえした。なによりも江藤淳が第一回三島由紀夫賞にノミネートした高橋源一郎が先の「論考」で評価したこの書物の「序 モンスターと穴ぼこ」に、加藤がみた福島原発事故からの「無ー責任の世界」の現実と危機は、原子力行政と電力会社の不祥事をみるまででなく、江藤氏が批判した「ごっこの世界」でも「『平成』の虚妄」でもないのである。加藤の遺書ともいえるこの書の先見的な思考に注目し、さきの戦争で犠牲となった内外の死者たちへの追悼に深甚なる思慮をさぐりつづけた批評家を偲ぶとき、この本の端々に濛々と渦巻くある種の尊大なる姿勢に、いささか眉を顰めざるえないことを正直告白せざるえないだろう。
 さて、明日は令和の時代の幕開け、即位礼正殿の儀はすぐ目前となった。





詩人 中野重治

 中野は「斉藤茂吉ノート」のはじめで、茂吉について語る自分の資格を疑ぐる。「ほんとうにやりたいこと」はとのアンケートに「学問」と答えた中野という人間に、かつて強い印象をうけたことがあった。
 「歌」「雨の降る品川駅」等である。萩原朔太郎や中原中也、また西欧の近代詩に比べるとどこか中国の述志に類する強い覚悟が、陣中へ柄当てをされたような暗い痛苦を刻んだが、同時にその詩の深い底のどこかにロマンティックな翳りがみえ、そこに詩人ハイネを偲ばせる雄々しい爽快さが流れていた。戦前と戦後の現在では詩を書く情況はまったくちがっているというような浅薄な体捌きで、私の額を痛撃した中野の太刀をかわすことなど、群小の小手先「詩人」たちに出来るはずはないにちがいない。「豪傑」や「機関車」のごとき詩は、中野の中で鍛錬され、氏が斉藤茂吉の歌の中にみた「南蛮鉄の如き覚悟」の表出だが、

ただそいつらはどれもこれも
めめしい けれで金の色をした記憶なのだ
それが金の色をしているというばかりにおれは
胸を疼かしたりしていまだに棄てきれないでいるのだ (中略)
夜の噴水のように ぽろぽ それを琴にしてせめておれは歌がうたいたい   (「噴水のよに」)

ひとの心のなかへ降りて行くのはもう止しだ
こんどは浮きあがる番だ
さあ浮きあがれ うかべ
このやくざな心臓にささらをかけて
            (「ぼろ切れ」)

 こうした跼蹐をかかえた中野という人間の自己変革の劇を見ることなしに、あの「歌」も「夜明けまえのさようなら」も、詩として自立するはずはなかったのにちがいない。
 そして、絶唱の一篇ともいうべき「雨の降る品川駅」は、こうした中野重治という、詩人であるまえに、ひとりの中身のある実践的人間であろうとした男の、万感の思いが凝結し、慈愛にみちた女性的な繊細さと強固な意志を貫かんとする男性原理との合金、日本のささら鉄の塊より鍛冶された真剣のように、冷たい雨に濡れた駅頭に美々しく屹立しているのである。
 中野は言う。「中身のつまっていないせっぱつまった状態なんてものはどこにもない。そして中身がつまっているということは、その仕事に当人が身を打ちこんでいること、全身で歩いていることにほかならない。僕の考えている「素朴」というのはそういう態度をさしている」。・・・芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値がかかってくるということなのだ。制作をどこまでたたきあげるかということは、生活をどこまでたたきあげるかということを基礎にしないかぎりいくらやってみても堕落だと中野は思うのだ。・・・ドストエフスキーは自分の肉体で物語をこさえた。ツルゲーネフは小説をこさえるために生活した、と。
 ハイリッヒ・ハイネと同年に死んだ、日本の二宮尊徳の偉業をハイネと等価に見ようとする中野重治のリアリズムの精神は、情報化や消費社会の波乗りに現を抜かしている世界の足下を、太い鉈で薙ぎ払う新しい現実の出現に、驚愕する日が来ないという保証はどこにもないのである。9,11の福島は、実際にそういうことであった。
 ところで、既存の「経済学」をギリシャの経済学の「CATALLASEIN」なる用語から、ケネーやハイエクの「市場」に関する言説の示唆をうけ、「交換する」だけではなく「コミニティーに入る」「敵から味方に変わること」の三つの含意に着目し、人間にとって経済とは何であるのかという根底的な問いから、近代経済学に欠けている領域に「新しい経済学」を模索している中沢新一の「経済学とトポロジー」(「野生の科学」所収)を興味深く読んだところだ。
 中野重治が注目した二宮尊徳の弟子の一人であった岡田良一郎等(「二宮尊徳」奈良本辰也)が明治に起こした「報徳運動」は、その最初の足跡を静岡県掛川市に、伊藤博文などの資金援助で設立した「大日本報徳社」の門柱には、片方が経済門、もう片方が道徳門であることは、農業思想家の尊徳には自明な前提を為していたことを、こうした中沢の探求から改めて思い出した次第であった。
 
        野生の科学


(注)本ブログは、2013年1月のブログから転載したものである。




プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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