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J.R.R.トールキン「ホビットの冒険」

 わが家の可愛い子供たちのためにと、昔、岩浪少年文庫創刊記念の特装版を全巻(30巻)購入したことがありました。美しい装丁のしっかりした表紙の本が書棚に並びましたが、上の二人の娘と下の息子の誰ひとりこの立派な少年文庫に少しの関心を払うことがないまま、いつしか子供たちは大人になってしまいました。少年文庫の全集は30年前のままに、今もそっくり書棚に鎮座しています。
 あるとき階段を降りてきた次女のフランスの旦那が、めずらしくもこんなことを言いました。
「お父さん、わたし『ホビットの冒険』を読んだことがあります」と流暢な日本語でこう言ったのです。
 子供たちのために買い求めた本なので、かくいう私は一冊も読んだことがありません。そんな書名の本があることすら知ることはなかったのです。飄々として、およそものごとにこだわりを見せたことのないフランス紳士の一言は、私になんとも床しい感慨を呼び起こしました。この蔵書に関心を示した人間が一人現われたのですから。
 私は早速この一冊を書棚から抜き出してみました。どの本よりも厚いこの「ホビットの冒険」について、ウイッキーには下記のようなことが記してありました。
「この本の著者がJ・R・R・トールキンという英国人で、本はファンタジー小説、原題はThe Hobbit, or There and Back Again. であり、同じトールキン作品の『指輪物語』の前日譚にあたる作品として、批評家からも広く称賛を受け、カーネギー賞にノミネートされたほか、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン最優秀児童文学賞を受賞したこと。そして、今日に至るまで人気を保ち、児童文学の古典的作品と見なされている」
 
 「指輪物語」ならむかし親しくしていた一風変わった詩や幻想の小説を書いていた一女性が熱く語り、書名は度々彼女の口から聞いていたことがありました。
 じつをいうと、私はこの娘のつれあいのフランス人と、およそ文学などという類いの話しをしたことがありません。スタンダールの「パルムの僧院」の主人公と同じ名前の持つ彼ですが、私はフランスの文学について話しをしたことがないのでした。それは日本人同士が漱石や鴎外の話しを滅多なことではしないのと同様です。人にはそれぞれ固有の興味の世界があるので、産婦人科の女医さんと西部劇の話しをする人はまずいないのが相場で、普通の常識と良識があればそれで充分なのです。ただこのフランスの紳士にはどこか日本人とはちがう、ほのかに異なる印象を感じさせるものがあるのは外国人であるが故に当然でしょうが、ただそれだけではないなにかがありました。それは彼の家が旧いフランス貴族の末裔であり、ヨーロッパの歴史を背後に持った欧州人であること、そうした片鱗を想わせる素振りや感性を窺わせるところに顕われるものでした。それはこれだとハッキリと言えるものではありません。茫漠として掴みどころがないなにものかなのですが、伝統を背後にした大人の落ちついた佇まい、自若とした態度が醸す雰囲気からくるなにものかというしかないものでした。なんによらず、彼が特別なこだわりを見せることはないのですが、それゆえなのか、にもかかわらずであるのか、地中海のあの広漠とした青い海のように、そこはかとなく漂うなにかあるものなのでした。
 家人が以前日本の桜の名所を見せに、彼を連れ回ったことがありましたが、無関心というのではないのですが、特別な関心を示すこともなかったのでした。家人はなにか拍子抜けをしたようでありました。下町の小さな家のこぜまい部屋に座っていても、長い脚を掘りごたつ式のテーブルの下に上手にまとめて、その自然体の様子はどこか優雅な趣きさえありました。
 一度、リヨンの郊外の立派な家に住むご両親が日本を訪問したことがありましたが、次女に教えられたのか、二人して玄関の格子戸を開けて入ってきたご両親が「宜しくお願いします」と日本語で挨拶されました。私はその悠揚迫らざる態度に感心してしまいました。このとき、ご両親を息子と娘と子供の三人が泊まっていくトタン葺きの下町の粗末な家に案内している姿を見かけ、そのこだわりのない広闊さに自分を恥じたくらいでした。
 悠々としたこの紳士はよく財布を失くしたりすられたりして娘に呆れられていましたが、あるとき、書きかけの小説の原稿が入っていたバッグを盗まれたことがありました。そんなものを書いているなどは初耳でしたが、パスポ-トの入っていたバッグはもどることはありませんでした。その後、フランスで原稿は復原され電子書籍で発刊されたとのことでした。題名は「夜明けは近い」(「L’AUBE SI PROCHE」)というのでした。歴史や伝統や文化はその地へ訪ねれば、自ずから見えてくるものでしょうが、その本当の姿は個々の人間の中に深く血肉化されているもののように思われてなりません。それが世界のどこであれ、そうした総体を受け入れることから国際関係は生れて世界への扉は開かれたものになるのでありましょう。話がどうも大きく逸れてきたようであります。
 さて、ここらで急いで、「ホビットの冒険」に話題を戻すことにしましょう。
 NHKの番組に「グレーテルのかまど」というお菓子を紹介するテレビ見ていたときでした。シードケーキというお菓子が英国にあるとのことで、このお菓子はJ.R.R.トールキン「ホビットの冒険」に出てくるとのテレビの解説がありました。甘いものが好きな私がこのお菓子に耳を立てたのは当然でしたが、トールキンの「ホビットの冒険」という本の名前に、前述のフランス人の娘の旦那の一言が甦ったのでした。ほとんど死蔵されていた書籍から、一冊の本が生き返ったように名前を挙げたのです。
 今度、機会がありましたら、このぶ厚い本というよりは、シードケーキなるお菓子を是非食べてみたいのです。そして、フランスのプルーストのマドレーヌはともかくとして、この「ホビットの冒険」のなかにでてくるお菓子を食べながら、ホビットの冒険について話しの花を咲かせてみたくなったのであります。





詩人 金子光晴

 昭和50年に80歳で逝った金子光晴の一冊が「ちくま日本文学全集」にあることに長い間気づかなかった。積もった埃をはらいぼくはお詫びするおもいででその小さな本を開いた。詩人の茨木のり子が解説を記している。一昨年、東海道の根府川の駅前の立て看板でぼくはこの詩人に出会った。
「女へのまなざし」という題で彼女は書いている。

「こどもの頃から八十一歳で生涯を終わるまで、(金子は)よく飽きもせず女を視つづけたものだと感心する。
 まだ二十代の青年の頃、京都で二、三ヶ月、ふらふらしていて、吉田山の下宿先のカリエスの娘と交渉を持つに至る。身体障害のその娘のやさしさにほだされて、結婚さえ考えるが、『金子さん、偉うなっておくれやす』という言葉に送り出されるように京都を去る。
 その時、京都駅にその娘の母親が駆けつけてきたので、すわ、いかばかりなじられるかと身がまえると、その母親は、『あんさん、うちの娘をよくそおんなにしてくれはりました。一生、男を知らずに終わるところでした』と、丁重に礼を言われて、二度びっくりして、『その時、女というものがわかったような気がした』」と光晴の若い時のエピソードを引用している。

 かくして、「女たちへのエレジー」など、金子の女性への哀切で深い探求は、「マレー蘭印紀行」等の放浪を経て、生涯にわたってつづけられていったものだ。
「天地の無窮に寄りつくために、人間に残されているのはセックスしかない」
これにまさるセックスの定義はないと、茨木は感嘆しているが、ここに金子光晴の肌身の実感が直截に出ていて、フェニミズムなどという思想とは別儀の愛情の言明というしかないだろう。
「恋人よ。/とうとう僕は/あなたのうんこになりました。・・・・」(「もう一篇の詩」)

 空々漠々の宇宙に対抗するいじらしくも滑稽・寂寞な水音を、金子はみごとな擬音語に託して詩に定着させた。ついでに日本人の誰もが目にしたくない姿を赤裸に記した「日本人の悲劇」があるが、これはいまは略す。序でに、光晴は早稲田、東京美術、慶応に入学していずれも退学している。友人が大学でつれあいの森美千代の子息である森乾にフランス語を習ったと仄聞した。教室のむさ苦しい男ばかりの群れをみて、「アテネフランセ」へ行くことを薦められたらしいが、いかにも光晴の息子らしいと笑ってしまった。


 「洗面器」
 
(僕は長年のあひだ、洗面器というふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思ってゐた。ところが、爪哇(じゃわ)人たちは、それに羊や、魚や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたへて、花咲く合歓木の木陰でお客を待ってゐるし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ、しゃぼりしゃぼりとさびしい音を立てて尿をする)

 洗面器のなかの/さびしい音よ。

 くれてゆく岬(タンジャン)の/雨の碇泊(とまり)。

 ゆれて、/傾いて、

 疲れたこころに/いつまでも

 はなれぬひびきよ。
  
 人の世のつづくかぎり/耳よ。おぬしは聴くべし
  
 洗面器のなかの/音のさびしさを。



       

トルーマンカポーティ「イスキア」

 2004年9月13日付、真夏のイタリアから一枚の葉書が届いた。
 葉書はその中央に「SORRENTO」と字がならび、上下に二種の果実、四方に4枚の風景写真に配されたいかにも南国からのものと思われた。文面から、四枚の写真うち一枚は地中海に浮かぶ「イスキア」島に違いなかった。
 「イスキア」はカポーティの短篇集(1992年筑摩文庫)に収められた作品のひとつ。1949年に書かれた旅行記でした。
「何という不思議な、奇妙な魔法にかけられた土地だろうー地中海のencantada(魔法の島)だ」とカポーティは友人宛てに書いています。
「午前中は仕事をし、昼食後は泳ぎ、午後にもう一度執筆、夜は友人たちを村で飲んだり、ジェイン・オースティンを読む喜びにひたった」。
 訳者の河野一郎氏は、「行間のすみずみまで、人生を楽しんでいる25歳の若い作家の喜びがあふれ、一篇の散文詩になっている。まばゆい、きらびやかな文体が美しい」と解説に記している。
 学生時代に「冷血」が発刊された。その原書を秘かに授業中に読んでいたことがあった。カポーティはこの「冷血」でノンフィクション小説という新しい分野を開拓し、小説はベストセラーとなった。しかし、執筆後それまで書いていた豊穣な小説をつくることができなくなったのだ。ここにフィクションを書くことの魔法の鍵があるのかとも想像されたが、この若書きの短篇「イスキア」は大好きな一篇でありました。
「どうしてここにやって来たのかは、忘れてしまった。」の出だしの一行から、「いちばん長い春、それはいちばん美しい春だった。」まで、河野氏のいうとおとり、行間に喜びが溢れるふくよかな読書体験を味わえる思い出の小説でした。
 この短篇集には「楽園への小道」「ヨーロッパへ」「イスキア」「スペイン縦断の旅」「フォンターナ・ヴェッキア」「ローラ」「ジョーンズ氏」「もてなし」「窓辺の灯」「くららキララ」「銀の酒瓶」「無頭の鷹」の12篇が収録されている。
 訳者の河野一郎氏の「あとがき」(1996年6月)はカポーティへのオマージュという入れ込みようである。
 映画「ティーファニーで朝食」を見て以来、私はカポーティのファンとなった。勿論、女優のオードリー・ヘプバーンの妖精のような魅力もさることながら、彼女が窓辺でギターを一人爪弾きながら歌う「ムーンリバー」の歌に若い心が動かされたものでした。
 彼は早熟の天才でありました。「第二の鎖国と言ってもよい戦時中、長らくアメリカ文化から遠ざけられていた当時の留学生にとって、ヘミングウエイもスタインベックもフォークナーもすべてが新鮮な驚きをもたらしてくれたが、しかしこの23歳の作家から受けた衝撃は大きかった。そこには開拓者と自然の宿命的な対決も、失われた世代の自虐的な苦悩もなく、薄いガラス細工のように傷つきやすい永遠の少年の姿が、南部の自然を背景に、精巧な文体で見事に焼き付けられていたからだ」と河野氏は書いています。
 一度対談した三島由紀夫氏は、彼はいづれ自殺するだろうと予言したとおりのありさまで、59歳、心臓発作で亡くなりました。生きることのすべてが病因で彼は死んだのだという表現はあまりに痛切です。その後、最後の長編「叶えられた祈り」を期待と一抹の不安で待ちもうけたように読みましたが、そこにカポーティの復活をみることは遂に出来なかったのです。それが彼と私の最後となりました。

 さて、我が家に舞い込んだイタリアからの葉書はこんなことが綴られていた。
「あれから、ナポリの中央市街地を離れ、電車で1時間ほろの地ソレントという所でのんびりとパラダイス気分でほっとしました。その後、船でナポリに戻り、ナポリ湾からプロチダ島、イスキア島と行きました。イスキア島では岬の突端の海辺で現地の女の子に声をかけられ、沢山の人に迎えられ、誰かの誕生日ということから、星空の下、何十人のイタリア人の中に混じらせてもらえました。また自宅にもお世話になり、ひとり旅の醍醐味を感じています。とても充実した旅でした。今晩パリへ帰ります。海と太陽を満喫し真っ黒です。ここは真夏、でもパリはもう秋です・・・。」
 これを読むと、ああこの時、娘はまだいまの旦那さんに出会っていなかったのだと、その後に訪れた彼女の幸福をしみじみと思わないわけにはいかないのは、父親故の浅はかな感傷でありましょうか。
 私もイタリアへは2回ほど行きました。ナポリから船に乗ったときの幸福感は、今でも胸に小さな太陽を抱いているようという喩えいがい浮かびません。「青の洞窟」を潜るように入ったあの一瞬、それはほとんど僥倖でした。「洞窟」を目指した船が二隻もあまりに波が荒れていると戻ってくるなかで、たった一回でスルーすることができたのですから。船の底の海から射す青い光りのなんという極上の美しさ。私は奥さんのお骨を胸に抱いて「わが青春に悔いなし」と嘯いていた慎太郎の同期の老紳士を思いださないわけにはいきません。
「ホラ、頭を下げないと危ないですよ!」
 いよいよ「青の洞窟」に入ると船が波に揺られながら、その狭い入口を波間の向こうにまじかにした時、私はそう紳士に叫ばずにはいられませんでした。
 船の途上、岸壁の上にフェラーリの会社社長の薔薇色の邸宅を見たとき、いかにもと唸ってしまったのを思いだします。ある詩誌の主宰者であった老詩人が、某音楽大学の創立者の娘であった奥方とイタリアへ行き、ベネチアの海辺を前に感極まって目に涙をうかべていたと聞いて、さもありなんと思ったものでした。



    イスキア
    カポーティ





三味線掘

 谷崎潤一郎の短篇「秘密」がラジオで朗読されている。俳優の朗読は読書とはまた別格の趣向で、私を陶酔させ酩酊させてくれた。
 谷崎は明治四十三年に「刺青」で文壇に躍り出るや、翌年には「秘密」を発表して籾山書店から「刺青」として短篇集を刊行している。後に述べるがこの籾山書店から泉鏡花が出した小説に「三味線堀」がある。まずは谷崎の「秘密」へ韜晦して現下の息苦しい世界から、消閑の時を白昼夢で満たすべく、妖しげな下町の陋巷へ気まぐれの散策をはじめてみることにしよう。
 小説「秘密」の冒頭はつぎのように始まっている。
「その頃私はある気紛れな考えから、今まで自分の身のまわりを裏(つつ)んでいた賑やかな雰囲気を遠ざかって、いろいろの関係で交際を続けていた男や女の圏内から、ひそかに逃れ出ようと思い、方々と適当な隠れ家を捜し求めたあげく、浅草の松葉町辺に真言宗の寺のあるのを見附けて、ようようそこの庫裏(くり)の一(ひと)と間(ま)を借り受けることになった。」
「賑やかな世間から不意に韜晦して、行動をただいたずらに秘密にして見るだけでも、すでに一種のミステリアスな、ロマンチックな色彩を自分の生活に賦与することが出来ると思った。私は秘密という物の面白さを、子供の時分からしみじみと味わっていた。
かくれんぼ、宝さがし、お茶坊主のような遊戯―(中略)ー
私はもう一度幼年時代の隠れん坊のような気持を経験して見たさに、わざと人の気の附かない下町の曖昧なところに身を隠したのであった。」
 そしてある晩、「私」は三味線掘の古着屋で見つけたあられの小紋を散らした女物の袷(あわせ)をみつけ、それを着てみたくてたまらなくなるところから、「私」が女への変身願望の肉感的な小説のディテイルが、谷崎の耽美的な才筆によって紡ぎ出されてくるのである。ここには「悪の華」のボードレールに見られる現実逃避の詩趣は微塵もなく、あくまで曖昧な闇につつまれた陋巷へと作者の筆はその好奇心に誘われていくのみである。
 さて、私が下町へ住居を遷した昭和50年頃に、この小説にでてくる「三味線掘」はその景色はあらかた失われていたが、まだその一部は残っていた。いまは旧弊な鉄筋の都営住宅と社会教育会館が併設された高層の建物だけが残っているが、その頃は一階にはマートと呼ばれた商店街があり、その暗い電灯の薄暗く天井の低い階には八百屋、魚屋等が軒を並べていたのを覚えている。清洲橋通りに面した一角にはいまはもうないが、台東区教育委員会が立てた立て札に「三味線掘跡」として下記のとおりの案内が記されていた。
「現在の清洲橋通りに面して、小島一丁目の西端に南北に広がっていた。
 寛永七年(一六三○)に鳥越川を掘り広げて造られた、その形状から三味線堀とよばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草三丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼・地を埋め立てそれが小島川となったという。
 不忍地から忍川を流れた水が、こお三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。
 なお、天明三年(一七八三)には橋の西側に隣接していた秋田藩・佐竹家の上屋敷に三階建ての高殿が建設された。大田南畝が、これにちなんだ狂歌を残している。

 三階に三味線堀を三下り、二上がり見れどあきたらぬ景

 江戸、明治時代を通して、三味線堀は物質の集積場所として機能していた。
 しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上交通の発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消し
 たのである。     
         平成十三年三月 台東区教育委員会 」

 なんのことはない。こう記した立て札そのものをいま見ることはできないのだ。谷崎が関東大震災の後、関西に居場所を移したのは、こうした新開地の白々しい土地柄を嫌ったからに違いない。だが東京においても見出すことができる地に足をつけた日常を、吉田健一なる批評家は発見して「東京の昔」という小説を文章に認めている。吉田健一の美意識は英国仕込みのもので、「時間」というエッセイとも批評文とも見分けられない特異な文体にそのエッセンスを堪能することができる。それは「言葉」に全幅の信頼をよせることによって、時間は命をえた水のように、空間を超越して流れるものだからである。谷崎の小説家の本能が関西をもとめて、東京を逃げ出したのは当然のように思われるが、それは空間の移動というより、作家の本源は吉田健一のいう「言葉」というものにあり、谷崎は「吉野葛」等でそれをみごとに証明している。
 なお、泉鏡花が「三味線堀」という小説を書いたらしいが絶版となっており、竹下夢二がこの辺りに惹かれた俳文と絵を残しているのはいかにも夢二らしい。そして、安藤広重の「富嶽百景」に「鳥越の不二」の版画をみて、酔狂にも「鳥越奇譚」なる小説を書いた吾人がいたらしいが、このコロナ禍で捜すあてもない。しかし、鳥越川の川筋は今はどこにも見ることはできないが、隅田川テラスを歩いていくと、朱塗りと金色の擬宝珠の橋があり傍に黒い鉄の水門がある。ここが隅田川へ流れこんだ鳥越川の名残だと知られたことは、嬉しいおどろきを覚えた。歩く民俗学者といわれた宮本常一ではないが、しゃにむに歩いてみなければ下町界隈といえどこうした発見はできなかったろう。



  冨獄百景 「鳥越の不二」富獄百景




 「天の夕顔」中河与一

 この哀れな男の話を、この強熱の誤謬に似た生涯を、どうぞ笑って下さい。
 この一節は、昭和13年に発刊された小説「天の夕顔」の末尾にある文章です。雑誌に発表された当初は黙殺された中河与一の典雅な本作品は、先の戦争と戦後を生きのび、おおよそ四十万部の読者を得たと、保田与重郎は昭和二十九年の解説に記しています。
 西欧の5カ国語に翻訳されたこの作品は、アルベールカミユにより「技巧の簡潔さによって生き、毅然としてしかもつつしみ深い」との惜しみない賞讃を受けました。
 二十一歳の青年の七歳年上の人妻への激しい思慕は二十三年の歳月を経て、純潔のままその女性が老いて死ぬまで貫かれたのです。
 日本浪曼派の保田与重郎はこの作品を文壇の世俗化とからくりに対し、本質的かつ根本的な文学上の抵抗を示したとして大変に評価をしたのでした。
 保田与重郎は戦前に活躍した文芸批評家ですが戦後は公職追放を受け逼塞した人物であります。三島氏は生前、この保田からの直接の影響を否定しむしろ蓮田善明との親交により日本浪曼派からの影響を肯定したところです。この三島氏も同様に、保田氏が「天の夕顔」の解説で指摘した「王朝的な唯美精神」の成果を体現した作家であったことはたしかなことでしょう。

 つれづれと空ぞ見らるる思う人
         天くだり来むものならなくに

 この本のエピグラフには王朝の歌人和泉式部の上記の一首が載せられています。
「そのうち、何かをきっかけに、郵便で、わたくしはあの人から本を借りたことがありました。
何しろわたくしは、天体物理の学生で、そのせいか、趣味として女性のしたしんでいる文学ほど、そのころのわたくしにとって、ふかぶかと美しく思われるものはありませんでした。
 それは翻訳の『アンナ・カレーニナ』で、読みすすでいくゆくうちに、わたくしは丁度アンナが雪国の汽車からおりて来て、ウーロンスキーと不幸な、しかしこの世で最も喜びに溢れた逢い方をするあたりで、小さい一枚の名前を見つけたのです。(中略)
 ところが、次ぎに借りた『ボバリー夫人』にも、そんな栞が入っていて、それには、

 わすれじの行末までは難ければ
      今日を限りの命ともがなー

 という高内侍の歌が書いてありました。」
 
 私はこの人妻とのストイックな恋愛が破綻するその限界を叙述した箇所の文章がなんとも好ましく思われてなりませんでした。
「もうあたりはほとんど暗く、あの人が蛇をこわがるので、私はそれを逃げさすために、先に歩きはじめました。わたくしは少年のように自分の強さを自覚し、拾った竹切れを持って、それを快活に表現するのでした。
 やがてあの人は、道の端で夕顔の花を見つけると、それを摘みとるのでした。手に白い花がにじんで、それが夕暮の色を余計に濃くするように思われました。
「なぜ結婚なんかしたのです」
 わたくしは、ふと唐突に運命というものに対する深い疑問を感じると、腹立たしげに、あの人に、そう尋ねました。」

 ここに結婚制度の倫理的拘束に抗おうとする若い主人公のぎりぎりの反抗の姿が浮かび上がっています。しかし作者のたゆたうような典雅な筆遣いはその限界を突破することを決して許すことはありません。
 やがて女からの手紙がきます。そこには建礼門院右京大夫の歌が書きつけられています。

 今はただしひて忘るるいにしへを
    思ひ出でよと澄める月かなー

 作者は自分の運命と諦観させる主人公に「自分は魂の本然に帰りたい」と決心させます。この決意こそ日本浪曼派(保田与重郎)がこの作品の核心に見ようとした剛毅な精神といえるのではないでしょうか。
「王朝文藝の系統をひく今の上方文化も、その意味で濃厚執拗なものである。海外の評家が、このロマンスの小説家の成功の原因を、作者の毅然としたつつしみと、簡潔で節度ある文体に見たのは当たっているのである。濃厚な内容を淡々と現わすことが、文芸の目標である。」と擱筆している。
 私もこの小説を結ぶ最終の文をひいて筆を擱くことにしたい。
「好きだったのか、嫌いだったのか、今は聞くすべもないけれど、若々しい手に、あの人がかつて摘んだ夕顔の花を、青く暗い夜空に向かって華やかな花火として打ちあげたいのです。・・・・
 しかしそれが消えた時、わたくしは天にいるあの人が、それを摘みとったのだと考えて、今はそれをさえ自分の喜びとするのです。」







プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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