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加藤典洋の軌跡(1)

 厚生労働省は毎年、簡易生命表の概況を発表している。それによると2017年における日本の平均寿命は、男性が81.09年、女性が87.26年となった。男性の平均寿命80年超えは2013年分が初めてで2017年が連続の5年目となるとした。一文芸評論家の紹介の冒頭に、国の統計した平均寿命を記すことの愚は承知のうえに、拘ったのは外でもない、加藤典洋が1948年生れでありながら今年の5月に肺病で亡くなったことに注意を促したかったからである。3年前の平均寿命より10年も早く加藤典洋氏は逝去したのだ。この遠因となる背景については後ほど触れることになるだろう。
 さて本稿は加藤典洋という文藝評論家の論考というより、まず遺書となった「9條入門」までの軌跡をたどり、その足跡から加藤という文芸評論家の像を素描できたら幸いであるが、その上でできるなら論考へと進む手がかりを模索したいと思う。しかしながら、私自身の体調不良もあり甚だ心許ないことを最初にお断りしておきたい。場会によっては時系列を無視して、現在という歴史的時点に関連する事項へと焦点をしぼることも選択肢となるだろ。

 「アメリカの影―高度成長期の文学」は1982年であるから34歳でのデビューは遅いのだが、「戦後再見―天皇・原爆・無条件降伏」は雑誌「文藝」の1984年九月号に、そして世の注目を集めた「敗戦後論」が雑誌「群像」に載ったのが1995年1月号、単行本として講談社から発刊されたのは1997年8月、10月までに4回刷られている。また、前年の1994年には、大逆事件、経済新体制、高度成長などの日本の生態を扱った、副題が「『大・新・高』の精神史」とした「日本という身体」が刊行されているが、村上春樹の「風の歌を聴け」(1979年)からの村上文学への熱い視線が鼎談「村上春樹への冒険」(笠井潔、竹田青嗣)として1991年に、そして「イエローページ」として発表されだしていることは、加藤典洋の批評活動の文学と時代への鋭敏さと証すものだろう。スタートは遅れたが一端かかったエンジンは、みごとなフットワークで多様にして精力的な批評の展開を見せたことは、1990年に上梓された「ゆるやかな速度」までを見てみればあきらかである。

 まず、注目すべきなのは、「敗戦後論」が世に問われるまでの間、「批評へ」として「新旧論」を軸に5百頁の冊子になる30本弱の批評文を「群像」「文藝」「文学界」に矢継ぎ早に展開していることである。とりわけ「新旧論」は「三つの『新しさ』と『古さ』の共存」という副題がつけられ、自身が「少なくともその素材を小林秀雄、梶井基次郎、中原中也という古典的存在(?)から採っている。そのような意味では、従来の文芸批評上の達成と引照可能な、ぼくとしてははじめてのやや『本格的な』文芸評論ということになるかも知れない」と「あとがき」で記す小林の「私小説論」に関する部分と梶井、中原についての部分は諸賢の批判を仰ぎたいというだけの十分な達成を示しており、特に「社会化しえない私」を取りだした業績は先行者・秋山駿に負うてもいるが、その先鋭な思考は刮目に値すると思われる。そして、この分厚い本の「序文」に書かれた「オフサイドの感覚」は、加藤という批評家の明敏な運動感覚とみて差し支えはないだろう。



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トーマス・マン「幸福への意思」

 何時の頃かは忘れたが、トーマス・マン全集で幾つかの短篇小説を読んだことがあった。その中に「幸福への意思」という題名のものがあった。それは私に短いが強烈な印象を残したものだ。この作家特有の的確な形容詞による人物と情景の描写は適度に駆使されて劇的な効果を盛り上げ、芸術的な熱情と冷静な配慮がこの短篇に雅致ある雰囲気を醸し出していた。
 情景とはローマという街でありベルニーニの彫刻であり彼が創造したトレビの泉での友人との別れの前日にしたちょっとしたおまじないの描写である。
 少年時代にぼくが親交を結んだパーオロは最初から虚弱で芸術的な資質にめぐまれている繊細な神経の持ち主の少年として登場する。この少年は実は心臓を病んでいて医者からも生きているのが信じられないとまでいわれ、本人もそれを自覚している。やがて青年となりぼくと共にある富豪の邸へ招待される。そこでパーオロは一人の女性と運命的に出会い激しい愛情にうたれる。しかし、女性の父親から青年へ娘への愛を諦めてほしい結婚には反対であるとの手紙をもらう。以来5年間、青年は姿を眩ませて諸国への放浪の旅へでてしまう。その間にその青年への好感と厚い友情を懐いている話し手のぼくは、女性本人から青年への確固とした愛情の告白をうけ、ぼくは女性から自分の心情をパーオロへ知らせてくれまいかとまで言われる。そして偶然ローマの街角でパーオロに再会したぼくは女性の愛を伝えてやる。

「別れは簡単だった。ぼくがパーオロの幸福を、多幸を祈ると、彼は黙ったままぼくの手を握った。
胸を張って大きな展望窓のそばに立っている彼の姿を、ぼくは長いあいだ見送っていたーそして勝利が。
ぼくにはこの上、なんの言うことがあるだろうか?・・・・彼は死んだ。婚礼の夜の翌朝。―いやほとんど婚礼の夜に死んだのである。
 それは当然そうなるはずのことだった。彼がこれほど長いあいだ死を克服してきたのは、ひとえに意思の、幸福への意思のお蔭ではなかったろうか? その幸福への意思が満たされたとき、彼は死なざるをえなかったのだ。闘争も抵抗もしないで死なざるをえなかったのだ。彼にはもはや生きるための口実がなかったのである。
 ぼくは、彼が悪いことをしたのではないか、結婚をした相手の女にたいして意識的に悪いことをしたのではないかと考えてみた。しかし彼の葬式の時に、ぼくは彼の棺の枕がみに立っている彼女を見た。そして、彼女の顔にも彼の顔に見たのと同じ表情、勝利の晴れやかな、力のこもった厳粛さを認めたのである。」

 死とそれを越える愛の情熱と意思を湛えたこの短篇は、その後、年を経て幾度となく再読したが、トーマス・マンの芸術的な魂がその幸福への意思の力と善意と気品に満ちた凝縮と洗練されたこの短篇が、褪せることのない光輝を放っていることに私は感動をおぼえてならなかったのだ。
 私はこのトーマス・マンの短篇を、「魔の山」の長編の本を私に贈ってくれた学生時代からの友人に読ませてやろうとしきりに思っていたことがあった。私の友人はそのとき癌を宣告されて闘病中だったからである。もしかしたら、この「幸福の意思」の小説が、彼の生への意思を励まし闘病に勝利するかも知れないと甘い幻想を懐いたからである。だが彼の病魔の進行は私の思案などよりはさらにさらに早かった。翌日には古稀を迎える夏の日に彼は亡くなった。最後に共に呑んだ酒場へ私の足が自然と向くことがあった。一人飲んでいると爽快な笑い声がときに聞こえるように思われたのだ。



              
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梶井基次郎「愛撫」

 人の指は繊細な感覚をもっている。若い頃、サルトルの「存在と無」で「愛撫」の哲学的な分析を読んだことがあった。人間の対自的・対他的な存在を現象学的に精密に解析したこの本の難解な執拗さに呆れるばかりで、いまではその内容はほとんど憶えがない。だが小説の「嘔吐」は繰り返し読んでいた時期があった。この哲学的な小説は読むに値したからだ。
 さて、文庫本一冊に収まる梶井基次郎全集の一篇「愛撫」はこんな冒頭ではじまっている。
「猫の耳というものはまことに可笑しなものである。」
それから作者は猫の耳についてのじつに適格な形容でその実態を描写する。つぎに猫の耳を抓る老人の具体的な叙述がはいる。これと同じ人物を子供のときにみたことがあった。その人は猫の耳をしきりにいじりまわしていた。最近、このことを思い出して自分でもやってみた。それには理由があった。私は右手と左手で指の感触を違いを確かめたかったのだ。じつは右指は手の骨折により痺れている。左手は正常である。正常な左手の感触はつぎのことを教えてくれた。それは猫という動物の生存には梶井が描写したとおりの耳が必要不可欠であるということだ。猫は家にいながらにして、家人の夜の帰宅を余人が想像もつかない遠くから聞き取ることができるのだった。その音を聞き分ける能力には驚嘆すべきものがあった。早速玄関で帰ってくる家人を迎えるべき行動をとって待機する。じつに忠犬ならぬ忠猫なのである。家人によると我が輩に対しても同じだという。たしかに帰宅する自分を玄関で嬉しそうに待っている猫の姿は愛らしい。
 猫は薄い柔らかい皮をアンテナのように機敏に動かして外界の音を聞き取ろうとしている。聞きなれない大きな音にはすぐに警戒態勢をとるが、反対に自分に好意をもって来る者にはいそいそと自分から近づいていくのだ。近隣にこの猫を玄関の隙間から見かけた子供が名前を呼びながら来訪するとそわそわと玄関へ移動していく。この猫に子犬が好意を懐いたとなると子供と変わらない動きをする。そして、短い二本の前足を揃えて澄ました顔で犬に対面するが、子犬が吠えだすとすがたを隠す。なかなかの役者なのだ。ところで、痺れた指はそうでない正常な指に比べ、猫の耳のしなやかさ、梶井の「愛撫」で切符切りで穴を空けてしまいたくなるというような奇怪な衝動などに陥る余地もない無感覚を呈して無能であった。これでは愛撫には役にたたない。痺れは指にゴワゴワした厚手の皮の手袋をはめた感じである。これではピアニストなら演奏に支障がでるだろう。指が鍵盤に触れる感度はピアニストの演奏にいかなる影響を与えるかを聞いてみたい。ここで昭和3年に書かれた「器楽的幻覚」という梶井の作品が思い出された。ホテルの会場で「私」はピアノの連続演奏を聴くのであった。やがて緊張と興奮と孤独感が「私」を石化する無感覚に襲われ、愕然として内心の声を聞く。
「なんという不思議だろうこの石化は? 今なら、あの白い手がたとえあの上で殺人を演じても、誰一人叫び出そうとはしないだろう」
 梶井基次郎の文学は昭和の初年代に集中的に書かれた、特異な日本のデカダンスを表現する詩的な散文といってもいいだろう。「桜の樹の下には」はその代表作であろう。「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」ではじまる「檸檬」は関東大震災の翌年大正13年の作品だ。これは京都の丸善が舞台だが、谷崎潤一郎は関東大地震を箱根の山から眺めて、「燃えろ、燃えろ」と悪魔的な科白を吐いている。震災の前後から昭和のはじめの時期、日本の文化の深層にはデスペレートなマグマが伏流していたようだ。ちくま文庫の全集の解説者・高橋英夫は「透明な感性の祝祭」を梶井の文学にみているが、この「祝祭」には不吉な予感も含まれている。この時代の文学の底辺には爆発をもとめる窒息感が充満していたようである。その数年さきには2・26事件が待っていた。大正の終わりから昭和の初期の短いエアーポケットのような時代を梶井の文学は、その短い生涯と共に閃光のように時代の闇を照らして消えた。誰もその文学の軌跡をつぐ者はいなかったが、文学は猫の耳のような繊細にして柔らかなアンテナで時代の音調に耳をすましているものだ。
 現在の日本に目を転じてみよう。相継ぐ災害に見舞われ、巷に氾濫する犯罪の連鎖は正常な感覚を喪失した痺れた指のように、この現代の不吉な兆候を示すものでないことを祈りたい。少なくとも、文学だけは「透明な感性の祝祭」であって欲しいものだ。加藤典洋は遺書のような「9条入門」を残してあの世へ旅立った。この含蓄に富んだ一書から日本の「窮状」を予感し、その隘路を抜け出る示唆を得ることはできないものだろうか。梶井基次郎の「愛撫」から、とんだところへ筆が走ってしまったが、人間にある動物的な直感力は猫の耳のように、遠方からの音に敏感に反応しているのではないか。




戦後の緊急失業対策

 前回のブログでボクシングの観戦記のようなものを書いた。それである男が話してくれたことを思い出した。面白かったのでここに記し留めておきたい。

 その男は若いころ具志堅用高とか輪島とかのボクシング戦を見ているうち、自分もやりたくなりあるボクシングジムに入門したそうだ。早速、基礎を習い練習中の姿を、ジムの会長が関心をもって見てくれたという。だが会長はすぐにその男に才能がないことを見抜いた。以後まったく無視。男はそれでもジムの隅でシャドウボクシングをやっていたが、とうとうジムをやめた。それから男は平凡は役人となった。最初に配属された係の上司が白井という有名なボクサーを友人に持ち、自分も大学のボクシング部でバンタム級の三年連続のチャンピョンであったというのだ。
 昼時になってもその上司は机から離れることはなかった。
「なにも食べないのですか」と男は上司へ訊いた。
「私は減量に馴れているからね」と答えが返ってきた。
 ある日、二人は現場の公園へ行った。その係は戦後の労働政策で「当分の間」という期限つきの失業対策事業を行う部の一組織であった。仕事は労務管理。部には運転手がいた。その車に乗って労務者が働いている現場へ向かうのだ。男は教えられた通り、公園のベンチに座りそっと新聞をひろげた。新聞には小さな穴が開けられ、そこから「のぞき」と称する仕事をやるのである。公園には必ず箱番という簡単な建物があり、労務者たちが仕事を終えるとその箱番へ帰っていくのだった。平均年齢が60歳代という高齢者の男女たちが、そこで弁当を食べお茶を飲むのだ。上司が時計をみて、
「もうそろそろいいだろう」
と言うと、男は箱番へ入った。物置よりもすこしばかり大きい建物に10人ほどの労務者がいた。裸電球が箱番の中を薄暗く照らしている。
 驚いた男や女の老いたる顔が一斉に男へ注がれるが、木っ端役人のそうした突然の闖入に馴れた彼等は、あまりきれいとはいえない湯飲み茶碗にお茶の色をしたお湯を注いでくれる。そのお茶を男はグイと飲み干し、ひとくさり労務管理のスピーチをやると箱番を出るのだ。戦争直後の労務管理の仕事は戦場から引き揚げてきたまだ若い失業者たちが相手であった。左と右、その中間の政治色を持った幹部等のしたに労働組合が組織され、そうした組合との団体交渉に役所は応じなければならなかった。そうしたことから、この労務管理には柔道、剣道、空手などの猛者がずらりといたという。俗に「新撰組」と呼ばれていた。たぶん上司もその一人として雇われた口だろう。その時代に頻繁にあったストライキの現場の情報を取り国へ報告するにも、顔と腕っ節が必要だった。団体交渉は部課長を中心に行うがこれが一筋縄の交渉ではない。戦争帰りの気の荒い組合員たちはなにをするか分らないのだ。灰皿ぐらい飛ぶのはごく普通で、部長の周りを組合員に取り囲まれることなどもあるので、そのとき部長を助け出すのが新撰組の仕事であった。また相手の労組幹部と裏で通じて事前に情報をとるのは老練な元党員の役割であった。戦後、赤い腰巻きをみるのも嫌いとなった元党員は、男になにくれと教えてくれたが、メモした紙は必ず小さい紙くずにまで手で裁断する。その敏捷な手つきに戦前に官憲の厳しい追及の目を意識した活動の名残を男はみてとった。部長が近くへくると自分の机の上に短い両足を乗せて反抗の姿勢を誇示するのも昔の反権力の姿勢である。戦前なら風呂で背中を同じ党員に流させたほどの位置にいた強者であったのだろう。戦争が終わり大勢が船で帰国の途中、さんざんに威張り腐った元上官などは、可愛そうに夜の甲板からみなでつまみだし、海へ投げ込んでやったと嘯いていたのには、男は一驚した。だが失業対策の労務者には実にやさしい老人であった。目の前で机に足を乗せられても、咳払いぐらいはした部長もこの老人には一目おかざる得なかったのである。
 だが歳月が経つにつれて皆等し並みに歳をとっていった。男がその係についたときは、労務者の人数は激減し、石ころにけつまづくほど歳をとった労務者ばかりになっていたそうだ。そして、やがてこの失業対策部が高齢者対策部と名称を変えて、いまの全国シルバー人材センターが産声を上げることになった歴史を知るものは少ない。確実に迎える高齢化社会にいかに有効な労働施策を打つかが問われていたのだ。労働形態に雇用ではなく請負を使ったこの手法は後に、派遣労働法の考案に再利用され、ここから多数の非正規労働者と労働組合の弱体化へと現在の労働市場の流れができたというのは男の推論であった。
 とまれ、男の上司は職場では誰ともなく「ボクサー」という渾名で呼ばれていた。ボクサーが昼飯を抜くのは晩酌をうまく飲みたいからだという者もいた。帰ると奥さんが三つ指をついて玄関で出迎えてくれるらしい。兄は医者の家業を継ぎ、弟の上司は白井からプロになれと誘われたらしいが、役人になった。男がS事務でボクシングをすこしやったというと屋上で、ほんのちょっと手ほどきをしてくれた。おれの腕を触ってみろと言うので、男が触ると豆腐のように柔らかい。「これがボクシングの筋肉だ。柔らかい筋肉でないと瞬発力がでないのだ」と、殴られたせいでか明瞭に声がでない顎を動かしてそう言った。家柄のせいか上司はいい人柄だった。でもこんなエピソードを本人から聞いたことがある。アルコールを飲んで駅から家への階段を降りてきたところを、数人の愚連隊に因縁をつけられことがあったらしい。面倒くさいから、一人一発づつお見舞いをしたというのだ。一瞬で完膚なきまでのされた愚連隊に、こんどは物陰にひそみ待ち伏せをされて、棍棒でしたたかに頭を殴られてしまったと笑っていた。また、酔っ払って国鉄の線路をふらふらと歩いていたことがあったというのだ。電車が前方からやってきた。偶然に一番前に乗っていた兄があれは弟の奴だと気づいたという。電車はブレーキをかけ警笛を鳴らしたまま線路を歩いていた弟にぶつかった。だが上司は電車の正面にぶつかる寸前に、体を躱していたそうだ。男がその話しを冗談とはおもわなかったのは、男が役所の扉を猛烈な勢いで押し開いたことがあった。その扉の向こうに上司の顔を見て「しまった!」と思った瞬間、上司は素早い動作で数歩うしろね身を退いていた。上司の両腕は自然にボクシングスタイルになっていたそうだ。それから男は後楽園ジムで4ランウンドの大学対抗のボクシングの観戦券を貰って観に行ったことがあった。リングに白いレフリー姿で立っている上司をみた。役所では「ボクサー」と渾名された冴えない上司はそこでは、凜としたレフリー姿の犯しようのない威厳を放って、リングの上で歯切れのいい審判の采配をふるっていたという。




英一蝶 雑画帖

 一蝶の遊びこころや破傘  龍
 
 江戸は元禄の頃のこと。狩野派のまね絵描きに嫌気がさして,江戸の浮世へふらふらと風俗をもとめて、遊び暮らしている人がいた。じつに軽薄にして洒落た人柄が幸いし、皆が自然と寄り集まった。賑やかで楽しいことが好きなうえに、色恋に夢中になるたちから大勢の吉原の花魁に人気があった。明暦の大火で浅草に新吉原が普請されると、風俗画を盛んに描きまくった。格子先で文を書くやら清掻の撥を鳴らす遊女たち、その横の技夫などを筆さばきも軽くさらさらと描いた。それを馴染みの商売人を介し上手に売りさばいていたのだ。幇間までやったのは伊達ではない。その広い交友関係には松尾芭蕉、榎本其角までいたという俳人でもあったのである。その一端をご覧にいれておくとしよう。俳号は暁雲と称した。

初松魚カラシガナクテ涙カナ  暁雲
   
其カラシキイテ涙ノ松魚カナ  其角  

 その交友は、紀ノ國谷文左衛門、奈良屋茂兵衛門の大商人にも及んだ。だが遊里を愛したこの人は、将軍綱吉の生母桂昌院の甥たちをも遊里へ誘い、遊女を身請けさせるなどした廉で町奉行の詮議をうけ小伝馬町に入牢され、あげくは三宅島に遠流となった。だが島へ流された者は一生島で終わるが定めだが、この人は島でも絵を描がきつづけて人気があった。草から絵の具を作って描き注文もあったというのだ。島暮らしは15年。島で子供までも作った。新島や八丈や御蔵島の有力者とも親しく交遊したらしい。三宅で描いた「虚空菩薩像」には金も入っていた。そして五十八歳で六代将軍家宣の「正徳の治」で赦免となり江戸へ戻ることができた。それから八面六臂の活躍がまたはじまるのだが、島で描いた「島一蝶」といわれた「四季日待図鑑」「布晒舞図」らは当時はそうとうの高値で売れたという。自画像にうかぶ炯々たる風貌には端倪すべからざる人物が潜んでいたのにちがいない。生れは京都、父は名の知れた医者であったということだ。
 江戸時代は封建の世だが懐かしい時代である。元禄16年の「吉原風俗図鑑」(サントリー美術館所蔵)は一度は見たいものである。73歳にて没。

 まぎらわす 浮世のわざの いろどりも 
 ありやとや月の うす墨の空      (辞世の句)




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masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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