FC2ブログ

「ラザロ」を探して

 錦糸町から半蔵門線で渋谷へ行った。109の地下街からくじら屋の前の道「ぶんかむら通り」をぬけ、昨年カンヌで脚本賞に輝いたアリーチェ・ロルヴァケル監督の「幸福なラザロ」を観た。
 イタリアの寒村にラザロと呼ばれる一人の青年がいた。人間の悪意というも子供のように疑ることなく従順そのもの青年であった。貧苦の暮らしで食べるものにもことかいている村の小作人たちはこの青年に一顧だにもしていない。あるとき小作人たちのトラブルに巻き込まれ暴力をしたたかにうけて瀕死となり、足を踏み外して崖から転落しても傷ひとつなく生きている不思議な青年であった。この村人たちは小作人制度が廃棄されていることも知らされない領主のいうがままに働かされている。青年はこうした村人の無知につけ込む領主の怠惰なバカ息子の従者となり、いわれるままに働かせられながら消えない微笑のままに、雪の山間部に下着一枚で寒さも知らぬ気に働きつづけている。映画はそのままに終わる。事実そのままであるかのように。
 黙って映画館の暗闇を抜け出した。あのヨハネ黙示録のほんの数節しかないエピソードをしらなければ、この変哲もない映画の意味を知ることもないだろう。映画には聖書を暗示する一点のシーンもなく、これが世界の現実であり、ラザロがイエスに愛されたあのラザロとの暗示はまるでない。ラザロは死なない、だから4日後によみがえることもない。神のいないこの世界にラザロはただ普通に生きている。だが青年の顔が曇ることもない。それならなぜ映画の題名に「幸福な」という形容をラザロにつけたのだろう。かといってこの映画にイロニーの翳が漂うこともない。ニーチェのいう背後世界をきれいにぬぐい去った、永遠に変らない山間の村人の田舎の貧しい生活があるだけだ。むかしからこの世界はこのように、人間の悪意にみち、善意で無垢な青年が一人ぐらいいたのだ。あるいはこの悪意にみちた世界でその汚濁を知らされずに生きていくことがこの世界の現実でありその掟であるかのように。するとこの映画の「幸福」は反転して、そら恐ろしいほどに苛酷な映画であることを知らされる。やわらかい衝撃がやってくる。
 聖書から引き出されるエピソードとしては、あのアブラハムが圧倒的に多いだろう。こうして、幸福なラザロを取り上げるのは興味あることだ。
 昔よんだ「罪と罰」にソーニヤがラスコリーニコフに聖書のラザロの一節を朗読するくだりがあったはずだと、唐突に「罪と罰」の場面がうかびあがる。親切なラズーミンと手を切るように別れ、ネバ川の畔を歩いてきたラスコリーニコフは川向こうにひろがる壮麗な風景を一瞥し、自分の内面に目を落とす。偶然に手に掴んでいた銀貨をみつめ、大きく手を振ってそいつを水中に投げ込んで、くるりの後をむいて歩きだしたときだ。
「この瞬間、彼は、いっさいの人間といっさいのものから、自分の存在を鋏で切りはなしでもしたように感じた。家にもどったのはもう夕刻だった。してみると、六時間も歩きまわっていたことになる。」(「罪と罰」江川卓訳)
 ソーニアの朗読の場面は見つからないので、その後の一情景を写しておこくことにしたい。
「ひんまがった燭台の燃えのこりのろうそくはもうさっきから消えそうになっていて、不思議な因縁でこの貧しい部屋におちあい、永遠の書を読んでいる殺人者と娼婦を、ぼんやりと照らしだしていた。五分ほどすぎた。あるいはもっと経ったか善でもなく悪でもない現実の海辺の景色がひろがっている。音もなく沖にむかって波がいっせいにひいていく光景がみえる。大津波のような大惨事がくるかもしれない、あるいはこないかもしれない。
 「善」について研究しようと、西田幾多郎はこう書き出した。「経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。」(1911年、同年幸徳秋水等12名刑死)



新聞を読んで

 4月18日の朝日新聞に掲載された投稿記事「英国の混乱 失政の帰結」は非常に興味ある論点を明瞭に提示したものであります。この記事は英国のEU離脱の現状を簡単に概括し、分析してくれました。英国の政治が他国と比較して優れたものと思っていたものにはある種の衝撃をもって読まずにはいられません。EU離脱に関わる英国政治の混乱を明解に証明する参考意見がみられないことにもどかしさを感じ、明瞭な解説がされないことに不可解な思いを禁じ得ないでおりました。しかしこの投稿記事はそれらの靄の一端を晴らしてくれると共に、これが日本にも無縁でないという結語には共感をおぼえた次第であります。だがしかし、どうも腑に落ちないのは、現在の国際政治の急速な変化と国際情勢の複雑化に遠因があると思われますが、これはまた世界経済の現状についてもいえることでしょう。地球規模によるある種の限界にぶつかっているのでありましょうが、このあたりのことについては哲学者や文学者等の様々な空想と想像を巡らしていることで満足しなければならないのでしょうか。
 それはともかく、話しを英国のいわゆる「ブレジレット」の問題に戻り、寄稿記事を整理してみることにしましょう。
 まず第一に、現状の起点を英国の過去30年間にわたる英国の民主主義の地殻変動の帰結とみています。1980年以降の英国には三つの大きな変貌があったとの指摘であります。
 その第一が政治のイデオロギー化です。それはサッチャー首相がそれまで主に経済問題として妥協を模索してきた欧州統合を政治問題として再定義し、非民主的な官僚組織が支配するEC(欧州共同体)が、硬直的なソ連と同様な時代に逆行する嫌悪すべき対象と見做したことにあります。このことが党内の親欧州派を一掃し、次第に保守党を欧州懐疑派が支配するイデオロギー政党へと変貌させ、一部の議員を経済的な合理性を無視した原理主義的なEUからの離脱を求めるようにさせたとします。これはとても大胆な見解と思われますがいま少しの説明を要するところでしょうか。
 次ぎにその第二が、新自由主義の浸透による経済格差の拡大と中道政治の空洞化に重要性をみています。サッチャー政権からキャメロン政権まで、新自由主義による経済政策の結果、一部の低所得者層は英国社会での「忘れられた人々」になった。そしてブレア等の労働政党に失望した人々は党内左派に希望を寄せ、ここに英国政治は二極化して中道政治の衰退が進んだとします。ここから、生活の困窮の原因がサッチャー政権の政策やグローバル化ではなく、EUによって引き起こされたと考えるポピュリズムが台頭して不満の矛先がEUへとむかったとします。
 第三の重要な構造変化は、政治エリートに対する国民の信頼の失墜です。03年のイラク戦争と08年の世界金融危機により、国民は政府への信頼を失ったのです。イラクには大量破壊兵器はないことが判明し、金融危機での増税によりこの税金の一部が大規模な金融機関へ流れ、エリートは嘘つきで自己利益しか考えないという失望と怒りが広がったと考える。ロンドンのエリートもEUの官僚も信頼できなくなりました。そうした不満が16年6月23日のEU離脱の是非を問う国民投票での選択へと進ませます。もはやEU残留も離脱協定の意義も、その言葉への信を失い、英国政治の危機がまさにここにあるというのです。
 悲劇的なのは離脱により大きな損害をこうむるのが、それを支持した低所得者層であり、信頼を失ったエリート、再選のみ拘る政治指導者たちは進むべき道を失っています。もはや過去の大英帝国はグローバル化と相互依存が進んだ現代世界に甦ることはないのです。
 そして最後に、筆者は日本を含む議会制民主主義国にとって、英国の姿は無関係な問題ではないと釘をさすことを忘れていないのであります。

 以上に整理したリアルポリティカルな投稿記事から、胸の靄が晴れたようであります。所々にいま少し綿密かつ実証的な検証と理論的な考察が必要と思われますが、いま、必要な情報が俯瞰的に語られていることに、好感をもって読んだところであります。筆者は50歳ほどのまだ若手の国際政治学者のようですが、白井聡の「国体論」が国内の理念型の政治論とするなら、これに並行して、こうした国際政治の具体的な鳥瞰が求められているのでないでしょうか。そして最後にまことに勝手な希望ながら、映画「許されざるもの」により西部劇の終焉を迎えたかのアメリカにまた新たな西部劇さながらのビックなドラマが胎まれているようです。そして一帯一路の遠大な世界政治の野心を隠そうとしない中国の国際戦略についても、19世紀末にフランスの詩人にして哲学者のポールヴァレリーによる「方法的制覇」のごとき一文を期待することの是非について、時代錯誤となるのかどうかは私の知らないところなのであります。不一




映画「ミリオンダラー・ベイビー」

 ボクシングとは猛烈な競技である。人間同志の殴り合いをルール化した見世物と言っていい。ボクサーのサクセス・ストーリーを映画や漫画にしたものは多い。ポール・ニューマン主演の「傷だらけの栄光」からシルベスター・スタローン監督の「ロッキーⅠ、Ⅱ、Ⅲ」や「明日のジョー」まで幾つもあるだろう。「傷だらけの栄光」はアメリカの伝説的なボクサーをモデルにしている。
 先日、偶々クリント・イーストウッド監督・出演の映画「ミリオンダラー・ベイビー」を観た。めずらしい女性ボクサーの映画であった。作家の三島由紀夫がボクシングを習おうとしたことがあった。本人が書いていることだが、一指導者がこう言って忠告してくれたという。「ボクシングは頭をやられるが、あなたはそれを承知なのか」と。作家という職業が頭を使うことだと明言し、忠告までしてくれたことに感動した氏はボクシングを習うことを諦めた。「作家の生命が頭脳である」ことを明確に指摘されることはこれまでなかったと氏は冗談まじりに書いている。異常に明晰ともいえる文学的才能を示した三島らしいがどこか孤独なエピソードである。アメリカの作家のトルーマン・カポーティが三島に会っての感想に「繊細だが傷つきやすい人間だ」と評していた。
 映画「ミリオンダラー・ベイビー」に話しを戻す。この映画は悲惨な結末で終わるが、アカデミー賞の作品賞・監督賞・主演女優賞・助演男優賞をとり、それ以外に幾つかの賞にノミネートされた。むかし、テレビ番組の「ローハイド」でカーボーイの若者として記憶にあった。「ダーティーハリー」の刑事役で注目されたが、初期の映画でDJ役を演じた「恐怖のメロディー」は、一方的な女性の異常な愛情が、いまでいう「ストーカー」に始まって殺人行為に発展する凄惨なストーリーには身震いを覚えたことがある。恋愛が男女の合意にいたるなら幸福だが、それがいつストーカーという常軌を逸した行動に走らないとも限らない。ストカーという言葉がまだないころだったが、この映画はデスクジョッキーの甘い声に聞き惚れてしまった女性につけ狙われる男の恐怖を描いた恐ろしい映画であった。その後の彼のアメリカ映画界での活躍は素晴らしいものだ。しかしその道のりはそう単純な道ではなかった。カルフォルニア州の知事を1期2年間やったこともあった。この映画にアメリカン・ドリームを託したというイーストウッドにはアメリカの負の側面がよく見えていたようである。こうした目でみるとあの褒貶がある大統領もそれなりの見方ができるのだろう。
 マギーという家族の愛情を受けずに育った女性がボクサーを志願して、イーストウッドがいるボクシングジムで夜遅くまで熱心に練習に励んでいる。ジムのオーナーでもあるイーストウッドが演じるトレイナーと出合う。このトレイナーは選手の負傷を気づかいすぎて、挑戦を好むタイプにはせっかく育てても逃げられてしまうのだが、イエーツ(アイルランドの詩人でノーベル受章者)の本など読むインテリだ。やがて、二人は師弟関係となり勝利を重ねていく。そしてマギーはとうとうイギリスのチャンピョンと対戦するまでに成長するのだ。しかし、対戦相手に背中を見せたマギーの一瞬の隙をついた、ルール違反の強烈なパンチがマギーを転倒させ頸椎損傷の重傷を負い病院へ搬送される。病院で寝たきりになり、床ずれで腐った片足も切断され、失意の日々がつづけるマギーに家族が来るが、マギーの財産目当てであった。サインを拒んだことで家族からも見捨てらるマギーは、絶望から自分で舌を噛み切って自殺しようするが失敗する。「自分は充分に生きた。私のプライドを奪わないでほしい」とマギーはトレイナーに自死への幇助を哀願する。そして、遂に深夜病院へ来たトレイナーは呼吸装置をはずしアドレナリンの注射までしてジムからも姿を消してしまうのだ。
 見どころは女性同志のボクシング・シーンだが、英国のチャンピョンは平気でルール違反を度々犯し、マギーの目から血が吹き出る。止血の上手いトライナーだが血は止まらない打ち合いシーン。死を決意してまでも生きてきたプライドを守ることを願うマギーの生き様、それに手を貸して欲しいと願われて苦悩するトレイナーのラストシーンは秀逸だろう。少々重いシーンがつづくが暗いだけの映画では決してない。平凡な生活に対比されるボクサー人生がある。マギーは後者を選んだのだ。絶望の淵から「生の耀き」がマギーの人生を照らしていることが感得されるからだ。トレイナーがマギーの背中に記した”モ・クシュラ”ということばは、アイルランドのゲール語で「愛する者よ、汝は私の血」という意味であった。ある一時には英国とアイルランドは険悪な関係にあったことを思い出せば、この映画にはその余韻が反映してないこともない。
 個人的な嗜好で言えば「グラン・トリノ」のような妙味のある映画がクリント・イーストウッドの魅力でもあるのだが・・・。
 ちょうど日本では人工透析の中止が問題視されているが、ますます高齢化し寿命が長くなる人間の生命と家族を含む医療現場での葛藤を考えることに、この映画が参考となるか難しいところだが、その一端がここに顔をみせているのかも知れない。




朗読を聴く

 むかしのこと。さる人物から、朗読のテープを譲り受けた。たまたまそれを見つけて、暑い夜更けの寝しなに耳を傾けてみた。多岐川恭という小説家の短編「忘れていた女」を、NHKのアナウンサーが朗読したものである。

 父の跡を継いだ大阪の老舗の呉服屋の主人が、江戸へ出てきて若い時に過ごした両国あたりを散歩し、川端の茶店に腰を下ろして、大川を眺めながらつぶやく。
「ほんとうにひさしぶりの大川の眺めだ。なつかしいね」
 茶屋の姐さんと話しをかわし、教えてもらったうなぎ屋で燗酒を一杯。それから小僧とともに柳橋を渡り、板塀をめぐらした茶屋街へと足をむける。丈の高い楓の樹にふと足をとめる。なんとなく見覚えがあったからだ。その楓の幹を両手で抱くようにしている主人に通り過がりの女が目をとめて声をかける。主人はむかし入った茶屋が懐かしくて、うろ覚えの茶屋の名前を口にする。とその茶屋こそその女が働いているところで、主人はさっそくその茶屋へ案内をされて、玄関へ足を入れる。すぐにおかみさんらしい女が出てくる。
「おかみはおいねとう案内の女と、ほぼ同じ年頃だろう。ふっくらとした顔立ちで、笑うと愛嬌が溢れるようだ。髪は丸まげ、なにか渋い色合いの小紋を着て地味造りだが、さすがに粋で、なんとなく重味もある。」
 主人はうっかりして忘れていたが、その茶屋のおかみさんこそ二十年まえ、呉服屋の寄合で集まりまだ新米の主人の相手をしてくれた若い芸者なのであった。

 柳橋は隅田川へ神田川が流れ込むすぐのところにある小さな橋である。橋の袂に、
   
       春の夜や女見返る柳橋

 という、正岡子規の俳句が彫られた石碑が立っているが、あまり目立たないので、そのまえで足を止め、子規の句を読む風流人はあまりいない。だがこの橋の上に立つと、屋形舟がもやった神田川が遠くまで見渡せ、両国橋の下に流れる隅田川を一望することができるのだ。むかしの柳橋の芸者衆で賑わった花街の華やぎはいまは見る影もないが、かすかにその面影を胸の奥で偲ぶことはできなくもない。風にそよぐ柳の緑、カモメが群れ飛ぶのどかな大川の景色を眺めることはいまでもできるからだ。私はここが好きで幾度きたことだろう。幸田露伴の娘、幸田文が「流れる」という小説を書き、それが映画化された。住み込み女中役が田中絹代で、女将に山田五十鈴、その娘に高峰秀子、芸者 役に杉村春子、岡田茉莉子など、日本映画草創期の大スターが勢揃いしているのだ。文の娘の弘子が朗読した樋口一葉の「たけくらべ」や「にごりえ」を、聞いていたこともあった。
 くだんの多岐川恭の小説はまさにここを舞台にしているので、近くにいる私などはまるで主人公が自分であるかのような心持ちになれるのである。
 この小説家は、男女の色恋の機微、屈折した人間の心模様、そうした人が暮らしている一隅を描くのがなんとも上手い作家だ。出だしがあっさりとしているようでいながら仕込みの入った文章が出色なのである。
 「忘れていた女」はこんなぐあいに始まる。
「児島屋吉兵衛は二十年ぶりに江戸に出てきた。千代吉という小僧を一人連れ、大阪から二十日余りのゆっくりとした旅であった。」
 この小編は「江戸の敵」に収められた数編のうちのひとつだが、「雨宿り」という作品の出だしはどうだろう。
「茶店はゆるやかな坂を登りつめたところある。街道から少し引込み、けやきの大木の陰になっている上に、一見ただの百姓家のようなので、多くの旅人は、それと気付かずに通り過ぎてしまう。茶店とわかっても、貧相なので、あまり寄る気が起きない。店はいつも閑散としている。」
 この茶店の親切な主人がどんな人生の疵を負った者であるかは、頁を追うごとに明らかになってくる。プロットが一行ごとの文章につつまれ息づいているので、流れるように事件が起きて、最後の一行で全編が終わるのだが、なんとも言えない余韻が残る。そこに人間の表裏の生き様が坦々とした静かな筆づかいのうちに、鮮やかに描き出されてくるからふしぎである。
 NHKの朗読には、いまの下町が江戸の活気を放っていた往事の華やかな喧噪が演出されて、「忘れていた女」が自分にもどこかにいるかのような、そんな妙味のある人生が夢想されてくるのだ。ふと、隅田川の川辺りを歩いていると、大きな朱色の鯉が濁りの水面にあらわれまた水中に沈んでいくように、浅草寺の雷門前で生まれた久保田万太郎の名句がうかんできて、すうっときえていった。

   湯豆腐やいのちのはてのうすあかり




映画「人斬り」と「炎のごとく」

 居合の稽古で暫くぶりに快い汗を流した。その道場では時々日本の居合道の範士級人物を招いての特別講習がある。この度は現役時代に民間会社に勤め毎日徹夜で働きながら居合道を修行したという齢90を越す人であった。演武のまえに居合中興の祖である中山博道先生の写真と生涯の閲歴、それに全剣連居合の制定12本の成立までの経緯が披露されたが、現代の居合道の歴史的な意味合いを思案中の者には意義深いものであった。戦後の昭和40年に全国に散在するいわゆる古流の流派を統一した制定居合いへの動きがあったということは、日本の伝統文化の復元力とその革新性を示すものだと思われた。
 技の指導に入ると開口一番「隙のない居合」を強調したのも、現代の居合いの陥りがちな敵を見失った演武に警告を発したものと受け止めた。高齢での膝の支障を抱えながら、その気迫と品格を兼ね備えた技前には、実に一寸の隙もなくその美しい演武には感服の外はなかった。
  だが一言ここで記しておかねばならないことがある。それは現代の居合の本質に関わる事柄であった。敵を想定する現代の居合道では敵を斬るには鞘引きを必須と教えられているところである。そこで制定の五本目「袈裟斬り」における逆袈裟での鞘引きについて質問したところ、虚を突かれたかのごとく明解な答弁を得ることができなかった。私は早々に質問を打ちきった。七段の左手を注視していた限りでは、誰一人の手も不動で鞘引きのいかなる動作もみることはできなかった。要するに誰一人左手による鞘引きらしきものをしようとはしていなかったのだ。これでは当然なことに師範級でさえ質問に答えられるはずはないのであった。バーチャルなリアリティーを追求している現代の居合には必ずと言っていいほどにこうした問題に直面せざるを得ない。これは必然なことで不思議ではない。逆袈裟で試し切りをしてみれ分かることだろうが、鞘びきだけで剣を操ることは無理なのである。身体全体の動きがこれに伴わねばならない。特にこの場合は腰であろう。斬ろうとすれば、必ず身体のすべての部分がこれに同調しなければならない。人を斬ることを想定した刀は正直である。気剣体一致とはこの正直な肉体の伝統的な運動に従うということなのである。想定の現代居合の陥穽がここにある。この条よくよく思案すべきことではなかろうか。
 たぶん師範はとっさの質問に面くらい、古来からの気剣体一致という有意義な言葉を失念したのだと思われる。

  さて前口上はこの位にして、ビデオ屋で借りたくとも品切れのため見る機会のない、五社英雄監督の映画「人斬り」が、先日丁度よい具合にテレビで放映された。原作は司馬遼太郎の「人斬り以蔵」。幕末の動乱期に土佐勤王党の武市半平太の手足として活躍し、人呼んで「人斬り以蔵」と言われた男が、最後は弊履のごとく武市に捨てられてしまう。京都での政治的な動乱が進むにつれ、土佐の藩主山内容堂は、吉田東洋の暗殺の首謀者として武市を土佐に連れ戻して切腹させ、同時に岡田以蔵を斬首での処刑とする。文字通り一寸先は闇の政治世界のアイロニーを、冷徹に活写する橋本忍の脚本は見事であった。だがこの映画の見所は勝新太郎の「天誅!」の一声と共に怒濤のごとく体当たりしての以蔵の剣捌きにあり、洛中の狭い路地裏では、越後の尊皇攘夷派の本間清一郎との斬り合いシーンにみられた細やかな演技は素晴らしいものであった。今も京都の先斗町(三条本屋町下ル)には本間清一郎殺害の石碑を見ることができる。勝新の演技に比べては畏れ多いところだが、薩摩の人斬り田中新兵衛を演じた三島由紀夫氏は、昭和45年の自刃の前年にこの映画に出演して、攘夷派の急先鋒、姉小路公卿暗殺の現場に自分の刀が落ちていた咎を責められている最中、証拠の刀を右手にとるや腹を一突きした刀をさらに脇腹に引き回しての切腹シーンは圧巻の一語に尽きるだろう。このとき右腕の筋肉がアップで映される。この筋肉こそ三島氏が努力して作り上げた肉体の美の鎧であった。竜馬を演じた石原裕次郎に比べても、いやそれ以上の迫真の好演技というべきであろう。だがやはりというべきか、八相の構えには氏独特の演技が光ったところだが、剣の捌き方には今ひとつの冴えがないように見えたのが惜しまれるところだ。やはりペンに命を賭けた人に居合を習練する暇などなかったのであろう。ただご冥福を祈るばかりである。

 つぎに紹介したい映画は菅原文他主演の「炎のごとく」でこれもテレビで見ることができた。昭和56年制作。監督は時代劇や任侠映画の名監督の加藤泰の最後の作品である。加藤泰は藤純子主演の「緋牡丹博徒シリーズ」はよく知られた監督だ。原作は飯干晃一の「会津の小鉄」。これもまた幕末の京都を舞台に、侠客・会津の小鉄こと仙吉と京都の町の庶民を中心に、天誅横行、池田屋事件、蛤御門の変などを背景にしたドラマである。出演者の顔ぶれが実に面白い。仙吉に菅原文太。その仙吉が惚れぬいた元瞽女のおりんに倍賞美津子。人足口入屋の大垣屋清八に若山富三郎。女房・お栄が中村玉緒。大風呂敷専吉の藤山寛美。近藤勇に佐藤允。土方歳三に伊吹吾郎。田中土佐に丹波哲郎。梅屋のお辰に菅井きん。川津祐介。藤田まこと。新門辰五郎に大友柳太朗。その他高田浩吉等の多士済々が出入りして賑やかな映画になった。
  仙吉は呉服屋の跡取り息子だったが 人殺しの罪で大坂所払いとなり 博徒として諸国を渡り歩いていた。たまたま仙吉が手に入れた刀が近藤勇の名刀「虎徹」と同じだったというひょんなことから新選組と縁ができる。だが賭場の悶着の末に惚れた女房おりんが仙吉を庇って殺されてしまう。このおりんに出会った時の仙吉の科白はこうだった。
「わい、負けじゃ、お前には。こうなったらわいもお前に賭けまっせ。お前ちゅう者一人、幸せにしてみせるに賭けて。京都じゃ」。
人足口入屋の大垣屋清八を訪ね、親分子分の水盃を交わすようにすすめられる。おりんのためにも堅気でいたい仙吉が断るときの科白。
「手前、ここに連れております、おりん、この女一人、幸せにしてやれるか、やれんか、してみせるに賭けて京都に参りましてん。親分と親子の盃しますと、その盃の義理を第一にして、生き死にを考えななりまへん。手前、嘘が言えまへん。手前の一番はこのおりん」 
  その心意気に打たれた清八の女房(中村玉緒)お栄の計らいで、賭場で弁当売りをする。がある日、暴れた男を包丁で刺し殺してしまう。おりんの位牌を持った仙吉は、大坂の家で戻り、祖父母は黙って、その位牌を仏壇にまつってくれた。その席で、お富という娘を紹介され、嫁とりをすすめられるが、おりんを生涯ただ一人の女と思い定めている仙吉は辞退する。
岡田以蔵が盗みで引き立てられ、それにすがる情婦を仙吉は家へ送り、いきなり切りつけられる。事情を聞くと、この女はかつて、仙吉とおりんを襲って返り討ちにあった追いはぎの娘。そして池田屋事件が勃発。その乱闘の最中、新選組に斬られた岡田以蔵の情婦が男装のまま、二階から落ちてきた。駆け寄った仙吉の腕の中で、情婦なかは絶命する。
「何でや。何で。おりん、どの人かて、わい、一生懸命してるで。そうしか出来へん。お前にかて、あぐりちゃんにかて、富ちゃんにかて、この人にかて。それが、何で」
 この池田屋事件の報復のため、長州軍が京都へ侵攻する。蛤御門の変だ。出陣する近藤らに「友達じゃなかったんですか」と仙吉は問い詰めるが、戦乱の末、京都は焼け野原となる。その焼け野原で仙吉は おりんの幻を見る。
「おりん、わいの賭けは負けやったんかなあ。いや、違う。わいは負けへんで。また賭けるで」
 焼け残った井戸で顔を洗った仙吉は「わいはやるで!」と意気を新たよみがえるのだ。
動乱の歴史的事件に翻弄されながら 仙吉は亡きおりんへのいちずな愛を貫きとおすところに、前者の五社の映画「人斬り」と異なる阿鼻叫喚の陋巷を、雑草のごとく力強く生きぬくしかない人々を、加藤泰監督は血まみれの映像から救いとってあの世へと急いだようである。




プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード