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古今亭志ん生

 NHKラジオに月曜アーカイブス「声でつづる昭和人物史」という番組がある。
司会はノンフィクション作家の保坂正康。古今亭志ん生の録音を二回このラジオで聞いた。三十一歳で真打ちになって16回も名前を変え、志ん生として売れ出したのが五十七歳。芸は客の顔をみてからの出たとこ勝負だそうで、そのまえに稽古の仕込みがあるという。
 浅草から上野の佐竹(往時住んでいた場所)まで歩いて片道二時間、往復四時間の稽古ができると語る志ん生の稽古熱心には感心する。
 貧乏生活の下積みが長かったが、呑む、打つ、買う、の放蕩生活を止めることなく、女房の着物から師匠の羽織まで質屋にいれて、それで寄席から下ろされて納豆売りをしたこともあったらしい。酒に目がなく、天ぷらにお酒をかけ、双葉山と飲み比べもしたとのこと。こうして芸風をつかむまでにそうとうな年季がはいっていたというわけだ。
 昭和42年に勲四等瑞宝章になったときは、女房が泣いて喜んだそうだ。先祖は江戸のころには徳川の直参のお侍さんだと娘が語っていた。
 明治23年、東京は神田の生れの江戸っ子。江戸っ子というのはと問われて、志ん生は「痩せ我慢のかたまり」とこたえている。人が入らない熱い朝風呂に、何食わぬ顔でズブッとはいり、なんだこんななまぬるい風呂と平気な顔をしているのが江戸っ子だというのだ。
 江戸っ子といえば、勝海舟の親父の勝小吉がいた。「夢酔独言」という江戸弁の本を晩年に書いた。「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ」と冒頭にある。大坂へ放浪の旅にでて、帰りの静岡で崖から転がり落ち、睾丸をしたたかに打つなど破天荒な行動が目立つが、れっきとした旗本。生涯無役の自由人で、江戸の侠客・新門辰五郎もこの小吉を「喧嘩で右に出る者はいない」と評している。剣術の腕は実践の喧嘩で身につけたらしい。鳶が鷹を生んだわけでもないだろうが、勝海舟が福沢諭吉から「痩せ我慢」で批判され、「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず」と応じたのは、バタ臭い知識人への江戸っ子海舟の胸のすく啖呵だ。

 話しが脇に逸れたが、昭和20年5月、55歳の時に志ん生は満州に慰問へ行った。東京は空襲に曝されている最中、こんなときに慰問だなぞと逃げるのかと反対されたそうだ。満州には森繁久弥がNHKのアナウンサーにいた。志ん生はこの人にはなにか形になるものがあると直感したという。
 74歳での「芸界夜話」の録音を聞くと、「芸はお客に聞かすもの。日常の些細なことに気をつけることが芸を磨く。小話は無駄なことばがあってはいけない」と話している。師匠の「鰍沢」を聞いていると、外に雨が降っていないのにそう感じさせられたと。
 志ん生は大津絵節が好きだった。それを慶応義塾の塾長の小泉信三氏が聞いて、必ず「今宵うちのひとに・・・」と言うくだりに来ると声を出して泣いたという。参考にユーチュウーブでさがし聞いてみたが、艶のあるいい声だ。大津絵節の詞を最後に掲げておこう。

 志ん生の川柳。借りのある人が湯船の中にいる 焼きたての秋刀魚に客の来るつらさ 丸髷で帰る女房に除夜の鐘
「志ん生には地肌で触れあう魅力があった。お客は志ん生の語りがなくても、座っているだけでいいと。正直に正直に芸一筋の人生を生きた、破格だが志ん生が愛された所以だ」とは保坂氏の感想である。

冬の夜に風が吹く しらせの半鐘がじゃんと鳴りゃ 
これさ女房わらじ出せ
刺しっ子襦袢に 火事頭巾 四十八組追追と お掛り衆の下知を受け
出て行きゃ女房はそのあとで うがい手水になぁ ああ 
うがい手水にその身を清め 今宵うちのひとになあ ああ 
今宵うちのひとに怪我のないように 南無妙法蓮華経なあ ああ 
南無妙法蓮華経 清正公菩薩  ありゃりゃん りょう との掛声で勇みゆく
ほんにお前はままならぬ もしもこの子が男の子なら お前の商売させやせぬぞえ~ 
罪じゃもの





作家三島由紀夫「最後の言葉」

 NHKのカルチャーラジオアーカイブス、声で綴る昭和人物史というタイトルの番組があります。当番組により、11月30日までに作家三島由紀夫の肉声を、ノンフィクション作家 保阪正康の司会、宇田川清江の番組進行で、延べ5回に亘って聞くことができました。この番組ではこれまでにも、吉田茂、ドナルド・キーン、緒方貞子等の政治家や文化人らの貴重な声に耳を傾けさせてもらったものです。この一部はすでに当ブログに紹介させてもらいました。
 さて、11月30日に放送された三島の録音はこの最終回にあたりました。ここに1968年の10月3日の早稲田大学での講演と1970年の11月18日、所謂、三島事件の1週間前の二つ音声を聞くことになったのです。両方とも短い時間の放送で、とくに最後の言葉と思われる11月18日のものは古林尚という人が三島邸を訪問して録音をしたものです。「疲れ果てましたよ、もう」という三島の声で録音は終わっています。三島の太い声は相変わらずに落ついたものでした。ですが、どこか心急く調子と今後の文学的な展望をきれいに否定しているのが印象的でした。
 話しの内容は、自分をローマ時代のペトロニウスになぞらえ、日本の古典の言葉が身体に入っている作家は自分が最後になるであろうこと、戦後の理念は福沢諭吉体制というもので、日本はナショナルよりインターナショナルな国際主義と抽象主義(安部公房の文学に代表される)となり、資本主義国は世界中が同じ問題を抱えることになるだろうと予言しています。自分にはなんの文学プランもないと述べ、繰り返しになりますが、「疲れ果てた、もう」のことばで終わっているものでした。
 順序が逆になりましたが、大学講演のほうでは学生の「文学と社会」「三島美学と夭折願望」の質問に答えたもので、ここで三島は大変に正直に応答しています。すなわち、文学は自分から生まれ不在の言葉でしかないものだが、これは社会を敵としながらその社会で認められる言葉で書かれねばならないこと、夭折願望については戦後にはそのチャンスがなくなり、自分も太宰さんのような女性が現われないので心中もできないと冗談をとばし、老いてよれよれになり垂れ流しで畳みの上で死ぬのが一等恐いのでそれだけは厭だ、西郷隆盛は49歳で死んだ、自分にもあと3,4年はあるが、今後どうなるか分からないと言葉を濁しています。
 ともあれ、三島の予言は50年前の有名な文章「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」においてつぎのように述べられていたものでした。
「私の中の二十五年を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど『生きた』とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。」
 三島がここで「バチルス」と表現している言葉は「感染症」という意味ですが、録音にありました「日本はナショナルよりインターナショナルな国際主義と抽象主義となり、資本主義国は世界中が同じ問題を抱えることとなるだろう」との三島の言明は、どこか恐ろしいぐらいに的を射ているように思われるところです。だがどうでしょう、その後50年を閲するあいだに、昭和は終わり平成を経て令和と年号は変わり、既に作家の45年の生涯を越えています。そして、現在の世界が地球規模の限界を迎え変貌を余儀なくされつつあること、いままた新型コロナウイルスという目に見えない敵との闘いの最中にあることを想うとき、わたし達は今後の日本と世界の変動の常なき海の中へ、小舟に乗る人が後ろ向きにオールを漕ぐように、前に進んでいくよりほかにはないのではありますまいか。






「伊400」と「日本の原子力研究者たち」

 最近はコロナ禍を配慮してなのか、戦争の映画やドキュメンタリーの番組を見る機会が増えた。
 先の大戦で、玉音放送を大平洋の潜水艦で聞いていた195名の若者たちがいた。1945年に当潜水艦に搭乗した彼等は7月20日に大平洋へ出撃した。潜水艦の名称は「伊400」。日本の技術の粋で建造された巨大潜水艦であった。現在はハワイオアフ島の南沖合30キロ、水深620メートルに沈んでいる。この潜水艦は日本海軍の独自プロジェクト(海軍の極秘計画)により、1944年9月に戦艦大和と同じ広島県呉市のドッグで3年をかけて建造された。全長122メートル、Uボーの2倍の巨艦であった。この軍事上の当初の原案は、真珠湾攻撃の司令長官山本五十六にあった。それは日本がこの戦争で早期和平に漕ぎつけるには、米国の本土を直接爆撃でき方法を練っていたからである。米国へ留学の経験のある山本は航空機がこの戦争の勝敗を決めると確信していた。アメリカ留学をした山本五十六はフォードシステムによる流れ作業の工業生産方式の如実の見聞と飛行機の製造が戦争の勝敗を決めるとの心象を得ていた。そのためには、日本の零戦を格納した巨大潜水艦で米国本土へ近づき、急浮上して格納塔から零戦を飛ばし西太平洋から、ワシントンやニューヨークを爆撃することにより、アメリカの戦意を喪失させることを考えていた。潜水艦を使っての本土爆撃は米国民をパニックに陥らしめ、心臓発作で死ぬ人までだすことは事前にえた結果で知っていたらしい。問題は飛行機を直径4メートルの格納塔に4機を搭載する工夫にあった。日本人は大きなものをコンパクトに仕舞う技には長けていた。やがて飛行機の翼を90度回転させて、主翼と尾翼の羽根を次々と折りたたみ小さなトンボのようにして、直径4メートルの格納塔に収めることに成功した。この潜水艦をアメリカ本土に可能な限り近づけておき、急浮上し短時間に4機の零戦を発射させねばならない。そして激しい訓練の繰り返しで、1機を5分で飛び立たすことが可能としていた。
 この電撃的攻撃は、アメリカとの戦争を短期にやりとげ、日本が有利なところで早期講和に持ちこむ以外に戦法はないとした山本五十六の頭の中で早期から動き出していたものだ。それにはアメリカがドイツとイタリアとの戦争で大西洋上に戦艦が釘付けになっている間に、パナマ運河を破壊する必要があった。パナマ運河は戦艦が大平洋へ出てくる最短距離の通行路で、これの爆破は必須であったのである。だがガダルカナル島の戦闘に敗退し、山本が乗った戦闘機が待ち伏せ攻撃で墜落すると、その後、戦局が悪化の一途をたどった。沖縄が爆撃されるころには、イタリアに継いでドイツが降伏した。潜水艦はルーシー環礁へ移動。8月6日広島に原爆投下。15日天皇の玉音放送を潜水艦内で聞いた兵士は落涙。興奮した若い兵士たちの海賊となっても戦うとの憤激を鎮撫した艦長の命令で生きて日本へ帰還したのであった。当巨大潜水艦はアメリカに没収され、その後、ハワイ沖で爆破され沈められた。だが2014年に潜水撮影に成功。攻撃機「青嵐」はスミソニアン博物館で現在実物をみることができるとのことである。
 それから数日を経て、「原子の力を解放せよー核時代に向き合った科学者たち」というテレビ番組をみた。核分裂反応の研究からノーベル賞をうけた湯川英樹の外に、荒勝文策という京大の物理学者がいたことを初めて知った。理化学研究所はある機会に行ったことがあり、仁科芳雄という研究者の記憶はあったが、荒勝文策という人物についてはまったく無知であった。この科学者はドイツとイギリスへ留学した経験から、シンクロトロンという核分裂の実験装置を研究開発していた。海軍から原子力による破壊兵器を作れないかとの要望に、可能性はあるが現在の戦争には間に合わないだろうと答えていたらしい。なによりも彼は原子力の基礎研究が人類の未来に寄与することを、純粋に願っていた自然科学の高邁な学者であった。1945年の広島の「原爆」投下に彼は衝撃を受け、すぐに現地へ若い研究者と駆けつけたのだ。調査収拾した放射能の性質から、原子爆弾であることを確信したという。アメリカが大平洋で拿捕したドイツのUボートから大量のウラニウムを発見し、これが日本へ運搬中であったことで、アメリカは日本の原子力による兵器の開発に疑いを懐いた。理研の仁科の研究室は爆撃で破壊されたが、荒勝の研究室にアメリカ軍が調査に入ったのは1945年の11月。これによりシンクロトロンの実験装置は破壊され、彼の研究ノート25冊は没収された。ノートだけはやめてくれと懇願したという。通訳を務めてトーマス・スミスは荒勝文策の原子力研究への真摯な態度とその研究姿勢の純粋さに非常な感銘をうけたという。トーマスの息子の話しでは、父は帰国後軍をしりぞき、日本の社会経済史の研究に一生を捧げたらしい。シンクロトロンの実験装置の破壊と基礎科学の成果物の没収の情報は世界の科学者をして抗議に立ち上がらせた。アインシュタインやバートランド・ラッセル、日本の湯川等の「宣言」が出たのは、純粋な科学研究に危機を懐かせたからだ。その後、アメリカは実験室の爆破等の暴挙の非を認めたという。荒勝文策は晩年は書に凝り、「行得一」と筆に認め、蘭の花をあいてに老後の静かな日々を過し、1973年まで存命、83歳で逝去したとのこと。
 番組は科学研究にある光と影の両面を指摘して終わったが、「伊400」と「日本の原子力研究者たち」の二つの番組より得た知見は、今後の日本と世界を考えるうえで参考になるものがあると思われた。但し、これに加えるべきは、アメリカ映画「頭上の敵機」(グレゴリー・ペック主演)の軍隊から、その公平で民主的な在り方を学ぶことが不可欠であって、今もって旧態依然の日本の組織風土からは、それを望むのはまだまだ困難だろうという感想を持った次第である。






映画「母と暮せば」

 原爆の映画は多い。映画「黒い雨」は井伏鱒二の原作に添っていたせいか、いい出来にはならなかったようです。山田洋次監督の「母と暮せば」は井上の小説が未完のため、映画がその空白を自由に補い、なかなかの佳品となっていることと対照的です。井伏が文学でやったことは被災者の日常をひたすら追うことで、兵器という用語さえ使わず大きな災害の被害者の物語りにしたことでした。夙にこのことは指摘されていますが、「山椒魚」の哀しみをとぼけた味わいに仕立てた井伏文学ならばできたことなのでしょう。山田洋次監督は「寅さん」で実証済みのことでした。
 この映画が胸に沁みてくるのは、すでに死んだ息子が母には見えて、母がその息子と会話することで架空の生活を送るところです。母との暮らしがファンタジーの映像として平和に坦々とつづくところです。闇屋が横行する「不正義の平和」は「正義の戦争」よりいいに決まっています。被爆した母が死者ではなく、生前の息子を相手に、世間話をし、笑い、互いに気づかう、こころ暖まるシーンこそが、母が元気に生きられる支えとなっているのです。息子が泣くことが禁じられていますが、死者でありながら母と暮すことが可能であるこの規制が、この映画を惨禍の過去からの解放を、ただひたむきに前をみて生きる人々の日常を映画として撮ることに成功しています。息子の恋人の婚約もきまり、やがて母の死も近づいてきますが、まるでそれを待っていたかのように、母は病床からはっしと起き上がり、喜んで息子に抱えられてあの世へと旅立ちます。このとき初めて母は息子と肌を接するので、それまではこうした場面は見られません。 
 愛情と同じように、悲しみは相手のからだへ接触することから、感情の距離をゼロとすることによって生れます。息子が母を前によくしゃべるのは、日常の言語というものが悲しみの感情を抑制してくれるものだからです。音楽が人間的な感情から離脱して自由な夢の空間の響きとなりえるのと、それは原理的には同じです。坂本龍一の音楽がささやきとなり、メンデルスゾーンの西欧音楽がとりわけ大きな音を奏でるのは、この長崎の惨事が日本的な鎮魂を儚げに示すほかに有り様がないからです。映画では長崎のほんのりと茜色に染まり、うっすらと虹がかかった空の美しさは喩えようもないものでした。
 息子の浩二を演じる二宮和也も, 黒木華の可憐さもよかった。
 吉永小百合は、むかしの「夢千代日記」からひと肌もふた肌も脱し、円熟した演技をみせてくれました。「母」になったのですね。嬉しいことです。

 「母」という詩で、詩人の吉田一穂は詠いました。

   ああ麗しい距離(デスタンス)

   常に遠のいていく風景






映画「桜田門外の変」と歴史小説

 安政の大獄で大権をふるった大老井伊直弼の首が、霏々と舞う雪の中に転がったのは、万延元年、旧暦3月3日であった。映画「桜田門外の変」は事変の決行者18人の浪士の事前行動に継ぐ襲撃の乱闘場面からはじまる。終幕は、無血開城の江戸城桜田門に入る西郷隆盛の馬上の呟き、「あれから8年、あっという間であった」という述懐に終わる、真面目で地味な映画である。普通はこの逆をやって観客を楽しませる。こうした方が観客にカタルシスを与えること必定だからだ。
 映画は事件決行者のその後の逃走経路を、あたかも吉村昭の歴史小説の如く、淡々とした事実を述べて辿ることに終始する。それは18人の浪士が襲撃に際し定めた規約の文言のように、簡潔で要を得た映像の叙事詩のごとき結構を呈する。

 1.武鑑ヲ携へ、諸家ノ道具鑑定ノ体ヲ為スベシ。
 2.四、五人宛組合、互ニ応援スベシ。
 3.初メニ先供ニ討掛リ、駕籠脇ノ狼狽スル機ヲ見テ元悪(伊井大老)ヲ討取ルベシ。
 4.元悪ハ十分討留タリトモ、必ズ首級ヲ揚グベシ。
 5.負傷スル者ハ自殺、又ハ閣老ニ至テ自訴ス。其余ハ皆京ニ微行スベシ。

 伊井大老襲撃は、節句の日にもかかわらず、予期しない降雪にめぐまれ、首尾良く成功を果たす。ただ映画では描けない細部を小説は逃さない。計画通りに事が運ぶことはなかなかないからだ。ドストエフスキーの「罪と罰」の長編小説も、事件後の話しであり、老婆殺人にはやはり想定外の事態が起きるのだ。
 話しを元に戻すと、襲撃の刻限が近づくにつれ、浪士たちの緊張は極度となった。このため些末なことではあるが、敵味方を判別するための白鉢巻きを忘れさせ、合図の言葉「正」と「堂」を発することもなく、剣術で重要な間合も忘れ、浪士たちが上下に刀をふるうだけで、揉み合っている者もいる混乱の情景を、さすが小説は冷静に見逃さずに書き記す。これが斬り合いの現実の場面に凄絶な迫力を添えることを、小説家は本能的に知っているからである。
 ただ映画のほうは、映画でなければ見られない一対一の決闘場面を見せてくれた。逃走中の水戸藩の中心人物と幕府からの追討命令を受けている藩の剣客との決闘場面である。互いに草履を穿き捨て、足袋一枚で地面を踏みしめ、剣客は八相の構え、浪士は正眼の構えで対峙する。一足一刀の間合いからジリジリと睨み合い、剣客の一刀が振り下ろされる。その一瞬、わずかに左に体を捌きながら、後の線を取って相打ちを覚悟で、素早く相手の刀を表鎬で受け流しふうに押さえ込み、そのまま左胸に飛び込み、刀の峰に左手を当てて、敵の頸動脈を薙ぎ払う刀捌きは、居合の技に似て絶妙な斬り合いであった。真剣での勝負の迫力を演じ見せてくれたこの殺陣は圧巻というほかはない。地味とも言える時代劇映画に、一点の興趣を光らせて見事なものであった。
 同じ著者が書いた「天狗党の乱」も、水戸の浪士多数が最後には、大阪にいた徳川慶喜への期待もむなしく、斬り合いで殺害されるか、自刃して果てる。「彰義隊の乱」も同様でこの作者は必敗の運命に賭ける抵抗勢力がお好みのようだ。この映画のシーンでめずらしいのは、逃げおおせずに切腹しようと腹に小刀を突きさしたところで、「お武家さん、こんなところでやらんといて下さい!」と商人に見咎められ、腹に小刀を突き刺したまま、切腹の場所を捜す場面があったが、こうした悲喜劇の裡にも商人が台頭し、武士が権威を失墜させていた末期の時代の趨勢が映しだされていたように思う。
 18人の浪士に薩摩の浪士が一人いたのは、伊井大老暗殺の謀議は、水戸浪士と薩摩藩との密約の上で計画されたものだったからであった。薩摩藩数千の挙兵はなく、水戸浪士は裏切られることになる。薩摩の藩主が変わって、密約は反古同然となっていたためだ。それにしても、徳川の御三家であった水戸藩が幕末になぜこれほど愚直なまでに過激になったのだろうか。水戸斉昭の人格だけに帰し得ない、水戸藩独自の藩風を考えないわけにはいかないのだ。
 それで思いだすたのだが、数年前、妻と水戸の天狗党が挙兵した筑波山へ登った帰り、水戸の町を散策したことがあった。空気がちがうと感じたのは私の錯覚であろうか。散策の途次、「御製碑」に昭和天皇が昭和二十一年に水戸で詠んだ歌をみた。

 たのもしく よはあけそめぬ水戸の町 うつつのおとも たかくきこえて

 徳川御三家でありながら、尊皇に強く傾いた水戸への昭和天皇の思いがこめられていることを、ふと感じさせる歌である。水戸の二代藩主水戸光圀の「大日本史」などを思いうかべ、明治維新に貢献した水戸藩の苦渋を天皇は思ったのかも知れないのである。
 妻と温泉に行ってみた「袋田の滝」の一景が映画の一場面に出てきたのもよかった。そして、私が時折参禅する寺にある梅田雲浜の墓が、映画に出てきたときはやはりという気がしたものだ。四十を過ぎながら、安政の大獄で二番目に捕縛され、牢屋に病没した尊皇攘夷の志士であった。最後にその辞世句を載せておく。

 君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり






プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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