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鏑木清方

 国立近代美術館で特別公開中の「鏑木清方幻の≪築地明石町」≫を最終日に見に行った。有名な美人画三部作「浜町河岸」「築地明石町」「新富町」を目のまえにして、私はなんと幸福なときを過したことだろう。明治という時代の現実の下町が清方の絵のように美しいとは思えないが、少なくとも清方にこうした日本画を描かした東京の下町は、関東大地震まではその以前にあった江戸時代からの面影を残していたことはたしかなことであろう。「築地明石町」は一時行方不明となっていたもので、44年ぶりに再発見されたのだ。この美人画はたしかに手元においておきたくなる作品にちがいない。保存が良かったせいで今回、三幅一双で見ることができたのは幸運であった。
 「鏑木清方原寸美術館」というタイトルの本には、この「清方三部作」のほかに、「明治風俗十二ヶ月」が収まって観賞のポイントが記された紹介文が載っている。みな懐かしい明治の情景の原寸部分で、至れり尽くせりで喜ばしいかぎりだ。
「私の経てきた明治には、百年、百五十年前の江戸の市民が日々の暮らしの、行事、調度、たべもの、何くれとなくいつも手の届く身のまはりに残されてゐるものが少なくなかった」(「庶民の夏」鏑木清方文集 四)との回想がある。清方が昭和に入ってからこれらの失ったものへの愛惜から明治時代の東京の庶民の思い出を、情緒ゆたかに描いたのである。特にその細部は傑出したものであるのは、今回の三部作に共通した見どころであろう。代表作の「築地明石町」(明治2年)は清方が好んだ芝居や舞踊の要素がとりこまれ、伎倆の粋を尽くした傑作なのである。
 「明石町」は現在の東京都中央区の南部、ここに明治期に外国人居留地があったハイカラなところであった。そこに夜会巻の髪型、金の指輪をはめた上流の婦人を配し、絹糸のような後れ毛、淡い瞳に黒目の点がうたれ、下まぶたの際には薄紅色の線がひかれていると、くだんの本に的確な紹介があるとおり清方の美人画である。背景には朝霧にかすむ帆船のマスト、足下の洋館の柵に絡まる朝顔は盛りを過ぎたとはいえまだ蕾や花がついている。素足にのぞくのは千両下駄で親指に力が入って鼻緒をおしている細部まで行き届いた清方の描写は絶妙であろう。清さと潔さは明治の文明開化の穢れをも拭い去って、まさしく近代美人画の金字塔といって過言ではない。
 「新富町」(明治5年)は背景に新富座が描かれ、前の道を赤っぽい蛇の目傘をさし雨下駄で急ぐ、髪はつぶし島田を結い、縞の着物に利休色の江戸小紋の羽織を重ねた粋ないでたちの新富芸者が描かれている。私はこのところで数年働いていたことがあったから知っているが、海岸よりに鉄砲州稲荷があった場所だ。その向かい側の新川(旧越前堀)で父は生れて育ったと聞いたことがあったのでときおり散歩で足をのばした。清方が生れた明治十一年に新富座は新築され、櫓はなくガス灯と絵看板の近代的な劇場だったそうだが、明治期に全盛の新富座も大正に入ると衰退し、関東大地震で廃屋となったらしい。明治19年に中央区日本橋に生れた作家の谷崎潤一郎が箱根の山からこの震災を見物していて、「もっと燃えろもっと燃えろ」と自棄気味の科白を吐いた。ここには作家谷崎の愛憎はんばの錯綜した心境が込められていたに違いない。以後、関東から関西へ居を移した谷崎の文学は新たな開花を示すので、ここに芸術の摩訶不思議な運動がある。大災害が都会に襲うとどうなるかは単に、人命と建物の損壊にとどまらずに一国の文化・文明の運命さえ変えるかも知れないのである。
 「浜町河岸」(昭和5年)。清方はこの町にふさわしい女性として、踊りの稽古に通う町娘を選んだという。隅田川べりの柳橋にも藤間流の看板をいまもみるが、歌舞伎舞踊の振り付けで一時代を築いた藤間勘右衛門が浜町に住んでいたからで、娘はこの稽古からの帰り途中であるらしい。扇を口元に左手で袂をすくう仕草をして、習ったばかりの所作を思い返しているのだ。お太鼓に結んだ帯の内側にあてている朱色の帯揚げでくるんだ帯枕、着物をたくしあげたおはしょりの下からみえる赤いものは「しごき帯」で、この帯をチラリと見せるのが洒落であったのは、竹久夢二の絵にも同様なものが見える。隅田川を背景に対岸に深川、右に新大橋が描かれているらしいが、清方が浜町から本郷へ引っ越した年に鉄橋に掛け替えられとのことである。谷崎もそうだが時代の変化を敏感にキャッチするある種の芸術家特有の勘が働いたものであろうか。背後にみえる火の見櫓は清方の回想によると、関東大震災が起きるまで残っていたようだ。とにかく着物の描き模様が松竹梅で、紫と青が細やかな情趣を醸して、清方の好きなせかいを収拾する記憶の抽斗はその細部までも克明に保存されていたらしい。
 「明治風俗十二ヶ月」はみな昭和に描かれたもので、明治の場景を描かれた清方の作品の中でも白眉とされる。失ったものへの愛惜は切なるもので、東京の庶民の懐かしい思い出が彷彿とよみがえる思いがしたことだろう。懐かしい過去は過ぎ去っても現在へ生れ還ることができるのが芸術の極意であるのは文学にかぎらない。それが楽しく美しいものであるなら尚更のことであろう。季節ごとのこれらの十二幅から、明治の二、三十年代の市民生活の記憶を呼び起こした清方の幸福なる想像力は、賞賛するに余りあるものだ。この頃に上野の公園に正岡子規が元気に野球を楽しんだ公園があるが、そこに子規のこんな一句をみることができる。
 「春風やまりを投げたき草の原」
 さて、ここにその十二ヶ月の場景の代わりに言葉のみを載せ、せめて水瀬に浮び泥濘を泳ぎいく現代人の心根の潤いとしよう。
かるた(一月)梅屋敷(二月)けいこ(三月)花見(四月)菖蒲湯(五月)金魚屋(六月)盆燈篭(七月)氷店(八月)二百十日(九月)長夜(十月)平土間(十一月)夜の雪(十二月)                                                   
「<絵をつくるに、私は一たい情に発し、趣味で育てる。絵画の本道ではないかも知れないが、私の本道はその他にない>(「そぞろごと」鏑木清方文集一)と語った清方は、市井の人々に対する理解と共感をもって、暮らしにひそむ江戸の風俗を評言しつづけた。それは決まって懐古的だが、汲んでも尽きぬ麗しい人生の模倣であった。」と、「鏑木清方原寸美術館」に書かれている。
 「三遊亭円朝像」(昭和5年)は明治の大咄家であった。大きな湯飲み茶碗を両手にもって、目を光らせて聴衆を眺めている落語家の気迫は人物の大きさを窺わせるものがある。漱石は「夢十夜」ですでに明治へ批判の口吻を吐いている。況んや昨今の落語家とは月とすっぽん。品性のないわらいは下劣であろう。
 「隅田川船遊」(大正3年)は六曲一双の屏風絵である。明治の末に数年、浜町に住んでいた清方は隅田川の流れに親しんだ。そこから、江戸の華やかな風俗を想像裡に描いたのだ。男女の表情には船遊びを楽しむゆったりとした落ちつきと奥床しい情趣がある。
 「鰯」(昭和12年)。明治20年代の木挽町、築地界隈の秋の夕方。少年が佃の海で水揚げされた鰯を天秤棒に担ぎ、長屋の女房が少年を呼び止めている。入口と台所、戸袋をあわせて二間半の長屋の一角。むかし、酒に酔った父が家に帰ると「狭いながらも楽しい我が家」と歌っていた声が耳に聞こえてきてしまうのが妙である。
 「初冬の花」(昭和10年)。この小品はなんとも好ましい。小説家の泉鏡花を囲む会合で知り合った小菊という古風な立ち居振る舞いの芸者をモデルに、清方は明治風の装いをさせている。髪はつぶしの島田、縞の袷の着物に黒襟、江戸好みの御納戸色の帯である。「新富町」に似ているが、「初冬の花」にすっぽりと収まった慎ましやかな芸者の顔立ちがこころよい。
 「晩涼」(大正9年)は泉鏡花の作品から作品を描いたものである。清方が鏡花に会ったのは明治34年であった。以来二人の小説家の挿し絵画家は意気投合してコンビとして売れだした。遊女に身を落とした女は一日中山からの仙女をくるのを待ち続けているらしい。物語ではあるが風景が清方好みなところが風情がある。
 「目黒の栢莚」(昭和8年)。清方は歌舞伎が好きで、二代目市川団十郎のファンであった。栢莚(ひゃくえん)とは団十郎の俳号である。この人の日記「老いのたのしみ」をもとに、そのある時の日常を想像して描いたらしい。私がおどろいたのは、この目黒不動尊は子供のころに遊んだところだった。滝水はたいそうに冷たかったのを覚えている。その土地柄と建物の周辺はおぼろな記憶にあったのだ。不思議な機縁というものだろう。ここに青木昆陽の銅像があった。肌の透きとおった小学校の女性教師に連れていかれたほのかな記憶がよみがえる。
 鏑木清方はすこしまえ、「朝夕安居」の紹介のテレビ番組をみてからこころに沁みていた。今回の特別展ですべての絵葉書と本の数冊、手ぬぐいを二本まで手に入れ、家に帰るとすぐに売り切れの本をネットで探した。こうして「紫陽花舎随筆」(六興出版)他数点の本を得たのだ。清方を知ることにより、私の思いは泉下の父とつながり、不運にして生前疎遠に過した時間が、りくつもへちまもなく流れ出す父子の結縁を思い出させてくれたのである。明治の下町へ飛んで行けば、無心な子供になって父母兄弟姉妹に遭える喜びに浸れるのかも知れない。



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画家バルテュス

画家バルティス 画家バルテュス

 その展覧会はいまでも鮮明に憶えている。東京駅内のギャラリー会場は赤レンガの壁が剥きだしのままに、そこに画家の絵が吊されていた。一枚、また一枚と見ていくうちに、私の立っている現実は画家の夢の世界から侵犯され、不可思議な通路をとおり、画家の夢の空間へと飛翔していくようであった。それがいかなる異次元かは知らされないまま、遠くかつ近いその「異界」は、どこかで触知したような既視感を私にもたらした。その空間は余りに閑寂でもあり、不思議な浮遊感に不安を覚えながらも「美」の陶酔があった。そして最後の大版な風景画には、離れがたい魅惑があり、それがどこから来るものかと、長いあいだタブローを凝視していた記憶がある。1993年の晩秋のことであった。
 私はあの煉瓦造りのギャラリーで、その最も深い意味で幻惑され、衝撃的な感動をうけた画家の正体がその後も気になっていた。あの詩人のランボーが「断じて現代人でなければならない」と言った、文字通りの絵画芸術を目にして二の句が告げなかったのだ。「危険」というような形容では済まない、永遠なる深淵を窺わせる奇怪な美しさが、静かにじわじわと迫り、その魔的な幻術に脳天をえぐられ、目眩に襲われつつ、展覧会場の東京駅を出るときは、昏倒するのではないかと畏怖にちかい思いを懐いた。
 
 バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ伯爵、通称バルテュスと呼ばれるこの寡黙にして狷介な画家は、ポーランドの恵まれた両親の次男ー兄のピエール・クロソウスキーは「ロベルトは今夜」の著者、母親と詩人リルケの隠し子と言われ、独特な絵を描く鋭く難解な評論家ーとして、11歳にしてリルケの推挽で詩人の序文を得て、愛猫を失った物語を描いた「ミツ」という絵本を世に出している。
 独学でイタリアのフレスコ画家のピエロ・デッラ・フランチャカの「キリストの復活」に近代のピカソを発見して盛んに模写したという。独自の道を行くこの画家にピカソも秘やかなる親愛を寄せ、詩人のルネ・シャール、狂詩人のアルトナン・アルトー、小説家のアルベルト・カミユ、サン・テクジェペリ、ジャコメッティと交友し、画家のボナールやマテュスとも交わり、数枚のデッサンと交換して購入した旧い城の館には、俳優のリチャード・ギア、シャーロン・ストーン等の訪問をうけたという。二番目の妻であり着物の似合う日本人の節子夫人は、マルロー文化相を介して出会い、一人娘がいる。
 渋澤龍彦により「危険な伝統主義者」とのレッテルを与えられたこの画家は、その後、スキャンダラスな日本の写真家と共にテレビで紹介されていたが、絵のほかに語るすべはないとの寡黙にして東洋的な隠遁精神の貴族的な体現者とし、見者の趣きをもった画家の真実の姿は、神秘のヴェールに包まれたままであったといえよう。
 光をこよなく愛する画家へ、カミユは「春を創造するあなたへ、私の冬の作品を送ります」と「転落」を贈られた画家が不吉な予感を懐いてから、そう時の経たぬうち、ノーベル文学賞作家・アルベルト・カミユは不可解な自動車事故で他界したのだ。
 1908年閏年、2月29日(魚座)に生まれた画家は、4年に一度誕生日を祝い、21世紀の初頭2月19日に逝去した。享年92歳。20世紀を横断した稀代なこの具象画家を特集して、「芸術新潮」は追悼特集を出している。画家がその生活をこよなく愛した”グラン・シャレ”には、画家が好んだ映画「座頭市」の勝新太郎が訪問すると、目を悪くして黒メガネをかけ、杖をついていた画家は、勝新太郎へ座頭市の真似をしたという逸話がある。 
 画家のインタビユーをまとめた「バルティス、自身を語る」という本がいまは訳出されているが、「危険な伝統主義者」を語るのは容易なことではないのである。




アンリ・マティス小論

 路上に咲く花を見て、画家は早速描きはじめた。子供たちがいつの間にか、その老画家のまわりに集まった。画家はデッサンし、水彩絵の具で色を塗った。一人の子供がその絵に吸い寄せられるように寄ってきて言った。
ーひょっとして、オジサンは天才じゃないの!

 私はこのエピソードが好きだ。子供はほんとうのことを、感じたままをことばにしたことを疑わないからだ。
以下に載せる小論は、その老画家がまだ若い頃に読み、その感動を私に伝えてくれたものである。


ーガブリエルなんとか言ってくれ給え、造形された思想は美しくはないだろうか?
         「詩についての対話」ホフマンスタール

 画家アンリ、マティスの誕生は彼が二十三歳のときであった。病気療養のため入院した病室で、偶然に退屈紛れに手にした筆が、法律家の道を進もうとしていたマティスの生活を変えたのだ。しかし人は普通そのようにして画家の道などへ歩みだすものであろうか。ましてやそれまで筆を手にしたこともなく、美術館にそれほど熱心に通ったとも思われない一青年を、法律という確固たる職業を放棄してまで、彼を絵筆をにぎる手の人間に変え、キャンバスの前に縛りつけることなどがあり得るものであろうか。しかしいまここに、画家アンリ・マティスはたしかに存在する。私はこのことを語りたいので、マティスが己が絵画を確立した偶然などに留まるつもりはない。
 芸術はごくわずかに選ばれた人間に語りかける。ある任意の偶然が一人の男を選ぶ。最初の戸惑いの後、やがて芸術は彼の人生の隅々にいたるまで、その人間を規定し、度重なる反抗にもかかわらず、彼は己が運命そして彼の芸術を引き受けるにいたるのだ。これこそは人間の栄光というものである。

 物象の再現というものから解放された二十世紀初頭の絵画のむかった方向は、造形表現における意識的な活動であった。この造形表現において不可欠なものは、自己というものである。そして画家の自己とは、絵画的思考以外のなにものも意味しない。私はタブローにマティスの思考のあとを追うだけだ。この絶えず探求に探求を重ねる理知の人マティスは真実の芸術家がそうであるように、その方法の生理に厳格にしたがったはずである。その明晰さはときに凡庸とまで映るほどまで純化されるが、これこそ画家マティスの芸術の魅力を形成するといってよい。方法とはある情熱の一形式である。マティスの傾けた情熱とは、デッサンに対する色彩というものをいかに己がものとするかにあった。
 一九○五年フォーヴィズム(野獣派)の画家として登場したマティスにみられるものは、なるほど大胆なまでの色彩の跳梁であったが、それはセザンヌから学んだ構成の妙と巧みなデッサンによって美事に統御されていることを見逃してはならないのだ。このときマティスは新しい絵画の運動に忙しく、この色彩による感覚の解放がいかに画家の自己を欺き迷わせるかに思いいたる暇はなかったはずだ。「生きる歓び」の習作であった「コリウール風景」や「水辺の日本娘」(共に一九○五年)をみればそれは明白であろう。マティスはやがてのちに、そのために苦闘探求する色彩とデッサンとの永遠の葛藤という困難に直面してはいないのだ。しかしのちに、画家のタブローにおけるこの永遠の課題に、マティスほど誠実に対峙しその困難を克服しようとした画家は稀であったと言ってよい。マティスの方法とはこのディレンマとその解決への情熱の謂いなのである。芸術の方法とはその発見と肉化が、新しい「自己」の発明を促し、そこにおけるメチィエーの更新が果たされる実験の場にほかならない。そういう芸術の志向にとっては、霊感などは無用の長物に他ならない。
 ドラクロアはすでに日記のなかに記している。
「芸術とはもはや俗人が信じているような言わばどこから来るともわからず、あてもなく運行してものの絵画的(ピトレスク)な外面だけを表示する一種の霊感のようなものではない。芸術は天才によって必然的な道程を踏んで飾られるより高い法則に支配された理性そのものなのである」と。

 物象から自立した画家の目は、己が本能の赴くまま自然へと推参し官能の幻想を捉える。マティスの絵画が私たちに示すのは、「見る」という行為の全的な歓びである。ゴッホ、ゴーギャン、そしてセザンヌでさえマティスのこの歓びから遠いのだ。そこにあるのは、「見る」という行為の不幸のようなもので、描かれた世界と私たちのあいだには溝のようなものが横たわる。そこでは眼差しから物象へといたる画家の目の一方交通の行為にみがあり、「見る」ことが同時に「見られる」というあの愉楽を湛えた官能の幸福な眼差しを知らない。「地獄の季節」においてアルチュール・ランボーは詩っている。
「ぼくは寓話ふうのオペラになった。ぼくは見た、あらゆる存在が、幸福の宿命をもっていることを。行動とは、生活ではなく、なんらかの力を浪費する流儀であり、神経の苛立ちなのだ」と。
 この詩人はさらに言ったはずだ「ペンをもつ手は、鍬をもつ手にひとしい。なんという手だらけの世紀か!」と。だがマティスが絵筆を握るのはまさにここにおいてなのだ。
「私は、安定した、純粋な、不安がらせもしない芸術をもとめる。労苦に疲れはてた人が、私の絵の前で、平安と休息を味わうことをねがう」と。マティスは鍬をもつように、ペンをもったのだ。このとき思うさま身を委ねたいたかにみえた色彩を単純化したのではない。絵画的思考にとっていかに色彩というものが、単純に明快となるかをデッサンとの格闘のなかで獲得したのだ。ここにひとつの逆説が存在する。自然にとって、一枚のタブローが、またその上に描かれるデッサンなどというものが一体なんであろうかと。一切が充実している自然に、線などというものが、またタブローにおける色彩などというものが、はたしてどのように存在するのかという難問が。ここに画家の「自己」が打ちのめされ、試される試金石がある。この逆説のまえで一度とて立ち止まったことのない画家は、ただ先行の画家の真似をしている猿であるにすぎない。
 マティスは言っている。
「対象を写すことは私の興味をひかなかった。なぜリンゴの外観を描かなければならないのか。しかも、できるだけ正確に。自然が無制限に供給し、人がつねにより美しく想像することができる対象を模写する興味はいったい何だったのか、重要なのは対象の芸術家に対する、つまり彼の個性に対する関係であり、また、彼の感覚と感動を組織する力である」と。
 マティスは筆をとらずに瞑想などしていない。デッサンによって取り戻された「自己」は、再び色彩の官能の世界を己がものとするだろう。人間的意識を自然的無意識にしたがわせたマティスが、自らの方法に欺かれぬように、その感覚を一本の線によっていかに保持し組織化したかを見なければならない。だがいずれマティスはイーゼルの前から離れていくだろうし、筆をもって描くという画家の行為をさえ改変するだろう。ただいま確認すべきことは「全体こそ唯一の理念である」と言ったマティスのこの「全体」が、絵画的思考を支配する「自己」というものであり、ドラクロアのあの「理性」といっても、またデカルトの掴んだあの「我」といってもいいということだ。そしてこの「全体」という概念が誤解を生まないように、ここで少し長くなるがマティス自身のことばを引用しておきたい。
「光に奪われた私は、自分のモチーフを取り巻く小さな空間ー過去の画家たちにはそうした空間意識で充分だったと私には思えるがーを意識の上で脱出すると同時に、自分自身を越え、すべてのモチーフ、アトリエ、家すらも超えた宇宙空間ーそこでは海の魚のようにもう壁を感じないーを心のなかで感じとるため、絵のモチーフの根底にある空間から脱出することをしばしば考えたものである」
 幸福の感覚とは、本能が秩序を見いだすことにある。マティスは、己が芸術を一脚の「ひじかけ椅子」に託するだろう。絵画においての「自己」とは、自己から出発し、やがて人の子が夕暮に疲れて自己の「家」に帰るように、「自己」を取り戻さねばならないのだ。
 いまやマテュスの生(ヴィー)の世界は、色彩と線との単純で明快、かつそれによって息づくところへと到達する。私たちはマテュスの創った「ひじかけ椅子」で寛ぐことができる。芸術は決して私たちを混乱に導くことはない。微笑のなかからマテュスは私たちに語りかける。偉大なものは単純であろうとすることにありはしないだろうかと。ヴァンス礼拝堂の壁画が光のなかでそれを示すだろう・・・。だが結論を急いではならない。
「われわれが無限に教わるものは、マテュスによって示された美術の意味である。これは概念が構成するものではなくて、実在する物に即して生きる思想(イデエ)の造形的帰結であった」(ジャン・カスー)
 あるとき同時代を生きていたともいえるピカソがマテュスにこう言った。「私は捜さない、私は発見するだけだ」と、だがマテュスは言う。「私は・・・・発見しない。私は捜している」と。絵画の自由はマテュスをさらに厳しく、軽快な世界へと連れさるだろう。即ち「切る」という絶対の行為により、マテュスは「描く」という絵画の超克を図ろうとする。一本の線を引くことは、また無数の線の否定を意味する。色彩を描くとは、また無数の色彩の呪縛から自らを解放することだ。しかし切り絵の表現は絵画の関係式をより純化し、人間を自然のもつ偉大なる「単純さ」に近づけるだろう。切り絵の造形表現によるジャズシリーズは、いまや絵画をかぎりなく音楽に近づけるのだ。それはなんという色彩の感覚(サンシオン)の豊穣をもたらすことだろうか。そのなかで線は、しなやかで凛々しく、なんという自由を楽しんでいることか! 激しい感覚を統御する理知の静けさ、その勝利・・・・。私たちは秘かに呟かないだろうか。もちろんボードレールのあの「旅への誘い」のリフレーンである。

ああ、かしこ、かの国ゆかば、ものみなは、
秩序と美、豪奢(おごり)、静けさ、はた快楽。
                  (堀口大学訳)
 



写真の解放

 ポリネシアにヤップという小さな島がある。いまはどうか知りませんが、島人は赤い布を腰に巻いて暮らしていました。男たちの歯が赤らんでいるのは、コカの葉を咬んでいたからです。コカを咬むとお酒を飲んだように酩酊するのです。裸どうぜんで大きなお腹をした島人を写真に撮ろうとする旅行客が、写真機をむけると太い棍棒で頭を叩かれるという話しでした。あるとき、コカの葉を咬んでいい気分になった旅行客が、島人を写真に撮ろうとしましたが、やはり頭を叩かれてしまいました。それ以来、誰も赤いふんどし姿の男たちや、大きな乳房を隠すこともない可愛い娘さん達をみても、誰も写真機を向けなくなったそうです。
 写真はオリジナルから無数の複製を創り出す文明の利器です。しかし、昔から変わらない風習で生活をしている現地人からすれば、写真機は自分たちの魂を抜き去る不埒な道具と見られたのでありましょう。このヤップという島には石貨という巨大な石のお金が、そこここに見られました。東京の日比谷公園にそれと同じものを幾つか見ることができます。島人はこの石の貨幣を仲介にしてぶつぶつ交換をして暮らしていたのです。こうした島に文明が浸透してくるにつれ、島民は流通貨幣での取引を行い、写真機をみても特別な反応をしなくなることでしょう。技術の発展とその普及は人間生活のあり方を変えることは現代では当たり前のことです。
 携帯電話の普及につれて、それに写真機能が加わり、いまや他人に写真を撮ってもらうのではなく、自分で自分を撮る自撮りがよく見られるようになりました。ここに写真家自身がこの自撮りを写真活動の一貫に組み込む試みが見られます。シャッターチャンスを被写体である人物に一時的に委ねてしまうのです。すると写真家から解放された写真機は被写体自身の采配となり、一瞬のシャッターチャンスの移行が生れます。自撮り写真はその一瞬の権限の移行に生れるものです。ただ自分で自分を好きなように写真に撮ることとは違う空間と時間が、ここに誕生するのです。後者の自撮りは写真家という他人が存在しなくなったというだけで、自分という疑似的な他人に替わっただけです。ここはすこし難しい議論になりそうですが、その方法でいくら自由奔放な自分を撮したところで、他人という存在が全く消えてしまったのですから、独楽のように自動回転している空間と時間には、もはや緊張した意味というものが生れようもありません。写真の本質は他人(写真家)の眼差しという存在ぬきにはその意味の有り様が異なってしまうという対他関係の中にあるからです。
 そうでなければ、写真機は犯罪事実の有無にかかわらず、路上や町中に据えられた自動防犯カメラと同じものになってしまうでしょう。現代がいくら不審の時代になったからといっても、それでは芸術家も芸術そのものもこの世から、追放を余儀なくされる世界を想定しなくてはなりません。人間の本質は意識にあるので、IT工学が幾ら進化しようとも、ロボットが人間の道具であることに変わりはないのです。
 写真の自撮りから話しがそれてしまったようですが、ここにそうして撮られた写真の数枚を見ることができます。何かとは定かには言えませんが、ここにその何かから解放されたのような人の姿や顔が、爽やかな空間を浮遊している映像が映っています。あたかも地上にいながら重力から解放された人間の軽やかな姿を垣間見るかのように・・・・。ただ重力のことで申し上げておきたいのは、米国映画「 ゼロ・グラビティ」主演のサンドラ・ブロックが、映画の最後に放つ一言が、このSF映画から人間を救い出していることです。宇宙空間での無重力に翻弄されて、さんざん手ひどい体験をした宇宙飛行士であるサンドラ・ブロックは、地上に帰ってきてこんな捨て科白を吐いています。「宇宙なんて糞くらえだわ!」
 私も海にボンベを背負って地上の数十倍の気圧の中で、中性浮力を保ち宇宙遊泳ににたダイビングから陸上に上がったときに、同じような気持ちを持ったことがあったからです。余談になりますが、人間は一気圧で生きてきた快い長い経験を忘れるべきではないのです。



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古代ギリシャ展

 上野の国立博物館で開催中の「古代ギリシャ展」へ行った。「ギリシャ」。それはニーチェ哲学に連れられて私の世界へ生まれた別乾坤の世界であった。プラトンやアリストテレスそれにソクラテス以前の哲学、とりわけギリシャ悲劇は私の精神の領野に新たなドラマを与えてくれた。三島由起夫がパルテノンの神殿を一目みて了解したものは、西洋文化の源泉としてのギリシャであり、彼はそこに理想の美の世界をみたにちがいない。だが恐らく「花盛りの森」を戦中に自費出版した彼は、日本人である自分の魂と肉体を逆に意識せざる得なかったのだ。近代人としての彼はシェイクスピアの「マクベス」の有名な科白「きれいは汚い。汚いはきれい」を地で行ったのだ。かくて「拒否も憎悪も闘いもない美の『民主主義的時代』を逆なでする『醜』の極限」を探って、台湾のタイガー・バーム・ガーデンをさ迷い、果ては『すべてのドイツ人に悲劇』を味合わせる運命の男の戯曲、「我が友ヒットラー」を書いた。私は一度この劇を見たことがある。バルコニーで演説を終わったヒットラーの後ろ姿から幕が上がった。戦中の日本を思わせる暗い劇であった。「政治は中庸でなくてはなりません」というイロニカルな科白で終わるこの戯曲で、三島は、日本の戦後民主主義体制に巣くう虚偽に命を持って訣別した。だが世代は遅れるが、これと対照的な作家に辻邦夫がいることを忘れるべきではない。
「たとえばパルテノンの神殿はアテネのアクロポリスの丘の上にある。それは地上の一点にある一個の大理石の構築物にすぎぬ。・・・・。にもかかわらず、それは人間にとっての極北の美であり、人間のあらゆるものが否認されても、それだけは何ものにも否み得ぬ究極の存在の基準としてわれわれの前に立ちはだかっている。高貴なもの、不滅なもの、善良なもの、光を向いたものの観念(イデー)がまさにそこから由来する、その根源の存在としてこの一個の大理石の構築物は建っている。」(「小説への序章」文庫本あとがき)
 ジリジリと照りつける夏の日光の直射を避けながら私は上野の会場へ出かけはしたが、文と武との両方へ足をかけこれに高齢も手伝って実のところ憔悴していた。また毎日のように入ってくる内外のニュースは前世紀に私が予測し予感したものばかりでうんざりとしていたのであった。すでに限界をみせている世界は正視するには耐が難いものに満ちている。私の心魂は何か晴朗で健康な光りをもったものに渇望していた。幸いにも予感は的中してくれた。それはまさしく「ギリシャ」にあったからである。
 展覧会場は年代順にコーナーで区切られ、「古代」では「スペドス型女性像」を見て私の身は軽くなった。「ミノス文明」ではクレタ島から出土した「女神像」「花形ビン」「オリーブの木のフレスコ画」の数点、それに「漁夫のフレスコ画」を眺めて、私の腸は整調に復したようだ。そして「ミュケナイ文明」へ足を入れた途端、あたかも一条の光りが差してくる思いを味わった。「ネックレス」の数点 「子供を抱く女性小像」が私の感覚を更新した。第二会場は幾何学様式からアルカイック時代へ移るのだが 「アッティカ幾何学様式アンフォラ」の均整のある黒い瓶に金色の幾何学的な装飾に目が洗われ、小さな「若者の頭部」へ視線が走っていく。ついに「クラシック時代」へ到着して「アルテミス頭部」「アリストテレス像」の前ではギリシャの充溢を遂げた都市国家が彷彿として胸に過ぎった。「古代オリンピック」へ入場するや ここでは壮健な裸身の肉体が円盤を投げ 走り幅跳びをしている現代の動画での再現を目にすることができた。なんという清潔な精神と肉体がそこに躍動していたことだろう。「オリーブの葉」の単純な美しさと「ヘラクレス像」の壮麗な逞しさ。現代のオリンピックがスポーツマン・シップの精神から離れて、国家同志のみにくい競争へと堕落していることを恥じる思いを禁じ得なかったのだ。「マケドニア王国」では「アレクサンドロス頭部」に、優美と勇壮が私の背をすっくと立たせてくれ、「抱擁するエロスとプシュケ」に私の目は惹きつけられた。「ヘレニズムとローマ」まで来ると、「アルテミス像」「ポセイドン像」「ハドリアヌス帝頭部」「アンティノウス胸像」が、私の精神に話しかけ、私の老いはじめた身体は何時の間にか青年のような快活と若さが甦ってきていることに驚いてしまったのだ。むかし読んだ「ギリシャ文明史」(アンドレ・ボナール)全3巻をまた書棚から取りだしたい誘惑に駆られ「ギリシャ文学散歩」(斉藤忍髄)も同様であった。邪悪が大手を振り、陰険な精神が横行する世界から目を背けて今こそアポロン的なものへ顔を昂然と向けるべきときがきているのである。
 さて、若い時代の辻邦夫が「小説への序章」で考察しなければならなかったのは、二十世紀に優勢となった批評による小説の危機にあった。私はやはり同じような夏の暑い日々に、分厚い単行本のこの本を読み継いでいたむかしのことを思い出していた。当時ヴァレリーに私淑していた者には「詩」から「散文」、特に「小説」へ行くべき道程が不明であった。1910年代の西欧はまずシュールリアリズムが席巻し、遅ればせながら私はすぐにこの渦中に巻き込まれた。ブルトンの「ナジア」をそうした中で読み、マックス・エルンストのシュルレアリスム的手法の絵画に親しんだのもこの頃であった。時を経て次第に「小説」が視野に入ってくるのだが 「私は『侯爵夫人が午後五時に外出した』とは書けない」というヴァレリーの言葉が、三文小説を軽蔑させた。彼の軽妙洒脱な「文学論」がどれほど私を喜ばしてくれたろう。小説が芸術的な根拠を失いつつあるのではないかという漠然たる懐疑があったから、どこか三色旗の香りに満ちすぎるこの辻邦夫の本を熱心に読んだのもそれなりの訳があったのである。リルケの「マルテの手記」は読むことはできても安直に書かれた「小説」にはどこかで忌避感が働いてならないのであった。それでもサルトルの「嘔吐」は熱心に何度も読んだ記憶がある。ここには「存在と無」のあの人間の意識構造への鋭利な分析と哲学的思索が背後を支えていたからである。私にはハイデッカーの「存在と時間」のような哲学書は私が理想とする小説に近いような気がしていた。カミユに好感をいだいていた私は「異邦人」に彼が推奨する哲学的小説をみたのだ。私は何時の間にか辻邦生の短編小説の愛読者となっていた。例えば「サラマンカの手帖から」や「見知らぬ町にて」の数編、また「美しい夏の行方」のイタリアとシチリアの紀行文はどんなにか私を幸福にしてくれたことだろう。私は辻の称揚する「祝祭としての時間」に魅惑されていったのである。
「私がこうした考え方に達し得たのは1959年夏のギリシャ旅行から帰ったあとであった。私の最初の作品はその頃ようやく形をとりはじめてきたのであった。」(「小説への序章」同)
 この辻がトーマス・マンの「ファウスト博士」の悪魔との契約を交わす芸術家の魂を知らないわけではない。それはマンの書いた「ゲーテ」を読んでいたはずの辻には明らかであったはずだ。彼は3年半のパリ留学中にノート三冊に「小説への序章」の草稿を書き、「小説は限定された全体をつくり、時間を支配し、時間を再創造する」という認識に到達していたのであった。
「トーマス・マン、プルースト、ジョイスはそれぞれ別々の道をたどりながら、すべての真の物語がわれわれを導いてくれるこの無意識的記憶の時間の神秘を見いだしていったのである」
 余談だが私は辻氏から葉書を戴いたことがある。それは「詩と神秘主義」というコリン・ウイルソンの本を探していて、辻氏に教えを請うたところ、それへの返答の葉書であった。残念ながら辻氏が紹介したこの本は日本にはなかった。氏は恐らく英国かフランスでこの本を入手したにちがいなかった。それはともかく、優れたリルケ論「薔薇の沈黙」を書いたていたが、最後の一章を残してこの本は残念ながら遺作となった。ここにはリルケ晩年のフランス語の詩集「薔薇」にある一行に、辻氏は言語芸術の核心と象徴をみたといえるだろう。

     Une rose seule, c ést toutes les rose .
    (一輪の薔薇はそれだけですべての薔薇だ)



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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