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画家バルテュス

画家バルティス 画家バルテュス

 その展覧会はいまでも鮮明に憶えている。東京駅内のギャラリー会場は赤レンガの壁が剥きだしのままに、そこに画家の絵が吊されていた。一枚、また一枚と見ていくうちに、私の立っている現実は画家の夢の世界から侵犯され、不可思議な通路をとおり、画家の夢の空間へと飛翔していくようであった。それがいかなる異次元かは知らされないまま、遠くかつ近いその「異界」は、どこかで触知したような既視感を私にもたらした。その空間は余りに閑寂でもあり、不思議な浮遊感に不安を覚えながらも「美」の陶酔があった。そして最後の大版な風景画には、離れがたい魅惑があり、それがどこから来るものかと、長いあいだタブローを凝視していた記憶がある。1993年の晩秋のことであった。
 私はあの煉瓦造りのギャラリーで、その最も深い意味で幻惑され、衝撃的な感動をうけた画家の正体がその後も気になっていた。あの詩人のランボーが「断じて現代人でなければならない」と言った、文字通りの絵画芸術を目にして二の句が告げなかったのだ。「危険」というような形容では済まない、永遠なる深淵を窺わせる奇怪な美しさが、静かにじわじわと迫り、その魔的な幻術に脳天をえぐられ、目眩に襲われつつ、展覧会場の東京駅を出るときは、昏倒するのではないかと畏怖にちかい思いを懐いた。
 
 バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ伯爵、通称バルテュスと呼ばれるこの寡黙にして狷介な画家は、ポーランドの恵まれた両親の次男ー兄のピエール・クロソウスキーは「ロベルトは今夜」の著者、母親と詩人リルケの隠し子と言われ、独特な絵を描く鋭く難解な評論家ーとして、11歳にしてリルケの推挽で詩人の序文を得て、愛猫を失った物語を描いた「ミツ」という絵本を世に出している。
 独学でイタリアのフレスコ画家のピエロ・デッラ・フランチャカの「キリストの復活」に近代のピカソを発見して盛んに模写したという。独自の道を行くこの画家にピカソも秘やかなる親愛を寄せ、詩人のルネ・シャール、狂詩人のアルトナン・アルトー、小説家のアルベルト・カミユ、サン・テクジェペリ、ジャコメッティと交友し、画家のボナールやマテュスとも交わり、数枚のデッサンと交換して購入した旧い城の館には、俳優のリチャード・ギア、シャーロン・ストーン等の訪問をうけたという。二番目の妻であり着物の似合う日本人の節子夫人は、マルロー文化相を介して出会い、一人娘がいる。
 渋澤龍彦により「危険な伝統主義者」とのレッテルを与えられたこの画家は、その後、スキャンダラスな日本の写真家と共にテレビで紹介されていたが、絵のほかに語るすべはないとの寡黙にして東洋的な隠遁精神の貴族的な体現者とし、見者の趣きをもった画家の真実の姿は、神秘のヴェールに包まれたままであったといえよう。
 光をこよなく愛する画家へ、カミユは「春を創造するあなたへ、私の冬の作品を送ります」と「転落」を贈られた画家が不吉な予感を懐いてから、そう時の経たぬうち、ノーベル文学賞作家・アルベルト・カミユは不可解な自動車事故で他界したのだ。
 1908年閏年、2月29日(魚座)に生まれた画家は、4年に一度誕生日を祝い、21世紀の初頭2月19日に逝去した。享年92歳。20世紀を横断した稀代なこの具象画家を特集して、「芸術新潮」は追悼特集を出している。画家がその生活をこよなく愛した”グラン・シャレ”には、画家が好んだ映画「座頭市」の勝新太郎が訪問すると、目を悪くして黒メガネをかけ、杖をついていた画家は、勝新太郎へ座頭市の真似をしたという逸話がある。 
 画家のインタビユーをまとめた「バルティス、自身を語る」という本がいまは訳出されているが、「危険な伝統主義者」を語るのは容易なことではないのである。




アンリ・マティス小論

 路上に咲く花を見て、画家は早速描きはじめた。子供たちがいつの間にか、その老画家のまわりに集まった。画家はデッサンし、水彩絵の具で色を塗った。一人の子供がその絵に吸い寄せられるように寄ってきて言った。
ーひょっとして、オジサンは天才じゃないの!

 私はこのエピソードが好きだ。子供はほんとうのことを、感じたままをことばにしたことを疑わないからだ。
以下に載せる小論は、その老画家がまだ若い頃に読み、その感動を私に伝えてくれたものである。


ーガブリエルなんとか言ってくれ給え、造形された思想は美しくはないだろうか?
         「詩についての対話」ホフマンスタール

 画家アンリ、マティスの誕生は彼が二十三歳のときであった。病気療養のため入院した病室で、偶然に退屈紛れに手にした筆が、法律家の道を進もうとしていたマティスの生活を変えたのだ。しかし人は普通そのようにして画家の道などへ歩みだすものであろうか。ましてやそれまで筆を手にしたこともなく、美術館にそれほど熱心に通ったとも思われない一青年を、法律という確固たる職業を放棄してまで、彼を絵筆をにぎる手の人間に変え、キャンバスの前に縛りつけることなどがあり得るものであろうか。しかしいまここに、画家アンリ・マティスはたしかに存在する。私はこのことを語りたいので、マティスが己が絵画を確立した偶然などに留まるつもりはない。
 芸術はごくわずかに選ばれた人間に語りかける。ある任意の偶然が一人の男を選ぶ。最初の戸惑いの後、やがて芸術は彼の人生の隅々にいたるまで、その人間を規定し、度重なる反抗にもかかわらず、彼は己が運命そして彼の芸術を引き受けるにいたるのだ。これこそは人間の栄光というものである。

 物象の再現というものから解放された二十世紀初頭の絵画のむかった方向は、造形表現における意識的な活動であった。この造形表現において不可欠なものは、自己というものである。そして画家の自己とは、絵画的思考以外のなにものも意味しない。私はタブローにマティスの思考のあとを追うだけだ。この絶えず探求に探求を重ねる理知の人マティスは真実の芸術家がそうであるように、その方法の生理に厳格にしたがったはずである。その明晰さはときに凡庸とまで映るほどまで純化されるが、これこそ画家マティスの芸術の魅力を形成するといってよい。方法とはある情熱の一形式である。マティスの傾けた情熱とは、デッサンに対する色彩というものをいかに己がものとするかにあった。
 一九○五年フォーヴィズム(野獣派)の画家として登場したマティスにみられるものは、なるほど大胆なまでの色彩の跳梁であったが、それはセザンヌから学んだ構成の妙と巧みなデッサンによって美事に統御されていることを見逃してはならないのだ。このときマティスは新しい絵画の運動に忙しく、この色彩による感覚の解放がいかに画家の自己を欺き迷わせるかに思いいたる暇はなかったはずだ。「生きる歓び」の習作であった「コリウール風景」や「水辺の日本娘」(共に一九○五年)をみればそれは明白であろう。マティスはやがてのちに、そのために苦闘探求する色彩とデッサンとの永遠の葛藤という困難に直面してはいないのだ。しかしのちに、画家のタブローにおけるこの永遠の課題に、マティスほど誠実に対峙しその困難を克服しようとした画家は稀であったと言ってよい。マティスの方法とはこのディレンマとその解決への情熱の謂いなのである。芸術の方法とはその発見と肉化が、新しい「自己」の発明を促し、そこにおけるメチィエーの更新が果たされる実験の場にほかならない。そういう芸術の志向にとっては、霊感などは無用の長物に他ならない。
 ドラクロアはすでに日記のなかに記している。
「芸術とはもはや俗人が信じているような言わばどこから来るともわからず、あてもなく運行してものの絵画的(ピトレスク)な外面だけを表示する一種の霊感のようなものではない。芸術は天才によって必然的な道程を踏んで飾られるより高い法則に支配された理性そのものなのである」と。

 物象から自立した画家の目は、己が本能の赴くまま自然へと推参し官能の幻想を捉える。マティスの絵画が私たちに示すのは、「見る」という行為の全的な歓びである。ゴッホ、ゴーギャン、そしてセザンヌでさえマティスのこの歓びから遠いのだ。そこにあるのは、「見る」という行為の不幸のようなもので、描かれた世界と私たちのあいだには溝のようなものが横たわる。そこでは眼差しから物象へといたる画家の目の一方交通の行為にみがあり、「見る」ことが同時に「見られる」というあの愉楽を湛えた官能の幸福な眼差しを知らない。「地獄の季節」においてアルチュール・ランボーは詩っている。
「ぼくは寓話ふうのオペラになった。ぼくは見た、あらゆる存在が、幸福の宿命をもっていることを。行動とは、生活ではなく、なんらかの力を浪費する流儀であり、神経の苛立ちなのだ」と。
 この詩人はさらに言ったはずだ「ペンをもつ手は、鍬をもつ手にひとしい。なんという手だらけの世紀か!」と。だがマティスが絵筆を握るのはまさにここにおいてなのだ。
「私は、安定した、純粋な、不安がらせもしない芸術をもとめる。労苦に疲れはてた人が、私の絵の前で、平安と休息を味わうことをねがう」と。マティスは鍬をもつように、ペンをもったのだ。このとき思うさま身を委ねたいたかにみえた色彩を単純化したのではない。絵画的思考にとっていかに色彩というものが、単純に明快となるかをデッサンとの格闘のなかで獲得したのだ。ここにひとつの逆説が存在する。自然にとって、一枚のタブローが、またその上に描かれるデッサンなどというものが一体なんであろうかと。一切が充実している自然に、線などというものが、またタブローにおける色彩などというものが、はたしてどのように存在するのかという難問が。ここに画家の「自己」が打ちのめされ、試される試金石がある。この逆説のまえで一度とて立ち止まったことのない画家は、ただ先行の画家の真似をしている猿であるにすぎない。
 マティスは言っている。
「対象を写すことは私の興味をひかなかった。なぜリンゴの外観を描かなければならないのか。しかも、できるだけ正確に。自然が無制限に供給し、人がつねにより美しく想像することができる対象を模写する興味はいったい何だったのか、重要なのは対象の芸術家に対する、つまり彼の個性に対する関係であり、また、彼の感覚と感動を組織する力である」と。
 マティスは筆をとらずに瞑想などしていない。デッサンによって取り戻された「自己」は、再び色彩の官能の世界を己がものとするだろう。人間的意識を自然的無意識にしたがわせたマティスが、自らの方法に欺かれぬように、その感覚を一本の線によっていかに保持し組織化したかを見なければならない。だがいずれマティスはイーゼルの前から離れていくだろうし、筆をもって描くという画家の行為をさえ改変するだろう。ただいま確認すべきことは「全体こそ唯一の理念である」と言ったマティスのこの「全体」が、絵画的思考を支配する「自己」というものであり、ドラクロアのあの「理性」といっても、またデカルトの掴んだあの「我」といってもいいということだ。そしてこの「全体」という概念が誤解を生まないように、ここで少し長くなるがマティス自身のことばを引用しておきたい。
「光に奪われた私は、自分のモチーフを取り巻く小さな空間ー過去の画家たちにはそうした空間意識で充分だったと私には思えるがーを意識の上で脱出すると同時に、自分自身を越え、すべてのモチーフ、アトリエ、家すらも超えた宇宙空間ーそこでは海の魚のようにもう壁を感じないーを心のなかで感じとるため、絵のモチーフの根底にある空間から脱出することをしばしば考えたものである」
 幸福の感覚とは、本能が秩序を見いだすことにある。マティスは、己が芸術を一脚の「ひじかけ椅子」に託するだろう。絵画においての「自己」とは、自己から出発し、やがて人の子が夕暮に疲れて自己の「家」に帰るように、「自己」を取り戻さねばならないのだ。
 いまやマテュスの生(ヴィー)の世界は、色彩と線との単純で明快、かつそれによって息づくところへと到達する。私たちはマテュスの創った「ひじかけ椅子」で寛ぐことができる。芸術は決して私たちを混乱に導くことはない。微笑のなかからマテュスは私たちに語りかける。偉大なものは単純であろうとすることにありはしないだろうかと。ヴァンス礼拝堂の壁画が光のなかでそれを示すだろう・・・。だが結論を急いではならない。
「われわれが無限に教わるものは、マテュスによって示された美術の意味である。これは概念が構成するものではなくて、実在する物に即して生きる思想(イデエ)の造形的帰結であった」(ジャン・カスー)
 あるとき同時代を生きていたともいえるピカソがマテュスにこう言った。「私は捜さない、私は発見するだけだ」と、だがマテュスは言う。「私は・・・・発見しない。私は捜している」と。絵画の自由はマテュスをさらに厳しく、軽快な世界へと連れさるだろう。即ち「切る」という絶対の行為により、マテュスは「描く」という絵画の超克を図ろうとする。一本の線を引くことは、また無数の線の否定を意味する。色彩を描くとは、また無数の色彩の呪縛から自らを解放することだ。しかし切り絵の表現は絵画の関係式をより純化し、人間を自然のもつ偉大なる「単純さ」に近づけるだろう。切り絵の造形表現によるジャズシリーズは、いまや絵画をかぎりなく音楽に近づけるのだ。それはなんという色彩の感覚(サンシオン)の豊穣をもたらすことだろうか。そのなかで線は、しなやかで凛々しく、なんという自由を楽しんでいることか! 激しい感覚を統御する理知の静けさ、その勝利・・・・。私たちは秘かに呟かないだろうか。もちろんボードレールのあの「旅への誘い」のリフレーンである。

ああ、かしこ、かの国ゆかば、ものみなは、
秩序と美、豪奢(おごり)、静けさ、はた快楽。
                  (堀口大学訳)
 



古代ギリシャ展

 上野の国立博物館で開催中の「古代ギリシャ展」へ行った。「ギリシャ」。それはニーチェ哲学に連れられて私の世界へ生まれた別乾坤の世界であった。プラトンやアリストテレスそれにソクラテス以前の哲学、とりわけギリシャ悲劇は私の精神の領野に新たなドラマを与えてくれた。三島由起夫がパルテノンの神殿を一目みて了解したものは、西洋文化の源泉としてのギリシャであり、彼はそこに理想の美の世界をみたにちがいない。だが恐らく「花盛りの森」を戦中に自費出版した彼は、日本人である自分の魂と肉体を逆に意識せざる得なかったのだ。近代人としての彼はシェイクスピアの「マクベス」の有名な科白「きれいは汚い。汚いはきれい」を地で行ったのだ。かくて「拒否も憎悪も闘いもない美の『民主主義的時代』を逆なでする『醜』の極限」を探って、台湾のタイガー・バーム・ガーデンをさ迷い、果ては『すべてのドイツ人に悲劇』を味合わせる運命の男の戯曲、「我が友ヒットラー」を書いた。私は一度この劇を見たことがある。バルコニーで演説を終わったヒットラーの後ろ姿から幕が上がった。戦中の日本を思わせる暗い劇であった。「政治は中庸でなくてはなりません」というイロニカルな科白で終わるこの戯曲で、三島は、日本の戦後民主主義体制に巣くう虚偽に命を持って訣別した。だが世代は遅れるが、これと対照的な作家に辻邦夫がいることを忘れるべきではない。
「たとえばパルテノンの神殿はアテネのアクロポリスの丘の上にある。それは地上の一点にある一個の大理石の構築物にすぎぬ。・・・・。にもかかわらず、それは人間にとっての極北の美であり、人間のあらゆるものが否認されても、それだけは何ものにも否み得ぬ究極の存在の基準としてわれわれの前に立ちはだかっている。高貴なもの、不滅なもの、善良なもの、光を向いたものの観念(イデー)がまさにそこから由来する、その根源の存在としてこの一個の大理石の構築物は建っている。」(「小説への序章」文庫本あとがき)
 ジリジリと照りつける夏の日光の直射を避けながら私は上野の会場へ出かけはしたが、文と武との両方へ足をかけこれに高齢も手伝って実のところ憔悴していた。また毎日のように入ってくる内外のニュースは前世紀に私が予測し予感したものばかりでうんざりとしていたのであった。すでに限界をみせている世界は正視するには耐が難いものに満ちている。私の心魂は何か晴朗で健康な光りをもったものに渇望していた。幸いにも予感は的中してくれた。それはまさしく「ギリシャ」にあったからである。
 展覧会場は年代順にコーナーで区切られ、「古代」では「スペドス型女性像」を見て私の身は軽くなった。「ミノス文明」ではクレタ島から出土した「女神像」「花形ビン」「オリーブの木のフレスコ画」の数点、それに「漁夫のフレスコ画」を眺めて、私の腸は整調に復したようだ。そして「ミュケナイ文明」へ足を入れた途端、あたかも一条の光りが差してくる思いを味わった。「ネックレス」の数点 「子供を抱く女性小像」が私の感覚を更新した。第二会場は幾何学様式からアルカイック時代へ移るのだが 「アッティカ幾何学様式アンフォラ」の均整のある黒い瓶に金色の幾何学的な装飾に目が洗われ、小さな「若者の頭部」へ視線が走っていく。ついに「クラシック時代」へ到着して「アルテミス頭部」「アリストテレス像」の前ではギリシャの充溢を遂げた都市国家が彷彿として胸に過ぎった。「古代オリンピック」へ入場するや ここでは壮健な裸身の肉体が円盤を投げ 走り幅跳びをしている現代の動画での再現を目にすることができた。なんという清潔な精神と肉体がそこに躍動していたことだろう。「オリーブの葉」の単純な美しさと「ヘラクレス像」の壮麗な逞しさ。現代のオリンピックがスポーツマン・シップの精神から離れて、国家同志のみにくい競争へと堕落していることを恥じる思いを禁じ得なかったのだ。「マケドニア王国」では「アレクサンドロス頭部」に、優美と勇壮が私の背をすっくと立たせてくれ、「抱擁するエロスとプシュケ」に私の目は惹きつけられた。「ヘレニズムとローマ」まで来ると、「アルテミス像」「ポセイドン像」「ハドリアヌス帝頭部」「アンティノウス胸像」が、私の精神に話しかけ、私の老いはじめた身体は何時の間にか青年のような快活と若さが甦ってきていることに驚いてしまったのだ。むかし読んだ「ギリシャ文明史」(アンドレ・ボナール)全3巻をまた書棚から取りだしたい誘惑に駆られ「ギリシャ文学散歩」(斉藤忍髄)も同様であった。邪悪が大手を振り、陰険な精神が横行する世界から目を背けて今こそアポロン的なものへ顔を昂然と向けるべきときがきているのである。
 さて、若い時代の辻邦夫が「小説への序章」で考察しなければならなかったのは、二十世紀に優勢となった批評による小説の危機にあった。私はやはり同じような夏の暑い日々に、分厚い単行本のこの本を読み継いでいたむかしのことを思い出していた。当時ヴァレリーに私淑していた者には「詩」から「散文」、特に「小説」へ行くべき道程が不明であった。1910年代の西欧はまずシュールリアリズムが席巻し、遅ればせながら私はすぐにこの渦中に巻き込まれた。ブルトンの「ナジア」をそうした中で読み、マックス・エルンストのシュルレアリスム的手法の絵画に親しんだのもこの頃であった。時を経て次第に「小説」が視野に入ってくるのだが 「私は『侯爵夫人が午後五時に外出した』とは書けない」というヴァレリーの言葉が、三文小説を軽蔑させた。彼の軽妙洒脱な「文学論」がどれほど私を喜ばしてくれたろう。小説が芸術的な根拠を失いつつあるのではないかという漠然たる懐疑があったから、どこか三色旗の香りに満ちすぎるこの辻邦夫の本を熱心に読んだのもそれなりの訳があったのである。リルケの「マルテの手記」は読むことはできても安直に書かれた「小説」にはどこかで忌避感が働いてならないのであった。それでもサルトルの「嘔吐」は熱心に何度も読んだ記憶がある。ここには「存在と無」のあの人間の意識構造への鋭利な分析と哲学的思索が背後を支えていたからである。私にはハイデッカーの「存在と時間」のような哲学書は私が理想とする小説に近いような気がしていた。カミユに好感をいだいていた私は「異邦人」に彼が推奨する哲学的小説をみたのだ。私は何時の間にか辻邦生の短編小説の愛読者となっていた。例えば「サラマンカの手帖から」や「見知らぬ町にて」の数編、また「美しい夏の行方」のイタリアとシチリアの紀行文はどんなにか私を幸福にしてくれたことだろう。私は辻の称揚する「祝祭としての時間」に魅惑されていったのである。
「私がこうした考え方に達し得たのは1959年夏のギリシャ旅行から帰ったあとであった。私の最初の作品はその頃ようやく形をとりはじめてきたのであった。」(「小説への序章」同)
 この辻がトーマス・マンの「ファウスト博士」の悪魔との契約を交わす芸術家の魂を知らないわけではない。それはマンの書いた「ゲーテ」を読んでいたはずの辻には明らかであったはずだ。彼は3年半のパリ留学中にノート三冊に「小説への序章」の草稿を書き、「小説は限定された全体をつくり、時間を支配し、時間を再創造する」という認識に到達していたのであった。
「トーマス・マン、プルースト、ジョイスはそれぞれ別々の道をたどりながら、すべての真の物語がわれわれを導いてくれるこの無意識的記憶の時間の神秘を見いだしていったのである」
 余談だが私は辻氏から葉書を戴いたことがある。それは「詩と神秘主義」というコリン・ウイルソンの本を探していて、辻氏に教えを請うたところ、それへの返答の葉書であった。残念ながら辻氏が紹介したこの本は日本にはなかった。氏は恐らく英国かフランスでこの本を入手したにちがいなかった。それはともかく、優れたリルケ論「薔薇の沈黙」を書いたていたが、最後の一章を残してこの本は残念ながら遺作となった。ここにはリルケ晩年のフランス語の詩集「薔薇」にある一行に、辻氏は言語芸術の核心と象徴をみたといえるだろう。

     Une rose seule, c ést toutes les rose .
    (一輪の薔薇はそれだけですべての薔薇だ)



DCIM0648 (2) DCIM0649 (2) DCIM0647 (2) DCIM0650 (2) DCIM0652 (2) DCIM0651 (2) DCIM0653 (2) DCIM0646 (2) 伝統的なクッキー
DCIM0654 (2)  音楽の神を彫金した指輪




チューリヒ美術館展

 先日、六本木の新国立美術館で開催中のチューリヒ美術館展に行った。「印象派からシュールレアリスムまで」と銘打たれていたこともあり、是非に行きたい気がしていたのだ。昔、マックス・エルンストの絵画に一時惹かれていたこともあり、シュールレアリスムは文学ではアンドレ・ブルトン、ピエール・ド・マンディアルグ、ルイ・アラゴン、アルフレッド・ジャリ達の作品、「ナジア」や「イレーヌ」や「オートバイ」や「超男性」などを渉猟していたことがあった。だからといってリアリズムの芸術をきらったわけではもちろんない。
 今回の作品では、点数こそ少ないが、具象から抽象、そしてシュールレアリスムの絵画がずらりと並んで、それらの一点一点を見て歩くことが、まるで絵画と自分との歴史的な時間をたどりなおすような体験でもあったのだ。
 まさかスイスの画家、セガンティーニをのっけから見られるとは想像していなかったので吃驚した。つぎにモネ、ドガ、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルソー、現在上野の西洋美術館で開催のホドラーには眼を奪われるものがあった。若き日に好きだったボナール、初めて見るバルラハ、そしてベックマン、ヴァラントン、ムンク、キルヒナー、ココシュカ、とりわけアンリ・マテュスの「バルビゾン」と「マルゴ」の2枚は私には特別なものであった。なぜなら、マティスの絵画によって二十代の精神的な危機を脱することができたという経験があったからだ。ある意味では文学以上に造形美術が私の視野を拡大して刺激を与えてくれることが少なくなかったと思われるからだ。なぜマティスの絵画が私の救いとなったのであろうか。たぶんそこにある精神的なある〈秩序〉への志向性が、私の混乱を鎮めたのではなかったのではないだろうかというのが、展覧会場での私の寸感でしかなかったが、少なくともそこに私の美的な根拠の一端があることは確かなような気がした。一時、〈抽象的な法規範〉なるものに、私が牽引されたのもそのような関連があればこそではなかったのか。でなければ、エリオットの「聖杯水曜日」の詩の末節に私が賛同するわけはなかったのだろう・・・・。
 ブラック、ピカソ、クレー、モンドリアン、そしてシャガールの「パリの上で」に私は幻想と現実との美しい結晶を見たのである。あのマルロー文化相がパリのオペラ座の天井の壁画をシャガールに委ねたのに誤りはなかったのだ。
 そして、ジャコメッティーのデッサンと彫刻がシャガールと同様に、空間の比類のない抽象の具象化であることの戦慄を私は数十年を隔ててまた目前としたのである。ミロ、タンギ-、マグリットとみて、マックス・エルンストのたった一枚ではあったけれど、「都市の全景」にうかぶ浅緑色の太陽が、この地上に生命なるものが存在した初源の刻から、たとえこの種としての人類が消滅した以後も存在つづける未来の刻まで、この地球のあるべき処へ静かに光を照らし息づかせてくれる、縹渺とした表現を獲得しているように思われてならなかったのだ。





ラウル・デュフィ-美の衝撃

 ラウル・デュフィの展覧会は以前にも行ったことがあった。しかし、今回ほどその画業に撃たれたことはない。「ヴェネチアーサン・マルコ広場」に思わず私は息をのんだ。絵は私の見た広場からその重力と厚みを吹き払い、軽快な風に吹かれて中空に浮かんでいたからである。
 一人の芸術家がこの世に出るまでには、いったいどれほどの試行錯誤にも似た様々な研鑽と探求をたどらねばならないのかを、私は初めてのように悟らされた。それが夏の雲のように、重く覆いかぶさってきた。帰路、暑熱のまぶしい陽射しを避け、ステッキの助けを借りて最寄り駅へと私は急いだ。前夜の武道の稽古の疲れがとれず、いつ眩暈に襲われてもおかしくはなかった。街に繰り出した夏休み客の雑踏を縫い、炎熱はどうやら私の内部から炙りだされてきていたらしい。この画家を私は軽くみていたそれは罰のようなものだったのだろう。
 詩人のアポリネールは「不遇だが、偉大な画家」とデュフィーを讃えていた。この詩人には「美」を直に射貫く炯眼があった。その偉大さがどのようなものであるかを私は再考せずにはいられなかった。すでに詩人のボードレールが「現代生活の画家」において、新しい美の領野を切り拓こうとしていたことを改めて振り返させられたのだ。これらの詩人たちはその批評の精神によって、はかなく、移ろいやすい美の中に現代の芸術の新しい運動を予感した。そこに創造的な精神の新しさを確信したのであった。「断じて現代人でなければならない」と「地獄の季節」の詩人が、己の青春時の訣別に漏らした警句は自分の仕事の果てを見た者でなければ吐けない種類のことばであったろう。
 「サン=タドレスの桟橋」(1902年)は明らかに、「大空の王者」と称されたブータンの遺髪を継いでいる。白い砂浜は存分に光りを吸収した佳作となっているが、ここではまだ、デュフィー独特の音色のある色彩に遠いようだ。線は硬く、全体の色調は自由を謳歌するに至っていない。砂浜の白はまだ重く、空はブータンのあの抜けるような空間を獲得しているとは言い難い。
 デュフィーが木版に勤しみ、婦人服のデザインという回り道をして得たものが開花するのは、「サン=タドレスの大きな浴女」(1924年)頃からだと思われる。ここでは線はしなやか、色彩は躍動し、装飾的な背景を含めた画面構成は、大胆な密度をもって引き締められている。この白いシーツの上で黒い水着を着た太りじしの女の頭に巻かれたターバンの赤は、背後の家の屋根の赤に呼応し、水着の白い線はシーツの白と響きあい、女の顔の表情はふてぶてしくさえあるではないか。やがて水着の黒は女の肌から解放され、画家はこの黒の中に死を間近にした最後の作品を残すであろう。
 「突堤-ニースの散歩道」(1926年)では、青い色彩はしなやかな線から自由に画面を構成しながら動きだしている。青はデュフィーの青となって華やかに画面に溢れていくだろう。「イエールの広場」(1927年)はその端的な表現だが、すべての色彩が歌いだしているような軽やかさに、鶏小屋の鳥もすでに小屋から飛びだそうとしている。やがてあらゆる色彩が解放される時が来るにちがいない。
 「馬に乗ったケスラー一家」(1932年)において、デュフィーは確乎たる地歩を築いたかのようだ。涼やかな馬と人間の表情は、背景の樹木を浸す青色となんとよくマッチしていることだろう。
 「オーケストラ」(1942年)は画家が好きな音楽が全画面にみなぎり、「黄色いコンソール」(1949年)には画家の本領がいかんなく発揮され、楽譜が中央に描かれ、黄色の色彩は全面に音となってあふれだしているのだ。
 これらの極めつきが「クロード・ドビュッシーのオマージュ」と「バイオリンのある静物ーバッハへのオマージュ」(共に1952年)であろう。色彩はキャンバスに自由に流れだし、絵画と音楽との結婚はここに遂に成就したかと思われる。
 私はラウル・デュフィという画家のうちに、アンリ・マテュスの「生きる歓び」から大きな啓示をうけた刻印をよむが、それは私が若い頃に、アンリ・マテュスの作品から多大な恩恵を受けてきたからである。マテュスの芸術の探求は恰もデュフィによって受け継がれたかのようである。線と色彩の関係という課題に対する回答には、マテュスは切り絵による表現を、デュフィは色彩を音楽へ限りなく融解する方向へ進むことによって応えたようである。
 美の革新において、フランスには偉大な伝統が脈々と流れているのに改めて驚かされずにはいられない。それがどこから来ているものかを知りたいと思いながら、ふと、私はミュシュレの「フランス革命史」における人民たちの蠢動する姿態に似通うものを感得しないではいられなかったのだ。
 


プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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