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最後の老人

 凍りだした田沢湖が日に照り眩しいほどだった。
 切石竜三は妻のヤエと最後に訪れた温泉の途中で、この湖をバスから眺めたことがあった。晩秋の温泉は白一色に蔽われ、積もった雪に足元を気遣いながら、背中におぶった妻へ声をかけた。
「ホレ! 温く白い温泉やで。ここに浸かってな、ゆっくりしーな」
 背中の妻のヤエが、竜三のその声を聞いているのかはあやしかった。肉はそげ落ちて、骨と皮だけになった彼女はもう藁のように軽い。
 案内された部屋に入ると、竜三はすぐ押入から布団を引っ張り出し、ヤエを横たえさせた。白濁した瞳が竜三をぼんやりと見つめている。意識はあるがもう誰だか見分けがつかないのかも知れないと竜三は気がきでならない。布団はひんやりと冷たい。竜三は妻を寝かせると、湯たんぽを借りにフロントへ行った。
「そんなものありませんです」
 若い娘の一言で、竜三ははじき返された。彼の目が憤怒に針のように光った。
「あまりに冷たい布団でなー、病人には温くないじゃけんー」
 太いが低い声を喉の奥でふるわせ、竜三は大きな躯を屈めるようにして、娘のまえに頭を低くして、周囲を見まわした。奥に人の気配がなければ、細い娘の頸に両手をかけてでも、湯たんぽが欲しかった。娘はその竜三の躯から発する、得体の知れない圧力に押されるかのように、
「電気炬燵ならあるかも知れませんで、さがして来ますから・・・」
 そう声にもならない声をつぶやくと、奥へ逃げるように小走りで姿を消した。水っ洟を手の甲で拭った竜三は、奇妙な笑いを浮かべていた。自分が娘に求めたものと、娘が捜しに行ったものとの、その奇妙な違いがなぜか可笑しくてならなかったのだ。
 その頃の竜三は独りではなかった。背に負うヤエがいた。息子にも孫にも会うことができた。だがその時、滑稽な可笑しさとともに、彼は淋しいようなもどかしさに、苛立ち身をふるわせている自分がそこにいることには、さらさら気がついていなかった。

 竜三が六十に近くなった頃、わずかな農地を手放し、県庁のある大きな街にでたが仕事はなかった。灰色のシャッターばかり並んだ暗い商店街のコンクリートの床に段ボールを敷いて身を横たえた。そこで二夜を過ごしたが、三日目に同じような仲間の一人から叩き起こされたのだ。
「おめえどこの誰さ? 木戸銭もなしにいい度胸しとるけんなあ」
 竜三は細い目を開けて、その男の顔を股下からチラリとにらんだ。その竜三の刃物のような目に、男の顔からすうっと表情が消えいった。
 ゆっくりと竜三は何かを拝むように起きあがった。仁王立ちになっている男の股に素早く頭を突っ込み、そのまま力任せに押し倒した。男は不意を突かれ、体を仰け反らして、羽目板のように後ろへ頭から倒れた。石の床にしたたかに頭を打った男は、そのまま起きあがってこない。まだ夜が明けたばかしで、誰もこの光景を見た者はいなかった。竜三は仰向けに転がった男の胴巻きから財布を抜きとり、そっと男の顔を覗き見た。竜三のその熊のような体つきの落ちついて敏捷な動作は、子供の頃から彼がまわりから学び、身につけたものだ。
「チェ! おれを舐めるとどうなるか・・・」
 舌打ちをした竜三は男の後頭部から、床に流れ出しているどす黒い血を一瞥すると、足音もなくそっと現場から姿をくらました。
 竜三はその足ですぐに一番列車に飛び乗り、仕事を求めて東京へ出た。当たり前のように仕事らしいものはなく、公園の隅や川べりの橋の下で、段ボール暮らしをしながら残飯を探してうろつき廻った。
「母ちゃん、いまに田舎さ帰るから、それまで待っていろや」
 竜三は十も離れた妻のヤエを、すがりつくような思いで、一人息子の茂夫婦に託してきた。その頃から、妻ヤエの健康は目に見えて衰弱をはじめていた。そして、竜三がいなくなると、やえは長年の疲れが出てきたのか、床に伏してそのまま起きることもなくなった。
 一人息子の茂は県の専門学校で電気工事の資格をとると、県で二番目に大きい市街に、電気工務店を開いて、同じ専門学校で知り合った女友達と世帯を持ち、四歳の息子が一人いた。竜三にとって目に入れても痛くないほどの孫であった。息子の嫁もよくできた女だったのが幸いに、ヤエを預けるにはさほどの不安はなかった。だがこの不景気がどこまで続くか、ヤエを預けた茂の暮らし向きがどうなるか、心配をすればきりがなかった。
 必死に過ごした数ヶ月が経つと、竜三は田舎で押し倒した男のことを思いださずにはおれなかった。もしかしたら警察が自分を捜し回っていないともかぎらない。息子の茂の家へ警察の手が回っているかも知れないと考えると、段ボールのすきま風に馴れはじめた竜三は急に目を覚ました。敷石に流れたどす黒い液体がしだいに赤みを増して目の奥にひろがっていく。
 歳よりずっと若く見える竜三の躯には、若いときに働いたヤクザの血がいまも脈打って、それがふとした拍子に暴れ回るようだった。そのときが来ると竜三は、なにもこの世にこわいものはなくなった。だが寄る年波には竜三も勝てなかった。もうこの世になんの未練も残っていなかったが、家族への情にだけは弱くなっていく自分を感じた。田舎にいるヤエと息子の茂夫婦の家族だけは、いつも竜三の胸を離れたことはない。この世にもう思い残すことはそれほどなかったが、田舎で暮らしている息子夫婦の家族を思い、妻のヤエの姿を浮かべると、どうしても生きていたい気持が吹き返した。
 一冬が去ると春の日が射しはじめた。湿って汚れた布団を川べりに干した。着ているものも脱いで、破れたズボンひとつになって、アカに汚れたからだを陽に浴びせた。こするとボロボロとアカが面白いほどに剥けておちる。やがて川べりの土に菜の花が黄色と緑の一群を広げるのをみた。その下草にのぞく土の色を眺めながら、おなじようにこの冬を一緒に過ごした村井半三のことを思いださずにはおれなかった。こうした暮らしに馴れていた半三からはずいぶんと親切にされたと、竜三は半三の面影を眩しく輝くような菜の花の群落の下に、思いうかべた。その村井半三はこの冬の寒さのなかで、虫のように息をひきとって死んだのである。
 半三はオシのように口をきかず、片目がつぶれていた。だから竜三は半三がどこからきた、どんな男なのかというこまかなことはまるで知らなかった。だが竜三が自分と同じ境遇にあると分かると、ぶっきらぼうな、よくは分からない訛りことばで、野外での暮らしの方途をそれとなく教えてくれたのである。その親切が竜三のこころに染みた。
 あれはいつだったか、どこからか少年たちが数人現れた。彼らは太陽を背にしてはじめは黒い影でしかなかったが、手に手に棒を持ち、インディアンのような奇声を発して、二人の塒を襲ってきた。
「薄汚い襤褸たちを掃除しよう!」
「臭い人間のクズたち!」
「奴等をここから追い払ってやるぞ!」
 その突然の襲撃に、驚き、おろおろと逃げまわったが、半三の弱った足ではすぐに捉まり、したたかに全身を叩かれ殴られて追い回されてから、村井半三は急に糸が切れたように元気を失った。
 それから竜三をさそって、残飯探しを共にしてくれた半三は段ボールの中に閉じこもったまま、外へ出て来ようとしなくなった。
 いくど竜三が段ボールを押し開け、しきりと声をかけても、半三は躯を棒杭のように固くしたまま、動こうとしなくなったのだ。
「半三、そんなことをしてたら、おまえ死んでしまうぞ」
 竜三の怒鳴る声も、石のように横たわる半三にはなんの効果もなかった。
 そんな数日後、日光が燦々と射す午前、竜三が半三の段ボールを引っぱがしてみると、骨と皮だけになった半三はもう息をしていなかった。湿気に腐った棒きれのように、半三は死んでいたのだ。
 竜三はそこに自分をみた。そのものを言わずに、わずかな襤褸きれを着けて捨てられた小枝のようになった半三を、時の経つのも忘れて眺めていた竜三から、やがて堪えきれないドブ水のような涙があふれだした。そして誰へとも分からず、どこへとも知れない憤怒がそれに紛れ、獣のような嗚咽の声が竜三の口から洩れる声が聞こえた。
「あーおー、あーいー、おーおー」
 その竜三の顔は、水っ洟と目やにと分かち難い両の目から溢れる涙と、真一文字に結ばれた唇から垂れてくる唾液で蔽われ、そこに燦々たる陽光があたって、無慈悲な輝きを誇るかのように、燃え上がるのだった。
 竜三はあたりを窺い、人目がないことをたしかめると、手早く半三のゴミのようなイエを片づけ、半三の死体を草の中へ引っ張り込んだ。それから、その草の茂みの中を引き摺って、穴を掘り棒切れになった半三の死体を土に埋めると、両足膝を使って柔らかい地面を踏み固め、その傍らに菜の花の数本を根ごと運んできて植えた。
 半三に持ち物らしいものは一つもなかった。半三の住んでいた粗末な段ボールのイエの痕、特に半三が横たわっていた場所は小さな黒いシミとなっていたが、やがて太陽はそのシミを乾かせ、夕暮れの風がそこへ吹きすぎると、半三という人間がこの世に生きていたしるしのすべては、塵ひとつ残さずに消えてしまった。
その後、竜三は川から拾ってきた鉄の板棒の先端を硬い石の背にこすって刃のかたちに尖らせ、それを手元から放さなかった。もしまた奴等が来たら、その仲間の誰でもいいから、それで滅多斬りにしてから突き刺し、半三の仇を取ってやろうと堅く心に決めていたのだ。
 半三を埋めた地面に、菜の花の一群が増殖して、やがて土も見えなくなると、竜三はその川べりを引き払った。荷物の底に鉄板を小刀のように川石で研いで柄の部分へ、握り易いように布きれを二重三重に巻いた。すぐに取りだし易いように、柄だけを出してあとは板で挟んで荷物の中に押し隠した。
 半三が居た場所をチラリと目にしてから、川に沿って竜三は上流へ遡り、新しい居住場所を求めて歩きだした。どこへ行っても川べりは無数の蚊や虻に悩まされ、定住者の冷たい目が竜三を追ってこないところはなかった。虫に侵された箇所を汚れた爪で掻いたせいで、化膿して爛れた肌はかさぶただらけになった。きれいなせせらぎを見つけると、そこを冷水で洗って消毒し、太陽にあてて乾かすことを竜三は忘れなかった。
 上流に上り行けば行くほど、人影は少なくなったが、それは逆に、乞食同然の風袋をした者が目立つ危険性もあることを竜三は肝に銘じ、用心深く神経を研ぎ澄ました。彼はできるだけ使われなくなった納屋や壊れかけたお堂に忍び込み、農家の庭先から農作物をくすねるか、人影もない台所へ音もなく風ように侵入して、食べ物を物色してくちた腹を癒した。
 竜三がもっとも恐れたのが、彼の影を見ただけで、鋭く吠えたてる犬たちだった。あるとき、熊のようなからだをした大きな犬に睨まれたことがあった。その黒い犬は喉の奥で獰猛な声を奮わせ、ゆっくりと牙を剥いて、闘牛のように後ろ足で地面を蹴って竜三を睨んだ。咄嗟に荷物の中に彼の手が伸びて鉄板の柄を掴み、竜三が後ろを見せると、獰猛な声をあげて彼の背中へ飛びかかった。そのとき彼は自分があたかも黒犬と同類の獣になったような気がしたことを、悪夢をみるように思いだした。
 竜三は犬の猛々しい目を見つめ返し、ゆっくりと躯を屈め膝をつきながら、自分の躯を地面低くに寝かしていった。犬は竜三の静かな涼しほどの両の瞳に、一瞬怪訝な眼差しを注いだかにみえた。そのかさぶたに赤らみむくんだような男の顔の中に、男の姿が隠れていくような不思議な錯覚から、黒犬はその顔を目がけ、爪をたて牙を剥いて飛びかかった。その一瞬、牙にかかったと思った男の顔は素早く消えた。その途端に、上から強い手に頭部を押され黒犬は地面に抑えこまれた。男の右手が下から犬の顎を持ち上げると、握られた鉄板の柄が強く素早く撫でるように引かれた。鋭利な鉄板は犬の喉の肉を切り裂き、勢い余った犬の全身は背中から地面に叩きつけられた。犬は吠える暇もなく、喉を深く剔られてどす黒い血を吹きだし、そのまま横たわった。
 さわさわと竹藪の葉が風に鳴って、真夏の太陽が大地をジリジリと灼き、音もない静かな午後のことである。
 さすがに竜三も肩で息を切らし、その犬の屍体から大きな肉の塊の一部分だけを手早く切り取り、残りを古井戸へ投げこんで、黒犬の残骸は跡形もなくなった。竜三はそうしながらも、農家の庭先へチラリと視野を放った。家の中にも庭先にも誰もいる気配はなかった。台所から斧を一本手に握りしめ庭へ竜三は出てくると、洗濯物から仕事着用のズボンと上着を小脇にかかえ、雑木林に入り込んで素早く着替え、それまで着ていた衣類を深い穴を掘って埋めた。足跡を消すため小川の中を音もなく大股で歩き、小さな橋の下まで来るとぐったりと横になって竜三は躯を蛇のように丸くして眠りこけた。夢の中に半三を地面に埋めた時の光景が甦えり、驚いて目を覚ますと、橋の上を子供が数人駆けていく声が間遠に耳に響いていた。その声は竜三に息子を思いださせた。
「おお茂かいな、ヤエの面倒を見てくれろよ、頼むでなあ・・・」
 夢見心地で竜三はつぶやくと、腹が音をたてて鳴る空腹に襲われ、下腹部に痛みが走った。両足の汚れを小川の茂みの葉で拭ながら、
「もうちと辛抱せい・・・」
 と腹を押さえて、子供にでも言うように自分に言い聞かせ、せせらぎで洗った両足を緑の茂みに投げ出し、横になるとこんどは大の字になってそのまま深い眠りに落ちた。
 竜三は自分の躯が衰えていくことを知らないではなかった。このままでは野犬に喰い殺されるか、少年達の暴行に逃げ切れずに半三のようになるだけのように思われた。早く田舎へ帰って生きているうちにヤエの顔を見たかった。
 ヤエはまだ生きていてくれるだか・・・。ヤエがいたからこそ自分は六十の歳まで生きながらえることができた気がした。そして茂もヤエの細やかな愛に育まれて普通に育つことができたのだ。ヤエがいなければ、茂にやさしい心持ちの嫁が来るはずはなかった。身体が動くうちは働いて、すこしの金でも稼ぎ、その金で近所の男たちと酒場で酒を呑んでいたかった。働いて金を稼ぎたい。その一心で矢も立てもいられず、後ろ髪を引かれる思いでヤエを預けて、東京へ出てきても仕事はなかった。そしていまでは野犬同然の姿になってしまった。いや野犬の肉に食らいつく、野犬以下の獣になり果ててしまったのだ。
 家族がいるあの田舎の街で、あの一日中陽も射さない通りで、自分の前に仁王立ちになった男を突き転ばしていなければ、そして警察に追われるような羽目になっていなければ、一刻も早く田舎へ帰って和やかな家族の中で、穏やかに老いていくことができたはずなのである。 
 竜三はヤエをおぶった晩秋の温泉の白い風景を思いだした。凍えた湖の陽の光に輝いた湖を眼交(まなかい)に見た。痩せ衰えたヤエを抱いて朝まで寝た温泉の窓に、幾本も凍りついた氷柱がみえた。そして、最後にヤエの顔を眺めて二人で食べた白い飯粒が幻のようにうかんできた。
 竜三のなかからことばが堪えきれずにあふれ出した。
「お母あ! わしはおまえの元に帰るぞ! たとえどんな咎めがあろうと、わしはおまえと茂がいるところで死にていだよ・・・」
 竜三はヤエをおんぶした、その遙かむかしに、自分が母親をおんぶしたことを、ぼんやりとかすかに思いだしていることには気づきもせずに、ヤエの藁のように軽いからだを思いうかべた。彼の口元をついて出た最初のことばには、もうずっとむかしに死んだ自分の母親の、老い衰えたおぼろなその面影も重なっていたのだが、それらの二つの記憶はごったになり、ただ一つの言葉にしかならなかったのである。
 夏の黄昏の陽がゆっくりと落ちていった。辺り野面一帯に闇が降り、夏の虫が騒がしいほどに啼いていた。
 そのとき、竜三の眼には見えず、耳に聞こえない遠いの野原の一角に、数人の警官と村の若い者をまじえた村落の者等十数人の、険しい表情を固めた一隊が、赤い幡を立てた村の賑やかな祠の前に集まっていることなど、竜三は知るよしもなかった。
 だが、もしその一団が竜三の目前に現れたその時、半三を虫のように殺した少年達を思いうかべ、野原を流れる川面に落ちた月光を背に、黒い影の一塊と映じた一群の背後にまわりこんで、彼奴等を端から追いかけまわしてやる。そして散り散りになった奴等達を、竜三を襲った大きな熊に似た黒犬と同様に、彼に残った最後の力を奮い起こして、一人また一人と死闘をつづけること以外、竜三がやれることはもうなにもなかった。 
 





一路平安

 飯田橋駅から富士見町の坂を下って行くと、その坂下は外堀通りと交錯する。車と人でにぎわうその坂下から見上げると、神楽坂はかなり急勾配の上がり坂にみえた。
 私はこの神楽坂の両側にならぶ一軒一軒の店をのぞき見しながら、毘沙門天の門前までの道のりをよく楽しんことがある。
 友人Sの送別の宴の場所を、神楽坂の脇を入った馴染みの料亭に決めたのもそんな私の好みも手伝ってのことだ。
 Sはお役所で労働関係の相談を専門にしていた男であった。しかし当今のせちがらい時代の波は、当然に役所にも及び、勤めていた事務所は廃止されてしまった。それを潮にSは退職をしたのである。定年には三年ほどの間があった。
 Sが私に洩らした理由は、一人娘が嫁いだこの期に、残りの人生を気儘に暮らしたいというものである。
「それはいいな。妬ましいくらいだよ」
 私はそれを聞いて、友人のとつぜんの早期退職への感想を述べ、新年度の忙しいスケジュールの合間をみて、友人Sのために二人だけのささやかな送別の宴をもった。Sの永年の労苦をねぎらってやりたかったからである。
 当初Sはそういう私のはからいになぜか困惑ぎみであったが、再三の私の申し出に、ようやくというように承諾したのは、いかにもSらしいと苦笑した。
 季節は五月の春の夕べ。料亭の庭先に植えられたマロニエの樹に桃色の花が咲き、それが黒い板塀に映え、その一景がいかにも春の宴に相応しい艶やかな風情を醸していた。日本の庭園にマロニエを植える意表をつくまねをしたのは、むかし、フランスへ行っていたこの料亭の女将(おかみ)のやりそうなことであった。
 その夜、酒好きなSの顔が朱に染まるほどになると、やはり旧知の友人同士のSと私は、いつものように、うちとけた四方山話に花を咲かせたものである。歳をとるにしたがいなぜか気難しくなる人間のつねで、こころゆるせる友人は得難いものがあった。
「年金が出るのはずっと先になるぜ。いくら女房と二人だけといっても、先立つものがなければ余生はちと淋しいと思うがな。その方の手だてはついているんだろう」
 私は久方ぶりの友人と対座し、遠慮もなく余計なお節介をしたくなったらしい。
「いや、おれは一人だけになっちまったんでね」
 Sはなにやらさびしい苦笑をうかべると、そうポツリと言った。
「どうして?」
 私は二の句をつげないほど吃驚して、Sの顔をみつめてそう尋ねた。なぜならSの愛妻家ぶりは、誰からともなく聞いていたからである。
「おれが退職の話しを切り出してから暫くすると、女房の方から離縁をしてほしいと言われてな。おれは度肝を抜かれる思いがしたが、いろいろと考えに考えるうちに、別れることに決めたのだ」
 と意外にさっぱりとしているSの様子に、私は一驚したがSの様子になにか腑に落ちかねるものを感じ、ある不審な思いが私の胸をよぎるのを禁じ得なかったのである。きっとなにかの子細があってのことにちがいなかった。ともあれ今夜は、せっかくの祝い宴席で、わざわざ酒を不味くする話しは避けておこうと、もうその話しには触れなかった。
 途端にしめっぽくなった場の気分転換にと、私の好きな中国の一詩人の「山中にて幽人と対酌す」という詩吟を、朗々と腹から声をかぎりに謡ったのである。
「おれもそろそろ疲れてくる年齢だが、Sよ、おまえさんはどうやらもっと、お疲れのようだな」
 そう口にはせず、こころでつぶやいて、私は目尻にたまる熱いものをはらうかのように、Sのほうへ徳利を握った腕をさしだした。
 まったく人生は分からないものだが、他人のこころのうちほど量りがたいものはないと、私は雑踏に消えていくSの後姿をみながら、平凡な人生というものに潜む奇怪さに、少々心寒い感慨をあらためて懐かせられたのである。
 その夜以来、私のほうは相変わらず会社の仕事に追われる日々がつづき、Sのことを考える暇さえなかったが、ときおり携帯の電話にSの名前をみると、この友人のことが一瞬気になることがあった。
 それはSが離縁に踏み切った経緯であり、一人きりで晩年を生きていく手だてというようなことであった。多少の退職金などは、あってなきがごときものに過ぎないだろうし、妻から見放された人生の蕭条としたありさまを、私なりに想像したまでにすぎない。

 ある日、私は会社の親しい役員の一人に呼ばれた。そのまま夕方に赤坂でも会員制の高級なクラブへと誘われた。たとえ部長級であったとはいえサラリーマン生活をしていると、本能的に感じることだが、やはりリストラの勧告をやんわりと受ける羽目になってしまった。先達て友人Sを憐れんだ自分が、なんだか反対に嗤われるような気がしたのは皮肉なものである。
 会社は五十歳以上の高齢者を対象に、数人づつリストラの計画を立てていることは、誰からともない風聞で伝え聞いていたが、まさか自分がそうなるとは、迂闊にも考えていなかった。いや、正確にいうと前から近づいてくるその影にうすうす気づきながら、それに直面するまで、その正体を直視する勇気がなかったのだ。
 私の場合、早期退職プログラムにのって、第二の就職先の世話をしてくれるアウトソーシングのある会社へ転籍出向するか、三ヶ月後に退職金の優遇措置をうけて会社を辞職するかのどちらかの選択をするしか道がないようであった。優遇措置といってもたかが知れていた。このふたつのどちらを選択するかの回答には期限が切られていた。
 私は以前その役員の下で働き、不器用だが生真面目な私を可愛がってくれたその上司のお陰で、私は抜擢され昇進する栄誉に預かった。その時の恩義を忘れるほどの忘恩の徒ではあるまいと、陰に構えての私への退職の勧めであろうと私は推測した。
 たしかにこのところ、外資系の当社の利益は伸び悩んでいた。むしろ赤字がここ数年続き、回復の見込みもなさそうであった。一年前に旧知の社長が更迭され、インド人が社長に就いてから、私の属する研究開発室は閉鎖され、即時に販売に直結する開発のプロジェクトを立ち上げることが、私の新たな職務となった。思えばこの時、既に私への退職への道筋は予め用意されていたのであろう。私は新規のプログラムを幾つか開発したが、どれも会社が採用するところにはならなかった。

 潮が少しづつ退いていくように、私の育ててきた部下たちは掌をかえすように、私から離れていった。いまでは社内で会っても、誰もろくすっぽの挨拶もしなくなっている。これでも私はドクター号を取得した技術者である。今の会社へ入ったのも、ある人材会社へ登録してあったのを見たアメリカに本社を持つ今の会社からのヘッドハンティングをされた結果であった。私は会社の方針に異を立てたことはあるにはあったが、それは技術系管理職の立場から、専門分野の意見を提起したまでのことである。それが会社の経営の将来を思えばこそのことであった。現在の会社の経営の悪化は、目先の利益に汲々とした会社の弊害の結果であって、私個人の責任といえるものではないはずである。それが何故私がリストラの白羽の矢を受けなければならないのか。考えれば考えるほど、納得いかないものが私の中に、得体の知れない雲のように広がるのをどうしようもなかった。
 私は知り合いの弁護士へ相談したが、労働関係に疎いその弁護士からは有益なアドバイスを得ることは出来なかった。会社へ回答する期限は迫っていた。あの役員の説得どおりに、私は二つに一つを選択しなければならないのであろうか。再就職支援会社へ出向をしたとしても、そもそも再就職ができる保障は必ずしもないことは、すでに同じ処遇をうけた先輩の幾人かの話しから伝え聞いていた。会社内の知人は、私の学歴と二年間アメリカにいた経歴とドクター資格があるのだから心配はないと言ってくれる。
 妻は私がこんな目に遭遇することなど夢想だにしていないはずである。事実を話せばショックで寝込んでしまうかもしれないし、その上息子は現在、浪人中であった。息子の様子では、さほど大學進学に魅力を感じてないようで、部屋にこもって好きなCDを聴いたり、漫画のような本ばかりを読んでいるようで、あまり大學の受験勉強に熱中しているようには見えない。最近ではなにを話しかけても、異人種と話しているようで、こころが通じ合わないもどかしい苛立ちだけが残った。これが息子ではなく、娘ならばと思ったが、そのとたん、神楽坂のあの夜以来、すっかりご無沙汰の友人Sの顔が浮かんだ。Sには他家に嫁いでしまった娘が一人いたが、以前はよくSからこの娘さんのことを聞かされたものである。その度に娘を持つSを羨ましく思ったことがあるのだ。

考えてみればSは、退職前まで役所の労使関係の専門の相談員として、その分野では斯界から一目おかれた存在であった。下手な弁護士に相談するより、退職したとはいえSのような男に相談するほうが親身になって相談に応じてくれそうであった。まして友人Sの退職を祝う宴席まで設けた間柄である。なぜこんなことに気がつかなかったのかと、私は自分の迂闊さに腹が立ち、瀕すれば鈍するとはこんなことかとつまらぬことを悟ったような按配である。こんな鈍な人間であるからこそ、会社は私を解雇したのであろうと、逆に会社の私への処遇がなにやら理解できそうな気もしたが、そうされてはじめて私は自分がいかに、会社という組織に依存して生きてきたかを思い知ったわけであった。
 早速、私は携帯でSへ連絡を取った。がSの携帯は幾度かけても不通となっていた。家の抽出をかき回してSの自宅の電話に連絡をしてみが、何回電話をしても誰も家にはいないようである。私は地図で住所を確かめSの家まで行ってみたが、家は鍵がかけられ、だいぶ長いあいだ人が住んでいる気配がない。二、三軒、近所の者に尋ねたが誰からも色好い返事がなかったが、そのうち玄関に大きな犬のいる一軒の家の前で、あの家は抵当にかかっていて、近く競売にかかるらしいと、ゴロゴロと喉を鳴らしている真っ黒な毛並みの犬の頭を撫でながら、その家の主人らしい男から、そんな情報を得ただけである。
 私は大いに落胆した。しかし、役所の電話番号を見ると、Sが最後に退職した職場と同じ住所に、機関の名称は変わったが、同じような相談の窓口があることを知った。Sが勤めていた同じ職場関係なら、Sの所在を突き止めることが出来るかも知れない。私はそんな淡い期待を懐いたのである。
 翌日、早速に私はその相談の窓口がある事務所の電話を捜して、ダイヤルをプッシュした。たらい回しにされるのではないかとの私の想像と違い、電話にでた三十半ば過ぎの、だがまだ若い感じを残した女性はてきぱきと要領のいい質問をしながら、私の置かれた状況のあらましを理解したようで、電話よりも直接来所をして戴きたいとの懇切丁寧な扱いにこころが弛んだ。
 私は地獄で仏に逢ったような気持ちで、早速約束した時間に、その事務所を訪問した。
 事務所は駅前の新築したばかりの大きな雑居ビルの中にあったが、その事務所にたどりつくまでに私は、迷路のようなビルの中で幾度迷ったか知れない。電話での親切丁重な応対が私に懐かせた期待に違い、やはりお役所は利用者には遠い存在なのかとちと幻滅を感じた。しかし、藁をも掴む心境にあった私は、汗をかきかきそのビルの奥まった隅にあった事務所を捜し当てたのである。
 ドアを開けると早速、電話で応対してくれた女性の職員がカウンターへ出てきた。私が名前を告げると、その職員は一番奥の個室に私を案内してくれた。五つある相談室はすでに相談中でそこだけが空いていた。私はソファに座ると、矩形に切られた窓から白い壁のビルがそそり立っているのが見えた。あとで知ったことだが、そこは都立の精神専門の病院の建物とのことであった。見上げるとその白壁の上層階のあたりを、数羽の烏が不気味な声を響かせ、絡み合いながら飛翔していた。

 私が訪問した事務所には十五人ほどの職員がいた。半分以上の者が電話での応対に追われている。私は友人のSがその中にいるような気がしたが、どうしてそんな気がしたのだろうか。真摯で飾り気のないSが、その職場の醸し出す雰囲気に合っていたからかも知れない。威張り腐り傲ったような態度を、Sから想像することはできなかったが、役所とはいえその事務所の中にはそんな雰囲気はけぶりもみえないのが印象に残ったのである。
一通り話しを終えると既に二時間ほどの時が経過していた。交換した名刺から「美濃部」という名前の女性は、私の置かれている状況を理解し、法律上の問題点を丁寧に説明してくれた。美濃部さんの話しを聞いていると、それまで私を蔽っていた霧が晴れていく気がするのである。不合理な会社の私への扱いが目にみえてきた。私は私の権利意識に眼覚め、膜が裂けてまだ薄い怒りと同時に、勇気が湧くのを感じた。
 部屋を出ようとして、私は約二年ほど前に退職した友人の名前を告げて、彼女がその先輩職員のことを知っているかどうか尋ねてみた。
 と急に彼女の顔に明らかな戸惑いと困惑の表情が浮かんだ。
「知っていますが・・・」
 そう言って口を噤んだ女性の顔を見て、私はやはり訊くべきではなかったかと後悔したが、私はこの機会を逃したくはなかった。そこでSのことは二の次にして、またの機会を待つことにした。
 私に関する相談の件では、美濃部曜子という名前の職員が、会社との間を取り持ってくれるとのことである。会社がどう彼女に対応するのか、また、その結果その反動がどう私に跳ね返ってくるのかとの心配も多少あった。しかし、この種の法律関係に疎い技術職の私より、彼女のような専門家にお任せをした方が、多少でも有利で早めの決着がつくのではないか、私は勝手にそう判断した。
 それ以後、私は幾度か事務所を訪問するようになった。私の都合から夕方から夜間にかけての相談にも、彼女は快く対応してくれたが、さすがに夜間に面会すると、彼女が相当に疲れていることが察っせられた。特に私の会社との話しが進展していない時は、少し苛立つ語調にそれが窺え、彼女の努力に感謝の念をあらたにさせられるのである。
 美濃部さんは、私の希望と意志を確かめてから、よくこんなことを言った。
「私は残念ですがあなたの代理人にはなれません。わたしがしていることは、あなたと会社の自主的な問題解決の援助をしているに過ぎないのです。口惜しいことですが、この事務所には会社に指導・監督をしたり命令する権限は一切ありません。あくまであなたと会社の話し合いを側面的に調整することしかできないのです。そのことだけはご理解してください」
 そして、会社との話し合いの進捗状況を説明してくれたが、会社の態度はそれほど甘いものでないことが知られた。たしかに彼女の努力によって、解雇の勧告に対する回答の期限は、一ヶ月延長されたことには、一定の成果をみたが、会社は私への解雇の勧告を撤回する意志がないことははっきりした。私はこれ以上彼女の手を煩わすことはできないからには、正式に弁護士を雇い会社と裁判の場で争う以外に、道はないのではないかと洩らすと、
「安藤さん、そんな弱音を吐かないでください。そもそも会社があなたを解雇するどんな理由があるというのです。あなたは会社に解雇されるようなことを、なにかしたという自覚があるなら言っていただけなければなりません。私はこれは体のいい整理解雇だとみていますが、あなたがもし会社に始末書でも書いたことがあるなら、その事実を明かしてくれなければ困ります。話し合いの援助といってもここでやることは、謂わば外交交渉のようなものなのです。国と国が最後の手段である戦争をしたくないように、話し合いによる問題の解決を探るところがこの事務所の活動の場なのですから」
 美濃部さんは、私の顔をひたとみつめながら、熱をこめてそう言った。そう言われてみれば、私が会社から解雇されるこれといった理由は、会社の就業規則の解雇の項目を眺めても見つからなかった。
 たしかに美濃部さんのいうとおり、私が解雇される理由はなかったのである。
 私はただリストラということだけで、もう辞めなければならないものと思いこんでしまっていたのだった。私は会社に後ろめたいことはなにもしていないはずだ。今の会社へ移ってから二十年あまり、私は会社にそれなりに貢献してきたといっていいのである。

 夜の事務所には私たちの他ににはもう誰も残っている者はなかった。窓から夜の街に光るネオンが映っていた。私はふとSのことを思い浮かべると、口にださずにはいられなかった。
「先日名前を出しお話しをしたSは、私の友人でした。彼はあなたと同じ仕事にほぼ職業人生の大半を使い果たした男だと聴いています。それなのに何故、自分から早期の退職を志願してしまったのです? 実は私がこの相談機関へ来たのも、Sを私が知っていたからなんです。ここへ来るまえに、私はSへ個人的に相談に乗って貰おうとしたのですが、Sの所在は不明となっていました。私とSは永年の付き合いをしてきた友人関係です。何か子細があるとは想像しましたが、Sへそれを訊くことは敢えてしようとしませんでした。差し支えなければ是非ともその辺のことを、少しでもお聞かせ戴いたら有り難いのですが・・・・」
 美濃部さんの顔に霞のような影がかかり、なにやら思案気に私を窺う瞳に、ただならない雰囲気が漂うのを私は感じた。私はその曰く言い難い瞳の奥に、謎めいた妖しい光りが走るのを見て、一瞬ゾクッと胸の奥にざわめくものを感じた。
 だが私の中には、先夜の神楽坂での友人Sの、疲れたような様子がまざまざと胸に残っていた。あのとき、敢えてSの唐突ともいえる退職と妻との離縁について、突っ込んだ質問をしておかなかった自分の不甲斐なさが悔やまれた。しかし私は彼女の様子から、必ずやSの内情に通じているとの、第六感のようなものが働いたのは不思議であった。
 Sは学生の頃はなかなか優秀で、クラスのまとめ役まで自分から買ってでていた明朗闊達な男であった。その彼が社会に出ておよそ三十年、役所の下積みの仕事に打ち込み、その結果およそ報われることもないまま、その職場を自ら辞してしまった、その人生の軌跡が哀れであり不可解なことであった。
 私は自分の相談の一件も忘れるように、友人Sの最後に置かれた実情の一端なりと知っておきたかった。Sのことは、いつの間にか私のことのようにも感じられていたからである。
私はSと自分の関係をやや詳細に彼女に話した。そして、美濃部曜子さんという女性の顔へ、私は真面目で真剣な眼差しを注いだ。
 困惑していた彼女の顔に、一転して今度は不思議な頬笑みが浮かんだ。
「この相談機関では、相談の内容は秘密にしてございます。あなたがSさんとどのような親しい関係にあったか、それはあなたの言うことから理解できました。Sという職員がいたことは、あなたが言うとおりです。しかし、そのSさんについてのことは、あなたに話すことは申し訳ございませんが控えさせて下さい。たとえあなたとSとの親しい関係を信頼したとしても、公の機関としてSさんの個人情報を他人に洩らすことはできないのです」
 私はいかにも役人らしい態度で、安全地帯を予防線を張りながら、他人のプライバシーに関わることに慎重な姿勢を崩さない彼女の双眸をみつめた。彼女は続けてすこし強い調子でつぎのようなことをつけ加えた。
「このような相談の仕事には、決して踏み越えてはならない一線があるのです。・・・・」
 そう言い淀む美濃部さんの顔に、奇妙な笑みが洩れた。
 それは私へというより、私の背後にいる友人Sについて、彼女の内心に起きた反応だろうと、私はなんとなくただそんな気がした。そして、彼女の関心は私というよりSのほうにあり、そのSの友人としての私へとつながっているかのように思われた。がたとえそうだとしても、彼女がいま自分がその一線を越えようとしていること、それを私に婉曲的に示唆していることを、その妖艶な瞳の奥に窺わせているように思われた。それを私と彼女の密約として、私が理解することを彼女が促しているように私には感じられたのである。
 その輝く黒目がちの瞳の奥に、謎を秘めたような女性の顔が、そのとき私のこころの琴線に、軽く触れたようなそんな気がした。
 彼女は疲れたのか、椅子に腰を深々お落ち着かせ、片足を軽く膝の上で交叉させると、私を下から窺うように、下唇を噛んでから話し出した。
「Sさんは長い間、他人が逃げたがるような複雑で困難な相談をたくさん抱えていました。そういうSさんが女性の相談者にセクハラをしたということで問題となってしまったのです。Sさんに限ってそんなことはあり得ないというのがこの職場の大多数の見方でした。しかし詳細は不明なまま、勧奨退職という形でSさんは役所を去ってしまったのです」
「不可解であり、かつ理不尽です」
 私は自分がその時置かれている立場にSを重ねて激しい憤りを表した。そのあまりに激発した口調に美濃部さんは、ピクリと愕いたように身を退いた。 
 私は黒いズボンを穿き、髪をショートカットにした美濃部さんの顔に、一瞬奇妙に歪んだ微笑がかすかな影のように浮かぶのを見たような気がした。
「その通りです。私達はなにか脳天を叩かれたようなショックを受けたのです。本人は沈黙したまま、一言の弁明もなく立ち去ってしまいました。私達にもSさんの件は不可解なのです」
 そう言うなり美濃部さんはふと口を閉ざした。その声には相談する私と立場が交錯する哀訴する響きが籠もり、それが私の胸の奥を刺激したようであった。
 やや広めの額の下に小ぶりの鼻。毅然と見開かれた瞳に、苦しい苛立ちと憔悴の翳がおちている。顎を退き唇を噛んだその顔は、容易に他人には窺わせない内面を隠し、恰も浄瑠璃の女の人形の顔でも見ているような案配であった。
「それ以上になにも解らないと言うのですね」
「そうです・・・・」
 小さいが鋼が響くような、さっぱりとした声で彼女はなにか言い淀むように沈黙した。それはもうこれ以上なにもSのことを、私に対して話したくはないという仕草で、相談者に対面する冷静な一女性に戻ろうとしているように思われた。
 事務所の中はしんと静まり返り、私と美濃部さんだけの、どこか甘美にも思われる呼吸が重なりあう密室の空間を想像させた。
「さあ、もう時間も遅くなりました。鍵を閉めて私は帰らなければならないのです」
 彼女は立ち上がろうとして腰を浮かした。
「私は実は裁判も視野にいれているのです。誰かこういうトラブルに堪能な弁護士さんを紹介していただければありがたいのですが」
 私は慌ててそう言うと、彼女は相談室を出て、出口のカウンターから一枚のパンフレットを持って来た。それは弁護士団体を紹介したもので、後はそこに電話し相談して欲しいとのことである。そのパンフの薄い一枚の紙が、私の手に渡る一瞬、彼女の指が私の手の甲を軽く触れた。それはあたかも羽毛で撫でるような、かすかな感覚を私に残こした。
 出口の扉の付近に警備員らしい老人が、私が帰るのをいまかいまかと待ちかねていたらしかった。その警備員が出口の扉に手をかけて、扉を押し開けている姿が目に入った。多分、夜間の相談にまつわる緊急事態に対応するために、役所に雇われた者だと知られた。
 すると彼女は身を翻し、後ろ姿を見せて立ち去ろうとしていた。思わず私は彼女を追いかけて、縋るようにつけ足していた。
「もう私の件で、あなたにお願いできることはこれ以上ないのでしょうか?」
 彼女は部屋の奥の机に座り直し、抽出を開けて、その中へゆっくりと書類を入れ、小さな瓶をとりだすと、それを素早く胸のあたりにふりかけた。それから私を見て、口に薄い微笑をうかべて応えた。
「やるだけの事はやったはずです。これ以上会社と話し合いをもっても、たぶん進展は期待できようもないのですが、すこし検討させて下さい。なにか新しい知恵が湧くかもしれません。後日また連絡をしましょう?」
 私は彼女に私の携帯の番号を知らせた。私はその僅かな彼女の微笑に、我知らずときめきを覚えながら、未練がましくも、最後の力添えを彼女に託した。そこには、友人のSのことをもう少し、彼女から訊きだしたいという私の秘かな心算もあったからである。別れ際、彼女からジャスミンの花のような香水の香りが微かに匂ってきた。
 私は彼女に礼を言うと、警備員に送られてエレベーターに乗った。胸の奥に沈んでいた塊が溶け、なにか熱いものが擦れる奇妙に軋んだ音をたてて、エレベーターは動きだした。
 私は事務所を出たが、駅へ向かわなかった。駅への道からはずれた階段を下りて歩き出した。季節は梅雨時であったが、夜の空には朧月がかかり、私はひさしぶりにどこかで酒でも飲みたい心境になったのだ。
 数件の飲み屋が並ぶ路地を見つけると、その一軒の赤提灯の暖簾をくぐり、隅のカウンターに腰を降ろした。床の土間に凹凸があるのか、粗末な椅子は妙に不安定で落ち着かなかったが、熱めの酒が身体を染み通ると、そんな椅子のことも忘れてしまった。小さな店には、数人のサラリーマン風の男達、それに近所の常連客が混じって、わいわいとかしがましい。
 これまで私はこのような煮染めたような暖簾の酒場へほとんど入ったことがないと言ってよかった。もっぱら高給取りが集まる贅沢な構えの店を利用していたし、一人ではなく必ず複数の上司や同僚や部下と一緒だった。そして話題といえば、仕事の話しがもっぱらである。私は技術屋であり、人間関係上の機微には疎遠の方で、数式で解けないものは苦手とし、会社は合理的な一組織体と理解してきた。室長として個室での執務は当然と思ってきたが、解雇の通告以来、私は総務部預かりとして、部屋の窓際の隅に普通の職員のものより少し上等な机と椅子と電話を前にすることになった。仕事はこれといってないのである。自分で言うのも気が引けるが、私はこれまで比較的にエリートコースを辿ってきたので、会社の冷淡な態度が身に応えた。が、それを表に出さず、ポーカーフェイスを装うだけの、年齢相応な人生の年輪だけは積んだきてしまったのだ。
 私は頸に締めていたネクタイを緩め、辺りの人間を一人また一人と観察し、交わされている話題に耳を傾けようとした。だがこのところ始まった耳鳴りのせいで、彼等の話しの内容をうまく聞き取ることができない。酔いがまわるにつれて、頭は自分が置かれている状況と、友人Sの消息とがごっちゃになり、そこに一人の女性の顔が混じりあって、渦を巻きはじめた。
 鞄に彼女がくれたパンフが入っていることを思い出したが、それを見る気も起こらない。それより美濃部曜子という女性の顔がちらちらと明滅するばかりである。そこに自分の希望の小さな灯りでも見えるかのように。
 そしてやがて、酒のまわりだした私の胸に友人Sと美濃部さんの男女二人が、交互に現れてくるのだった。もうすでに五十年もこの人生を生きてきたのに、私にはますます人生が訳もなく朦朧とかすむように思われてならなかった。特に男と女の関係は藪の中にあるとしかいいようがない。
 神楽坂の一夕に私を驚かせたSの告白と、美濃部さんが私にしてくれたSの早期退職の話し、この二つが私のなかで、合わせ鏡に映った像のように交錯し浮かびあがった。だがその二枚の鏡が映しあうものには、大事ななにかが欠けていた。そして、それは中途半端なままに宙づりとなり、疑心暗鬼の熱い闇の中で互いに見つめ合っている。そんな奇態な男女二人の情景が、私の頭のなかに勝手に増殖し拡がっていった。
美濃部という女性が、Sの友人である私にはらう関心には、なにか尋常でないものを私は感じた。それが彼女にある越えてはならない一線を超えさせたのだ。
 それがなんであれ、私はそれを知っておきたかった。
 店の主人が横手の窓をひいた。それから、
「雨が降ってきやがった」
 と呟く太い声が、私に解雇を告げた会社役員Tの声に似ていて、私はその声に驚いた拍子に我に返ったようだ。すると家に自分の帰りを待っている家人の顔が浮かび、私は逃げ出すように、なぜか慌ててその酒場を出て、鞄を頭へ乗せ駅への道を小走りに急いだ。
 私の帰宅を待っていた家人は、濡れた洋服を受け取ると、洋服に鼻を寄せて臭いをかぐ仕草で顔をしかめた。
「変な臭いがするのね」と奥歯にものが挟まったようなことを言い、私を見る目に妙な胡散臭さが漂った。
「なに安酒場の焼き鳥の臭いやら、その他もろもろさ」
 と私は咄嗟に酔いにまかせたとぼけた口調でそう言い添えてにっと笑ってみせた。が、歳を取ったとはいえ、女の第六感のおそろしさを、そのときほど私が感じたことはなかった。
 家人は私の洋服を抱えて、ひとまず廊下のハンガーへ吊し、怪訝な顔を向けると、つい先刻にSさんから電話があったと告げた。私はまだ家内に私の件を話していなかった。
 それにしても、あれだけ連絡を取ろうとして消息がつかめなかったSの方から、私に電話があったことに、私は一瞬戸惑いを隠せなかった。
「用件は何だか言ってなかったかね?」と妻の顔を見ずに問うと、妻はじっと私を窺う様子で、「夫はまだ帰っていない」と答えると、「ではまた」と言って電話は切られたそうである。家人は、あなたの会社の電話番号をSさんは知らないのでしょうかと、訝しそうに私の顔をのぞきこんだ。私はもの問いたげなその声を聞き流した。 Sへの携帯電話にこれまで私は幾度も連絡を入れたが、その携帯は使われていないようであった。だが私がSのいた事務所に訪ねたその夜に、Sのほうから私へと電話があったことが不思議だった。私の頭の中にそのとき、美濃部さんの顔がちらりと横切った。明日でもこちらから電話をしてやるとしようとその場をつくろい、妻に背中をみせて風呂に入るために廊下へ向かった。
 私は浴槽に浸かりながらしばし考えこんでいた。あの神楽坂の夜以来逢っていないSが、なぜ会社の方ではなく、私の自宅へ電話をかけてきたのだろうか。私に連絡をする用件があるとすれば、それは金の無心かとも想像されたが、そうしたことを安易にするようなSではないと私は思いたかった。Sは現在の私の窮状を未だ何一つ知らないはずである。その上で美濃部さんの信じられないような話しが、万一に本当の事実であるならば、Sは私が知っている昔のSではなくなっているのかも知れない。もしそうならば、そのように落魄した友人Sに、私は自分の進退の相談をもちかけようとしたことになる。私にしても昔の私ではないのはSと似たり寄ったりであったが、Sの件は私にショックを与えた。暗然とした心持ちで私は、浴槽に頸を垂れた。しかし、やがてものごとを悪い方へとばかり想像が傾いでいく自分になんだか嫌な気がした。Sからの電話は気になったが、しばらくSのことは忘れていようと思った。

 それから一週間後、会社にいた私の携帯が鳴った。私は急いで廊下の隅で、携帯に耳を押し当てた。女性の声が聞こえた。それは美濃部曜子さんだった。私は思わず辺りを見回した。
「いまいいですか?」と彼女は短く念を押した。会社との交渉役の立場上、私との会話が会社に洩れてはまずいとの彼女の判断があるのであろうか。彼女の役人という中立的な立場は、あくまで建前のことで、会社との力関係では私は断然に弱いことを承知で、自分の手の内を読まれてはならないとの彼女の判断があると想像された。
 私に明日にも事務所に来て欲しいとの連絡であった。解雇の勧告を受けてからは、社内での行動に慎重にならざる得なくなった私は、昼間に美濃部さんの事務所に出向くことは得策ではなかった。それで事務所へは明日の夜間に行きたい旨の返事をすると、それでは七時までにということで、電話はすぐに切られた。
 まるで密事の約束を取り交わした心境で私はまた辺りを窺い、相談事の約束が若い女性と悪事でもしているような、そんな後ろめたい奇妙な妄想に一瞬囚われたのは、私にはめずらしいことであった。私は友人のS同様若くはなかった。いまさら女性に興味が湧く年齢ではないが、美濃部さんは別格と言ってよかった。彼女以外に現在の私の立場を理解し、手をさしのべてくれる人間は今のところいないのである。そして友人Sの実情を少しでも知っている者は彼女だけである。Sがわざわざ私に連絡してきたのは一体どんな用事があってのことであろうか。私は美濃部曜子という女性が、何かの重要な謎を私に秘め隠している、そんな不可解な想像を懐きはじめていた。
「藪の中から一言の弁明もなく立ち去った」とSについて、美濃部さんは言った。だがその声の調子が妙に私の胸を刺激したのである。私はSが藪の中に残していった「真実」なるものを知っておきたかった。いや私が知りたいのは「事実」そのものである。何故Sは役所を辞めざる得なかったのか。そして、Sの妻はどうしてSへ離婚を迫り、Sがそれを容易に受け入れたのか。私はそれを知りたかったのである。この世に、そして人生には不条理なことが多々あることは、歳を経るに従い誰でもが了解していくことであろう。私の会社の態度とて同じである。理不尽であり不合理である。だが私はそれに屈したくはなかった。できるかぎりの手を尽くして、抵抗をしてやろうと心中期するところがあったのである。Sも何かに耐え、妻の希望に沿うた道を選んだのに違いない。私はそう思いたかった。同じような人生を生きながら、一人一人が自分にしか語れない「秘密」を、そして場合によっては自分にも解けない「謎」を抱えて生きている。そのことが痛いほどに私の胸を突いた。
 あの賑やかな大衆酒場に寄り集まっていた人たちの会話を聞きとることはできなかったが、私は友人Sとそうしたように、ありふれた四方山話でもして、もっと打ち解けた仲間の一人になるべきだったのだ。貴方になにか相談があれば、私はいつでもそいつを聞いてあげようじゃないか。私は狭い了見の人間として生きてきてしまったが、その狭い了見で考えられるだけのことなら、いつでも相談にのるよと。人は自分の話しをただ聴いてくれるだけの他人を、一人必ず必要としているということほど、人間の淋しさを示すものはないように思われた。
 ある夜、私は帰宅すると妻に会社での出来事を話すことにした。想像したほどには、妻はショックをうけた様子はなかった。ただ黙って私の話しを聞いていた。
 妻がどういう反応を示すか、私は少々大袈裟に言えば、「固唾を飲んで」見守っていたのだ。だが妻は顔色ひとつ変えずリビングの椅子にいつものように座っていた。それがテレビのドラマを観るいつもの彼女の姿勢であった。妻は余分な話しをせず、だがやることは素早く完璧にやる賢明な女性であった。ややもすれば世事に疎い私に、世間でのつまらない話しでもしてくれればいいのにと、私はすこし物足りなく思っていたのはたしかであった。
 妻は私が話し終えると、あまり面白くないドラマを一本見終わったとでもいうように、
「そうですか。家になら多少の貯金もあるし、あなたが働きたいなら、会社はひとつしかないわけではないじゃありませんか。そういうことなら息子の孝史にも話しておかなければなりませんわ」
 短くそう言うと、眠たそうな顔をして部屋の時計をみた。既に夜中の十二時を廻っていた。
 たしかに会社はこの世の中には無数にある。だがまた一から新しい会社で働くことは、妻が考えるほど簡単なことではない。特にこの年齢では気後れが先に立つのだが、妻にそれを言ってもどうにもならない気がした。
 私も眠ることにした。妻の反応が多少素っ気ないのはいつもの伝であったが、胸のつかえがすこし降りたような気がして、朝まで変な夢を見ずに、眠ることができた。
 一週間後、息子の孝史と洗面所で顔を合わした。めずらしいことだった。
「お父さん、ぼくはアルバイトで働くことにしたよ。お金が貯まったらその金で、世界中を旅をして来ようと思うんだ。日本にいてもうざったいことばかりで、面白いことなんかなにもありゃしないからね」
 息子がタオルで顔を拭きながら、さばさばした顔をみせ、私を見下ろしてそう言った。こうして並んでみると、頭ひとつほど息子のほうが背が高いのだ。
「そうか、それもいいな。だがちゃんとしたなりをして行けよ。現金はなるだけ持たぬがいい。カードでだいたい済むはずだ。変なテロリストの連中と間違いられないようにな」
 私も息子に調子を合わせ、抑揚のないぞんざいな調子でそう言い、多少お金なら援助するとつけ加えた。
「いや、いいんだよ。CDやら本やら、おれのものはみな売り飛ばす。泊まるところがなければ、野宿すればいいし、そんな心配すんなよ。お父さんは母さんのことだけを考えていればそれでいいんだ」
 洗面器の外に息子が飛び散らした水をタオルで拭きながら、まるで息子に諭されているようなむず痒さを覚えて、私は苦笑した。
 息子もいまではもう少しで二十歳になるのだと思いいたり、私は自分のその頃のことがふと頭を掠めていったが、すべては遙か遠い靄の中に霞んでいた。妻のことは気にならないことはなかったが、偶々仕事に追われていただけのことだと思いながらも、それがいつからのことだか思い出すことはなかった。むかしの妻はもっと私に優しかったような気がした。私だって彼女にたいしてもっと思いやりが深かったような気がした。お互いに年齢に応じて同じ屋根の下で暮らしているうちに、互いの存在を空気を吸うように忘れ始めてきていたのに違いないのだ。
 息子の最後の一言が池の濁った水のなかをゆっくりと落ちて、消えていく石ころのように、私のこころの淀みに落下していった。その石ころこそ、私の人生の晩年にしずかな小波のような皺を寄せ、二枚の暗い鏡の表に互いの姿を、否応なく映しだすにちがいなかった。それが人生の晩年の光景だとすれば、Sの妻同様にこの私に無縁というわけではないとそう思い直した。私は家人ととことん話す必要を感じたが、仕事に追われてこの年まで、家人と話し合う習慣をなくしていた。お互いに深く傷つかぬように、同じ屋根の下で暮らす習慣が身に付いてしまっていたのである。
 そしてまた、息子の顔の背後から、息子と同じ年齢の頃から、付き合い続けてきたSの青年時代の顔が、とつぜんのように浮かびあがった。
 あれはかれこれ三十年数前のことになる。
 入学式を終え、クラス編成が済むと担任の先生が決まり、教室では学級委員の選出が行われた。高校から活動家であったSは、当然に立候補をして都合三人の者が、登壇して立候補の演説をしたのだった。Sの演説は気合いが入り、難解だが格好いい政治用語が散りばめられ、当然にクラスの多数が票を入れると、私は確信したが意外にも、私を含めた二人が選出されたのだった。そして、もうすぐ学期末試験が始まるという十二月から、授業料値上げ反対闘争から火がついた大學の紛争は、遂に全学部の授業ボイコットのストライキに突入していった。
 Sが突出してクラスの意見を牽引して、全員の行動を統率していく手腕には目を見張らせるものがあった。学部の入口には机を積み上げたバリケードが築かれ、立て看板とがなり立てるスピーカーの音がキャンパスを領し、赤、青、黒のヘルメットの一団が、ところ狭しとデモをして練り歩き、大學は騒然たる風景の中に荒廃し、勉強をする落ち着いた空間ではなくなっていった。
 当然に授業は行われないまま、紛争は長期化した。大學の要請で機動隊が入るとの噂が流れると、クラスの中心メンバーは寒い夜のキャンパスに焚き火を燃やし、教室の凍えた石の床に何枚もの蒲団を引いて車座で議論をする者、難しい本やら、漫画、週刊誌の類を読み耽る者らが、学内に機動隊を入れるなという方針で待機をした。そうした籠城の幾日かの夜と朝が過ぎた。
 やがて深夜も相当過ぎた頃、地鳴りのような靴音が聞こえ、黒い制服の塊が、冬の月に皎々と光るジュラルミンを楯にして学内になだれ込んだ。怒号と身体を張っての抵抗はあっけなく、その黒い塊に掃討された。首謀格のSは検挙されて、臭い飯を食べて数週間帰って来なかった。刑務所から出てきたSの左手の五本の指は硬直し握り拳の形のまま、その後普通に開くことはなかった。クラスは解体同然で、その後のSの消息を誰も知るものはなかった。
 私はといえば疾うに、個人の顔を無くし、一塊の集団と化していく者達に次第に嫌悪を感じだした。石を拾い投石する一人の男の顔に薄気味の悪い笑みが浮かんでいるのを見たとき、私の嫌悪は頂点に達した。それに拡声器から流れてくる空疎な思想的言辞が、私の感性にそぐわなくなるのを感じた。徐々にそれらの喧噪の渦巻く焚き火のまわりから、それらの夜に一閃小さな宝石のように闇を輝かし、海からの風のように私を慰藉する、ことばでできた「詩」の世界へと私の関心は移っていった。私は恋いを恋するように、その「詩」が切り開いてくれる新しい世界、悪と戦慄的な美の世界に酔いしれたが、やがてそれが私の精神をあるつらい極点へまで追いつめることになろうとは思わなかった。
 私はその「魂の一年」ともいうべき青年期を、独り堪え忍んだがいま思えば、その時節が私の精神生活が最も充実していたように思われた。私は孤り祈るように生きていたが、私の魂は純な焔で燃えていたのだった。
 やがて授業は再開されたが、もはや学内に足は向かず、喫茶店で音楽を聞き、暗いあかりの下で書物を読むことに没頭した。私は独学の歓びを知ったのである。読書と思索に疲れると、図書館の窓から青空を眺め、流れる雲と風にそよぐ青葉を見て、残りの数年を過ごした。
 私は以後、クラスの誰とのつきあいも敬遠した。二十五年ぶりだかのクラス会の誘いも、幸い所用があることで不参の返事を出しておいた。だが社会へ出て、偶然に出会ったSとは、馬があったのか時折、酒を酌み交わす仲になっていた。幾ら酔っても、苦い昔のことは互いに語ることはなかった。あの時代に触れそうになると、どちらからともなく、屈折した感情のまま沈黙した。昔は凍結したまま、それは滅形も熟成もしない苦々しい石のような果実となった。白い河床に沈んだまま浮上することのない「時間」のミイラのように。

 美濃部さんと約束したその日は、昼前に例の役員Tがオフィスに現れ、まだ早いが昼飯でもどうかと誘われた。逐一私の情報はT役員に入っているらしかった。役員に誘われ入ったレストランは、新宿中央公園の裏のビルの地下にあった。まだ早い時間帯なので、店はすいていて、頼んだ食事はすぐにテーブルに運ばれてきた。役員はどうでもいい話しはしないタイプである。それがどういうわけか、昨夜見たサッカー試合のことやら、KⅠでの桁外れに強い選手のことやらを熱をこめて話している。だがそうしながら、役員は恐ろしい早食いであっという間に食事を終えた。私は半分しか食べていない食事を残したまま、役員に促されて席を立った。
「どうだい偶には散歩でもしないか?」
 と言うが早いか、役員Tはもう一人中央公園へ向かって歩きだしていた。短躯が上下動なしに、なんだか滑るように進んでいるので、まるでロボットが動いているようだ。短い脚がすいすいと前に出るだけである。お能か仕舞いでも習っているのかも知れない。素早い歩き方だ。ナンバ歩きというやつで、手をふるような無駄な動きを一切しない昔のサムライの歩き方だと、役員Tは妙な事を知っていた。
「君どこかのお役所に相談しているらしいね。それもなかなかの美人さんらしいじゃないか。君も隅におけないね」
 とチラリを私を振り返りそう言ったと思うと、一個づつ離れた腰掛けのようなベンチに腰を降ろした。ホームレスが横たわれないように、役所が考えた「親切」な石のベンチであった。時折、二人の目の前をジョッギングをしている男女が走り抜けていく。中には小さなダンベルを両手に握ってる高齢の男もいた。
「美濃部曜子さんという人はなかなかのやり手らしいね。そこいらの弁護士より凄腕と人事部長が言っとったよ。それに君はどこかの労働組合にも相談しているらしいが、それはやめておいたほうがいい。得策じゃない。会社の顧問弁護士はそちらの方には強いほうでね。君の立場が苦しくなるだけなんだ。私を信頼してくれないかね。けっして悪いようにはしないよ」
 役員はこれだけ言うと立ち上がった。
「ぼくは用があるから。君はここで少し頭を冷やすといい。じゃー」 と短い腕を少し上に上げると、例のナンバ歩きで会社の方へ帰って行った。さすが核心だけをついて私を揺さぶる作戦は、百戦錬磨の役員らしかったが、真綿でじわじわ頸を締められるよりまだましだった。
 私は公園を歩きだした。至るところに青テントが見られた。誰も自分がそういう生活を余儀なくされるとは考えない。私とてそうである。まさかだ。
 人生には上がり坂があり、下り坂があるが、もう一つ「まさか」という坂があると聞いたことがある、あの「まさか」である。
 都心の割と広い公園には、ところどころおやというほど綺麗な花が咲いていた。その一茎の花の前で、スケッチに余念がない男を見かけた。近づくとその男の横顔が、学生時代にクラスにいたある男に似ていると思った。じっと目を凝らすと、若い一人の青年が彷彿と甦った。名前は忘れたが当時から絵が好きな奴だった。話しかけようとしたがぐっと留まった。偶然が私にその男を邂逅させ、偶然に私はなぜかその男を思い出したが、彼が私を思い出すことはないという妙な確信があった。そうだ。「センス・オブ・ワンダー」だ。人間にとって自然とは何なのか。そんな青く、美しい議論をこの男としたことがあったっけ。そうだ、「沈黙の春」。レイチェル・カーソンの本を読んだ感想を、この男がまだ端正な顔をしていた青年の頃に、語りあったことがあった。いやはや、カーソン君、君はへんなことを、こんな時に、思い出させるんだね。とても懐かしいが、私はいまそれどころではないのだ。カーソン君よ、さようなら、永遠にね。私はこころの中で小さくそう叫んで、その場から踵を返して会社に戻った。
 道々、私にとってこの世界と社会、そして今私が追い出されようとしている会社とは何であるのかという柄でもない考えに沈みながら・・・・。
 私は一瞬、若い息子が妬ましかった。「お父さんは母さんのことだけを考えていればいいんだ」って、だがおまえは自分だけのことしか考えないで、それでいい積もりなのかと。だが息子よ、どんな困難に遭遇することがあったにせよ、出発せよ! もう後など振り返る必要などないのだ。昔の西洋の詩人が予言したように、この現代という世界は巨大な病院のようになってしまっているのだ。おまえはまだ若い。こんな息苦しい病的な世界から、もっと溌剌とした人間的な世界を求めて、旅立つがいいのだ!
 私の胸の中を矛盾し混乱した想念が次々と横切っては消えていった。
 私は若い頃に夢想した、私のホントウの人生を生きてきたのか。この人生の曲がり角のどこかで、私は脇道に迷い込んでしまったのではないか。だが私の人生はもう黄昏時であった。息子のいない家で、互いに話すこともないさびしい夫婦生活が淡々とつづく。そして、私の妻がなにを考えているか分かったものではないのだ・・・。
「糞!」。
 私の独り言に驚いたように通行人が私を見たようだった。
 その時、私の携帯が鳴った。歩きながら耳を押し当てた。
 それは紛れもなくSの声であった。そのことばは、路上を走る車の騒音のせいで、遠く近く、切れ切れの断片にしか聞こえない。
「おまえはSなのか!」
私は幾度そのように聞き返し念を押したかわからない。
「私はおまえに逢いたい。どうして逢えないのか、その理由を訊かせてくれ! おまえが役所を辞めたというのは、ほんとうのことなのか? おまえの同僚がそう言っていたが・・・・! ええ? 曜子さんが・・・何だって? よく聞こえないよ。もっと静かなところで、おまえの話しを訊きたいのだ! ええ? なんだ? 近づくなって・・・誰にだ? なんだって? 危ない。いったいなにがどう危ないのだ? おれはおまえに相談したいことがある・・・逢えないって! バカヤロウだ、おまえは!」
 Sからの携帯は、その後一度もかかって来なかった。もちろん、こちらからかけても不通のままだ。
 私は会社の机をまえにして、携帯のSの声の、風に吹きちぎれたような話しを、その接ぎ穂を、つなぎ合わせ、よりあわせようとしていた。
 Sは私が相談したいことがあることは、あの電話でも伝わっているはずだ。それでも私に逢うことができないとすれば、汚辱にまみれたSについての、あの話しを受け入れるしかない。だが澱のように、腑に落ちないものが私の胸の底に残ってならなかった。Sはあの電話で、なにかを私に伝えようとした。風に吹きちぎれる木の葉を掴む、ある微妙な感触を残して・・・。
 あのとき、Sは「曜子」ということばをたしかに発していた。それが小さな小骨のように、私の喉に刺さって抜けない。「曜子」と呼ぶほどまでに、Sは美濃部曜子さんと深く濃密で、親しい関係にあったのだろうか。とりわけ「近づくな・・・」という警告は、無視し得ない事項だった。こうした一連のことで、Sが私にいかなるメッセージをあの電話で伝えようとしたのだろう。
 T役員は、今日、私が彼女に逢うことをまるで知っているかのようなタイミングで、警告を私に与えにきた。そして役員に別れ、私が会社へ帰ろうとした頃を見計らうように、Sからの携帯の電話が鳴った。私は復背に刃を当てられたような気がした。だがこれは被害妄想心理の悪い罠だ。ドツボにはまるとはこのことか。
 私は誰かに話しかけたかった。なぜなら自分が自分に語りかける、これは乱心した者の心理にちかい。誰でもいい、お天気の話しでもなんでもいい、他人と会話を交わさなければ、私は狂気のトンネルを自分で掘りすすむことになるような気がした。会社は私がそうなるのをじっと待っているのも知れない。あるいは、私がなにか凶器を持って暴れまわることを狙っているのだろうか。会社の言うとおり、早期退職プランにも乗ろうとせず、業を煮やした会社から「解雇勧告」をうけ、それにも従おうとせずに、役所のちゃちな女と乳繰りあうようになる私を、どこかの節穴から覗こうという魂胆なのか。
 私は体中にびっしょりと汗をかき、異様な顔をして、会社の机にへばりついていたらしい。一人の年寄りのやさしい顔をした警備員が私に近づいてきた。
「どこか身体のお具合でも悪いのですか?」
「ああ、そう、いえいえ、ところで今日は何日ですか。それと今は何時なのでしょう?」
 私はやっと他人と口を利くことができた安堵感に椅子にへたり込んだようだ。
「安藤さんですね。あなたは自分が腕時計をしていることをお忘れですかね」
 警備員は怪訝そうに顔を曇らしてそう言った。ハッとして私は自分の腕に巻かれたロンジンの時計に、ぼんやり目を落とし、テレ笑いを隠すように、また警備員へ顔をむけた。
「ええ、私は安藤ですよ。あなたは何故私の名前をご存じなのですか?」
「馬鹿を言っちゃいけません。名前はあなたが頸からぶらさげている社員証をみればすぐわかりますよ」
「はっはは。笑ちゃいますね。私はまったく頭がすこしばかりおかしいようだ」
 それを聞いた警備員は私からすっと離れていったのが、私の目に見えた。
「助かったぞ!」
 私はそうひとりごちた。寸でのところで、気の狂いそうになった私は、我に返ってロンジンの時計をのぞいた。
 もう会社の退社時間を四十分も過ぎていた。
 私はへばりつくように座っていた事務机を離れると、洗面所へ直行した。寸前のところでお漏らしをしそうだったのだ。そして顔を洗い、鏡をみた。
 これが私であろうか。はじめてお目にかかるお面相のようだった。髪は乱れ、目は据わってしまっている。この私が以前はドクター号を摂って、何十人もの部下を従えた、技術職の部長だったなんて、いったい誰が思うだろうか。
 喉がばかに渇いてきた。私はトイレの水にもかかわらずに、蛇口に口を押し当て馬のようにがぶがぶと水を飲んだ。急に下腹に痛みが走った。小便が血に染まったように赤く見えた。いや現に私の小水には血が混じっていたのである。医者に行かなければならないだろう。医者はこういうだろう。
「極度のストレスから来る一過性のものですよ。一週間ばかし安定剤を服用ください」とね。私はそれを貰って、夕暮れの街に彷徨いでたようだ。
 ネオンがやけに明るい。どこかで一杯ひっかける飲み屋をさがした。小便臭い路地から焼き鳥の香ばしいにおいが鼻をついた。安い立ち飲み屋だ。すでに酔客が壁を作っていたが、ちょっとして隙間に身体を割り込ませて貰った。
「ちょっと失礼します」
 すると両側の客が間を空けてくれた。溢れそうに注いでくれたコップ酒を手に持った。酒が手を濡らした。それをみて隣の席を空けてくれた頭にタオルを巻いたおっさんが、声をかけてきた。
「旦那よ。コップを持っちゃいけませんや。一滴でもこぼさないように、こうやってね。口の方をコップに持っていくんでさ」
 私は一言文句でもつけられるのかと一瞬そう思ったが、そうではなかった。ぞんざいな口調のなかに、温かななにかがあり、それが私の背中を叩き励まされたような、そんな気がした。
「ああ、ありがとう。そうしよう、そうしましょう」と言いながら、私は目の脇にふとあふれてすッと流れ落ちそうなものをそっと拭った。この人達はなんてみな親切なんだろうと。
 ふと聞いたような野太い声に脇を見ると、なんとあの役員Tがいた。眼鏡を拭いて二度確かめて見たが、たしかに例の役員にちがいなかった。
 私は唖然とした。あの人がこんなところに居るなんて。私は腹の底から全身に突き上げてくる、深海から吹き出す熱い噴泉のような笑いに腹が捩れそうな感覚に襲われた。私は役員と目が合わないよう目をはずした。
 私はそのときこの男の横顔をみた。するとその一瞥が、突然、ニューヨークのマンハッタン島のある高層ビルの一角で、このT役員と差し向かいで話し合っていた一光景とともに、頭の隅に刻まれたある事柄を甦らせたのである。それは会社の機密事項に関することだった。むこうはもう時効と思っているかも知れないが、技術屋としての私には忘れられない重要なことだったからだ。それはある機械部品の特許権に関わっていた。
 その数年まえから、私の担当セクションではある製品の技術開発に取り組んでいる最中であった。その開発にはまたある工程を踏まねばならない仕組みを持った部品が不可欠であった。だがその工程、仕組みが一個人の特許として申請され所有されていたことが分かった。私のセクションでは別の工程方法を模索中であったが、製品製造の期日は目の前に迫っていた。
 私はそのことをこの男に説明していたのだった。部長は私の話しを聞くと即座に、
「別の工程を開発に要するするを時間はどのくらいなのか」と私に質問した。
「突貫でやっても少なくとも数ヶ月はかかるでしょう」と私はおおよその見当で答えた。机を二度、コツコツと叩くやいなや、私の前から隣の部屋の扉を開け姿を消すと扉は閉められた。扉越しに電話で話す声がかすかに聞こえたが、やがて席に戻ってくると簡単な指示が出された。
「君、技術は時間との競争だよな。特許の使用料ぐらいのコストは仕方はないだろうよ」
 私はそのとき、この男が腹の底でニッタリと嗤い、それを隠して私にみせたその厚顔を少しの疑念もなく見た一瞬をなぜか覚えている。会社の新製品が出るほんのすこし前に、私は業界の新聞でその製品に使われた工程の特許の持ち主が故人となったことを知った。死因は癌であり係累もない孤独な死であった。半年まえから故人は死の病と戦っていたという記事を私は読んだ。その時、私はあのとき私から離れて隣室からT部長が電話をかけに行った光景が脳裏を過ぎっていった。私たちが「開発」した製品は短期的にではあるが、あっというまに業界のシェアの八割を占める売り上げ実績を示した。その実績によりT部長は本社の役つきの取り締まりに特進した。
 そろそろ時間が来ていた。暖簾をわけて外へ出ると、夕暮れと思った空は墨を流したような暗さである。その深い海の底のような空に、ぼうっと火事場の赤い炎を思わせる月が浮かび、その気味の悪い色をした月の残映は、その後なかなか消えなかった。
 
 私は美濃部さんのいる相談の事務所に向かった。裏門からモニターを押すと、いつもの警備員の声が聞こえ、やがて内側から扉が開いた。
 洗面所で酒に火照った顔を冷やし、櫛で髪を整えてから、事務所のドアを開けた。
 相談室にいたのは曜子さんだけではなかった。そこにはSもいたのだ。私はその奇妙な光景に目を疑った。そのSが藪から棒に私に話しかけてきた。
「曜子に相談してるんだってな」
 Sはまるで曜子さんを自分の「愛人」かなにかのように呼び捨てにしていた。それが私にはやけに不愉快であった。
「俺が昼間電話してやったことは、どうやら無駄だったらしいな」
「そうだ。おまえの電話は断片的にしか聞こえなかった。だがいま、おまえの言いたかったことがなんだか分かったようだ」
「安藤、なにが分かったというのかな。そう早合点しないほうがいいぞ。おまえの相談に、俺は乗ってやりたかった。が、ある理由でそれができなかったのは、おまえには申し訳ないことだった」
「なんだ? その理由というのは?」
「実は、おまえを解雇に追いやってしまったのはこの俺なのだ。おまえの上司は、昔の学生時代に変な縁で知り合った俺の悪友でな。俺の腕を見込んで、会社の労務管理上の顧問役として、失業中の俺を雇ってくれたのさ。赤字に陥っている会社のリストラ計画に俺も一枚加わざるえない立場となったわけだ。会社は俺の作成した合理化計画どおりに事を運んだに過ぎない。その結果のリストの中におまえの名前を見て俺は驚いた。だが私情を入れることは許されなかった」
 私は、Sの背後に黙って佇んでいる美濃部曜子さんへ時々視線を送りながら、Sの意外な話しに、驚き信じられない思いで耳を傾けていた。
 そこでSは曜子を見やりながら、小声で囁くように低く声の調子を落として、私だけに聞こえるように耳元で、つぎのようなことを私に洩らしたのだった。
「ところで、安藤、おまえは俺が役所を辞めた事情とやらを知りたいらしいな。あの曜子が何を話したか知らないが、『セクハラ』とやらで、俺を内部告発したのは、おまえが相談の頼りにしているあの曜子なのだということは、もちろん知るはずはないだろう」
 Sは顔半分で背後にいる曜子さんの様子を窺いながら、もう半分で私の顔を凝視していた。
 一瞬、私の顔に奇妙な歪みが走った。
「バカな!」
 そんなことばが自分の口をついて出たような気がした。私は自分を解雇においやる結果となった会社の合理化計画を立てたのが、Sであるという事実を聞いたそのときから、自分がまったく別の、悪い夢のような世界へ拉致され、理不尽きわまりない手のなかで、まるで子供のように打擲されているような気がしてならなかった。
 私は美濃部さんの顔をみた。Sを「セクハラ」の加害者として告発したのが、あの美濃部さんだとSはそう言った。だがそう言われていた当人は、それを否定も肯定もする様子はみえない。私が凝視したその顔は、言いようのない複雑な感情の糸のもつれを裏に秘めた、白い木彫りの女の能面のように見えた。
私はSと逢ったあの神楽坂の一夕を思い出した。あのとき、私の胸を過ぎったSへの不審の影が、動きだしある形を取り始めるのをかすかに感じた。
 「まさか」と私はひとりごちた。その想像はあまりに手ひどく私を傷つけた。私はその悪い想像を、振り払うように頭を揺さぶった。その拍子に、拳を握りしめ樹の枝にできた瘤のようなSの左手が目に入った。三十年のあいだ、それは変形し凝固したままであった。見てはならないものを見たときのように、思わず私は目をはずした。
 Sの言ったことがほんとうなら、彼女は私に事実を歪曲して伝えていたことになる。がなにが事実の真相か、第三者の私には分からない。しかし、Sと美濃部曜子さんのあいだに、確証はないが他人に窺い知り得ない何事かがあることは間違いなかった。それが男と女の関係であり、それが仕事上のトラブルの要因になり、Sの言う曜子さんの内部告発に発展したのか、それは想像でしかない。だがSを見つめる曜子さんの瞳の奥には、男であるSへの怨恨と未練が絡まり合い、烈しい感情の焔が渦巻いていることは、その怪しいほどの目の光りを一瞥するだけで、推察に余りあるように思われた。
 美濃部さんはSを仕事の上で尊敬をしていた。そこには淡い恋心が影のように添っていた。そこにセクハラの相談者として現れた一女性に、Sが見せる懇切丁寧な対応に、不審を懐きそれはやがて美濃部さんに嫉妬の感情を燃え上がらせたらしかった。Sが美濃部さんの心変わりに、気づいたとき相談者の女性とのあり得ないような噂の渦中に足を取られていたのである。確かにSは相談者の女性との間である微妙な一線を越える噂が、美濃部さんの神経を刺激したことは間違いなかった。噂にちがいなかったが、それは美濃部さんにはそうではなくなっていたのだ。相談者を相手にする連日の疲労が、美濃部さんから冷静さを失わせていたせいもあったろう。恐らくはSも同じ状況の中にいたのだ。その当時は長引く不況で、会社の中では陰湿はイジメによる退職強要まがいのリストラが横行し、そうした原因での自殺者は年々増加する一方であった。こうした複雑な相談ほど担当者を困憊させるものはなかった。その相談者の女性とのあいだに、どんな複雑な男女間のもつれ合いがあったのか、それは男女の三角関係から、およそ埒外である私という他人には、窺い知り得ないところだった。だがそのことが、神楽坂の一夕、私のなかに生まれたSへの不審の念を解き明かす内情に違いなかった。Sが妻からの離縁を受け入れたのは、およそそのような複雑な背景がなければ考えられない出来事だ。迷い悩んだすえに、Sも新たな人生を踏み出すべきか、私に言えない奥脳のなかにいたのに違いない。
 すでに職場を辞したSが、この時刻に同じその職場にいるということが不可解なことであった。美濃部さんがSへ通じる裏舞台で、なにかのはかりごとを工作しているという想像が私のなかに閃いた。

 私は前に進みでて、二人のあいだに立った。Sが曜子に向かいあうようにソファに座った。そこで私は互いに向かい合う二人の間に置かれたソファに腰を降ろした。
「私は一人の相談者としてここに来た。今日この時間に事務所に来るように言ってくれたのは、美濃部さんだ。私の相談の担当者として、あなたには仕事の責任を最後まで果たして戴きたいのです」
 私は蒼白になっている彼女の顔を直視して一気にそう言った。それから今度は、Sへ向かい直して言った。
「俺はおまえを信頼するしかないのだ。俺は今日ここでおまえに逢えるとは思っていなかった。美濃部さんが取りもってくれた縁なのかもしれないが、今日は俺を解雇した会社の代理人として、美濃部さんの仲介に乗ってもらうわけにはいかないだろうか・・・・。そうしてくれればありがたいのだが、Sよ、どんなものだろうか」
 私は美濃部さんより、むしろSと二人きりになってSから聞きたたいことがあり、むしろそれが先決であるように思われた。それは美濃部さんがSを「セクハラ」で告発したその真相であった。だがそれを今さら私が知ってどうなるというのか。既にSは新たな人生の軌道の上に立っていた。いまさら私の出る幕ではなかった。
 それよりも、私の提案に、二人がどうでてくるのか、それに賭てみようと思い決した。いまこの機会以外にそのときはなかった。正直なところ、私はいがみ合いの緊張や不審の念に、もういい加減に疲れ、うんざりしていたのである。戦いより平安が、憎悪より信頼に、私の心は渇いていた。
 しばらくの室内は重い静寂が支配した。私はなにかに祈るのような気持ちで、じっと二人の間に流れる沈黙の渦中に、微かな期待を懐いて待っていた。
 Sが硬直した左手をゆっくりと開くかのように、その無言の凍結に一筋の流れをつくった。
「安藤、これは俺の独り言として聞いておいて欲しいのだが、俺はおまえのように、平凡な幸福という人生を否定して生きてきたわけではない。だが俺は三十年前、俺の人生の『宿命』のようなものを知ったのだ。だがそんな与太話しはこの際どうでもいい。安藤よ、誤解しないで欲しいのは、会社は俺の合理化計画どおりに事を進めただけなのだ。だが俺がそれを承認したことは事実だ。もうこれ以上このことについて、俺はおまえに弁解したいとは思わない。最後に俺がおまえに言ってやれることは、会社とは和解するのが一番いいということだ。会社へは俺からそう提案しておこう。できるだけの有利な条件を、どうなるか保証はできないが、あの人を食ったようなT役員へ持ちかけてみることにしよう」
 Sは先刻と打って変わった、穏やかな調子で、一語一語を区切るようにゆっくりとそう言い終わると、美濃部さんの顔へ、ふしぎな優しさを湛えた、静かで真摯な眼差しを注いだ。
 美濃部さんは、そのSの目に抱擁され、その落ち着いた強い声に促されるように、素直にこれに応じた。
「私もそれが一番の良策だと思います」
 そう言う美濃部曜子さんの顔に、なにやら明るい、だが妖しく謎めいたかすかな微笑が漏れた。
 私はSの表情を見た。幸福とも不幸ともみえない一種複雑な顔のなかに、真剣な決意が秘められ、それはSのこれからの人生との新なた格闘の始まりを暗示しているようであった。
 私はSの心根を一瞬間想像し、天井を仰いで目をつぶった。Sが言った「宿命」という二文字が、私の胸を横切り消えていった。それはこの人生に新しい「命」を「宿」すことだと私は思いたかった。
 一路平安。私はそう祈るように、胸の奥でつぶやき、ゆっくりと目を開いた。そして、私はすべてを了解し、承諾したのである。
 私と会社の和解の条件はSに任せよう。その条件をまとめ、文書にして美濃部さんは、私の家に郵送してくれることを約し、私はそれを期待することにした。

だが一ヶ月ほど経ても、その文書はなかなか私の元に届くことはなかった。私の解雇期限はもう疾うに過ぎていた。会社のほうは梨の礫で、相変わらす私は総務部預かりのままで、中途半端な日々を過ごしていた。
 会社の中で何かの動きがあるとの情報が、すでに私より先に退職強要に追い込まれやむなく辞職していた者から流れてきた。
 ある夜、私が早めの就寝をしようとしていた時刻に、自宅の電話が鳴りひびいた。妻が出て取り次いだ電話の向こうから、初めて聞く女の声が響いた。その声から察するに相当な年齢と思われる木村と名乗る女性は、いま自分が会社から受けているリストラという理不尽な処遇について、私に訴え語り終えると、
「私がこんな目に遭うのは、あなたはお分かりのはずではないでしょうか」という一言が、私の胸を突いた。私はその電話の向こうから、木村という女性が語る話しの内容に耳を傾け、狐につままれたように戸惑い、それはやがて私を驚愕させることになろうとは予想もしなかった。
 私はその木村という女性が口にした井上という部下がいたことを遠い記憶の暗闇から思い出した。井上は製品開発のチームにいた優秀な私の部下であった。が会社がもくろんだ新製品の開発達成後、しばらくしてアルコール中毒で肝臓をやられたということであっけなく他界したことだけは覚えていた。だがこの井上と会社内で親しい関係にあった木村さんは、井上から聞く特許権の使用料について不思議なことを言った。あの使用料約二億七千万円は、確かに特許権の使用料として計上され九千万円づつ三ヶ月に渡って支出されたことになっているが、それは帳簿上のことだけであるという。木村さんは、そのような話しをあるときに、今は亡き井上に洩らしたことがあったらしい。数日を経ず井上さんは、どうやらその裏を木村さんから取りたい一心で、経理上の事実をさらに詳しく木村さんに問い迫ったようだ。井上と浅からぬ縁があった木村さんは、知る限りのことを打ち明けたという。木村さんはこのことは二人だけの秘密のことにしてほしいと言う井上との約束を守り続けた。だが特許権の所有者に近づいた某男が、井上のその調査行動に協力したらしいかった。このことから、井上は会社の上層部の経理のからくりの全容を知った。この某男がほかならぬSであったのは、奇妙な巡り合わせというほかない。
 Sはある匿名での電話相談を受けたことがあった。その電話での脈略のない匿名者の相談内容から、Sは偶然にも、私の会社で行われているT役員の虚偽の会社経理の不正支出、即ち、あるビル管理会社との賃貸借契約を名目とした虚構の取引があることを知ったのだった。T役員は早くからこうした背後の動きを独特の勘で察知したが、木村さんは、会社のからくりを示す一連の関係帳簿と取締役会の議決録等の証拠書類を、スパイそこのけの方法と道具を使って確保し、それは秘かに某銀行の金庫に保管されていた。
 会社から退職強要まがいの仕打ちをうけ続け、それに傷ついた木村さんは、会社へ過去にあった会社の特許権侵害の事実を話し、会社の機密を洗いざらしぶちまけるところまで、追い込まれていたらしい。私はまったく預かり知らなかったが、私の部下である井上が亡くなった翌年、木村さんは会社の極秘の機密をその筋へ内部告発をしていたのだった。とっくに時効になっているとばかり思っていたことが、今になって私の眼前に地下水のように噴き出してきたのである。
 私は木村さんに会いたいと思ったが、木村さんは長期休暇を取って、海外へ旅行中とのことでそれも叶わなかった。
 こうしたことから、会社の私に対する解雇通告は、一筋縄のものではなかったことを、私は初めて知ったわけだ。このことをSはどこまで了解しているのかと私は想像した。あの相談機関での一夜の様子では、Sが会社の機密に関する事情のすべてを把握しているとは思えなかったが、いま思えばSが私の会社へ退職後に顧問として入り込んだ裏事情がどのようなものであったのかを憶測できるような気がした。会社はというより、T役員はSを抱き込むいがい仕方がなかったのだろう。なんという奇妙な因縁だろうか。
 退職したSがあの相談機関の事務所に、美濃部さんと同席して私を驚かした背景には、木村さんが掴んだT役員の秘密にSが絡んでおり、そうした一連の内情に通じていた美濃部さんは、敢えてSを会社の重要な関係者として、わざわざ私のまえに登場させたのにちがいないと、そのように私は推測をした。
 私は美濃部さんが示唆した「藪の中」の一端を垣間見たような気がした。
 たとえSが私と会社のあいだで、示談和解のために尽力してくれているとしても、会社はいまでは私を野に放った後の危険性を測らざる得なくなっているのだろう。ましては会社の機密を告発した木村さんが私に接触をしたという情報を掴んだとすれば、私をそう簡単に会社から放逐することはできず、会社は私の出方を見守るにちがいなかった。
 予想どおり、Sから数日後に連絡があり、会社との和解の件は、難航しているとの伝言があったが、その実情を尋ねてもSからは、なんの答えもなかった。ただ時間がかかる。それまで辛抱してくれとのSの伝言に、私はSがなにか会社の中で動いているとの感触を得たが、T役員の動向が気にかかった。
 美濃部さんの方はどうかといえば、会社の姿勢に変化があったため、話し合いは膠着状態のまま頓挫し、和解はそう簡単に望めそうもないとのこと。いずれにしても、時間を要することから、現在のあなたの身分保証のため、会社へのなんらかの法的な意志表示をしておく必要があるとのことであった。
 とりあえず不当解雇撤回の内容証明郵便を会社へ送付しておくか、地位確認の仮処分の訴えを提起しなくてはならないだろうとの姿勢を美濃部さんは伝えてきた。
 私は自分の状況認識の甘さを痛いほど知らされた。それよりも精神的および肉体的な忍耐の限界がきているのを感じ、どこまで持つかが心配だったが、私の妻は無言のうちに私の苦境を知り、陰に陽に私の精神的な支援をしてくれたのだ。私はこのときほど、妻の蔭の力を感じたことはない。
 早速、私は美濃部さんの助言に従い、内容証明郵便に、会社へ一週間の期限を付し、その日を過ぎた翌日、美濃部さんの助言を得て弁護士を雇い、裁判所へ私の地位確認の仮処分と会社での不当な扱いによる慰謝料の損害賠償請求の訴訟を起こした。
「安藤さん、残念ですがこれでこの件への私の関与は表面上は終わりましたが、これからもできる限りの協力は惜しみません。どうか頑張ってください」
 と、美濃部さんはもうあまり暖房も効かなくなった相談室で対座している私へ向かって、言葉数こそ少なかったが私を励ましてくれたことはたしかであった。その顔にはある密やかな私へのメッセージが込められているのを感じた。それは相談者の私とSの精神的な関係が、美濃部さんにとっても大事であり、そのことがまた、水面下で私の相談への協力が継続することを、彼女は暗に伝えたかったのであろう。
 私はその暗示に念を押すかのように、美濃部さんへ訊いた。
「Sとあなたとの私への協力関係は、今後どうなるのでしょうか」
 私は最後の賭けにでるつもりで、私の手にあるかどうかも分からない、骰子を藪の中へ放るように振ってみた。
「それは今の段階では、S次第としか申し上げられません・・・・」
 美濃部さんは私から目をはずしてそう答えたが、私はそこに一縷の希望を託したかったのだ。私はSと美濃部さんの関係に立ち入る気はなかったが、やはりそれを知りたい欲求は抑えがたかった。
「私はSと連絡を取りたいのですが、それができないのがつらいのです。あなたはSと連絡はつくのでしょうか」
 私は結果的には、会社と結託して行った特許権侵害の件に触れようとした。その開きかけた私の口をふさぐように、美濃部さんが言った。
「Sは今もあの会社で働いていますが、もう実質的にはあの会社の顧問からは降ろされてしまいました」
「クビにされたのですか?」
 彼女は私をみて可笑しそうに笑った。私が美濃部さんが、声を出して笑った顔を初めて見たような気がした。
「あの会社がSをクビになどできるはずはありませんわ」
「それじゃ、Sはいま何を会社でしているのです?」
「いわばあの会社の腹中の虫、あの会社に巣食うダニみたいなものとなっているわ」
「ダニ?」
「そう。あの会社の生き血を吸うダニよ」
 そう言う美濃部さんには、いままでにはみられない、ある種の幸福感につつまれた、軽い余裕のようなものが感じられた。
と、その美濃部さんに釣られて、私の口から野卑とも思われる冗談がついて出た。
「あなた自身のそれもですね」
「はい。お察しのとおりですわ。いまSは私の処にいるのですから」
 そのときの勝ち誇ったような彼女の妖艶なまでの顔が、私に強い印象を残した。
 それは網にかかった餌を、ゆっくりと咀嚼しようとする女郎蜘蛛がもつ、妖しげな毒を私に感じさせた。同時に私の耳元を擦過した、風に吹きちぎられた、Sからの携帯電話の声が、遠くから聞こえるようだった。「曜子に近づくな」というSの警告の意味するものが、なんであったのかを、私はそのとき悟ったのである。
 だが私は他方で、美濃部さんには言えないような懸念、いやなにか底の知れない不安のようなものが、私のころろの隅を過ぎるのを感じた。美濃部さんは、「腹中」の虫と言ったが、Sがいま入っているのは「虎穴」ではなかろうかというふとした想像であった。
 むかしからSは、難儀であり危険ともいうべき場所へ、自分から飛び込んでいく、暗い烈しい情念を持っている男であった。見るまえに跳ぶのが彼の流儀であった。理屈よりまえに行動が先に動いた。Sを突き動かしていたのは、正義感などという安直な道義ではなかった。この世の底に流れている見えない大河、エロス(生)とタナトス(死)とが一体となる「自然」の胎内へ、身を躍らせその躍動する一点になろうとするある不条理な情熱であると、私には思われた。それがSの「宿命」というものの内実だっだのだろう。海へ身を投げ出すダイバーのように。
 それが例え公的な機関であれ、相談することにまつわる親密な関係が、いかなる危険性をはらんでいるのかを、私は改めて考えてみた。それはひとつ間違えば、相談を介して複雑な人間関係をそこに生み出すことになるだろうことは、これまでの体験で容易に想像ができた。
 相談の当初、美濃部さんが「相談には決して踏み超えてはならない一線がある」と言ったことばが、私の胸によみがえった。
 だがその一線を超えなければ、突っ込んだ相談はできないのも事実である。「セクハラ」のような男女関係の機微に関わる相談はその典型なのだろう。Sと美濃部さんとの事の顛末は知るよしもないが、恐らくそうした関係が輻輳し、増幅されたところに起こったことに違いなかった。
 いまの私の立場はどうなのかと、私は考えてみた。私を解雇した当事者の一人が、私の友人であり、また、その友人と男女関係にある一女性に私は相談に乗ってもらっていることになる。これは「一線を踏み超えた」どころではなかった。私の相談の個人情報は、こうした混線した人間関係の中でどうなってしまうのかとの不安があった。だがいまとなっては慎重な姿勢で、こうした関係を信頼するしていくしかなかったのだ。
 まず会社の特許権侵害という不法行為は、会社の責任問題であるが、私はその事実を木村さんを通じて知った。会社の指示命令とはいえ、新製品を開発した私の立場は、木村さんが当局に会社のあらいざらいを、告発したとなると問題となるはずであった。が木村さんがどこまで口外しているかは分からない。木村さんが私の部下の井上との親しい関係からその事実を、井上に話したとすると、私と井上との関係が問題とならざる得ないのだ。例え井上の行動を私が関知していなくても、当局は私が会社の不正を知りながら、あのプロジェクトを推進していた責任者として、会社の不法行為の責任を私まで追求して来るかも知れない。また逆に、事実そうであったが、私が会社の不法行為を知らないままに、私はT部長の言葉を信じて製品開発をしたことが証明されれば、私の責任は免れるかもしれない。反対に、もし会社の私への欺罔の事実を知っていながら、開発を推進したとなれば私と会社は一蓮托生であろう。だが知ろうとしても知り得ない状況のなかで、私が仕事をさせられたことが明白ならば、不法行為を隠蔽して仕事をさせたことの科を、会社へ問うこともできるだろうが、そのことを私はどう証明すればいいのか・・・・。たとえその事実を、偶然の結果知っただけの私を、その事実故に解雇しようとしているなら、私を解雇する会社の正当性を、今度は会社が証明しなくてはならなくなる。それが不可能ならば、私への解雇の合理的な根拠を失い、会社は解雇権の乱用をしたことになるだろう。ともあれ会社はこうした仮定と事実の錯綜を、ひとつひとつ踏み固めて行かなければならないのだ。私と会社の雇用関係はその扱い方ひとつでも誤れば、大事に至ることにもなりかねないのだ。こうしたことから、私の解雇については相当に慎重にならざる得ない窮状に、会社が置かれているとの、おおよその推測がついた。
 他方、もし公の場で、私への責任追及という危険を覚悟で、私が会社の不正を告発すれば、その行為に協力させ、関与させた私の一人の部下の死と、その部下と昵懇にあった女性へ会社の陰湿な退職強要に対する、せめての罪滅ぼしということになるだろう。
 私は死んだ木村が私をどう見ていたかと想像した。それは私のT役員への感情と似ていた。忠誠と怨恨である。それは上司と部下という関係から来ていたが、それらを包括するものは会社という大きな存在であろう。私はどこからくるのかも分からない、息苦しさを感じた。なにか巨大な罠の中に捕らえれているという幻影が私を圧迫した。私はそうした関係から自由になりたいと思わずにはいられなかった。
 だが問題はそれから先にあった。それはなにからも束縛されない個人の茫漠とした「自由」のありようということである。しかし、それは暗い森に迷い込んだ者が出口を探すような困難を予想せざるえなかった。一匹の魚にとって広大なる海と彼の棲む一族が、苦痛以外のなにものでもないなら、もう魚の居場所はこの「世界」にはないのである。

 地裁での第一審の日程が決まったとの弁護士からの連絡があった。
 その翌日、美濃部さんから突然の電話があり、その日の夜間、事務所に来るようにとのことであった。
 原則的には、私が公の場に訴えを提起した以後は、相談の延長である会社との話し合いは、相談機関の性格から出来ないこととなっていた。自主的は解決が基本で、行政はその手助けをするスタンスをとっていたからだ。美濃部さん自身がそのことを、既に私に述べていたことである。普通のお役人なら、それ以上の相談への関与はしないだろうと、私はそう思った。役人の給与は、公で定められた仕事への対価であり、その分を超えることは損になっても得にはならない。私は改めて美濃部さんの剛胆な勇気と、ねばり強い献身に感謝する思いを禁じ得なかった。
 事務所の扉を開けると、相談室から美濃部さんが顔を出した。なんだか以前より、一回り大きく、そしてふくよかな顔になったような気がした。
 相談室のソファには、後二人の人間がいた。Sとそれからその隣にいたのは、驚いたことにはあの木村という女性であった。私はどこかでみた女性という気がしたのは、同じ会社にいたからには、過去にどこかで会っていたからだろう。もしかしたら亡くなった井上が秘かに木村さんを私に紹介していた可能性もあったのかと想像した。
 私はどうしたことかと、Sの顔をみつめた。Sはむかしからの真面目な顔を崩さなかったが、その顔からは若やいだ微笑が洩れるのを、私は見てとった。年齢より驚くほど若くなったSがそこにいたのだ。その華やいだ幸福そうな顔の表情と姿からは、とても美濃部さんが言った会社の「ダニ」には見えなかった。むしろ若い女性の血を吸っているからかと、もうそうした年齢に似合わない嫉妬の感情が生々しく湧き起こる、落ち着きのない自分の気分を苦々しく思わずにはいられなかった。
 むっとした私の無言の問いかけに答えるかのように、Sが口火を切った。
 事務室の窓から、駅まえのビルの明るい窓が幾層も列をなして望めた。きっとそれだけサービスであるかどうか分かりはしないが、多くの残業をしている多数の会社員がそこで働いているということである。彼らの人生はいまそのビルの中にあった。
 Sは単刀直入に切り出した。
「今夜、こうして集まったのは、もうこれ以上、時間を費やすことは誰にとっても得策ではないと判断したからです。木村さんにお出でいただいたのは、私の独断です。木村さんは、安藤と同じような目に遭った者のうちの一人です。私たちの協力をしてくれるように、木村さんを口説いたのは私です。最初、木村さんは自分だけで、会社と事に当たる決心のようでしたが、こうしたことは団結してこそ力が集中できるのです。いろいろと曜子と図ったうえに、どう行動すればいいかと相談をしました。裁判はやってみなければ、勝てるかどうか分かりません。あの会社だってばかではないのです。なにたいしたことはないが、顧問弁護士もいるのです。組合に顔が利く情報通の人間がいることも確かです。安藤がどこの労働組合に接触し、なにを相談したかもすぐにキャッチしたくらいです。あまり会社を甘くみないほうがいいでしょう。私はあの会社の労務の顧問もしていた者です。会社が私のクビを斬れないのは、それ相応な理由があるからで、その辺の事情はお察しください。どうか私を信用してほしいということです。そうしていただかないと、私は二重スパイのようなものになってしまうでしょう。ここにいる曜子と私を信頼していただくことが、これからの会社との交渉には絶対条件なのです」
 Sは美濃部さんの顔をみいみい、訥々とこのように語った。
 私は昔のSが甦ったのかと一驚した。あの三十年ほどまえの学生服を着ていたSをである。額に青筋をうかべ、すこし顎を突き出すように演説をぶっていたSを、私はいまのSに重ねて見ようとした。
しかし積もり積もった時間が、潮のような壁となりその波の力は、私を現在という逃れようのない場所に連れ戻した。
 私はそのSの話しが一段落すると、Sの隣にいた木村さんが、私をじっと窺っている視線に気がついた。ハッとしたように、私は木村さんへ、頭を下げた。
「木村さんですね。あなたには私の部下を通じてお世話になりました。こんなところで、こんな挨拶をすることになろうなどとは、思いもしませんでしたが。あのことであなたには、大変なご迷惑をかけてしまった。どうかご勘弁をいただきたい。もっと早くあなたにお会いしたかったのですが・・・」
 それ以上、私はことばが出て来なかった。ただ私は腰を低くして、床に頭を垂れるいがいなかったのだ。
「過去のことはもういいのです。私は井上に頼まれた情報をお知らせしただけです。ただそれがこんなことになろうなどと、思いもよりませんでした。あなたのことは井上から時折、伺って承知しておりました。ですからあなたに不利になる陳述はしていないと信じてくださって結構です」
 私は変死のように亡くなった部下の井上の顔と姿を思い出した。彼はチームの中でも優秀な人材だった。またそれだけに、プライドも高い一技術屋であった。仕事以外では私にうち解けてこなかったのは、木村さんからの情報が私という人間に距離を置く心境にさせていたのだと、いまになって納得できた。
 もう四十は過ぎていると思われる木村という女性は、会ってみれば寛容にみえた。それだけ私は余計に自分の過去の一事が悔やまれてならなかった。
 それにしても、Sはどうして私が会おうとしても会えなかった木村さんを、私たちの仲間に引き込んだのだろう。
「木村さんは、Sの誘いでこの相談所に見えられたのです」
 美濃部さんが、私の疑問に応えるように、そう言った。
 Sと美濃部さんの二人の連携は、みごとなほどだった。だが問題はこの先にあった。木村さんも私も、会社から解雇通告をうけていた。だが互いに立場も、処遇も同じではなかった。まして既に木村さんは、会社の機密事項を公の場に告発までしていた。もし木村さんが、井上の名前を公の席で陳述しているとするなら、私は容易ならざる微妙な立場に立つことも十二分に想定しておかなくてはならないのだ。
 こうした微妙なズレをふくんだ私と木村さんを、どう「団結」させ、Sと美濃部さんは会社と渡り合おうというのだろうか。
 まかり間違えば、二枚のカードは会社を利すればこそすれ、同時に私と木村さんは谷底に転落する憂き目をみないとも限らない。二兎を追えば、一兎も得ることはないという諺どおりにである。
 その夜は遅くまで我々四人は鳩首協議をした。木村さんも私も、もう会社に未練はなかった。裁判には時間とコストがいる。だとすれば、会社とどんな交渉と取引をして、できるだけこちらに有利な示談へ持ち込めるかが焦点になった。
後十日に私の一審が迫っていた日であった。私は突然に役員Tの一室に呼び出された。あれ以来逢ってはいなかった役員が、わざわざ私を役員室に呼び出す意図を、私は推測したが逢ってTが、なにをいうのかそれを聞くより仕方がなかった。
 マホガニーの机に座り、キューバの極上の葉巻モンテクリストを吹かしながら、Tが私を見てニヤリと嗤った。それを隠そうともしないTに底知れない余裕をみるようだった。
「君がまだ私の会社にいるとはね」と開口一番、私への皮肉を口にした。不思議なことに役員にこう言われても、私が疵つくことはなかった。逆に解放された人間のように、私はある寛いだ余裕のようなものが生まれるのが不思議だった。
 私は、T役員を偶然立ち飲みのあの安酒場で見たときから、いやそれ以前からのT役員の傍若無人で奔放な「悪人」ぶりを、どこか憎めなく思っていたのかも知れない。私は私にはない型破りの剛胆なタイプの人間に、どこか憧れに近い親近感を懐くところがあったのだ。
「もうやめたほうがいいよ」とTは、灰皿へ吸いかけの葉巻を無造作に捨てるとそう言った。Tが捨てた葉巻の煙が、一筋天井へのぼっていくのがみえた。葉巻の火は消えずに、灰皿の底に赤い焔の点を滲ませつづけていた。
 私は「辞める」とも「止める」とも、判断がつかずに、役員の顔をただ眺めていた。
「安藤君、君の提訴を取り下げてしまい給えよ。どうだね、そうしないかね」と役員は強引な口調で言い直した。
「そうしたら、君を元のポストに戻したいが、もうあのポストはうちの会社にはなくなってしまったのだ。だから私が君をある大学へ就職できるようにしてやろう。君はドクター資格を持っているんだろう」
 一瞬、私は空いた口が塞がらなかった。それこそ私が秘かに希望している引退のコースであった。多分、私の希望は人事部長からでも聞いていたのにちがいなかった。人事部長からは、今の大学は先生が余っている状況を聞いて、私もまた人を介して複数の大学を当たったが困難であることを知っていた。
「それを信じていいのですかね」
「もちろんだとも」
 その時の役員の目がジロリと私を睨んようだった。
 私は考える時間を貰いたいと、役員室から出てきたが、半信半疑だった。役員は考える時間は一週間と限ってきた。
会社を出ると夕暮れの空に月がみえた。いつかあの小便臭い路地の焼鳥屋にT役員を見て、そそくさと暖簾を分けて見たときと同じような赤い月であった。あの時は鼠色だったが、今夜の空は深い海のような藍色をしていた。その底知れない海の色が私を呑み込むように思われた。

 同じ頃、木村さんは人事課長から呼び出されていた。やはり特許権の無断使用を告発した訴訟の取り下げを条件とした、現在の給与格付けの見直し、それに賞与の特別条件の提起を含めての退職の優遇措置である。多分役員と人事部長の意を汲んでの、人事課長の話にちがいなかった。
 Sの話しでは、会社における男性社員に比較しての女性社員の賃金は、平均で三十パーセントほぼの格差があるとのことだった。この日本では当たり前のように扱われている、女性の男性に比べての賃金額は、相対的に低く、研修をはじめ、女性の昇進・昇格は労働基準法の男女同一労働同一賃金の原則からすると、あまりにも低劣であった。そこへきて、会社は正規社員を鉛筆の芯のように残しながら、鉛筆のまわりは非正規社員のパートや派遣や契約社員で賄おうとしているのだ。現に再就職支援をアウトソーシングと称し、会社外の組織へ請け負わせる方法をとりはじめていた。
 いまや、会社そのものがグローバルな市場経済化の波に揉まれなくてはならない状況にあった。労働の形態同様に、会社の経営形態が多様化し、会計原則をはじめ会社法が変化してきていると、Sは大学の講義口調で一気にまくしたてた。
 しかし、それらの一般論は馬耳東風に耳元を擦過するだけで、私たち紛争当事者にとっては、土砂降りの雨の中で、天気予報を聞かされる案配にすぎないのであった。いまは雨を凌ぐ傘をどう手に入れるか、それが緊急の問題であった。Sは私たちの白けた空気を見て取ると、すぐに当面の話題に戻った。
 早速、会社の二人への対応をいかに受けるかの協議が、Sと美濃部さんを前にして行われた。私の場合は就職先の大学の、私への受け入れ文書の提示。木村さんの場合も退職条件の会社確認書の確保が必要とされた。それも期限を切って明示することが、こちら側の最低条件とされた。
 私は役員が提示した大学就職は、魅力的だったが、過去の特許使用料の例を思い返すと、平気で口約束を破る役員を、やはり信用する気にはなれなかった。
 Sは木村さんへは、過去の取締役会議の議事録と経理帳簿のコピーを証拠として、会社と取引をするしかないことを示唆した。Sはすでに木村さんが某銀行の地下室の金庫に一連の証拠物件を保管していることを知っていた。
 この件は木村さん自身も木村さんから話された私もSへ話してはいなかったのだ。だとしたらSが掴んだ情報の経路は、既に他界した井上以外には考えられなかったが、Sがいつどうやって死んだ井上からその情報を入手したのだろうか。

 結局のところ、私の提起した確認文書は、会社から提出されることはなかった。
 私の第一回の審理は約十分で終了した。
 その三日後に、木村さんの特許権侵害訴訟の第一回公判が始まり、証拠物件の提示が為された。
 それは会社にとって相応なる打撃となったようだった。ちょうどインターネット上での著作権問題が論議され、某会社に対する特許権者の損害賠償請求訴訟が耳目をにぎわしている最中であった。
 Sはそうした状況を横目で見て取っていた。某新聞社にうまくネタを提供したらしく、私たち二人の裁判沙汰は大手の新聞に幅広く報道された。このために、会社の名誉は毀損されざるえなかった。 私たち二人のユニオン加入の情報は、Sによって完璧に秘密裏にされて、会社の知るところではなかった。だがSはその機が熟したとばかり、私たち二人を各々、別々の個人加盟のユニオンの組合員として、会社に対し次々に団体交渉の申し入れを会社に行った。会社は団体交渉には応じたが、のらりくらりと時間を稼ごうとするだけにみえた。
 Sの活動で都内全域のユニオンが、会社の二人への不当解雇と退職強要の事実を広く報じた。これは独立色の強い個人加盟の組合では、異例の出来事であった。これらの活動に刺激され、一般新聞のさらにまた一社が、特許権侵害の事件の全容と会社の解雇権法理の情勢を某大学教授の法的な解説を付した記事として、正面から取り上げた。遂にここに来て、会社の上層部はこの状況に慌てふためきだしたのである。
 二人が加入した労組の再三の団体交渉の風向きがすこしづつ変わっていくようだった。会社は一歩づつ後退をはじめたのだ。
 この状況を睨んでいたように、Sは二つの労組を走り回り、和解のテーブルを水面下で模索しはじめていた。

 Sはまた、他方でT役員と都心にある某ホテルの最上階にあるラウンジ風のパブで密談を交わしていた。
 ライトアップされた六本木ヒルズが、夜の闇を焦がすように輝いていた。
 二人のテーブルの上には、ドライマティーニの薄い緑色した液体が、まるで実験室の容器を満たすように、深沈としたひかりを湛えて置かれていた。冷えたグラスは、わずかに汗が流れるように濡れている。
 TはSの顔をしばらく見ていたが、そのTの頬に苦々しい微笑が走った。
「おまえと俺はどうやら悪縁という奴で、いままでつながってきたようだな」
「どうもそうらしい。お互いに年をとっただけかね」
 TはSのそのことばを無視するように、バーテンに声をかけた。
「ドライを二杯、おねがいだ」
 そして夜景を眺める目線で、遠くを見ながら言った。
「こういう酒場のバーテンダーにはね。ドライマティーニを一杯作らせてみれば、その腕前はわかるものさ」
 T役員が深いソファに沈めていた短躯をやおら起こした。その動きに連れ、太い指に燻らせいた愛用の葉巻の煙が左右に踊るように揺れた。
 Tのこころが奈辺にあるのか知られなかった。いやこころなどという余計なものは、疾うに捨ててしまったような横顔だけが、Sに注がれている気配である。それは剣道の競技相手の竹刀の尖端を、軽く嬲って対面する敵を小馬鹿にするような姿勢にみえた。がそれはまた、隙を作ってやりながら、それに相手がどう出てくるかをみるフェイントのようでもあった。
 Sはグラスを取ると、軽く一口ふくんだ。ミントのツンとした苦みが、ジンにうまく溶け、まるで舌の先を女の舌で吸われたような甘い陶酔がひろがった。
「いい味だよ、このマティーニ」
「そうかね」とTは、上体をさらに持ち上げ顎を静かに引いた。その緩慢ともいえる動作は、まるで冬眠していた熊が、躯を起こしたような気怠さにみえた。が、相手の手の内を読んだ剣の使い手がそれではと、右脚を前に一歩にじりだす構えともとれた。
「きみはもう知っているかも知れないが、俺は今年で六十六になる。家内はもうとっくにいない天涯孤独な身の上でね」
 Tは中段から下段の構えに戦法を瞬時に変えたようだった。上半身に隙があったが、これは敵を呼び込む居合いの動作に似て、真に受けてこちらも隙をみせた瞬間、どこへ必殺の剣尖が飛んでくるか知れたものではない。
「二人の娘さんがいたんじゃないですか」
 ふ、ふ、ふと、寂しそうな奇妙な笑い声が洩れたようだった。それはTの笑い声にちがいなかったが、どこか天井の豪壮なシャンデリアの蔭に潜んでいた蛾が、羽根をひろげその鱗粉が辺りに立ちこめるような不気味な気配が中空を充たした。
「さすが情報通のきみだけはあるね。だが嫁にいった娘などは、つまらないものだな。家内がいなくなったら家に寄りつきもしない。子供の頃はあれだけ可愛がってやったのにだ」
 Sのなかにその科白は、どこかで聞いたように響き谺した。
「安藤さんのことならば、あなたは欺しもし裏切りもしたのではないですか」Sは上段に構えて、一歩Tへ前進した。
「彼のような技術屋なら、わしがやったことぐらい見抜けぬようではだめだ。井上を死なせたのはそれなら誰だね。あの若造は優秀な技術屋だった。だが自分の女を姑息にも利用した。そしてあの木村という女は、会社を売ったのだよ。その女をまたおまえはどうしたいというのかな」
 Tのどこにも隙がなかった。
「おまえも同じ穴の狢じゃないのかね。助けられその恩を仇で返す。おまえたちはいまの全世界的な弱肉強食の凄まじい競争の社会がよく分かっていないようだな。わしは安藤のように会社を自分の住みかと尽くす単純な人間ではないよ。偶々アメリカに本社があるせいで、株主に頭が上がらぬ会社を、独立の人格をもつ合理的な会社として株主から自立させようと、秘かに画策してきた日本人なんだ。この国際的な競争のなかで、会社の経営の難しさは、労使関係なんかの比ではないのだよ」
 SはT役員が始めようとした長口舌を途切るように、Tのテーブルの上に、会社の不正経理でのTの背任罪と横領罪を示す、証拠の一端を黙って置いた。そこでTの野太い声はとまったが、表情に微塵の変化もみられなかった。
「ほう。それをまたどこで手に入れたんだね。わしはね、これまでどんな修羅場もくぐってきた男だ。今度だって造作もないことさ。だがもうこういう人生にすこし飽きがしてきたんだよ」
 頑健な岩に張られていた樹の根の一端がぷつりと切れ、暗い地の奥から深い詠嘆が洩れたようだった。
 刀はゆるりと、双方の鞘に納められた。この瞬間、Tが相打を覚悟で、その場に臨んでくるとのSの読みは、葉巻の煙のようにどこかへ消えていった。
 そしてほぼ同時期に、和解は成立した。私も木村さんも、円満とは言えないまでも、ほぼ満足のできる和解条件で合意した。
 二週間後、私はユニオンの人と一緒に、三通の和解書に署名捺印をした。一通は私、もう二通は会社とユニオン用のものであった。
 SはT役員を横領と背任の罪で訴えたが、既にそれを予知していたかのように、Tは愛人同伴で国外へ逃亡をしていた。
 私はTがどこかの異国の地で、女に見放されて老いたる一匹の狼のように生き、夜の酒場の隅で老残の身をソファに沈めた、うらぶれた孤独な老人を想像した。その想像は妙な力で私のこころを奮い起こさせた。
 そして、会社の幹部役員は全員辞職願いを提出した。
 これらの一連の動きを見届けるかのように、Sは会社を退職したらしかった。Sが退職後をどう過ごしていくのか、それはまだSに聞いてはいない。聞いたところでSのことだ。どうせまたこの社会のどこかに巣くい「ダニ」のように、しぶとく狡猾に生きていくよりほかにないだろう。だが私はSがこれから歩く人生の道が坦々なものではなく茨の道であろうとの想像を払拭できなかった。
 だが私は今度の一件で、Sの青春時代の一齣をみるような錯覚を覚えたのだ。それが私にある懐かしい喜びと共に人生の苦い味合いとの二つを一緒に教えてくれたようだった。
 美濃部さんはどうやらSの子を妊ったらしかった。これには私も少々驚かされた。Sの好々爺ぶりが瞼にうかばないこともなかったが、そうした平凡で幸福そうな姿を、Sから想像することは難しかった。
 風の便りによると、Tは私の想像とは違い、ヨーロッパを一周すると、愛人と別れてベトナムへ渡ったらしい。ベトナムでなにかの事業を起こそうと画策しても別段に不思議なことではなかった。きっと倒れるまで何かに挑戦してないと不安な、そういう精力家の魂を持っているのだろう。
 そのTの後を追うように、Sは中国へ単身渡ったと、シングル・マザーとなった美濃部さんから伝え聞いた。
 私はと言えば、家人へ頭があがらなくなったということぐらいだが、今度の一件である勇気を得たように思った。
「これであなたも孝史と同じように、新しい道へ出発ということね」
 家人の口から出た、その単純明快なことばが、ある重みをもって私の胸を太い棒のように通りすぎた。
 その妻の真剣味をおびた横顔が、赤ん坊を抱く曜子さんを見つめるSの顔を私にふと思い出させた。
 やがて謎のような微笑みを浮かべた家人は、庭のほうへ目を移すと、その視線を遠くへ放った。
 桃色の百日紅(さるすべり)の花が咲く木立の、その遙かむこうの西の空に、あかね雲が二層、もう秋の気配をおびた午後遅い空に、うっすらとたなびき広がっていた。






海へ

                                回首九原月在天 (漱石) 

 刃先を腹にあてた。あとは一気に両手に全身の力をのせるだけだ。意識を失ったときは、椅子は前に倒れ、梁からの縄が首を絞める。腹を斬るのに失敗しても、縊死するにはそう時間はかからない。そう按配した。
 時計をみた。丁度十二時丁度。あの置き手紙をみてから、ちょうど三十分が経った。妻にしては乱雑な筆跡だった。動顛し、それから死のうと思った。所蔵の小刀を出し、関兼元の二尺四寸の日本刀も手元に置いた。長い兼元は水月から心臓をからだを前倒しで射抜くか、首の頸動脈を斬るかに使えそうだ。これは死にきれない場合の介錯を自分でするための用心だ。梁に縄をかけ首が締まる輪っかを作るのに手間取った。それで三十分がかかった。時間が経てば経つほど、気力は低下していくことは分かっていた。迷えば迷うほどその時は遠退いていく。一気にやってしまわなければならない。失敗はできない。死ぬまでの苦しみは言語に絶するだろう。呻き声でも洩れ、近所の連中が騒ぎ出さないともかぎらない。舌は噛みきれるだろうか。家中の鍵は内からかけたが警察がくれば戸を突き破ってでも入ってくるにちがいない。虫の息でも血塗れになって家の外に担ぎ出されたら、あっという間に、ニュースはこの小さな町に広がる。野次馬が家のまわり、狭い路地にどっと押し寄せるにちがいない。
「なにがあったの?」
「腹を斬って自殺をしたらしいよ」
「死んだのか?」
「さっき、救急車が運んでいったようだな」
「あんな血を流していたんじゃ、だめだろう」
「奥さんはどうしたんだい?」
「家を出て居なかったらしい」
「家出かい?」
「夫婦仲が悪かったのかい?」
「そうでもなかったらしかったけど・・・」
「家の中のことは他人にはわかることではないよ」
「奥さんは働き者で、明るくていい人なのにね」
「人間てわかんないものだな」
「いや、男と女というものがだ」
「いずれにしても正気じゃないよ」
 そんな近所の会話が、どこからか聞こえ耳の中で鳴り響いた。
 妻はもうこの町で生きていくことはできないだろう。そんな想念が男のあたまに走った。この下町で育った妻が逃げるようにどこかに身を隠して生きなくてはいけない。部屋中に敷いた蒲団がだいぶ流れた血を吸ったが、古い家のことだ。流れた血は床下に流れ階下に滴っただろう。そんな家にどうして妻が戻ることなど出来るだろう。もうこの家は俺の血で呪われた家になってしまうのだ。まあ、俺もいけなかった。退職したとはいえ、もう三年ほどは少ない給料とはいえ、暮らしていけたんだ。いや、金のもんだいじゃない。俺が一日中家にいるようになったからだ。俺の昼飯を作らなければならないわ。洗濯も掃除も気をつかってやらなければならない。俺が家にいなければ、自由に気儘にやってきたことが、ぜんぶ勝手が利かなくなったからだ。夫とはいえ一日中一緒にいる生活に、ほとほと疲れてしまったにちがいない。それを想像すればこそ、朝から昼の食事の時間以外、俺は自分の部屋から出ないで、俺の姿はなるべく見せないように暮らしてきたつもりだった。まるで自分用の坐敷牢にいるような半年を暮らしてきたんじゃないか。そればかりじゃない。毎日のトイレ掃除、二日に一度の風呂掃除、偶には、新聞の料理のレシピの切り抜きを見ながら、馴れない料理を作ってもやったのだ。
「まあ、おいしい!」なんて、いっしょに食べたことだってあった。あの束の間の夫婦二人の、まるで新婚生活のような幸福はどこへ行ってしまたんだ。俺だって疲れたんだ。俺の坐敷牢生活にな。まわりはこの不況なんだ。なのにこの俺は自分で三十余年勤めてきた職業生活から引退をすることにした。それは妻に幾度も問うて、そうすることを承諾してくれた筈だった。だがやはり、俺の退職後の一室に閉じこもった生活が、妻には納得がいかなかったのだ。これが俺の最後に撰んだ最上の生活だということが、妻には腑に落ちなかったにちがいない。夫は元気で留守がいいとは冗談事ではない。ほんとうのことだった。年金収入はわずかだというのに、やれ保険料だ税金だと、出るものはやけに多いときた。妻はそんなわずかな収入のなかでも、夕食のおかずだって以前の水準を維持して、同じように整えてくれていた。どうやったら、そんなことができるのか、俺はふしぎだったが、それをあいつに聞いてみることができなかった。そんなみすぼらしいことを、俺はわざわざ聞くことなんかいやだったんだ。
 それに、むかしはそうでもなかった読書がなにやら、俺には億劫になってきた。読みたい本は自由に読める、書きたいことなら自由に書く時間はふんだんにあるのだ。だが目はしょぼしょぼとし、理解力ときたらボケ老人に毛が生えた程度にまで落ちているではないか。それで、あんなにも楽しいと想像していた、隠遁生活がどうもかったるいものに感じられはじめたのだ。それで昼から妻を連れて、歌舞伎や映画を観たり、月に一度は泊まりがけで温泉へ二人で行った。秘湯巡りのクーポン券は、訪れるたんびに押してもらう判子が増えた。温泉宿ですべすべの妻のからだを抱く歓びは、また、自分の家での比ではなかった。が、いったいこんな初老の、「新婚生活」がいつまで続くものかという不安がふときざすことがないではなかったんだ。
 昼時にトントントンと階下へ降りていった。
「ああ、疲れた!」
 俺は正直にそう一言いったんだ。いつもどおりのテレビ番組を観て、食後の片づけを妻ははじめた。その動作がおそろしく早いので、俺はちょっと吃驚した。妻のその無言の挙措が、俺の一言にたいする反応だったのだ。俺の疲れた神経はそのわずかな片づけの音さえまるで火事場のような騒擾に聞こえる。
「なん、なんだ!」
 俺は妻の背後から、そう、思わず声を荒げた。それからなんだか忘れたが二言、三言、言い争った。そうしながらも妻は窓を閉め、近所に二人の声が漏れないようにする細かい気をつかっているのが、なんだか滑稽にも哀れにも思われた。諍いのなかみはべつだんなんてこともないもので、俺の記憶に残ってもいない。
 俺はふたたび座敷牢へいつものように戻った。夕方、ひさしぶりに町へでた。いつもお客でいっぱいの飲み屋へ入ったが、どうしたことか人っ子ひとりいない。
「めずらしいね」
 主人はいつものように、ニコニコして俺に応対してくれた。このあいだまで、客で満員だった小体な飲み屋がどうしてしまったのかと、俺はふしぎでならなかった。昨年開店したばかりの頃は、お客でいっぱいだった。客商売はむずかしいものだ。客の嗜好はくるくる変わり、まるで海の回遊魚のように、どこへいくか分かったものじゃないのだ。やはり不況のせいでもあるのか。
 俺は久方ぶりに世間の他人様と自由な会話を楽しみ、いくらいても誰もこないので、俺は都々逸やら新内などを鼻歌まじりに歌った。
 実に久方ぶりに美味い酒だった。近くに住む友人に携帯の電話をした。都合が悪いとの返事だ。先方も工事現場で事故って、それから小さな会社の経営もうまくいかず、借金に追われていたから、偶には酒でも奢ってやろうかと思ったのだ。それより誰か親しい者と馬鹿話しがしたかったこともある。だがまあ、それなりに気軽で楽しくもあった一夕だったんだ。
 それから遅くなって家に帰った。よく覚えてないが、そのまま風呂に入らずに、妻の用意していた夕飯も食べずに、そのまま寝た。ちょっとした抗議の気持ちだった。それが妻の怒りに火を点けてしまったらしい。
 その夜はぐっっすりと、変な夢も見ずに朝まで寝た。昨夜のいい気分は朝まだつづいた。だからいつものように、朝食も普通に取った。妻はいつもの通りの午前の仕事を始めた。妻と話しをする気にはなれなかった。妻も俺とは話しをする雰囲気ではなかったのだ。やはりしこりは残っていた。俺はまたいつもの部屋にいた。階下のシーンとした静まりに、ふとなにを思ったのか、「ご飯」の合図代わりの部屋の電話も鳴らない時刻に、俺は階下へ降りていったんだ。
 誰もいない。電気もついていないので薄暗い。まあ、そんなことはよくあることなんだが、どこかへでも出かけたのだろうと、下を見るとテーブルの上に小さな紙に、ぎざぎざと釘でひっかいたような字がならんでいた。紙での伝言はよくあるので、そのときもそうだと思ったが、書かれた字がいつもとちがう。俺はなにが書いてあるのかと目でなぞった。
「家を数日空けます ○○○」
 その素っ気ない、無愛想な字のならびを見た一瞬、俺は全身から血がすっと抜けたような気がした。
 急転直下、俺は断崖を真っ逆さまに落ちていくような自分を感じた。
「なんだ!」
 はじめはよく分からなかった。そのうち、じわじわと船縁に蝟集するゾウリムシが人の気配でいっせいにいなくなるような、妙な喪失感がぽっかりと空いた胸に広がりだした。吸っていた空気がなくなり、真空に胸が抉られるような、そんな殺伐たる気持ちになった。悲傷というよりもっと骨を斬られるような痛苦だ。水をぬかれた金魚鉢の底の金魚の苦しみ。ほっておいても白い腹を仰向けに死ぬのに、自分から死のうなんてヤクザなことを、俺はなぜ決行しようとしたのか。それはただで死ぬよりも、もっとつらい苦痛を自分に与えたかった。自己処罰でもあった。また妻にその死に様をみせてやりたい気もした。切腹に値する「愛」があることを、憾みがましくも俺は伝えようとしたのだ。「愛」というより「憎しみ」と弁別がつかない、混沌とした感情の塊だ。憤死。自棄のやんぱちの果ての憤死だ。妻の記した「数日」は俺にとっては「永遠」に等しく思われたのだから・・・・。
 家の中に直ぐに入れないように、俺は内側からぜんぶに鍵をかけた。自分の部屋に入ると、俺は遺書を便せんの一枚目に墨で書いた。
 ○○○へ
  いろいろ世話になった
ありがとう
葬式、戒名は一切無用
 それから、俺はパソコンのメールのアドレスと送受信したメールのすべてを消去した。息子に送信した新年のメールがエラーになった一通だけを残して、長女と次女へ簡単な別れのメールを打った。フランスの次女には「いかなることがあろうと帰ってくるな」というなんの説明もない裸のメールを打った。故国へわざわざ帰って泣かれたくなかった。俺の暮らせなかったフランスで、楽しい人生を送れば、それでいいのだ。
 時計をみた一時を過ぎていた。死のうとしてから既に一時間が経ってしまった。それから、おれは腹に刃を当てたまま、ただひと思いに力を入れようとした。両手は脂汗がでて、虚しいこころを奮い立たせても萎えたように力が湧かない。途中から布きれを柄にぐるぐる巻きにして、柄を握りやすいようにした。なにも考えるな。ただ遮二無二、両手両腕、全身の力を柄を握る手に集中すればいいのだ。下腹に手をあてた。なんとやわらかな肉塊だろうか。激痛は最初の衝撃だけだ。あとは中へと刃先を押し込むだけでいいはずだ。この薄い皮一枚を突き破れば、鉄の刃先は一寸、そしてもう一寸。内臓を斬り進めばいい。真っ赤な血潮が俺の両眼に憤怒の炎を注ぎ立てるだろう。死へ、死へ、まっしぐらに進むことだ。なにをしている! なにを考えているのだ! そうだ、力だけだ。この尖った刃を豆腐のように柔らかな皮膚に突き立てれば、もうそれでいい。馬鹿な考えは捨てることだ。生きるか死ぬかと迷うときは死ぬる方を取るべし。ああ、だがどうしたことか。力が依然として湧いてこない。誰かが俺の力を殺いではばんででもいるような気もした。俺はもう一度柄に巻いた布をしっかりと巻き直した・・・。
 だが、妻なる女が自分が育った家に帰れず、世間に顔向けできなくなる。それだけはいけないような気がした。俺はこの家では死んではいけないと、そう考えだした。二人で設計士をまじえて作ったこの家。敷地十坪にも満たない三階建ての小さな家だが、一年半もかけてやっとできたこの家だった。妻は毎日、冬の冷たい雨の日もこの家の大工にお茶や御菓子をだす世話をしていた。その家を失うようなことだけはさせてはならない。俺はこの家の中で死ぬことは避けねばならないのだ。この家だけは一滴の血をもっても汚すことはできない。終の棲家になる場所で俺が死ぬだけのことから、妻からこの家を奪うことはできないのだ。そんなことを俺はどうしてか、考えたのだ。
 ふたたび、時計をみた。もう二時を過ぎている! 
 だめだ。やはり腹を斬って死ぬことはできないのだ。
 そうだ。海を見てなら死ねそうだと俺は思いついた。青い海原。寄せる白波。そこへなら身を踊らせることはできそうな気がした。それなら俺はこれまでも考えてきたことだ。血だらけになって死ぬより、海の匂いをかいで死のう。三十年俺が親しんできた海が、俺の不様な人生を洗い流し、俺の死に場所になる。
 俺は泳げないようにポケットに砂を詰め込む自分の姿を一瞬みたような妙な既視感をおぼえた。
 それから俺は、簡単な旅支度をした。三月二十日午後二時過ぎだった。黒のオーバーを着て家を出た。便せんに墨書した遺書は、机の上の見えないところに置いた。俺は千葉の房総への電車に乗ろうとした。房総の海なら俺はむかし学生の頃に、独りでさまよったことがあるところだ。九十九里のあの浜辺だ。
 駅員に聞くと錦糸町まで行かなければならないとのことだ。そこからなら、房総への直通の電車が出ているというのだ。錦糸町駅で尋ねると駅員は、
「いまからですか」
 と困惑の表情をみせた。時刻表を職員二人が首をのばして確認している。
「お客さん、勝浦行きならあと四十分待ちですね。その後の電車はありません。ただその電車は各駅ですがね」
「この寒い駅で四十分も待つのか」と俺は独りごちた。
 待とう、その各駅でもいいから、ここで待つことにしよう。俺は身をすくめて、ベンチに座った。昼食も食べてないので、腹がすいた。ホームにある店でむすび二つと熱い茶を買った。俺は立ったままむすびを食べ、ボトルのお茶を飲んだ。そしてベンチに腰掛けた。寒い。オーバーの前を合わせても、ホームへの風は冷たい冬の風だ。
乗った電車はのろのろと駅毎にとまった。窓の外はいよいよ暗い夜の気配をましてくる。電車が止まる駅の名前を読んでいった。勝浦はなんて遠いところなのだろう。海辺のホテルか旅館があればいいのだが、と俺は思った。小さな鞄に、俺は小刀を忍ばせていた。海へ飛び込むまえに、腕ぐらいの頸動脈は斬れそうだった。それといつもの性癖で、俺は文庫を一冊、買ったばかりのヘミングウエイの「移動祝祭日」を入れた。駅の階段を降りたが、もう外は真っ暗で旅館の案内所はどこにもみえない。駅前の警察の派出所が一軒煌々と電気をつけ、ガラス戸から警官がいるのがみえた。俺はガラス戸をひいた。俺を見て三人の警官の顔つきが一瞬、固まるのがわかった。
「俺には殺人でも犯してきた人間の殺気があるらしい・・・」
 俺はそう苦笑しながら、顔には微笑を作って、どこか泊まれるところはないでしょうか、と丁寧な言葉遣いで、目付きの鋭い警官に頼んでみた。
「今日はもうどこも満員だぞ・・・」
 そう言いながら、数軒の旅館に電話をしてくれた。次々と断られつづけた。が一軒だけ空いていた。タクシーで旅館まで行くと、素泊まりならばということで、俺はそこでどうやら一晩寝ることができそうだった。この寒い夜を見知らぬ街で過ごすのだけは願い下げだった。玄関を上がったところで、老人から宿帳を出され、階段を上がったすぐの部屋に俺は案内された。いかにも狭い六畳の部屋に電気炬燵と脇に蒲団が延べてあった。俺は炬燵でお茶を淹れて飲んだ。それから夜の街に、夜食をもとめて歩いた。どの店も満員で一軒の店が隅のカウンターならというので、俺はそこに座ることにした。勝浦は漁港の街らしく、新鮮な魚介類の料理を頼んだ客が幾組みも、できあがるのを待っている。主人は次々と魚を包丁でさばき、料理づくりに汗だくの様子だった。まだだいぶ時間がかかりそうだ。俺は酒と肴で時間をつぶした。モズク酢が美味しかった。釣り客が二人、料理を待ちながら焼酎のボトルをまえに、話し込んでいた。
 夜の街を歩いて、俺は旅館に帰った。学生の頃に泊まった旅館は、壁が剥げ落ちそうな、いかにも荒涼とした部屋だった。その部屋の佇まいが、かすかな記憶に甦った。あのときも、俺はなにかの悩みを抱えて、房総まで海を見にきたのだ。二十歳まえのことだった。翌朝、九十九里の浜辺を歩いたことが、古い写真を見るように思い出された。あれから四十数年が経った。人生の苦楽はそれなりに味わった。が、俺が俺であることは、どうにも変わりようがなかったらしい。
 俺は敷き蒲団に座り、重いかけ蒲団を膝までかけ、俺はもうなにも考えまいとした。上の空で鞄から文庫を出した。それをぶ厚い蒲団の上に開いた。その本の最初の一行の字句を、目が拾った。
「それから、天気が悪くなった。・・・・・」
 それ以上、その先になにが書いてあろうと、読むに耐えないと俺は本を閉じた。睡眠薬を持ってきただけ飲んで横になった。
 朝早くに目覚めた。喉がからからに乾く。よろよろと立ち上がり、廊下の電気ポットから熱い湯を急須に入れた。朦朧として部屋に戻り、お茶を飲むと、早速に、俺は旅館を出た。
 天気はいいが、風は冷たかった。朝市が並んだ路の両側から、いかにも港街らしい、威勢のいい女たちが客を呼ぶ声が飛び交っていたが、その女たちの声がどこか潮騒のように間遠に聞こえる。
 俺は一心に、海が見える場所へと脚を向けて急いでいた。
 後から聞こえてくる女の声のひとつが、誰かにふと似た声で、俺を呼んでいるような、そんな気がした。
 その声が、突然、母の声を思い出させた。三保の松原の砂浜を杖をついて、まるで幼児のように、鉄道省歌をきりもなく歌う、老いた母の姿が俺の眼交にうかんだ。二人の姉に手をとられ、いつの間にか見る影もなく歳をとった母の声が、砂浜に寄せる波音に交じり、風に乗って、切れ切れに聞こえてくる。まるでそれは子守歌のように、俺の耳を撫でていく。
 そして、いつの間にか、母のその顔が妻の顔に重なった。怒ったような、また啜り泣くような妻の顔が、俺の胸に海の水のように溢れた。俺の愚かしさを、俺の滑稽なまでにしおたれた面をみて、嗤うかのようだった。
 縹色(はなだいろ)の空にカモメが二羽飛んでいった。
 そして、俺はそのとき、昨日という日が、母の命日であったことを、不意に思い出し、愕然として、躓くように道端によろけた。







 








星の肖像

 「米田さん」
 背後から呼び止められた。振り返ると新妻さよ子だった。
この界隈では昼から客をとる女たちが徘徊している。名前を呼ばれるほど親しい女が米田にいるはずはなかった。新妻はすでに子供が二人いる三十半ばの同僚である。夫とはどういうわけか、一年まえから別居生活をしていた。狭い職場なので、そういう情報は問わず語りに耳に入ってくる。
 職場への坂道を上がりきると広場があった。まばらな木立が空へ伸び、秋の夕暮れのその広場の隅に、西日を浴びたホームレスの男女がかたまり合っている。そこから談笑が聞こえていた。
 米田が地下の商店街の隅やプロムナードの階段の踊り場で、最近見かける不思議な娘は、そうした群れの中にいるはずはなかった。その娘は意外なところで、ぽつんと佇んでいるだけなのである。服装は上から下ま暗紫色で、うつむきかげんの姿には、どことない気品と哀愁があった。
 ホームレスのたまり場である広場と小径を隔てた角に、小さな茶店がある。床が油の滲みた板張りのせいで、どことなく懐かしい感じを与えた。
「珈琲でも飲んから帰る?」
 米田は毎朝、その店のカウンターの窓から外の景色を眺めては、一杯の珈琲を飲むのが習慣だった。茶店の椅子に腰掛け、濃い珈琲を啜る時間は、米田の一日が始まるまえの、わずかな安らぎのひとときだ。
 窓際にはシンジビュームの植木鉢の花がところどころに据えられて、橙色のひかりを放っている。木の造りに凝ったその茶店には、隅の壁に小さな絵の複製の額縁が架かっていた。赤いビロードの絹地を背景に、鉱石のような黒い瞳を開けこちらを見る少女のきらびやかな顔には、犯しがたい表情がうかび目を止め眺めずにはいられない。珈琲を啜りながらも、その絵を米田はしばし見つめていたが、すぼめた花弁のような唇が、どこかで出会ったかのような感触で、米田をこの世界の果てへと誘うようでもあった。
 その茶店に午後も遅い時刻に女性とともに、重い木の扉を開けるのは米田にしてはめずらしことだった。
「あら、いらっしゃい」
 女主人はちょっぴりおどろいた様子で、すぐに後から入ってきた女性へ目をやった。
 米田は窓からすこし離れた壁際のテーブルに腰を降ろした。そこからでも公園の景色は窺えたが、やはり磨りガラスで縁取りをした格子風の窓からの遠望はあまりきかない。
 それよりも新妻さよ子の顔をこの店の中で見ると、新鮮な空気を吸うような気がする。瞼のしたに、うっすらと隈をうかべて、夫のいない子供二人との生活に疲れているのか、それでも鼻筋のとおった顔には黒い瞳孔が小さな耀きを溜めていた。
「それでどうだったの?」
「えっ?」
「あの件で出張したんじゃないの?」
 相談の内容は職員のあいだでも、あまり口外しないのがたてまえにちがいないが、複雑な相談となるとそうはいかない。ちかごろではとみにその傾向が強くなっている。
「あの女性の言うことがだんだんと、わたしには分からなくなってきたの・・・」
 新妻さよ子は辺りを窺うと、珈琲カップで隠れた口元から言いよどむようにことばを洩らした。

 米田は二度ほど、新妻さよ子と二人で、相談室の中で男性と女性から、一回づつ個別の話しを聞いていた。
 男性のほうはまだ若い神経クリニックを開業したての医者であった。女性のほうはさらに若く、褐色の肌をしたどこか東南アジア系の風貌を思わせる看護婦で、南洋の花が匂うような色香を漂わせていた。
 女の訴えで調停の可能性が大きいと米田は判断した。調停といっても正式の司法手続きではない。当事者双方の労働紛争の話し合いを、役所のサービスの一環として側面的に援助するだけである。それで双方の合意が得らた段階で協定書を作り、担当者が立会人として署名・捺印して、一応紛争は一件落着となる。一種の紳士協定でしかないが、世間ではあまり知られていない。
 しかし、単純な賃金不払いや解雇問題ではなく、「セクシュアル・ハラスメント」となると、調停は手間がかかるのが一般的傾向であった。それは事実関係が容易に特定できず、また、当事者の言い分が、根本から異なることがままあるからである。そこに男性と女性の複雑な感情が絡んでくると余計に事態は、不透明なものとなる。

 ある日の午前、酒井園子という名の女性が女親を伴って事務所の相談室のソファに座った。年齢は二十歳そこそこと思われたが、その女性を見た瞬間、なぜか米田は身体の芯から火照るような既視感を覚えた。
 開口一番、まだ若さを豊満なからだに漲らせている母親が悔しそうな声を放った。
「結婚まで約束していたんですよ。それがどうして娘をおっぽり出す真似ができるんでしょうか。娘が可哀想で・・・・」
 と声をつまらせ、米田の同情心を誘おうとの必死の形相をみせた。
「お母さん、もういいから黙っていて」
 そう娘に諭されると、不満な様子を全身に現したが、その後二度とその母親の姿はなくなった。
 その若い女性の話しでは、医院の開業以前からその準備を手伝い、いづれは結婚する約束を交わしていたという。男の方に妻がいることは承知で、いわば不倫の関係であった。まだ客もそんなに来るはずもない開業したばかりの院内で、医者と看護婦が愛情を深める時間は充分すぎるほどだ。
 これまで男性の方は、大学の総合病院に勤めていたが、緊急外来の患者の対応に疲労困憊していた。妻のほうは病気がちでもあり、どこか適当な場所で開業医として仕事をしたかったのだ。五年も経っていたが妻に子供ができる兆候はなかった。男はいつの間にか、小麦色の肌の健康な酒井園子という看護婦と深い関係となったらしい。
 医師の逸見裕次は、酒井園子の相談を受け、来所して欲しいとの役所の電話に気軽に応じてくれた。相談室で面と向き合うとなかなかの好男子で、これなら酒井が惚れてしまうのも無理もないというのが、米田の印象である。
 新妻さよ子は相談者の酒井園子の申し立てる「セクハラ」に、納得がいかないらしかった。セクハラは異性の相手が不快と感じることを職場等で行ってはならないというのが、その法的な定義である。相手のこころに変化が生じ、好きだった感情が反対の嫌だとなったときから、異性の言動はハラスメント(嫌がらせ)の領域に入るのである。

 ベテランの相談担当の新妻が言った一言は、米田も思案中のことだけに、興味を惹かずにはおかなかった。なまじ法律などを囓っていると、とかく常識的な判断を法律の枠内に押し込めて考える偏向に陥りやすい。
 「セクハラ」という行為が、いままでさほどに疑念ももたれなかった異性への言動に法的な制約を課されることになったのである。男と女の意識もこの法律の浸透につれて、互いにぎゃくしゃくとしだしたのは当然であった。これまで慣れ親しんできた常識やら習慣が、法律の俎上に乗せられ羽目になったからだ。一方の「愛情」表現が他方には「違法」となり、司法の場では、損害賠償や慰謝料の対象となるのである。
 秋の夕陽が陰りはじめ、しだいに暗くなっていく広場に、数人の若い男女がバスケットに興じる光景が、米田の視線を捉えている。するとそこに戯れる男女と年齢のさほど離れてもいない、街で目にする不思議な娘の姿が、髣髴と湧き上がってきた。あの若さでどうしてあのような、誰もが怪訝に思う徘徊をこの街のそこかしこでするようになったのであろう。誰かを待っていたり、探している様子にはみえない。細い頸を前に傾け、大きな瞳から虚ろな視線を伏し目がちに路上に注いで茫然と佇んでいる。職場に急ぐ通勤者はその娘の姿を一瞬目の隅に入れるが、誰も不審に思いながら足を止めようとする者はいなかった。
 米田には、その娘の姿がいま広場で運動を楽しむ男女と、あまりに明暗を異にするように思われた。いやそれ以上に、あの娘が佇む世界は、数歩まえに歩みだせば、もうそこは断崖の上のような危うさが感じられる。なにがあの娘をあのような境遇に陥らせているのであろうか。だが米田の想いはそこで止まることはなかった。そんな境遇のうちにあってあの娘には、どうしてだか人の手を触れさせようとしない、清心で無垢なものが感じられるのは、いったい何処からくるのであろうか。
 そしてその疑問はいつのまにかあの茶店の壁に架かる一枚の画へと向かっていくのだった。その画はスウェーデンのマックス・ワルター・スワンベルクという画家の連作の一点であった。ビロードや絹の布上に、ガラスや宝石を施した、どこか冷たいマティエールをもっていた。ある解説書によれば、「北欧の白夜が妖しいまでに冷たく燃える焔のようだ」との感想が記されていた。米田はその画が街で見かける娘の瞳に重なって見えた。黒い伏し目の瞳が覗くのは断崖の底である。それは地の下に横たわる凍土であり、さらにその奥の真っ赤に燃えさかるマグマに注がれているように思われた。
 新妻さよ子に促されるように、二人はその茶店を出た。晩秋の夕暮れの涼しさが頬を撫で、広場の樹の枝から鴉が数羽飛び立った。
 
 相談室は相次いで訪れる相談者でいつも満室である。電話は一日中鳴り放しという日も稀ではない。民間企業も生き残りをかけて、経営の合理化に必死であった。
 外資系の企業からリストラ寸前の処遇を受けている五十代の男からの相談を米田は抱えていた。その男とは一週間に一度、夕方から夜間にかけての相談に応じている。某大学の理系を卒業したT氏は、会社から早期退職優待制度で、次の就職口を斡旋する業務委託会社へ行くように促されていたが、本人はそれを拒み、米田に相談に来ていたのである。まさか世の中がこれほどに厳しくなるとは想像もしない育ちの良さが禍して、脇の甘い会社生活を過ごしてきた隙を狙われたという印象を米田は抱いたが、自分を必要とするT氏のどこか憎めない顔をみると、胸の中に温かいものが湧き出してくるのである。
 そしてもう一件めずらしい若い女性の相談者がいた。めずらしいというのは、その女性が「風俗」関係の職場にいたからである。だいたいこの類の職場からの相談は、ほとんどないのが常であった。バーや小料理店の雇われマダムからの相談は、時々だが舞い込むことがあるが、「風俗」の女性の相談はまず考えられなかった。色白の少し角張った顔立ちのなかに、彼女は都会生活にまだ馴染みきれず、かといって故郷へ戻る気もない、まだよちよち歩きの未熟な少女の横顔がのぞけた。そこから、どことも知れない田舎の匂いが立ちのぼるが、いずれこの少女が引き摺っている悲哀のような糸くずは、都会の汚泥に呑まれて消えていくにちがいなかった。それがさらに深い水底へ落ちていくか、あるいは這い出した足を別の悪の世界へと踏み出していくか、それは分からない。だが、いずれにしろ米田の前にその女性が相談者として現れることは、早番なくなるであろうことは容易に予想された。
 
米田が本庁へ報告のため、相談内容を項目別に統計資料に打ちこむ専用パソコンに向かっていると、後から新妻が近づいてきた。
「今日、例の女性の相談で男のほうの医院へ行くので、一緒についてきて欲しい」というのである。
「時間は?」と訊くと、午後四時とのこと。
 めずらしく、米田の日程が空いていた。
「今日の現場での相談のポイントは?」と米田は、新妻に確認した。
「女性が言うセクハラの有無ということかしら」
「それはどうも・・・・」と米田はことばを濁した。
 相談の主導権は新妻に任せて、米田は隣でやり取りを聞いているという役回りに徹していた。一人の相談者へ二人が同時に対応することには問題があるからだ。相談者への心理的なプレッシャーになることもあれば、相談担当者各人の思惑も微妙に異なることもあるからだ。話しの内容によっては、米田は相談室から退席した。
 性的な行動の詳細となると、男の存在は邪魔にならざる得ないからだ。また、男の話しでは男同士でないと話せないこともあったのだ。
 
昼食に米田はいつもの店に入って、スタンドの丸椅子に腰かけていた。
「あの若い娘さんは死んだらしいね」
 蕎麦屋の隅から、老人らしい二人の男の声が聞こえた。米田はふとおどろいて声のするほうへ目をやった。
「食べるものも摂らないで、餓死したらしいや」
「あの子は偉かったね。最後まで客を全然とらなかったそうだ」
 草臥れた服装の老人二人は、それ以上話そうとしなかった。互いにしばしの黙祷のなかにいるような沈黙がつづいた。
 米田は町のそこここで目にしてきた、あの娘ではあるまいかと、聞き耳を立てたがそれ以上の事は知りようがなかった。

 新妻と米田の二人が、新宿歌舞伎町の横断を渡ろうとしていた。路地裏の手前に人だかりできている。路地の奥へ視線が集まっていて、自転車数台がその路地に入れないように塞いでいた。米田が数台の自転車の柵に近づき路地の奥を見ると、ビルの壁を背にへたり込んだ若い男へ、背の高い男が長い足で、顔と腹に蹴りを入れていた。そのくぐもった衝撃音が間をおいて聞こえる。身なりからホストを生業にしている若い男達の内輪もめに思われた。暴行を奮っている男のまわりを数人の仲間が壁をつくりそれを見守っている。ビルの壁に倒れ込んだ男はもうなんの抵抗もできないほどにダメージをうけているらしい。それを通りがかりの群衆が遠くから黙って見つめている。米田は何を思ったのか、並べられた自転車の隙をぬい、加害者と被害者の二人の側へ、ゆっくりと距離を詰めていった。仲間の一人が近づくなと米田へ低い声をかけた。その声が聞こえないのか、米田の目は吸いつけられるように被害者へ向けられ、じりじりと現場へと距離を縮めていく。あと数発の蹴りが致命傷になるかも知れないが、被害者の抵抗する力はもうなかった。米田が無抵抗な男へ近づくに連れ、取り巻きの輪が散りだした。それに紛れるように加害者も逃れ去っていった。
 不思議なことに、これだけ人だかりがしている歌舞伎町の中心街の暴行現場に、一人の警官の姿もなかった。パトカーの近づく音も聞こえない。この地域ではこんないざこざは常時のことであり、いちいち、警察がかかわっていられないということなのであろうか。
 新妻のところへ戻ってくると、彼女は硬い表情になって言った。
「なんであんな中へ入っていったの? 無謀すぎるわよ」
 それは心配と同時に、下手をすれば飛んだとばっちりをうける可能性も否定できない米田への叱声と、あんな行動に出ていく気が知れないという、女性の本能的な恐れと綯い交ぜになった驚きだった。
「なぜだろう。おれにも分からないよ」
 ぽつりと米田はそう答えた。そしてそうした自分を冷静に顧みて、新妻の恐れが今度は自分の腹からこみ上げて、その狭間でニタリと笑った。その奇妙な苦笑いをする米田を見る新妻の顔の表情に、不安をともなった危惧とともに密かな称賛の気持ちが混じりこんでいることを、新妻にもしかと測りかねた。
 しかし道々、彼女は自分たちの仕事には、米田が洩らした「分からない」という疑問符のまま、頭より先に身体が前へ動いてしまう要因がどこかにあると感じた。すると、急に米田の言うことが腑に落ちた気持になった。そうでなければ、事務所の椅子に座ってマニュアル通りの法律の講釈と関係機関の紹介をしていれば、それで役人としての義務は果たされていたはずだからだ。

 医院は山手線からバスに乗り換えて十分ほど行ったところにあった。一階の道路から階段を上がった二階の扉を開けると、ひっそりとした感じの院内の様子が窺えた。逸見裕次は白衣をひっかけて、客の来ない病院で二人の来るのを待っていた。これが酒井園子も手伝い半年まえに開業した医院であった。二階の広い間取りに、西日がふんだんに射して明るいが、逸見裕次の白衣だけがちらつき、どことなく院内が寂しげにみえる。ここに酒井園子がこの間まで一緒にいたのだと、二人は部屋をみわたした。
 逸見裕次は、馴れない手つきで珈琲を淹れてくれた。
 早速、新妻がノートを鞄から出して、用件に入った。
「逸見さんが、酒井さんへ結婚の約束をしたと聞いたのですが、それはいつごろのことですか」新妻の質問は単刀直入だった。
 逸見は唖然とした驚きの表情を、その優男の顔にうかべた。すこし間をおいて、逸見が答えた。
「結婚の約束というような、そんなはっきりとしたことを話した覚えはありません。彼女がそんなことを言ったのですか?」
「はっきりと言わないまでも、そんなニュアンスのことをお話ししたことはないのですか?」
「・・・・・」逸見は考え込む様子になった。
「結婚ということばは、一度も言ったことはありません。ただ・・・・」
「ただ、なんですか?」
 新妻はどことなく、甘い声で囁くようにそれをうけた。まるで子供の悪戯を赦してやる母親の声であった。これは無意識の新妻の相談上のテクニックでもあった。
「五年も経って、妻に子供ができなかったので、両親が・・・子供、いや、孫の顔を早く見ておきたかったのです。そんな話しを彼女になんとなくしたことはあったかと思いますが・・・・」
「ところが、妻が妊娠したことをあなたは知った。そのことを、あなたは彼女に知らせてはいなかったのでしょうか?」
「それはありません。妻と彼女とは別個の人間だから・・・」
「別個、ですか?」
 意外なことばを聞いたとでもいうように、新妻は逸見のことばを自分の口で繰り返した。
「それは、ど、どういう意味でしょうか・・・」
 逸見は逆にこんどは、新妻のどもるほどの反応に、驚いたように
新妻の顔をふとのぞくように見た。まるでなにか自分がとんでもないことを言ってしまったかのような様子だ。
「だ、だからどういうのでしょうか・・・。妻は妻、彼女は彼女だということですよ」
 新妻の吃音がうつったかのように、どもりながらそう逸見が言い直した。
「・・・・・」
 新妻が喉につまったものが、いったいなんであるのか。それを考えるかのように、顔を歪めたような、どこか深刻な表情をうかべた。
 その新妻の表情の変化に気づいた米田が、割って入った。
「逸見さん、あなたは妻がありなら別の女と深い関係を持っていた、そういうこと、ですよね」
 米田が新妻が戸惑ったことばを、平易は表現に言い直してやった。
「・・・・・」
 こんどは、逸見がそのあまりに平明な表現の縁から溢れ出すものがあるとでも言いたそうな、複雑な表情のまま奇妙な顔を宙にうかせた。それを見て新妻が立ち直ったように、ことばを接いだ。
「逸見さん、あなたが酒井園子さんとおつきあいをしていたのは、そんなに短い期間のことではありませんよね。こういうことばは好きではありませんが、世間で言う不倫をあなたはしていたということですよね」
 新妻の口からでた「不倫」という二語は、曰く言い難いアクセントがかかっていた。それはテレビ・ドラマからよく聞こえる、その言葉の衣装を剥ぎ取り、裸体にするような特別な響きを帯びていた。
 そのあまりに真剣で直裁な話し方に、米田はある不安を覚えた。真実はたしかにその通りだが、新妻の質問の口調には、男を衆人環視のなかで裸体にして、その弱い急所を狙いすまして指弾するような行為に思われた。これではどんな男といえど、こころは硬直するばかりと想像されたのだ。こちらがやることは検察の訊問ではない。単なる双方の話し合いの側面援助をすることが主な仕事である。お互いの相談者が感情的になられたら、和解することができる話しも、物別れに終わってしまう。紛争の間を取り持つには、双方のこころを和解に向かって開かせてやらなければならない。そこから、双方の面子が立つ落としどころを準備しておく必要があるのだ。
「私も男ですからね」と米田は緊張気味のところに、ゆっくりと弧を描くスピードを殺した球を放り込んだ。逸見の顔に微笑がうかび心持ちが緩んだようだ。
「よく分かるのです。妻がいながら別の女性に惹かれる、そういう罪づくりの男のこころがね」
 剽軽そうな口調で話しながら、米田は逸見裕次の横顔をみた。苦笑しながらも、頭を垂れている逸見という男の内面の暗部を、米田はそこにのぞき見るような思いがした。この一言から相手のこころの扉が以前より開きはじめた様子がうかがえた。
 逸見が「別個」ということばでしか表現できない、その底のほうには、どうにもならずに世間の規矩から外れてしまう男の肉体と心理が発動する闇の領域があることを、米田は想像しさえしたのだった。
 するとそれに連れられるように、毎朝のように通う茶店に架かる額縁の中の一枚の絵が甦ってきた。あの絵には大人の男のこころを玩具を愛する幼児の世界に連れ戻し、あらゆる規範から解放させる無謀なエネルギーが秘められていた。無垢であると同時にエロチックなものがそこに秘匿されていて、そこではこの世の軛から限りなく自由な世界への幻想へ通じる道が開かれているような気がした。
 危険な誘惑がそこにあった。幼児性への退行とでもいえる、ひりつくような孤独な世界の裏に、すがりつきたくなるような魅惑。あの剥きだしの性器をみせたエゴン・シーレの少女を描いた絵のようなものと同類の、世間の道徳の規範などを歯牙にも掛けない無軌道な世界が、そこにあるような気がした。と同時にそれは男だけではない。女にも同様な世界があるはずだろう、と米田の想像は逸れていった。急に米田は夫と別居している新妻の横顔をじっと覗きみたが、それに気が付くと慌てて自分から視線を外すのだった。
 その気配を感じたのか、新妻がノートから顔をあげた。新妻も我に還ったように、逸見を見て質問を再開した。
「ともかく、一緒に仕事をやっていけないからという理由で、看護婦の酒井さんとの雇用関係を打ち切ったことは、事実ですよねー」
「それはたしかです」
 これはすんなりと、逸見裕次は認めた。
「労働基準法上・・・」
 新妻が話し始めるとすぐに、逸見はそれを引き取った。
「私は法律上のすべての義務を果たすつもりです。その上、彼女がそれ以上の要求をするのなら、できる限り応ずるつもりなのです」
「逸見さん、それ以上の要求に応ずるとおしゃいましたが、それは具体的にいうと、どういう意味ですか?」
 米田も新妻がそう言った瞬間に、逸見裕次の顔をうかがった。法律上不当な解雇をしながら、労働法上の最低の義務は勿論、それ以上の補償をすることを、自分から言う使用者はめずらしいからであった。いくら金銭的な余裕があるといっても、普通はそこまで自分から言い出す者はいない。
 新妻は逸見の鷹揚な一言を聞いて、さらに微妙なステップへ足を踏み出す準備態勢が整ったと判断した。あたかも銃口の照準を合わせる真剣な表情を米田は新妻にみた。新妻も米田の顔をちらっと窺う仕草をみせた。それはこれから例の酒井園子の主張する「セクハラ」の疑惑を解明するための用意に入るという合図におもわれた。
 硝子張りの診療室には、所々に鉢植えの洋蘭の花が、これでもかというように花弁をひろげていた。それは気味の悪いほどに性的な放恣をさらけだして、誇り高くさえみえる。
 三人が座るソファの後に銀色の立派なノブのついた扉の一室があった。それはこの部屋を最初に眺めた時に、目に入ったものだが神経クリニックにはあっても不思議ではなかった。だがこの幾鉢も置いてある、蘭の花びらには、そこが医院というより、開放的な性的な空間のような異常な印象を与えずにはおかなかった。
「逸見さん、解雇した理由のことなんですが、簡単に言ってくれませんか?」
「前にも言ったと思いますが、この医院で一緒に仕事ができないと思ったからです」
「でもそれって、一般的にはおかしくはないですか。どんな小さな医院でも一人位は助手の看護婦が必要ではないのですか?」
 もう分かり切っていることを、新妻は再確認をするように訊きただした。この医院の中で不倫の関係が深まっていったことは、酒井の話しから新妻さよ子は、仔細に知っているはずであった。だが、その相談の相方にあたる逸見裕次からは、そのポイントになる事実関係の骨子ははっきりと糺されてはいなかったのだ。
「彼女の代わりに看護婦を一人雇いました」
 涼しげにそう答えた逸見裕次という男が、このことばから米田の遠景に消えて、代わりにあるもどかしいものが、近景に顕れるようにさえ思われた。
 新妻の質問はなぜ酒井園子と一緒に仕事がつづけていけなくなったかという、その端的な理由なのだ。
「逸見さん、私の質問をはぐらかすようなことはしないで下さい。私が聴いているのはなぜ酒井園子さん、あなたが大学病院を辞め、ここに医院を開業することまでお手伝いをした酒井園子さんと、仕事ができなくなったかという理由なのです。なぜなのです」
 新妻はたかまる感情を殺して、低いやさし過ぎるほどの声音で、逸見の喉元へ刃物で迫るほどのつよい姿勢をみせた。
「・・・・・」
「邪魔になりだしたということでしょうか?」
 新妻はその自分のことばの余りの凡庸さに、苛立つように頬を歪めた。
「というより、私の両親が目が厳しくなりだしたので・・・」
「なるほど、奥さんが妊娠なさったからですね」
 それに応えず逸見はどことなく不甲斐ない表情をうかべた。そこには新妻の追求する銃弾が、明らかに的から外れていることに、不満気な様子さえ窺えた。
 米田はそこに意外な逸見の反応をみたような疑念を覚えた。しかしその疑念にはそれを補強する言葉が欠けていた。
「酒井さんと仕事の縁を切ったあとに、酒井さんと逢ったことはありましたよね」
 やんわりとではあったが、そこには「ない」とは言わせないという新妻の迫力がうかがえた。
「それはいろいろと話し合い、彼女の納得をいただくうえの、手続き関係でここへ来てもらったことはありました」
 ここで新妻は米田の俯き加減の顔へ視線を注いだ。そのとき、米田は相談とは別の世界へと、一瞬、飛翔していくような感覚に陥っていたらしかった。米田が新妻の視線に気づいて、ハッとしたように頭をあげた。
「彼女は喜んでやってきたのですか?」
 米田がわざと咳をひとつした。新妻がこだわりたいのは分からないことではないが、その言い方があまりに露骨に聞こえたからだ。
「ここに彼女が来たこともあり、外で食事をしながらということもありましたが、ここへ来たのは彼女が私物の整理のための一回だけです・・・」
「そのとき、逸見さんと酒井とはなんの関係もなかったのですか」
「ありません。私物を整理するだけでした」
 逸見裕次の声に翳りが走った。新妻と米田の視線が合ったのはそのときである。
「何時に来て、何時に帰ったのですか」
「よく覚えていないです・・・」
「診断にきた人は誰もいなかったのですか」
「いなかったと思います・・・」
「その日の診察の記録というものはないのですか」
 追いすぎだと、米田は新妻の顔を睨んだ。
 相談の対応をする事務所にはそこまで捜査をする権限はなかった。つまり、その日の二人の行動は、逸見と酒井の言うことを信じるしかなかったのだ。
 新妻はその点を幾度も酒井園子に、事実を言うように働きかけてきたのだった。だが、酒井園子もその点については、曖昧な返答しかしていなかったのである。
 新妻はそれ以上の追求は諦めたようだ。あとは形式的な面から、知り得る事実を固めることしか残っていなかった。
「その時は、もう新しい看護婦さんがいらしたのですか?」
「そうだったと思います、あまりはっきりと記憶していませんが」
「では何日付けで、酒井さんの代わりの看護婦さんを雇ったのです?」
 新任の看護婦が来た以降にも、二人の性的な関係が続いていたという事実には、微妙かつ肝心な酒井園子の相談の要点が潜んでいた。もしその時点でまだ酒井園子との雇用関係が切れていなければ、セクハラの問題は完全に消えたことにはならない。解雇が為されていれば、解雇の根拠が問われることになり、いなければ雇用の制裁与奪の権力を握る使用者である逸見のセクハラの疑惑が浮上してくるのだ。不当解雇とセクハラが一体となる法律上の重要な問題に焦点が当たるのである。
 米田は押し殺しているが、こんなに感情を表に出して、詰問口調の新妻の姿を見るのはめづらしいと思った。よほど腹の虫が治まらない事情が彼女をそうさせているのであろうか・・・・。
 米田は茶店で新妻がぽつんと洩らしたことばをそのとき思いだした。
「あの女性の言うことがだんだんと、わたしには分からなくなってきたの・・・」
 そこに新妻を困惑させ、判断を迷わせる隘路がやはりあることを、米田は想像しないではいなかった。
 酒井園子は「セクハラ」という言葉を使い、相談にきながら、肝心なその内実のすべてを新妻に話してはいないのだ。酒井園子の母親のように、腹の底から憎しみと怒りが、逸見裕次へと爆発しているのならば、口汚く相手を罵り、全部の事実をさらけ出す心理状態になるはずであった。だが、なにかの逡巡が酒井園子の心の隅にわだかまって、それを押しとどめているように思えてならない・・・・。
 逸見裕次は席を立った。同時に米田もトイレを借りに、場をはずした。新妻が知りたいのは、逸見裕次が酒井園子といつまで深い関係を持ちつづけていたのかを、たとえそれが真実でなくとも、二人の関係を推測できる程度に確認しておきたいのだと、おおよその想像はついた。二人の関係がもし解雇後までつづいていたのであれば、それは労働法規の範疇から離れて行かざる得ない。反対にその以前にそれが職場内でなくても、勤務の延長と見なされる場所であれば、セクハラとの関連性がでてくる問題となるのだ。このあたりで、おそらく新妻は事態のおおよその輪郭を掴んでおきたいのにちがいなかったが、それがいまいち曖昧なところに新妻の苛立ちがあるのだ、と米田は想像した。
 米田はトイレの鏡の前で、時間をつぶしていた。その間に新妻が逸見から、聞きたい言質をとってくれればそれでよかった。彼女がこだわっている事柄は、職場の性的な関係が二人の合意で始まったが、それがいつ頃から逸見裕次には重荷と感じだし、それが解雇へと発展していったのかというその一点であった。それが労働法的な明暗の分岐点になるからである。だがその言質を逸見裕次からとるのは至難のワザだろう。
 米田がトイレから席へ戻った時だった。
「今日は新任の看護婦はいらっしゃらないようですね?」
「ええ、午後は休暇で帰りましたから」
「逸見さん、くどいようで恐縮ですが、その看護婦さんを雇った正確な日付を知りたいのですが・・・・」
 逸見裕次はカレンダーへ目をやり、額に拳を当てて考え込んだ。
「あれは八月の中旬頃でしたでしょうか・・・・」
「求人はどこかへお出しになったのですか?」
「以前にいた大学病院で知り合った友人からの紹介なんですよ」
 あっさりと逸見裕次が答えた。この一言で職安との連携プレーの可能性は断たれた。もっとも公的な職業紹介機関である職安が、どこまでこうした労働相談の調停に協力してくれるか、それはわからない。
「新しい看護婦さんへは、雇用関係の書類はお渡ししていますよね」
「もちろん、渡しています」
「それではすみませんが、酒井さんへの解雇証明書とこれまでの賃金台帳、それと新任の看護婦さんへの雇用関係書類一式を事務所へファックスで送ってくださいませんか?」
 逸見裕次は了解した。
 新妻は事務所の名刺を渡し、ファックス番号をボールペンで囲んでやってから、とりあえず、形式的に確認すべき事項に関する話しはすべて終わったというように、米田を促した。
 既に新妻自身が酒井園子の主張に疑いを懐いていた。それなのになぜ、一時は相思相愛の関係にあった男女に、「セクハラ」などという違法行為を探索しようとするのだろう。
 酒井園子が役所に相談にきたのは、既に雇用関係がなくなった以後のことであった。そして、彼女は解雇の無効性を焦点にして相談に現れたのではなかった。酒井の法律上の認識がいづこにあるか分からないが、「セクハラ」はあくまで職場における人間関係を基礎にした、被害者本人の意に反する性的な嫌がらせという事実が、加害者が認めるか、第三者の証言等によって客観的な裏付けがなければ損害賠償の履行の義務づけは弱いものになるだろう。もし酒井があくまで「セクハラ」を問題にするなら、いつ、どこで、どのような男の行為が本人の意に反したかの事実を、できる限り具体的に報告して、そのことが可能な限り客観的に証明されなければならない。
 新妻さよ子が、酒井園子の訴えに疑問符をつけるのは、そうした報告を聞いた上で、その供述の眼目があまりに曖昧模糊としていることに納得できないことにあるのに相違なかった。自分の愛情を裏切った男への怨恨なら、単なる個人間の恋愛問題に過ぎないが、解雇は明らかに労働法上の問題である。ましてその理由が性的な関係の解消を狙ったものなら、解雇の不当性には別の重みを増してくるはずであった。
 深浅の相違はあれ、男女関係にはそうした事例は腐るほどあるだろう。それら様々な様態、男女の心理的葛藤、他殺自殺まで含む事例は、あるものは恋愛小説に山のように書かれ、また日々週刊誌には、猟奇的な好奇心煽る記事で飾っている。
 証明もできない事柄を本訴にすれば、酒井園子は名誉毀損で、逆に相手側から訴えられないとも限らないところだ。
 今のところ、事務所への相談事例として、問題は内々の事柄で済んでいた。余りに新妻が逸見裕次の神経を逆なですれば、逸見裕次が話し合いでの解決をいつでも拒むことができるのである。公的な司法の場は別にあるので、内々の話し合いが打ち切りとなれば、元も子もないのである。米田が懸念するのはそのことであった。折角話し合いに引きずり込んでおきながら、すべての苦労が泡となってしまう危険性があった。
 既に時間は二時間に及ぼうとしていた。役所の定時を過ぎていた。
 米田は席を離れて、事務所に電話を入れた。案の定、数件の相談者からの伝言があったことを知らされた。その中に、「風俗」の女性からの伝言があったことを、米田は意外な思いで聞いた。若い女が携帯の電話番号を変えたらしかった。米田が相談上の連絡先となる電話番号の変更を、わざわざ伝えてくる、そうした行為に出る「風俗」関係の相談は、あまりにめずらしい動き方である。
 米田は相談の局面が変化しそうな予感と、この種の相談にはない感触を得て、興味をそそられはじめた。あの都会づれのしていない少女が予想外の行動に出て行こうとしているのかも知れなかった・・・・。

 逸見医院を後にして、二人は線路づたいに最寄りの私鉄駅までの坂道を登っていた。米田はある種の直感でしかなかったが、逸見裕次はまだ酒井園子との関係を解消する積もりはないことは予想できた。多分開業費用の大半は両親から出して貰ったものか、妻の実家からの援助によるものだろう。だが、金銭問題からだけではなく、酒井園子とは別個に逸見は自分の妻をも愛し始めているにちがいなかった。それが一人の男をどんな錯綜した迷路へと導いていくのか、それは推測すべきもなかった。
 隣を黙って歩く新妻さよ子もなにかを思案中であった。別居中の夫のことか、子供たちのことか、それとも今夜の夕食の献立でしかないのか・・・・。
 人間のこころの扉は二重三重になっていて、その家の中には本人しか知られない幾つもの部屋がある。米田はそこにある種の抗し得ない関心と、底知れない深い闇の中を覗き込んだときの眩暈とを二つながら同時に感じて、両足が宙に浮くような不安を覚えた。
 線路と舗道とのあいだに茫々と芒の穂が風に揺れ白く光っていた。その傍らに淡いピンクと白のコスモスの花弁が点々と見え隠れに咲いている。あの植物にはこうした人間のこころというものはない。ただ花をつけそれが枯れれば、そこで一つの季節が終わるのだ。なんと単純で豊かな生命の循環だろう。こうした相談で他人を煩わせることもなく、儚く短い、濃密で単純な生と死があるだけなのだ。
人間の男女関係の奥に蠢く性的な世界はそこにはないように見えた。
 線路を轟々と電車が過ぎていった。車内の白い吊革の輪の数だけ人生があり、時によりそこに人生の規矩を逸脱した相談事が生まれる余地があるのかも知れないと、米田はゆらゆらとした意識で想像した。
 夕暮れの風が吹いていた。いかにも秋らしい涼気が肌を粟立たせた。
「すこし疲れたな。お茶でも飲んでいこうか」
 と、米田は新妻を誘った。彼女はものも言わずに、微妙な距離をとって後ろからついてきた。そのとき妙な香りに米田の鼻が反応した。風の加減で、その香りの元は新妻の全身から来るもののように思われた。それは香水というものではなかった。女である新妻が自然に放つなにかであった。それが米田を現実から遊離した別の世界ね連れていくようであった。
 駅前の喫茶店にしては、なかなかシックな作りの室内であった。
 椅子に腰を降ろすとどちらともなく溜息を洩らした。
「さて、どうなるのかな?」
 と、米田は新妻の反応をみた。とんでもない藪の中に誘い込まれたような気分だ。しかし、新妻はそんな様子は毛ほども見せようとしなかった。
 新妻はしばし黙っていたが、やがておもむろに口を開いた。
「酒井さんはきっと、金銭での和解に応ずるだろうと、私は思っているわ。解雇の不当性は逸見さんは充分に知っているだろうし、酒井園子さんへの慰謝料も高いものになるに違いないでしょう。ただ女はそれじゃ済まないのよね・・・・」
「ああ、そのことなら男の逸見裕次にしても同じだろうよ・・・・」
 そう言ってしまってから、米田はそう言った自分のことばの軽率さを感じて、ハッとした。
 米田の胸に最後に見た酒井園子の、自分をみつめる瞳と表情がよみがえった。そこには酒井園子の逸見裕次への断ち切れぬ思いを、米田は感じた。二人の関係が今後どうなるか、それは誰にも分からない。そして、妻の外に愛人をつくってしまいそうな逸見裕次のこれから辿る薄氷を踏む人生が思いやられた。
 いずれにしても、セクハラの有無は二人の男女にしか知り得ない奥に隠れて明瞭ではない。単なる男女間の不倫の恋愛関係が、ある時点からそう簡単な情事ではすまなくなったのである。そうした二人の男女の人生を前にして、「セクハラ」などという法律問題がなにほどのものであろうか。そうした思いが米田を妙に息苦しい場所に佇ませずにはおかなかった。
 お互いに、愛欲に憑かれて別れられなくなっている男女。その限度がないほどの情欲の炎に不安を感じ、かつ、上司でもある男の心情を忖度しながら、そのどうにもならない気持をぶっつけに、酒井園子が事務所にやってきたのであろう。そのように、新妻さよ子に言いたい気がしたが、とうていそれを口にすることはできない。
 新妻さよ子の横顔が憂愁の翳りにつつまれている。それはあの茶店の少女の絵にある、男の心を吸い込むような虚ろな光と影の明暗の彩りを米田に連想させるのだった。
 新妻は自分が最後に言ったことばが、米田という一人の男に思いも寄らない反応を起こさせたのではと、余計なことを言った自分の浅はかさを反省した。同時に、そのことばがごく自然に、自分の口を接いで出たことは、否定すべきことでもないとも思われた。そこに男に対する自分の思いがこめられていたからだ。むしろその自分のことばに反射的に応じた米田の言動を、新妻は改めて思い起こした。いつもの米田の冷静な仕事ぶりを見てきた新妻には、さきほどの米田の顔にあらわれたものを、すんなりと受け入れるのは難しかった。
 その米田がいまも自分のまえにいる。剃り残した顎鬚のもうすぐに四十の年齢に手が届く、男盛りの独身の顔を、新妻はまるで初めてのように見た。
 仕事上の一言二言のことばのやりとりがあったのに過ぎない。がこうして後になってみると、それは言わずもがなのことなのに、無意識のうちに声になっていたことを、二人は同時に顧みらずにいられない。そういう二人が互いにテーブルを隔て、一杯の珈琲を飲みながら相対していることが奇妙にもまた面白くも思われてならない。
 そこから二人のあいだに不思議と親しげな余裕のようなものが生まれていた。
「こんなことを聞いたら失礼かも知れないだけれど・・・・」
 ちょっと笑顔をみせながら、新妻が口をきった。その一言に戸惑いながらも、相手の顔に顕れた和らいだ微笑が米田のこころの戸を開かせたようだ。
「米田さんはずーと独身だったわね」
 なにを聞かれるかと身構えていた米田は、戯れまじりにこんな質問を新妻からされるとは思いもよらなかった。
「もう仕事の相談は終わったんだよね」
 急に悪戯っぽい表情をつくって、新妻の笑みをふくんだ両目を米田は子供のような心持ちでのぞき見た。
「そうよ。だから怖がらないでちょうだい。それともなにかあたしに相談したいことがあるのなら、なんでもお聞ききいたしますわよ」
「それじゃ余計に恐くなってしまうじゃないか」
 米田は即座に冗談を返した。先刻の新妻の逸見への訊問そこのけの追求を思い出したからである。
「フッフ」
 と、声をだして米田は笑った。
「あら、なにが可笑しいのかしら?」
 逸見に迫る新妻の真剣な顔つきを思いうかべたからだが、
「あの医者は割にいい男に見えたけれどな・・・」と独り言のようにつぶやき、話しの穂先を転じた。それを無視して新妻は、鼻の先で笑い、こんどは米田の脇をくすぐるように、
「あの看護婦はどうかしら?」
 とぼけた調子で新妻が、米田の置いた駒のまえに自分の持ち駒をそっと張った。そこで米田の顔色が急に変わったが、その一瞬の変化はあまりに微妙なもので、新妻は気がつかなかったようだ。
 こんな会話が二人のあいだに交わされることなど、予想もできなかったが、仕事が済んだ解放感からか、ことばは気楽にテニスコートの鞠のように交錯した。時間はいつのまにか流れ、油然とした喜びの空気が二人を包んでいた。
 しばし二人は黙ったままだった。同時に二人の瞳は相手のなかに同じ感情が波立つのをみた。明らかにも新妻は女の精気を発していたが、それを抑さえている様子がみてとれた。米田は新妻のからだが放つその精の薫りを感じとったが、それを意識の前面にだすまいとしていた。そうした男女のあいだに交流する官能による息苦しさから身をほどくように、
「いけない。もう帰らなければ」
 と、新妻が片袖をたくしあげて腕時計をのぞいた。白い細腕に男がはめるような大きな時計が光っている。
 米田は立ち上がると、伝票を持って会計を済ました。
「ごちそうさま」
 後ろから新妻の声がした。それはいつもと変わらないさっぱりとした新妻の声と姿に戻ってはいた。
 二人はドアを開けて外に出た。もう夜の闇が空をひたし、南の空に星が一つ瞬いているだけであった。





                       



詩集「弧塔」「海の賦」「カモメ」から(3)

 交 感

白い鳩が
 夕陽を斬って翔ぶ さわさわと さわさわと
噴泉は
 優しい嗟嘆にくずれおちる
濡れた瞳よ
 静かな埋葬の歌を唄え
重い霧が空をつつみ
 夜は重なりあって眠る
星たちが
 無言のことばを交わしはじめた


 冬の蝶

二月の雨は蝶の羽根の上に降る
弧塔よ
わが記憶の棲家より
君の未知の肉体に燃える
命の火箭よ

夢は捕らえようとすれば
     こと切れるのだ
野性の棕櫚さえ
鳴り響む南国の海の願いを抗いは
しなかったのに

美よ
獅士の硬い鬣が流す金色の涙よ
憩うべき棘ふかい薔薇の繁みに眠る
おお! 思い出
    切り落とされた首


 向日葵

おまえは
太陽をみつめすぎたため
大きな瞳のなかで
滅んでいく

時間に渇き
時間に飽き
黄金の夢に憑かれた
おまえの咽喉は
棒のように朽ちてしまった

茜い夕べの雲よ
遠い湖の
つめたい風を送れよ

燃える影のなか
緑滴る

おまえの夏は
銃剣のように
おまえの背中に突き刺さったままだ


 酒 杯

人生は誰も読むことのない詩集のようだ
行開けの柵(しがらみ)を散歩する
それは他人の空似

人生は宛先のない手紙のようなわたしの恋人だ
ただ幻のみ慕わしくて だれひとり弔うもののない
夜とぎのよう

ああ むかしのわたしの愛する人につげてください
おまえがわたしから去ったとき
わたしはわたしを棄てたのだと

神様 どうか死の床には わたしの愛人を呼んでください
雨の夜の庭に 餌をやる猫はまだ来ているのかと

人生は深い河
停まったままに 流れることもなく
暗い思いのみ渦まいて
一盃の酒杯には誰の顔も映ることはない


 パウル・ツエランの墓

  ―花を埋葬せよ そして人を墓の上に添えよ

あなたが横たわる雪のベッド
あなたが飲む朝の黒いミルク

硬直した青銅の天使たちが
地面に顔を埋めた者たちを起こして
その頭蓋をひとつひとつ銃で撃ちぬく

死者の瞼を殺ぐ屠殺者の鋼の爪
薔薇はその傷口を曝したまま
眼は恐怖に瞠かれる
蛾は白い卵を産みつける
裂かれた声 砕かれた顎の奥深くに

雪のベッド 黒いミルク
夜に飲み 昼に飲む 朝に
1970年4月 彼が飛び込んだセーヌの水
消えない 暗い水音
動かない 青い空





プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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