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回想「1984年」

 ジョージ・オーエルの著作「1984」は、全体主義を批判して1948年に書かれたデストピア小説ですが、この題名はこれが書かれた48年をただ逆転しただけであった。これ以外には「ヨーロッパ最後の人間」(The Last Man in Europe)という題名が用意されていた。最年少でノーベル文学賞を受賞したアルジェリア生まれのアルベール・カミユは、1960年に自動車事故で亡くなった。当時自殺説も囁かれたが、鞄から発見された膨大な原稿は、「最初の人間」という小説の草稿でした。カミユがオーエルの「1984」を意識していたかどうかは不明ですが、「ペスト」を書き反ナチ抵抗運動に挺身したカミユがオーエルの文学に熱い視線を注いでいたとしても不思議ではないでしょう。
 最近、書棚を整理しておりましたら、「詩都」という旧い同人誌がでてきました。これは新宿の高層ビルで働く役人たちの同人誌でした。1984年の「詩都」第10号には、作家となった童門冬二氏の寄稿がありました。思わず目次を眺めますと、私の本「花の賦」の表紙絵を描いた人がエッセイ風の評論を載せ、詩一篇と「ヴァレリー断片」というエッセイとも批評ともつかない私の作品を見ることになりました。後者は詩ではないのですが、詩のジャンルに入れられています。くだんの人が書いていた評論は、「“生活が消えた”時代のレプリカント幻想」という題名で、ポール・ニザンの「アデン・アラビヤ」のプロローグを配し、わりに長い文章となっています。最終行だけをここに取りだしておきましょう。
「とまれ、私達はこれから、ユートピアと悪夢が、私達の精神によってくるりと入れ変わってしまうような、空恐ろしい時代を生きていくのである。」
 これはオーエルの「1984」を意識した時代状況を反映したのでしょうが、氏は別号で18世紀イギリスの画家・ヨハン・ハインリヒ・フュースリーの「夢魔」なる作品に描かれた女性の描写に、リアルな肉体が消失していることに、鋭敏な反応を示しています。作家のカミユがアフリカのフランス植民地の出身であることから、ヨーロッパ、特に宗主国のフランスに対しある距離感を払拭することができず、このことからかアルジェリアの独立問題に沈黙していた時期がありました。「私は正義を愛する。だが私の母親のためなら命を惜しまない」というカミユのことばには、硬直化していく思想への懐疑が窺えるでしょう。「異邦人」の主人公・ムルソーの投影を感じられるかもしれません。サルトルとの有名な論争「革命か反抗か」で、サルトルに押され気味になる実情はカミユの「反抗」の思想の核心にある「中庸」から必然的にでてくるもので、エッセイ「夏」「結婚」「裏と表」には、アルジェリアの土地への愛着が反映されています。カミユの遺稿「最初の人間」にはヨーロッパ的な文明を批判的にみる目が感じられます。浩瀚な「カミユの手帖(全)」の読みかけをついつい読み出してしまいましたが、このカミユに先行して20世紀ヨーロッパの精神の危機をその全精神で感得していた詩人にして哲学者のポール・ヴァレリーは、あらゆる事象の知性による組織化によりこれに抗いました。デカルトの男性的な精神を賞賛しながらも、頭脳の鍛錬以上のものを哲学に認めようとしませんでした。「私は考える、故に私はない」という言葉には非デカルト的な思考がうかがえます。氏が若い時代に書いた「テスト氏」は、精密なる知的な精神が一人の人物の形姿として顕現する様を描いてみせました。詩は知性の祝祭ともいうべきものとしてのみ存在を認められ、偶然の傑作にはなんの意味も認めないばかりか、「文学」への不信はその極限においては、精神になるか人間になるか、そのどちらかを選ばねばならなという極面まで、その対話を導いているのです(「ユーパリノス」)。もとより氏にとっての近代とは、相反し相矛盾する諸傾向、諸思考の共存する時代でありました。ボードレールの評価はこうした観点からなされているので、時には詩はその「罪」を露呈するもので、ボードレールの詩の核心にあるこうした傾向に重要性を見いだしていますが、サルトルは逆にこの点を批判しています。長編詩「若きパルク」も、友人のアンドレ・ジイドの強い薦めなくしては世にでることはなかったでありましょう(「ロンドン橋」)。「テスト氏」には、陸沈の生活こそが理想であり、世間にその精神を晒すことへの嫌悪が瞥見されます。ヴァレリーの壮年期の20年の沈黙はここに原因しますが、「カイエ」にはこの期間の彼の思索をみることができるでしょう。氏がマラルメの弟子のように振る舞ったのは、マラルメへの敬愛からでありました。私がマラルメの詩を知ったのは、ユイスマンスがデカダンスの聖典のような「さかしま」でその詩の断片を紹介していたからです。モーローやルドンの絵画は「さかしま」にはうってつけの絵画でありました。「いずこへなりとこの世界の外へ」というボードレールの散文詩を知ったのもこの象徴派の宝典と讃えられた、主人公のデ・ゼッサント生き方は、私の唯美的趣味にひとときの隠遁と慰安を与えてくれたものでした。こうした事情から精神病理学への私の関心は、哲学と相まってハイデッガーの影響下に「現象学的人間学」等への接近となり、自己への関心と無縁ではなかったのです。ビンスワンガーやフッサールの著作に早くから興味を寄せた理由もここにありました。こうした回想には無意識の改竄が含まれると共に、ほとんど意図的な錯視の潜入もみられます。しばしそれを「反回想」と銘打つ所以もそこにあるので、アンドレー・マルローが自身の自伝に「反回想録」と銘打ったのは行動家の自意識からでしょう。
 さて、最近のことですが、地方の友人が細君の介護のかたわら、メールでこんな感想が寄せられました。
「オーウェルの「1984」読み終えました。
途中、廊下を歩いていたら柱が傾き空間が歪んで妙な感覚に襲われました。
主人公が執拗な拷問にあったリアルな描写が肉体的にも影響を及ぼしたらしい。恐るべし言葉の力。映像表現では届かない世界。
権力と言うものの性質と普遍的な人間のサガに対するオーウェルの洞察は少しも古びない。」


(注)2018年4月に掲載された一文に、数行の追記をして、ここに再掲します。






胡蝶(「源氏物語」24帖)

 『源氏物語』(瀬戸内寂聴訳)をCDのオーディオ・ドラマで聞き始めてから、ようやく24巻の『胡蝶』まできていました。午前のまだ早い時間、床に伏してイヤホーンから聞える女性の声に耳を傾けていたときでした。天窓から射した太陽の光りが突然に右眼に当たりました。視力を失いかけた目がその時いのちの輝きを得て甦ったのかと錯覚をしてしまいました。春のほんの一時天窓はそんないたずらをするのでした。

(以下、その冒頭のCDの科白を活字に起こしてみました。)
「3月の20日あまりのころ春の御殿のお庭は例年にもましてことのほかに美しさの極みをみせています。照り映える花の色香囀る鳥の鳴き声などをよそのまちの方々は南のまちはいつまでも春の盛りがとどまっているのかしらと不思議にも思いまた評判にもなっています。築山の木立や池の中之島のあたりの緑をます苔の風情など若い女房たちが遠くからでははっきり見られないのを残念がっているようなどで源氏の君はかねて作らせておかれた唐風の船に急いで船飾りおつけになりました。いよいよ池にその船をお浮かべになる日には雅楽寮(うたづかさ)の楽人をお呼びになり船上で音楽をお催しになります。親王(みこ)たちや上達部(かんだちめ)が大勢おこしになりました。」(一部谷崎「源氏」を参考にした)

 ドラマ仕立ての朗読を文章に起こしますと、なんともしまりのない着こなしの一品になるようですが、『胡蝶』はこれぞ王朝時代と思わせる華やかな舞台なのです。春がここぞと思うばかりふんだんと色鮮やかな花々を飾り、恋のためいきときめきが男女のあいだに交錯しながら濃艶に立ちのぼってきます。光源氏が築いた六条院の春の御殿に、女主人である紫の上が龍頭鷁首(げきしゅ)の船を池にうかべ船楽を催し、そこに秋好中宮付きの女房が招待され、春の到来がこれでもかと窺える趣きとなります。見物にやってきた女房達はただうっとりとして、春の御殿を讃える和歌を詠じます。その冒頭四首の歌の後尾のひとつが、

春の日のうららにさしていく船は竿のしづくも花ぞ散りける

 『源氏物語』の研究者の玉上琢彌氏によりますと、胡蝶巻の「春の日の」歌の解説で、滝廉太郎の作曲で今も歌われる「花」の作詞は武島羽衣で、この『胡蝶』によっているとの指摘があるようです。少しよけいなことを記しますと、「新日本文学大系 源氏物語一」にある同じ玉上氏の月報によると、「紫式部の構想では、最初は読み切り短篇で「若紫」を書いて、道長に見出されその庇護のもとに、前を書き後を書き、「玉鬘」十帖を練習したところで、「桐壺」そして「藤裏葉」をものして、長篇にしあげた」と、まるで見てきた調子ですが、その理由は当時は紙が貴重で無駄にできなかったからというのあります。
 
 さて、私事となりますが、家から蔵前橋の通りを15分ばかり、ゆっくりと坂をのぼり歩いていくと、隅田川の流れにでます。

 滝廉太郎が「花」を作曲したのは明治33年とのことでした。

  春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が
  櫂のしづくも花と散る ながめを何にたとふべき

 パリのセーヌに比べますと、ずっと川幅はせまく川岸の景観もいまいちとなったこの川は、「伊勢物語」の在原業平に歌を詠ませ、世阿弥には「人の親の心は闇にあらねど子を思う道に迷ひぬるかな」という老女を登場させる「隅田川」の謡曲を作らせたのでした。

 ただ床に臥した私の耳朶をうったのは『胡蝶』の出だしにありました。
3月20日は母親の命日であったからです。小学生の私に百人一首を覚えさせた母の追想がしばし『胡蝶』を途切れさせました。あの日、私の背後からがんじがらめにして私の挙動を抑え縛りつけたのは、母ではなくて誰でありましょうか。

 まだ肌寒い春の夕暮でありました。私は房総へ旅立ち海をながめ、空にカモメが飛ぶのをみました。居酒屋で酒をのみ釣り人の雑談の親しいぬくみがこころに沁みる思いがいたしました。

 空にみつ光り仰ぎて房総の海をながめて日は暮れゆきぬ






戯画風「思い出の記」

 先夜寝しなに、ラジオに録音したNHKの「名曲スケッチ」を聞いてみた。二月は私の誕生日の月でした。毎年、この月が近づいてくると私の身体の調子は低下するのです。なぜなのか分りません。三月になって沈丁花が香り、春の陽ざしがさす頃になると不思議と回復に向かうのです。
 ただ24歳のその年だけは例外的に、私はこの月を平常に過すことができました。遠いむかしのことで、いまから思うとそんなことがあったのか、夢でもみていたのではないかと、思われてなりませんが、たしかにあれはその年の二月のことでした。
私は同じ月に誕生日を迎える女性のために、朝早くから花束と一冊の本をかかえて、小学校の教室に侵入しました。まるで映画のダーティー・ハリー君のように、可愛い子供たちへ自分がいることを黙ってくれるように頼み、教室の一番うしろの小さな椅子に腰掛けさせてもらいました。ぼくがかかえていた花束をみて、女の子の一人が頬笑みかけてくれました。おしゃまそうな顔はこういっているようでした。
「あたしあなたが、これからやりたいことがどんなことだか、わかっているわ。」
その女の子の気持ちがクラスじゅうに伝わったように、男の子も女の子も、突然の来訪者のぼくを理解してくれたように、好奇な目を輝かせはじめました。
 ぼくは勇気を貰った気分でした。椅子から立ち上がり、クラスの子供たちに言いました。
「いいかい。今日はきみたちの先生のお誕生日なのです。これから、先生が教室に入って教壇のまえに立ったら、ぼくの合図でハッピーバースデーの歌を一斉に唱ってくださいね。」
このぼくの提案にみんなが賛成してくれました。それはまるで奇蹟のようでした。
それから、ぼくと子供たちは先生が教室に入って来るのを、今かいまかと待っていました。
ぼくはふと教室の壁に「若者たち」の歌詞が大きな字で書かれた紙が貼ってあるのをみつけました。    
また、ぼくは子供たちにいいました。
「ぼくが先生に贈り物をしたら、ぼくの合図でこの壁に書いてある歌を唱ってくださいね」
子供たち全員が喜んで笑みをうかべて、また、ぼくの提案にうなずいてくれました。
こうしてぼくの悪戯、思いもよらない奇抜な企みの準備は整ったのです。

そのうち、廊下にかすかな跫音がして、教室の前の戸が開き、彼女が入ってきました。
背をちじめ子供たちの中にいたぼくを、彼女は目ざとく見つけると、大きな目を見開いて吃驚としてしまいました。
その時、ぼくはタクトを振る指揮者のように、椅子から立ち上がると、「ハイ」と合図したのです。

ハッピーバースデー・トウーユウー、ハッピーバースデー・トウーユウー。

クラス全員の子供たちの大きな声が教室じゅうに響きわたりました。その子供たちの声に、最初は唖然として驚いた彼女の顔は、こんどは恥ずかしさと笑みが入り交じった顔に変わりました。そして、合唱が終わったときには、とても明るい表情を満面にうかべ、隠しきれない喜びにあふれた顔をみたのです。
ぼくは花束と本の包みを彼女にわたすため、教壇へと進みました。
「○○さん、お誕生日、おめでとう!」
とぼくは贈り物を差出しました。ぼくはその時の彼女の顔を覚えていません。なぜなら、そのとき初めて彼女の教室にいる先生としての顔を見て、ぼくは一瞬たじろいだのかもしれません。彼女はぼくの初恋の女性でした。ぼくを苦しめそして喜ばした最愛の女性でした。

ぼくは子供たちのほうへ向き直ると、また「ハイ」と子供たちに声をかけました。そして、拍子をとって壁に貼ってある「若者たち」の歌を、子供たちと一緒に唱ったのです。

  君の行く道は 果てしなく遠い。
  だのになぜ 歯を食いしばり
  君は行くのかそんなにまでして。

 君のあの人は 今はもういない
 だのになぜ なにを探して
 君は行くのか あてもないのに

 君の行く道は 希望へと続く
 空にまた 陽がのぼるとき
 若者はまた 歩きはじめる 

 空にまた 陽がのぼるとき
 若者はまた 歩きはじめる

朝一番の小学校の教室での大合唱は、隣りの教室にいた男の先生を驚かせたのは当然でした。
彼女はその三学期を最期に、学校を辞めて俳優への道を歩き始めることが決まっていたのです。その年の誕生日の一日が彼女にぼくの気持ちを伝える最後の機会となったのです。

それから指では数えきれない多くの歳月が流れ、今年の二月の夜、それは彼女の誕生日の夜でもあったのですが、ラジオから流れた「名曲スケッチ」の最初の曲は、ヘンデルの「ラルゴ」、二曲目は、メンデルスゾーンの「歌の翼に」でした。「ラルゴ」はゆったりとした静かな曲でした。「私のお父さんが好きだった」というこの曲に相応しい一女性の感想がユチューブに載っていました。
例外的な24歳の一年から数年後、ぼくは彼女が舞台に立っている姿をみました。彼女は根っからの俳優だったのでした。「歌の翼に」のって、今も彼女は舞台の上で飛びつづけているのでしょうか。ぼくが贈ったジャンコクトーの「ポトマック」の本を持って。








アルベルト・カミーユの墓

 フランスのプロバンスにルールマランという質素な町がある。アルベルト・カミーユの墓はその町を好んだカミユが妻と一時を暮した処であったろう。妻のフランシーヌの墓地は花に飾られていたが、隣りのカミユの墓は草木が茂るにまかせた荒れ地にも等しかった。それがカミユの意図したことなのか定かではないが、カミユの文学に少しでも親炙した者には、ごく自然に受け入れられる光景であったのだ。私がパリからプロバンスへ旅をしてカミユの墓地を訪れたのは2018年の10月であった。
 カミユには「太陽の讃歌」と「反抗の論理」というタイトルの「手帖」2冊が1962年と65年に刊行されているが、その後1992年に、カミユの手帖全文(1935年から1959年)が一冊としてまとめられ1992年に発刊された。9個のノートからなり年譜を含め662頁の大著である。第5のノートには、このコロナ禍の現代人に広く読まれた作品「ペスト」への幾つかと「ルールマラン」の町への記述があるので参考のため、引用をしておこう。

 「ペスト」。これまでの生涯において、これほど大きな挫折感を味わったことは一度もなかった。最後まで行き着けるかどうかさえ分らない。しかし、ときどきは・・・・。

 なにかも吹っ飛ばしてしまうこと。反抗を風刺文書のような形で表現すること。革命も、決して人を殺さない人びとも、反抗の布教も槍玉にあげる。ただの一つも譲歩しないこと。

 新しい古典主義という観点に立てば、『ペスト』は集団的情熱に形を与える最初の試みとなるはずである。
 
 『ペスト』のために。デフォーによる『ロビンソン』第三巻の序文を参照すること。生にたいする重要な考察とロビンソン・クルーソーの驚くべき冒険。「ある種の囚われの状態を別の種類のそれによって表現することは、現実に存在する何かを存在しない何かによて表現するのと、同じくらい理に適ったことである。もし私が一人の男の私的な物語を描くという普通の方法を採用していたら、私が述べることはすべてあなたがたにいかなる気晴らしを与えることもなかったろう。」

 「ペスト」は風刺的小説(パンフレット)だ。

 どのようにして砂漠で死ぬことを学んだらよいのだろう!

 ルールマラン。幾歳月ののちに訪れたその最初の晩。リュぺロンの山上にかかる一番星。広大な沈黙。糸杉。そしてその糸杉のてっぺんはぼくの疲労の底でふるえている。荘重で峻厳な土地だーその驚くべき美しさにもかかわらず。

 「手帖」のほんの数片から、カミユの内面をのぞきみることができる。「どのように砂漠で死ぬことを学んだらよいのだろう!」とはカミユの心底をつねに湧き出てやまなかった声である。ここにでてくる糸杉は、ゴッホの遺作に現われる糸杉を連想させるものだ。
 この度、短篇集「追放と王国」から「不貞」を読んだ。「不貞」というタイトルは意味深長なものがある。因みに、この短篇集は妻のフランシーヌに捧げられているが、妻とは窺いしれない葛藤があったらしい。1960年一月二日カミユは、汽車でパリに戻るフランシーヌと子どもたちをアヴィニオンの駅まで送り、翌日、ミッシェル・ガリマールの家族とともに車でパリに向かう。四日、ヴィルヴァン近くで事故死。享年47歳、44歳で最年少のノーベル文学賞からたった3年しか生きていなかった。遺骸はルールマランに埋葬された。この地に家を購入したのは、ノーベル賞の翌年であった。ちなみに、アヴィニオンは私が愉しい時を過した町の一つであった。

 さて、上記の「手帖」から、たったニ行ほどの文章を、ここに引いておこう。

 なぜぼくは芸術家であって哲学者ではないのか。それはぼくが言葉でものを考え、観念からではないからである。(カミユはサルトルの「嘔吐」の書評で「小説は舞台に移し変えられた哲学以外のなにものでもない」と述べている。)

 ところで、カミユには裏と表の顔があった。平凡な生活者への憧憬と芸術家たらんとする情熱との表裏の顔である。おそらくルールマランの町は、妻のフランシーヌと過したほんの数年の記憶がある場所であったろう。すべてを忘却して家族と暮したほんのわずかな時が流れた小さくて静かな町である。カミユが3年もかけて書いた小説を、たった5行でそれも引用を間違えての批評に、苦い思いを噛みしめた一文もこの手帖のなかに見える。

 短篇集「追放と王国」の冒頭の小説「不貞」は、夫の貧しい商売に連れ添ってきた細君が馴れない土地で、眠れない夜に1人宿屋を抜け出し、「リュぺロンの山上にかかる一番星。広大な沈黙」にも似た夜空を仰ぎ見て畏怖に似た感情に動顛した細君が、宿屋へ急いで戻ったところ、商売の苦労に疲れ果てた夫からその様子を不信がられ、「いったいおまえどうしたんだね」と問われ、「何でもないのよ、あなた、何でもないの」と答える細君のことばで終わる、荒涼として痛切な短篇である。だが、カミユの小説にときおり顕われる「沈黙の宇宙」との一体感、それはまた人生の吐息にも似たこの瞬間はいったいなんであろのだろう。
 私は人間がこの不条理な世界の果てに、カミユの散文のなかに現われる星の燦めき、詩的ななにものかであるように想われてならないのだ。
「手帖」のなかから、「詩」に関するカミユの素っ気ない言及を引きだしておくことにする。

 私の≪神に対抗する創造≫のために、芸術は、たとえそれがなにを目的にしていようと、常に神への罪深い挑戦であるといったのは、あるカトリックの批評家だ。(中略)ペギーもまたその一人だ。≪神の不在から光りを引き出す詩さえある。それはいかなる恩寵もあてにはしないし、詩それ自体以外の、なにものをも頼りにしていない。詩とは、大地によって報われる、空間の間隙を埋める人間の努力だ。≫
 護教論的文学と、神と競り合う文学のあいだに中間はない。

 この文言のまえにある。写真への苛烈な文句とともに、カミユの「不条理」がいかに峻厳な芸術の鏡であったかの参考になるだろう。

 この世界を映すということは、多分、それを変容させることより、より確実に世界を裏切ることだ。もっとも見事な写真とは、すでに一つの裏切りである。

 風、この世界には数少ない清潔なものの一つ。

 墓地からルールマランの町への帰途、私は明るいオレンジ色の実をいっぱいつけたミモザの樹を目にして、ホッとしたことを思いだす。




ミモザ2 ルールマランの村 ルールマラン







戯画風「思い出の記」

 先夜寝しなに、ラジオに録音したNHKの「名曲スケッチ」を聞いてみた。二月は私の誕生日の月でした。毎年、この月が近づいてくると私の身体の調子は低下するのです。なぜなのか分りません。三月になって沈丁花が香り、春の陽ざしがさす頃になると不思議と回復に向かうのです。
 ただ24歳のその年だけは例外的に、私はこの月を平常に過すことができました。遠いむかしのことで、いまから思うとそんなことがあったのか、夢でもみていたのではないかと、思われてなりませんが、たしかにあれはその年の二月のことでした。
 私は同じ月に誕生日を迎える女性のために、朝早くから花束と一冊の本をかかえて、小学校の教室に侵入しました。まるで映画のダーティー・ハリー君のように、可愛い子供たちへ自分がいることを黙ってくれるように頼み、教室の一番うしろの小さな椅子に腰掛けさせてもらいました。ぼくがかかえていた花束をみて、女の子の一人が頬笑みかけてくれました。おしゃまそうな顔はこういっているようでした。
「あたしあなたが、これからやりたいことがどんなことだか、わかっているわ。」
 その女の子の気持ちがクラスじゅうに伝わったように、男の子も女の子も、突然の来訪者のぼくを理解してくれたように、好奇な目を輝かせはじめました。
 ぼくは勇気を貰った気分でした。椅子から立ち上がり、クラスの子供たちに言いました。
「いいかい。今日はきみたちの先生のお誕生日なのです。これから、先生が教室に入って教壇のまえに立ったら、ぼくの合図でハッピーバースデーの歌を一斉に唱ってくださいね。」
 このぼくの提案にみんなが賛成してくれました。それはまるで奇蹟のようでした。
それから、ぼくと子供たちは先生が教室に入って来るのを、今かいまかと待っていました。
ぼくはふと教室の壁に「若者たち」の歌詞が大きな字で書かれた紙が貼ってあるのをみつけました。    
 また、ぼくは子供たちにいいました。
「ぼくが先生に贈り物をしたら、ぼくの合図でこの壁に書いてある歌を唱ってくださいね」
 子供たち全員が喜んで笑みをうかべて、また、ぼくの提案にうなずいてくれました。
こうしてぼくの悪戯、思いもよらない奇抜な企みの準備は整ったのです。

 そのうち、廊下にかすかな跫音がして、教室の前の戸が開き、彼女が入ってきました。
背をちじめ子供たちの中にいたぼくを、彼女は目ざとく見つけると、大きな目を見開いて吃驚としてしまいました。
その時、ぼくはタクトを振る指揮者のように、椅子から立ち上がると、「ハイ」と合図したのです。

ハッピーバースデー・トウーユウー、ハッピーバースデー・トウーユウー。

 クラス全員の子供たちの大きな声が教室じゅうに響きわたりました。その子供たちの声に、最初は唖然として驚いた彼女の顔は、こんどは恥ずかしさと笑みが入り交じった顔に変わりました。そして、合唱が終わったときには、とても明るい表情を満面にうかべ、隠しきれない喜びにあふれた顔をみたのです。
 ぼくは花束と本の包みを彼女にわたすため、教壇へと進みました。
「○○さん、お誕生日、おめでとう!」
 とぼくは贈り物を差出しました。ぼくはその時の彼女の顔を覚えていません。なぜなら、そのとき初めて彼女の教室にいる先生としての顔を見て、ぼくは一瞬たじろいだのかもしれません。彼女はぼくの初恋の女性でした。ぼくを苦しめそして喜ばした最愛の女性でした。

 ぼくは子供たちのほうへ向き直ると、また「ハイ」と子供たちに声をかけました。そして、拍子をとって壁に貼ってある「若者たち」の歌を、子供たちと一緒に唱ったのです。

  君の行く道は 果てしなく遠い。
  だのになぜ 歯を食いしばり
  君は行くのかそんなにまでして。

 君のあの人は 今はもういない
 だのになぜ なにを探して
 君は行くのか あてもないのに

 君の行く道は 希望へと続く
 空にまた 陽がのぼるとき
 若者はまた 歩きはじめる 

 空にまた 陽がのぼるとき
 若者はまた 歩きはじめる

 朝一番の小学校の教室での大合唱は、隣りの教室にいた男の先生を驚かせたのは当然でした。
彼女はその三学期を最期に、学校を辞めて俳優への道を歩き始めることが決まっていたのです。その年の誕生日の一日が彼女にぼくの気持ちを伝える最後の機会となったのです。

 それから指では数えきれない多くの歳月が流れ、今年の二月の夜、それは彼女の誕生日の夜でもあったのですが、ラジオから流れた「名曲スケッチ」の最初の曲は、ヘンデルの「ラルゴ」、二曲目は、メンデルスゾーンの「歌の翼に」でした。「ラルゴ」はゆったりとした静かな曲でした。「私のお父さんが好きだった」というこの曲に相応しい一女性の感想が載っていました。例外的な24歳の一年から数年後、ぼくは彼女が舞台に立っている姿をみました。彼女は根っからの俳優だったのでした。「歌の翼に」のって、今も彼女は舞台の上で飛びつづけているのでしょうか。ぼくが贈ったジャンコクトーの「ポトマック」の本を持って。






プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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