FC2ブログ

コロナ下の文学

 今や世界中がコロナ禍である。新聞その他で様々な意見や提言を読むが、目から鱗というような記事や文章に出会ったことがない。コロナは家の中にいる猫に似ているのかも知れない。猫は長い間人間と共に暮らしてきて、いまでは可愛いペットと思い暮していた。それが急に爪をだして人を襲いだしたというのであろうか。座敷の隅でおとなしく眠っていた猫が一匹の獰猛な獸であることを忘れていた。人間との距離を取ることにかけては猫ほど利口な動物はいないのだ。そういう意味では「ソーシャルデスタンス」を一番に体得しているのが、この猫という生きものだったのではあるまいか。
 専門の学者先生が「共生」を説くのは理解できないこともないが、いまひとつ腑に落ちないもどかしさが残って仕方がないのである。巣ごもりから偶に町へ出てみると、人々がどんなにこのコロナに直面して困惑し、疲弊しているかが知られる。母も子も誰も彼もの顔にも恐れと不安が表れている。それを見ているうちに、こちらの胸が締めつけられずにはいられない。この世界的な事態をどう考えればいいのであろう。そっと猫の耳に小さな声で聞いてみたが、すげないアクビを返されてしまった。アクビをした猫が開けた口を見て、その鋭い牙に驚かされる。ローズマリーの香りが好きなこの猫はやはり獸であった。

 あくびする猫に転泣(コロナ)の間好(マスク)させ

 かくなるうえは、もう学者先生のウイルスに関する本質論、現代文明の脆弱さにそれみたことかと手を叩く類いの異論などに、耳も目もかすことは阿呆らしくなった。そこで昨年に亡くなった批評家の加藤典洋さんが「お猿の電車」に喩えた文学小説の世界へ目を転じてみることにしたのである。
 金原ひとみの「アンソーシャルディスタンス」(新潮6月号)を読んだ。やはり、「蛇にピアスを」で2003年の芥川賞を誌上最年少で受賞したまだ若い作家には、想像力による文学の魅力、その光の一片を見るような気がしたので、さわりを少し紹介してみよう。
 登場人物は一組の若いカップルである。コロナ禍での就活の苦労やら生きづらい人生への不安やらで、過激なセックスに夢中になりながらも、いつしか二人は心中を考えることになる。レンタカーで鎌倉まで行き、島へ渡って旅館の窓を割り海へ投身自殺の寸前までいくが、そうはならないところでこの小説は終わる。最後の十行ほどを引用をしておこう。

 畳の上に転がった死体のように力のない二つの体は、それぞれ僅かに呼吸で上下している。
「今さ、ヤッてる時ね。そこのテーブルにある醤油差しから吹きだしみたいな形の煙りみたいなものがぽこんと出てきてすっと消えていったのが見えたの。私醤油差しから魂が抜ける瞬間をみたのかな」
 一瞬間が空いて、笑い声を上げる。私だってびっくりしたんだよと俺の肩に拳をぶつける沙南を抱きしめ、そっかと頷きながら髪の毛を撫でる。それで俺と沙南は、他のどんな物にどんな形の魂が入ってるかなという話題で一時間ぐらい盛り上がって、また悲しいとか嫌だなとか言い合って、無慈悲なような希望のような朝を迎え、コロナが拡大する東京に戻っていくのだろう。

「醤油差しから魂が抜ける」なんていう表現がこの小説家のどこからきたのか。勿論、深い意味はないのだろう。だが、いまから50年ぐらいまえなら、この「魂」に訴えて死んだ作家がいた。ちょうど今年は「三島由紀夫歿後50年」にあたる。彼はよく知られているように、1970年11月25日に自衛隊本部に乱入しバルコニーで演説して割腹自殺をした。その一年ほどまえに彼が戦後の25年を振り返った呪詛にみちた文章のなかに、「バチルス」という言葉がでてくる。いまでいえば「コロナウィルス」のような意味合いとなるのであった。まさか50年まえに現在を予言したわけではないだろう。昨年物故した加藤について書いたこのブログにその一文を引用したとき、ふと気になり調べてみたのである。彼は「言霊」というものを信じた戦前に生れた作家であった。








唄「ファド」 伊東ゆかり 

秋風が笛を吹くと
女がセーターを着る
やめていた煙草を
一本二本と吸う

黄昏が酒を汲むと
女が靴下をぬぎ
行き過ぎた男を
指おり数えてみる

人生はいつも哀しいファドばかり
波音まじえて聞こえて来る

Lai La Lai
海よ 鴎よ 運命よ
酒よ ナイーブよ 花束よ
人生は哀しいファドばかり
Lai La Lai

海鳴りが耳を噛むと
女が寝返りを打つ
はじかれた仔猫が
窓辺であくびをする

ともしび が花になると
女が口紅をひく
空耳を信じて
二三歩走ってみる

人生はいつも哀しいファドばかり
影法師ひきずり流れてくる

Lai La Lai
海よ 鴎よ 運命よ
酒よ ナイフよ 花束よ
人生は哀しいファドばかり
Lai La Lai







中原中也

  前回のブログで、中原中也の詩を取り上げた。中也の評伝を書いている批評家の秋山駿氏の追悼の文章も書いたが、この秋山氏が「内部の人間の犯罪」の「余談・閑談」という短文で、中也についてこんなことを書いている。
「中原は、こころが弱いゆえに傷つき、その傷を歌うのではない。精神の勁さによって人を救けようとするのに、相手が無知によって救けを拒否するので、それで傷つくのである。むろん、中原は繊細である。だが、繊細は、自分を斬ることができるような、勁いこころでなければ持ち得ないものだ。弱いこころが傷つくのは、それは、脆いというべきだろう。」
 若い頃に、小林と交友した中原中也に、秋山氏が指摘したような像を重ねてみることは貴重なことだ。私は最近小林が河上徹太郎と対談したレコードを聴いて、小林像を変えざる得なかったのだが、そうでもしなければ、小林が表現する「三角関係」などが誕生するはずもないにちがいないと思われるからだ。小林のパスカルを論じた小論にしても、「『罪と罰』について」のドストエフスキーへの深く鋭い洞察を顧みても、中也がこうした批評を書く小林に拮抗する精神の勁さがなければ成立するはずがないものだ。
 秋山氏は「小林秀雄の現代性」において、小林氏が人生の教師のように遇されているのに疑義を発している。小林氏は「奇妙におかしな人かもしれない」と。もちろん、これは悪口ではなく、そういう小林氏にこそ秋山氏は現代性を覗き見ているからなのだ。
 戦争と敗戦という体験が、小林氏にもたらした経験は、「頭脳を手術される」ような、ざらざらとした内的な刻印を見せているのだと。そこから秋山氏は戦後の「『罪と罰』について」の犯罪者ラスコオリニコフへの実に不気味なほど精彩な洞察を示す所以であり、「ランボーⅢ」の背景も読まれているのである。「ランボーⅢ」における、「-或る全く新しい名付け様もない眩暈が来た。その中で、社会も人間も観念も感情も見る見るうちに崩れていき、・・・・」という体験から、「小林の内部における、戦争と敗戦という経験の純化」があったのだと。

 さて、ここで中也の詩句という事項に目を振り向けてみたい。何故なら、このブログがどれだけ読まれているのか、私はまるで関心がなかったのだが、一人だけアクセスがあった。それは私が中也を論じた秋山氏の評伝を「知られざる炎」を記したことに、訂正を入れられたことがあったのだ。そうではなく、「知れざる炎」であろうと。私の曖昧な記憶はこれによって正されたので、感謝に堪えないのであるが、冒頭の秋山氏の小論には、さらに興味深いことが記されていた。
 例えば、あの有名な「汚れちまった悲しみ」は、正しくは「汚れちまった」と表記しなければならないということである。何故かと言うに、ここは自己道化ではなく、相手を優しく包むためなのであると説かれている。また、「朝の歌」の「戸の隙」の「隙」は、「ひま」と読むのか、「すき」と読むべきか。秋山氏はタイトルを「知れざる炎」として、「知られざる炎」にしなかったのは、「知れざる炎、空にゆき!」の炎は空へと直進するものだから、この方が、炎のかたちを摑んで、適確であると書いている。
 書き言葉と話し言葉が一緒になろうとしている現代日本語では、こうした言葉の表記はどこか大事なことが含まれているようである。



(注)当ブログは2014.29付けの発表であるが、関連ができたため、再度、掲載することにした。




「秋山駿」追悼

 秋山駿氏に初めて接したのは、小林秀雄の追悼講演が新宿紀国屋ホールで開催された時である。小林の講演LPレコードを小脇に抱えて、吉本隆明のつぎにこの人の講演を聞いた。吉本の講演は話すに従い螺旋状にどこまでもひろがって収集がつかないかとの危惧を懐かせたが、秋山氏の口ごもった声の訥々とした語り口は、聴衆というより自らに語り掛けつつ内面へと沈んでいくような趣であった。
 高校生から中原中也の詩と詩法に惹かれていた私は、中原中也の評伝「知れざる炎」に、小林と異なる精神のベクトルを持った中原中也像を見出し、氏に注目したのである。小林に愛人を奪われ「口惜しき人」となった中也は、長男をも喪い三十歳で二冊の詩集を残して亡くなったが、その中原中也から独自の思想を掬い上げたのは、秋山駿氏の功績以外のなにものであったろう。
 私が秋山氏に逢ったのは、市ヶ谷の靖国通り沿いの酒場の二階であった。秋山駿氏が「群像」の評論で「小林秀雄」を書いて新人賞でデビューしたことは知らなかったが、「内部の人間」という一冊の本を熱心に読んだ鮮明な記憶があった。そこに自分の精神の面貌を読んでいた私にとって、氏の探求していくものに切実な意味があったのだ。当時の私にとり秋山駿氏の評論の言葉は、裸形の私を内部から照らす鋭い光源を秘めた鏡であった。
 「私とは最大の虚構である」とノートに書きつけ、青年期の精神の苦渋を泳いでいた私は、同じ地平で「私」をめぐる秋山氏の思考の余燼から、私が対峙せざる得なかった社会的なもの、私の内的な自由を束縛する一切の世界から、私の実存を賭けての解放をめざす「鍵」ともいうべき、内的思考の手がかりとなる一断片を手中にしたような気がしたものだ。一友人へその死を予言した三島由紀夫氏のその予言どおりの結果で驚かせたが、それを機に私の「魂の一年」への終焉をも示唆してくれたのである。
 あれから40年、「内的生活」や「抽象的な逃走」等を読み継ぎ、その本質において詩人であった氏が歩行しながらつぶやく、切れ切れの断片ともいうべき思考は、私の孤独を内部から照らし、私の生に活を賦与してくれたといってよいだろう。小林が天才を照準にしたのに対し、氏は平凡な日常を生きる「生」の本質に肉薄して、それをことばに変換しようとしていた。青年の犯罪はその恰好な思考の舞台であった。氏が小林秀雄氏の精神に見た「犯罪」への深い洞察は、小林氏をして「ドスエフスキーの生活」を書かせ、戦時においてはトルストイの「戦争と平和」に「剛毅な精神」を読み取らせる精神の断面を照射する慧眼であった。小林氏は近代以前の古典の世界へ遁れることで、現代的な危機を脱する一筋の径を見つけたようだが、「断じて現代人でなけらばならない」(ランボー)の詩句は氏を追うことをやめたはずはないだろう。
 初期の三島由紀夫氏の代表作である「金閣寺」、その焼亡の犯罪小説を、小林秀雄氏が「これは抒情詩ですね」と言わさせたものは、氏の現代的な思想の洞察を経ていなければ口にでるはずのないもので、これを黙って聞き流していた三島氏が、その後、戦後の総決算ともいうべき「境子の家」を書き上げ、三島氏の期待を裏切る文壇の冷遇に合い、それ以来自らの源泉に遡るように「英霊の声」を経て、その軌跡をまっしぐらに戦後文学とそれを支えてきた社会態勢への決別ともいうべき行動へ走らせた契機は、こうした経緯のなかから見えてくるものだ。
 「境子の家」を評価した江藤氏の評論が、もし一年でも早ければ違う展開になっていたかもしれないとは、「太宰治論」の著者、奥野建男氏の感想であるが、作家の宿命がそんな生易しいものであるはずがないのは、氏に分からないはずはなかったろう。
 この時代を画する三島氏の激烈な行動に対し疑義を表明した江藤淳に対し、小林秀雄氏は対談の中で、強い口調で江藤氏の日本の歴史認識を難詰したのであった。その小林秀雄氏が亡くなった翌月の文芸雑誌の追悼号で、秋山氏は「小林秀雄の現代性」を書いている。
 80年代の一文芸誌で、中上健二、柄谷行人、秋山駿、中野孝次、の四人の座談会があった。まだ中上も柄谷も若く意気軒昂であった頃だ。座談会の席上、柄谷の「バカ野郎!」という罵声が飛んだ。江藤淳はこれをもって、「明治以来の文壇史において前代未聞の罵詈雑言」とこれを皮肉ったが、その座談会の席上、「外へ出るか」と柄谷の罵詈に応じた秋山氏の発言は私には忘れられないものであった。これは、ある酒場で中原中也が坂口安吾に食って掛かり、小さな中原が大きな身体の安吾にすぐに組伏されてしまった光景を彷彿とさせるものである。そこに秋山駿という人の中原中也ばりの姿を見た気がした。それから暫く後、柄谷と秋山との対談中、柄谷はある時期の秋山さんの批評が一番怖いものだったという告白の科白を読んで、これは柄谷の本音であったろうと思ったものだ。「小林秀雄」で「群像」の新人評論賞を受賞して文壇にデビューした秋山駿の位置は、小林秀雄に対しての中原中也であることはいかにも明瞭であった。
 氏が「信長」を書き新境地を開いたとき、江藤淳をしてNHKの「視点」なる短時間の番組の中で、「秋山さんはこの『信長』で、石ころを持って駆け出した」という賛辞があり、それを対座している氏へむかい話題にしたところ、酒の入っていた秋山駿氏は、「ああ、そうだったね」と合図地を打って微笑した。それから、「朝日カルチャーセンターの講師となったのが誰よりも早かったこと」(氏ほどの人であの講師になる例はまだ稀な時期であった)。つぎに「先生はまだ団地に住んでいるのですか」との不躾な私の質問に、「うん、まだ団地にいるよ」との答えはいかにも氏らしいものであった。
 その後、秋山駿氏が小林秀雄の本格的な評論「魂と意匠」を書いたときに、氏はなぜもっと中也の立場からの現代的な視点での論を展開しなかったのかと、私を落胆させたのである。秋山氏は小林氏への敬愛と批判とを同時に抱懐していたが、この「魂と意匠」では前者が後者をどうやら圧倒したのかも知れない。いや、小林氏の素早い足取りを追随するこを放棄したのか、それは分からない。
 もう一つ市ヶ谷の酒席の一夜、私の頭の片隅にありながら、聞き忘れてしまったことがあった。それは氏が若い時代に三島由紀夫氏へのインタビューにおいて、「きみはひどいことをおっしゃる」と三島氏を反発させた一事のことでであった。そうした石礫のような言葉が、「舗石の思想」の書き手であった氏から三島氏へ投げられても別段におかしくはなかったのだが、そのときの氏自身の感想を直に聞いておきたかったのである。三島氏は秋山氏の評論を世界に紹介する労も取ったことでも窺がえるように、優れて現代的な氏の評論の価値を認めていた。この三島氏の自決の行動を理解できないという江藤氏に対し、対談中に小林氏が投げた礫もやがて、国士と評された江藤氏へ「西郷南洲」へと赴かしめ、北鎌倉自邸での「自裁」へ至らしめたと言っても、私生活上にいかなる難事が重なろうと文学的には過言ではないであろう。
 ともあれ、秋山氏の評論は加藤典洋の「批評」に初発の力を与え、氏自身の「信長」の論作は凡百の信長論を一蹴して余りあるものであった。一個の天才へ着目する小林から距離をおき、「プルターク英雄伝」への氏の評論は卓抜なものであった。秋山氏は平凡な日常の人生、一人の人間の単純な「生」を凝視し、そこに小さな宇宙の全体、生存の本質的な謎が賭けられている比類のない存在を見ようと、「内的生活」「私小説という人生」「人生の検証」「生の日ばかり」を書きつぎ、市井の隠者、或るいはギリシャのデモクリトスにも似た生き方を全うした秋山駿という人へ、私の最後のお別れをしたいと思う。秋山駿さん、ありがとうございました。
 


    秋山駿-本1


(注)当ブログは2013.12.20の発表であるが、関連があるため、現在時で再度掲載することにいした。




「死の勝利」ペーター・ブリューゲル

 巣ごもりから、テレビをみることが多い。「ゴッドファーザー」は何度、繰り返してみた映画だろう。シチリアからアメリカに移住し、裏社会の権力を束ねていくマフィアの家族を内側から近距離で描くことで、その盛衰の運命をみつめさせ、一家族の愛憎の諸相とアメリカ社会の裏面を映像にする手際は堂に入っている。ファミリーの保護と手段を選ばずその敵を抹殺する悪の所業に慄然としながら、この長い映画が観客を魅了するのは、いったい何処からやってくるのであろう。背後に流れる甘味であり暗く悲しい音楽。しだいに光りを絞られていく映像。終幕を告げる惨劇はパレルモのマッシモ劇場。ピエトロ・マスカーニのカバレリアルスチカーナの一幕物オペラが上演中のことである。舞台は昔の男とよりを戻した妻の浮気を知った夫が男とナイフで決闘をしている最中である。マスカーニの間奏曲の美しい旋律につれ、ゴッドファーザーの報復の銃弾が闇に炸裂する。マフィアの長い物語はここに至り、無法者達の末路に映像と舞台劇と音楽を見事に結婚させる三重の効果を一挙に実現させるのだ。かくして、総合芸術としての映画を華麗で荘重な終幕の緞帳で飾ることを忘れない。才能あふれるフランシス・フォード・コッポラ監督の映画の勝利ではないか。
 テレビの高校生講座で「ローマ帝国」を学んでみた。フランス旅行の途次にみた「ポン・デュガール」の建造物がローマのアグリッパという石膏像で知られた建築家によるもので、ローマの全盛が日本では弥生式文化時代だと知って、西洋と日本の歴史の懸隔に驚かされた。イタリアの旅行でポンペイの古代都市をみて、ナポリからシチリアへ訪ねたことがあったが、映画のマフィア達が暮らしていた町はもう存在しないとのこと。お隣の中国の歴史へ目を向ければ、始皇帝が中国を統一したのが、ソクラテスの死から200年後のことであった。司馬遷が中国の戦国時代を「史記」にまとめたのがBCの97年。こうした時間軸での歴史から、武田泰淳が「史記の世界」で掴んだ歴史は、世界を動かす人間を作用と反作用の持続の相の下、恒に人間の関係の全体を、世界の中心、その構造的な空間における、政治的人間として掴み出すことであった。
 テレビの録画は色々のジャンルを撮ってある。口直しにと、日本の池波正太郎原作の時代劇「雲霧仁左衛門」を観て、ホッと安堵の吐息を洩らす。ここでは、人間を追い詰めていく西洋的な論理が微塵もない、義理と人情のドラマがある。中国の時代劇も面白い。エントロの音楽と歌、その歌詞の語彙が漢字が全盛を極めた国ならではと、唸ってしまうほどに豊富に妖艶なのである。
 水泳選手の池江璃花子がプールに戻ってきた。パリの五輪をめざすとのこと。その初々しい若さがどん底をみて回復をしたのだ。その美しい姿に感嘆する。毎週土曜に放映される「イタリアの小さな村の物語」は、開始早々のやるせない歌の魅力もさることながら、素朴な村人のあたかも中世を思わせる古い小さな村、そこで営々とした暮らしぶりを眺めているだけで、じんわりと心を落ち着かせてくれる不思議な映像なのである。そして、日曜の全国のど自慢大会。地方の人びとの歌声から、この日本の連綿とつづく、変わりようのない哀楽の生活が忍ばれてくるのである。
 病院へ行かれない日々がつづいている。それで薬だけを貰いにいくのだが、その途中にハナミズキの花が、ひそやかにだが燦爛と咲いていた。季節は春、花々はなんという可憐な容姿を見せてくれるのであろうか。
 だがうち続くこの男の巣ごもりは、当然、精神の健康によくはないらしい。ストレスが凶暴の因子を育てているのがわかる。
 ネットで買い込んだ柊の植木鉢から、かたい棘をもつ葉が一斉に落ちだしていた。剥がされていく言葉のように。
   柊の葉やかさなり落ちて爪となり
 拙い不穏な一句が、胸に浮び流れていくのは、その故であろうか。どこかの家の中からDVでの子どもの悲鳴が聞こえてきそうだ。
 14世紀のスペインを襲ったペストをネーデルランドの画家、ペーター・ブリューゲルがテンペラで描いた「死の勝利」と題した絵をプラド美術館へ行きながら、どうしたわけか見逃したらしい。壮大なる地獄絵である。凄惨の極みである。「メメント・モリ(死を忘れるな)」と当時の人々の心に刻まれた恐ろしい情景を、ペーター・ブリューゲルの筆致は残酷かつ冷徹に描いている。これに比べて現代のコロナはやさしそうだ。奇妙に、だが穏当ならざる「平和」が、見えない塵のようにあたりを漂っている。これが21世紀の曲者の正体なのだ。コロナがしている透明なマスクがいつこの地球の口を塞ぎ、その凶暴な爪を露わにする日が来ないとも限らない。すでにわたし達はこの小さな天体を数え切れないほどに幾度も破壊する兵器をポケットに持っていながら、認知症のボケ老人よろしく、それに気づかないふりをするのにすっかり馴れてしまっただけなのだ。プラハで演説をしてノーベル平和賞を貰った人と、その後に続いた赤ネクタイと、どこに違いがあるというのだろうか。やさしい歌声と白い歯の微笑に剥かされてはならない。口を蔽い語ることのない大きなマスクこそ「死の勝利」の地獄絵が描かれる、夢想だにできない清潔な画布であることを、忘れてはならないのである。
 浴槽で開いた越後の漂白の俳人、井月の句集から一句をしたためておきたい。

  翌日(あす)しらぬ身の楽しみや花に酒



   IMG00690_HDR_convert_20200511164007_202005111647252b8.jpg




プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード