FC2ブログ

「武田泰淳」雑感

 近頃、新聞等に載る諸々の意見を読んだあと、どれもうまく書かれていると思う一方、なにか食い足りなく、空漠たる印象しか残らないことに気づかされることが多い。短い論文もそうだが、文芸評論が実に味気ないものになった。このことは自分も含めてのことなので、あまり大きな声で言えることではないのだが、どうも戦後生まれの人間には、大岡昇平ではないが、「戦争を知らない人間は半分子供のようなものだ」ということばがフト思い出されるのである。「戦後」などというと、まだ日本人は「戦後」から脱しきれないのかと、どこからかお咎めを受けかねない。しかし、さきに当ブログで紹介した「永続敗戦論」のような「戦後論」が、30代の学識者が書いて、なかなかのインパクトを感じるということは、素直な反応であることは否定しえないだろう。昭和天皇以来、8月15日の終戦記念日の式典で、天皇・皇后の言葉は同じ内容で語られているが、翻ればあれはなんなのかと考えてみるがいいではないか。歴史は誰もあまりに有名なことばなのでその意味を噛みしめようとしないが、「歴史は現在と過去との対話」(E・H・カー)なのではないか。
 冒頭の話題に戻ると、そうした索漠たる思いは、書かれた内容が頭がいいとか、よく研究して勉強をしているとかには関係のない、なにか精神と肉体の中核に本物の芯が抜けているのではないかと、自省せざる得ないところにあるのだ。思想関係の書物を読んでも、ほとんどが他人の思想の借りもので、それを自分なりに咀嚼して、よくまあ勉強しました、よく整理できましたね、ご苦労さんと二度とそれを手に取り上げようという気は起こりようがない。そんなものが本になり、数万も数十万も売れようと、どうでもいいことなのである。或いはなんとか賞に当選した受賞したとかいう報をきいても、ああ、そうですかと、それで終わりなのだ。
 どうも私もふくめ多くの人間が、ふかく精神の「不感症」に陥っているのでないだろうかと、そら恐ろしくなる。そんなとき、書架から取り出すことが多いのが、「滅亡について」(武田泰淳・文藝春秋1971年刊)である。また今夏はこの猛暑のなか『才子佳人・蝮のすえ・「愛」のかたち』の文庫本をネットで買いこみ、再読してみたのだ。むかし読んだときは解らないながら、なにか重たく、底深いものがあると触知した記憶が残っていたからかも知れない。だが吉本隆明が、戦後文学では太宰治と武田泰淳の二人にだけに可能性を見いだしていたのは炯眼であった。太宰は高校生のときに、奥野健男の「太宰治論」と共に、よく読んだが、武田泰淳はその後であった。今度、この文庫本を二度読んでみたが、その広闊、重層、深淵、多彩な筋と方法、人物と形式には、めまいのような感覚を覚えた。
 「滅亡について」は多くの論者が語っているので、屋上屋を重ねたくはないが、日本内地ではなく、上海での敗戦体験が、司馬遷の「史記」読後に氏の世界認識の布置を変えた(この下地はポーの「ユウレイカ」にあったようだ)ことと関連しているのだが、「女について」というエッセイも見逃しがたいのは、小説『「愛」のかたち』の「町子」という人物が、「不感症」であるという暗示がいったいなにを意味しているかを考えざるお得ないからである。これは氏の小説に頻出する「無感覚」という形容詞とも関連する。
 「或る女」を書いた有島武朗を氏がねたむほどに、氏は「女」を書くことに執着するのは、女は作家の技術のモンダイではなく、「作家は女とともに生きることによって、はじめて自分が何者であるかを知る」存在であるからなのだ。武田泰淳は中国研究家でもあった。氏は竹内好と共に中国をよく知っている人物なのだ。すこし飛躍するようだが、隣国の中国という存在が、今後の日本にとって、恰も泰淳の「女」への真摯な姿勢と同等の意味と重みをもって来ることと無関係ではないのである。
 小説『「愛」のかたち』の「町子」が複数の男を翻弄するかのような「かたち」が、このアジアの政治状況に現れない保障はどこにもない。少なくとも作家たる人間はそうした混沌たる近未来の可能性に、その想像力の膂力を養っておかなくてはならないのだろう。
 この連日連夜の猛暑の統計上の数値は報道されている。この「異常気象」が確かに自然現象であることは疑問の余地はないが、果たして外界の「自然」は人間の「内なる自然」と無関係に存在しているものなのであろうか。


注:2013.8に当ブログに掲載されたが、ここに再掲する。




ボードレール

 目が不自由になってから、ラジオから録音したものを寝ながら耳で聴くようになった。ある会社のラジオ機器は大変に便利にできている。月曜から土曜まで予約を入れておくだけで、いつでも同じ録音を幾度でも聞くことができるからだ。いまでは色々な番組を録音している。英語、フランス語、中国語、英語ニュースまで、日によっては小説の朗読、漢詩、昔のアーカイブス、音楽などである。
 先夜、寝床に入ってから聞いた音楽は良かった。土曜の昼に流れる「音楽スケッチ」は短いものだが、二曲、聞かせてくれる。ガエターノ・ドニゼッティ 《愛の妙薬》 の「人知れぬ涙」は私の心臓を突いた。次ぎのプッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」第二幕、ソプラノ歌手の中丸三千絵さんが歌うアリア「私の、お父さん」は、その切々として張りのある歌声で私の胸の奥にまで響きわたって、うっとりと幸福なこころもちにしてくれたのだ。父が息子を思う心情を歌う椿姫の「プロバンスの海と空」もいいが、やはり娘から「私の、お父さん」こんなふうに呼ばれてみたいではないか。
 二月のある夕べ、娘二人の夫に孫たち3人、それに私の息子を含め、老夫婦二人そろって誕生日祝のご招待をうけた。全員が円卓を囲んでの晩餐であった。わたしたちは同じ二月生まれ。私は魚座、妻は水瓶座で古稀になった。親にとって子供たちからこうして感謝されるほど嬉しいことはない。心から感謝を申上げたい。花束と瀟洒なアルバムをありがとう。
 家での飼い猫はときおり脱走を試みてそのたびに捕まっている。魚座の私も家から旅と称していくども逃走を図ったが、所詮、瓶の中の魚の運命は限られていたようだ。
 私の行き先はいつも海であった。ボードレールで好きな詩に「人間と海」がある。
 ここで、この「悪の華」(堀口大学訳)からの引用をしておきたいと思う。
  
  人間と海

自由な人間よ、常に君は海を愛するはずだよ!
海は君の鏡だもの、逆巻き返す怒濤のうちに
君が眺めるもの、あれは君の魂だもの、
君が心とて、海に劣らず塩辛い淵だもの。

自分自身の絵姿の中へ、君は好んで身をひたす、
眼で、腕で、君はそれを抱き寄せる、
君が思いは時に、自分の乱れ心を
暴れ狂う海の嘆きで紛らせる。

君も海も、同じほどに、陰険で隠しだてする、
人間よ、君の心の深間を究めた者が一人でもあったか?
海よ、誰ひとり君が秘める財宝の限りは知らぬではないか?
それほどに君らには各自(てんで)の秘密が大事なのだ!

そのくせ君らは幾千年、情け容赦も知らぬげに
戦いつづけて来てるのだ、
おお、永遠の闘士たち、おお、和し難い兄弟よ、
血煙あげる殺戮と死がさほどまで気に入るか!

 この原語のレコードの朗読に幾度、耳を傾けたことであったろう。
 訳者の堀口大学は「あとがき」で書いている。
「詩集『悪の華』は、ボードレール(1821年~67)一生の詩集だ。この詩人には、これ以外の詩集はない。・・・本書には、162の詩篇が収録されている。行数(詩句)にして、大凡4200行。これがボードレール一生の詩作の総量、創作期間は詩人の二十歳から四十歳までの二十年間。決して多くはない、否、むしろ人はその少ないのに驚くだろう。詩人としてのボードレールは、決して多作ではなかった、否、むしろ寡作だった。」
  ボードレールはこの詩篇への彫琢の手を休めることはなかった。完璧の作品も“ぎごちなさ、わざとらしさ”を気にかけ彫琢をしつづけた。詩句のなかの・ポアン一つ、 ,ヴィルギエル一つに心を砕いたという。ヴェルレーヌがはっきりと言明した音楽性を、ボードレールほど言語がもつ肉感の相似、比較、直喩において追求したサンボリストはいないだろう。不可知の追求、無窮の探求により、物象の外観はその観念と、抽象は具象と一致する領域へと到達すること、これが彼の芸術の理念であった・・・・。

 ところで、さきのプッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」第二幕のアリア「私の、お父さん」は、私の期待とは違い、つぎのような科白が続くのである。

「ねえ 私の大切なお父さま
わたし あの方が好き とてもステキな人なのよ
だからポルタ・ロッサ(フィレンツェの中心街の通りの名)へ
指輪を買いに行きたいの!
ええ そう あそこへ行きたいの
そしてもしもこの愛が儚いものなら
ヴェッキオ橋(フィレンツェの街中を流れるアルノ河にかかる橋で街のもっとも繁華な場所)に行って
代わりにアルノ河へ身を捨てますわ!
わたし 切なくて 苦しくて
ああ 神さま いっそ死にたいくらいです!
お父さま お願いです お願いですから!」

 かくして、私の甘い夢想はとんでもないお門違いであることが判明した!
にもかかわらず、日本人のソプラノ歌手、中丸三千絵さんが歌うアリアは素晴らしいものであった。彼女は「マリア・カラス大賞」の受章者でありました。生前の高円宮 憲仁親王との対談で「ある時、声の大きさや美しさでは外国人と張り合えないと思った。それでどうしたら良いかと考えた結果が、ピアニシモの美しさで勝負するということでした。ピアニシモを美しくだして、それをきれいな発音で客席へ飛ばしていくことの訓練をしたのです」と仰っているのを知り、感得することがでたのです。





コートールド美術館展

 パリで生れた娘の赤ん坊に対面するため、夫婦でフランスへ飛んだのは5年まえのことだった。パリに行くならこの機会に行きたいところがあった。「オペラ座」とミュージックホールの「フォリー・ベルジェール」である。両方ともフランスの絵画ではおなじみの舞台だ。青年時代に親しんだ画家のドガはバレーの幾点をすでに描いていた。エドゥアール・マネの「桟敷席」もあるが、晩年に描いた大作「フォリー・ベルジェール」はお気に入りの一点である。娘の旦那の案内でタクシーに乗り足を運んだフォリー・ベルジェールは建物はかろうじて残っていたが、昔日のミュージックホールの面影はなかった。酒が好きだというわけでもなく、19世紀末のパリの雰囲気が醸されている客人たちでさんざめく酒場、むんむんとしたミュージックホールへの執心がこちらにあったからだ。大きな鏡に映るパリジャンたちが蝟集する遊興のサロン、大都会の秘密めいた快楽をもとめる自由人の気ままな空気の渦と歓楽のざわめき、遊び人たちの姿態の数々、群衆の目と耳を酔わせる、都会の豪奢な一隅がそこには描かれていたのだ。なによりも画面中央に堂々と佇む一人の若い女性が私を魅惑したのであった。女の名前がシュゾンというのは河盛好蔵のエッセイで早くから知っていた。1982年、エドゥアール・マネはこの最後の大作を描いて、翌年、51歳でその短い生涯を終えたのである。ポール・ヴァレリーの「マネの勝利」は高級娼婦「オランピア」の作品の前に呼び集められたあまたの作品が並んでいる。
 「草上の昼食」「ローラ・ド・ヴァランス」「笛を吹く少年」「エミール・ゾラの肖像」「皇帝マキシミリアンの処刑」「鉄道」「死せる闘牛士」「アプサンを飲む男」「菫の花束をもつベルト・モリゾー」「ステファーヌ・マラルメ」「バルコン」等々。
 19世紀のパリの巷から、マネはなんという現代的な題材を取り上げ、それを極上の一品としては画布のうえに掬いとったことだろう。ヴァレリーがそのマネの近代絵画への扉を開けるに費やした画家の努力に注いだまなざし、マネの勝利についてさほどに筆をふるったとは思われない一文は私を失望させるに充分であった。マネの描いたベルト・モリゾーへのご執心は分るがマネという画家の偉大さが語り尽くされてはいないのである。ヴァレリーはまた幾多の錚々たる人物の名前を並べている。
 シャルル・ボードレール、ゴーチェ、ユイスマンス、ステファーヌ・マラルメ、ベルト・モリゾー、エミール・ゾラ、エドガー・ドガ、モネー、ルノアール、クレマンソー等々。
 なんという一流の詩人、作家たちが集合させられたことだろうか。だが「フォリー・ベルジェール」のまんなかに立つこの女性の顔が放つ異彩はどこからくるのか。現代のモナリザなどはつまらぬ連想でしかないし、ましてベラスケスの「ラス・メニーナス」を意識する必要はどこにもないのである。ヴァレリーはマネの人となりを語っているが、このカウンターの向こうに立つ若い女性はすでに人生にむけるなんらの表情をもってはいないのだ。画家マネの若い頃に描かせた肖像画にみられた豹のような野性のもつ精悍さはどうやら蕩尽されてしまった模様である。にもかかわらずこの女性が人を惹きつける魅惑があるのはなぜであろうか。退屈と平凡の極み、人生の倦怠をすべて黙殺しているかのように、すっくりとカウンターに凭れて佇んでいる女性の薔薇色に染まった虚ろな顔の魅惑はどこからくるのであろうか。鏡に映る後姿の女性とは無縁に佇立するかのごとく、まして山高帽の紳士など、それらすべてを超越し、離脱してこの絵の中にだけに現前したかのように、独り立つ女性を詩人のボードレールなら「悪の華」のどんな詩句で飾るだろうか。画家マネの晩年の襤褸、死衣を纏ったイマージュの精霊なではないのか。
 「僕の心よ、諦めて、駑馬(どば)の眠りを眠るがよい。」(「虚無の味」)堀口大学訳

 コートールド美術館は寡聞にして知らなかったが、この英国の紳士は収集家の確かな目の持ち主だったことは明白だ。セザンヌの数点を見たが、私は再びその虜になった。「パイプをくわえた男」に目は自然と吸い寄せられた。「私は時の為すがままに年を重ねた人々の姿がなんにもまして好きなのです」というセザンヌの言葉を読んで、遙かむかしに読んだモンテーニュを思いだしたことは幸いであった。ウジェーヌ・ブータンの2点が見られたのも嬉しいことで、私はブータンの海辺の風景を好んだからだ。ゴーギャンの「ネバモア」。ドガの「窓辺の女」。モジリアーニの「裸婦」。ロダンの「花子」のブロンズは鴎外が短篇に書き、凄まじい形相で見つめる小林秀雄の写真をみたことがあったが、その日本女性の美しさはロダンの目にたしかに見えていたものだ。跪いて顎からみた花子の顔はエロスの焔に輝いていたからである。
 なお、ボードレールの訳詞は昭和28年発行の「悪の華」から執らせていただいた。


IMG00356 (2)  IMG00562 (2)



お城が燃えていた

 そのむかし「琉球王国」であった首里城が燃え落ちる映像をニュースで見た。
 1972年の夏、お城はまだ再建されていなかったが、首里城の門だけが丘の上に立っていた。その前でダイビング仲間の数人と記念写真を撮ったことがあった。沖縄の本土返還の直後であった。ヴェトナム戦争がアメリカの撤兵で終結したのは1975年であるから、沖縄はアメリカの軍事基地として機能したいた。戦争のキナクサイ臭いがただよい、車は右側通行であったのは不思議でもなんでもなかった。
 ぼく達は那覇港から激しい嵐の波浪をついて石垣へわたった。
 毎日、海に潜って日を過していた。四十数メートルの深さを、残圧の空気が渋くなるまで海の中にいた。冷えきった身体を砂浜に横たえて西陽を浴びて暖をとった。藍色の深い海は透明で遠くまで視界がきいた。昼の空はただ青くぎらつく太陽の光線は容赦なくぼくたちの肌を灼いた。夜、その空に天の川が流れ、燦めいた無数の星がひしめき、暗い海辺に波が寄せて浜辺に崩れる轟音が岸辺に地鳴りをたてていた。石垣から小さな舟に乗り竹富島へ渡った。日本の南端に位置する小さな島は閑散としていた。島は白砂がまかれ、珊瑚を積み上げた塀に囲われた民家に泊まった。島の老人がジャミセンを弾いてのんびりした抑揚のある島唄を唄ってくれ、強い焼酎を茶碗で飲んだ。日露戦争のときはバルチック艦隊の動きを望遠鏡で島から見張っていたという古老の話しを聞いた。宝石のような竹富の島をうかべる海は、空を舞う鳶の声と風の音いがい、眠ったように静かに澄みわたって輝いていた。
 民と清との交易で栄えていた琉球王国は、平安時代に日本の国土統一下におかれ、江戸時代の鎖国政策にあってもなお外国との貿易を続けていたようだ。やがて薩摩の島津家がこの琉球王国を支配下におこうとしたことは、10年ほどまえに仲間由紀恵が首里城を舞台にしたドラマ「テンペスト」で好演して面白くみたところだった。太平洋戦争末期のあの激戦が沖縄としての歴史を画したことは誰知らぬものはいないだろう。
 幾度沖縄の島々へ、ダイビングのために行ったことだろうか。この海に友人が散骨されたため、竹富島へ行ったのは数年まえになる。最後の友人から葉書は「浜島」の写真が映っていた。 
 燃え落ちる首里城にこころを痛めたのは、ドラマに主演した仲間由紀恵さんだけではないにちがいない。


浜島
     浜島




伊東静雄

 「花ざかりの森」の序文を、若き日の三島由紀夫はどれほどこの詩人から貰いたかったことだろう。しかし、詩人はそれを拒んだ。その仔細は、「わが人に与ふる哀歌」(1935年)から「夏花」(1940年)「春のいそぎ」(1943年)「反響」(1947年)までの、4冊の詩集を味読するいがいないにちがいない。それは丁度、昭和10年から昭和47年までの、戦前の昭和と敗戦までの近代日本の歴史に符合する詩業であった。
 私はこの詩人について書きたいと、その頃ある詩誌の同人の一人から「伊東静雄全集」の一巻を借り、詩、日記、書簡を読んだことがあった。だが、参考として偶々、杉本秀太郎の「伊東静雄」を読んでその願いを放棄した。現在は「杉本秀太郎文粋5」に収められている深甚なる論考において、「伊東静雄のことを考えるというのは、私には、彼が書いた詩を彼みずからまとめた詩集のなかで考えるということにひとしい」ということであり、それはこの論考で見事に果たされているという感嘆ととも、私の希みもまた終息したのである。
 いまはただ、日本人の感受性の原型を成したともいえる「古今和歌集」がなければ「源氏物語」もなかった(竹西寛子「古今和歌集の世界へ」)、その「古今和歌集」に親炙した伊東静雄の詩から、若干の詩を写すことにしたい。
 まず、「わが人に与ふる哀歌」から「曠野の歌」

  わが死せむ美しき日のために
  連嶺の夢想よ!汝が白雪を消さずあれ
  息苦しい稀薄のこれの曠野に
  ひと知れぬ泉をすぎ
  非時(ときじく)の木の実熟るる
  隠れたる場しよを過ぎ
  われの播種(ま)く花のしるし
  近づく日わが屍骸(なきがら)を曳かむ馬を
 この道標(しめ)はいざなひ還さむ
 あゝかくてわが永久(とわ)の帰郷を
  高貴なる汝(な)が白き光見送り
 木の実照り 泉はわらひ・・・
 わが痛き夢よこの時ぞ遂に
 休らはむもの!

「夏花」から「八月の石にすがりて」

     八月の石にすがりて
     さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
     わが運命(さだめ)を知りしのち、
     たれかよくこの烈しき
     夏の陽光のなかに生きむ。

     運命(さだめ)? さなり、
     あゝわれら自ら孤寂(こせき)なる発光体なり!
     白き外部世界なり。
      見よや、太陽はかしこに
     わづかにおのれがためにこそ
      深く、美しき木陰をつくれ。
     われも亦、

     雪原(せつげん)に倒れふし、飢ゑにかげりて
       青みし狼の目を、しばし夢みむ。    
       
「春の急ぎ」から「春の雪」

みささぎにふるはるの雪
枝透きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは

なく声のけさはきこえず
まなこ閉じ百(もの)ゐむ鳥の
しづかなるはねにかつ消え

ながめゐしわれが想ひに
下草のしめりもかすか
春来もとゆきふるあした

「反響」から「夏の終り」

     夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
     気のとほくなるほど澄んだ
     かぐはしい大気の空をながれてゆく
     太陽の燃えかがやく野の景観に
     それがおほきく落とす静かな翳は
         ・・・さよなら・・・さようなら・・・
   ・・・さよなら・・・さようなら・・・
   いちいちさう頷く眼差しのやうに
     一筋ひかる街道をよこぎり
     あざやかな暗緑の水田(みずた)の面を移り
     ちひさく動く行人をおひ越して
     しづかにしづかに村落の屋根屋根や
     樹上にかげり   
    ・・・さよなら・・・さようなら・・・
    ・・・さよなら・・・さようなら・・・
     ずつとこの会釈をつづけながら
    やがて優しくわが視野から遠ざかる

 杉本秀太郎の「伊東静雄」には、その扉にヘルダーリンの「ヒュペーリオン」からの写しがあるので、それを載せておきたい。

ー按ずるに、すべて生あるものは発展と萎縮、離巣と回帰をくり返すほかなしとすれば、人の心また然りといえない 道理が あるだろうか。

 杉本氏は「伊東静雄詩集」の「解説」において、ジョバンニ・セガンティーニの画集から、詩人は多くのモティーフを得たことを語り、詩を批評するには評論しかないと思っているのは、われわれの思いこみである。詩によって詩を批評すること。本歌取りというものは本来、先人の和歌を和歌によって批評する形式であった。伊東静雄は本歌取りという伝統の蘇生をひそかに、はにかみがちに、試みたのであると、注記している。
 昭和二十八年(1953年)伊東静雄は、その生の大半を大阪府立住吉中学校に奉職、満46歳で亡くなり、諫早の土に葬られた。
杉本氏は「身辺を省みれば、人生の無常迅速、さらに切なるものをおぼえる。(一九八九年七月七日)」と解説を結んでいる。
 氏は画家の安野光雅との共著「みちの辺の花」という雅品のある書物のなかで「吾亦紅」(われもこう)に薀蓄をかたむかた一文をよせている。
  ついでに拙句を詠んで添えたい。

      青春の 骨を拾いて 吾亦紅


  DSC03930.jpg DSC03929.jpg DSC03921.jpg DSC03928.jpgワレモコウ


プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード