FC2ブログ

コートールド美術館展

 パリで生れた娘の赤ん坊に対面するため、夫婦でフランスへ飛んだのは5年まえのことだった。パリに行くならこの機会に行きたいところがあった。「オペラ座」とミュージックホールの「フォリー・ベルジェール」である。両方ともフランスの絵画ではおなじみの舞台だ。青年時代に親しんだ画家のドガはバレーの幾点をすでに描いていた。エドゥアール・マネの「桟敷席」もあるが、晩年に描いた大作「フォリー・ベルジェール」はお気に入りの一点である。娘の旦那の案内でタクシーに乗り足を運んだフォリー・ベルジェールは建物はかろうじて残っていたが、昔日のミュージックホールの面影はなかった。酒が好きだというわけでもなく、19世紀末のパリの雰囲気が醸されている客人たちでさんざめく酒場、むんむんとしたミュージックホールへの執心がこちらにあったからだ。大きな鏡に映るパリジャンたちが蝟集する遊興のサロン、大都会の秘密めいた快楽をもとめる自由人の気ままな空気の渦と歓楽のざわめき、遊び人たちの姿態の数々、群衆の目と耳を酔わせる、都会の豪奢な一隅がそこには描かれていたのだ。なによりも画面中央に堂々と佇む一人の若い女性が私を魅惑したのであった。女の名前がシュゾンというのは河盛好蔵のエッセイで早くから知っていた。1982年、エドゥアール・マネはこの最後の大作を描いて、翌年、51歳でその短い生涯を終えたのである。ポール・ヴァレリーの「マネの勝利」は高級娼婦「オランピア」の作品の前に呼び集められたあまたの作品が並んでいる。
 「草上の昼食」「ローラ・ド・ヴァランス」「笛を吹く少年」「エミール・ゾラの肖像」「皇帝マキシミリアンの処刑」「鉄道」「死せる闘牛士」「アプサンを飲む男」「菫の花束をもつベルト・モリゾー」「ステファーヌ・マラルメ」「バルコン」等々。
 19世紀のパリの巷から、マネはなんという現代的な題材を取り上げ、それを極上の一品としては画布のうえに掬いとったことだろう。ヴァレリーがそのマネの近代絵画への扉を開けるに費やした画家の努力に注いだまなざし、マネの勝利についてさほどに筆をふるったとは思われない一文は私を失望させるに充分であった。マネの描いたベルト・モリゾーへのご執心は分るがマネという画家の偉大さが語り尽くされてはいないのである。ヴァレリーはまた幾多の錚々たる人物の名前を並べている。
 シャルル・ボードレール、ゴーチェ、ユイスマンス、ステファーヌ・マラルメ、ベルト・モリゾー、エミール・ゾラ、エドガー・ドガ、モネー、ルノアール、クレマンソー等々。
 なんという一流の詩人、作家たちが集合させられたことだろうか。だが「フォリー・ベルジェール」のまんなかに立つこの女性の顔が放つ異彩はどこからくるのか。現代のモナリザなどはつまらぬ連想でしかないし、ましてベラスケスの「ラス・メニーナス」を意識する必要はどこにもないのである。ヴァレリーはマネの人となりを語っているが、このカウンターの向こうに立つ若い女性はすでに人生にむけるなんらの表情をもってはいないのだ。画家マネの若い頃に描かせた肖像画にみられた豹のような野性のもつ精悍さはどうやら蕩尽されてしまった模様である。にもかかわらずこの女性が人を惹きつける魅惑があるのはなぜであろうか。退屈と平凡の極み、人生の倦怠をすべて黙殺しているかのように、すっくりとカウンターに凭れて佇んでいる女性の薔薇色に染まった虚ろな顔の魅惑はどこからくるのであろうか。鏡に映る後姿の女性とは無縁に佇立するかのごとく、まして山高帽の紳士など、それらすべてを超越し、離脱してこの絵の中にだけに現前したかのように、独り立つ女性を詩人のボードレールなら「悪の華」のどんな詩句で飾るだろうか。画家マネの晩年の襤褸、死衣を纏ったイマージュの精霊なではないのか。
 「諦めよ、わが心、獣の眠りを眠るがいい。」(「虚無の味」)

 コートールド美術館は寡聞にして知らなかったが、この英国の紳士は収集家の確かな目の持ち主だったことは明白だ。セザンヌの数点を見たが、私は再びその虜になった。「パイプをくわえた男」に目は自然と吸い寄せられた。「私は時の為すがままに年を重ねた人々の姿がなんにもまして好きなのです」というセザンヌの言葉を読んで、遙かむかしに読んだモンテーニュを思いだした。ウジェーヌ・ブータンの2点が見られたのは嬉しいことであった。ゴーギャンの「ネバモア」。ドガの「窓辺の女」。モジリアーニの「裸婦」。ロダンの「花子」のブロンズは鴎外が短篇に書き、凄まじい形相で見つめる小林秀雄の写真をみたことがあったが、だがその日本女性の美しさはロダンの目にたしかに見えていたものだ。跪いて顎からみた花子の顔はエロスの炎に輝いていたからである。

  




お城が燃えていた

 そのむかし「琉球王国」であった首里城が燃え落ちる映像をニュースで見た。
 1972年の夏、お城はまだ再建されていなかったが、首里城の門だけが丘の上に立っていた。その前でダイビング仲間の数人と記念写真を撮ったことがあった。沖縄の本土返還の直後であった。ヴェトナム戦争がアメリカの撤兵で終結したのは1975年であるから、沖縄はアメリカの軍事基地として機能したいた。戦争のキナクサイ臭いがただよい、車は右側通行であったのは不思議でもなんでもなかった。
 ぼく達は那覇港から激しい嵐の波浪をついて石垣へわたった。
 毎日、海に潜って日を過していた。四十数メートルの深さを、残圧の空気が渋くなるまで海の中にいた。冷えきった身体を砂浜に横たえて西陽を浴びて暖をとった。藍色の深い海は透明で遠くまで視界がきいた。昼の空はただ青くぎらつく太陽の光線は容赦なくぼくたちの肌を灼いた。夜、その空に天の川が流れ、燦めいた無数の星がひしめき、暗い海辺に波が寄せて浜辺に崩れる轟音が岸辺に地鳴りをたてていた。石垣から小さな舟に乗り竹富島へ渡った。日本の南端に位置する小さな島は閑散としていた。島は白砂がまかれ、珊瑚を積み上げた塀に囲われた民家に泊まった。島の老人がジャミセンを弾いてのんびりした抑揚のある島唄を唄ってくれ、強い焼酎を茶碗で飲んだ。日露戦争のときはバルチック艦隊の動きを望遠鏡で島から見張っていたという古老の話しを聞いた。宝石のような竹富の島をうかべる海は、空を舞う鳶の声と風の音いがい、眠ったように静かに澄みわたって輝いていた。
 民と清との交易で栄えていた琉球王国は、平安時代に日本の国土統一下におかれ、江戸時代の鎖国政策にあってもなお外国との貿易を続けていたようだ。やがて薩摩の島津家がこの琉球王国を支配下におこうとしたことは、10年ほどまえに仲間由紀恵が首里城を舞台にしたドラマ「テンペスト」で好演して面白くみたところだった。太平洋戦争末期のあの激戦が沖縄としての歴史を画したことは誰知らぬものはいないだろう。
 幾度沖縄の島々へ、ダイビングのために行ったことだろうか。この海に友人が散骨されたため、竹富島へ行ったのは数年まえになる。最後の友人から葉書は「浜島」の写真が映っていた。 
 燃え落ちる首里城にこころを痛めたのは、ドラマに主演した仲間由紀恵さんだけではないにちがいない。


浜島
     浜島




伊東静雄

 「花ざかりの森」の序文を、若き日の三島由紀夫はどれほどこの詩人から貰いたかったことだろう。しかし、詩人はそれを拒んだ。その仔細は、「わが人に与ふる哀歌」(1935年)から「夏花」(1940年)「春のいそぎ」(1943年)「反響」(1947年)までの、4冊の詩集を味読するいがいないにちがいない。それは丁度、昭和10年から昭和47年までの、戦前の昭和と敗戦までの近代日本の歴史に符合する詩業であった。
 私はこの詩人について書きたいと、その頃ある詩誌の同人の一人から「伊東静雄全集」の一巻を借り、詩、日記、書簡を読んだことがあった。だが、参考として偶々、杉本秀太郎の「伊東静雄」を読んでその願いを放棄した。現在は「杉本秀太郎文粋5」に収められている深甚なる論考において、「伊東静雄のことを考えるというのは、私には、彼が書いた詩を彼みずからまとめた詩集のなかで考えるということにひとしい」ということであり、それはこの論考で見事に果たされているという感嘆ととも、私の希みもまた終息したのである。
 いまはただ、日本人の感受性の原型を成したともいえる「古今和歌集」がなければ「源氏物語」もなかった(竹西寛子「古今和歌集の世界へ」)、その「古今和歌集」に親炙した伊東静雄の詩から、若干の詩を写すことにしたい。
 まず、「わが人に与ふる哀歌」から「曠野の歌」

  わが死せむ美しき日のために
  連嶺の夢想よ!汝が白雪を消さずあれ
  息苦しい稀薄のこれの曠野に
  ひと知れぬ泉をすぎ
  非時(ときじく)の木の実熟るる
  隠れたる場しよを過ぎ
  われの播種(ま)く花のしるし
  近づく日わが屍骸(なきがら)を曳かむ馬を
 この道標(しめ)はいざなひ還さむ
 あゝかくてわが永久(とわ)の帰郷を
  高貴なる汝(な)が白き光見送り
 木の実照り 泉はわらひ・・・
 わが痛き夢よこの時ぞ遂に
 休らはむもの!

「夏花」から「八月の石にすがりて」

     八月の石にすがりて
     さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
     わが運命(さだめ)を知りしのち、
     たれかよくこの烈しき
     夏の陽光のなかに生きむ。

     運命(さだめ)? さなり、
     あゝわれら自ら孤寂(こせき)なる発光体なり!
     白き外部世界なり。
      見よや、太陽はかしこに
     わづかにおのれがためにこそ
      深く、美しき木陰をつくれ。
     われも亦、

     雪原(せつげん)に倒れふし、飢ゑにかげりて
       青みし狼の目を、しばし夢みむ。    
       
「春の急ぎ」から「春の雪」

みささぎにふるはるの雪
枝透きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは

なく声のけさはきこえず
まなこ閉じ百(もの)ゐむ鳥の
しづかなるはねにかつ消え

ながめゐしわれが想ひに
下草のしめりもかすか
春来もとゆきふるあした

「反響」から「夏の終り」

     夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
     気のとほくなるほど澄んだ
     かぐはしい大気の空をながれてゆく
     太陽の燃えかがやく野の景観に
     それがおほきく落とす静かな翳は
         ・・・さよなら・・・さようなら・・・
   ・・・さよなら・・・さようなら・・・
   いちいちさう頷く眼差しのやうに
     一筋ひかる街道をよこぎり
     あざやかな暗緑の水田(みずた)の面を移り
     ちひさく動く行人をおひ越して
     しづかにしづかに村落の屋根屋根や
     樹上にかげり   
    ・・・さよなら・・・さようなら・・・
    ・・・さよなら・・・さようなら・・・
     ずつとこの会釈をつづけながら
    やがて優しくわが視野から遠ざかる

 杉本秀太郎の「伊東静雄」には、その扉にヘルダーリンの「ヒュペーリオン」からの写しがあるので、それを載せておきたい。

ー按ずるに、すべて生あるものは発展と萎縮、離巣と回帰をくり返すほかなしとすれば、人の心また然りといえない 道理が あるだろうか。

 杉本氏は「伊東静雄詩集」の「解説」において、ジョバンニ・セガンティーニの画集から、詩人は多くのモティーフを得たことを語り、詩を批評するには評論しかないと思っているのは、われわれの思いこみである。詩によって詩を批評すること。本歌取りというものは本来、先人の和歌を和歌によって批評する形式であった。伊東静雄は本歌取りという伝統の蘇生をひそかに、はにかみがちに、試みたのであると、注記している。
 昭和二十八年(1953年)伊東静雄は、その生の大半を大阪府立住吉中学校に奉職、満46歳で亡くなり、諫早の土に葬られた。
杉本氏は「身辺を省みれば、人生の無常迅速、さらに切なるものをおぼえる。(一九八九年七月七日)」と解説を結んでいる。
 氏は画家の安野光雅との共著「みちの辺の花」という雅品のある書物のなかで「吾亦紅」(われもこう)に薀蓄をかたむかた一文をよせている。
  ついでに拙句を詠んで添えたい。

      青春の 骨を拾いて 吾亦紅


  DSC03930.jpg DSC03929.jpg DSC03921.jpg DSC03928.jpgワレモコウ


テレビ寸感

 「梶井基次郎の『愛撫』」(19.7.10)を掲載した8日後に、京都アニメーション放火事件が発生しました。事件の詳細を記せば、京都アニメーションの第1スタジオに男が侵入して、ガソリンを撒いて放火した。これにより、京都アニメーションの関係者に多数の死傷者が発生。7月27日21時時点で死者は35人に上り、警察庁によれば「放火事件としては平成期以降最多の死者数となった、ということであります。

  ブログは末尾で以下のように記しました。加藤典洋の著書「9条入門」から、日本の「窮状」の予感まで書きこんだのも私なりの憂慮からでたものであります。

「現在の日本に目を転じてみよう。相継ぐ災害に見舞われ、巷に氾濫する犯罪の連鎖は正常な感覚を喪失した痺れた指のように、この現代の不吉な兆候を示すものでないことを祈りたい。少なくとも、文学だけは「透明な感性の祝祭」であって欲しいものだ。加藤典洋は遺書のような「9条入門」を残してあの世へ旅立った。この含蓄に富んだ一書から日本の「窮状」を予感し、その隘路を抜け出る示唆を得ることはできないものだろうか。梶井基次郎の「愛撫」から、とんだところへ筆が走ってしまったが、人間にある動物的な直感力は猫の耳のように、遠方からの音に敏感に反応しているのではないか。」

 高齢ドライバーの車にぶつけられ骨折した右手の指は、リハビリにもかかわらず、依然として繊細にモノの感覚を伝達してくれる指の神経を痺れさせ、お箸の上げ下ろし、歯ブラシの正常な使用をさせてくれません。そうした苦境で見たからかもしれませんが、2019年7月20日の「Eテレ」は、作家の辺見庸が、2016年7月に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」から想を得た「月」という作品について語る番組でありました。ノンフィクションでもなく、小説でもないが、あの事件の契機がなければ書けなかったと作家は述懐しています。目も見えず言葉も発せず動けない人物が登場して、たどたどしいが執拗に、「在る」とはどういうことか問うのです。ここには人間の上にたって規制をかけてくる社会とは、そもそも何かというラディカルな難問の提起が為されています。正直なところ、重たく暗く、指の痺れがこころまでひろがってきそうな番組でありました。しかしこの問いには、加藤の「9條入門」の冒頭の文章と響き合う、敢えて自分の身を逆転しながらの急進的な問いかけがあります。

「・・・憲法9條というのは、必ずしも戦後の日本になかったとしてもよかったのではないだろうか、と思うようになりました。というか、一度はそう考えてみる必要があったのだ、と考えるようになったのです」
 さらに加藤は続けます。「だから憲法9條はいらない、というのではありません。憲法9條に負けたままでは、とても憲法9條を生きるということはでないはずだな、と思ったのです。憲法9條に負けたまま、というのは、ただ憲法9条を有り難がっているだけでは、という意味です。」(P8,9)
 こうした身をねじらせての思考は辺見庸のEテレの姿勢と共通したものがあります。京都アニメーション放火事件はまだ容疑者の青葉真司の動機がいまひとつはっきりとしていない現段階では、なんとも言えません。がどことなく、「相模原障害者施設殺傷事件」と同じ土壌から出てきた事件であるかのように感じられますが、考えすぎかも知れません。
 今回の参議院選挙の結果、れいわ新選組から立候補2名の身障者が当選したことは、あの事件と必ずしも関係がないとは思われませんがいかがでしょうか。

 そして、私の3・11の災難から1ヶ月後、今度は東京・池袋で87歳の男が運転する乗用車が歩行者をはね、31歳の母親と3歳の娘さんを失った夫の口惜しそうな顔をみたのでした。

 ところで最後に、地方の友人が書いた短篇小説「交差点」の感想を、私の手の痺れを忘れて書いておきましょう。
この小説は高齢者が2名登場します。一人は88歳の高齢のタクシー運転手、もう一人はこの運転手の車に衝突される、やはり退職後の高齢者です。作者は確かな筆致でこの二人の人生の断面を並行して描いています。どこにもありそうな高齢な男二人の家族と夫婦の一齣です。その平凡な日常は多少の波風はありますが、まるで小津安次郎監督の映画のように、穏やかに、淡々として流れていきます。日本の最大多数の現代生活の風景といってよいでしょう。異常なものはなにひとつありません。夢のような日常と言ってもいいのです。この二人の人生が交わる場所が事故現場の「交差点」というわけです。交通事故は悲惨ですが、それを小さく暗示するのが最後にくる一行だけとなっています。お見事というしかありません。





講談「清水次郎長伝」広澤虎三

 春の旅~花はたちばな駿河路ゆけば~富士の山霞~風はそよ風茶の香匂う~唄が聞こえる茶摘み唄~赤い襷に姉さん被り~娘皆衆の艶姿~富士と並んでその名も高い~ 清水次郎長街道一よ~命ひとつを長脇差しに~下げて一筋仁義に生きる~噂に残る伊達男。
安政二年の四月の半ば・・・・と、みょうちきりんの天気のせいで、鼻風邪ひいて講談師広澤虎三「清水次郎長伝」を、耳にイアーフォン差し込んで、聞いていました雨の夏。雨は降るふる連日連夜、出てはくれないお天道さま、広澤虎三の声なめらかに、三味線まじりのかけ声粋に、男意気地の次郎長は、清水湊の任侠はだし、駿河の国の親分さん、わたしゃ生れは掛川の、小高い丘の龍華院、疎開育ちで五歳まで、暮らしていました宿場町~
 てなわけで、いぜんに記したブログの一節を、再掲したくなりました。ついでに、麻田哲也の「次郎長放浪記」という本へ手をかけて驚かされた。バカは死ななきゃ~治らない、というのが嘘なんかじゃないということが・・・・。

 <以前に、「浅草博徒一代」という文庫を読み、大変に面白かった。
 「清水次郎長」が岩波新書で出ると知ると、数日を経ず私は大きな本屋へその本を求めて行った。店員は在庫を確かめ、あることはあるはずだがと嫌な予感を残してレジの方へ行って、捜してくれたがなかなか見つからない。そのうち、平積みになった本の底から、やっと見つけ出した。私はホッとしたが、見つからないはずである。たった一冊しか入荷してなかったのだ。そうだろう。講壇が流行していた時代は遙か昔のことであった。
 ややお堅い文章と思いながらも、読み出したらこれが名文に近いものだと気がついた。荷風ではないが、思想なら誰にもあるものだが、文章はそう簡単にはないものなのだ。巻を置いて能わずに、2日ほどで読んでしまった。幕末の動乱の正史しか知らない人間には、この時代の裏社会で活躍していた博徒たちが、時代の動乱期にいかなる活動と試練、そして混乱をしていたかという、闇の歴史(「裨史」とされる)はほとんど知らされていないのだ。あまり売れそうもない題材ででは、大家を目指す時代小説家は、それでなくても資料の乏しい、この物騒な世界を触れたがらないのも無理もない。
 ひとむかし、東映の任侠映画が流行った時代があった。その当時はなんの興味も惹かれなかったが、後年、ビデオ屋で借りだし見だしたら、それにはなんとも言えない魅力があった。「緋牡丹博徒」だとかそんな映画だが、それがなんで面白いのかは、一度、一ヶ月ほど病院生活をして、昼の「水戸黄門」のテレビドラマにはまったことがあったが、不可解としかいいようがないのである。
 ともかく、清水次郎長は一代の侠客の親分だ。大政、小政、森の石松、などのコワイ徒輩を配下に引き連れ、闇のネットワークを津々浦々に張り巡らし、自分の縄張りを荒らす奴等は、いかなる手段を使っても追い出しにかかる。その出入りの凄惨なこと、例えば、次郎長の仇敵の黒駒勝蔵との血で血を洗う戦闘の粗筋を、この本でその一端を知らされるだけでおおよその検討はつく。こうしたアウトローたちが、あの幕末維新の政争に巻き込まれ、攘夷だ開国だと旗識の鮮明を強いられ、とんでもない運命に翻弄されるすがたには、いつの世にも歴史というものの何とも言いようのない悲喜劇をみることができる。
 本書は天田愚庵の「東海遊侠伝」(明治17年)なる次郎長一代記を下敷きにしているが、この伝記はまた中国の司馬遷の「史記」の「遊侠列伝」を拠り所にしているとのことだ。
 ここに司馬遷が遊侠の寄せた思いを、その「史記」の文章にあたってみよう。
 「今、遊侠は其の行ない正義に軌せずと雖も、然れども其の言は必ず信あり、其の行ないは必ず果し、已に諾すれば 必ず誠あり、其の躯を愛しまず、土の厄困に赴き、既に已に存亡死生し、而も其の能を矜らず、其の徳を伐るを羞ず。蓋し亦た多とするに足る者あり」
この本の著者、高橋敏氏は、この引用文のあと、こんな風に続けている。
ー悪びれることなく武力で決着をつけて殺人、掠奪と悪事を繰り返す遊侠の徒は正義の道から外れているが、こと言動の信義においては他の追随を許さない。ひとたびこれだと決断、信奉した人物に対しては言いだしたことは死守し、やくそくしたことは命を惜しまずやり遂げ、危急存亡と聞けば駆けつけ命を投げ出し献身する。それでいて実力を鼻にかけたり恩義を売りこんだりすることは恥として一切ない。ー
 ところで、この天田愚庵とは、いったい何者であったのだろうか。
 この本によれば、戊辰戦争のただなかで行方不明となった父母と妹を探し求め放浪の旅の果てに出家して禅僧になり、歌人として著名であったが、剣禅一如の人、山岡鉄舟(海舟、泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれた一人)と邂逅、明治十一年、人探しの裏情報に詳しいネットワークをもつ博徒の大親分清水次郎長を紹介され、その居候となり、見込まれて養子にまでなった奇矯の人とのことである。
 ここで登場する山岡鉄舟であるが、幕末から明治にかけて活躍し、後に明治天皇に見込まれた傑物であり、この人が単身駿河に乗り込み、陣を張っていた西郷隆盛に会うという勇猛果敢な快挙がなければ、勝海舟と西郷との江戸城の無血開城に至る談判は成り立ちようがなかったのである。そして、清水次郎長がこの山岡鉄舟に惚れ込み、博徒の大親分としての協力がなければ、鉄舟一人で官軍の中へ単身乗り込むことも、また不可能であったことが知られるのだ。
 いつぞや、家人と訪れた白隠老師がいた三島市の龍沢寺に、遙々と江戸から参禅した山岡鉄舟は、今では谷中の全生庵に眠っている。私が以前から参禅していた台東区松が谷の禅寺の老師は、この龍沢寺の老師さまになって、作務でお茶摘みをしにお顔を拝顔したところであった。
 駿府の裏事情に詳しい次郎長と鉄舟との篤い信義が、どのように生まれたかは、この本をどうか読まれんことを。まことに、歴史の裏面というものには、ことほど左様に人の逸興を誘う面白いものがあるものである。>
 
 ご参考までに追記しておくと、ウイッキーによれば、「寄席演芸としての講談の原型は、江戸時代の大道芸のひとつである辻講釈(つじこうしゃく)に求めることができるらしい。太平記などの軍記物を調子を付けて語ったのが始め。明治時代以降、講釈は講談と呼ばれるようになった。そして、江戸末期から明治時代にかけて、講談は全盛期を迎えた。明治末期には立川文庫など講談の内容を記載した「講談本」が人気を呼んだ(その出版社の中に講談社がある)。また、新聞や雑誌に講談が連載されるようにもなったが、明治末に浪花節、昭和に入っての漫才など他の人気大衆芸能の誕生、大衆メディアの発達などに追いつけず、次第に衰微した。第二次大戦後はGHQにより、仇討ちや忠孝ものが上演を禁止され、その後テレビの普及によりやはり衰退した」

 だが、現代に講談なんかと高をくくってはいけない。この長い任侠の界隈をCDで聞いているうち、なんとも身の毛のよだつ人間の凄まじい息遣いをのぞいてゾッとしてしまったからだ。これに比べたら現代の文学がとても甘チョロいものに思われてならなくなった。だまし討ちで死んだ森の石松の登場によってその凄まじさは真に迫ってくるのだ。生死を賭けて肉薄してくる講談の語りが、義理と人情に隈取られた凄惨の裏社会から少しずつあぶり出されてくるこの世間が、どれほど骨抜きですれっからしの薄情に成り下がったかを悟らせてくれるからだ。嘘だと思うなら、この虎三の三味線まじりの語りをじっと聞いてみるがいい。次郎長、大政、小政等のこの集団が、伊達で長脇差しを持っていたわけでないことが、腹に沁みてくるはず。とても居合だなんかと真剣を握って空を斬っている現代の滑稽な迂闊さに身がつまされてならなくなるからである。



       IMG00355 (2)



プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード