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世界の中心で、愛を叫ぶ

A:恥ずかしくなるような題名の本が、300万部のベストセラーになったらしい。この作者が森有正というパリにに長く住み、妻子と離別までして孤独な思索に耽り、65歳でパリで亡くなった哲学者についてテレビで語っていた。ぼくは一時この森に関心を持っていた時期があったので、妙な好奇心で、この小説を読んだ。
B:「セカチュウ」という流行語にもなった小説だよね。それがどうかしたの?
A:なかなかよくできた小説だと思う。まず、ヒロインのアキの死の事実から、小説がはじまりその追憶の形をとりなながら、語り手の「ぼく」と「アキ」の話が進行していく。ちょっとカミユの「異邦人」に似ている。あれも半過去形が多用されている。ムルソーが牢獄で「星としるしにみたされた夜を前に」自分を開き、世界をいわば兄弟のようなものとして、「僕は、自分が幸福であったし、今でもそうだと感じた」のは、養老院のママを思いだすところからだ。最後の三行はなくてもと思うけど、カミユは主人公のムルソーの「孤独」を和らげるために、「処刑される日に大勢の見物人の憎悪の叫び」を望んでいる、と書いた。この「孤独」の屈折率こそ、ムルソーなる主人公の特徴をよく描きだして、カミユの思想に刻まれた皺がちらりと見える瞬間だ。ぼくはむかしカミユはよく読んだがカミユ独特のその哲学にある狭隘さにはなにか耐え難いものを感じたことがある。それはともかく、この小説にはそんな孤独な翳りはない。アキは死んで灰になるが、その灰は桜ふぶきのなかに消えていくところで終わりとなるのだ。死の日本的な有終の美というあの定型がある。それがなければ、ベストセラーなんかになるはずはないんだけど、この小説に森有正の思索の面影の幾片かの花びらが見られることもたしかなんだ。
B:森有正なんておれは全然、聞いたこともな哲学者だけど、どんな人だったのかな?
A:第一回のパリへの給費留学生だ。パスカルとデカルトの研究家だった。森は表面的な知識のみの文化摂取ではなく「感覚」を通して身体のなかに実現する「経験」となる確乎たるものを望んだ。「バビロンの流れのほとりにて」や「遙かなるノートルダム」等の日記や思索の書物は、森のそうした志向から生まれた。ぼくは日本でポール・ヴァレリーを知り、研究を試みたが、やがてその疑いから、日本の古典へ向かったのだ。
B:君は若い頃から「精神」と同時に「肉体」を重視した。君は海に憧れ、それを眺めるだけではなく、やがてその海の中へ身体ごと入っていった。それが海へのダイビングとなった。潜ることそれ自体が海を感覚を通して知ろうとした。それで、君は海にカメラを持ち込むことをしなかったのだ。だが君は海という「世界」と一体になれたのだろうか。君はやはり「眼」を通し「海」を見ることしかできなかったのじゃないかね。エロス的な交歓がそれに取って代わったのだろう・・・・。
A:それはなかなか手厳しい指摘だな。ねえ、エロスには認識というものはないのだろうか。勿論、哲学的な認識論からの逸脱かも知れないけど、西洋哲学のギリシャからショーペンハウエルの「意思と表徴としての世界」を経て、ニーチェの「悲劇の誕生」が生まれた。ウパニシャッドのインド哲学はこうして西欧へ流れ込んだ。生殖行為は生への意志として死を越えて、エロスの思想としてバタイユになり、文学としてロレンスに受け継がれた。日本でも王朝文化に「色好みの構造」を透視した。作家の谷崎潤一郎はその伝統を体現した最大の文学者だ。日本の「母」とはこうした文化の核心にあった。江藤淳は「ママは死んだ」の衝撃を、戦後文学に読み込もうとした。だが依然谷崎の「夢の浮橋」では、立派に「母」は生きているじゃないか・・・・。
B:あれを「母」と呼んでいいのか、おれは疑問だ。あれはむしろ荷風の「夢の女」だ。魔性の「母」といってもよい。さて、森有正に話しを戻せば、彼は明治以降の経験による定義を経ない、単なる空疎なる名辞の群れを懐疑したんだ。近代日本の詐術性ほど、森有正という人間を悲しませたものはなかった。
 ともかく、この小説の一節を朗読してみよう。
  「いまなんて言ったの」
  「愛だよ、愛。おまえは愛を知らんのか」
  「知ってるけど、おじいちゃんの口から聞くと、何か別のもののように聞こえる」
この最後のほうの孫とおじいちゃんとの会話には、とてもいいものがある。それは森の思索を深いところで、咀嚼していないとでてこないような部分だ。この小説家が、森という哲学者に寄せてきたものがいい加減でないことがわかる。生きるというのは、自分の中に、時間が流れていくというたしかな感覚で、その時間を小説という芸術は掬いあげるのだ。
B:それで君は以前、「何かについての説明」である哲学ではなく、あくまで「作品」であり「仕事」であるもの、「世界とものとを前にした直接の精神の運動」であるところのものに、君の目は向けられていたんだね。君がアンリ・マテュスという画家について、試みようとしたのはそれだった・・・・。しかし、おれは旨い一杯の煮込みと酒があれば、もうそれでもう充分に極楽のひとときを過ごせるのだよ。
A:それが卑近だけれども、君の暮らしのひとつの「体験」なんだよ。そうした体験の堆積が森の言う「経験」につながっていく、単純に言うとそういうことだ・・・・。吉田健一のものには、そうした「体験」の蒸留酒の匂いがするね。森と違って須賀敦子さんのようにフランスの文化の壁に阻まれる女性もいるようだけど、イタリアとの邂逅が彼女を救ったようだ。
 ところで日本の作家である辻邦生は、この森有正に私淑していたんだが、ぼくは偶々訪れたノートルダム教会のミサに立ち合ったことがあった。そして東洋の宗教との相違に考え込んでしまった。その宗教体験の違いをぼくは「リスボン哀歌」という小説に書いておいた。ついでだが、辻邦生の「薔薇の沈黙」はリルケ論の白眉だと思うな。


 


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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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