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叔父さん

 二階へ行く階段の下に腰を降ろして座っていたときだ。すうっと血の気がひくように、気分が陰ったような気がした。ふと右肩がなにかに触れられ、それに促されるように私は目を斜めうえにむけた。ぼんやりと人の像が立っている気配がする。たしかにそれは人のようだった。それにしても、あの感触はどういっていいものだか。海月のように透きとおり、うっすらと青白い翳が、私の右肩に添って立った感じは、どうにも異様な感触がした。ようやくに夏風邪は癒えたはずだった。気分がわるくなったのは、そのぶり返しが来たのかと思った。先日の健康診断では、血圧が低いので、血液検査はやめておきましょうかと言われたが、死霊が私を誘いにきたのか・・・・。私はそぞろに不安を覚えて、台所にいる妻へ呼びかけた。
 そうだ。あれが叔父さんだったのにちがいない。それから数日を経て、訃報が来た。
 ときおり思いだしては、気にはかけていた。そのただ一人の叔父さんの訃報を知り、私はあれは初七日も経っていない日のたそがれどきに、私の傍に現れたのは、88歳で病院で亡くなったあの叔父さんにちがいなかった。愚直なほどにキリストの信仰に生きたあの叔父さんだったのだと。
 叔父さんは親戚では変わり者で通っていた。しかし叔父さんほどに敬虔なプロテスタントのクリスチャンを私は知らない。子供の頃から、幾つかのエピソードを聞いていた。大学に7年もいたとか、内村鑑三に傾倒して牧師になろうとしたとか、会社からもらった給料を道端の乞食に全部施してしまったとかである。いつも書物を手放さず、一人考え事に耽ってはぶつぶつと独り言をいっていた叔父さん。世間の人が生きていくうえで、通常に知っているよしなしごとに、叔父さんほど無頓着でありつづけ、それを天から恥じることもなかった人はいなかったのではあるまいか・・・・。
 92歳で亡くなった母の弟であったが、母は戦争中のあることで、この弟の不始末を、愚痴ることがよくあった。それは大事にしていた家族のアルバムを入れた筺を、焼失から免れるため、土を掘りわざわざ埋めておいたのに、それをみすみす火事で焼いてしまった原因を作ったのが叔父さんであったらしい。その叔父さんの一人息子が失明すると聞いて、私は役所の新聞に角膜の提供者を募ったことがあった。が誰一人提供者は出てはくれなかった。しかし、クリスチャンの繋がりからか、さる有名な大会社の社長夫人の角膜をいただくことができ、従兄弟は当時難しかった移植手術に成功した。会社では椅子に座っている仕事から、現場で働く労務に自分から代えてもらったとも、労働組合の仕事を手伝っているとも聞いたことがある。ともかく、寸暇を惜しんで聖書を読みつづけ、キリストの教えのとおりに恬淡としてその実践の喜び、それを普通の生活として、88年の生涯を終えたのである。あんなに危篤な信仰心の人はいなかったが、親戚の評判はひどいものであった。叔父さんが信仰のことで語ることは一言だって聞いたことはなかったが、世知に疎く大学を出ながら出世もしない叔父さんを世間がどう見るかは知れていた。思えば若いときに望んだ牧師の道が理想的であったのだろうが、大学を7年も通い、経済的な余裕はないため、結局、普通のサラリーマンになるしかなかったのだ。それでも赤紙がきて、朝鮮へ連れて行かれたが、間もなく戦争は終わり、叔父さんは冬の最中に裸同然の姿で横浜へ帰ってきたそうである。
  長男を若くして亡くした祖母は、この次男の息子を大層に愛していた様子は格別なもので、それ故にか40歳前後に結婚した嫁とはうまくいかずに、冷淡にされつづけて、祖母は自ら食を断って亡くなったのであった。亡母は祖母に処した叔父の嫁さん事を生涯忘れなかったように思われる。叔父さんは母の葬儀には、足を不自由にしていて葬儀に参列することはできなかったそうだが、母が叔父の嫁を嫌っていたこともあり、叔父の身の上は、気になりながらも、積極的に叔父さんへ連絡をとる親族もないまま、とうとう、突然の訃報に接することになったのだ。訃報といっても、長姉が気になって電話番号をNTTに問い合わせ、ようやく連絡をとったところ、年をとった嫁さんから聞いたということだ。それでも母は一人で暮らしていた家に、この実弟が突然に訪問したとき、おどろき慌てて石油ストーブに煮たっていた焼かんをひっくり返してまで、玄関へ出ていった時、母は足をひどい火傷をしたが、それほどに動顛した母の心中には、姉と弟にしか分からない近親者の情愛だけが強く働いていたのにちがいない。そのように私は思いたいのである。いろいろな不幸な行き違いはあったけれど、いまではすべてを忘れ去り、ただ独りプロテスタントの信仰に生きた叔父さんの、ご冥福をこころから祈りたいと思うばかりである。アーメン

     
ただし叔父さんへ


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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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