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イスラーム

 この本の著者は、その最初の一行の筆を動かすときに、いわば外科医がメスをかざして横たわる肉体にむかいあうときと同じ心臓の鼓動を感じたにちがいない。
「その日、十四年以上に及んだオスマン帝国との長い戦争に終止符を打つため、ヨーロッパ諸国の代表は講和会議条約に調印することになっていた。
 しかし、調印式は長引いていた。」
 その日とは、一六九八年である。一五二九年のスレイマン一世の第一次ウィーン包囲以来、一五四年ぶりにオスマン帝国の軍隊が崩壊するや、第二次ウィーン包囲でのハプスブルク家のオーストリア、 ヴェネツィア、ポーランド、ロシアを相手にした長い戦いは遂に終わったのだ。ドナウ川中流に位置するセルビアの小邑カルロヴィッツでの講和会議は、その初冬、イギリス、オランダ二カ国の仲介により、ここにおいてようやくにして開始されたのである。
 だがどうしてこの調印式が長引いていたのか。オスマン側からの署名延期の要請のためであった。星の運行がこの日、十一時四十五分にオスマン帝国にまたとない幸運をもたらすとの、古代オリエント・ギリシャ以来の科学的な根拠を無視することができなかったからだ。それは同時に長い時代の先端を担ってきたイスラムの科学でもあった、と著者はすぐ後に記している。ここで「イスラムの科学」という言葉になどに幻惑されてはいけない。
 さらに著者は続けるて書くのだ。
 その同じ科学から近代科学を生み出して膨張を始めたヨーロッパ世界から、ユダヤ教、キリスト教、さらには種種の多神教に対する優越意識と、そのイスラムの荷ない手としてキリスト教世界に不敗を誇ってきたオスマン帝国が、いまや敗退をやむなくされることになると。
 ではこのオスマン帝国とはいったい何ものなのか。著者はすぐにまた続ける。
「オスマン帝国が、その草創期からキリスト教世界と対峙してきたこと、さらに、常にその世界に対して自らを開いていたこと、言い換えるなら、オスマン帝国が常にキリスト教世界と混ざりあい、その一部を自らの内部に取りこんできたことが、事態を複雑にするでああろう。それは、閉鎖的で自己完結的な世界が『西洋の衝撃』を受けて目覚めるといった体の枠組みで捉えられるような歴史過程ではありえなかったからである」
 なるほど、実に複雑きわまりないことだ! だが、さらに著者の言うところを追ってみよう。
「オスマン帝国の近代史は、キリスト教世界をも含み込んだ独自の世界を独自の論理で維持し、悠然と歩み続けてきた一つの帝国が、内部から、独自の要因によって変化してゆく過程でもあったはずである・・・・ヨーロッパ世界からの一方的な「衝撃」と思われるものが、実際には相互作用として働いていたと思われる」と。
「本書では、イスラムの守護者としての自負を抱いていた『イスラム国家』―多くの異教徒を抱え込みながら、彼らに自治を与え、緩やかな統合を実現していた国家―が、西洋との絶えざる交渉の中で、共通の帰属意識を持った均質な国民からなる集権的な「国民国家」への変身を志し、もがき苦しみながらそれをはたしてゆく様と、さらに多大な犠牲を払ってたどり着いた「国民国家」が、決して「終着駅」ではなかったことに気づかされて憶脳する様とを見てゆくことにしたいと思う」
 どうか読者はこの「イスラムの守護者」という言葉を脳裏に刻みつつ、最後までこの「憶脳」するトルコの歴史を辿ることを!そして、著者が最後に記す
「『脱イスラム化』による西洋化へと走った『代償』を、今トルコが払わされているという側面が、確かに存在していると言わざるをえないであろう。トルコ人がどれほど『西洋風』を身につけても、西洋は彼らを『イスラム』という枠で括るはずだからである」
 という終わりの頁まで、この「トルコ 近現代史」なる力作を読むことにより、トルコの歴史がアジアの一角に占めるどこかの国に似ていることに気づかされ、不思議な思いを禁じ得ないであろう。また、歴史学がイスラームの哲学思想と溶解するところに、「イスラム」なる言葉がトルコにあるモスクから一日に五回、流される「アザーン」の朗唱に響き合わされるところにこそ、喚起される輻輳した感慨を思い味わうことになるであろうと・・・。
 旅行の前後に読んだ歴史書、井筒俊彦のイスラームの文化・哲学、そして高樹のぶ子の「エフェソス白恋」なる小説により、私のトルコ旅行は生命を吹き込まれたようである。最後のイスタンブールの午前に、友人とタクシーで訪れたスレイマン一世のモスクは、特に印象に刻まれたことを付け加えておきたい。


モスク・スレイマン <スレイマン一世のモスク>


モスク <同モスクの天蓋>

プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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