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映画「白いリボン」と神楽坂

映画「白いリボン」 <映画「白いリボン」> 

 144分のこの映画にはなにか耐え難いものがある。それは、いずれ到来する時代への予兆を暗示する暗喩となって、なにひとつ直接に語られないことで、精神をある種の身体的な拷問にかけてくるからだ。語り口はごく普通のミステリーだが、映画の最後の字幕をみて、私たちは納得せざるえないのである。
 オーストリアの皇太子がセルビアで暗殺されたことに端を発した第一次世界大戦が、その悲惨さにおいて第二次世界大戦の比ではなかったことは、英国の青年たちの戦死の膨大さにおいて、また、マスタードの毒ガス兵器の使用において知られていることであろう。いやそれだけではない。この戦争によりドイツが負った加重な負担は、やがドイツ国民を圧迫し、ヒットラー独裁のナチズムへと流れていかざるえないのだが、この映画ではそれを支え担う世代を、ドイツの田舎の一村の十代前後の子供たちのなかに投射していることが推測されるからである。この子供たちの<悪戯>は、やがては<ナチズム>として擡頭することを、映画は息苦しいほどに静かな映像で予言している。偽善と頽廃と暴力の抑圧にみちた大人の社会への底深く潔癖なる子供たちの憎悪は、すでにニーチェの著作に書かれているとおり、欺瞞にまみれたドイツそのものへと向かって、その政体を変革するとこまでいくと言ってもいいのである。
 映画をみたことで疲れ、神楽坂の裏通りにあるいつもの「うなぎ屋」へ行くが、満員であった。外でしばらく待っていると、ようやく空き席ができて座ることが叶った。それにしても、神楽坂の変わりようには、驚くと同時に恐れに似たものを感じざるえない。むかし閑雅であった裏通りの仕舞た屋は、猫の額ほどの土地さえもが、路地の奥のほうまで客をいれる食事処、飲み屋に建て替えられているのである。そこにはもう、神楽坂という土地がもつ落ち着きが拭い去られたように消えていた。時々、テレビで世界の街角を紹介する番組をみるが、そこにはその土地固有の人間とその匂いが頑として存在することが感じられる。しかしこの国では、そうした堅固なる土地と人間の結びつきを期待することはおよそ無理なのであろう。金の流れるままに、人も物も流れていく。それが都市というものかも知れないが、地震とつなみで破壊された東北の沿岸だけではない、日本全体が日本人の精神が、糸の切れた風船のように風のまにまに漂っていくようだ。これは天災ではない。日本人による日本の生活に対する文化的な人災と言っていいほどの乱雑さなのである。
 それで思いだしたのは、先日、ひさしぶりに広尾の山種美術館で、ボストン所有の浮世絵を見た。さすが錦絵の黄金時代と銘打たれた展覧会だけあり、私は心臓がどきどきするほどの興奮を抑えるのに難儀したくらいであった。
 鳥居清長、喜多川歌麿、東州斎写楽、勝川春章、鳥文斎栄之、北尾重政、政美、歌川豊国、豊広たちの、大判、細版等の錦絵と版本・肉筆画には、明治維新以来消え去ってしまった、ゆったりとした無類の曲線がおりなす美の世界を佇ませて、私を圧倒してこの現代を忘れ、桃源郷へと拉致しさってくれた愉悦を味わうことができたのだ。
 それにしても、見ることで享受するこうした官能的な世界を、まるで舐めるほどに堪能させてくれる美術ほど、私の精神の栄養になるものはない。まなざしは文章のようにこころに気疲れをさせない。これはいったい何故なのであろうか。いや、文章にしても荷風のそれは、私のこころに快適にしてくれるのは何故なのか。江戸の戯作者を韜晦した荷風の「腕くらべ」の一章節、例えば、「ほたる草」でもいいが、試みに一読してみるがよい。そこには頑固なまでの日本の伝統美が息づいているのに気づくであろう。老いていく者は頑迷になるらしいが、私は極端なまでの感想を秘かに懐いたのであった。
 ー日本は江戸までで充分ではないのか・・・


山種美術館1 浮世絵(山種美術館にて)

 
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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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