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 白川静の辞典によると、「旅」という字の語源は中国古代の軍隊の移動に使われたようである。やがて氏族共同体が解体すると、「旅」のなかみも変わってくる。万葉、平安の時代から、旅による文学の創作は日本の文化では看過できない事柄であろう。江戸時代になると、松尾芭蕉の紀行文が、決定的に「旅」のスタイルを確立させたようだ。四十代に書かれた最初の「野ざらし紀行」は、俳句の革新といえば大袈裟すぎるが、これまでの句風に飽き足らなくなった芭蕉の「旅」への気概が、冒頭から現れている。こうした紀行文は、「奥のほそ道」になると、さらに鮮明となる。芭蕉の「旅」への思いが、その紀行文に点綴する俳句を、軽快かつ清新なものにしていく様子が感じられるからだ。芭蕉にとって俳句は「旅」と一体になり、紀行という風景の移動なくしては、芭蕉の俳句を喋々してもはじまらないぐらいなものである。
 さて、ところで、いつごろから「旅」が「人生」の比喩のようなものになったのだろうか。たぶんのはなしだが、それは近代の詩人たちによるものにちがいない。命懸けの覚悟をしてまで「旅」をしないで済む時代になって、「旅」は簡易な現実となり、そこに詩人たちが勝手な想念をいれてきたのではあるまいか。
 「旅」の概念の内包は拡大して、かぎりなく普遍的意味を持ち出してきたのだ。現代の飛行機による旅になると、肉体の速やかな移動に「魂」が追いつかない事態を、むかし、ユーモアを交えて嘆いていた作家がいたことを思い出すが、それでも「旅」は想像力を活気づける手段でありつづけている。いまでは、お茶の間にいながら、世界の街角を歩いたような錯覚を与えてくれるテレビの番組も多い。だがそういう番組を見ながらも、一度でも自分の肉体が歩いた場所とそうでないの所では、感受するリアリティーが異なるのはなぜだろう。想像力の働き方がまるでちがう。前者はほぼ思い出にちかい記憶の想起となる。その場所の空気、匂い、印象の記憶の媒介なしの想像力はほとんど空想にちかいものだ。
 パリの大学前のちいさな公園の一角に佇むモンテーニュの銅像がある。彼、モンテーニュもその随想は旅でえた知見が多く見られるのだが、あの銅像の前に佇み、彼の風貌と肉体の造形をみたこととそうでない人間とでは、テレビの前では恐らく相当に異なる印象を懐かされるにちがいない。
 ポルトガルのリスボンへ行った友人の話しを聞いて、一篇の詩を書く遊戯めいたことをしたことがあった。それから幾年か経て、実際にリスボンへ行ったが、話しを聞いて書いた詩などは、恥ずかしくて読めたものではなかった。ことばにはそういうことば特有のリアリズムの性質があるのだと思う。詩にしても小説にしても、このリアリズムを追求することに変わりはない。「現実」に根をもたないことばは空疎なだけだからだ。根をもつには、そこに作家の精神が現実との緊張関係をもって鋭敏に働いていることが必要だ。ことばは記号にすぎないが、その記号の働き方がちがってくるのである。
 ある冊子に掲載された小説がノンフィクションと誤って腑分けされて困惑したことがある。小説はまた小説の模倣や批判から生まれることもあれば、作者が接した小さな事実に触発されて生まれることもある。ノンフィクションは、事実をその事実に即して書かれたものとされている。アメリカのトルーマン・カポティーという才能ある小説家が、「冷血」というノンフィクション・ノベルを書いた。私はそれを最初は原書で、つぎに日本語の翻訳で、つぎに原作の映画化を見た。有能な小説家のカポティーは、この「冷血」を書いてから、彼本来の詩人の才能を開花させる作品を書くことができなくなったようだ。「事実は小説より奇なり」という事情が、彼の才能にダメージを与えたのだろうか。実情はそんな簡単なものではあるまい。犯罪の実情を探求するうちに、小説という虚構ともいうべき構築物に反省を強いられたのにちがいない。
 さて、詩とは、小説とは、そもそも、文学とはなんであるのかを考え出したら、とんでもない迷宮を彷徨わねばならなくなるのだが、批評家の小林秀雄と作家の三島由紀夫の対談では、この硝子の玉をペン先でつつくような奇矯な難問をまえにして、犀利にして優雅でもある対話の妙が際だっている。いまの作家諸兄には見られない閃光が放つ場面に、久しぶりに魅了させられるものがあった。
 さて、旅と題してこの一文の帰趨がおかしなところへ迷いこんだ風情だが、むかし西脇順三郎という詩人が「旅人帰らず」という詩集を編んだことがある。この文章も「旅人帰らず」という題名にしておけばよかったことになる。



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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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