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「フランシス子」の読後感

 吉本隆明のこの本は、死後、ほぼ一年を経て出たものだ。
一頁目の章のタイトルは「一匹の猫が死ぬこと」とある。彼は東日本大震災の5日後に、亡くなった。
自分の死を自覚して書いた(たぶん口述筆記された)と思われるが、「フランシス子」という名前の猫と自分を同一の生き物として、彼の最後の思いが記されている薄い冊子で読みやすい文章となっている。しかし、彼の思いは「最後の親鸞」とそれほど変わらないというのが読後の感想だ。幾度読んでも、彼の深く遠い射程がこの本には込められている、というのが私の思いだ。
 これを読んで、私は「吉本隆明の遺したもの」を図書館に予約していたが、自分で買ってしまった。加藤典洋と高橋源一郎の対談を是非に読んでおきたかったからだ。吉本隆明という思想家は必死に勉強し、独自に徹底的に思索した人間であったことが、改めて思い知らされたのである。
 さて、この本の感想を記さねばならないが、このことはなかなか困難な課題だ。
最初のタイトルのあとに、はじまる文章を引用しておきたい。
 「フランシス子が死んだ。
  僕よりははるかに長生きすると思っていた猫が、僕より先に逝ってしまった。

  一匹の猫とひとりの人間が死ぬこと。」
 
 つぎの章は、こんなタイトルになっている。
「自分の『うつし』がそこにいる」
 この四行目につづく行開けのあと、こんな一文がある。
「あの合わせ鏡のような同体感をいったいどう言ったらいいんでしょう。」
 その二行あとに、こんな文章がつづく。
「僕は『言葉』というものを考え尽くそうとしてきたけれど、猫っていうのは、こっちがまだ『言葉』にしていない感情まで正確に推察して、そっくりそのまま返してくる。
(中略)
「うつしそのもの。
 自分のほかに自分がいる」
「自分の『うつし』が死んだ。
 『うつし』が亡くなってしまった。

 これといって特色のない猫だったのに、なぜフランシス子だけが特別だったのか。」

 この単純な問いは、彼の思想の根幹に触れあう、例えば「絶対の関係性」だとか、「心的現象」だとか、すでに流布された「共同幻想」だとかだ。「ホトトギス」の実在を疑うというのは、一見滑稽に思われるが、これは彼がボケたわけではない。そして、彼が愛着した思想家の親鸞まで登場するのは、彼の思想の「うつし」を親鸞の中にみるからにちがいない。村上一郎について、武田泰淳について、彼の思考は自在に展開する。
 これほどあわあわとして、こころに残る言葉の連なり、なんのかまえもない、自然の語りに、老いて死んでいく、最後の吉本隆明の姿が、ごく普通のフランシス子という猫の像に重なり、未来を遺して、一人の思想家が、猫が死ぬようにうまく死んだのだと、私はあわあわと納得したのである。




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masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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