FC2ブログ

恵比寿にて

 実にひさしぶりに、恵比寿へ行った。恵比寿3丁目のとあるギャラリーで、友人がグループ展に絵を出品しているのだ。ぶらりと出向いたギャラリーに友人の姿はなかったが、入り口のすぐ右手に、彼の描いた絵はあった。キャンバスには二本のタケノコが上下に並んでいる。漆喰壁のようなバックにタケノコが平行に並んで描かれている。デッサンがしっかりしている。力がうまくぬけているせいか、銀煤竹と白茶の淡い配色があざやかな濃淡をなして、採れたてのタケノコのいきいきした姿を正面から表現して鮮明であった。タケノコの植物のやわらかな質感が描き捉えられている。上にあるタケノコがすこし大きく、へたをすればタブローのバランスが失われかねないが、不安定感がないのは下にある小ぶりのタケノコがそれを補って余りある存在感を示しているからだと思われる。このたった二本のタケノコを上下に描いているだけなのに、貧相とは遠い豊かな雅品さえ漂うキャンバスとなっているのが魅力である。この見飽きることのない作品は、ソファでもあれば座っていつまでも見ていたい絵柄だ。いくばくかの代価をもって自分の部屋に架けておきたい誘惑を覚えさせられる。作者は芸術にたいする本物の志向をもって、タケノコの豊潤な存在感を描きだして見事という以外はない。小手先で描かれたものではない実在感がこの絵に抗しがたいリアリティーを授けていることに成功している。開いた窓から庭に目にしたなんとも言えない根幹をみせた樹が一本、緑の葉を茂らせているのに畏怖に似た驚嘆を覚え、顧みて自然の姿に拮抗する芸術というものの力に感動しながら、私はギャラリーを後に木製の階段を降りて、懐かしい恵比寿の町中を一人歩きだしたのであった。
 今から四十年ほどまえ、私がいったんは退いた社会へ復帰した職場に通いはじめたのが、この恵比寿であった。その頃とは風景は一変したが、私は駅前の商店街の道路を疲労した脚をひきずり、まるで憑かれたように歩き出していたのだ。四十年のあいだに変貌させられた風景にも、疵つけられない過去がそこに夢見ることができたからだ。まるで二十四歳の私に戻ったかのように、駅裏のまわりへと私は歩いた。井上ひさしがまだ駆け出しの頃に作った「テアトルエコー」の、その面影は目うらに残り、毎朝私が詩集をひろげた珈琲店も今はどこにあるはずもないのに、その詩の一節が私の胸中によみがえるのだ。

      強いせいか、弱いせいか。
      ともかく、おまえはそこにいる。
      それがおまえの強さじゃないか。

 駅裏の恵比寿マートは昔ながらの臭気をこもらせていた。活気ある小さな魚屋がいまも健在であるのには、私は訝しい思いに戸惑い、店頭の兄ちゃんの溌剌とした声がいまも聞こえるのが不思議だった。その隣の狭い酒場はまだ暖簾を下ろしていなかったが、そこで一人のアル中の先生と酒を飲んだことが思い出された。恵比寿駅の東口がサッポロの恵比寿ビアガーデンが拓けて大きく変わり、むかしは表玄関で賑わった駅西口も同様に発展していたが、国鉄線路裏の傍らにはいまも小さな店を並べたマートは存在していたのであった。私はガードをくぐり、駅の西口へ回った。一つ目の信号の向かいに一軒の古本屋があり、そこで私は幾冊の本を手に入れたことだろうか。だがやはりシャッターは降りて古本屋はもう商いを閉じていた。私は幾人かの女性の顔が私の中を通り過ぎ、浮かんでは消えていくのを感じたが、そうした過去の一切はもはや腐乱した無花果の果実のように、回顧するちからを喪失しているが儘に任せておくしかなかったのだ。思い出そうとすれば、それはあまりに大きな幻影で私を掴むだろうことに、私は畏れていたのにちがいない。私はあまりにも愚直すぎた。あまりにも性急でありすぎたのだ・・・・。
 西口の駅前のロータリーを渡り、私の目はその広場の突き当たりの方角に、赤い提灯の飲屋をみていた。まだ、そこにその飲屋はあり、恵比寿で一番といわれた焼鳥屋が、昔と同じ引き戸の店構えでそこあるのを私はみた。中をのぞくと既に満員の盛況だ。戸を引くと、カウンターの奥の隅っこを店員が指差した。椅子が一つ、いや二つ空いていた。私は腰を下ろした。やはりここに、二十年ほどまえにも私はある人を連れてきたことがあった。いやいやもう、このへんでやめにしておくべきだろう。まだ明るすぎる春の黄昏はもうすぐに、もうろうとした薄闇となってむかしの私も姿を消さざるをえないからだ。過去は私を必要とせず、私も過去を偲ぶ肉体の持ち合わせがないことを、身に染みだすにちがいないからである。私の他愛もない回顧の情が哀しみに暮れていくのをただ手を拱いてみているしかないことが、なんともやるせなかったのであった。




プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード