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“時代劇“の万華鏡

 手に何物かを持たないといられないという人がいる。四つ足から二本足歩行をするようになった人類は、自由になった両手が一番に感じたのは「不安」というものであった。その「不安」が解消されていったのは、宙に遊んでいた両手がなにものかに接触し、つぎにそれを掴むに過程にあった。それが「道具」を使う人類の最初に感じた「自由」の創造的な感覚にちがいない。
 “時代劇”と銘打ちながら、つまらぬ哲学的な出だしで恐縮であったが、フランスの哲学者ベルクソンが『創造的進化』という名著において、人間知性の本質を創造性として把え、これにホモ・ファーベル(Homo faber)との定義を与えたというのは、剣で戦う時代劇の万華鏡を覗くには、必要な道筋と思われたからだ。
 さて、ここから幾つかの時代劇の話しに移るが、剣を手にすると突然、人が変わったような様相を示す御仁が偶に見かけるのは、原始いらいの刷り込みと関連がすあるようだ。動物学者のローレンツが言う攻撃的な本能に火がついたのかもしれない。どうも日本刀にはそのような妖力があるようである。チャンバラが時代劇の見せ場ではあるが、それだけではあまりに殺伐だろう。そこで大衆の心に訴えるこまやかな人情が添えられことになる。トルストイの「戦争と平和」も、ロマンスと戦場が交互に出てくるのだ。
 子供の頃、亡き姉さんに連れて行かれてみた映画に「鞍馬天狗」や「怪傑黒頭巾」があった。嵐寛寿郎や大友柳太郎が格好よかったのだ。私はチャンバラ好きな少年であった。あまり強いので誰もチャンバラで遊んでくれなくなったほどだ。パチンコは空を飛ぶ鳥を落とし、樹に止まっている蝉は羽根を撃つことで捕獲し、猫にやると喜んだ。遊びとなると、そこに自由と創造性が働くからであろうか。
 学生の頃、「木枯らし紋次郎」の「あたしには関係のないこってす」の科白にまいった。そう言いながら、紋次郎は必ず事件に巻き込まれていくからだ。サルトルの「虚無への情熱」みたいなものがあったからだろう。あるいわ、ノンポリ学生の心情を幾分反映していたからかも知れない。いわく「状況」(シチュエシオーン)というものであった。
 「座頭市」は勝新太郎の個性が光っていた。なによりも、あの盲目の侠客が使う杖に擬した剣と居合の達人の技まえには、不可解ながら圧倒されざれ得なかった。刺すいがいはすべて撫で斬り、しかも気配だけでバサリ、バサリと十人相当の敵を倒していく凄腕に口を開けて見とれていた。
 「雨あがる」は黒沢監督の「遺作」のようなものと思えるが、あの無外流の殺陣はなかなかのものであった。一時、私もこの道場に通ったことがあった。試し切りの専門道場を持っていた。若い外人の相当なる猛者でも一畳をグルグル巻きにし一晩水に漬けた巻わらを斬るとなると、簡単ではなかった。私は初体験ではまるで空気を斬るように斬って、見る者を吃驚させたが、すこしでも欲がでてくるともういけなかった。無外流では藁が斬れることが昇段の条件なのだ。この流派は江戸時代に開祖されたが比較的に新しいせいか、闘争性と合理性に秀でたものがあり、会員となると組織の情報はすべてパスワードでのネットによるシステムが採られている徹底ぶりであった。この映画も貧しい庶民への労りの情と斬り合いがうまく溶け合い、さすが黒沢組が作っただけの映画だと感心した。体捌きと剣捌きを見せた場面はなかなかのものだ。最初はよく見えなかった斬り合いのシーンも、よくみると体捌きひとつで、仲間同士が斬り合いをしてしまう場面などの殺陣師の腕前には感動したものだ。
 「剣客商売」も池波原作の無外流の使い手、秋山小平を藤田まことが演じていたが、「鬼平犯科帳」もそうだが、女房が池波を好きなため全巻を買いそろえた。「鬼平」には私たちが住む町名がよく出て、時代劇というより江戸の食文化や風俗を彷彿させる魅力があった。
 「椿三十朗」はやはり最後の決闘場面が見物であろう。三船と仲代では、あまりの間の近さをどう殺陣師がさばくのかと思ったが、三船の左手で抜き上げたものうちが、仲代の心臓をえぐるなどの妙技には、感動してしまった。新作の映画では、この接近戦を柄と柄の取り合いに変えている工夫に成る程と思った。
 最近のテレビドラマでは、「酔いどれ小籐次」という番組があったが、何流になるのかその秘剣にはあまりに作り物めき、どうにも腑に落ちないもどかしさが残った。抜いた刀を峰打ちに持つ。相手には「この野郎!なめやがって!」と心理の虚を突き、敵愾心を剥き出しにさせる心理戦と見えた。興奮した敵は、必ず、いつかは上段から真っ向に切り下ろしてくるはずだ。その瞬間を待ってその時、瞬時に敵の間の近くに走り込み、左横胴を斬る技とみたがどうもこれがリアルではなかった。一説によると日本刀は、峰打ち用には出来ていないとのことで、打った瞬間に刀は折れるらしいのだ。高価な日本刀をそのために、実験した者はいないと思うので、真偽のほどは定かではない。だがテレビでは幾人も峰打ちにしているのだ。一対一の勝負では、峰を下に持って、じりじりと間をつめていかねば、瞬時に胴斬りをする間には届くことはできないはずだ。これが出来るのは相当な運動能力に秀でた者だが、小籐次はすでに初老ではないか。宮本武蔵は四十歳まえで、斬り合いを止めている。あとは就活に勤しんだが、武蔵のプライドと藩での身分のミスマッチで思うようにいかなかっただけだ。
 まだ読んではいないのが、山本周五郎の「樅の樹は残った」は、平幹二朗や吉永小百合が出演してテレビで放映されたものだ。私は周五郎の庶民愛と反骨精神が好きで、この作品は傑作の時代劇だと信じている。
 だが、もう最後に一言だけ、萬屋錦之介の演ずる元公儀介錯人の「子連れ狼」で話しを終わりにしよう。錦之助の日本刀への熟練度は相当なものとみた。拝一刀が使う同田貫(どうたぬき)は、試し切りでは現代でも人気のある刀だ。強靱で切れ味は抜群だからだ。私の感想では、関ものより肥後ものが同田貫もそうだが、実践に向いていると考える。
 それにしても、現代の刀剣とは奇妙な「道具」だ。使い道のない道具とは、前近代の遺物以外のなにものでもなはずだが、存外、この遺物が日本人の心底に生きているからだ。そして、時代劇ほど庶民の生活を感じさせてくれ、日本人の魂を掴むものはない。終わりに「子連れ狼」の歌でも載せておくことにしよう。

しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん
しとぴっちゃん
悲しく冷たい 雨すだれ
幼い心を 凍てつかせ
帰らぬちゃんを 待っている
ちゃんの仕事は 刺客(しかく)ぞな
しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん
しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん
涙隠して 人を斬る
帰りゃあいいが 帰らんときゃあ
この子も雨ン中 骨になる
この子も雨ン中 骨になる
ああ 大五郎 まだ三つ
しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん
しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん

ひょうひょうしゅるる ひょうしゅるる
ひょうしゅるる
寂しくひもじい 北ッ風
こけし頭を なでて行く
帰らぬちゃんは 今どこに
ちゃんの仕事は 刺客ぞな
ひょうひょうしゅるる ひょうしゅるる
ひょうひょうしゅるる ひょうしゅるる
涙隠して 人を斬る
帰りゃあいいが 帰らんときゃあ
この子も風ン中 土になる
この子も風ン中 土になる
ああ 大五郎 まだ三つ
ひょうひょうしゅるる ひょうしゅるる
ひょうひょうしゅるる ひょうしゅるる




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masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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