温泉旅行
夜中に寝覚めることが多くなった。目には悪いが布団から二の腕を出して本を読む。杉本秀太郎氏の「花ごよみ」の文庫本は、その閑雅な文章といい、詩、俳句、和歌など、古今東西からの引用が適格無類、さすが京都洛中に住む文人さながらの趣があるのだ。
先夜、京都町屋の家屋敷と生活の紹介したテレビ番組で、お顔を拝見したが、声だけを京都の町屋でむかし聞いたことがあった。テレビにもでた奥さまは私の突然の訪問に応じてくれた人だ。いかにもはんなりとした京都のご婦人とお見受けした。
―主人はまだ寝床のなかにおりますので・・・。
それは至極とうぜんのことで、詫びなくてはならないのは、不躾な私のほうであった。三十年ほどのむかしのことである。
話しが始めからとんでもないところへ飛んでしまったが、家人と二泊三日を過ごした信州の温泉旅行のことを記しておきたかったのだ。
白雪に 蕗萌えいずる 七味の湯
旅館から長靴をはき、橋をわたり四分ばかり歩いたところに、広い露天風呂があった。見わたせば回りはまだ雪を残した笠ヶ岳の斜面、その遥か遠くに黒姫山の頂上が雪をいただいて、案外はっきりと見えた。
自家源泉のかけ流しの七つの白濁の濁り湯をあつめていることから名前がつけられたとのこと。長野電鉄の須坂からバスに乗って山田温泉で降りると、送迎の車が迎えに来てくれた。つやつやした血色のいい顔をしたおやじさんが軽快なハンドルさばきで、万座温泉への街道を走ると松川渓谷沿いに旅館がみえた。川は硫黄の鉄分が多いので魚は棲んでいないとのこと。四階の部屋に案内された。広い部屋が二つあり、すこし小ぶりの部屋の隅に文机とランプがあった。白濁した広い露天風呂は意外に熱い。小寒だが新鮮な空気が顔に快い。流れ込む温泉の音だけの静けさに、耳鳴りはふしぎと聞こえてこない。こんな自然のなかに、二、三週間でもいたら、あたまは平生に復して、老いゆく生命もすこしは更新されるにちがいない。座布団に突っ伏してしばしの惰眠をむさぼり、起きて杉本氏の「花ごよみ」を読みつづける。
ここで「牡丹」からその一部を借用させていただくことを寛恕されたい。
「牡丹は昔、中国の文物が殊に尊重されていた世の中では、百花の王者であった。新しい詩歌は牡丹に冷淡である。
古い世の牡丹は、蕪村の句に咲きほこっている。
方千里雨雲よせぬ牡丹かな
やや二十日月も更け行く牡丹かな
二句目は「花開花落二十日」という白楽天の詩句を踏まえる。
また同じ蕪村の句に、
牡丹剪つて気のおとろひし夕べかな
フランス語のlqngueur(衰弱、倦怠、気だるさ)という言葉の説明にはこの句をもってすべしとは、夷斎石川淳の説くところ。蕪村は新しいのである。ボードレールあるいわヴェルレーヌにこの花の姿を見せたかったと言いたくなる。この句に同じ蕪村の、
牡丹散ってうちかさなりぬニ三片
を引き合わせてみると、高浜虚子の小説〖俳諧師〗の一ページが、蕪村の二句をいわば訛声(だみごえ)で増幅再生したものなのがわかる。」
むかし、この人の訳した「悪の花」を読みたい一心で、あまり買わない文芸雑誌を手にしたことがある。鈴木信太郎譯の「悪の華」では旧いのであった。因みに、この二人の訳語をならべてみたい。
まず、鈴木信太郎訳の「秋の小曲」
きみの眼は、水晶のように澄みきつて、俺に尋ねる、
『風變りの戀人よ、一體わたしの何がお氣に召しますの。』
―可愛いらしく爲て 口を利くな。古代的な動物の
無邪気さだけは例外で、あらゆるものに苛々する俺の心は、
つぎが、杉本秀太郎訳の「秋のソネ」
水晶みたいに澄んだ君のお目が、ぼくにこんなことをおっしゃる、
「変な人ねえ、それじゃ、あたいのどこがいいっていうのお」
―感じのいい娘でいておくれ、そして物を言っちゃ駄目さ。大昔の動物の
汚れなさだけは別。そのほかのものには、ぼくの心はかならずいら立つばかりなんだから。
杉本氏の訳は前述の文庫本「マーガレット」にでているものだ。どんなものか。
須坂にて どむろく呑みて 紫木蓮
帰って遠藤酒造のこの「どむろく」のうまさに舌鼓をうった。旅館で呑んだ流渓の酒もよかったが、この「どむろく」には叶わない。
ニ軒目の旅館へ行く前に、須坂駅まで家人と歩く。白い壁の倉造りの家が立ち並ぶ道を、試飲して朱に染まった顔が火照ってしかたがない。「朱木蓮」にしたかったが、「牧野日本植物図鑑」には木蓮の朱はないのである。
豪商田中家のお雛様を堪能して、庭を眺めて甘酒を飲む。沙羅(夏椿)が硝子窓からみえた。
沙羅の下 小池に睦む 鯉二匹
蕨の湯はバス停からすぐ前にあった。広い駐車場には風呂だけ浴びにくる地元の車でいっぱいである。地下と一階しかないおかしな造りの旅館であった。
夕食は旨いと家人が言うが、酒はいまひとつのところだろう。隣の部屋で結婚の披露宴があり、その声が響いてくる。賑やかな宿屋である。
蕨の湯 靄のけぶりの 雪景色
上野駅からタクシーで我が家に帰る。翌朝、隅田川のテラスを歩いた。
久しぶりに鷗が群れ飛ぶのをみた。海猫と鵜と鷗がこの隅田川の制空権を互いに争っているのである。
街に一本だけある桜の樹が、ほぼ、満開にちかくなっていた。
蜂来たりて 障子の桟に とまりけり




先夜、京都町屋の家屋敷と生活の紹介したテレビ番組で、お顔を拝見したが、声だけを京都の町屋でむかし聞いたことがあった。テレビにもでた奥さまは私の突然の訪問に応じてくれた人だ。いかにもはんなりとした京都のご婦人とお見受けした。
―主人はまだ寝床のなかにおりますので・・・。
それは至極とうぜんのことで、詫びなくてはならないのは、不躾な私のほうであった。三十年ほどのむかしのことである。
話しが始めからとんでもないところへ飛んでしまったが、家人と二泊三日を過ごした信州の温泉旅行のことを記しておきたかったのだ。
白雪に 蕗萌えいずる 七味の湯
旅館から長靴をはき、橋をわたり四分ばかり歩いたところに、広い露天風呂があった。見わたせば回りはまだ雪を残した笠ヶ岳の斜面、その遥か遠くに黒姫山の頂上が雪をいただいて、案外はっきりと見えた。
自家源泉のかけ流しの七つの白濁の濁り湯をあつめていることから名前がつけられたとのこと。長野電鉄の須坂からバスに乗って山田温泉で降りると、送迎の車が迎えに来てくれた。つやつやした血色のいい顔をしたおやじさんが軽快なハンドルさばきで、万座温泉への街道を走ると松川渓谷沿いに旅館がみえた。川は硫黄の鉄分が多いので魚は棲んでいないとのこと。四階の部屋に案内された。広い部屋が二つあり、すこし小ぶりの部屋の隅に文机とランプがあった。白濁した広い露天風呂は意外に熱い。小寒だが新鮮な空気が顔に快い。流れ込む温泉の音だけの静けさに、耳鳴りはふしぎと聞こえてこない。こんな自然のなかに、二、三週間でもいたら、あたまは平生に復して、老いゆく生命もすこしは更新されるにちがいない。座布団に突っ伏してしばしの惰眠をむさぼり、起きて杉本氏の「花ごよみ」を読みつづける。
ここで「牡丹」からその一部を借用させていただくことを寛恕されたい。
「牡丹は昔、中国の文物が殊に尊重されていた世の中では、百花の王者であった。新しい詩歌は牡丹に冷淡である。
古い世の牡丹は、蕪村の句に咲きほこっている。
方千里雨雲よせぬ牡丹かな
やや二十日月も更け行く牡丹かな
二句目は「花開花落二十日」という白楽天の詩句を踏まえる。
また同じ蕪村の句に、
牡丹剪つて気のおとろひし夕べかな
フランス語のlqngueur(衰弱、倦怠、気だるさ)という言葉の説明にはこの句をもってすべしとは、夷斎石川淳の説くところ。蕪村は新しいのである。ボードレールあるいわヴェルレーヌにこの花の姿を見せたかったと言いたくなる。この句に同じ蕪村の、
牡丹散ってうちかさなりぬニ三片
を引き合わせてみると、高浜虚子の小説〖俳諧師〗の一ページが、蕪村の二句をいわば訛声(だみごえ)で増幅再生したものなのがわかる。」
むかし、この人の訳した「悪の花」を読みたい一心で、あまり買わない文芸雑誌を手にしたことがある。鈴木信太郎譯の「悪の華」では旧いのであった。因みに、この二人の訳語をならべてみたい。
まず、鈴木信太郎訳の「秋の小曲」
きみの眼は、水晶のように澄みきつて、俺に尋ねる、
『風變りの戀人よ、一體わたしの何がお氣に召しますの。』
―可愛いらしく爲て 口を利くな。古代的な動物の
無邪気さだけは例外で、あらゆるものに苛々する俺の心は、
つぎが、杉本秀太郎訳の「秋のソネ」
水晶みたいに澄んだ君のお目が、ぼくにこんなことをおっしゃる、
「変な人ねえ、それじゃ、あたいのどこがいいっていうのお」
―感じのいい娘でいておくれ、そして物を言っちゃ駄目さ。大昔の動物の
汚れなさだけは別。そのほかのものには、ぼくの心はかならずいら立つばかりなんだから。
杉本氏の訳は前述の文庫本「マーガレット」にでているものだ。どんなものか。
須坂にて どむろく呑みて 紫木蓮
帰って遠藤酒造のこの「どむろく」のうまさに舌鼓をうった。旅館で呑んだ流渓の酒もよかったが、この「どむろく」には叶わない。
ニ軒目の旅館へ行く前に、須坂駅まで家人と歩く。白い壁の倉造りの家が立ち並ぶ道を、試飲して朱に染まった顔が火照ってしかたがない。「朱木蓮」にしたかったが、「牧野日本植物図鑑」には木蓮の朱はないのである。
豪商田中家のお雛様を堪能して、庭を眺めて甘酒を飲む。沙羅(夏椿)が硝子窓からみえた。
沙羅の下 小池に睦む 鯉二匹
蕨の湯はバス停からすぐ前にあった。広い駐車場には風呂だけ浴びにくる地元の車でいっぱいである。地下と一階しかないおかしな造りの旅館であった。
夕食は旨いと家人が言うが、酒はいまひとつのところだろう。隣の部屋で結婚の披露宴があり、その声が響いてくる。賑やかな宿屋である。
蕨の湯 靄のけぶりの 雪景色
上野駅からタクシーで我が家に帰る。翌朝、隅田川のテラスを歩いた。
久しぶりに鷗が群れ飛ぶのをみた。海猫と鵜と鷗がこの隅田川の制空権を互いに争っているのである。
街に一本だけある桜の樹が、ほぼ、満開にちかくなっていた。
蜂来たりて 障子の桟に とまりけり







