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文章の人生

 この「文章の人生」という言葉は、文芸批評家の加藤典洋という人の「文章表現法講義」という一見難解そうな本に出てくるものです。加藤氏は、書かれた文章はそれが読まれ、また、読者の感想なりがあって、はじめてその一生を終えると言っています。なるほどと思われたところです。
 私はずっと以前からこの人の批評文を読んできました。「アメリカの影」(1985年)と「批評へ」(1987年)を読み、私と年齢も一つ違いということもあり、大げさにいえば、深甚なる関心を懐いてきた思考家でありました。(ここで敢えて「思想家」と言わずに「思考家」と言ったのは、氏には「思想家」という言葉があまりなじまないという気持ちからで、軽んじているつもりは毛頭ないことをお断りしておきます。)
 1995年に「敗戦後論」の刊行と同時に一読して、私は大変に感動させられました。その後、加藤氏のものはほとんど読んできたと言っても過言ではありません。氏の比喩の用い方には抜群のものがあり、「敗戦後論」の冒頭に出てくる子どもの相撲談義はそうした好例の典型であったのです。子どもの相撲で土俵際で押し倒された子どもが負けじと今度は相手の股に足を入れ、柔道の巴投げをかけて逆に相手を倒したところで、それを見ていた子どもたちが拍手をした。このときの違和感を日本の敗戦の受け止め方として使っているところだ。こうした感性とそれを批評文の中に比喩として使う能力には、思わずに感心しないではおれなかったのです。
 この「文章の人生」もその一つで、氏の批評文がその他多くの批評家と一線を画しているのは、あたかもカフカの小説の寓意性に近似したものがそこにあるといってもいい。カフカが「夜のなぐり書き」を妹たちに読んで聞かせ、あるいわ友人のマックス・ブロートに見せざる得ないことには、人間の「人生」そのものに根ざしたある不可解な衝動を感じさせます。ここに「芸術」というものの本質の根源がかくされています。20歳で詩を放棄したアルチュール・ランボーでさえ、「地獄の季節」と「イルミナシオン」という詩集が残されているのです。詩人本人がその反響にどんなに無関心であったとしても、そのことと詩を完全に抹殺しなかったという事実は別のことなのである。ガルシア・マルケスはほんの数人の友人に読ませたい一心であの「百年の孤独」を書いたと言っています。脳梗塞後の難儀なリハビリをしながら、辺見庸という作家は不自由な身体で携帯に文章を打ち込み、それをパソコンに転送して「水の透視画法」(2011年)なる厳しく透徹した文章を、たった一人の友人を思いながら書いたと言っているのです。たしかにいわゆる「芸術家」と呼ばれ得る人間の中には、一人の「愛情乞食」を棲まわせていることは否定できないことでしょう。トーマス・マンが「トニオ・クレーゲル」という作品で、主人公が「あなたは『芸術』の世界へ迷い込んだ俗人」だと友人の女性に批評されても仕方のないことであり、ギュスターヴ・フローベールのように、作家自身が「エンマ・ボバリー夫人は私です」と言ったとしても、おかしくもなんともないことなのだと思います。




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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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