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平和

 図書館で文芸誌をめくっていたら、故小林秀雄が戦後まじかに書いた「政治家」という短いエッセイがあった。一読してそこに小林氏が戦後になって心中にふかく潜ませた烈しい悔悟が文中に漂っていることが感じられた。真珠湾攻撃の写真を朝刊でみて書いた「戦争について」とその一文はあの大戦を挟んで、合わせ鏡のように対になっているとしか思われなかったのだ。戦後のある座談会で、小林氏は「利口な人間はたんと反省するがいい。ぼくは反省などはしない」と憤然したことばを浴びせた小林氏の心中にあった憤激がいかばかりのものであったかをその一文は推測させるに余りあるものであった。氏の政治家嫌いは吉田茂の面前で、その庭からの景観への違和感を直裁に表明する場面にも現れていて、別段どうということはない。しかし、偶然とはいえ、いまのこの時期に、氏の一文が世に出てきたのには不思議とおどろかずにはいられない。
 むかし、太宰治が「東条英機にはなにもないじゃないか。まるでお化けだ」とどこかに書いていたような記憶があった。また、あるところの講演で、三島由紀夫が散髪屋で時の佐藤総理大臣と一緒に席を並べていたことで、不快感を滲ませた発言を聞いて苦笑したことがあった。このときの三島の感慨は短編「大臣」となっているのかも知れないが、複雑な様相となって一流の作家の内面は一筋縄でないことを知るにちがいない。また、さらに故開高健が大江健三郎と石原慎太郎の座談会で、当時、運輸大臣になったばかりの石原氏に、「よお、大臣!」と挨拶をすると、石原氏が憮然となるシーンがあったことなどが思い出されてくるのである。こうした子供じみた反応を回避できる作家としては、武田泰淳ぐらいではないかと推測されるのは、「司馬遷」を書いた武田氏には、政治の世界に、大人として対するもう少し広闊な視野で望む教養と度量があったからだ。例えば「政治家の文章」にそれはいかんなく発揮されているだろう。
 冒頭の同じ文芸誌に、内田樹と赤坂真理の対談が載っていたが、安倍総理大臣についてこんなことが話されていた。
「安倍総理は人格が二人に乖離して、それは両価的である」と。たぶんこの判断は間違ってはいないだろう。だがこれは安倍総理に限ったことではないのではないだろうか。現今のほとんどの日本人にこの判断は該当しないはずはないと私には思われるからである。
 この二人の対談者は安倍総理に自分達の影を投影していることに気づかないだけのことではなだろうかと。
 もう一度、小林氏の小文に戻ろう。
「政治という兇暴な怪物に食い殺されぬために、ぼく等は自己防衛策を講じねばならなかった。・・・・民主主義はぼく等の自己防衛策である。決してそれ以上でもそれ以下のものではない」。そしてこの後につぎの文章がつづくのである。
「民主主義とは人民が天下をとることだなどと馬鹿げたことを考えていると、組織化された政治力は第二の怪物となって諸君を 食い殺しかねまい」と。
 以前の私のブログ「昭和史」に、江藤淳氏の文脈から、流行歌がないことを嘆くニュアンスの文章を綴ったが、それは小説の登場人物の酒場での口上であることをお断りしておきたい。国民のほとんどが口ずさむ流行歌がなくてもいいのである。NHKの日曜の午後一番に「のど自慢大会」という番組が、私は好きで家人と二人でよく見ている。各地方の歌好きが自分の歌いたい歌を、自由勝手に歌うこの番組を黙って聞いていると、ここに日本の自由と民主主義と平和があるとつくづく感じられるからである。



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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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