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映画「人斬り」と「炎のごとく」

 居合の稽古で暫くぶりに快い汗を流した。その道場では時々日本の居合道の範士級人物を招いての特別講習がある。この度は現役時代に民間会社に勤め毎日徹夜で働きながら居合道を修行したという齢90を越す人であった。演武のまえに居合中興の祖である中山博道先生の写真と生涯の閲歴、それに全剣連居合の制定12本の成立までの経緯が披露されたが、現代の居合道の歴史的な意味合いを思案中の者には意義深いものであった。戦後の昭和40年に全国に散在するいわゆる古流の流派を統一した制定居合いへの動きがあったということは、日本の伝統文化の復元力とその革新性を示すものだと思われた。
 技の指導に入ると開口一番「隙のない居合」を強調したのも、現代の居合いの陥りがちな敵を見失った演武に警告を発したものと受け止めた。高齢での膝の支障を抱えながら、その気迫と品格を兼ね備えた技前には、実に一寸の隙もなくその美しい演武には感服の外はなかった。
  だが一言ここで記しておかねばならないことがある。それは現代の居合の本質に関わる事柄であった。敵を想定する現代の居合道では敵を斬るには鞘引きを必須と教えられているところである。そこで制定の五本目「袈裟斬り」における逆袈裟での鞘引きについて質問したところ、虚を突かれたかのごとく明解な答弁を得ることができなかった。私は早々に質問を打ちきった。七段の左手を注視していた限りでは、誰一人の手も不動で鞘引きのいかなる動作もみることはできなかった。要するに誰一人左手による鞘引きらしきものをしようとはしていなかったのだ。これでは当然なことに師範級でさえ質問に答えられるはずはないのであった。バーチャルなリアリティーを追求している現代の居合には必ずと言っていいほどにこうした問題に直面せざるを得ない。これは必然なことで不思議ではない。逆袈裟で試し切りをしてみれ分かることだろうが、鞘びきだけで剣を操ることは無理なのである。身体全体の動きがこれに伴わねばならない。特にこの場合は腰であろう。斬ろうとすれば、必ず身体のすべての部分がこれに同調しなければならない。人を斬ることを想定した刀は正直である。気剣体一致とはこの正直な肉体の伝統的な運動に従うということなのである。想定の現代居合の陥穽がここにある。この条よくよく思案すべきことではなかろうか。
 たぶん師範はとっさの質問に面くらい、古来からの気剣体一致という有意義な言葉を失念したのだと思われる。

  さて前口上はこの位にして、ビデオ屋で借りたくとも品切れのため見る機会のない、五社英雄監督の映画「人斬り」が、先日丁度よい具合にテレビで放映された。原作は司馬遼太郎の「人斬り以蔵」。幕末の動乱期に土佐勤王党の武市半平太の手足として活躍し、人呼んで「人斬り以蔵」と言われた男が、最後は弊履のごとく武市に捨てられてしまう。京都での政治的な動乱が進むにつれ、土佐の藩主山内容堂は、吉田東洋の暗殺の首謀者として武市を土佐に連れ戻して切腹させ、同時に岡田以蔵を斬首での処刑とする。文字通り一寸先は闇の政治世界のアイロニーを、冷徹に活写する橋本忍の脚本は見事であった。だがこの映画の見所は勝新太郎の「天誅!」の一声と共に怒濤のごとく体当たりしての以蔵の剣捌きにあり、洛中の狭い路地裏では、越後の尊皇攘夷派の本間清一郎との斬り合いシーンにみられた細やかな演技は素晴らしいものであった。今も京都の先斗町(三条本屋町下ル)には本間清一郎殺害の石碑を見ることができる。勝新の演技に比べては畏れ多いところだが、薩摩の人斬り田中新兵衛を演じた三島由紀夫氏は、昭和45年の自刃の前年にこの映画に出演して、攘夷派の急先鋒、姉小路公卿暗殺の現場に自分の刀が落ちていた咎を責められている最中、証拠の刀を右手にとるや腹を一突きした刀をさらに脇腹に引き回しての切腹シーンは圧巻の一語に尽きるだろう。このとき右腕の筋肉がアップで映される。この筋肉こそ三島氏が努力して作り上げた肉体の美の鎧であった。竜馬を演じた石原裕次郎に比べても、いやそれ以上の迫真の好演技というべきであろう。だがやはりというべきか、八相の構えには氏独特の演技が光ったところだが、剣の捌き方には今ひとつの冴えがないように見えたのが惜しまれるところだ。やはりペンに命を賭けた人に居合を習練する暇などなかったのであろう。ただご冥福を祈るばかりである。

 つぎに紹介したい映画は菅原文他主演の「炎のごとく」でこれもテレビで見ることができた。昭和56年制作。監督は時代劇や任侠映画の名監督の加藤泰の最後の作品である。加藤泰は藤純子主演の「緋牡丹博徒シリーズ」はよく知られた監督だ。原作は飯干晃一の「会津の小鉄」。これもまた幕末の京都を舞台に、侠客・会津の小鉄こと仙吉と京都の町の庶民を中心に、天誅横行、池田屋事件、蛤御門の変などを背景にしたドラマである。出演者の顔ぶれが実に面白い。仙吉に菅原文太。その仙吉が惚れぬいた元瞽女のおりんに倍賞美津子。人足口入屋の大垣屋清八に若山富三郎。女房・お栄が中村玉緒。大風呂敷専吉の藤山寛美。近藤勇に佐藤允。土方歳三に伊吹吾郎。田中土佐に丹波哲郎。梅屋のお辰に菅井きん。川津祐介。藤田まこと。新門辰五郎に大友柳太朗。その他高田浩吉等の多士済々が出入りして賑やかな映画になった。
  仙吉は呉服屋の跡取り息子だったが 人殺しの罪で大坂所払いとなり 博徒として諸国を渡り歩いていた。たまたま仙吉が手に入れた刀が近藤勇の名刀「虎徹」と同じだったというひょんなことから新選組と縁ができる。だが賭場の悶着の末に惚れた女房おりんが仙吉を庇って殺されてしまう。このおりんに出会った時の仙吉の科白はこうだった。
「わい、負けじゃ、お前には。こうなったらわいもお前に賭けまっせ。お前ちゅう者一人、幸せにしてみせるに賭けて。京都じゃ」。
人足口入屋の大垣屋清八を訪ね、親分子分の水盃を交わすようにすすめられる。おりんのためにも堅気でいたい仙吉が断るときの科白。
「手前、ここに連れております、おりん、この女一人、幸せにしてやれるか、やれんか、してみせるに賭けて京都に参りましてん。親分と親子の盃しますと、その盃の義理を第一にして、生き死にを考えななりまへん。手前、嘘が言えまへん。手前の一番はこのおりん」 
  その心意気に打たれた清八の女房(中村玉緒)お栄の計らいで、賭場で弁当売りをする。がある日、暴れた男を包丁で刺し殺してしまう。おりんの位牌を持った仙吉は、大坂の家で戻り、祖父母は黙って、その位牌を仏壇にまつってくれた。その席で、お富という娘を紹介され、嫁とりをすすめられるが、おりんを生涯ただ一人の女と思い定めている仙吉は辞退する。
岡田以蔵が盗みで引き立てられ、それにすがる情婦を仙吉は家へ送り、いきなり切りつけられる。事情を聞くと、この女はかつて、仙吉とおりんを襲って返り討ちにあった追いはぎの娘。そして池田屋事件が勃発。その乱闘の最中、新選組に斬られた岡田以蔵の情婦が男装のまま、二階から落ちてきた。駆け寄った仙吉の腕の中で、情婦なかは絶命する。
「何でや。何で。おりん、どの人かて、わい、一生懸命してるで。そうしか出来へん。お前にかて、あぐりちゃんにかて、富ちゃんにかて、この人にかて。それが、何で」
 この池田屋事件の報復のため、長州軍が京都へ侵攻する。蛤御門の変だ。出陣する近藤らに「友達じゃなかったんですか」と仙吉は問い詰めるが、戦乱の末、京都は焼け野原となる。その焼け野原で仙吉は おりんの幻を見る。
「おりん、わいの賭けは負けやったんかなあ。いや、違う。わいは負けへんで。また賭けるで」
 焼け残った井戸で顔を洗った仙吉は「わいはやるで!」と意気を新たよみがえるのだ。
動乱の歴史的事件に翻弄されながら 仙吉は亡きおりんへのいちずな愛を貫きとおすところに、前者の五社の映画「人斬り」と異なる阿鼻叫喚の陋巷を、雑草のごとく力強く生きぬくしかない人々を、加藤泰監督は血まみれの映像から救いとってあの世へと急いだようである。




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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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