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朗読を聴く

 むかしのこと。さる人物から、朗読のテープを譲り受けた。たまたまそれを見つけて、暑い夜更けの寝しなに耳を傾けてみた。多岐川恭という小説家の短編「忘れていた女」を、NHKのアナウンサーが朗読したものである。

 父の跡を継いだ大阪の老舗の呉服屋の主人が、江戸へ出てきて若い時に過ごした両国あたりを散歩し、川端の茶店に腰を下ろして、大川を眺めながらつぶやく。
「ほんとうにひさしぶりの大川の眺めだ。なつかしいね」
 茶屋の姐さんと話しをかわし、教えてもらったうなぎ屋で燗酒を一杯。それから小僧とともに柳橋を渡り、板塀をめぐらした茶屋街へと足をむける。丈の高い楓の樹にふと足をとめる。なんとなく見覚えがあったからだ。その楓の幹を両手で抱くようにしている主人に通り過がりの女が目をとめて声をかける。主人はむかし入った茶屋が懐かしくて、うろ覚えの茶屋の名前を口にする。とその茶屋こそその女が働いているところで、主人はさっそくその茶屋へ案内をされて、玄関へ足を入れる。すぐにおかみさんらしい女が出てくる。
「おかみはおいねとう案内の女と、ほぼ同じ年頃だろう。ふっくらとした顔立ちで、笑うと愛嬌が溢れるようだ。髪は丸まげ、なにか渋い色合いの小紋を着て地味造りだが、さすがに粋で、なんとなく重味もある。」
 主人はうっかりして忘れていたが、その茶屋のおかみさんこそ二十年まえ、呉服屋の寄合で集まりまだ新米の主人の相手をしてくれた若い芸者なのであった。

 柳橋は隅田川へ神田川が流れ込むすぐのところにある小さな橋である。橋の袂に、
   
       春の夜や女見返る柳橋

 という、正岡子規の俳句が彫られた石碑が立っているが、あまり目立たないので、そのまえで足を止め、子規の句を読む風流人はあまりいない。だがこの橋の上に立つと、屋形舟がもやった神田川が遠くまで見渡せ、両国橋の下に流れる隅田川を一望することができるのだ。むかしの柳橋の芸者衆で賑わった花街の華やぎはいまは見る影もないが、かすかにその面影を胸の奥で偲ぶことはできなくもない。風にそよぐ柳の緑、カモメが群れ飛ぶのどかな大川の景色を眺めることはいまでもできるからだ。私はここが好きで幾度きたことだろう。幸田露伴の娘、幸田文が「流れる」という小説を書き、それが映画化された。住み込み女中役が田中絹代で、女将に山田五十鈴、その娘に高峰秀子、芸者 役に杉村春子、岡田茉莉子など、日本映画草創期の大スターが勢揃いしているのだ。文の娘の弘子が朗読した樋口一葉の「たけくらべ」や「にごりえ」を、聞いていたこともあった。
 くだんの多岐川恭の小説はまさにここを舞台にしているので、近くにいる私などはまるで主人公が自分であるかのような心持ちになれるのである。
 この小説家は、男女の色恋の機微、屈折した人間の心模様、そうした人が暮らしている一隅を描くのがなんとも上手い作家だ。出だしがあっさりとしているようでいながら仕込みの入った文章が出色なのである。
 「忘れていた女」はこんなぐあいに始まる。
「児島屋吉兵衛は二十年ぶりに江戸に出てきた。千代吉という小僧を一人連れ、大阪から二十日余りのゆっくりとした旅であった。」
 この小編は「江戸の敵」に収められた数編のうちのひとつだが、「雨宿り」という作品の出だしはどうだろう。
「茶店はゆるやかな坂を登りつめたところある。街道から少し引込み、けやきの大木の陰になっている上に、一見ただの百姓家のようなので、多くの旅人は、それと気付かずに通り過ぎてしまう。茶店とわかっても、貧相なので、あまり寄る気が起きない。店はいつも閑散としている。」
 この茶店の親切な主人がどんな人生の疵を負った者であるかは、頁を追うごとに明らかになってくる。プロットが一行ごとの文章につつまれ息づいているので、流れるように事件が起きて、最後の一行で全編が終わるのだが、なんとも言えない余韻が残る。そこに人間の表裏の生き様が坦々とした静かな筆づかいのうちに、鮮やかに描き出されてくるからふしぎである。
 NHKの朗読には、いまの下町が江戸の活気を放っていた往事の華やかな喧噪が演出されて、「忘れていた女」が自分にもどこかにいるかのような、そんな妙味のある人生が夢想されてくるのだ。ふと、隅田川の川辺りを歩いていると、大きな朱色の鯉が濁りの水面にあらわれまた水中に沈んでいくように、浅草寺の雷門前で生まれた久保田万太郎の名句がうかんできて、すうっときえていった。

   湯豆腐やいのちのはてのうすあかり




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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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