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妄想妄語


昨日は家の猫を袋に入った小ぶりの竹刀でしたたかに撃った。強気のクラも途中で反撃をやめて退散した。子供を折檻したときのように後味がよくない。それでも今朝は部屋の扉の前でしおらしく待機していた。女房はもうさすがにクラに懲りてきたのか、ご機嫌がわるい。実は昨夕居間にいると、クラが得意気に階段を降りてきた。大きなものを引きずっている。女房はすぐに気づいたが、押し入れに大事に吊る下げておいてくれた私の冬のセーターであった。それは去年に日本橋の三越で20万もだして買ったセーターで、仔羊の毛だけで編んだ特製品であった。虫がすぐにつくので、特別の配慮で虫除けの薬を入れて押し入れに仕舞ってあったのだ。幾度かクラが狙ってきた仔羊の臭いがする純毛のやつだ。そいつをとうとうやったぞという猫顔をしてクラが引きずってきたのである。

日本語
まだ小学生のころだったが、自分の日本語がおかしいと気づいたことがある。
妙なことよく覚えているといわれるが、全く妙な細部を覚えている。いやそんな細部を覚えているから、そうした事柄が記憶にとどまるのではないかと思う。
 家のちかくの公園のブランコにのっているとき、その事柄はきゅうに幼年のこころをよぎったのだ。そのときに私が考えて背景の言い訳も覚えている。それは私がこの東京へ地方からきた少年で、根っからの東京っ子ではないという思いつきであった。二度目が高校生のときであった。教室で英作文をさせられた時のことだ。黒板に板書した私の英文のデタラメ加減を教室中で嗤われたことがあった。英作文というより私の日本語の癖のせいだと妙にはっきりとした回答が私のこころに浮かんだのだ。中学校でも国語は嫌いであった。私の答えは必ずといっていいほど解答と合わないのである。特に文の解釈にそれが現れた。私の誤解があまりに特異であったため、標準語を正しく読むということができなかったのである。長じて社会的はコードを斜めにまたは裏から読む目が開かれてきた。そういうときだった。トリスタンツアラのダダイズムに惹かれたのは・・・・。もし芸術というものがなかったら、ニーチェのような哲学を知らなかったら私はどうなっていただろうと恐ろしくなる。中学のとき、1足す1が2になることを疑ったが、数学基礎論でそれが証明されていることを知ってやっと安心した。ヘーゲルの歴史哲学に喝采の声を上げた私がそのヘーゲルを批判したキルケゴールに賛同する自分がいることに気づきはじめた。人は話し、文法はあとから言語を整理する。

客観的相関物
T・S・エリオットが「ハムレット」を論じた文章がある。エリオットはハムレットの奥悩にこころ見合う「客観的相関物」がないと断じていた。その論旨が実にシェイクスピアの「ハムレット」の本質を衝いているとえらく感心したことがあった。柄谷行人が「マクベス」を論じた文章にこのエリオットの「客観的相関物」が一役かっていることに私は先を越された思いがしたことがあった。柄谷の評論に得意気に出てくる「可能性の中心」というキーワードがある。だがその言葉とは裏腹にそこには「可能性の中心」なんてないというそのことがそこに含意されているように思われてならない。同様に「客観的相関物」にも、元々人の心にそんなものがないというそのことが、人間のこころの本能なのではないかというパラドキシカルな明証性こそこころの真の姿なのだとの判断がその底に顔をみせているように思われる。人間のこころという器は最初から魔的なもので、何ものにも満たされないということこそがその本領なのだと。「きれいは汚い、汚いはきれい」というマクベスの科白はそこから発されているのだと・・・・。フロベールの女友達への書簡にたしかにそれに通じる文句があって、「あまりにのぞきこむと大変なことになりますよ」という意味の文章があった。たぶん「聖アントワーヌの誘惑」を書いたフローベール。「ボヴァリー夫人は私だと」といったフロベールは、「聖灰水曜日」を書いたエリオットに先駆けてこのことに通じていたのだろう。吉田健一の好きなラフォルグにもこの絶唱がある。これこそ現代哲学の核心にあるものだ。




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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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