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最後の老人

 凍りだした田沢湖が日に照り眩しいほどだった。
 切石竜三は妻のヤエと最後に訪れた温泉の途中で、この湖をバスから眺めたことがあった。晩秋の温泉は白一色に蔽われ、積もった雪に足元を気遣いながら、背中におぶった妻へ声をかけた。
「ホレ! 温く白い温泉やで。ここに浸かってな、ゆっくりしーな」
 背中の妻のヤエが、竜三のその声を聞いているのかはあやしかった。肉はそげ落ちて、骨と皮だけになった彼女はもう藁のように軽い。
 案内された部屋に入ると、竜三はすぐ押入から布団を引っ張り出し、ヤエを横たえさせた。白濁した瞳が竜三をぼんやりと見つめている。意識はあるがもう誰だか見分けがつかないのかも知れないと竜三は気がきでならない。布団はひんやりと冷たい。竜三は妻を寝かせると、湯たんぽを借りにフロントへ行った。
「そんなものありませんです」
 若い娘の一言で、竜三ははじき返された。彼の目が憤怒に針のように光った。
「あまりに冷たい布団でなー、病人には温くないじゃけんー」
 太いが低い声を喉の奥でふるわせ、竜三は大きな躯を屈めるようにして、娘のまえに頭を低くして、周囲を見まわした。奥に人の気配がなければ、細い娘の頸に両手をかけてでも、湯たんぽが欲しかった。娘はその竜三の躯から発する、得体の知れない圧力に押されるかのように、
「電気炬燵ならあるかも知れませんで、さがして来ますから・・・」
 そう声にもならない声をつぶやくと、奥へ逃げるように小走りで姿を消した。水っ洟を手の甲で拭った竜三は、奇妙な笑いを浮かべていた。自分が娘に求めたものと、娘が捜しに行ったものとの、その奇妙な違いがなぜか可笑しくてならなかったのだ。
 その頃の竜三は独りではなかった。背に負うヤエがいた。息子にも孫にも会うことができた。だがその時、滑稽な可笑しさとともに、彼は淋しいようなもどかしさに、苛立ち身をふるわせている自分がそこにいることには、さらさら気がついていなかった。

 竜三が六十に近くなった頃、わずかな農地を手放し、県庁のある大きな街にでたが仕事はなかった。灰色のシャッターばかり並んだ暗い商店街のコンクリートの床に段ボールを敷いて身を横たえた。そこで二夜を過ごしたが、三日目に同じような仲間の一人から叩き起こされたのだ。
「おめえどこの誰さ? 木戸銭もなしにいい度胸しとるけんなあ」
 竜三は細い目を開けて、その男の顔を股下からチラリとにらんだ。その竜三の刃物のような目に、男の顔からすうっと表情が消えいった。
 ゆっくりと竜三は何かを拝むように起きあがった。仁王立ちになっている男の股に素早く頭を突っ込み、そのまま力任せに押し倒した。男は不意を突かれ、体を仰け反らして、羽目板のように後ろへ頭から倒れた。石の床にしたたかに頭を打った男は、そのまま起きあがってこない。まだ夜が明けたばかしで、誰もこの光景を見た者はいなかった。竜三は仰向けに転がった男の胴巻きから財布を抜きとり、そっと男の顔を覗き見た。竜三のその熊のような体つきの落ちついて敏捷な動作は、子供の頃から彼がまわりから学び、身につけたものだ。
「チェ! おれを舐めるとどうなるか・・・」
 舌打ちをした竜三は男の後頭部から、床に流れ出しているどす黒い血を一瞥すると、足音もなくそっと現場から姿をくらました。
 竜三はその足ですぐに一番列車に飛び乗り、仕事を求めて東京へ出た。当たり前のように仕事らしいものはなく、公園の隅や川べりの橋の下で、段ボール暮らしをしながら残飯を探してうろつき廻った。
「母ちゃん、いまに田舎さ帰るから、それまで待っていろや」
 竜三は十も離れた妻のヤエを、すがりつくような思いで、一人息子の茂夫婦に託してきた。その頃から、妻ヤエの健康は目に見えて衰弱をはじめていた。そして、竜三がいなくなると、やえは長年の疲れが出てきたのか、床に伏してそのまま起きることもなくなった。
 一人息子の茂は県の専門学校で電気工事の資格をとると、県で二番目に大きい市街に、電気工務店を開いて、同じ専門学校で知り合った女友達と世帯を持ち、四歳の息子が一人いた。竜三にとって目に入れても痛くないほどの孫であった。息子の嫁もよくできた女だったのが幸いに、ヤエを預けるにはさほどの不安はなかった。だがこの不景気がどこまで続くか、ヤエを預けた茂の暮らし向きがどうなるか、心配をすればきりがなかった。
 必死に過ごした数ヶ月が経つと、竜三は田舎で押し倒した男のことを思いださずにはおれなかった。もしかしたら警察が自分を捜し回っていないともかぎらない。息子の茂の家へ警察の手が回っているかも知れないと考えると、段ボールのすきま風に馴れはじめた竜三は急に目を覚ました。敷石に流れたどす黒い液体がしだいに赤みを増して目の奥にひろがっていく。
 歳よりずっと若く見える竜三の躯には、若いときに働いたヤクザの血がいまも脈打って、それがふとした拍子に暴れ回るようだった。そのときが来ると竜三は、なにもこの世にこわいものはなくなった。だが寄る年波には竜三も勝てなかった。もうこの世になんの未練も残っていなかったが、家族への情にだけは弱くなっていく自分を感じた。田舎にいるヤエと息子の茂夫婦の家族だけは、いつも竜三の胸を離れたことはない。この世にもう思い残すことはそれほどなかったが、田舎で暮らしている息子夫婦の家族を思い、妻のヤエの姿を浮かべると、どうしても生きていたい気持が吹き返した。
 一冬が去ると春の日が射しはじめた。湿って汚れた布団を川べりに干した。着ているものも脱いで、破れたズボンひとつになって、アカに汚れたからだを陽に浴びせた。こするとボロボロとアカが面白いほどに剥けておちる。やがて川べりの土に菜の花が黄色と緑の一群を広げるのをみた。その下草にのぞく土の色を眺めながら、おなじようにこの冬を一緒に過ごした村井半三のことを思いださずにはおれなかった。こうした暮らしに馴れていた半三からはずいぶんと親切にされたと、竜三は半三の面影を眩しく輝くような菜の花の群落の下に、思いうかべた。その村井半三はこの冬の寒さのなかで、虫のように息をひきとって死んだのである。
 半三はオシのように口をきかず、片目がつぶれていた。だから竜三は半三がどこからきた、どんな男なのかというこまかなことはまるで知らなかった。だが竜三が自分と同じ境遇にあると分かると、ぶっきらぼうな、よくは分からない訛りことばで、野外での暮らしの方途をそれとなく教えてくれたのである。その親切が竜三のこころに染みた。
 あれはいつだったか、どこからか少年たちが数人現れた。彼らは太陽を背にしてはじめは黒い影でしかなかったが、手に手に棒を持ち、インディアンのような奇声を発して、二人の塒を襲ってきた。
「薄汚い襤褸たちを掃除しよう!」
「臭い人間のクズたち!」
「奴等をここから追い払ってやるぞ!」
 その突然の襲撃に、驚き、おろおろと逃げまわったが、半三の弱った足ではすぐに捉まり、したたかに全身を叩かれ殴られて追い回されてから、村井半三は急に糸が切れたように元気を失った。
 それから竜三をさそって、残飯探しを共にしてくれた半三は段ボールの中に閉じこもったまま、外へ出て来ようとしなくなった。
 いくど竜三が段ボールを押し開け、しきりと声をかけても、半三は躯を棒杭のように固くしたまま、動こうとしなくなったのだ。
「半三、そんなことをしてたら、おまえ死んでしまうぞ」
 竜三の怒鳴る声も、石のように横たわる半三にはなんの効果もなかった。
 そんな数日後、日光が燦々と射す午前、竜三が半三の段ボールを引っぱがしてみると、骨と皮だけになった半三はもう息をしていなかった。湿気に腐った棒きれのように、半三は死んでいたのだ。
 竜三はそこに自分をみた。そのものを言わずに、わずかな襤褸きれを着けて捨てられた小枝のようになった半三を、時の経つのも忘れて眺めていた竜三から、やがて堪えきれないドブ水のような涙があふれだした。そして誰へとも分からず、どこへとも知れない憤怒がそれに紛れ、獣のような嗚咽の声が竜三の口から洩れる声が聞こえた。
「あーおー、あーいー、おーおー」
 その竜三の顔は、水っ洟と目やにと分かち難い両の目から溢れる涙と、真一文字に結ばれた唇から垂れてくる唾液で蔽われ、そこに燦々たる陽光があたって、無慈悲な輝きを誇るかのように、燃え上がるのだった。
 竜三はあたりを窺い、人目がないことをたしかめると、手早く半三のゴミのようなイエを片づけ、半三の死体を草の中へ引っ張り込んだ。それから、その草の茂みの中を引き摺って、穴を掘り棒切れになった半三の死体を土に埋めると、両足膝を使って柔らかい地面を踏み固め、その傍らに菜の花の数本を根ごと運んできて植えた。
 半三に持ち物らしいものは一つもなかった。半三の住んでいた粗末な段ボールのイエの痕、特に半三が横たわっていた場所は小さな黒いシミとなっていたが、やがて太陽はそのシミを乾かせ、夕暮れの風がそこへ吹きすぎると、半三という人間がこの世に生きていたしるしのすべては、塵ひとつ残さずに消えてしまった。
その後、竜三は川から拾ってきた鉄の板棒の先端を硬い石の背にこすって刃のかたちに尖らせ、それを手元から放さなかった。もしまた奴等が来たら、その仲間の誰でもいいから、それで滅多斬りにしてから突き刺し、半三の仇を取ってやろうと堅く心に決めていたのだ。
 半三を埋めた地面に、菜の花の一群が増殖して、やがて土も見えなくなると、竜三はその川べりを引き払った。荷物の底に鉄板を小刀のように川石で研いで柄の部分へ、握り易いように布きれを二重三重に巻いた。すぐに取りだし易いように、柄だけを出してあとは板で挟んで荷物の中に押し隠した。
 半三が居た場所をチラリと目にしてから、川に沿って竜三は上流へ遡り、新しい居住場所を求めて歩きだした。どこへ行っても川べりは無数の蚊や虻に悩まされ、定住者の冷たい目が竜三を追ってこないところはなかった。虫に侵された箇所を汚れた爪で掻いたせいで、化膿して爛れた肌はかさぶただらけになった。きれいなせせらぎを見つけると、そこを冷水で洗って消毒し、太陽にあてて乾かすことを竜三は忘れなかった。
 上流に上り行けば行くほど、人影は少なくなったが、それは逆に、乞食同然の風袋をした者が目立つ危険性もあることを竜三は肝に銘じ、用心深く神経を研ぎ澄ました。彼はできるだけ使われなくなった納屋や壊れかけたお堂に忍び込み、農家の庭先から農作物をくすねるか、人影もない台所へ音もなく風ように侵入して、食べ物を物色してくちた腹を癒した。
 竜三がもっとも恐れたのが、彼の影を見ただけで、鋭く吠えたてる犬たちだった。あるとき、熊のようなからだをした大きな犬に睨まれたことがあった。その黒い犬は喉の奥で獰猛な声を奮わせ、ゆっくりと牙を剥いて、闘牛のように後ろ足で地面を蹴って竜三を睨んだ。咄嗟に荷物の中に彼の手が伸びて鉄板の柄を掴み、竜三が後ろを見せると、獰猛な声をあげて彼の背中へ飛びかかった。そのとき彼は自分があたかも黒犬と同類の獣になったような気がしたことを、悪夢をみるように思いだした。
 竜三は犬の猛々しい目を見つめ返し、ゆっくりと躯を屈め膝をつきながら、自分の躯を地面低くに寝かしていった。犬は竜三の静かな涼しほどの両の瞳に、一瞬怪訝な眼差しを注いだかにみえた。そのかさぶたに赤らみむくんだような男の顔の中に、男の姿が隠れていくような不思議な錯覚から、黒犬はその顔を目がけ、爪をたて牙を剥いて飛びかかった。その一瞬、牙にかかったと思った男の顔は素早く消えた。その途端に、上から強い手に頭部を押され黒犬は地面に抑えこまれた。男の右手が下から犬の顎を持ち上げると、握られた鉄板の柄が強く素早く撫でるように引かれた。鋭利な鉄板は犬の喉の肉を切り裂き、勢い余った犬の全身は背中から地面に叩きつけられた。犬は吠える暇もなく、喉を深く剔られてどす黒い血を吹きだし、そのまま横たわった。
 さわさわと竹藪の葉が風に鳴って、真夏の太陽が大地をジリジリと灼き、音もない静かな午後のことである。
 さすがに竜三も肩で息を切らし、その犬の屍体から大きな肉の塊の一部分だけを手早く切り取り、残りを古井戸へ投げこんで、黒犬の残骸は跡形もなくなった。竜三はそうしながらも、農家の庭先へチラリと視野を放った。家の中にも庭先にも誰もいる気配はなかった。台所から斧を一本手に握りしめ庭へ竜三は出てくると、洗濯物から仕事着用のズボンと上着を小脇にかかえ、雑木林に入り込んで素早く着替え、それまで着ていた衣類を深い穴を掘って埋めた。足跡を消すため小川の中を音もなく大股で歩き、小さな橋の下まで来るとぐったりと横になって竜三は躯を蛇のように丸くして眠りこけた。夢の中に半三を地面に埋めた時の光景が甦えり、驚いて目を覚ますと、橋の上を子供が数人駆けていく声が間遠に耳に響いていた。その声は竜三に息子を思いださせた。
「おお茂かいな、ヤエの面倒を見てくれろよ、頼むでなあ・・・」
 夢見心地で竜三はつぶやくと、腹が音をたてて鳴る空腹に襲われ、下腹部に痛みが走った。両足の汚れを小川の茂みの葉で拭ながら、
「もうちと辛抱せい・・・」
 と腹を押さえて、子供にでも言うように自分に言い聞かせ、せせらぎで洗った両足を緑の茂みに投げ出し、横になるとこんどは大の字になってそのまま深い眠りに落ちた。
 竜三は自分の躯が衰えていくことを知らないではなかった。このままでは野犬に喰い殺されるか、少年達の暴行に逃げ切れずに半三のようになるだけのように思われた。早く田舎へ帰って生きているうちにヤエの顔を見たかった。
 ヤエはまだ生きていてくれるだか・・・。ヤエがいたからこそ自分は六十の歳まで生きながらえることができた気がした。そして茂もヤエの細やかな愛に育まれて普通に育つことができたのだ。ヤエがいなければ、茂にやさしい心持ちの嫁が来るはずはなかった。身体が動くうちは働いて、すこしの金でも稼ぎ、その金で近所の男たちと酒場で酒を呑んでいたかった。働いて金を稼ぎたい。その一心で矢も立てもいられず、後ろ髪を引かれる思いでヤエを預けて、東京へ出てきても仕事はなかった。そしていまでは野犬同然の姿になってしまった。いや野犬の肉に食らいつく、野犬以下の獣になり果ててしまったのだ。
 家族がいるあの田舎の街で、あの一日中陽も射さない通りで、自分の前に仁王立ちになった男を突き転ばしていなければ、そして警察に追われるような羽目になっていなければ、一刻も早く田舎へ帰って和やかな家族の中で、穏やかに老いていくことができたはずなのである。 
 竜三はヤエをおぶった晩秋の温泉の白い風景を思いだした。凍えた湖の陽の光に輝いた湖を眼交(まなかい)に見た。痩せ衰えたヤエを抱いて朝まで寝た温泉の窓に、幾本も凍りついた氷柱がみえた。そして、最後にヤエの顔を眺めて二人で食べた白い飯粒が幻のようにうかんできた。
 竜三のなかからことばが堪えきれずにあふれ出した。
「お母あ! わしはおまえの元に帰るぞ! たとえどんな咎めがあろうと、わしはおまえと茂がいるところで死にていだよ・・・」
 竜三はヤエをおんぶした、その遙かむかしに、自分が母親をおんぶしたことを、ぼんやりとかすかに思いだしていることには気づきもせずに、ヤエの藁のように軽いからだを思いうかべた。彼の口元をついて出た最初のことばには、もうずっとむかしに死んだ自分の母親の、老い衰えたおぼろなその面影も重なっていたのだが、それらの二つの記憶はごったになり、ただ一つの言葉にしかならなかったのである。
 夏の黄昏の陽がゆっくりと落ちていった。辺り野面一帯に闇が降り、夏の虫が騒がしいほどに啼いていた。
 そのとき、竜三の眼には見えず、耳に聞こえない遠いの野原の一角に、数人の警官と村の若い者をまじえた村落の者等十数人の、険しい表情を固めた一隊が、赤い幡を立てた村の賑やかな祠の前に集まっていることなど、竜三は知るよしもなかった。
 だが、もしその一団が竜三の目前に現れたその時、半三を虫のように殺した少年達を思いうかべ、野原を流れる川面に落ちた月光を背に、黒い影の一塊と映じた一群の背後にまわりこんで、彼奴等を端から追いかけまわしてやる。そして散り散りになった奴等達を、竜三を襲った大きな熊に似た黒犬と同様に、彼に残った最後の力を奮い起こして、一人また一人と死闘をつづけること以外、竜三がやれることはもうなにもなかった。 
 





プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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