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映画「13人の刺客」と「時代閉塞の現状」

 「13人の刺客」という時代劇の映画を観た。江戸時代も衰退の色濃い末期、精神異常としか思われない徳川家直参の大名の殿様が、家来たち13人の反乱に誅殺されるものだ。この殿様が犯す乱暴狼藉に、映画は直訴の嘆願状を前においた武士の切腹シーンから幕が開ける。しかし、殿様の異常な素行は一向に改まらない。それどころか色好みの嗜好はエスカレートしていくばかりで、その行為と言動は言語に絶するものだ。廊下で見かけた奉公女を部屋へ連れ込んで強姦はする、領主の娘にお手をつけ、あまつさえ、その両手両足を斬って自分の玩弄物にする等で、その所業の異常さは目にあまる。そして、遂に爆発した部下たち13人が、怒りに燃えて滅し奉公の武士道の倫理をかなぐり捨て、一命に賭して殿様の暗殺に決起するのである。私がなるほどと感心したのは、これは現代にも共通するが、徳川時代も二百数十年も続くと、武士を縛ってきた諸法度がいかに融解し、組織の求心力が見る影もなく疲弊するかであった。特に退潮期に入ると、権力はその頂点から腐りはじめることだ。
 徳川幕府の老中まで約束された殿様は幕府の要職につく以外の希望しか視野にない。この当人の精神状態などは、心理学用語で言えば「対象喪失」であり、T・S・エリオットの文藝表現をかりれば、「客観的対応物」を失って宙をさまよい、既に自壊している。エリオットは「ハムレット」の戯曲の中に、精神が自家中毒を犯して妄想に陥り、現実との繋がりを失った状態をこう形容したのだが、ハムレットの場合は、そのことを客観視する強靱な自意識が保持され、そうした自分を逆手にとって、父を殺害し母を寝取り王位の座についた義理の父親を前に、狂言芝居を打つ芸当まで演じる点に、シェイクスピアの最初の近代人を舞台に登場させた才能の真骨頂があるのだろう。
 さて映画の乱心の殿様は、平和ぼけして現実感覚をなくし、形骸化した徳川幕府の手詰まりの政治(映画は23年後に幕府が崩壊するとの時代設定)の状況から、無為に過ごしてさほど劣悪でもない精神のエネルギーの持って行き場を亡くしていることは、13人に対し120人ほどが対決する、血しぶきが噴あげ残虐無惨な戦闘場面を眼前にして、初めて武士同士が刀で斬り合いをする修羅場を見、目を輝かせつぎのように叫ぶ場面に明瞭に示されている。
「実に面白い! これが戦闘というものなのか。世が老中になったなら、こうした戦闘のある御代をつくっていきたいものじゃ」
 まるで迷妄から「覚醒」したかのごとくに欣喜するこのシーンは、正常な想像力を喪失し狂気が「客観的対応物」に出遭った反応を如実に窺えさせるに充分であろう。フロイトは人間の中に、「死の願望」があることを発見したことに、精神病学者としての卓越した技量を示したが、これとは逆の方向に、「生の願望」があることをベルグソンは同じように、取りだし明晰に解析してみせた天才的な哲学者にちがいない。
 ところで江戸から明治の時代も中盤を過ぎると、26歳で夭折した石川啄木が、明治の退潮と衰耗をするどく感受して残した歌には、人をしてドキリとさせる数首が「一握の砂」に顔をみせる。

どんよりと くもれる空を見てゐしに 人を殺したくなりにけるかな
人といふ人のこころに 一人づつ囚人がゐて うめくかなしさ
誰そ我に ピストルにても撃てよかし 伊藤のごとく死にて見せなむ
 
 「一握の砂」は明治43年に世に出たが、同年は「大逆事件」が国民を震撼させ、また、「韓国併合」がなされた年でもある。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著)を読むと、実に、精緻にその軌跡を説いて、いわゆる「大局観」を養わせてくれる気もするが、歴史はすべて事後のことで学ぶべきことはあろうが、「明日」は依然、未知にしか過ぎない。
 石川啄木は、死の前年のこの43年に「時代閉塞の現状」(この副題は、「強権、純粋自然主義の最後及び明日の考察」である)を記したのは、己の死の予感からであろうか。昭和の批評家、福田恒存が言う「文学の土台」とは、啄木の目には実に明確に把握されていたもので、「必要」のみに「美」をみた坂口安吾はその後塵を拝していただけのはなしであろう。啄木をただの貧乏の抒情詩人にして足るるとしたのは、後生の群小詩人たちの安手な満足にしか過ぎないのは、啄木の砂をいじる指先のみを見て、その高鳴る心臓と悲しく軋る音を聞かなかったからである。
 すこし長くなるが、「時代閉塞の現状」から、その末文のみを引用しておきたいが、現今の日本の「時代閉塞」などは、まだ始まったばかしで、隣国との海での諍いなどでおたおたしている為政者等は、中学生にも上がらない小学校高学年程度の幼稚な度量しかないものと、憐れんでやった方がいいのだ。
 『文学―かの自然主義運動の前半、彼等の「真実」の発見と承認とが、「批評」としての刺激を有っていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いて来ている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚まして来るのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時、「今日」の一切が初めて最も適切な批評を享くるからである。時代に没頭していては時代を批評する事が出来ない。私の文学に求むるところは批評である。』
 目前の「時代に没頭している」だけでは、「明日」の戦略的な思考などはとてもできないことを、この啄木の短文から知るべきだろう。






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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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