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 亀戸の駅から錦糸町の方へすこし歩くと、江東区営の水上バスの乗り場がある。慶一に誘われゆき子がその乗り場から船に乗りこみ、その名のとおり広くもない横十間川の川面に船がすべりはじめ、晩秋の午後の風が柳の葉を梳くように吹き抜けると、細い葉裏が一斉に白く光った。ゆき子は亀戸天神、そして龍眼寺(萩寺)の境内を散策していた頃から、ときおり慶一が黙りこむのを怪訝に思ったが、秋の空を映じてゆらめく川面を眺めていると、もともと楽天的な性格のうえぼんやりのゆき子は慶一の肩にこころもち頭を傾かせて、かすかに漂ってくる男の匂いに浮き立つような心持ちになるのだった。そのうち舟は横十間川からすこし川広の小名木川に流れこんで、二人はいま扇橋閘門のなかにいて、前門の開くのを待っているのだった。後ろの重たい鉄の水門がゆっくりと降りると、両岸の川壁を浸す水位はみるみる六十センチほど上昇する。すると舟はゆらりと揺れて、背をのばしたように浮きあがった。ゆき子は慶一の胸に抱かれるようにからだを寄せかけ、慶一の耳元に口を近づけると囁くように言った。
「ねえ、パナマ運河ってこんな感じなのかしら」
「そうだね」慶一はポツリとそう言ったきり、目は両岸の堤防ばかりを見つめている。
「ねえ、慶一さんたら、今日はなにかあったの?」
 ゆき子はいつもとちがう慶一の様子に面白くなさそうにそうつぶやいて、慶一の膝に二本の指をのせるとつねるような仕草をみせた。
「オイ、よせよせみっともないぜ」
 いつもならまんざらでもない慶一の今日はたしかにおかしいにちがいないと、いくらぼんやりのゆき子でも気がついて、慶一のからだからそっと身を離したが、膝はいぜん慶一の膝に合わしたままである。
 銀座裏に小さな写真屋を開いている慶一には二歳年上の細君と五歳の息子がいた。ゆき子は近くのデパートの店員でひょんなことで二人が親しくなると、それから二人が深い仲になるのはあっという間だった。慶一は将来一冊の写真集を出したい夢があった。それは水面から眺められる橋だけでできた白黒の写真集である。ゆっくり流れる水面に空を映し、その上にさまざまな橋が虹のように懸かっているようなそんな写真集だ。だから今日も慶一の手にはキャノンの写真機があったが、どうも写真をもつ手に力が湧いてこないのである。扇橋の閘門を出ると船内のアナウンスが万年橋に近づいていることを告げていた。いま通りすぎたのが清澄橋通りに架かる高橋か。だとすると右が森下町、左に行けば清澄庭園があるはずだと、慶一は頭に地図をひろげるように位置をたしかめた。今日水上バスでここまで来たのも、北斉の富獄三十六景に描かれた万年橋を是非ともカメラに収めたいためであった。この橋を過ぎると右手に芭蕉庵、それを越して船が左に旋回すれば隅田川に架かる清澄橋を望めるはずだ。そしてつぎは赤穂浪士が吉良邸討ち入りのときに渡ったという永代橋、そのつぎが越中島の中之島公園に片足を架けた相生橋で、そのむかしこの橋のうえから東に筑波山、西には富士がよく眺められたとの放送が聞こえた。
「慶一さん、カメラで写さなくてもいいの?」とゆき子が傍らで訊いた。
「もう今日はめんどう臭くなっちゃたんだ」と晴れ晴れた顔をして慶一がそう答えると、
「なあんだ。それならそうと早く、それを言ってくれなきゃ、あたし邪魔しちゃ悪いと、緊張していたのよ」とゆき子は自分を紛らわすようにそう言った。慶一はゆき子にいつ写真集のことなど話したのか覚えていない。秋になったらゆき子と別れよう。そのときはまわりに水がある小さな舟の上がよい、と慶一は漠然とそんなことを考えていたのだった。だから自分だけのあてにもならない将来の夢のことなどを、彼女に洩らすようなことなどないはずであった。だがゆき子はそれを知っているとすれば、慶一はどこかでそのことを彼女に話してしまっていたのだった。船は水面すれすれのところを波をけって進んだ。ときおり魚が飛び上がって窓にぶつかった。
「ホラ、飛び魚だよ」後ろにいた年配の夫婦らいし男のほうがそう叫ぶと、
「あそこもよ!」
 とこんどは女のほうが嬉しそうに応じている。見ると細い魚が腹を白く光らせて、水面三十センチばかりのところを飛んでいった。よく眺めると、あっちにもこっちにもそれが面白いくらいに見えた。すでに陽は西に傾きかかっていた。そのせいか、水面の波はきらきらと金色に輝きまばゆいくらいである。
「慶一さん、今日は奥さんになんといって出かけてらしたの?」
 ゆき子はこころの重しがとれたのか、そんなことを突然のように訊ねてきた。
「どうしてそんなことが気になるの?」慶一は反対にゆき子にそう聞き返した。
「ちょっと、どんな嘘をつくのかと思って聞いてみただけ。だって今日は日曜日、家庭サービスをしてあげなきゃ 可愛そうだしネ」そう言いながら、ゆき子はちょっと暗い顔をした。
 そのゆき子の横顔をみて、慶一はやはり早く別れてしまわなくてはとしきりに思うのだった。楽天的でぼんやりのゆき子が、そんなことまで考えていると思うとなんだかとてもやりきれなかったのだ。いつどうやってゆき子にそれを言うべきだろう。舟がどこかの橋の下をくぐるときにでも・・・・。
「・・・ねえ、女ってほんとに好きになると、男のひとの嘘がすぐわかるものよ。知ってて?」
「へぇー、ほんとにそうならば、ぼくはきみにわかるような嘘だけは、つきたくないな」
 慶一はそう言うと、ゆき子の顔をまじまじとのぞきこんでから、甲高い声で笑った。ゆき子は一瞬顔をゆがめると、つぎに慶一の両足膝に顔を隠すようにして、クックと鳩の鳴くような声で笑い、まるで屈託がない。
 いつしか舟は木場を過ぎ、レインボーブリッジが見えはじめていた。慶一はこの上からならいま、東の筑波山も西の富士山も見えるかも知れないとそう思ったが、それにしても、あまりに水の上から離れすぎている。
 水は手に触れられ、濡れるほどの近い位置がいい。そこから橋を撮りつづけよう。橋は車と人が渡るだけの横断の道路ではない。その橋の下を川が静に流れていなくてはならない。この過ぎていく人生とその無窮の時が・・・。ときに恋に狂ったオフィーリアのような女が、花とともに流れいくのもいい。いまはまだ、慶一が写真に撮りたいような橋は、とうぶんに現れそうもなかった。
 西の空は茫洋としてすでに茜色に燃え、中天を見上げれば、晩秋の空はあくまで高く、その高空に一筋の飛行機雲が、小さな雲と雲のかたまりをつなぐように架かっている。その一条の長く細い雲が夕陽に染められ、絹糸のように輝いていて、遠く虹のように浮かんでいた。
 慶一は今日もゆき子に別れ話しをだしそこねそうな気がした。
「あれは雲の橋ね」そう言うゆき子の声が、どこか高い空のほうから聞こえてきた。




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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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