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零子の宇宙

 大人になるまえの兄弟というのは面白い。喧嘩もするが、弟は兄からのなにかしらの影響をうけるものだ。兄からの影響で、いまでも覚えているのは宇宙のことだった。兄は写真いりの宇宙の本をよく読んでいた。私もその本を一時借りて眺めていた。それがきっかけで、私は宇宙に関心を持つ少年になっていたらしい。
 ある夜も更けた頃、一時つき合っていた零子という友達から電話があった。韓流映画の愛好者であった家内は、テレビを見ていたが耳がとても良かったので、壁を這いずる油虫の音も聞き逃さない。油断も隙もないのである。そこで私は携帯を自分の部屋へ持っていかないで、わざわざ、家内のそばで彼女がなにを言い出すかと、内心ドキドキしながら、携帯を握っていたが手に汗がすこしづつ滲みでてきていた。
 零子が前置きもなく話し出すのはいつもの癖であったが、なにを言うのかと聞き耳を立てていた、零子の言うことの断片を思い出し、反芻したところ、それはおよそ荒唐無稽(そう俺には思われたのだ)な、この宇宙に関するおおよその素描というようなものであった。
 彼女が言うには、この宇宙はプラトンの「ティマイオス」によると、その表面上のすべての点が中心から等距離にある球体であるとの説は、悪しき、そして憎むべき誤謬であって、人間をアトム化することに邁進してきたこれまでの科学者と哲学者の、恐るべき偏見であり、宇宙の無限に比較してその小を誇大に夢想した孤独愛好患者、パスカルにその元凶は加算さるべきものであり、彼の独創した確率論からもそれは証明できることで、既に、ルネッサンス期において、ジョルダーノ・ブルーノは宇宙はすべてが中心であり、その周辺はどこにもないとの卓説をとなえているとのことで、この絶対空間の延長に、あなたの好きなピザパイ、パイ(そんな言い方で零子はふるえるような嘲笑の響きをもって言った)である、あのスピノザが「エチカ」において、証明、公理、定理、注解という、アリの這い出る隙間もない幾何学的な論理構成によって、その存在を確証した「神」とは、いったいぜんたい、なんなのでしょうか。
 パスカルが己の孤独の影で宇宙を無限に拡大したように、彼スピノザは磨き抜いたレンズにやはり己の顔を映して陶酔しているだけの話しでしょうに、それを「私はこれから、神の本質、言いかえれば永遠・無限の存在者の本質から必然的に生じなければならないことがらを証明することにする」だなんて偉そうに迎言っていますが、これと同様な口調で感情と知性、そして、人間の自由までをしたり顔で証明することを断じて許すことはできないのよ。彼は生きている人間の喜怒哀楽の一片さえ知ってはいないので、「聖書」をどんなふうに読んだのか聞きたいものだわね・・・・。
 俺はどうもこのあたりから、零子の屈折した、激しやすい霊魂がどうやら見えだしたように思われて、冷静な自分をとりもどしたようであった。これは女房の手前の自己弁明ではないのである。零子は不幸なことに海で溺れて亡くなったのであった。その事故のことは、思い出したくもないことだから、どうか聞かないで欲しい。彼女は魚のように泳げる海の中がとても好きだった。できれば宇宙遊泳をでもやりそうなガッツな女性であった。魚と海で対話することができるほどに、海を愛していたのだ。小さな蟹とにらめっこして飽きることがなかった。彼女の教養は太古の海、特に愛した魚類から学んだものだった。生物としてなら、海の生物の時間は、人間の生きてきた長さの比ではなかったから、よくその面貌をみるとその迫力に圧倒されるほどのものがあるとは、零子の口癖なのであったのだ。
 俺はおぼろながら電話での零子の言ったことの断片の一つを思い出した。
 宇宙の中心は一つなんかでは勿論ない、と彼女は言うのだ。宇宙は二つの中心をもつ楕円であるとのことで、しかも、それは螺旋を描いて捩れているとのご卓説であった。魚に壁はないと言ったフランスの画家のアンリ・マテュスの絵を好み、しかも(この言葉は長女の三歳の孫が実に的確に使って俺を驚かした)壁のような絵を描いて零子を魅了したマーク・ロスコの大きなキャンバスの前でこんなことを言ったのを、また、俺に思い出させてくれて、俺は泣きそうになったのだ。
 ホラ!、これが魚がみている宇宙なのよ。私のからだは雲のように、この宇宙の空(くう)へ泳いでいけそうなのが、あなたには分かるかしら? 私は永遠の幸福へ歩いていけるかもね。

 俺はスピノザを放り出して、独りになると、夜の空をぼんやりと眺めて、零子を思った。




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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