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トルストイの家出

 旧臘、ふと思い立ち小林秀雄の絶筆となった「正宗白鳥の作について」を再読した。あまり求めて買ったこともない文芸雑誌だが、それらを整理、処分しようとしているうちに、昭和五十八年の三月に亡くなり、翌月の「文学界」の追悼号に、この一文が掲載されているのを発見したのだ。いかに人間の記憶が不確かなものか、呆れてしまった。「本居宣長」と対になって売られたこの箱入りの本を、神田の古本市で探したことさえもあったのだ。若い頃、私はトルストイの家出から端を発した正宗白鳥と小林秀雄の、いわゆる「思想と実生活」論争を熱心に読んだことがあった。
 トルストイ没後100年ということで、昨年、NHKでトルストイと妻の二人の日記の、家出に至るまでの仔細を交互に朗読し、トルストイが亡くなった田舎のアスターホヴァ駅の駅長室まで見せてくれたドキュメンタリー風の番組を見たことを思いだした。男女の俳優が朗読する老夫婦の切実な日記の内容は、しかと大地に根を張ろうとする妻君の執着と、死を間近にしてますます人生いかに生きるべきかという抽象的は煩悶に身を焦がす作家トルストイとの確執の溝はますます深まるばかしであることを、納得するには充分すぎる程であった。11月の早朝、レオ・トルストイは妻と家を捨てることをはっきりと決断する。妻のソフィアは日記に書く。「八十歳を過ぎた老人の家出なんて不自然だわ」と。たしかに八十二歳の老人の「家出」が、いかに不自然であろうと、妻のヒステリーから逃げ出したのは事実である。だがその「家出」の全動機は、実人生を超えた強烈な精神上の格闘が、妻君には理解し難いことから来ていることは動かし難いほどに明瞭なのだ。これほど明確な問題を、正宗氏に見えない筈はない。小林氏が後年論争を振り返り、「正宗氏には自明であった」とし、それでは何故に正宗氏は、「人生に対する抽象的煩悶に堪えず、救済を求めるための旅に上がったという表面的事実を、日本の文壇人はそのままに信じて、甘ったれた感動を起こしたりしたのだが、実際は妻君を怖がって逃げたのであった。人生救済の本家のように世界の識者に信頼されていたトルストイが、山の神を恐れ、世を恐れ、おどおどと家を抜け出て、孤住独邁の旅に出て、ついに野垂れ死にした経路を日記で熟読すると、悲壮でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡に掛けて見るが如くである。あゝ、我が敬愛するトリストイ翁!」と慨嘆した、その正宗氏の真相は奈辺にあるのか?小林氏はすぐに直覚する。「あゝ、我が敬愛するトリストイ翁!」というところに、氏の真の実感があったのだと。
 この正宗氏との昔日の論争に触発され、氏は正宗白鳥という人物の経歴を辿って、絶筆となる「正宗白鳥の作について」の筆を執るのである。小林氏は、正宗氏の文学の発動が「批評」にあったことに刮目する。そして、正宗氏の大作「自然主義文学盛衰史」に分け入り、その比類ない魅力を仔細明瞭に語り尽くしているのである。その一部を二つだけ紹介しておきたい。
「まさしくこの作は腹の底まで打ち解けて話しのできるような相手」は、自分自身しかなくなってしまった人間の綿々たる誠心の既述であって、反省好きが行う自問自答という知的遊戯の如きものではない。その内容は、たゞ独り世に取り残された者の悲しみで充填され、その個性的な悲しみの中で、自然主義文学の盛衰が、何の成心もなく語られる。この無私は、実証主義とか客観主義とかを標榜している者の隠し持った心の空しさとは何の係わりもない。己の天与の個性を信ずれば足りる詩人の曇りのない眼の働きを想えばよかろうか。それが自然主義と呼ばれた人間の表情を捕らえ、その心を見抜く、そういうことが行われたのである。 
 そして、二つ目が次のものだ。
 外国との思想の交流にしても、人間という内実を欠いているところに行われている自己沈潜による掛け替えのない個性の発見という事があり、その彼我の見合いのない所に、思想の真の交流、思想の生きた変換という劇は決して起こらないのである。
 かくして、正宗氏が私淑した内村鑑三へと筆は走り、河上徹太郎、リットン・ストレイチ、フロイト、ユングへと自在に対象を変えながら、その心眼は的を射て誤ることがない。氏は正宗氏の中に自己の分身の翳の如きものを生きた時代を超えて透視していたのかも知れない。老齢にもかかわらず、長年に鍛え上げたその健筆は柔軟に運動を始めて無碍のうごきをみせるようであった。だが、春三月、遂に小林氏の寿命は尽きる。
 私は少しく横道へ深入りをし過ぎたのかも知れない。テレビにより実際の映像を見、日記の朗読から感受し得たものは、正宗氏と小林氏との論争の裡に既に決着を見たものの、生々しい再演以上のものではなかった。こう云ったら身も蓋ないが、これは小林氏の云う通り、情報は精神を刺激することはできるが、養うことはないことの証明なのだから仕方がない。
「トルストイの家出」は、「実生活」と「思想」という深い問題を炙りだした。これは各人が生涯を賭けて証明すべき価値のある問題だが、この二項がリアリティーを持てば持つほどのっぴきならない性格を持つものだ。いつぞや秋山駿氏と会う機会があったが、この問題を酒の席で蝶々するには憚られた。先日、私と同期に大学に入り、あの大学紛争からの人生の軌跡を小説にした本を迂回して読むことになった。人生の晩年に一度自分の歴史を振り返って見たい衝動に駆られての自費出版であったのだろうと思われた。私は一人の「隣人」をみる思いがしたことはたしかだが、こうして一編の小説にまがりなりにもまとめられた「人生」を送った人間の「幸福」について同根の「夢」を見ないではいられなかった。多感な学生時代にあの争乱を横目に見ながら、そのためにそれを深く内面化してしまった者には、「実生活」と「思想」の相関は果てまでつづく精神の課題であると思われてならなかったからだ。あの論争は日本における、人間がいかに生きるべきかという「思想」の核心の真摯な姿みせることで、その後代へと影響を与える意味は否定できないだろう。先のブログに福田恒存氏の「文学の土台」を取り上げたが、まさに地続きの事柄なので、このことと同じ世代の識者たちが「戦後」にむかいあう姿勢とはさほど関係があることとは思われない。
 ところで、私の青春を黄昏に染め上げたあの「変身」の作家フランツ・カフカの「謎」のような言葉を思いだすと、私はいつも途方にくれるのである。それはつぎの二つのフレーズから来ているのであったが、おそらくカフカは同じことを別の表現で語ったのだといまでは思われるのである。
「何故なら思想(イデー)というものはーおよそこの世で超個人的な価値をもつすべてのものと同じくー個人的な犠牲によってのみ生きるからです」
「真実なき生活は不可能です。おそらく真実とは、生活そのものかも知れません」



晩年のトルストイ夫妻 < 晩年のトルストイ夫妻 >

死せるトルストイ翁 < 死せるトルストイ翁> 



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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