FC2ブログ

新聞の余白に

 朝、布団で目覚め、傍らの文机に積み上げられた本の山から、一冊をとり読み始める。そして、枕に頭を落ち着ける夜、手元の灯りを点け同じように本のページを開く。土曜もなく日曜もない。ほとんどの昼はパソコンに向かうかテレビをつけて録画した番組を見る。そうでないときは、蒲団に横たわって読書のために、目と神経は消耗している。これに武道の稽古が加わると疲労はほぼ限界に来るようだ。睡眠は無残な夢にずたずたに引き裂かれ、過度な刺激のために胃酸が分泌されて炎症を起こした胃と腸はもういつ反乱をおこしても不思議ではない。ときどき目眩がする。
 外界からの刺激がなければ、おまえの頭は働かないのかと、ニーチェから罵倒されそうなところだろう。「マッチがなければおまえの頭は点火しないのか」と彼はどこかで書いていた。暖炉に身体を凭れるように、思索者は「死」に凭れかかると、詩人のヴァレリーはノートに記していた。さすがに詩人の頭脳は明晰にして深い。それほどに自分の足で立ち、身辺に踏みとどまり、自身の頭で考え、感覚することは難しいことなのだ。未来の人々が、二十世紀の人々の印象を一言で語るとしたら、多分、大勢の人がよく新聞を読んでいたということになるだろうとは、だれかが言っていたように記憶する。いずれ電子図書かに仮に形態が変わったとしても、世の中の出来事を知り、知見を増大させる手段として、朝夕に自宅に放り込まれる新聞ほど、便利なものはないのである。
 疲労した目は新聞を読むより先に、ざっと眺めまわしてヘッドラインを拾う。事件も論説も広告もすべて、最初の一瞥はただ眺めるだけだ。この広角レンズでの一望で、自身のアンテナに反応したものから、レンズは絞られていくからだ。結論から言ってしまおう。正直、最近の新聞は面白くない。もっともらしい論説なども数行目を斜めに走らせれば、なにを言いたいのか、およその見当はついてしまう。もう新聞社のデスクが書かせる思考のパラダイムの枠は見えてしまっているからだ。すべてのメディアは右に同じだろう。これは数百年に一度というくらいに、世界中が激変しているのに、それを捉えるアンテナと思考力が劣化しているためにちがいない。事実の世界の変化を捉える思想と文体がこれに追いついていないのだ。これほど興味深い現象は滅多に体験できないのに、それを解釈し分析するリーダー的存在がいないということもあるだろう。太陽の運行を眺めていると、天動説がほんとうのところで、地動説などは想像しようがないのに、だがやはり地球は動いているのである。こうした既存の旧弊な概念をひっくり返すほどの思考の転換ができないのだ。自ずから、時代の空気は淀み閉塞感が世を蔽う。どこからも新鮮な風が吹かない酸欠状態のため、ここに住む人々はたっぷりとした深い呼吸をすることができない。特に日本の戦後はそうなってしまった。文藝評論家の中村光夫は「占領下の文学」で、戦後に現れた文学を批判し「谷崎潤一郎論」において、深く呼吸することができなくなってしまった戦後文学のなかで、谷崎潤一郎の文学を例外と評価したことがあった。この延長に江藤淳はアメリカまで飛び、実地にこの検証を行い、「閉ざされた言語空間ー占領軍の検閲と戦後日本」なる論文を発表した。踵を接するように、加藤典洋が「アメリカの影」を、そして「敗戦後論」を書いた。おそらく、日本が自分の足で立ち、頭で考えることを、一番恐れている国があるにちがいない。内田樹と高橋源一郎が「沈む日本を愛せますか?」という対談本で、本質を衝く冗談を吐いている。すでに聞いたこともある噺だが、日本はアメリカの一州に入ればいいという冗談である。3億のアメリカ人に1億3千の日本人が入れば、ある可能性として日本の大統領が出現するかも知れないと。これはまず無理だろうが、ブラック・ジョークとしては面白い発想だ。いまから30年ほど前、ある銀行へつぎのような提案を出したことがある。いまに銀行は、大蔵省の規制緩和で、信託と証券との境がなくなる機関として変わることが可能だろうと。そのとき、銀行のお偉いさんは、キョトンとした顔をしていたが、今現在は、概ね私の予言どおりの図式になっているようだ。
 政治、経済、文化、地球世界のどこからも、根底的に精神と身体に衝撃を食らわしてくれるものが皆無といっていいほどに停滞している。それで自分で「人生を終わらせたい」などという愚かな人間が自爆するような犯罪に及んでいるようだ。この地球も疲弊し、ゲップと欠伸とおならが止まらず、もう内部の膿が溜まり、腹を立てていまにも爆発しそうな按配である。天災と人災の連鎖が四方に起きている。地球の生命はあと数百年しかもたないだろうとのつぶやきを聞いたのはもう二十年ほどまえのことだ。人々の目が遠い天体の彼方へ吸い込まれていくのが、痛いほどよく分かる気がする。だがしかしだ。こういう終末感、黙示録的な思念に陥るほど不健康ことはないにちがいない。野に咲く花を、公園に遊ぶ母子の笑い顔を、よく見るがいい。老人達のゆったりと歩く後ろ姿。孜々として動きやめない人々の日々の勤労生活。夜の星の燦めき。朝に昇る眩しい太陽。陸に打ち寄せる白い波濤。空を飛ぶ鳥影を見給え。絶望の虚妄なること、希望の虚妄なるが如きとたしか、魯迅さんが言ったようだが、私はもうこうした気の利いたアフォリズムが好きになれないのだ。脊椎カリエスの激痛のなかで、明治の歌人の正岡子規は「悟りとはただ平気で生きていくこと」と喝破した。
  諦めるな、最後まで諦めるな。アジア・カップ杯で負けそうにみえた日本のサッカー・チームはぎりぎりのところで得点して勝ち、優勝を果たしたではないか。国会にいけば猿山の猿みたいなのはたくさんいると吉田茂は言ったらしい。「日本破綻」とか「竹中平蔵こそ証人喚問を」とか、題名だけは面白そうな書物が新聞の広告に載っているが、残念だがそうしたものを読んでいる暇はあまりないのである。トルコへ旅行に誘われたので、トルコの歴史を少し読んでいるが、いやもうこの中央アジアのスルタンたちの浮沈と興亡ほど興味あるものはない。これに匹敵するフィクションといえば、満州の高原に恋と冒険に命を賭けた馬賊の男をモデルにして書かれた壇一雄の小説「夕陽と拳銃」をふと思いだすくらいだろう。
 尊大にならず、己に自信を持ち、諦めつつかつ戦いつづけることが大事なのだ。おそらく、謙虚とか品格とか信仰とかは、そうした静かな忍耐からしか生まれないのであろう・・・・。



   コスモス畑 奥秩父のコスモス   
   
関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

masuryuu

Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード