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映画「ウオール・ストリート」

 オリバー・ストーン監督の「ウオール街」(1987年)は、金融に多少でも関心を持っている者には刺激的な映画であった。旧ソヴィエト連邦の社会体制にショックを与えたと仄聞したこともあったほどだ。それから15年ほど経て、同じ俳優のマイケル・ダグラス出演の「ウオール・ストリート」を最近に観た。この15年の間に、IT(インターネット・テクノロジー)とFT(金融工学技術)の結婚から編み出された金融商品は、世界を未曾有の経済的な混乱へと陥れたことは周知のことだろう。エンロン社の2000もの内外の子会社を操作しての粉飾決算からの倒産から、サブプライム・ローンの破綻までの経緯は、実体経済から離れて、恰も仮想現実を思わせる金融経済の蜃気楼は世界的な信用不安と収縮をもたらし、世界同時不況の震源をつくりだし、貿易と財政の双子の赤字を抱えたアメリカの威信の低下は、世界の地政学的な布置を決定的に変えはじめているかのようである。
 このアメリカに寄り添ってきた日本は、90年代のバブル経済の破綻以来、「マネー敗戦」と呼ばれる金融の経済ゲームに迷走させられ、「失われた10年」の後においてもその基調を決定的に変える舵をきることも出来ないまま、世界最速の少子高齢化と人口減少を背景に現在の逼迫した経済の低迷と国力の低下の泥濘から這い出る契機を掴むに至らないようである。期待をもって為された政権の交代も同じ穴の狢の正体を、世界中に恥ずかしげもなく露呈させるかのように、拙劣な外交はつまらぬ失言と相まち一昔まえ、占領下のマッカサーからまだ中学生程度と揶揄された恥ずかしげもない過去を引き摺るように、期待はずれの国会運営の鬱憤は国内に内攻するだけで、昔日の経済的栄華はまさに夢のごとく、空しく時間だけが過ぎていく歯がみするような政財界の情勢には、国民の不安と苛立ちの声は徐々にこの国の空洞にこだましはじめている。
 さても、この二つの映画に話頭を転じても、第二次大戦後のブレトンウッズ体制の覇者を任じていたアメリカの求心力の低下を反映したかのように、15年前の前作のコピーの延長でしかなく、ただ刑期を終えた主人公の復讐譚でしかなく、今を瞥見させる一点の斬新な切り口も、新規な手法もない旧来のスタンスのまま、未来の予兆さえ感じさせるもののない平凡な映画しか生みだすことができないハリウッドに往年の熱気は消え失せ、もはや黄昏の気配しか感じられないと言っても過言ではないだろう。
 そこで思い起こすのは、2003年に読んだ中沢新一の一冊の本であった。カイエソバージュⅢとして刊行された「愛と経済のロゴス」(講談社選書メチエ)は、あたかも疲弊する資本主義の彼方に虹色の未来を思いまねいたものであった。著者は現代を科学革命という「第二次形而上学革命」以後の過度的な世界とみて、洗礼者ヨハネのようにヨルダン川の畔に立って、来るべき未来を予感するのである。そして、第三次の「形而上学革命」のおおよその構造を見通して、一神教の開いた地平を科学的思考によって変革することの可能性を述べるおおらかさは、いったいどこから来るかと感嘆させるのである。かく言えばそれがカントとマルクスの思考を交錯させた柄谷行人の「トランスクリティーク」を想起させ、また、「世界史の構造」を想像するかも知れない。たしかにこの中沢の示唆に富んだ本は、柄谷行人同様にマルセル・モースの「贈与論」から多大な影響をうけているが、中沢は経済の事実を神話学の緑の沃野に包みこもうとするのである。そこから、マルクスが「愛」を語ることばをひきだしてくる語り口は、思考機械の無粋はなく、どこか才気と愛嬌さえ感じさせるのである。即ち、
「自分自身を愛するのではなく、ほかの者を愛することによって、かえって自分自身が愛される人間になるというマルクスの描く愛の本質は、まさに贈与としての愛以外のなにものでもありません」
 これはマルクスの「経済学・哲学手稿」の駕籠の中から引きだした中沢の思索の原石ともいうべきものだ。
 かくして、中沢新一は志賀直哉の短篇「小僧と神様」の世界へ、宮沢賢治、親鸞の信仰世界へと経巡り、ベルグソンの笑いを、バレンタインの贈物を、女性の愛を語って、荒廃の国から新しい経済学への豊穣な思考を展開するのである。第三次の「形而上学革命」へ向かって。
 最後に、先夜、テレビで「炎の画家、ヴァン・ゴッホ」という映画をみたことに触れておこう。偶然であるが、ゴッホを演じていたのはマイケル・ダグラスの父である、あのカーク・ダクラスであったのだ。父にあった威厳を子に求めても詮方はないのは、アメリカ大統領のブッシュとて同様であろうが、「9.11」の同時多発テロを「戦争」と決めつけ、アフガン、イラクへ軍隊を派遣し、その顔色に脅かされて自衛隊を「戦場ではない」との強弁をして出兵した日本国政府は、戦後65年の間に一人の人間も殺していない自衛隊を、思慮もない詭弁を弄して動かすことが、いかなる外交上の戦略を描いたというのであろうか。最終戦争を唱えた石原完爾とて満州からの思慮なき軍隊の拡張には反対したではないのか。それはともかくとして、ご存知と思うが、ゴッホは教会の牧師をした父の反対を押し切り牧師となるが、そのあまりの献身ぶりにたまげた教会は、自分たちの権威を疵付ける者としてゴッホを追い払ったのである。ゴッホには自分の天性に従ってもう自然の中で絵を描くことしか残ってはいなかったのだ。
 そして、天才の厄年と言われる37歳で己の胸に銃弾を向けたのである。痛ましい人生の最期であった。その弟テオへの手紙を、若き日に読んだことがあったが、彼がどんなにか愛し愛されることを望んでいたかは、想像に余りあるものが私の胸を過ぎるのである。芸術家はみな「愛情乞食」であろうが、ゴッホほどの「乞食」はいなかったことはたしかであろう。「ウオール・ストリート」とは、金だけに目がくらんだ魂の乞食が歩く道のことだろう。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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