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池袋の映画館

 池袋駅を降りた。
 幾度も来ているわりには、どうも落ちつかない。雑踏がこの町では雑踏というより、砂まじりの風に吹かれているようなのだ。新宿の雑踏ははっきりとした顔が見えるが、それがここにはない。大きな駅ビルがこの町では川州のように孤立している。街中を歩いていても、水槽を回遊している魚のように変に息苦しいのだ。
 井田がその日、駅の階段から出てきたのは、成瀬巳喜男監督の映画「流れる」と「あらくれ」の二本立てをみるためであった。その日が最終日で、天候も春めいていたので、三鷹から出てきたのだ。以前の記憶をたよりに、映画館のまえまにたどりついた。前後を歩く男女が韓国語を話している。自販機で切符を買うと、列に並んだ。年寄りが多く目についた。この映画館は一旦は潰れかかったのだが、復活したのだ。もうすぐ五十になる井田も列をなす人々と同じ年齢になりかけていた。数日前に妻と二人で海外旅行から帰ったばかりで、まだ体調が元に戻らず、横になってばかりいた。それもあって、いい加減に街中に出たくなったのである。妻にも誘ってみたが、十歳下の彼女は「一人で行きなさいよ」と素っ気ない。「流れる」のほうは彼女は既に観ているうえ、海外旅行の疲労が残っているのか気分が乗らないようだ。大学にいた頃は「映画研究会」に出入りしていたこともあり、映画には詳しい方であった。井田がこの映画をわざわざ池袋まで観に来たのは、彼女が「浮雲」という映画を観て、成瀬巳喜男という映画監督を評価していたせいでもあった。さすがに彼女は飛行機が成田を発ち、イスタンブールに着くまでシートで映画ばかり観ていたのを井田は感心していたのだが、せわしないツアー旅行に無理をしたことと、息子の大学受験の最終がまだ残っていたため、いかに映画好きとはいえ息子に遠慮したようだ。井田が妻と家にいたくなかったのは、妻とは逆に息子への余計な心配から解放されたかったからである。
 「流れる」は幸田文、「あらくれ」は徳田秋声原作の映画化であった。幸田文は幸田露伴の娘である。徳田秋声なんていう作家は現代では、忘れられていると言っても過言ではない。しかし、明治からの自然主義の文学はばかにならないと、井田は考えている。現に、川端康成によれば、日本の三人の文学者を挙げると、源氏物語の紫式部、江戸時代の井原西鶴、それから明治のこの徳田秋声となるらしい。川端独特の直観から指呼されたこの三人の作家に共通なものは、井田の想像によれば「女」である。女が生きているのだ。いや、「女」だけではない。男と女の結縁の描き方が秀抜なのだろうと、井田は思う。
 昭和三十一年に作られた「流れる」は、井田が生まれるすこし前の古い映画であった。映画が始まるとすぐに、柳橋が画面に現れたのには井田はびっくりした。それは妻の実家の浅草橋から近くにあり、一度ならずむかし長男を連れて散歩がてらその橋から川上の神田川、すぐ側には隅田川の川面を眺めたことがあったからだ。その柳橋界隈が芸者衆で栄えた場所柄であることを、彼は妻から聞いたか本で読んだかして知っていた。露伴の娘でありながら文は、この柳橋の芸者の置屋で住み込みの女中として働いたことがあった。この花街で賑わった芸者家の内側を、幸田文は一女中の目で見ていたようだ。父の露伴は娘を甘やかさなかったせいで、芯の強い女として文は育ったらしい。一女中でありながらその界隈では、一目おかれるほどの気丈夫で評判となるほどで、その真率にして細やかな気配りと折り目正しい礼儀作法は、まだ芸で身を立てる花街では貴重がられずにはおかなかったのである。この女中役を演じたのは田中絹代だ。芸者家の女将を山田五十鈴、すこし歳のいった芸者を杉村春子、若いモダンな芸者を岡田茉莉子等、匆々たる顔ぶれである。いまはその名残もない柳橋だが、昔は柳橋の芸者には、新橋なんかよりも格上の粋も品もあることを誇りとしていた往時があったのだ。それが時代の趨勢から次第に衰微していく有様を、田中絹代演ずる女中はまるでわがことのように見つめている。路地裏の下町風の人情味あるにぎわい、踊りの稽古をする娘の可愛いけなげさ、五十鈴と春子の三味線の弾き合いなどは、芸者の芸事がその生活の中心を占める商売の花であり、三味線の音色が芸者衆の心の張りをなしていた。だが、その芸事を生業とする生活の心棒がその内部から生気を失うや、花街の気概は次第に気抜けしてくるのは詮方もないことであった。その万端を眺めるている、昔気質の女中のきつく苦々しい眼差しが、現代の日本の生活と様式の頽廃を同時に射抜き、指弾するかのように思われ、井田は背中を鞭打たれる苦痛を強いられる気がしてならなかったらしいのである。
 そして、もう一本の映画であるが、女を描かせたら一流という徳田秋声の原作だけあり、状況に応じ百態に変化する女の姿を高峰秀子は演じようと努力したことは認めるに吝かではないが、どこか不器用な高峰が演じ尽くすまではいかなかったように思われた。だがこの映画で高峰秀子という女優は、成瀬監督によってその生々しい裸体像を晒されたようである。彼女のひたむきさと自棄のやんぱち、玄人と素人の一面が半々になった彼女の危うい均衡の美学を、乱暴なまでに観客の前に見せてくれた作品であった。男だてらの女であればこそ、森雅之が演ずる弱々しいインテリを生涯忘れることができないのだが、加藤大介が演ずる夫が外に妾を囲むと知るや、夫を尾行して妾宅に乗り込み、とっくみあいの喧嘩も辞さず、自分が身を張って興した服飾会社に余裕ができるや、外に愛妾をつくるような夫に即座に見切りをつけ、仲代達也が演ずる若い有能社員との新しい活動への脱出行は、それいけドンドンと拍手をしたくなるから不思議である。
 男というのは、女の都合のいい一面しか見ないし、また、女そのものが本性をなかなか見せようとしない。そして男によって女はどうにでもなるように、その逆もまた真であることに気づかされ、井田は既に夕闇の迫る池袋の路地を早足に歩き、そのまま電車に飛び乗った。
 井田は駅を降りると家へ急ごうとしてまた踵を返し、駅前の寿司家で特上の寿司折りを二人分土産に作ってもらい、それを手に下げて追われるように妻と息子のいる家路を急いだ。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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