「徒然草 in USA」島田雅彦
このタイトルの著者・島田雅彦は、アメリカ大統領オバマと同年齢の日本の作家である。副題には「自滅するアメリカ 墜落する日本」とかなり刺激的な文字がならんでいる。
あらためて紹介するまでもないが、この著者は、大学時代に書いた「優しいサヨクのための嬉遊曲」で、1980年代に芥川賞候補としてデビューした作家である。彼氏が、2008年7月から09年3月まで、世界金融危機に揺れるニューヨークに滞在した経験から、見えてきた日米関係論なのであるが、この作家の鋭敏な「触覚」には端倪すべからざるものがあると、私を共振せしめたその一端を紹介しておきたい。
「私は経済学者でも政治学者でもなく、歴史を多少かじった文学者に過ぎないが、アメリカ帝国の落日を内部から見つめる機会を得たので、ここに徒然なるままに私が考えたことを綴った」とある。
半日もあれば充分に読み得るほどのこの小冊子が、学者でない一作家が徒然なるままに綴ったものにすぎないと、諸君よ、どうか軽く通りすぎないでほしいと、敢えて私は強調しておきたいのである。軽く振った一太刀が力み返った剣には、予想もできない切れ味を示すことを、諸兄にはよく知っておいて欲しいからだ。
ではどこがそんなに、私の心眼にこの冊子の切れ味がよかったというのか。この程度のことなら、別にアメリカに行かずとも、おおかたの予想や想像はつくのかもしれない。概略はおおむねそうしたものと、私も反対はしない。
アングロサクソンの優位は揺らぎ、退廃の兆しは既に、世界中に疫病のように浸透していると見えなくはない。代わりに、ブリックスの国々の台頭は目に見えている。だが、ここにあるのはそのような政治的、あるいは経済的な事象の上面ではない。かすかにそよぎふるえている作家の触覚と無心で斬りおろしたとその一刀の先に、作家がその本能で掴みとろうとしているなにか捨てがたい魅力が隠れているように思われるからだ。
その一端はあるいは、アメリカに内戦を予想する過剰な想像力なのかも知れない。または「日本の再独立」を説いた第五章にあるのかも知れない。いずれにしても、かつて、評論家の加藤典洋がこの作家のデビュー作に読み落としたという、フランツ・カフカの有名なあの科白「君と世界の戦いでは、世界を支援せよ」という、カフカの文学に特徴的なメビウスの輪のように、この世界の瀕死の姿を、父君の亡霊にみたハムレットのごとくに、あるいはまた、ボードレールが「悪の華」で呼びかけた、「ー偽善の読者、ーわが同類、ーわが兄弟よ」という、あの膝を屈し歯がみしながらみせた苦渋の顔、「もう腹が裂けるよ」と呟いた漱石のような、そうした重圧を軽快な体捌きで反転させ、この世界にのしかかる重力を「虹」に変じようとする作家の知性と感性は、ハイパーテクノロジーに支えられた「日本精神」を称揚し、日本独自の経済システム、外交プログラムを構築することによる、「脱欧入亜」を言挙げするのである。
カフカが「私は一人のフランツ・カフカのように孤独だ」と言う、身を捩り自分の尾を呑む短編「断食芸人」のごとく、ベーシックで痛切な作家の魂は、憂愁の翳さえ映さない鏡の中のアメリカ大統領オバマの淋しい笑顔にも似て、落日に輝く日本の「嬉遊曲」を秘かに奏で歌いだそうとしているかのごとくに見えるのであるが、加藤典洋の読み落としに類似する、深読みにすぎなのかも知れない・・・・。
あらためて紹介するまでもないが、この著者は、大学時代に書いた「優しいサヨクのための嬉遊曲」で、1980年代に芥川賞候補としてデビューした作家である。彼氏が、2008年7月から09年3月まで、世界金融危機に揺れるニューヨークに滞在した経験から、見えてきた日米関係論なのであるが、この作家の鋭敏な「触覚」には端倪すべからざるものがあると、私を共振せしめたその一端を紹介しておきたい。
「私は経済学者でも政治学者でもなく、歴史を多少かじった文学者に過ぎないが、アメリカ帝国の落日を内部から見つめる機会を得たので、ここに徒然なるままに私が考えたことを綴った」とある。
半日もあれば充分に読み得るほどのこの小冊子が、学者でない一作家が徒然なるままに綴ったものにすぎないと、諸君よ、どうか軽く通りすぎないでほしいと、敢えて私は強調しておきたいのである。軽く振った一太刀が力み返った剣には、予想もできない切れ味を示すことを、諸兄にはよく知っておいて欲しいからだ。
ではどこがそんなに、私の心眼にこの冊子の切れ味がよかったというのか。この程度のことなら、別にアメリカに行かずとも、おおかたの予想や想像はつくのかもしれない。概略はおおむねそうしたものと、私も反対はしない。
アングロサクソンの優位は揺らぎ、退廃の兆しは既に、世界中に疫病のように浸透していると見えなくはない。代わりに、ブリックスの国々の台頭は目に見えている。だが、ここにあるのはそのような政治的、あるいは経済的な事象の上面ではない。かすかにそよぎふるえている作家の触覚と無心で斬りおろしたとその一刀の先に、作家がその本能で掴みとろうとしているなにか捨てがたい魅力が隠れているように思われるからだ。
その一端はあるいは、アメリカに内戦を予想する過剰な想像力なのかも知れない。または「日本の再独立」を説いた第五章にあるのかも知れない。いずれにしても、かつて、評論家の加藤典洋がこの作家のデビュー作に読み落としたという、フランツ・カフカの有名なあの科白「君と世界の戦いでは、世界を支援せよ」という、カフカの文学に特徴的なメビウスの輪のように、この世界の瀕死の姿を、父君の亡霊にみたハムレットのごとくに、あるいはまた、ボードレールが「悪の華」で呼びかけた、「ー偽善の読者、ーわが同類、ーわが兄弟よ」という、あの膝を屈し歯がみしながらみせた苦渋の顔、「もう腹が裂けるよ」と呟いた漱石のような、そうした重圧を軽快な体捌きで反転させ、この世界にのしかかる重力を「虹」に変じようとする作家の知性と感性は、ハイパーテクノロジーに支えられた「日本精神」を称揚し、日本独自の経済システム、外交プログラムを構築することによる、「脱欧入亜」を言挙げするのである。
カフカが「私は一人のフランツ・カフカのように孤独だ」と言う、身を捩り自分の尾を呑む短編「断食芸人」のごとく、ベーシックで痛切な作家の魂は、憂愁の翳さえ映さない鏡の中のアメリカ大統領オバマの淋しい笑顔にも似て、落日に輝く日本の「嬉遊曲」を秘かに奏で歌いだそうとしているかのごとくに見えるのであるが、加藤典洋の読み落としに類似する、深読みにすぎなのかも知れない・・・・。
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