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静物画家”モランディー”

 イタリヤのモランディーは不思議な画家である。瓶や壺や水差しといったありふれた物体を並べて、ほとんどそれだけを生涯描きつづけた。1990年の春、有楽町のアート・フォーラムでみたときは、特別な印象をうけたわけではなかった。それでカタログも求めずにいたのだが、その静かな佇まいのタブローが深層に遊泳していたらしい。ひょんな偶然で、最寄りの駅前の骨董屋の店主が、めずらしいことにこのカタログを数冊持っていたのだ。どこか魔法使いのお婆さんじみたこの中年の婦人から、私はカタログを一冊分けて貰った。やはり地味な絵なのだが、どこか心に沁みこんでいたらしい。
 ボローニヤに生まれて、ボローニヤで74歳の生涯を閉じた画家は、静物だけを描いていた。題名はただ「静物」としか記していない。そこには果物も食器も野菜も魚もない。それが平面に多少の変化をつけて置かれて、画家はそれを中間色で幾何学的な遠近法を排して、描くことだけを生涯を賭けたて追求したらしい。二次元の空間でありながら、三次元性を窺わせるのは視点の移動があるからだろう。この平面性はボナールを思わせると、「夕陽妄語」で加藤周一が述べていたが、それは筆遣いの印象からで、私はむしろ装飾と色彩を払拭したマテュスの絵画を思い浮かべてしまう。このベタ塗りのタブローから空間表現がみられるのは、物体の明暗とその土台に落ちた影によるだけである。この地味な絵画が心に沁みてくるのは、このベタな日常を思わせる背景ともいえない背景の中で、ごくありふれた瓶や壺が、震えるような鼓動をみせながら、まぎれもなく生きていると感じられるからだろう。生きているというより、たしかに静かな気品さえ漂わせて存在しているのだ。同じかたちをした瓶が幾本か並び立っているが、そのどれ一つも同じものではない。それは人間が、同じような日常を送りながら、誰一人として同じでないのと同様であろう。静物のひとつひとつにある表情はつつましいほどでありながら、ひそやかに己を主張している。いや彼らはここにいるということを寡黙に語っているだけのようだ。私のまなざしをとおして、そのものたちの「声」が聞こえてくる。
 同じイタリアの映画監督であるフェリーニに「道」という名画があった。アンソニー・クイーンが扮する武骨な大道芸人ザンパーノをおちょくり、その怒りをかい最後はなぶり殺しにされてしまうピエロだかのサーカス団の男が、こんな科白を言う場面があった。この道に転がっているどの一個の石にも、みんな存在する意味があるのだと、ザンパーノに語りかけるのである。少々頭の足りないジェルソミーナは、それが自分のことを言われているとは思いもせずに、きょとんとそれを聞いている。このジェルソミーナを邪険に扱うことしかできないザンパーノをおちょくるのは、ピエロがジェルソミーナが可愛相でならないからである。ピエロが死ぬとジェルソミーナは元気を失う。このジェルソミーナを、ザンパーノは修道院の前で置き去りにしてしまう。数年後に、彼女が死んだことを知ったザンパーノは、ひとり酔いつぶれて夜の空を見上げ、一緒に放浪した大道芸で彼女が鳴らしつづけたトランペットの調べを聞きながら、ひとり啜り泣く海辺の場面で映画は終わるのである。
 横道にそれたようだが、画家モランディーの一見そっけのないタブローから、聞こえてくるのはそのような哀切にみちた、ふかい魂の声のようなものに思われてならない。



モランディー1  モランディー2 静物1(デッサン)モランディー展パンフ 

モランディー3 静物2(デッサン)

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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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