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中国の昆劇「牡丹亭」

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 昨年の初秋であったか、六本木の劇場で坂東玉三郎の「牡丹亭」を家人と一緒に観る機会があった。発売と同時に玉三郎のファンが予約券を手に入れようと殺到し、よい席はあらかた売り切れとなっていた。仕方なく三階の予約券をようやくのあげく買ったが、公演はそれから半年も経ってのことであったのだ。
 六本木の劇場にたどりつき、中に入るともう熱気でむんむんとしている。開演後にも席をさがす婦人客に不満も露わにする興奮気味の客もいて、実に玉三郎ファンの気勢は並大抵なものではない。
  私が家人と玉三郎の演目で観たものは、これまで少なくない。
『桜姫東文章』の桜姫、『義経千本櫻』の静御前、『壇ノ浦兜軍記』の阿古屋、『籠釣瓶花街酔醒』の八ツ橋、『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子、『鷺娘』の鷺の精、『助六由縁江戸桜』の揚巻等である。中でも『鷺娘』における玉三郎の妖しきほどに美しい踊りは、まだ私の眼交に乱れ舞い、その余韻はなかなかに消えてくれないのだ。
 いや、まだあった「海神別荘」(泉鏡花作)は、幸田露伴の「五重塔」とともに観たが、水底の宮殿を舞台にした鏡花の幻想味あふれるべっけんこんは、家人が筆に認めたつぎの科白に纏綿と謡われている。

  玉三郎4

一足(ひとあし)に花が降り 二足(ふたあし)に微妙の薫(かおり) いま三あしめにひとりでに 楽しい音楽の聞こえます此処は  極楽でございますか

  ここにおける鏡花の審美的世界は、ハープの弦楽器が鳴り響き、水中楽園の趣きを堪能させる演出法がいきていた。玉三郎の語り口はゆったりとそのハープの弦に共鳴して歌うようであった。ことばが限りなく音楽に近接してくると、それが例え散文であろうと、そこに「詩的宇宙」が生まれるのだ。地方の友人が数年前に自費出版した本にある「夢のあとで」の短篇はその好例であって、やはり、水底を映し水が流れる透明なイメージと、流れ浮かぶ舟上からの描写の詞章は、そのまま滾々と湧くような詩的情操を溢れさせる逸品であった。私はこの現代にはたぐいまれなこの本を、いくたりかの知人等に送らせてもらったが、つれない隣人諸兄の情趣は老いともに涸れていくのか、これという反応もないことに、いたく淋しい思いをしたものであった。まさか早々に「自粛」してしまったというものでもあるまい。
 夢といえば、あのフロイトと踵を接しフランスの詩人ポール・ヴァレリーは、自分の夢を膨大なノートに記し、その分析と考察を行っていることには瞠目すべきものがある(「ヴァレー集成Ⅱ」)。
 「真の詩人の真の条件は、夢みる状態からもっとも遠いものである。・・・自分の夢を書こうとする者は、限りなく目覚めていなければならない」
 こう書いた詩人が、「夢の幾何学」ともいうべき探求を生涯を通じて止めてはいなかったのである。それは意識の覚醒時と入眠時にみる夢との差異を深く考察すること、意識と身体との錯綜する領域へ知性のメスを入れるということだが、フロイトともシュールレアリズムの方法とも異なる探求であったのだ・・・・。
 「牡丹亭」の舞台における玉三郎の声から聞こえる、あたかも小鳥が典雅に囀り歌うような中国語の音楽性は、私の知らない言語の美しさで私を魅了し、桃源郷にいる陶酔にうっとりさせられたものであった。中国語には北京、広東、上海等と13億の話す民衆の言語は様々にあるらしいが、昆劇のメッカ 中国・蘇州の蘇州語のせりふと歌を駆使する玉三郎の迫真の演技に、中国の観客が酔いしれ熱狂的な拍手が送られたという事実は、中国4千年の言語の歴史を顧みて、むべなるかなと想像させられるものがあった。中国では、200年代から600年代の400年の間に、インドの影響から作詩用の韻字引辞典ともいう「音韻学」の基盤がつくれ、高低のアクセントの「四声」が意識されはじめたらしいが、これは現代のものとは相違し、一部の知識人の関心の対象になっただけのものであった。近代のローマ字表記のピンインとその声調は、こうした中国の古代からの作詩法に関わる音韻への関心が連綿とつながり、近代に入って整理されたということだ。他方、文法は随の時代から、基本的にはほとんど変わりなく現代に至っている のは、中国人のある一面を象徴しているように思われたが「中国語の歴史」(大島正二)の第4章の3「文法研究の夜明け」に紹介された清朝末期の馬建忠という学者を知るに及んで、私の愚を覚らされるに至ったのは、この学者がどんな思いで「馬氏文通」十巻なる文法書を書いたかを知ったからである。
 現在の中国語は1952年の毛沢東の指示により、簡体語が国務院において作られたが、作家の魯迅はそれ以前に、「漢字が中国を亡ぼす」と嘆いている。ごく最近になり、昔の漢字(繁体字)に戻そうという動きはあるらしいが、いくらパソコンがそれろ可能にしてくれるといっても、旧古に復するのは容易なことではないであろう。それにしても、600年の歴史をもつ昆劇にある独特の音楽性と 中国の蘇州の蘇州語とのあいだに、いかなる関連があるのか理解し難いものがあるが、2001年、ユネスコによって「人類の口承及び無形遺産の傑作」に選ばれて今では世界遺産となっているのである。
 それはともかく、中国語にかぎらず、ある言語が音楽性を発揮するとき、その国民の魂は〈ポエジー〉となって人のこころを剔り、かつ打つのである。明治の小説家の泉鏡花の詞章にこめられたストーリーと言葉の匠は「詩」となって人間の魂魄を慄わせるのであろう。これは近代の芸術にかぎらず、浄瑠璃の謡いも同様である。美空ひばりの歌唱力は、薄汚れた日本語を濯ぎ洗い、くっきりとした日本語の言葉の葉脈を鮮やかに、こころの襞に刻みこむ魅力を発揮することは、ひばりの歌の模倣者にははっきりと気づかされるものであろう。
 音楽性は言語の境界を越えるのだ。私が中国語に惹かれたのは、その優れた音楽にあるので、決してビジネスライクなあくせくとしたコミニケーション能力の向上のみを目的とする以上に、他民族の生活・習慣・思想へ接近したいという憧憬からのものである。他言語に恋をするとは本来そうした欲念を潜ませているものだろう。
 私が鳥のようにただ歌いたい気持から、中国語へと興味が湧いてくるのは、フランスの詩への傾倒とシャンソンを歌いたいという思いから、フランス語を学びたいと思い始めたのと同様のことなのだ。



   
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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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