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映画「モールス」

 E・Mフォスター原作の似たような題名の映画とイメージが交錯しつつ、映画「モールス」を見に新宿の映画館へいった。フォスターのはたしか同性愛をテーマとしたものだったので、「モールス」を見て少々面食らった。こちらはホーラー映画のようだったからだ。それにしても、新宿の様子の変わりようにはおどろいた。いずれ日本という国は、ニュートラルで無機質な拝金主義の国になるだろうと予言して死んだ作家がいたが、新宿はまさにそんなような変化をしているところとなりつつある。大都市の一角には必ずいかがわしい街が栄え、そこで人間の想像力は、ときに恐怖や怪奇や幻想の滋養を得て、生の更新をしていく不思議な生命体でもあるはずなのが・・・・。
 それはともかく、映画「モールス」は名前のとおり、モールス信号のことである。
 ある地方の古びた街に年取った男と少女が越してくる。どうにも怪しい雰囲気をもった二人である。少女と同じ年頃の少年が、学校の悪ガキのイジメに遭っている。やがて少年はこの少女と知り合い、少女は少年にいう「やりかえすのよ」と。おりしも街では猟奇的な殺人事件が連続して起きている。男が殺され木から吊され、血を抜きとられる。あるいは、獣じみた魔物に女が襲われ喉元を噛みつかれて殺されるといったなんともおぞましい事件が連続するのだ。少年は少女から励まされ、やり返すがいままで以上の暴力でしっぺ返しをうける。警察の手がのびてくると、少女の庇護者役の老いた男は自らの顔を正体もわからいほどに毀損して死んでしなう。老いた男はバンパイヤーである少女へ人間の血を供給する役割を果たしていたらしい。
 この映画は吸血鬼のホーラー映画でありながら、これはロミオとジュリエットのあの純愛を下敷きにした、奇妙に美しい映画だということが次第に明らかになる。雪のうえを裸足で歩いても平気な少女の、口のまわりを血だらけにして素早く木に登る姿は、もはや人間の姿ではない。ここでもロミオがジュリエットに逢うため、バルコニーへ木をよじ登る場面の連想することを、夢想することもなた可能なのである。まさに「綺麗は汚い、汚いは綺麗」という有名な、シェークスピアの科白を思いだしてもよいだろう。
 バンパイアーとはそもそも何者であるのか。吸血鬼はどのようにしてヨーロッパの物語に登場してきたのであろう。葡萄酒を人間の血の代わりにした聖書の世界と、それは深い底で繋がってはいないのであろうか。そうした奇怪な想像をめぐらすことも不可能ではないのだ。聖なるものが反転して悪の顔となる。いや人間の悪はもしかしたら聖なるものの源泉に深く秘匿されてあるのではないのか・・・・。
 映画は「ぼくのエリは、200歳の少女」のリメイク版らしいが、渋沢龍彦や種村等の幻想と怪奇の愛好者に語らせたら、ここは面白いところだろうが、残念ながら二人ともすでに他界している。それでポスト・モダンでこの映画をスマートに解説して事足れりと澄ましている映画評を読まされることになる。
 映画館から出てくると、家人がこんなことを言った。
「この映画は純愛の映画なのよ」
 そうだろうと思いながら、私は素直に頷くことができない。人間の血を吸わなければ、生きていくことができない少女と、イジメられっ子の少年は、やがて互いに壁を隔ててモールス信号でこころを伝え合う。いったい題名にもなっているこの「モールス」とは何であるのか。それは「生」であり「愛」を伝え合う究極の言語なのではないのであろうか。
 それはデジタルな記号にすぎないが、少年と少女のこころは交信されるのだ。少女の力が乗り移ったかのように、少年は強くなりイジメっ子たちに反撃するまでになる。少年はこの街が好きではない。じめじめとして生気のない暗い街が嫌いだ。いかにもリーマンショック後の現在のこの世界の暗喩のようなスクリーンである。すっきりしない映画だが、映画はその時代の空気を吸う生き物なのだ。まるでバンパイヤーのように・・・。
 大衆の娯楽映画の限界はそこにあるが、それを超越するのは、一流の監督の才覚にかかっている。映画から話しが飛ぶが、むかし、ジャン・コクトーなる詩人が、小説「肉体の悪魔」についで、「ドルジェル伯爵の舞踏会」を書いたレイモン・ラディゲをつぎのように評して言ったことがある。
 ー彼はこの混乱した暴力の時代のただなかに、一輪の薔薇を差し出したのだ。
 たしかに、この芸術の天才レイモン・ラディゲの小説は、古典的な完成度で人々を魅了する。
 ーマオー、眠りなさい。ぼくはそれを望む。
 小説の中にでてくるこの科白は、天からの啓示のように降ってくる、空おそろしいことばだ。小説なる芸術を自家薬籠とした天才のみが、こうしたことばを神の手を借りて記すことができるのだろう。
  自分の空に、天使が飛び回っていると、コクトーにつぶやいて、この天才は二十歳で夭折した。
いま、この時代のまっとうな姿は、ほんとうに、かすかに、あたかもモールス信号のように、壁を隔ててしか伝わることができなくなりつつあるのかも知れない。それがこの現代という時代の様相であるが、それと同じ位相でしか映画の創造が困難であるなら、それはその映画の限界でしかないのだ。寒々として暗い映画にも、一筋の光りを巨匠なら見せる技量があって然るべきものだろう。スウエーデンのイングマル・ベルイマンの映画にはそういうものがあったはずである。
 深夜、以前に買ったVHSのテープで、マリリン・モンローの西部劇「帰らざる河」を見た。地を這う生活から浮かびあがろうとした居酒屋の歌姫が、恋人を失い、やはり酒場に戻って元の歌姫となり、埃まみれの男たちに囲まれ、煙草の煙で濁る場末で「帰らざる河」の主題歌を歌うモンローの哀切さには、胸をしめつけられるような、愛おしさとけなげな美しさがある。そしてロバート・ミッチャムのような剛直で健全な男が、酒場で歌うモンローを抱き上げると、
 「どこへ私を連れていくの?」というマリリンの声に、一言「ホーム」とただ答えるだけだ。
この「ホーム」という言葉は現代では、複雑な様相を呈しているが、小津安二郎の映画の中心に位置して揺るがぬものだろう。路上にモンローが脱ぎ捨てた赤い靴を、カメラは過去の荒廃した生活の象徴であるかのように、一瞬映す。そこへ「ノーリターン」の主題歌のリフレーンが間遠に聞こえてくるなかで、一編の西部劇映画は終わるのである。
 映画はこうした明瞭な終末を奏でて終わるのが理想なのである。



    帰らざる河


 
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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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