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吾妻橋ーあれから40年

吾妻橋1  明治40年撮影
吾妻橋2  昭和50年前後撮影
吾妻橋5  平成23年撮影

 会場からどっと爆笑がはじけた。ご存知の毒舌の漫談家、綾小路きみまろの決め科白「あれから四十年」というのがある。それはそうだろう。四十年も経てば、イケメンの若い男のご面相は崩れ、耀くばかりに美しい女性たちもまた同類の運命をたどるのは必定なのだ。誰も彼も公平に歳をとっていくのは、この人生の常なのであるからして・・・・。
 さて、都会の街の風景とて、その変貌の凄まじさに変わりはない。
 上の写真は、隅田川に架かる吾妻橋を中心に、明治四十年に撮られた写真、そして二枚目が昭和五十年前後の写真である。両方とも「いま・むかしー下谷・浅草写真帖」と題されて台東区教育委員会が、昭和五十五年に発行した写真集の一葉から拝借したのものだ。そして三枚目が今年10月早朝、私が同じ場所と方向から撮った写真なのである。ほぼ四十年を経て、いかばかりに吾妻橋近辺の風景が、変貌を遂げたかがお分り戴けるだろう。肝心の橋が風景から消えていこうとしているような激変ぶりなのである。
 私の写真には橋はわずかに道路の延長に横たわっているが、垂直にそそり立つスカイ・ツリーの鉄塔に圧倒され、そのうえ、周りのビルの巨魁に囲繞されて、もう橋の見る影もない。
 関東大震災で破損し消え去った明治期に撮影された吾妻橋は、角張ったものものしい威容を見せている。江戸時代に架けられた、永代橋・新大橋・両国橋・吾妻橋・先住大橋で、五大橋と呼ばれたようだが、吾妻橋は一番遅く造られ、明治二十年に鉄橋に造り換えられ、隅田川における最初の鉄橋とのことだ。はじめは大川橋、俗に東橋といわれ、後に吾妻橋と呼ばれたという。他の橋が幕府によるものなのに、この橋だけは民間による架橋ということだそうだ。浅草が盛り場として賑わったころのことにちがいない。
永井荷風の小説「墨東奇譚」の冒頭で、主人公・大江匡が巡査に誰何されるのは、この吾妻橋だと思いこんでいたが、それは私の記憶違いで正しくは言問橋であったのは、このブログを書いていて気づかされた。たぶん荷風の短篇に「吾妻橋」という当時の風俗を切り取った作品があるので、この短篇と記憶がごっちゃになったということなのだ。
 それはともかく、台東区教育委員会にはなかなか優秀なスタッフがいたらしく、こうした定点観測の写真集「いま・むかし」以外にも、「下谷・浅草文学案内ー台東区ゆかりの文人たち」なる冊子を、平成六年に発行しているのである。これには丁寧に付録に「文学地図」が添えられている。成島柳北から円地文子、石川淳、中村光夫、吉本ばなな等の、錚々たる作家たちの写真をここに見ることができるのだ。もちろん、樋口一葉、池波正太郎も載っている。
 ところで、成島柳北なる人物(このひ孫が、今や故人となった森繁久弥氏である)は、実に面白い生涯を送っているので付記しておきたい。幕末から明治を、徳川の将軍侍講・奥儒者として仕え、明治時代以降はジャーナリストとしても活躍。「柳橋新誌」なる花柳界の戯作を綴った文学者であったが、日本で最初にフランスにおける見聞を記した「幕末維新パリ見聞記」を残している御仁なのである。
 そして、これは奇妙な因縁というか、旧「元柳橋」なる地域にある柳北小学校が廃校となるや、フランスのリセの学校として現在使われているのである。区がこのリセのある通りをマロニエ通りとしたが、またこの小学校は家内と三人の子供達が通った学校でもあり、娘一人は偶々の縁でいまではパリでフランス人と住んでいるのだ。もちろん、成島柳北なる粋な人物も江戸時代に遡ってのフランス国との関係などについても、あまり知る者は少ないのではないか。


 台東区本  台東区教育委員会発行




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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