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冬の一日

 冬の日の朝、ほんの一時、ヴェランダの一角に朝陽があたる。冬の太陽の光りは、この町の屋根に反射して、キラキラと眩しい金色となって目を射るのである。
 もう40年むかしに買い込んだアーム・チェアーに野良猫が気持ちよく寝ていた。主人はこのヴェランダの鉢植えのガジュマルがネズミに囓られてから、猫を飼うことを思いたったが、細君は猫が嫌いであった。生き物は死ぬから嫌だというのがその理由だが、なんという不公平な理由だろうか。だが近頃は、主人は細君と議論することを避けるようにしていた。なぜなら、とんでもない堂々めぐりと、誤解が誤解を産みだして、もう始末に困るからである。お互いの愛の鏡に映る顔が、もはや自分か他人かの判断が曖昧模糊となりつつあるからである。だから細君へ可愛い猫をみても飼いたいと言わないことにしているのである。それを妙なぐあいに先回りした細君は、どんな空想からか摩訶不思議な提案を、そっと主人へ洩らしてきたのであった。
「あなた虎なら一匹ぐらい飼えるじゃありませんこと」
「虎ねー」主人は細君が寅年であることを、おぼろに思い浮かべて、苦い笑いを秘かにうかべていたのだ。主人は心持ちのやさしいかつ献身的な細君が、ときにより、愕くほどの鋭い爪を隠し持っていることを思い出さないわけにはいかなかったのだ。
 とても長い長い間、互いに生活を共にした夫婦というものには、縺れ合った糸のように一つになることがあるのだが、そういうときこそ細心の警戒を怠ってはならないことを知っていたのだ。
 主人は、朝の一仕事を終えると、朝陽を浴びながら、ぼんやりと遠くの空を眺めるのを日課としていた。その日にやるべきことを、頭に思いまねくのである。昨日と格別に変わった一日があるわけではないのだが・・・・。
 主人はちょうど40年のむかし、ある町の建物が冬の光りに照らされている光景を見たことを思いだした。木造の校舎の更衣室の奥に、男が仕事をする事務室があった。その部屋の窓から、男は冬の一日が始まる一刻、太陽に照らされて眩しく光る工場の屋根を見たことがあったのである。
「あの小説の主人公が、死刑の宣告をうけ、銃殺刑の執行の直前の15分間に、目におさめようとした風景はこんなものであったのにちがいない!」
 当時二十四歳であった主人はそう思った。
 まだ青年の面影を残した四十年前、主人はつらい一年に訣別して、社会の片隅に身を置くことにしたのだ。
その時考えていたことが、四十年経ったいま、ふたたび記憶の底から甦ったことが主人を驚かした。
 あのときと同様、冬の空はやはり青く、冷たい風が吹きすぎていた。
 前夜遅く、木下恵介監督の映画「楢山節考」を細君と見て、眠る前のほんの数分、カトリック作家の小説を一読した男は、悪臭芬々たる小説に嫌気が差して、枕元にその本を放り出して蒲団にもぐり込んだ。
 今朝、寝床から起きようとして目眩を起こし、また蒲団に横たわってから立て続けに見た夢が、締めたはずの箪笥の扉から飛び出している洋服の袖のように、ぼんやりと見えるような気がした。
 顔を洗い、新聞に目を通し、ちらりとテレビを覗き、主人の日課であるトイレの掃除をしてヴェランダに上がった。
 アーミング・チェアーに寝そべっていた野良猫と目が合った。おまえもそこが気に入ったようだな。だがそこは俺の朝の席なのだよ。野良猫はふてぶてしい目付きをして、しばし主人の顔を窺った。
 その椅子の上で、主人はいままで幾冊の本を読んできたことだろうか! 
昨日も主人は冬の太陽を燦々と浴びながら、トルストイの「戦争と平和」の一節を読んのだ。だが、あまりに強い太陽の光は、幸いなことに主人の読書を中断させてくれた。
 主人は顔を太陽に向けた。傍らには、ガジュマルの緑の葉が生い茂っている。それから、青い空の下に光る屋根にふと目線を移して、主人は前述の旧い思念の輪にとらわれたというわけなのだ・・・・。
「ああ、俺はいまもこうして生きている! そして、四十年前と同じ思念の中に、身を置くことができる。まるで野良猫が椅子に身を横たえるかのように。そうだこの俺もご多分に洩れずに年老いたものだ。だが俺は若さ以外のなにも失っているわけではない。それどころか、俺の四十年にわたる苦楽の人生は、美しくも醜くもなく、そっくりそのまま俺の中にあるではないか。そうした記憶の断片をお望みなら甦らすことだってできるのだ! また昔日と同様の思念の林の中に佇み、自由にその原野を散策することだって可能だ。たしかに体力、知力は昔日から比べようもない。目はしょぼしょぼ、頭の上にのっているものときたら禿山の一夜も同然だ。だが俺が俺であること。この自同律になんの変化もありはしない・・・・」
 昨日、主人は「絶望の名人、カフカの人生論」という本を読んでみた。若年の頃、主人はカフカに出会った。以来、主人の人生は変わりはてた。「優」が並んでいた成績から、「可」と「不可」が割り込んできたのだ。まさにそれは「カフカ的な変化」ともいうべき現象であった。
 樽の底が抜け、跡形もなくその樽はバラバラに解体してしまったのだから・・・。だが、そのとき若かった主人の傍らには、あのフランツ・カフカという作家は居なくてはならない存在だったのであった。
 期待して読んだその本の浅はかさは、主人を失望させたのは当然だった。カフカはその本のようには、「絶望」など一度もしていないように思われたからだ。カフカの絶望は、望遠鏡を逆さに覗くようなものなのだから。
 カフカを知るには、G・ヤノーホの「カフカとの対話」を読むべきだと主人は思ったが、いったにカフカはどこまで、あの青年のヤノーホのまえに、自分の姿を晒したろうかと、主人はそう思った。カフカはこの青年に、教育的な指導はしたにちがいない。そして、自分の全体のほんのわずかな、裸の姿をみせたことは真実だろう。
 偶然に開いた頁につぎのような対話がみえる。
「絶望すること、すべての希望を断念することで充分です。これは危険に賭けることではない。冒険とは持続であり、生に身を挺することであり、見かけは何の苦もなく一日一日と日を過ごすことに、他なりません」
 また、頁をめくるとつぎのカフカの厳しいほどの言葉が飛び込んできた。
「芸術とはつねに全人格の関与です。芸術が究極において悲劇的である所以です」
 主人はこの一書を数少ない友人へ奨めたが、誰一人自分のように、そのため激浪に難破するほどの災難に遭遇したような体験をした人間はいないことを知っていた。誰一人、あのカフカの冷たい手に触れた者はいないのだ。
 断食芸人のあの喜劇的なまでの見窄らしい姿を見た者はいないのである!
 だからあの「夜の殴り書き」をカフカが読んで聞かせた妹達(彼女等はナチの「強制収容所」でみな死んでしまった)は、笑いをかみ殺しながら、カフカの朗読に耳を傾けたのである・・・・。
 さて、決して敬虔なクリスチャンではない、(でなければどうして小説などを書くことができようか!)曾野綾子先生にふたたび、その新書の最後の頁から、是非とも孫引きをさせて貰いたい、ブラジルの詩人の「詩」があるので、それを紹介させていただくことにしよう。
 この詩には女史の心の襞に見られる、なかなか妙趣に富んだユーモアが含まれているのだから。
 長い詩なので一、二行の割愛は、どうか許していただきたい。
 主人は昨夜みた映画「楢山節考」の悲しいシーンが甦るのを禁じえなかった。男が老いたる母を背負い楢山へむかていくところである。また、その前に村での掟を諭される興味深い一場面を思い出してもいた。
 楢山さんに入ったら、互いに、決して口を利いてなならぬこと。そして、決して後ろを、振り返ってはならないという村の掟のことであった・・・・。
       
     浜辺の足跡

夢を見た、クリスマスの夜。
浜辺を歩いていた、主と並んで。
砂の上に二人の足が、二人の足跡を残していった。
私のそれと、主のそれと。

足跡はずっと遠く見えなくなるところまで続いている。
ところが、一つのことに気づいた。
ところどころ、二人の足跡でなく、一人の足跡しかないのに。

私の生涯が走馬灯のように思い出された。
なんという驚き、一人の足跡しかないところは、生涯でいちばん暗かった日とぴったりと合う。
苦悶の日、悪を望んだ日、利己主義の日、試練の日、やりきれない日、自分にやりきれなくなった日。
そこで、主のほうに向き直って、あえて文句を言った。

「どうして人生の危機にあった私を一人で放っておかれたのか、まさにあなたの存在が必要だった時に」
ところが、主は私に答えて言われた。
「友よ 砂の上に一人の足跡しか見えない日、それは私がきみをおぶって歩いた日なのだよ」



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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