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「3.11」ー死に神に突き飛ばされる

 加藤典洋が批評を始めたのは、一九八十年代だった。たぶん「アメリカの影」から遡行するように「批評へ」というやや分厚い論考集、とりわけ所収の「新旧論」に感じた思いがある印象を残したことから、活字でのつき合いができた。次ぎには一九九五年の「敗戦後論」の出会いは私を刺激し、谷崎論の序論を「戦後私論」として書いた経緯がある。だが、その後の「戦後的思考」による到達点は私には曖昧なものを残し、加藤氏と紙一枚分ほどの距離ができたように思われた。たぶん「戦後的思考」による方向転換に、ある戸惑いを覚えたのに相違ない。しかし、それが自分には朦朧としている。フランス滞在中に考え、思考を鍛えたこの浩瀚な一書のうちに、氏は独自の「新しさ」の方向を探り出したにちがいない。小林秀雄、吉本隆明、江藤淳らから加藤が吸収したものには同調できるものがたぶんにあったが、彼が鶴見俊輔から受け継いだものに、違和感を感じたのだと思う。これについては、再度、私自身が検討しなおさなければならないだろう。
 そうした事柄はここでは枝葉に属するので脇におき、「3・11」を読んだ感想の断片を記しておきたい。
 この黒表紙の薄い本は「死に神に突き飛ばされる」と「祈念と国策」の二つでできている。私はこの加藤の本と同時並行して、中沢新一の「日本の大転換」を読んだ。中沢のほうは彼らしい才気に富んだもので興味はひかれたが、彼自身がパンフのようなものと言っているので、思想の素描のようなものとして読んだ。特に、原子力開発が太陽圏のもので、それを地球の生態圏へ持ち込むことへの反対論において、またそれが一神教批判と同列にあることに、説得されるほどには、まだ充分なことばが不足しているように感じた。ただ「愛と経済のロゴス」(カイエ・ソバージュⅢ)等を読んだ者には伝わってくるが、それはまだ軽い説得力でしかないように思われる。このことは、まだ未読の「緑の資本論」により、理解が促されるように思われるのだが・・・。
 その点、加藤のこの本は「思想」を構想するというより、自分と世界との関係における問題への反論・異論を含んだものであり、中沢の論に比較して地味だが、3・11の現実に衝撃をうけ、どこか自分の足で地面を一歩一歩あるくように思考していこうとする、真摯な熱意には惹かれるものがたしかにあると思われた。
 それは加藤の論考が「批評」のことばで書かれているためであろう。つまりこの辺に初期の「批評へ」の「新旧論」から持続している氏の基調が貫かれている論拠があるのだという感想をもった。
 すこしばかり迂回して恐縮ではあるが、ここで加藤の「新旧論」から、長い引用での文学的論考の紹介をせざる得ないことをご了解いただきたい。
〈富永の一冊の詩集と、梶井の小説と、小林の「Xへの手紙」とのうちに、ぼく達は、日本近代文学の可能性の原点を見る〉ことから加藤はこの初期の論考をはじめている。
〈小林が、富永、梶井よりも思想的にすぐれている所以は、文学上の『新しさ』が、社会の中に生き、それに関与し、それから関与されるなかで、どこまで通用するかを身をもって示した点にある。これが、この問題に関するぼくの、基本認識である〉
 こうした認識を踏まえ、小林の「私小説論」の検討と加藤の批評を特徴づける考察に入りこんでいく。
〈小林達の「新しさ」が、戦争にたえなかったという事実は、ぼく達をもういちどその「新しさ」の方へと、つきかえすのである。その原因はどこにあったか。その一半の原因は、そもそも彼らの「新しさ」が、彼らの「古さ」との接点をその身内にもたなかったところにこそ、あるのではなかろうか。彼らがその自分の身内における「新しさ」と「古さ」の共存の意味を一つの思想経験、文学経験に鍛えあげるのを、怠ったためではなかっただろうか、と。そして、こう書けばわかるように、この問いは、彼らの経験をどう受けとり直すかという、そのままぼく達にはねかえってくる問いでもある。〉
 この「新旧論」は「批評へ」という大著のおよそ半分を占めている加藤の「批評」への出発の土台ともなった重要な論考であった。ここに加藤が「敗戦後論」を書かざる得なかった内的な必然性が示されていることの確かさは疑いようもない。そして、その延長上に、この「3・11」の本があるのだと納得されるのだ。

《核燃料サイクルの放棄は、「技術抑止」という日本のこれまでの核抑止政策の「放棄」であることを、世界に向けて宣言するかたちで、行われなければならない。今回の原発事故の最大の原因は、日本がほんとうの意味で「原子力の平和利用」を確立できなかったからだというのが、世界に向けての日本としての反省でなければならない。この宣言を起点として、ドイツの例に見られるようい、日本は、東アジアの近隣諸国、米国、ロシア、その他の国に、今度こそ、核兵器を否定することを訴え、信頼を勝ちとるのでなければならない。そして、そこから新しい外交と、産業と、哲学とを創り出していくのである。
 これは、夢物語だろうか》(「祈念と国策」より)

 寺島や立花、小説家の村上春樹への言及も含め、現時点での様々な論文や資料の論点を網羅し、最後に自らの明解なメッセージを表明している。
 これは夢物語ではあり得ない。これは、国家意思の完膚無きまでの覚悟というしかないからだ。そして、その先の日本にどのような「運命」が待っているかは分からない。加藤が「祈念と国策」と題した所以であろう。



「3.11」




 
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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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