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"日本”を実行せよ!

 「『世界史の構造』を読む」(柄谷行人)を読んだ。
 2010年に刊行された「世界史の構造」については、先のブログで触れたことがある。今回は、この本から私の興趣を喚起したポイントを、取り上げまたこの二書の関係を確認しておきたいと思う。
 ここには、3.11の地震と原発の大惨事以後、あらたに書かれた文章が載っている。即ち、「自然と人間」である。柄谷はこれは「世界史の構造」で書かれていると述べているが、これはイロニーであろうか。たしかに、前著の「トランスクリティーク」が、カントをマルクスから読み、マルクスをカントから読むことによる視差(パララックス)ーこれは坂部恵の一書から示唆されたと坂部との対談で柄谷自身が語っていたーであるところからの必然で、マルクスの学位請求論文が『デモクリトスとエピクロスとの 自然哲学の差異』である以上、資本論にこの視野が浸透しないはずはない。現に、初期の論文「経済学・哲学草稿」にこのマルクスの思想は濃厚に出ているからだ。
 やはり、大澤や島田等の幾つかの座談会や鼎談で開陳された柄谷の対話からこの本の魅力が生まれていると思われる。以前のブログで私は「世界史の構造」という体系的(以前なら「形式化」というだろう)な書物を書き、その後彼の取り巻きとの座談会に耽っている姿だけが想像されたものだが、座談の中でデモへの参加をしたと洩らす一言を聞き、おやおやというイメージチェンジが私の中に広がったのである。
 その中でも人の虚を突く特大な大風呂敷であり、白眉の卓見ともいうべき言説が、現在の世界の情勢を「日清戦争」以前の状況に酷似しているとみて、「帝国」による世界大戦への危惧を表明しているところで、この可能性に対抗して現下の日本にできることを、柄谷はつぎのように述べている。
 「世界は再び戦争の危機に直面するだろうが、戦争が終わった後に革命を企てるよりも戦争を防止することじたいが革命となる」のだと。そして、この戦争の防止には次なる認識と機略を必要とするのだと言うのだ。
 日本は現憲法に世界に類のない、軍備を持たず、戦争を放棄する第9条を持っている。憲法9条はカント的な理念に基づくものだ。こうした憲法を得るには革命が必要だが、日本には既にある。いま日本にできることは、この条文を真に実行することではないか。即ち、アメリカとの安全保障条約の破棄、普天間は勿論、日本にあるアメリカの基地を即時になくし、日本はいかなる戦争行為にも加担しない。このことを国連の場で宣言するだけでいいと言うのである。このことにより、日本は他国からの信頼と尊敬を得て、世界的な危機を露呈している現状を超えるものとして、日本が常任理事国となることもあり得るだろう。宣言以後は勿論、このことは段階的にやって行くべきだが、丸裸となった日本をこれにより他国が侵略するとすれば、そうした国は世界からの非難と軽蔑に晒されることになるだろうと・・・・。
 いかにもこれは、「永遠平和」を考察し「諸国連邦」を構想したカントを読み、同時にそのカントからマルクスを読んだ柄谷が、「世界共和国」なる一書を刊行した著者らしい言説である。また、交換様式から「資本論」を解読しようとした契機となった「贈与論」が、この根幹にあることも確かであろう。日本国憲法9条を実行するということは、死を覚悟しての世界に対して、捨て身で「平和」へ寄与することになる。三島由紀夫が今も消えないのは、彼が己の思想に自らの死を賭したことにあり、この世界に一命を贈与したからだ。柄谷は言っていないが、藤圭子の歌の文句で言えば、「命預けます」ということと同じではないのか。
 くり返しになるが、軍備を放棄した国が力を持つことで、国連自体が変化する。戦争の放棄は「贈与」として始まる。戦争放棄をも一種の贈与とみなし、武力を国際社会に贈与する。贈与された側も困惑し考えざるをえなるだろうと。カントの「永遠平和」を一国だけでなく、「世界同時革命」の問題として考えると言うのである。
「贈与の力」は非常に強いのです。武力より強い。(P255)
2001年の「トランスクリティーク」では、社会構成体を一国モデルで考えるにとどまっていた。9・11以降の世界情勢を見て一国モデルによる思考の限界を感じ、『世界史の構造』では「世界システム」をめぐっての考察が加えられることとなった。国家は他の国家なしにはあり得ない。それはソ連が一国社会主義を守るために、強大にならざる得なく、スターリンニズムの官僚国家になったことをみればいい。究極的には、国家を揚棄するには、国家間の敵対状態の揚棄なくしてはありえないのだと。

 さて私は最後に、柄谷が「世界史の構造」の序文で述べたことと、本書「『世界史の構造』を読む」の「あとがき」の二つを引用しておくことで、この両書の関係を押さえておきたい。
 序文。
「資本=ネーション=ステートは実に巧妙なシステムなのである。だが、私の関心はむろん、それを称揚することではなく、それを越えることにある。「トランスクリティーク」を書いた1990年代と、 2001年以後では、私の考えはかなり違っている。私に「世界史の構造」の包括的な考察を強いたのは、 2001年以後の事態なのである。1990年代では、私は、各国における資本と国家ヘの新たな対抗運動を考えていた。明確なヴィジョンがあったわけではないが、漠然と、そのような運動は自然に、トランスナショナルな連合となっていくだろうと考えていたのである。(……)しかし、このようなオプティミズムは、 2001年、ちょうど私が『トランスクリティーク』を出版したころに起こった、9.11以後の事態によって破壊された。(……)このとき、私は、国家やネーションがたんなる「上部構造」ではなく、能動的なエ―ジェント主体として活動するということを、あらためて痛感させられた」
 あとがき。
「私は本を出版した後、それに関してこんなに多くの談話をした経験がない。自著について語るのはいつも億劫であった。しかし、『世界史の構造』の場合はちがっている。多くの依頼があり、私もそれを進んで引き受けた。その理由の一つは、私自身に話したい気持ちがあったからだ。『世界史の構造』では、全体の構成上のバランスをとるために、思索していた多くの事柄を省略するほかなかったのである。だから、私はそこでは十分に論じられなかったことを、座談や講演において語ろうとした。その意味で、本書は『世界史の構造』を補完するものである。」


   
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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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