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この”ぼろぎれ”を見よ

 文京区の小石川植物園へ行った。ブナ、欅やらの広い林の一角に、映画「赤ひげ」の舞台になった小石川診療所の江戸時代以来の古井戸が今もあった。あの映画の秀でたシーンは、臨終の老人がくるしみながら死んでいくところを、赤ひげが見習いのまだ若い医者にわざわざ見せるところだ。
 人は他者の死をみて自分のことを想うが、ギリシャの自然哲学の徒エピクロスが説くところでは、「われわれが存在するかぎり、死は現に存在せず、死が現に存在するときは、もはやわれわれは存しない」というものであった。むかし、このあまりにすっきりとした論理に、いかにも唯物論的な切れ味を感じて爽快になったが、なんだか誑かされているような気がしたものだ。
 このエピクロスの考えに対し、むかし、吉本はこう批判した。
「人間のじぶん自身の生存とじぶん自身の死との関係が、じぶんと他との関係としてあらわれるほかない」のだと。特段、冴えたといえる論理ではないが、この「関係」なる概念は、マルクスの自然哲学と主にフォイエルバッハの「キリスト教の本質」の熟読から、吉本が生みだした重要な概念であった。というのは後年の吉本が、「宗教、経済、法、国家、芸術」の本質を探求する基底となっている思考の核心にあるものだからだ。
 さて、母の命日の前日、とある病院での大腸の内視鏡の検査中、テレビに映し出される臓器に目を奪われながら、私の脳裏にはつぎのような妄想がうかんでいた。
 もし、霊というものがあり、自分の死体を眺めることが可能ならこうして私の内臓を見る目も同様なのではないか。内臓と私の視線は医療器具の操作者によって関係させられているが、もし私が死者の霊ならばおそらくこんな具合に、じぶんの死体を自由になんの苦痛も感じることなく、眺めることができるのではないだろうか。私の肉体とはそもそもなんなのであろうか。私は「身心二元論」のあのデカルトを想起し、メルローポンティーのさらに精巧な哲学論文を連想していた。紅桃色のあの空洞を内視する医療器具は、私に目視されているかぎりにおいて、私との関係から外部にある。そこから私の肉体でありながら、そのかぎりにおいて私の肉体ではなくなっている。ならば霊魂は肉体から離れ、みつめている私は誰なのであろう。
「空気を入れますので圧迫されます。痛くはありませんか?」
 内視鏡を操る女性の声に、私ははっきりと答えた。あたかも、母の霊に応ずるかのように・・・・。
「痛くはありません」
 幾つかの赤い突起物が目を擦過し、幾つかの映像が過ぎっていった。
 私は突飛な想像は、体内旅行をするあるSFの冒険映画が過去にあったこと。それからまた、ある若くして他界した男友達ともう一人の人物と、三人で道玄坂にあったとある劇場で、女性の肉体の一部を観劇したときの、その男の凝視する両眼をまざまざと思い出したのだ。これは言い訳めくが、私の興味は舞台の女性よりそれを見つめる観客の反応にあった。なんという生真面目ぶりの観客たちであったろう。ほんとうに観音様を拝むような神妙な目付きに、私はほとほと感心させられたのだ。だが彼はあのとき、なにをみようとしたのであったか。やはり紅桃色の内臓の先端を真剣と虚ろが綯い交ぜになった視線で注視していたのであった。それはピアノを弾き音楽を愛した彼が、上野文化会館まえの路上にとめた車を開け放たれたときに、私がみた車の内部に近似していたように、おもわれた。荒んだ空洞をそのとき私は見たのであった。

「あたしのぼろぎれをみたい?」
「聖なる神」という本に収められた短篇「マダム・エドワルダ」では、娼婦エドワルダはこう「おれ」に命令する。
「・・・・そんなふうに、エドワルダの《ぼろぎれ》はおれを見つめていた。生命であふれ、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛸。おれはしおらしくつぶやいていた。
「いったい、どういうことだ?」
「だって」と答える。「あたしは《神》だからよ・・・・」
「おれは気が狂ったのか・・・・」
 この本は「マダム・エドワルダ」の他に、「わが母」が収録されていた。
「沈黙の絵画ーマネ論」等数々の作品を残して、狂死したジョルジュ・バタイユは、早くから「生産」より「消費」を重視した「普遍経済学」の提唱者でもあった。
 故吉本氏は空気と水という自然物が商品化されはじめた七十年代から、市場経済の新たな形姿をのぞきみたが、自然界にある「物質」の核反応から生みだされる原子力エネルギーについていかなる明証に基づき、いかなる見解を持っていたのであろうか私はつまびらかではない。だが多分、これは推量にすぎないが、それはぼくの本をしかと読むこともできない君たちの愚問ではないかという声が聞こえてきそうな気がする。
「事故の予知などより、遙か前に私が発言した『反核異論』は、当然に自然の中にある物質の核反応からとりだした原子のエネルギーを射程にしたものだ。それを私が修正するようなことなどどうしてできようか」と・・・・。
 内視鏡検査の夕方、私は外食をとった帰り道、一向に旨くなかった鰻のせいかもしれなかったが、とある街頭に目にした政治家のポスターのコピーをみて舌打ちをした。そこにこんなコピーがあったのだ。
ガンバル 人たちを 支えたい
 どうにも空洞化したその標語に、「ぼろぎれ」のような日本語を感じ、私はただ茫然自失せざる得なかったのだ。




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Author:masuryuu
仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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