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江藤淳「最後の批評」

 吉本隆明の死去に伴い思いだす人物は、一九九九年の七月に六十六歳で自らの命を絶った江藤淳という文学批評家のことである。
 学生のころに、図書館で「小林秀雄」を読んでいて、胸を熱くした覚えがあった。この人における喪失感というものが余程に深いことは、社会学者の上野千鶴子氏が「成熟と喪失」は涙なくしては読めないとの感想を書いていたのを読みさもありなんと納得したものだ。
 吉本の所で記したことだが、二人の対談で印象的だったのは、吉本が現実の政治に傾倒している江藤を前にして、あなたほどの人がああした世界へ肩入れしていることは、もったいないのではないかとの趣旨の発言に、江藤が色の為す態で次のような反論をしたことがあった。
「私はあれを文学だと思うからやっているのです」
 吉本が江藤淳の「作家は行動す」や「表現としての政治」等を読んでいないはずはなかったのに、ふとしたはずみに口をついて出てしまったのは軽率だったからでは勿論ない。思想家の吉本からみれば、現実の政治などは文藝批評の対象に値しないとの考えがあったからのことだったのであろう。
 ときおり江藤淳がみせる激情はさすが、三島の自決について小林秀雄との対談中、あれは一種の病気だとしか思えないとの江藤に対し、小林がそんなことを言ったら、ああいうことは日本には幾らでもあった。大塩平八朗の乱はそうしたものだろう。あなたは日本の歴史を病気だというのかと、一喝された江藤は、一瞬、ことばを失う様相をみせた場面があったことが思い出される。
 江藤淳の明敏にして情熱を湛えた文体には、深い喪失感と同時に強い抑圧の感情がその心底にあり、それこそ、「アメリカと私」から連綿とつづく、アメリカの占領政策の内実に迫る「一九四六年憲法ーその拘束」等の論考になったものと思われる。それにしても、「自由と禁忌」における丸谷才一や吉行淳之介への筆誅ともいえる批評文は、凄まじいものであった。なにもここまで言うことはないのではないかと思ったほどだ。これに較べれば柄谷行人の座談会での「馬鹿野郎!」発言などは幼稚なものだ。江藤氏はよほどに堪忍袋の緒が斬れたのにちがいない。それは文学だけではなく、現状の政治への絶望にちかい不満からも来ていることは明白であった。「大空白の時代」「それでも小沢君を支持する」等の文章に、そうした危機感の顕れをみることができる。
  江藤氏が自裁した七月二十一日の夕刻、私は大久保百人町の方角を見下ろす職安通り沿いのビルの六階にいた。その大久保百人町こそ江藤が生まれ育った所であった。天気が急を告げるかのように、荒れて風雨が激しくなった。辺りに闇がしのびより暗雲がたれこめる天候の異変に愕き、私は大久保百人町の辺りを凝視していたのは偶然といえばあまりの偶然であった。江藤淳はちょうどその時刻に自らを処決したのであったらしい。氏が自分の出生の地である場所が、淫猥なホテル街へ変貌していく様に、深く傷つきその憤りも露わにして書き記した「戦後と私」から、その一文を引いておきたい。
「私はある残酷な昂奮を感じた。やはり私に戻るべき『故郷』などはなかった。しいて求めるとすれば、それはもう祖父母と母が埋められている青山墓地の墓所以外にない。生者の世界が切断されても死者の世界はつながっている。それが『歴史』かも知れない、と私は思った」
 この文章のあと、「戦後は喪失の時代としか思われなかった」と江藤氏は、はっきりと述べている。
  ところで、私は「江藤さんの決断」についての朝日新聞の呼びかけに、めずらしくも投稿したのだが、それがその年の十二月に本となって送られてきた。私が書いた文章の題名は「最後の批評」であったが、朝日新聞社はそのしたに、「ではなかったか」との留保の文言を加えていたのにはあっけにとられた。いかにも新聞社がやりそうなことであった。
 江藤氏は自決に際し、次のような文章を認めている。
「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。
 平成十一年七月二十一日  江藤 淳 」
 私は江藤の自決に三島の自決を投影させたかったのかも知れない。自死はそのまま批評家の「行動」として受けとめようとしたのだ。だが吉本氏の「追悼私記」は江藤の自死に、森鴎外の岩見の人、森林太郎として死にたいという願望と同質なものを見ようとしている。私は投稿でつぎのようなことを書いていた。

「若い時代に大学の図書館で『小林秀雄』に熱い感動を覚えて以来、江藤淳氏の書くものはほとんど読んできた者です。
 『妻と私』読後の、なにかのっぴきのならない悲哀と痛苦は、しばし私の胸にわだかまりました。顧みれば昭和四十一年、『戦後と私』の中で『この世の中に私情以上に強烈な感情があるか』と揚言し、『文学とは私情を率直に語ることではないか』と述べた批評家、最後まで『戦後』との妥協を排した者の、孤独で甘美さえ漂う『妻と私』はいまからすれは氏の『白鳥の歌』っだったのでしょうか。
 三島由紀夫、そして川端康成の自殺に冷淡とも思える批評を放った氏が、同じ道を選ばれたことに一度は当惑を覚え、たとえ荷風散人のようであれ一単独者として生き続けて欲しいと思いましたが、『私情』に殉じることさえはばからぬ江藤淳氏の生き方と死に方は、ほんとうの『私』も、また、ほんとうの『公』も見失った戦後に対する身を挺しての『最後の批評』ではなかったでしょうか。
 晩年は漱石論を書きつぐ傍ら、ますます衰亡を深めていく日本への警鐘を鳴らし、戦後文学が占領政策の検閲によっていかに抑圧されたかという実証研究等へも捧げられました。
 一友人は手紙で、『思想よりもなによりもその人生を感じさせる』との感想を書いてきましたが、氏ほど人生と相渉った思想を感じさせる、熱き硬骨漢として生きた人間もまた、今の世には珍しいのではありますまいか。」

 ここには、江藤淳の批評への私の批評が入り込んでいることは言うまでもない。「荷風散人のようであれ一単独者として生き続けて欲しい」というところに、「荷風散策ー紅茶のあとさき」(平成十一年刊)の一文に、私が感じた違和があったからである。それは「偏奇館炎上」の最後の文章であった。江藤氏は荷風を売文の徒ではなく、自分を売文に四十年間暮らしてきた者として、荷風の境地を仰ぎみようとしている。私はここに江藤氏の謙虚な姿勢を取り損ねた次第であった。
 読者は自分の作った像で、一作家を判断しようとする。今から冷静に眺めれば、吉本氏の判断の方が正鵠を穿っているのかも知れない。

(注)2012.3のブログから再掲したことをお断りする。



   江藤淳


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いつもブログたいへん興味深く拝見しております。今回の江藤さん吉本さんについての記事もとても面白かったです。

 実はこのたび、江藤淳さんの評伝を執筆刊行いたしました。ブログ主さんにもぜひ読んでいただきたいと思いまして、ここに紹介いたします。

 本の題名は『「国家論」石原慎太郎と江藤淳。敗戦がもたらしたものー』(総和社)です。西尾幹二先生のご推挙を受けての執筆刊行でございます。筆者=私は渡辺望と申します。大手各新聞にはすでに広告載りました。

 大きい書店にならばおいてあると思いますが、アマゾンなどでの購入ももちろん可能です。不明の点ございましたらいつでも気軽にメールくださいませ。ご検討よろしくお願いいたします。
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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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