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アンリ・マティス小論

   ーガブリエルなんとか言ってくれ給え、造形された思想は美しくはないだろうか?
                         「詩についての対話」ホフマンスタール

 画家アンリ、マティスの誕生は彼が二十三歳のときであった。病気療養のため入院した病室で、偶然に退屈紛れに手にした筆が、法律家の道を進もうとしていたマティスの生活を変えたのだ。しかし人は普通そのようにして画家の道などへ歩みだすものであろうか。ましてやそれまで筆を手にしたこともなく、美術館にそれほど熱心に通ったとも思われない一青年を、法律という確固たる職業を放棄してまで、彼を絵筆をにぎる手の人間に変え、キャンバスの前に縛りつけることなどがあり得るものであろうか。しかしいまここに、画家アンリ・マティスはたしかに存在する。私はこのことを語りたいので、マティスが己が絵画を確立した偶然などに留まるつもりはない。
 芸術はごくわずかに選ばれた人間に語りかける。ある任意の偶然が一人の男を選ぶ。最初の戸惑いの後、やがて芸術は彼の人生の隅々にいたるまで、その人間を規定し、度重なる反抗にもかかわらず、彼は己が運命そして彼の芸術を引き受けるにいたるのだ。これこそは人間の栄光というものである。

 物象の再現というものから解放された二十世紀初頭の絵画のむかった方向は、造形表現における意識的な活動であった。この造形表現において不可欠なものは、自己というものである。そして画家の自己とは、絵画的思考以外のなにものも意味しない。私はタブローにマティスの思考のあとを追うだけだ。この絶えず探求に探求を重ねる理知の人マティスは真実の芸術家がそうであるように、その方法の生理に厳格にしたがったはずである。その明晰さはときに凡庸とまで映るほどまで純化されるが、これこそ画家マティスの芸術の魅力を形成するといってよい。方法とはある情熱の一形式である。マティスの傾けた情熱とは、デッサンに対する色彩というものをいかに己がものとするかにあった。
 一九○五年フォーヴィズム(野獣派)の画家として登場したマティスにみられるものは、なるほど大胆なまでの色彩の跳梁であったが、それはセザンヌから学んだ構成の妙と巧みなデッサンによって美事に統御されていることを見逃してはならないのだ。このときマティスは新しい絵画の運動に忙しく、この色彩による感覚の解放がいかに画家の自己を欺き迷わせるかに思いいたる暇はなかったはずだ。「生きる歓び」の習作であった「コリウール風景」や「水辺の日本娘」(共に一九○五年)をみればそれは明白であろう。マティスはやがてのちに、そのために苦闘探求する色彩とデッサンとの永遠の葛藤という困難に直面してはいないのだ。しかしのちに、画家のタブローにおけるこの永遠の課題に、マティスほど誠実に対峙しその困難を克服しようとした画家は稀であったと言ってよい。マティスの方法とはこのディレンマとその解決への情熱の謂いなのである。芸術の方法とはその発見と肉化が、新しい「自己」の発明を促し、そこにおけるメチィエーの更新が果たされる実験の場にほかならない。そういう芸術の志向にとっては、霊感などは無用の長物に他ならない。
 ドラクロアはすでに日記のなかに記している。
「芸術とはもはや俗人が信じているような言わばどこから来るともわからず、あてもなく運行してものの絵画的(ピトレスク)な外面だけを表示する一種の霊感のようなものではない。芸術は天才によって必然的な道程を踏んで飾られるより高い法則に支配された理性そのものなのである」と。

 物象から自立した画家の目は、己が本能の赴くまま自然へと推参し官能の幻想を捉える。マティスの絵画が私たちに示すのは、「見る」という行為の全的な歓びである。ゴッホ、ゴーギャン、そしてセザンヌでさえマティスのこの歓びから遠いのだ。そこにあるのは、「見る」という行為の不幸のようなもので、描かれた世界と私たちのあいだには溝のようなものが横たわる。そこでは眼差しから物象へといたる画家の目の一方交通の行為にみがあり、「見る」ことが同時に「見られる」というあの愉楽を湛えた官能の幸福な眼差しを知らない。「地獄の季節」においてアルチュール・ランボーは詩っている。
「ぼくは寓話ふうのオペラになった。ぼくは見た、あらゆる存在が、幸福の宿命をもっていることを。行動とは、生活ではなく、なんらかの力を浪費する流儀であり、神経の苛立ちなのだ」と。
 この詩人はさらに言ったはずだ「ペンをもつ手は、鍬をもつ手にひとしい。なんという手だらけの世紀か!」と。だがマティスが絵筆を握るのはまさにここにおいてなのだ。
「私は、安定した、純粋な、不安がらせもしない芸術をもとめる。労苦に疲れはてた人が、私の絵の前で、平安と休息を味わうことをねがう」と。マティスは鍬をもつように、ペンをもったのだ。このとき思うさま身を委ねたいたかにみえた色彩を単純化したのではない。絵画的思考にとっていかに色彩というものが、単純に明快となるかをデッサンとの格闘のなかで獲得したのだ。ここにひとつの逆説が存在する。自然にとって、一枚のタブローが、またその上に描かれるデッサンなどというものが一体なんであろうかと。一切が充実している自然に、線などというものが、またタブローにおける色彩などというものが、はたしてどのように存在するのかという難問が。ここに画家の「自己」が打ちのめされ、試される試金石がある。この逆説のまえで一度とて立ち止まったことのない画家は、ただ先行の画家の真似をしている猿であるにすぎない。
 マティスは言っている。
「対象を写すことは私の興味をひかなかった。なぜリンゴの外観を描かなければならないのか。しかも、できるだけ正確に。自然が無制限に供給し、人がつねにより美しく想像することができる対象を模写する興味はいったい何だったのか、重要なのは対象の芸術家に対する、つまり彼の個性に対する関係であり、また、彼の感覚と感動を組織する力である」と。
 マティスは筆をとらずに瞑想などしていない。デッサンによって取り戻された「自己」は、再び色彩の官能の世界を己がものとするだろう。人間的意識を自然的無意識にしたがわせたマティスが、自らの方法に欺かれぬように、その感覚を一本の線によっていかに保持し組織化したかを見なければならない。だがいずれマティスはイーゼルの前から離れていくだろうし、筆をもって描くという画家の行為をさえ改変するだろう。ただいま確認すべきことは「全体こそ唯一の理念である」と言ったマティスのこの「全体」が、絵画的思考を支配する「自己」というものであり、ドラクロアのあの「理性」といっても、またデカルトの掴んだあの「我」といってもいいということだ。そしてこの「全体」という概念が誤解を生まないように、ここで少し長くなるがマティス自身のことばを引用しておきたい。
「光に奪われた私は、自分のモチーフを取り巻く小さな空間ー過去の画家たちにはそうした空間意識で充分だったと私には思えるがーを意識の上で脱出すると同時に、自分自身を越え、すべてのモチーフ、アトリエ、家すらも超えた宇宙空間ーそこでは海の魚のようにもう壁を感じないーを心のなかで感じとるため、絵のモチーフの根底にある空間から脱出することをしばしば考えたものである」
 幸福の感覚とは、本能が秩序を見いだすことにある。マティスは、己が芸術を一脚の「ひじかけ椅子」に託するだろう。絵画においての「自己」とは、自己から出発し、やがて人の子が夕暮に疲れて自己の「家」に帰るように、「自己」を取り戻さねばならないのだ。
 いまやマテュスの生(ヴィー)の世界は、色彩と線との単純で明快、かつそれによって息づくところへと到達する。私たちはマテュスの創った「ひじかけ椅子」で寛ぐことができる。芸術は決して私たちを混乱に導くことはない。微笑のなかからマテュスは私たちに語りかける。偉大なものは単純であろうとすることにありはしないだろうかと。ヴァンス礼拝堂の壁画が光のなかでそれを示すだろう・・・。だが結論を急いではならない。
「われわれが無限に教わるものは、マテュスによって示された美術の意味である。これは概念が構成するものではなくて、実在する物に即して生きる思想(イデエ)の造形的帰結であった」(ジャン・カスー)
 あるとき同時代を生きていたともいえるピカソがマテュスにこう言った。「私は捜さない、私は発見するだけだ」と、だがマテュスは言う。「私は・・・・発見しない。私は捜している」と。絵画の自由はマテュスをさらに厳しく、軽快な世界へと連れさるだろう。即ち「切る」という絶対の行為により、マテュスは「描く」という絵画の超克を図ろうとする。一本の線を引くことは、また無数の線の否定を意味する。色彩を描くとは、また無数の色彩の呪縛から自らを解放することだ。しかし切り絵の表現は絵画の関係式をより純化し、人間を自然のもつ偉大なる「単純さ」に近づけるだろう。切り絵の造形表現によるジャズシリーズは、いまや絵画をかぎりなく音楽に近づけるのだ。それはなんという色彩の感覚(サンシオン)の豊穣をもたらすことだろうか。そのなかで線は、しなやかで凛々しく、なんという自由を楽しんでいることか! 激しい感覚を統御する理知の静けさ、その勝利・・・・。私たちは秘かに呟かないだろうか。もちろんボードレールのあの「旅への誘い」のリフレーンである。

     ああ、かしこ、かの国ゆかば、ものみなは、
     秩序と美、豪奢(おごり)、静けさ、はた快楽。
                                       (堀口大学訳)




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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