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ヴァレリー素描

 「私」とは最大の虚構である。
 一九六九年の黄昏時、日本橋の兜町の路上で私にやってきたこの奇怪な思念から、人はいかなる自己を支えることが可能なのか。この不可解な淵のうえに、いったい彼のどんな人生がゆるされているのだろうか。
 私が「テスト氏」に逢ったのは、生きることが自己をささえることであった、そんな青年期の一季節のことであった。
 
〈しばしば、僕は、自分にとって、何も彼も終わった、と思い込んだ。そして、この或る苦しい局面を、ただ全力をあげて解き究めてみようとした。〉
 「テスト氏の一夜」は、一八九六年、ヴァレリー二十五歳のとき、「サントール誌」に発表、因みに同年ヴェルレーヌ死去、ベルグソンが「物質と記憶」を発刊している。
 読者は件の文章に素朴な疑問を懐くことができる。即ち、何も彼も終わったと思われたものが、どうして〈苦しい〉わけがあるだろうかと。なるほどこの疑問は当然だが、正しくはない。なぜならここに、ヴァレリーが「テスト氏との一夜」を書いた契機ではなく、それが書かれた動機と、「僕」が「テスト氏」と出遭う必然とがあるからである。
 夙に、一八九三年、ヴァレリーは詩作を廃していた。
〈人間の特徴は意識にある。そして意識の特徴はその中に現れる凡てのものを不断に汲み涸らし、この凡てから休みなく洩れなく超脱することにある〉
 この不断の運動こそ、ヴァレリーの精神であり、彼にとって言葉はこのために極限まで精密化されざるを得ないものであった。
〈私は詩人ではない。が、倦怠した男なのだ〉
 と当時、ヴァレリーは一友人に宛てた手紙に書いている。このヴァレリーの倦怠が、いったいどれほどの意思に酔いしれ、奇怪な自意識の星雲のなかにあったかは、一八九四年に発表された「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」にその詳細を知ることができるだろう。
 「テスト氏との一夜」は、こんな彼の「半ば文人、半ば野人、或るいは一口に内的なといってもいい一青年期」に書きあげられたものである。読者は己が手で詩を葬り、言葉の虚偽性から能う限り自由になった「僕」とともに、「テスト氏」との面接に導かれ、彼の声を聴き、彼の挙動を見ることになる。
 ところで、「私とは最大の虚構である」とは、私とは私であるという不断の認識に貫かれているはずである。意思の陶酔と骨を裂くほどの倦怠とは、人間精神の二つの気分的面貌である。詩人とはこの力学を極限まで体験する人間の謂いである。ヴァレリーが師として慕ったマラルメは、こうした精神の絶嶺を登りつめた果てに書いた「イジチュール」の草稿を、ヴァレリーに読ませながら、「私は狂ってはいないだろうか」とことばを洩らしている。こうした仔細は、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」からすれば、「詩人になるためには何か監獄のようなものの事情に通じている必要がある」ということになる。どんな人生もゆるされていないとは、そういう意味である。が、にもかかわらず人は生きなければならない。自己をささえ、しかもその姿勢のまま、人生という断崖の上を野原を行くように歩いていかなければならない。「僕」が出逢った「テスト氏」とはこうした精神の一怪物であった。
 〈彼等こそ、生活が透き通ってしまって姿も見えぬ、世の孤独な先覚者なのである〉
 ヴァレリーは後年、「テスト氏との一夜」に序文を寄せて、「テスト氏」は現実の世界では数十分ぐらいしか生存できぬだろうと書いている。
〈では何故テスト氏は存在し得ないのか―この疑問こそ彼の魂である。この疑問が諸君をテスト氏にしてしまうのだ。何故かというと、彼こそ可能性の魔自身に他ならないからである〉
 自己をささえようとすることは、即ち生きることではない。私は私であるという絶対の明証は、私は他のものであるという希求をふくまないものであろうか。これもまた、絶対の明証を独り牢獄のなかで生きぬこうと決意しているカミユ「異邦人」の主人公ムルソーには、星としるしに満たされた夜が、はたして訪れなかったであろうか。
 ヴァレリーは「海辺の墓地」で詩っている。

Regarde,moi qui charge......
(変わりゆく私をみよ・・・・)

一九四五年。
「可能なるものの中にわたしを喜ばせるものが認められない」と「手帖」の余白にしるし、七月二十日午前九時、ポール・ヴァレリーは死去した。
 ヴァレリーは何者であるかという問いは、ヨーロッパ文明そのもののなかへと我々を導くものだ。一八七一年から一九四五年に亘るヴァレリーの生きた時間は、ヨーロッパが一人の人間のかたちをとって、自己についての可能な限りの思いを廻らした歴史であった。
 ヴァレリーは信じていた、変換する精神の力を。
〈この人は夙に、言わば人間の可塑性(la plasticite)と呼ぶべきもののおろそかに出来ぬ所以を知っていたのだ。彼はその限界と機構を探った。わが身の可鍛性(la malleabilite〉についてはどれほど思案を重ねねばならなかった事か〉「テスト氏との一夜」小林秀雄訳
 精神の力を信じるとはこういうことである。

                      (一九八二年)


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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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