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父の死

 こんなことをブログに書いても仕方がないと思いながら、なにか書かなくては、風に慄える木の葉のように、底のほうから揺すられるように沈鬱となるこころの持って行き場がないのである。
 先日、めずらしく参禅して、その後に師家の講座を聴いた。道元禅師の言葉であったが、私の記憶に残っているのは、菩薩心は無常を知ることから発心されるという、ただそれだけのことであった。
 帰宅途中、ただ焼き鳥を黙って炭火であぶるだけの酒場の無愛想な主人の顔を前にして、カウンターですこしばかり飲んだ。その日は午後、巣鴨にある道場で居合いの稽古をしてからのことだったので、稽古後の疲れのせいか、道元の言葉が気にかかったのか、どうにも酒でもひっかけねば落ち着かなかったのだ。
 そして、六月七日の午後五時、父は九十二歳で老人ホームで亡くなった。老衰で静かに息をひきとるのかと思っていたが、いやいや、そんな容易なものではなかった。最期のベッドでの往生には、これほどの凄まじい死にいたるエネルギーを必要とするのかと、私はただ恐懼するしかなかったのである。呼吸をする毎に、父の大きな喘ぎ声がしばらく持続し、看護士が口に施した酸素吸入器を手で払い除け、激しい口呼吸をしながらも、なにやらの言葉を発っそうとして、しきりと藻掻き苦しんでいるばかりであった。苦悶にもだえ腕をしきりにあげる動作につづき、父の入れ歯のない口から、わずかに聞き取れた声が、「ありがとう」「ありがとう」という感謝を伝える、人生最後のちからを振り絞っての必死の行為を眼前に、私は表現のしようのない衝撃に打たれずにはおれなかった。空を掻いていた諸手はようやく骨ばかりの胸の上で合掌の印を結び、空色にわずかに開いた両目はもはや虚ろでしかないのだ。
「お爺ちゃん、ありがとうと言わなければならないのは、私のほうよ。お爺ちゃん、ありがとう、ありがとう」と、妻は泣きながら父に応答した。
「お爺ちゃんは長い間、苦労したものね。ありがとう、ありがとう」と合掌した父の手を幾度もさすりつづけ妻の父へ返すことばが届いたのか、やがて安心したように、荒々しい父の呼吸はへいぜいとなり、空色のまなこをあけたまま、父の呼吸はそれなりにとまったのだ。
 密葬で火葬し、引き出された骨をまえに、係員は「九十二歳の老人にしては、その骨は同年齢の者の二倍もある」とおどろいた様子で話したが、二箇所の病院に二十日間、老人ホームに引き取られてから七日間、それ以前の二十年間を、父は薬も飲まず、一度とて病院へも行かずに、畑を耕しながらたった一人で暮らしてきたのであった。妻はこの間ほとんど、私はときおりに、不自由になった晩年の一時期を父のまわりの世話やら介護で一人暮らしの父の家を見舞ったが、父の畑でとれた葱、胡瓜、茄子、大根の野菜、柿や苺の果物などを我が家へ持ち帰えり、食卓のたしにしたり私の晩酌の肴になったりしてきたのである。
 二十代で戦争に招集され、戦後になってもシベリアの抑留から帰ることができなかった父の、極寒の地のシベリアでの体験がどれだけ苛酷なものであったかは、その断片を聞くことしかできなかったが、事実は私の想像を絶するものがあったのにちがいないのである。
 裸一貫で内地へ帰った父は結婚して下町に住まい、土日もなく働きつづけて、六十五歳で引退してからは郊外に小さな家を建てて、質素な生活を送っていた。妻を喪ってから八十歳すぎまでの十年間、亡妻の命日には毎月菩提寺への参詣は欠かさずにいた父であった。
 その生涯は勤勉、篤実な典型的な平凡な一日本人の一生であった思われるが、誰からも自然とその人柄を敬慕された陰徳の偉丈夫として九十二歳の天寿をまっとうしたのである。戒名は「釋學芳」の三字のみであった。
 なお葬式は質素に香典のたぐいは一切無用というのが父の遺言であった。




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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