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解離する言葉

 あることがあってから、その後遺症なのか分からぬながら、わたしの口蓋は大きな飴玉をしゃぶっているかのように、滑らかな発声ができなくなった。言葉を発しても、低くくぐもって、他者へ音声が明瞭に届かないのだ。それ以前は、わたしの声はテノールだが、甲高い声で周囲に割合よく響いていたのにだ。そのうち、段々、わたしは話すことが億劫になり、言葉かずも減って、他者の言葉を聞く受け手の側にまわることが多くなった。これまでいろいろな治療をしてもらったが、多分に心理的な症状であるらしい。人前で緊張すると、口蓋が硬化してくるのだ。東大の口腔外科の医者からは顎間接症は、元来、女性に多いと言われた。オムロンで頬に電気を流すとすこしは和らぐことが分かったが、効果は一時的だ。
 話しの本題はこうした身体の一部損傷にあるのではない。脳、あるいわ、こころと言葉との関係ということであったのだ。
 ある葬儀で短い挨拶をしたのだが、途中でわたしの頭か、こころからつぎの言葉が突然、まるで電気のヒューズがとぶようにとんでしまった。ほぼ完全に記憶していた自分が作成した言葉がまるで出てこない。その数秒の空白はいったい、どうして生じたのかを考えているときに、「瓦礫の中から言葉を」(辺見庸)を読んだ。この本の第六章の「わたしの死者ー主体と内省」に、「言葉と言葉のあいだにはカダヴルがある」という文章にぶつかって、わたしはしばし考えざる得なかったのだ。カダヴルとはCadavreフランス語で屍体という意味である。わたしの身体から解離した言葉は、まさに〈屍体〉同然の言葉であったのだ。そこには嘘ではないまでも、若干の粉飾があったのである。わたしの頭とこころは、そこでとんだとしか思えない。背後にある遺影がその〈屍体〉同然の言葉にチェックを入れたのかもしれない。ここにその言葉を取りだしてみよう。
 ーそして最期におきましても、故人が○○の祭りのことを口にしていたことが、印象に残っております。

 たしかに、故人が長く働き、家族と共に過ごした街のお祭りがもうすぐにあることを、看護でベッドに臥していた故人と話題にしたことはあったが、それはまだ話しができる比較的に元気な時のことで、最期のときであるはずはありませんでした。だが、わたしは葬儀の挨拶でそれを誇張し、粉飾を施したのでした。わたしは葬式用に、ことばを型に入れて演技をさせてしまったのです。わたしの無意識がわたしの意識を発光させたとしてもおかしくはなかった。
 言葉とはかくも恐ろしいものなのである。
 九鬼周造という哲学者が、ベルグソンの家に訪問した時のことをエッセイに書いているらしい。それによると、ベルグソンの一人娘は彫刻家でブールデルの愛弟子だったが、唖で聾であったらしく、話しても「キッキ」という発音しかできなかったというのだ。ベルグソンの失語症への考察から心身一体へ迫る、平易にして精密な論理による天才的な哲学は、この一人娘と内的な関連があると九鬼周造は言うのである。
 これもまた事実の話しとしても、なにか鬼気迫る想像のように思われてならない。
 最後に、わたしの葬儀の件に戻るが、故人を乗せた霊柩車が祭りが始まるその日の午前に、どうした事か予定の運転コースを忘れたかのように、告別式会場として予約していた会館の前に飾られた神輿を眺めていくように、街を走り出て行ったのには、わたしをはじめ家人も、この不思議におどろきながら、そっと頬笑んだことを記しておきたいのである。




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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