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孤影悄然

 最近、不思議なことが時折あって、それが私を驚かす。
 まったく気にかけていない過去の一瞬が、脳裏を掠めてよみがえるのだ。それは「夢」の破片のように、つかまえたくとも、またたく間に消えてしまう。
 それとはすこしちがうのだが、二十年ほどのむかし、銀座の「ヤマハホール」で、映画「ドン・ジョバンニ」を二人の友人と観たことがあった。二人のうちの一人は既に故人となってしまったが、その男は音楽が好きで、大宮の長姉の敷地の一角にある家を借りて住んでいた独身時代の家に来て一泊した。翌日、私は大岡昇平が作曲した「雪の宵」(中原中也の詩)の譜面を見せて、このピアノも上手な友人に、その家にあった甥のピアノで、その一曲を弾いてもらったこともあったのだ。
 銀座の映画をみて、この二人とホールをでた私は、十メートルほどの先に、大岡昇平が一人、歩いている姿を発見した。既に、私は映画を観ながら、もしかしたら、この映画を大岡昇平が見に来ているのではないかという、予感を懐いていた。その予感がなければ、銀座の夜の道を一人、孤影悄然と歩いていく大岡氏を、見出すことはなかったにちがいない。
 私は高校時代から大学の前期まで、中原中也の読者であった。この中原と若い頃に交友した大岡昇平が書いた中原中也についての文章は、そのすべてを愛読していたことは言うまでもない。氏は50歳からピアノを弾くことを学び、中也の詩に曲まで作ったのである。
 私も氏に触発されたのか、26,7歳の独身時代に、甥と姪が習っていたピアノの先生に頼み込んでピアノを習ったことがあった。ピアノの時間が終わると、私はこの老女性とその居間で紅茶を飲んで話すことに、なんとも言えない愉楽を感じた。上智大学の哲学科を卒業したこの老女性の、その品格と知性は私を魅惑するものがあった。その家の玄関を辞去すると、私はいつも夜の空に星が美しく瞬くのを見て、幸福に酔いしれていたことを、思いだす。銀座で一緒に前述の映画を観た友人にも来て貰った私の「明治神宮」での結婚式に、このピアノの先生も招待して、式場でピアノを弾いて戴いたのだ。
 私の第一詩集「孤塔」を差し上げたこともあったが、先生はその後、主人とお婆さんと三人ともに、すべての財産を処分し、静岡県の教会の施設に入ってしまわれたのだ。
 結婚式に私のピアノの先生が弾いてくれたのは、はっきりとした記憶にないが、大岡氏の「雪の宵」だったのではなかったろうか・・・・。
 ともあれ生前、大岡昇平は言っていたのだった。死後には自分は詩人中原中也の紹介者としての名前だけが残るであろうと。
 ところで、私が大岡昇平の文学に注目したものは、「事実」と「小説」とのあいだにある文学上の「問題」のことである。すでに前のブログに記したように、大岡氏が鴎外の歴史と小説の関係式に、ある違和感をもったのは大岡氏の小説が生まれた出自から来ていると、私には思われるのだ。最初の小説「俘虜記」は、自分の戦場での実体験の記録を検証しようとしたものである。敗走中に若いアメリカ兵を見つけ、銃をとるが結果的にはその少年兵を撃つことはなかった。なぜ自分は撃てたにもかかわらずに撃たなかったのか。その「事実」を作者は執拗に問うことから、作家となった大岡氏の文学が、意図も簡単に司馬遼太郎のような「歴史小説」を書けるはずはなかった。鴎外が夙に「歴史其の儘と歴史離れ」で、その問題の概略を意識していたことは明白である。
 大岡氏の文学が、事実と虚構の深淵に横たわる「真実」という「謎」に迫っていくのは、氏の運命のような必然があった。日本推理作家協会賞を受けた「事件」という小説は、初期作品の「俘虜記」と同じ筆法で、犯人を廻る事実と真実に肉薄していく。事実とはなにか?小説の虚構性とはいったいなにか?人間の犯す犯罪とは、戦争とは、そして人生とは、なんであるのか。そこには、いかなる背景・環境が所与のものとして、いかなる関係で働いていたのか?
 大岡氏は評論「歴史小説の問題」で、歴史家の想像力と小説家の想像力の差異を述べ、あの巨大な「レイテ戦記」をして、「結局は小説家である著者が見た大きな夢の集約である」と「あとがき」に書き、「事実を歌わせる美学」を発明したという作家自身のことばを、ここで思い起こしておきたい。また、鴎外が晩年に史伝へと重心を移していく道程をも、視野を掠めていくことも・・・・。
 昨日、妻と二人で映画「沈まぬ太陽」を錦糸町の映画館へ観に行った。そして、1985年8月12日に群馬県御巣鷹の尾根に激突し、520名の死者をだした航空機事故事件から、25年を経過して山崎豊子女史が1999年に発表した原作は映画化されたのだ。原作を読んでいないので、過去の事実を小説にする作者の筆法が、どれほどこの映画に反映されているか、それを知ることはできない。また、映画は原作とは別個の領域に属するだけのことである。


  
 
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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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