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「近代」への疑惑

 今年の冬、アレクサンドル・デュマ・ペール作の「モンテ・クリスト伯」全七巻を、ついに読み終わった。船長になることを約束された青年エドモン・ダンテスは、それを妬んだ親しい者三人から罠にはめられ、許嫁との結婚式場に乗り込んできた警官と兵隊に捕らえられる。ナポレオンへ協力したとの覚えのない罪をきせられ、マルセイユの沖合にある牢獄島に入れられてしまう。十四年後、ダンテスは同じく入牢していた者から宝の在処を聞くが、この男は病死し、ダンテスは男の屍体に入れ替わるが錘をつけて海に沈められる。ナイフで袋を切り裂き脱出に成功したダンテスは、巨万の富を背景に、周到に張り巡らした三人への復讐計画の実行を開始する。一分の狂いのない理知とつめたい表情のうちに、鉄のような意思をひめて、あざやかな復讐の結果、一人は発狂、一人は自殺、もう一人を廃人にすることで復讐を遂げるのである。これほど雄大にして緻密な構成をもち波瀾万丈にみちた長編大衆小説は世界に類がないものだ。だが、正直を言うと私は途中で退屈した。それはあまりに念の入った復讐計画を読解する煩が面倒になったことによる。こうした復讐譚を読むには巌窟王の忍耐を必要とするに違いない。復讐する意思の持続に付いて行くことが億劫になっては、この緻密にして周到なる復讐計画の全貌を理解する事は容易なことではないのである。一人の仇敵に対しては持ち株を一挙に暴落させる金融戦術まで駆使するに知能には、さすが西洋人は違うと一驚したものだ。日本人の復讐や仇討ちとは、ずいぶんな相違である。いわば国家による経済制裁のようなものだが、この効果が現れるまでには相当なる時間を要するのは、現代の北朝鮮でもイラクでも同様であろう。日本にも城に立て籠もる敵を兵糧締めにする戦術はあるが、ダンテスほどスマートな方法ではない。赤穂浪士の主君の仇討ちとはどこか決定的に異なるものがある。
 先日、ふと入った映画館で「臨場」なる映画をみた。バスから降りてきた青年が、突然に路上の四人の人間を滅多切りにして死傷させる。だが、裁判の結果は、犯人の心身喪失を理由に責任能力なしとして無罪。しかしその後、この犯人を無罪放免にした裁判官と弁護士の二人が相継いで殺され事件が起こる。この事件の犯人はこの青年から被害を受けた遺族との線で警察の捜査が動きだすが、鑑識課検死官の主人公は、この推測に違和感を懐き、検察と警視庁から異端視される。最後に、主人公が突き止めた真の犯人は、自分に法医学を教授してくれた旧知の先生であった。映画の原作者は「半落ち」と同じ東野圭吾だが、現実の日本では、幼児虐待やイジメによる自殺、強盗や強姦、それに映画そこのけの無差別殺人が、メディアをにぎわせている以上、小説がこうした事件を題材にしてフィクションが創られることは当然なことだろう。
 以上の小説と映画に共通しているのは、「復讐」(「仇討」)という人間にしか懐かれない激しい情念と行為である。
 先日、京橋のフィルムセンターで、今井正監督の「仇討」を見る機会があった。過去に観た記憶は漠然とあったが、今度の印象はまるで違った。これこそ疑いもなく、日本人の「戦争」だと思われた。「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子)という本が、奇妙にも、この映画に重なってくることに、私は訝しい思いに囚われた。
 国家が遂行する「戦争」と個人的な情念にもとづく「仇討」とは、本来、同等に論じられるものではない。にもかかわらず、日本人の「戦争」がどこか封建時代の制度である「仇討」とその精神において輻輳し通底するものがあると感じられたのは、どうしてなのであろうか。歴史は言うまでもなく過去から連綿として流れてくるものだ。時代劇のなかに現代劇を覗き、その反対に現代劇に時代劇を見たとしても、べつだん不自然でもなんでもない。
 今井正監督は「仇討」で、封建時代の藩政の秩序に生きる藩と家と個人の理不尽なまでの構図を冷徹に描いて、特に現代的な解釈や裁断をしようとしているわけではない。江戸時代の藩に生きる者が藩の秩序維持と武士の気概を示させようと、双方の家に公開の仇討ちを命ずる。各人はぎりぎり己が運命にもがきながらも、藩命と家の忠義に生きている姿に微塵のゆらぎもない。にもかかわらず、それがどうして近代日本の国家が行った先のあの「戦争」をそこに髣髴とさせてくるのであろうか。
 明治、大正、昭和を経て、日本の国が近代化して既に、百五十年に成ろうとしている。議会制民主主義が定着してこれも相当な年数が閲した。だが、一九七0代から蠢動しはじめた世界史の潮流に、この国はその基軸を揺り動かされているばかしではないのか。
 そして、二0一一年、三月の大惨事は、一国の醜態を世界に晒しだした。
 原子力村は福島や東電だけではない。永田町を頂点にした国家の全体が、恰も大きな村落的な機構でしかないことを、白日の天下に知らしめたのだ。
 映画では、家督を継げない次男坊の鬱憤を、中村錦之介は力強く演んじている。若い頃の三田佳子の演ずる娘を半ば暴力的に己がものとし、娘がこの次男坊に心を傾けるのも、素直な人間心理のうちにある。すべてが必然であり、天体の運行のごとく自然な運びなのだ。運命のドツボにはまり憤懣やるかたない主人公も自他に目覚め、遂に家の説得を受諾して、自ら敵の仇討にうたれる腹をきめる。公開の仇討ちの場は竹槍で組まれ、見物人は物見遊山かなにかのようにわんさと集まっている。主人公は既に刃引きした刀で公開の場に臨みながら、仇討ち相手の助太刀に襲われ、やむなく数人を斬り殺す想定外の事態が出来する。おろおろする藩の重臣たち。そして、無惨なラストシーンまで、橋本忍の脚本によるこの封建時代の一事件を、逆説として時代に呪縛された武士社会を結果的に風刺したとも言ってよい映画は、そのリアリティーによって観客におもい感動を残すのは何故なのか。日本人の精神構造が先の大戦を遂行した時代から、さほどの変化をしたとは思われないからだ。




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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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