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「婉という女」断想

 大原冨枝の「婉という女」(一九六0年「群像」発表)の文庫本を、十年ほどまえお茶の水の古本屋で購入した。それを持って、那須山中の晩秋の谷間の湯治場で読んでいたことがあった。三畳ぐらいの古びた畳の、障子も襖も寂れた狭い部屋の炬燵と暗い電灯の下で、川の瀬音を耳にしながら、それを読み終わった。
 ー外の自在な世界に生きたとしても、人間の生きる世界というものは、われわれがいまここで生きている、これ  だけの狭さのものなのだ、いつの場合もそうなのだ。

 わたしは、このように婉が一家族と共に幼少より世間から隔離、幽閉された世界から、覚醒するようにつぶやくこのサンボリックな数節の文章が、こころに静かに沈んでいくのを感じた。すると、このことばがつぎの吉本隆明が、一九六四年ごろに書いた「日本のナショナリズム」の次のことばに、反響したのだ。
「井の中の蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像をもたなければ、井の中にあるこ と自体が、井の外とつながっている」
 これは「世界認識の方法」に含まれると言っても過言ではない。

 さて、あれから歳月を経て、こんどは今井正監督の映画をみた。この映画の岩下志麻の演ずる婉は、四十年の幽獄のあいだ、烈しく、生きること、それも女として生きることを、強く渇望する。他人という存在(男・血)を知りたい、外の世界の生活を経験したいという狂おしいほどに願いつづける女として、男まさりの気骨を持って生きている。
 そしてふと、この婉という女と、柄谷行人が「自然と人間」及び「資本主義は死にかけているから厄介なのだ」(ATプラス/09&10)で、資本主義の末路を示し、その危殆に瀕しながら生きようともがく姿とが重なった。
 柄谷は現在の世界情勢を、日清戦争以前の帝国列強がしのぎ合う、世界戦争以前の状況に近似しているというのだ。婉が藩命により幽閉された宿毛(すくも)の地は、私の記憶ではたしか吉田茂の生地であり、土佐は言わずと知れた坂本龍馬が育った土地でもあったのだ。前者は日本の戦後処理に、後者は日本の開国に重要な役割を演じた人物である。大原冨枝の小説作品「婉という女」は、考えてみると大変に、歴史的かつ政治的にもシンボリックな作品なのであるといえよう。こうした断想妄語ともいえる枕をふって、さて、この今の日本の課題となっている原発に関連させてみたいのである。
  そこで以下、上記の柄谷の主として後者の論文からの引用をして、反原発の論理をたどってみるとしよう。

 一九七0年の当初、飽和状態に達し、一般利潤率の低下を表面化させながら、先進国の閉じられた体系での資本の蓄積の不能から、金融資本として資本を移動し、中国やインドという「外部」を世界市場へと拡大し参入していく末期の資本主義は、外部世界を必死に求める「婉という女」に仮託したとしてもさほどおかしくはないと想われたのである。

「しかし、それは長くは続かない。急激な高度成長の結果、両国はすでに賃金の上昇、消費の飽和に達しつつあります。
 第二に、相対的な剰余価値についていえば、これは情報通信の技術革新によって実現されましたが、それは重工業と同様に、人手を減らすものです。ほかに、飛躍的な技術革新の可能性はありません。かって自動車や電化製品のような耐久消費財が出てきたときのような画期的変化はもはや期待できない。また、そのような耐久消費財は新たに世界市場に参入し地域で急激に普及していますが、まもなく飽和状態になります。以上をいいかえれば、資本主義経済の外部もなくなった、ということです。それゆえに、資本主義の命運は尽きた、というほかありません。」P48
 この論文の興味ある論点の一つに、柄谷がエントロピーの問題を参考としていることだ。ここで、資源物理学者・槌田敦の理論を紹介し、解放定常系の地球においては、エントロピーの増大に伴い、熱力学の第二法則による熱死、飽和状態に達して死に至ることはない。何故なら解放定常系においては熱を外に捨てることにより、一定の状態を保つことができるからだ。しかし、柄谷によれば、この理論は環境問題としては地球全体を考えるものではなかったとされ、90年代に入ると、二酸化炭素による地球温暖化説が台頭し、エントロピーとして語られた問題を事実上葬り去ってしまったと、認識される。
 また、つぎのように敷衍されるのだ。
 この地球温暖化説は、増加した二酸化炭素が赤外線を吸収するため、熱エントロピーが地球の外に棄てられなくなる。循環系を妨げる廃棄物とされ二酸化炭素が原因とされることによって、核廃棄物のような多様な廃棄物の問題が軽視され、むしろ、原子力発電が二酸化炭素の排出を削減するものとして推奨されるようになった。確たる裏付けもない二酸化炭素温暖化説により、排出量規制と排出量の取引が開始されたのは、化石燃料が有限であり、それを独占的に所有することができないという状態がこの背景にあったからだ。かくして石油や天然ガスの「所有権」の代わりに、その「使用権」により国際的な管理下に置くことが可能となる。
 また、80年代に「反原発」の運動が盛り上がったが、確たる根拠もない「温暖化」論により下火となり、逆に、二酸化炭素排出の削減という名目で、原発の建設が世界中で進められた。エントロピーという観点からすれば、これによる廃棄物は廃棄不能のものとして、最悪な廃棄物だ、というのが柄谷のおおよその論旨である。
(注)また、ここでも柄谷自身、「最悪な廃棄物」である、彼自身の確たる根拠を特に示していない。それは槌田理論に依拠しているだけのように思われる。そして、80年代の運動において、柄谷もその署名運動に参加したが、吉本隆明の「『反核』異論」がこの運動に水を差した経緯については、「吉本隆明と『文学者の原発責任』」(「ATプラス/09」高澤秀次P106)を参考にして頂きたい。

 なお、最後に吉本隆明の「毎日新聞」(五月二十七日夕刊)のインタビュー記事「科学技術に退歩はない」を掲げておく。

 動物にない人間だけの特性は前へ前へと発達すること。技術や 頭脳は高度になることはあっても、元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発をやめてしまえば新たな核技術もその成果も何もなくなってしまう。今のところ、事故を防ぐ技術を発達させるしかないと思います。                                (今年三月十七日吉本隆明死去)
 


 
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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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