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猫と私

 一筆申残しまいらせ候。私事こちらへかたずき候事。よくにも見えにもあらず。ただ捨てがたき恋のれきしがいとおしさに候・・・・。

 抑えぬいた女の胸が、ついに破れた。男はまえから知っていた。このような離縁状が女から叩きつけられことを。だが男は驚愕し、しばし狼狽えた。
 男とは荷風・永井荘吉。女はその妻八重である。
 俗にいう「みくだりはん」(三行半)で済まなかったのは女のほうに申し残したいことが山ほどあったからである。
 重ねがさね男は承知していた。すべては男という動物の咎に帰することを。以後、荷風は終生妻を娶らず、孤独死で終わる生涯を男世帯で張り通すことと相成った。
 猫の眼のように変化するのは、女の心というものか。誰よりも近くにありて、その心は石でできた謎。しなやかな歩行、そのしたたかな媚態と演技。隠れている趾のなかの鋭き爪。狭い額に秘められた驚くべき愛の技巧(たくみ)。冷たく澄んだその両の眼には、天使にも劣らぬ献身と恐るべき犯罪が二つながら憩うている女・・・・・。
その昔、女(メス)猫を飼っていた。金色の眼をした美しい黒猫であった。恋の季節がくると、私は庭に群がった男(オス)猫の数をかぞえては、彼女の美しさに得意だった。黒いつやつやとした豊かな毛並。晩餐会のドレスのように長い尾を優雅にゆすり。たおやかに歩く彼女のすがた。夏の蛾に戯れ、青空に狂う彼女の輪舞(ロンド)。爪を研ぎ無心の黒い直線を裂いて獲物を襲う彼女のむきだしの野生。だが食事欲しさに誰彼かまわずに見せる彼女の媚態と、あの心蕩かす猫撫声はどうだ。袖にされ怒り狂った男(オス)猫に巣を襲われ、四匹の子猫を惨殺されたとき、悲痛の彼女の泣き声は、暮色のおちた広場の遠くから、いつまでも私の耳へ響いて消えなかった・・・・。
 ああ、彼女の若さ、懶惰な彼女の放心と無為、彼女の悲しい母性と孤独な生活。
 真夏のことだった。
 私は日陰になった玄関の敷石の上に、彼女が寝そべっているのを見た。妙にひっそりとしていた。私は近づきそして異様な臭いが私の鼻をつくのを感じた。
 げっそりと痩せほそり色褪せた彼女には、既に昔日の面影はなかった。おもむろに貌をあげ、眼は私を見たが、彼女のどこにも私は映らなかった。
 すべてが消えていた。それが彼女を見た最後だった。



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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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