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東北の友への手紙

 拝啓
 ようやく暑く長い夏は過ぎた。居合いの昇段審査は通過した。だが疲れがまだ抜けず、また、それほどの喜びはない。私は居合いによって何をいったいやろうとしたのでしょう。心身の鍛練かも知れないが、剣に私を魅したものがあった。だが審査などというものは、学校の試験みたいなもので、型に自分をはめなければ、試験官は合格にしてくれない。自分の喜ぶ居合いをしたくてもそれはできない。審査の基準が決まっているからです。

 さて、遅くなりましたが、このあいだの手紙の返事を書きたいが、剣を握った筆は動かない。たぶん武道と文芸とは、なにか異なる精神のベクトルがあるらしい。
 貴兄の作品はうまく書けている。人物の配置や造形は、隙なく、ストーリーの展開も無理はないので、わかりやすい。不自然なものはなにもない。だがなにか物足りない感を払拭することができない。それがなにかをはっきりと指呼することができないのがもどかしい。諸国昔噺のような印象をうけ、これが現代小説なのかという気がしてしまう。それもすでにどこかで読んだような、既視感がつきまとう。もし太宰ならこの小説をどう書くだろうか。なにかもっと個性的な文章で、奇想天涯な仕掛けを工夫するだろうし、安吾ならというふうに、想像する誘惑に抗し得ない。
「いまじっと彼らの顔を見ていると、戦いの最中には・・・ではなく、微かな、辛うじて心の底に届く様な、それでいて懐かしい響きを帯びていた。それは目の前の兵士達が、横たわったまま聞こうと耳を澄ましている響きに違いなかった。」
 ここに作者の小説にこめようとした生命があるのだろう。それに間違いはない。だが武骨な言い方になるが、これはいまここにはいない「死者」の力によって、「辛うじて」聞こえるような響きだ。音吉は悲劇の運命をたどる「詩人」(「死人」と言ってもいいが)のような人物に設定されている。作者はここから発動する小説を慎重な手さばきで最後まで離さない。作者は音吉とは対照的な長五郎のようなごろつきを配してまで、小説のストーリーの均衡を計算する。これはあまりに見えすぎた、鋳型にはまったような小説ではないか。作者の言いたいことなら、既にさらに生き生きと、リアリスティックに秋声がやり、もっとしつっこい筆遣いで林芙美子がやっている。作者はこれをもって、現代の時代の潮流に一石を投じようとしたのかも知れない。まるで中国の老子のように・・・・。だがやはりあまりに、作者は生者でなく、死者からの算盤をはじきすぎたのではないのか。私が敢えて言うなら、長五郎のようなごろつきの方に一度賽の目を振り直し、冒険的な「小説」の展開ができないかと夢想してしまう。あまりに優等生的な小説なのが気になるのです。
 柄谷の言うように、元来、文学はナショナルなもので、それを承知でそれを超えようとする果敢な知力がいま必要なのではないか(「日本精神分析」)。音吉はうすばかの様子はしているが、実は芸達者なお利口者です。
 貴兄が指摘した点から、いままた手を入れていますが、あれは登場人物が話し、動くままに、筆を進めようという綱領に従って書いた。だがらストーリーは自然に生成して、「苦しい」のは仕方ない。どだい人生そのものがそういうものではないのか。しかし、作品としてすこしひどすぎたのは、貴兄の指摘の通りですね。この頃、ようやく「小説」の魅力が微かに見えてきたような気がしますが、もう時間がない。
ー小説というものは、主題と人間に元気があればいい、傷があってなおさら元気がでるなら、それでいい、そういう生き物だと思う。
                                      「神経と夢想」(秋山駿)より                                                                                                                                                            啓具                                                                  平成十六年九月
 
 
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仮に「異邦人」としておく。あられもない空想から、科学的「真実」まで、詩、小説、歴史、哲学、政治、経済、趣味等、この世の人事、出来事、万般に、興味を寄せる者の総称とします。

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